サバラン
ある日レオナが職場のカフェテリアでイゴールを見かけたとき、彼はなんだか少しやつれた様子で、
「最近、アダムがメイガスハートの治療を受けてるのは知ってるよね……? 彼、その副作用がだいぶ
と教えてくれた。
「特に悪心で物が食べられないのがこたえてるらしいよ。僕は仕事帰りに様子を見に行ってるんだけど……あのアダムがレトルトの野菜スープや缶詰の果物で済ませて、それだって全部食べるのに苦労してるんだから見るに忍びないよね……」
そう言うイゴール自身も、好きな日本食フェアなのになんとなく箸が進まない様子で、よほどアダムのことを心配しているらしかった。終業後にアダムの家まで行っているとなれば帰りも連日遅いのだろう。
「サキさんこそ、ちょっと疲れた顔に見えますよ――無理しないでくださいね」
とレオナはイゴールを
「そう……?」
「そうですよ――あの」
あの――と言いかけたところで、レオナは急にもじもじしだして、うつむいている。
「うん……?」
「あの、いえ――えーと――よ、よかったら、その、私が代わりに――」
「ああ、レオナも行きたいんだね、アダムの看病しに」
「い、い、行きたいというか、まあ――あの――なんていうか――行きたいです――」
とレオナは小声になって、顔を
イゴールはくすりと笑ってうなずいた。
「そう……まあ確かに僕も少し疲れてるし、レオナがそう言ってくれるなら今日はレオナにお願いしちゃおうかな……」
「こ、こんばんは」
と、玄関先に緊張した面持ちで立っているレオナの姿を見るなり、アダムはドアの陰に隠れてしまって、
「な、なんでレオナが――」
とひどくうろたえていた。
「えーと、サキさんから聞いてないですか? サキさんは僕からアダムに伝えておくよって言ってたんですけど」
「聞いてないよ!?」
「えぇ――」
「―――」
アダムの脳裏をイゴールの眠たげな顔がよぎり、
「だって、今夜はレオナが君の家に行くよ、なんて言ったら君絶対来なくていいって言うじゃん……」
と言う。きっとそんなことを言われるだろうなと思う。
レオナは不安そうな顔をして、ドアの後ろにいるアダムの姿を
「あの、私が来ると迷惑でしたか? わ、私、もう帰りますから――」
とレオナが
「迷惑だなんて、そんなわけない――」
アダムはそれでもなおまごついてから、ようやくレオナを家の中に招き入れた。先に立って歩きながら言う。
「イグが何か
「いえ、サキさんもそこまでは言ってなかったですよ。ただメイガスハートの治療の副作用で大変だって。――私にも直接教えておいてほしかったです」
「いや、それは、だってたかが副作用だよ。ちゃんと薬が働いてるって証拠。心配いらないって」
「でも」
「――君の前ではカッコいいアダムでいたかったの」
とアダムは前を向いたままで言う。
レオナは、少し考えてみて、もし自分がアダムと同じ状況だったら、やっぱり自分も弱っているところは見られたくないかもしれないなと思った。アダムの前では「しっかり者のレオナ」でいたいから――レオナはだんだん赤くなってきた顔を伏せた。
先を歩くアダムの顔も赤かった。
「――あっ、ああ、そ、そうでしたアダム」
と、そのときレオナが急にアダムを呼び止めた。
「えっ、な、なに!?」
赤い顔の者同士ぎくしゃくと顔を見合わせたが、レオナが呼び止めたのはなんのことはない、
「いえあの、そういえば差し入れを買って来たんです。消化がよくてすぐに食べられそうなもの。キッチンに置かせてもらってもいいですか?」
という話で、彼女は片手に近くのスーパーマーケットの紙袋を提げている。それでキッチンの方へ行き先を変えた。紙袋を開けると中身は、レトルトの野菜ポタージュや蒸した鶏肉、薄味のミートボール、シロップ漬けの果物など。
「冷蔵庫にしまっておいてくれる?」
とアダムが言うので、レオナが冷蔵庫の中を見ると、そこにも似たようなインスタント食品が多かった。あんなに料理が好きだったアダムなのに、今はそれもままならないのだなと、レオナは痛ましく思った。
「アダム、今夜はもうご飯済ませたんですか?」
「んにゃ、まだ」
「もしよかったら、何か作りましょうか――あの、うんと簡単なものでよければですけど」
アダムはちょっと目を見張って、
「ほんとに? じゃあ――頼もうかな。俺もたまには手料理が食べたい」
と、いそいそとレオナのそばまでやって来る。
「何か手伝おうか」
「あなたには休んでてもらわないと私が来た意味がないと思うんですけど――」
とレオナには困られつつ、何かしないと気が済まないらしいアダムは、調理器具の場所を教えたりレトルトパックを開けたりしてあれこれ動き回っていた。
冷蔵庫にストックされている肉や野菜からアダムの好きなものを選んでパン入りのスープを作り、カロリーを補えるようにクリームもひと
「食べたらちゃんと休んでくださいね。後片付けは私がしますから」
レオナに繰り返し念を押されて、アダムはスープを一皿平らげると寝室へ引っ込み、ベッドに寝転がった
「―――」
レオナが来るならベッドのシーツもきれいなのに掛け替えておけばよかったな――などと
せっかく好きな女の子が家に来てくれたのにこんな格好でいるんだから我ながら情けないなぁと思う。
アダムはサイドテーブルに手を伸ばして、そこにあったスマートフォンをつかむと、ビデオチャットアプリでイゴールを呼び出した。黙ってレオナを寄越したことに文句を言うためである。
「なんでそういうことするかなー」
「とか言いつつ、僕が様子を見に行くより元気そうじゃない。現金だよね……」
「女の子に一人で男の家に行かせるのどーかと思うんだけど」
「今の君の体調でレオナに何かできるんだったら、
それにレオナが自分で行きたいって言ったんだから……とイゴールは言う。
「君がちゃんと体調のこと話してあげないから……レオナはずいぶん心配してたよ。ねえ君、まだ
「?」
「自分の境遇にだよ。どうせ死ぬんだから将来のこと考えても無駄だとかなんとか……」
「―――」
そういえばそんなふうに思ってたこともあったっけ――とアダムはきょとんとして言った。
「そうだったな――この頃忘れてた」
と、そのとき、寝室のドアを控えめにノックする音がして、アダムはチャットアプリを閉じてスマートフォンを元の場所へ戻した。
「レオナ? 開けてもいいぜ」
と声をかけると、ドアが細く開いた。その隙間からレオナが恐る恐るというふうに部屋の中を見回している。
「あのぅ、私そろそろ帰ろうかと――」
「えっ、もう?」
とアダムに聞かれるとレオナはなにやらもじもじして、
「駅に行くバスが次で最後なので」
と、か細い声で答えた。
アダムはふと、今自分が何かレオナを困らせるようなことを言って、最終バスや電車に間に合わないようにしてしまったら、レオナはどうするつもりなんだろうかと思った。もっとも本当にそんなことをするつもりはなくて、単なる刹那の空想に過ぎなかったけれども。
レオナは、アダムが引き止めなかったのでほっとしたようでもあり、なんとなく物足りなさそうでもあった。
「アダム、冷蔵庫におやつを入れておいたので、気が向いたときにでも食べてみてください。食事の量が減った分は間食で補うのがいいですよ」
そんなふうに最後までしっかり者なところを見せて帰っていった。
夜更け頃、アダムはいくらか気分がよかったので、キッチンへ行って冷蔵庫を開けてみた。一番手前にラップを掛けた皿がある。これがレオナの言っていたおやつらしい。
皿を取り出してラップを外すと、そこにはシロップを染み込ませたパンにクリームと缶詰のスモモを重ねただけの簡単なお菓子が並んでいた。
「――レオナってばママみたいじゃん」
(早く元気にならないとなぁ。次にレオナが来てくれたときには絶対泊まっていけよって言う)
とあてにならない決意を抱いて、アダムはお菓子を一切れ取り分けた。それは昔マグダが作ってくれた誕生日のケーキと同じような、少し甘すぎて懐かしい味がした。
(了)