アッセ・ヴィフ

 ラヴェルの弦楽四重奏曲ヘ長調アッセ・ヴィフ。十分に活き活きと、またきわめてリズミカルに、とも作曲家より指示されたこの楽曲は、四ちょうの弦楽器の軽快なピチカートから始まる。やがて第一バイオリンのトリルとともに急速に高まっていく緊張感は四小節で頂に達して解き放たれる。
 第一バイオリンを奏でるのは若く小柄な青年で、そのとろけるような主旋律にビオラが応える。彼らのメロディーを正確無比な連符で盛り立てる第二バイオリンの奏者がアダムだった。
 場所は都心の小さなレンタルスタジオで、今日はアダムが発起人になってインターネットで配信する動画を撮影するために集まったカルテットなのであった。
 音楽家たちのいる録音ブースとは防音窓で隔てられた隣室がコントロールルームになっており、その片隅にレオナはいた。窓越しにアダムたちの演奏に見入っていた。
 今日のアダムはなんだか別人のような顔つきをしていた。レオナには見せたことのないような真剣な眼差まなざしでバイオリンに向き合い、演奏をリードする第一バイオリンとその視線をときどき交わし合う。
 コントロールルームには、レオナの他に録音を担当するエンジニアと、それからアダムが子供の頃に通っていたバイオリン教室の講師だったという老紳士がいた。
 力強いフォルテシモのピチカートで曲が終わると、老紳士は録音ブースの方へ入っていって、アダムやもう一人のバイオリニストとしきりに議論を交わして話し込んでいる様子だった。
 レオナは、全ての演奏が終わって皆が片付けを始めた頃になってやっとアダムに会いに向かった。
 アダムはレオナが声をかけるより早く気がついてくれた。
「やあレオナ、来てたんだって? 先生から聞いたよ。こっちに入ってくればよかったのに」
「でも、邪魔になったら悪いと思ったので」
「そんなことないって――あ、こっちが今日紹介するって言ってた俺の音楽学校時代の同級生」
 と、アダムは第一バイオリンを演奏していた青年を指して言った。
「ノアっていうんだ」
 ノアと呼ばれた青年は椅子から立ち上がってレオナに握手を求めた。レオナよりも少し小さいくらいの背丈で小柄なせいもあり、それに童顔でずいぶん若く見えるが、アダムやレオナと同い年だという。
「ノア・ガーランド。よろしく」
 とノアが差し出してきた右手にレオナが視線を落とすと、その手首に真横に走る古傷があるのが目に入った。
「レオナ・ジュネです」
「レオナでいいかな。僕もノアでいいからさ――それにしても、アダムのガールフレンドっていうからどんな女性かと思ってたけど、想像とはだいぶ違った」
「どういう意味だよ」
 とアダムが、むっと眉をしかめる。が、ノアの方は気にした様子もなく、ざっくばらんな調子で言う。
「僕はね、褒めてるんだよ。君のガールフレンドがまさかこんなに素敵な人だとは思わなかった」
「それはそれでどーいう意味なんだ」
「あ、あの、ありがとうございます――
 とレオナはアダムとノアの間に割って入った。このバイオリニストたちは仲がいいのか悪いのか、ずけずけとものを言い合う仲には違いないらしい。
「ええと――さっきの演奏、本当に素晴らしかったです。特にノアのバイオリン――私、バイオリンがあんなに複雑な音の出せる楽器だなんて知りませんでした」
――ありがとう。まあ――まだリハビリ中なんだけどね。しばらく音楽から離れてたから。ようやく自分のバイオリンと意思が通じ合ってきたって感じかな」
 レオナに褒められて、ノアは長く垂らした前髪の陰で照れていた。頬が赤らむとますます年より幼く見えた。
 アダムは口に出しては何も言わなかったが、自分のことも褒めてほしそうな顔をしている。
「アダムも――私びっくりしちゃいました、なんだかいつもと雰囲気が違って真剣で――その、カッコよかったですよ」
「俺はいつでも真剣だよ」
「そ、そうでしょうけど、アダムがクラシックを弾いてるのは珍しかったですし」
「なんだそうなのか?」
 と口を挟んだのはノア。
「もったいないな。君は学生の頃はパッとしなかったけど、今ならそれなりのオーケストラでも技術的には﹅﹅﹅﹅﹅十分やっていけると思うけどな」
「おまえは褒めるかけなすか、一回につきどっちか一つにしろっての」
「今日ラヴェルを弾いてくれたのは僕のためかい」
 とノアはアダムへ尋ねた。
「まあ、今日の主役はそっちだったから」
 と、アダムは答えた。
「アダム、君って――僕を少し見くびってるんじゃないか? 僕はたとえビートルズだってマドンナだって何だって弾いてみせたのに」
「おまえなー、俺にもお礼の一言くらい言ってくれたって損しないと思うぜ」
 三人は他のメンバーや先生とはスタジオで別れ、一緒に約束していた夕食を食べるために夕暮れの下を歩いて近くの繁華街へ向かった。
「二人は学生時代から今みたいに仲がよかったんですか?」
 とレオナが聞いてみると、アダムは驚いたような顔して、
「どこをどうしたらそう思うわけ? こいつってば昔から気が強くて偉そーだったんだから。んで実際バイオリンも俺より上手いっていう、少年心にはやなやつだった。友達になったのは最近だよ、最近」
 と言う。レオナはくすくす笑っていた。
「そうですか。いいお友達ができてよかったですね」
「うん」
 とうなずいたのは、アダムではなくノアの方だった。
「ところで――今夜は何を食べるかもう決まってるのか? 決まってないなら、アダム、君の好きなものにするといいよ」
「俺? いいよ、おまえとレオナで決めろって」
「だめだ。君は僕の好きなラヴェルを弾いてくれたんだから、今度は君の好きなものでなきゃ」
―――
――君の方こそもっと気が強くて偉そーになるべきなんだ。だいたい君はバイオリンに対してだってもっと主人然としなくちゃいけない。じゃなきゃいつまでも楽器に振り回されて、自分の望む音を引き出せないままだ」
――いやもうだから、おまえってばどうしてそう」
 アダムは、新しい友人の言葉が嬉しいやら、自分の音楽の弱点を指摘されて赤面するやらでせわしなく、弱りきってもごもご口ごもっているばかりである。
「レオナは彼の好きなものを知ってるのか?」
 と、それでノアはレオナへ話の矛先を向けた。
「そうですねぇ、いろいろあると思いますけど――ラムチョップとか好きですよね。それに意外と甘党で」
「ラム。僕もオーケストラにいた頃に演奏旅行で北部へ行って食べて虜になったよ。この辺りに食べられるところがあるかな」
「あ、私探しますよ」
「近くに美味しいパティスリーもあるといいな」
 二人がスマートフォンの画面をのぞき込みながら和気あいあいとしているのを尻目に、アダム一人まだ赤い顔のまま「納得がいかない」とかなんだかぶつくさ言っている。
 ノアが自分のスマートフォンを操作している華奢きゃしゃな右手の手首に、レオナはつい視線を引き寄せられた。ノアも気がついて、
「ああこれ――左にもあるよ」
 と別段隠しもせずに見せてくれた。左手首の方がひどくて、何本も水平に傷痕が残っていた。
「死のうと思ったけどやめにした痕だよ」
―――
「今どき珍しくもないだろ」
「生き残った勲章ですね、それじゃ」
 とレオナは深く尋ねることはせずに、それだけつぶやくようにして答えた。
 ノアは前髪の陰でちょっと目を見張り、やがて相好を崩すと、
「うん」
 と、か細い声でうなずくのだった。

(了)