マザーグース

(そういえば今週はアダムに会わなかったな)
 と、レオナは部屋のドアの鍵を回しながら思った。金曜日、午後七時。夕食は七時半にデリバリーを頼んである。
 今週、アダムは一度も研究所に来なかったし、メッセージのやり取りもしなかった。先週会ったとき、演奏会の仕事が入ったと言っていた。それで忙しかったのかもしれない――
 レオナが部屋に入って照明をけると、すぐにリビングでバターカップの騒ぐ声がした。
「レオナチャン、オカエリ」
「ただいまバターちゃん。お腹空いた?」
「ペコペコーーーヨ」
「じゃあすぐご飯にしようね」
 バターカップはまるで人の言葉がわかっているような受け答えをする。たとえそれがただ人を真似ているだけだとしても、レオナは幾分か寂しさが慰められるような心地がする。
 バターカップに給餌し、レオナ自身も宅配された寿司を一人で食べながら、なんとなくスマートフォンの通知音を期待していた。
 夕食が済んでから、アダムが仕事用に使っているSNSのホームページを開いて見た。最後の投稿は昨日の夜で、忙しいときの時短レシピだと言ってチキンとエンドウ豆のカレーの作り方を紹介していた。『いいね』や返信がいくつか付いていて、アダムがさらに返信しているものもあった。
 レオナは漠然とした寂しさを紛らわそうとして、バターカップのケージを開けた。
 バターカップはレオナの肩の上で「ハンプティ・ダンプティ落っこちた」を歌ってご機嫌だった。
「オッコチタ」
 の拍子で自らレオナの両手の上へころりと落ちる。そしてまた肩へよじ登るのを飽きずに繰り返していた。
「バターちゃん写真撮ってあげようか」
 レオナはスマートフォンのカメラで肩の上のバターカップと自分のツーショットを撮った。
「ほら可愛く撮れた。お歌のスタンプも付けてあげるね」
「アリガト。カワイー」
 そのとき不意に、
「ダム、ミセテ、ダムダム」
 とバターカップが言った。
「えっ、なぁに? アダム?」
 レオナは驚いて聞き返した。「アダムに見せて」と言われたような気がした。インコのバターカップにそんな意思があるとは思えないが――
―――
 レオナはスマートフォンのメッセージアプリを開いてみた。さっき撮った写真を送ってみようかなと思った。アダムは忙しくて気がつかないかもしれないけれど、送ってみるだけでもこのもやのかかったような気持ちが少しはスキッとするかもしれない。
 ――しばらくためらってからようやく送信ボタンをタップした。
 すると、そのメッセージにすぐ既読マークが付いて、
〈Adam: 😆💕🐦〉
 という返信が来た。またしばらくして、
〈Adam: 仕事で疲れてたのが癒やされた。可愛いなぁ〉
 とも送られてきた。
「バターカップがアダムに見せてって言ったんですよ」
 と、レオナは嬉しくなって返信した。送信ボタンを押してから、妙に浮かれてしまった気がして、こんなことを言ったら変に思われるかなと反省した。
〈Adam: まじでか。俺って鳥にモテるのかな🤔〉
 と返信が来てレオナはまた嬉しくなった。
〈Adam: レオナ今バターカップと遊んでるの?〉
〈Leona: 歌を歌ってもらってました〉
〈Adam: アーティストなインコだな🐦✨俺も聴いてみたい〉
〈Leona: 聴いてみますか?〉
〈Adam: 聴かせて聴かせて😊〉
 レオナはアダムに電話をかけた。
「はいはい。こんばんは」
 とアダムはワンコールで電話を取ってくれた。
「レオナの方から電話してくれたの初めてじゃないか? 嬉しいよ――なんか久しぶりに声聞いたみたいだ」
 と言うアダムは、しかし、気だるげな疲れた声をしている。受話器の向こうでゴソゴソモゾモゾしている様子も聞こえる。
「何してるんですか?」
「あ、ごめん、今リハーサルから帰ったとこなんだけど、疲れてベッドから起き上がれなくなってる」
「えぇ――大丈夫ですか? 電話したの迷惑でした?」
「そんなことない。一人でいると嫌なことばっかり考えるし――
 アダムが気弱なことを言うからレオナは不安になってきた。
「本当に大丈夫ですか? 主治医の先生に連絡しましょうか」
「いやいや、そんな大袈裟おおげさにするほどじゃないって。それよりバターカップの歌聴かせてよ」
「はぁ――バターちゃんおいで。アダムにご挨拶」
 レオナが手に乗せたバターカップのそばへスマートフォンを持っていくと、
「ダーム、ゴキゲンヨ」
 とバターカップはちゃんとアダムの名前を呼んで挨拶する。電話の向こうでアダムは驚いてはしゃいだ声を上げた。
「うおすごいな、今俺のこと呼んでくれた? ご機嫌ようレディー・バターカップ。レオナが教えてるの?」
「私が教えた言葉もありますけど、ほとんどは自分で覚えちゃったんですよ」
「賢いんだなぁ」
「ときどき本当に人間の言葉がわかるんじゃないかと思うことがあるくらい――そういえば、子供の頃は私もなんとなく鳥さんの言葉がわかったような気がするんですけど」
「子供の頃はっていうか今もわかるんだろ? だからさっき写真送ってくれたって」
「し、信じてくれるんですか?」
「信じない方がよかった?」
――あんなことを言ったら変人だと思われるかなって少し心配でした」
「そうなの」
 アダムはくすくす笑っているようだった。
「俺何も疑問に思わなかった。俺も変人かもね。俺は鳥の言葉はわからないけど、歌ならちょっと自信あるぜ。レディー・バター、歌ってよ」
 バターカップはアダムに答えるように、
「男の子って何でできてる? 男の子って何でできてる? カエルとカタツムリ 子犬のしっぽ そういうものでできてるの」
 というマザーグースの一篇を楽しげに歌い上げた。アダムはますます笑った。
「君がスパイシーなレディーだってことはよーくわかった」


「来週は会えるといいですね」
 と、レオナは電話を切る前にそっと言った。それから気恥ずかしくなって付け足した。
「あなたの生存確認をした方がいいなと思いましたし」
「うん、そうしてよ。で、何曜日に確認したい?」
「いつでもいいですよ」
「じゃあ金曜。金曜はいい曜日だから」
「? そうなんですか?」
「マザーグースが得意なレディーに聞いてみな?」
 謎かけのようなアダムの言葉を残して通話は切れた。
 「バターちゃんわかる?」とレオナが尋ねると、バターカップは悪戯っ子のような顔をしてフムフムと首をしきりに振っていた。

(了)