もろびとこぞりて

「レオナ、レオナ」
 と、やけに遠くからアダムの呼ぶ声がする。
 レオナは自分の寝室のベッドにもぐってあお向けになって眠っている。眠くてとても起きられそうにないのだが、
「なあ、起きて。レオナ、起きろって」
 急にその声が間近に聞こえて、アダムのキスでレオナは目覚めた。
「!」
 目を開けてみると、てっきり自分の部屋で寝ていると思ったのに、そこは見知らぬ家の中だった。ピンクのチューリップ柄の壁紙で白い家具が置かれた家。子供の頃に遊んだ着せ替え人形のおうちにそっくりだった。
「あ、あれ――――?」
「どうしたの。寝ぼけてんの? 君の家だろ? 今日からは俺の家でもあるけど」
 アダムは枕元に立って、赤いエプロン姿で、こちらを見下ろしている。
「朝めしにパンケーキ焼くからな。ジャムは何がいい? チョコスプレーいる?」
 人形のおうちのキッチンにはいつもパンケーキの載っているフライパンがあって、いろんな色のジャムの瓶が並んでいた。
 おうちには初め女の子の人形が一人で住んでいたのだが、その年のクリスマスの朝に男の子の人形がやって来た。それ以来二つの人形は恋人同士になった。おうちで一緒にご飯を食べたりお話したり。大人の見ていないところではキスをしたり抱き合ったりもした。
「今日はクリスマスでしたっけ?」
 とレオナが首をかしげていると、アダムは笑いながらかがみ込んできて、またキスしてくれた。
(あ――おばあちゃんに見られていないといいけど)
 人形の女の子と男の子のように、押しつけ合うだけのキスだった。
 それを何度も繰り返しているうちに――


 はっ――とレオナは今度こそ本当に自分の寝室で目覚めたのであった。
―――
 リビングの方から、ケージの中のバターカップがレオナに空腹を訴えている声が聞こえる。レオナはのそのそとベッドを出た。
 クリスマスにはまだ少し早い日曜日の朝である。
(変な夢を見てしまった)
 バターカップに給餌を終えた後、レオナは半時間ばかりバスルームにこもっていた。湯船の中でひっくり返りながら、遠ざかっていく夢の光景のことや、子供の頃秘密の人形遊びを祖母に見とがめられて叱られた小さな心の傷などを思い出している。
 それにいつかアダムとオペラを観に行った帰りにキスされそうになったことも思い出した。
(あのとき私がキスをよけなかったら)
 初めてキスを体験していたのかもしれないなと思う。――でもあのときアダムはちょっと様子がおかしかったし、別に私じゃなくても誰が相手でもよかったのかもしれないなとも。そんなことにこだわっているから自分はダメなんだろうなとも。
 入浴を済ませると次は朝食の支度。キッチンのキャビネットの引き出しの奥から、いつ買ったものか記憶にないミックス粉が出てきた。それでパンケーキを焼いた。ジャムはオレンジのマーマレードしか買い置きがないけれど。
 キッチンの窓から見下ろすことのできる住宅街の道路を、小さな子供を二人連れた若い夫婦が横切っていった。きっとクリスマスの買い物にでも行くのだろう。
 クリスマスの準備。家の飾りつけをしてお菓子を焼いて――独身者には縁のないイベントだな――と思っていたのだが、今年はどうも違ったらしい。お昼前にアダムから電話がかかってきて、
「これからクリスマスの買い物に行くんだけど、一緒に行かないか? 車出すからさ」
 と誘われた。レオナは別に買いたい物もなかったが、断る理由もなかった。
 アパートメントまで迎えに来てくれたアダムは浮かれている様子だった。
「クリスマスの当日より準備の方が楽しいよな。玄関に掛ける飾りを作ったりだとか、父さんが料理の下ごしらえしてるのを眺めるとか、そういうのがさ」
「アダムは、今年のクリスマスはどうするんですか?」
「家で親戚と食事会。年越しは一人かなー。レオナは年明けまで帰省だろ?」
「そうですね――今年は論文の締切もないので」
 アダムは郊外まで足を伸ばして大型のスーパーマーケットへ向かうつもりらしい。
「クリスマスの料理は何にするか――せっかくリリアに帰ってきたしやっぱり鳥料理かな。ハーブや果物を中に詰めてじっくりロースト――知ってる? 北部だと鳥肉って食べないんだぜ」
「料理はアダムが作るんですか」
「そうだよ。俺の料理は美味うまいよ、自分で言うのもなんだけど。父さん仕込み」
―――
 レオナは今朝の夢を思い出し、うつむいて頬を赤らめていた。
 スーパーマーケットは買い物客で大にぎわいで、皆食料品やクリスマスの飾りが詰まった袋を持って幸福そうだった。建物の玄関口には見上げるほど大きな電飾のツリーが輝いていた。
「後でSNSに上げるから」
 とアダムは、ツリーの前に立ってスマートフォンで写真まで撮ってはしゃいでいた。
 二人で代わる代わるショッピングカートを押し、冷凍の塊肉や瓶詰めの野菜やミックス粉を買い込み、玄関に掛ける出来合いの飾りもツリーのオーナメントも買い、車に積み込んで帰途についた。
「俺の買い物ばっかり手伝ってもらって悪かったな。帰りに何かおごるよ」
「いえお構いなく。お役に立てて何よりでした」
 と言ったきり、しかしレオナは言葉少なである。
「疲れた?」
 とアダムに聞かれ、
――少し眠くて。今朝ちょっと変な夢を見て、あまりよく眠れてないのかもしれないです」
 と答えた。
「ああ夢見が悪いとね――嫌な夢のことなんか忘れちゃいな」
「別に嫌な夢ではなかったですけど」
 少し居眠りしてもいいかとレオナは尋ねた。
「いいよ。着いたら起こしてあげる」
――おやすみなさい」
「ん。おやすみ」


(俺って信用されてんのかな。それともレオナって誰にでもこんなに無警戒なのかね)
 アダムは複雑な気持ちで郊外のさみしい道路を走る。カーステレオをけて好きなFPSゲームのサウンドトラックでも流そうかな、と思ったけれど、レオナを起こすかもしれない。やっぱりやめてしまった。
「タンタタターンタタンタンタン――
 助手席から聞こえる寝息を数えているとそわそわしてしまうから、気を紛らわせるためにクリスマスソングを小声で口ずさんでいた。
 やがて車は市街地に入り、アダムは手近なコーヒーショップの駐車場で車をめた。
「レオナ、着いたよ。起きて」
 レオナはなかなか目覚めなかった。
「なあ、起きて。レオナ、起きろって」
―――
 すーすーすーと彼女の寝息は途切れない。
 アダムはシートベルトを外し、少しためらったのちに、身を乗り出した。
 運転席と助手席の間から後部座席へ手を伸ばす。買い物袋の一つを探ると、白いフェルトで作ったアヒルのオーナメントを見つけて、それをつかみ出して、くちばしでレオナの口元をつついた。
「おーい」
「ひやっ、んん――な、なな、なんですか!? くすぐったい――
「あ、起きた。グァッ」
――お、起きました」
 なんだかやたらと赤くなっているレオナの顔をアダムは見ないようにしていた。手の中でしばしアヒルのオーナメントをもてあそんでいて、やがてそれを、
「これあげる」
 と、またレオナの唇へ押しつけると、切ない吐息をこっそりこぼした。

(了)