ナイチンゲール

 先日のデート以来、なんだかアダムの様子が変わった気がする――とレオナは思うのだが、何が変わったのか今ひとつ判然としない。
 週に一、二度は研究所へやって来てレオナの実験を手伝ってくれる。それは以前の通り。そういえば、この頃、アダムが研究所から帰る時間とレオナの退勤時間とが重なることが多くなった。そういうときには、
「送ってあげるよ。混んでる電車で帰るより楽だろ?」
 とアダムはライムグリーンの派手なトヨタの助手席にレオナを乗せて行く。三回に一回くらいは一緒に夕食を済ます。
(だから何だという話だけど――
 アダムがせっかく親切にしてくれるのだから素直に受け取っておけばいいのだ、と思う。しかし違和感を感じることはそれだけではないのである。
 運転席のアダムは、レオナが研究所を出て以来口をつぐんでいるので、怪訝けげんに思った。
「どしたのレオナ、黙り込んじゃって。仕事で何かあった?」
「あ、いえ、別に。今日は順調でしたよ」
「そう? 飯は何食いたい?」
「ええと――
 レオナは考えるふりをしながら、ちらとアダムの姿を盗み見た。彼はたいていシャツにスラックスの格好で、スラックスとそろいのベストを着ていることもある。ネクタイはややルーズに結んでいる。そしてかなりの派手好みらしい。今日なんて、グレンチェックのスラックスとベストに、ネオンピンクのシャツを着て、エメラルドグリーンのタイをしている。
(なんだか近頃いっそう派手になったような――?)
 耳飾りや指輪を伝統的な魔術師の装飾品として着用する人は現在では少なくなってきた。アダムはピアスだけはいつもしていて、しかしデザインはそのときの気分や服装に合ったものを着けている。
 それに近頃コロンを変えたようだ。以前はほのかに甘い匂いがしていたが、今は柑橘類かんきつるいやジャスミンのような香りを漂わせている。レオナの好きな香りである。
 これが気の置けない女友達だったなら、
「雰囲気変わったけど、彼氏でもできた?」
 と聞いたかもしれないが、男性のことはよくわからない。やはり恋人か好きな人でもできたんだろうか。それで派手になるというのは、いうなれば鳥類のオスが求愛行動のディスプレイで鮮やかな羽をメスに見せつけるようなものなのか。
(それならちょっと、か、可愛いかもしれない? かな、どうだろう)
 レオナは動物は、特に鳥は好きである。自分でも緑色の中型インコを飼って溺愛しているくらい。
「そういえばさ、レオナ、君インコ飼ってるだろ、緑の」
 と、タイミングよくアダムがそんなことを言い出した。
「あの子の名前何だったっけ」
「『バターカップ』です」
「男の子? 女の子?」
「女の子ですよ」
「レオナが写真いっぱい送ってくるから俺もなんだか最近愛着が湧いてきたよ」
「えっ、本当ですか。もっと送りましょうか?」
「うん――
「鳴き声聞きますか?」
「い、いや、それは今はいい」
 レオナがはりきってスマートフォンに保存した写真からお気に入りを厳選していると、
「君とバターカップが一緒に映ってる写真はないの」
 とアダムは尋ねてくる。
「自分の顔を撮って見てもしょうがないじゃないですか」
「そ、いやそんなことはないでしょ――?」
「自撮りが好きな人を否定するわけじゃないですよ。私個人は自分の顔写真より可愛い鳥さんの写真が見たいだけです」
「そんなに鳥さんが好き?」
「好きです。大好き」
 とレオナは食い気味に力を込めるようにして宣言した。
「そ、そうか」
 アダムは思案げな顔つきになり、
「まあ、俺も案外人間じゃなくて鳥のオスに生まれてた方が人生、いや鳥生? 上手くいってたかもしれないと思うところはあったりするよね」
 むにゃむにゃと要領を得ないことをぼやいている。
「俺派手な格好が好きだし」
(自覚があったのね)
 とレオナは、その点については内心でだけうなずいておいた。
「うーん、確かにアダムは音楽家だし、上手にさえずれると繁殖には有利そうですよね」
「でしょー? 俺だってナイチンゲールだったなら選ばれしオスになる自信がある」
 そんな冗談を言い合っているうちに車は市街地へ入った。等間隔に連なる街灯、ネオンサイン、不連続に散らばっている高層ビルの窓の光、渋滞した自動車の赤いテールライト――さまざまな光がまだ青みがかっている夜を照らしている。
「で、レオナ、晩飯どうする?」
「そういえばそうでした――あの、何が食べたいっていうのとは違いますけど、バーとかナイトクラブとか、ちょっと行ってみたいです」
「あら意外。そういうところ苦手だって言ってなかった?」
「私は不慣れだって言っただけですよ。あなたの演奏会に行くときのために予行練習しておきたいなと」
――無理しなくていいよ」
「無理してるわけじゃないから大丈夫ですって」
「だけどさ――なんだ、そうまでしてもらったら嬉しくなっちゃうじゃん」
 ミュージシャン冥利に尽きるね。とアダムはすぐに言い添えた。
「やっぱり、ナイチンゲールじゃなくて人間のバイオリニストでよかった。ナイチンゲールはどこにいるとも誰ともわからない相手に向かってさえずるしかないけどさ、バイオリニストは自分が音楽を捧げたいと思ってる相手にバイオリンを弾いて聴かせられるもんな」
「音楽を捧げたいだなんて素敵ですね。そんな相手がいるんですか? ――あ、ひいおばあ様の話ですか?」
―――
 いや、今の話の流れでどうしてそういう――というセリフがアダムは喉まで出かかったが、ぐっと飲み込んでおいた。
(君だよ君、レオナ――
 素直になるのはいつだって照れくさい。
「うん、それはね――ナイショ」
 とお道化どけてしまったのはナイチンゲールよりも臆病だったと思う。
 俺の知り合いのナイトクラブを紹介するよ、とアダムは言いながら、車線変更のためにウィンカーを出した。落ち着いた雰囲気の店だからとも言った。
「とはいえ夜のお店だからさ。気をつけなきゃだめだよ。どこの馬の――いや鳥の骨ともわからぬナイチンゲールに上手にさえずられてもついて行っちゃいけませんよ」
「えぇ、いませんて、そんな奇特な人」
(いるんだってば)
 車線を変えて交差点をまっすぐに通り抜けていく。アダムはゆっくりアクセルを踏み込む。ドアウィンドウの外を街の光の流星群が流れ去る。
 歓楽の夜のとばりが下りる。青みを帯びた宵闇はなにか甘い期待をはらんでいるのだ。

(了)