魔法学者のティータイム

「しばらく手紙を出さなくて悪かったわ。なかなか次の勤め先が決まらなかったものだから――少し羽を伸ばしたい気分でもあったし、南部の方を見て回ってたの」
 ある日、ルフィナから差し出されたそんなような内容の手紙が届き、ライオネルはその広い肩ががっくり落ちるほどのため息を漏らしたのだった。半分は安堵あんどのため、もう半分は、これまであれやこれやと彼女の身を案じていたのがすべて取り越し苦労に終わったためである。
 ルフィナの手紙を丁寧に伸ばしておき、それ以外の郵便物や請求書の類を開封している間に台所ではポットに湯が沸いた。
 れたてのコーヒーを飲みながら、ライオネルはもう一度ルフィナの手紙を最初から最後の一字まで読み直した。
 手紙には、長く続いている不況でこれまでと同じ給金では家庭教師の勤め先が見つからないこと、南部の鉱山地区は先進的で思いの外綺麗だったこと、以前ライオネルが出した手紙はずいぶん遅くなってから受け取ったことなどが、ルフィナの優しい字で書き連ねてあった。
「これから帝都行きの馬車に乗るつもりよ。アレクセイの様子も知りたいわ。帝都に着いたら、ホテルはいつもと同じ『鳥の羽休めの宿』」
 と最後の方には当面の連絡先も書かれていた。
(アレクセイのやつに近頃年下の恋人ができて、一緒に住んでるって知ったらどう思うだろうな、ルフィナのやつ)
 ライオネルは手紙とコーヒーカップを手に、居間の片隅にある書き物机へ向かった。
 ペン皿の上で光っている使い込まれたマホガニーの軸を取り、金のペン先を付ける。インクの蓋を開けながら、どう書き出そうかと思案する。
 最愛なる﹅﹅﹅﹅ルフィナ・ダカン――今回こそそう書き出したい――と思いつつ、動き出した手は、
親愛なる﹅﹅﹅﹅ルフィナ」
 と書きつづっていた。
 ライオネルは、手紙をくれたことへのお礼、自分の近況などをしたため、最後のところには、
「君が帝都に滞在してる間に、よかったら二人で食事にでも行かないか」
 と、ダメでもともとという思いで付け加えておいた。手紙はその日のうちに差し出した。
 翌日は何事も起きなかった。
 その次の日の朝、ライオネルは寝ていたところを外から寝室の窓をたたかれる音で目覚めた。ベッドから跳ね起きて窓を開けると、大きな朱色の鸚鵡オウムが飛び込んで来て、勝手に安楽椅子の背につかまり、
親愛なる﹅﹅﹅﹅ライオネル・ジュネ〉
 とルフィナの美しい声になってしゃべり出す。彼女の使い魔フォーオクロックである。フォーオクロックは、主に吹き込まれた言葉をライオネルに伝えた。
〈ルフィナよ。手紙をありがとう。土曜日のお茶になら付き合うわ。午後三時にホテルで待ってます。ごきげんよう〉
「えっ本当か? ルフィナ」
 とライオネルは思わず身を乗り出してフォーオクロックへ問い返したが、役目を済ませた鸚鵡オウムは気ままにおしゃべりをしたり、うろ覚えのマザーグースの歌を歌ってライオネルに聞かせたりするばかりだった。


 その週末の土曜日、ライオネルは約束の時間通りにルフィナの定宿『鳥の羽休めの宿』へ来た。
 右の肩の上にはフォーオクロックがつかまっている。下ろしたばかりのシルクハットをずいぶんくちばしでかじられた。ただでさえ上背のあるライオネルが肩に大きな鸚鵡オウムを乗せて異様な格好で歩いているので、埃っぽい路地裏で寝起きしている物乞いたちも遠巻きに見ているばかりで声をかけてこなかった。
(ルフィナのやつも、なにもこんな治安の悪そうな場所にあるホテルを好んで使わなくても)
 とライオネルは来るたびに思うが、暁の鳥派のにえの巫女として数多あまたの殺人技を仕込まれているルフィナはそんなこと気にもしないのだろう。
「もちろん本当に殺したことはないわよ。技術として受け継いではいるけれど、実際に私たちの神ににえを捧げる殺人儀式が行われていたのはもうずっと前の話よ」
 と、カフェーでお茶のテーブルに着きながらルフィナが言う。
「巫女に選ばれた者同士はどちらかが死ぬまで戦って、その戦いを私たちの神に捧げるのよ。死んだ巫女は鳥葬にされ、その死体を食べた鳥を生き残った巫女が食べるの。私たちが鳥を食べるのはそのときだけ」
「君がそんな時代に生まれなくてよかったよ。こればかりは帝国学士院に感謝する」
 とライオネルも席に着いて言った。現在では、人身御供ひとみごくうあるいはそれに類する儀式は帝国学士院によって禁じられている。
 給仕が香りのいいお茶と軽食を運んできて、テーブルの上はにわかに華やいだ。
「この間アレクセイと、あいつの恋人と、俺の研究室の学生と四人で食事に行ったよ。本当は君も誘いたかったんだが、住所がわからなかったからな――
「手紙にも書いたけど、この不況で仕事がないの。腰を落ち着ける場所が見つからないことにはね――それにしても、アレクセイにいい人ができたとは驚いたわ」
「君はアレクセイの姉みたいだったから、寂しいんじゃないか?」
――あなたほどじゃないと思うわ」
「俺はおおいに喜んでるさ。本当に――俺の顔を見るたびにアレクセイは父親のことを思い出すだろうからな。俺じゃどうしたってあいつを救えない」
「ライオネル――
 ルフィナは何か言いかけたが、結局次の句を継ぐことができず、黙ってしまった。
(アレクセイがようやく明るい道へ進もうとしてるのに、あなたはそうやって一人でぐずぐずしているわけ?)
 ティーテーブルの小さな椅子に大きな体を縮こまらせるようにして座っているライオネルも、アレクセイのことを話してしまうと次の話題に困って、目がうろうろと泳いでいる。その挙げ句、口をついて出るのは取るに足らない、当たり障りのない話題ばかりだ。
「あー、それで――ええと、君の仕事の方はなんとかなりそうなのか? こっちにはいつまでいるんだ?」
「ああ、そうね――私も今日あなたに会おうと思ったのは、仕事の話をしたかったからでもあるの」
 とルフィナが言うと、ライオネルは、
「そ、そうだったのか――いやもちろん、俺が力になれることだったら喜んで協力するよ。もちろん」
 なんだか半ばがっかりしたような、半ばほっとしたような、複雑な顔色をしていた。
 ルフィナもやはり複雑な気分だった。ライオネルは今では立派な紳士だ。野山を駆け回って自分を置いてけぼりにしていた子供の頃とは違う。
 もしライオネルが、
「このままもうどこにも行くな。帝都にとどまって俺のそばにいてくれ」
 とでも言ってくれようものなら、ルフィナはそのときには、
「だけどあなたは、私が子供のころいくら待ってと言っても、私が転んで手のひらを擦り剥いていても、ちっとも気にせずに勝手にどこかへ行ってしまったじゃないの」
 とハッキリ言い返してやる心づもりがあるのだ。――転んで血のにじんだ両手を見ておろおろしてくれたのは、もう一人の幼なじみアレクセイの方だった。そしてまるで自分が怪我けがをしたように痛い痛いと言って泣き出すような子供だったのだ、アレクセイは。
 アレクセイはその鋭敏な感受性を失わないまま大人になった。彼の理解者が自分やライオネルの他に現れたのなら、本当によかったとルフィナも思う。
(でもライオネル、あなたは? これからどうするの。どうなりたいの?)
 ライオネルはまた黙り込んでいて、しかし今度はティーカップの赤い水面をにらんだまま何やら思案している風情である。ひげったばかりの顎に当てた左手の薬指には大粒の柘榴石ガーネットの指輪が光っている。
「ルフィナ」
 と、やがて口を開く。
「ええ」
「君、大学教員の秘書はできそうか?」
「ライオネル、それは――
 ルフィナは、胸の内であの台詞を(あなた、私が子供の頃には――)と、いつでも言ってやれるように準備しながら「それはどういう意味?」と問い返した。
 ライオネルは至極真面目な顔つきで答えた。
「いやつまり、教員の代わりに大学の書類を処理したり、来客の対応をしたりって仕事さ。家庭教師とは勝手が違うところも多いだろうが」
「それはわかってるわよ――私が聞きたいのは――誰か雇ってくれるあて﹅﹅でもあるのかしらということよ」
「いや、すまん、俺もそこまではまだ――でも知り合いの教員を当たってみるよ。地方の大学の求人も調べてみる。必要なら俺が君の推薦状も書くから。君が実務においても優秀だってことはよく知ってるしな」
―――
「そうだな、秘書が処理する書類としてはまず研究費の――
 ライオネルは秘書の仕事について細々としたことを丁寧に教えてくれて、そのことはルフィナにもありがたかった。今回も出番のなかったあの台詞は再び彼女の胸の奥にしまい込まれた。


――ライオネル、あなたって本当、いい人というかなんというか」
 とアレクセイに言われたのは、週が明けて、ライオネルが共同研究の打ち合わせのために帝国学士院にあるアレクセイの研究室を訪れたときのことである。
「? 何のことだ」
「いえだから、せっかくルフィナが仕事はないかとあなたに相談してくれたんでしょう。自分の秘書になってくれと言えばよかったのに」
―――
 ライオネルは、急にがっくりと肩を落とし、
「そうか――その手があった――
 いやしかし――秘書にはもうソニアがいるし、有能な彼女を理由もなく解雇するわけには云々――と丸めた背中でなんだかぶつぶつ言っている。
 アレクセイはそんな幼なじみの姿を見てにやつきながら、
「まあ、あなたのそういうところが僕は好きですけどね」
 と言って、紅茶をれるために部屋を出ていった。

(了)