籠の中の魔術師たち

1

「ダーリア、仮面音楽会に行ってみませんか」
 とある晩、下宿での夕食が済んだ頃、アレクセイが不意にそんなことを言い出した。
 ダーリアは居間の片隅にしつらえられたビューローでノートを取りながら、先頃イリヤ・ラフォンの病理解剖によって発見された魔術師の心臓メイガスハートに関する最新の論文を読んでいた。
 アレクセイはそばの暖炉の前に置かれた椅子へ腰掛け、手の指をしきりに組み替えてはもじもじしていた。
「仮面音楽会――ですか?」
 と、ダーリアはペンを置いてアレクセイの方を振り返った。
「ええ。なんでも音楽家も聴衆も身分階級を問わないとか。全員仮面を着けて偽名を名乗り、世俗での貴賤にとらわれず自由に音楽を奏で語り合うのがルールだそうですよ。僕も今まで招待はされても、まだ行ったことがないんです」
「先生は音楽もお好きなのに」
「音楽会の方には興味があったんですけどね――いつも誘ってくれる相手が、少し﹅﹅苦手なもので。一人で行く勇気がなかったんです」
――よほどいやな人なんですか?」
「いいえ、そういうわけじゃ――ただ、ちょっと――なんというか――気まずい相手なんですよ。それでね、ダーリア、あなたが一緒に来てくれたら僕は心強いんです」
―――
 ダーリアは、しばし口をつぐんで考え込んでおり、
「先生と一緒に音楽を聴きに行くのは、とても素敵だろうなと思うんですが」
 と言いながらも、いささか顔を曇らせている。
「その――音楽会に招待してくださった方についてもう少し詳しくお聞きしても――当日は私もその方とお話ししなければならないでしょうし」
「あなたが気になるのも当たり前ですよね」
 アレクセイは立ち上がって、ビューローのすぐ後ろへ歩み寄った。ダーリアの座っている椅子に背中合わせにもたれかかり、自らの細い胸を抱くように両腕を組む。
「覚えてますか? ここに越してくる前に、僕が住んでいたアパルトマンにあなた遊びに来たことがあったでしょう」
「? はい」
「そのときに僕の父のことは話しましたよね。僕は私生児で、父の家庭は僕の生まれた家とは別のところにあったこと――
―――
「僕には母親の違う妹がいるんです。もっとも、僕は父に認知されていないので法律的には兄妹きょうだいではないんですけど」
「全然気がつきませんでした――そんな事情があるそぶりは一度もお見せにならなかったので」
 と言い、ダーリアはますます顔を曇らせる。
 アレクセイは苦笑いして、
「まあ、僕は父の家庭とはなるべく関わるまいと思っているから。僕がいて迷惑になることこそあれ、いいことなんてないと思うのでね。こうして自分から家のことを話したのだって、ダーリア、あなたが初めてですよ」
 と、バツが悪そうにしている。
「そ、そうなんですか?」
 とダーリアは、多少自尊心がくすぐられて、そのハスキーな声を上ずらせたが、すぐに自分の現金さを恥じたようにうつむいてしまった。
「ライオネルなんかはこういうことに関してやけに察しがいいですから、知ってるかもしれません。それをわざわざ口に出すような人じゃないですけど」
「音楽会に誘ってくださるのは、その妹さんというわけですか」
「うん」
 それは確かにさぞ気まずいことだろうな、とダーリアも思った。
「でも、妹さんの方は先生に好意を寄せていらっしゃるんですね」
「そうみたいですね――どういうわけか。――先年むこうの母親が亡くなって一人暮らしだそうですから、寂しがっているのかも」
 アレクセイはまた暖炉の前へ戻ると、椅子にため息ごと深く沈んだ。
 今度はダーリアの方がビューローから離れ、アレクセイのそばに寄り添った。
「お優しいんですね」
「何がです」
「天涯孤独の身となったご兄妹きょうだいのために、音楽会へのお誘いを受けて差し上げたいのでしょう?」
「まあ――僕も以前は一人暮らしでしたけど、一人きりで家に寝起きするのは気ままだとはいえ、心細いことも多いものです。僕にはあなたがいてくれました。僕も――多少なり誰かの孤独を慰めることができるかしら、と、そういう心境になったというか、ね――
「できます」
 ダーリアは力強く請け負った。
「私が保証します。私の心の殻を破ってくれたのだって先生ですもの」
 そのとき居間の室内にはアレクセイとダーリアの二人きりで、下宿の大家であるメサジェ夫人の姿はなかった。きれい好きな夫人は毎晩夕食が済むと念入りに台所の後片付けをする。
 ダーリアは、つとアレクセイの後ろに回ると、その場にいない夫人の目を盗むように控えめな身ごなしで、アレクセイの肩の上へ手を載せてぬくもりを求めた。アレクセイもその手を取り、そっと頬をすり寄せて応え、
「あなたが殻を破ったのはあなた自身の力ですよ」
 とささやく。ダーリアの骨ばった手指の節の形を肌で感じるのが心地よかった。
「きっかけを与えてくれたのは先生です」
―――
 言い合いになってはきりがない。アレクセイは言い返す代わりに、ダーリアの指先へ唇を押し当てた。ダーリアの体のかすかな震えを感じるのも快かった。
 ダーリアは慌てて身を引き、アレクセイから離れた。愛撫あいぶを拒んだわけではなくて、そのときちょうど台所を出てこちらへやって来るメサジェ夫人の足音が聞こえたからである。
 ダーリアがビューローへ向かい直したとき、夫人が居間へ入ってきた。
 夫人は銀色のトレーに手紙や小包を載せて、それらを下宿人の二人へ届けに来たのだった。ダーリアには実家からの手紙が、そしてアレクセイにはレストランでの食事代や煙草代の請求書の他、小さな小包が一つ渡された。差出人はカテリーナという名前の女性だった。
「ダーリア、こっちへいらっしゃい、さっき話した妹からです――
 とアレクセイは言いながら小包を開封した。ダーリアとメサジェ夫人が見守る中、包みをほどくと現れたのは白い鳥の羽根で飾りつけられた仮面で、それに「白鳥スワン」と書かれたカードが同封されている。
「音楽会へは、主催者が用意したこの仮面を着けて行かなければならないわけですよ」
 アレクセイは仮面を手に取ると、顔に当ててみて、ダーリアや夫人の方を振り返った。鼻の上から額までを覆う白鳥の仮面は、簡素な作りだが、よく見れば生地は絹布で、銀糸の刺繍ししゅうで縁取られた贅沢ぜいたくな品だとわかる。音楽会には裕福な出資者がいるらしい。
「ダーリアの分も仮面を送ってくれるように、カテリーナへ手紙を書かなくちゃいけないな」
 と、アレクセイは異母妹に対する複雑な心中を隠すように、仮面を顔に当てたまま独りごちた。

2

「そういえばダーリア、僕と一緒に下宿していること、あなたのお母上には、まだ――
「話していません」
 母のナターリアは、娘が一人でメサジェ夫人の家を借りていると思っているのだと、ダーリアは言う。
「嘘をついてるわけじゃありません――家を借りたとは知らせましたが、私は一度だって一人で﹅﹅﹅借りたなんて言っていませんから。母へ手紙を書いてくださるメサジェ夫人やジュネ先生も、その点は承知してくださっています」
 アレクセイとダーリアは黄昏たそがれ時の辻馬車の車中に肩を寄せ合い、ささやき声で語り合っていた。それで十分なほど、お互いの息が頬にかかるほどに二人の距離は近い。とはいえ明かりのない座席では肩先にある相手の顔色も判然としないが、ダーリアがくすりと笑ったらしいことは、その気配でアレクセイにも察せられた。
「母に秘密を作るなんて、初めてです」
「なんだか嬉しそうですね、ダーリア」
「嬉しいんです――やっと世間の人と同じ母娘おやこになったようで」
「そんなものですかね。まあ、今のところはあなたの秘密の恋人でいるのを楽しんでおきましょうか」
 アレクセイはささやきながら、左手でダーリアの右手と戯れていた。アレクセイが深く指と指とを絡めようとすると、ダーリアはするりと逃れてアレクセイの薬指の指輪に触れた。それを外そうとするそぶりを見せるので、今度はアレクセイの方が逃れる羽目になる。
「いけませんよ」
「気になります。外出のときにしか着けていらっしゃらないので――
「あなたのことをいつでもそばに感じられるように身に着けてるんですから、すぐそこに本物のあなたがいる家の中ではこんなものはいらないんです」
「先生は――恋人をうぬぼれさせることにかけても天才的です」
「ふふん――
 宵闇に隠れて寄り添い合うばかりの淡い愛の交流は、二人を夢見心地に誘った。
 しかしそれもほんの刹那のことである。馬車がまり、威勢のいい馭者ぎょしゃの声によって二人は急に現実へ引き戻された。
「旦那! 到着しましたよ、枢機宮カーディナル・パレスですぜ、旦那!」
 アレクセイが開けてくれと言うまでもなく、馭者ぎょしゃは無遠慮に馬車のドアを開けて乗客の二人へ降りるよう促した。そして運賃は現金に限ると言い、アレクセイからチップも含めた小銭を受け取るとすぐに次の客を探しに行ってしまった。
「近頃は馭者ぎょしゃもガラが悪くなった気がします」
 と、ダーリアがシルクハットの中へ髪をしまいながら言った。今夜の彼女は紳士用の黒の夜会服姿である。
 アレクセイも帽子を頭に載せた。こちらは白づくめの夜会服だった。
 白黒のチェスの駒を並べたような二人はパレスへと向かって歩きだした。さっきの馭者ぎょしゃはパレスの車寄せまで付けてくれず、だいぶ手前で降ろされてしまったからである。
「不景気だからでしょう」
 と、アレクセイはダーリアに片肘を差し出しながら言った。ダーリアはそれに腕を絡めて歩く。アレクセイはさらに、
「英国が金の輸出と兌換だかんを禁止して以来、我が国の金は国外へ流れ出ていくばかりで、物価安もまだ底が見えませんから。馭者ぎょしゃたちの抱え主も賃金を渋っているんでしょう。だから優れた人間を雇えない」
 とも言う。
馭者ぎょしゃの品位が下がればそれを抱えている会社も信頼を失ってしまうと思うんですが」
 とダーリア。アレクセイはうなずく。
「信頼、信用――お金より大事で取り返しのつかないものを失っていくことに彼らは気がつかないんでしょうね」
 二人はやがて枢機宮カーディナル・パレスの玄関口までやって来た。巨大な館の全ての部屋に照明がともされ、それに面した大通りを明るく照らしている。
 今夜仮面音楽会の会場となるこのパレスは、帝都最大の商業地である枢機宮通りの名前の由来にもなっている。かつて血の夜明け派が教王をいただいていた時代に、絶大な力を振るったさる枢機卿が自らの愛妾と娘を住まわせるために建てたものだという。血の夜明け派の隆盛も過去のものとなった現在、その建物は貴族の手に渡り、歴史的建造物として保存され、ときには舞踏会や音楽会のためのホールとして使われている。
 煉瓦れんがやタイルを用いない白い石造りの建築は、最初の持ち主だった枢機卿の富と権力を象徴するようである。上質な石材は帝国南部の山岳地帯から人馬が険しい道を越えて輸送し、名高い石工たちも各地から集められたことだろう。
 アレクセイとダーリアはそれぞれ持参した鳥の仮面を着けてから玄関ホールへ足を踏み入れた。
 内部は細やかな彫刻を施した石と大理石による豪奢ごうしゃな造りで、丸みを帯びた天井の高さは大聖堂にも劣らないほどだった。
 二人がいささか気後れしていると、むこうから鶏の羽根で飾った仮面の紳士が来て、
「ようこそおいでくださいました。招待状をお持ちですか?」
 と尋ねられた。
「僕が白鳥スワン、彼女は黒鳥ブラックスワンです」
 と、アレクセイは答えながら招待状を提示した。鶏の紳士はそれを確かめて、
「結構です。演奏は六時から正面奥のサルーンにて始まります。それまではご自由にお過ごしください」
 と案内してくれる。
「お荷物をお預けになる際は左手へ、軽いお食事は二階にご用意しております。ご用の際は鶏の仮面を着用している者へお言いつけください」
――あの、金糸雀カナリヤはもう来ているでしょうか」
「はい、お越しです。お呼び出しいたしましょうか?」
「いえ――お気遣いありがとうございます」
 お礼を言って鶏とは別れ、アレクセイとダーリアは帽子をクロークへ預けてから、ひとまず階上の方へ足を向けた。
 二階の応接室にカクテルやオードブルを並べたテーブルが支度され、多くの招待客が集まっていた。アレクセイは金糸雀カナリヤ――今夜の招待状をくれた異母妹カテリーナの姿を探したが、その中には見つからなかった。

3

 各々違った鳥の仮面を着けている招待客たちは、その着飾り方もさまざまであった。
 互いに身分を隠しての音楽会であるから、ドレスコードは「ご自由に」というのが主催者の意向である。それをんで、招かれた客たちも思い思いの衣装を身に着けていた。正装の者、道化のような仮装の者、異性装の婦人や少年、異国の装束の者もいる。
 鶏の仮面を着けた若い従僕が、飲み物を載せたトレーを持ってアレクセイとダーリアのそばに近づいて来た。
「カクテルはいかがですか? ワインもご用意できます」
 まずアレクセイが、次にダーリアもカクテルグラスを受け取った。
「皆さんこういろいろな格好をしていると、知った人がいてもわからないでしょうね」
 とアレクセイはグラスに口を付けながら言った。
 ダーリアの方は、むしろこの場のごちゃごちゃとした雰囲気が気楽なようである。
「こういう場所だと私も目立たずに済みますから」
「ダーリア――
 アレクセイは恋人へ何か優しい言葉をかけたいと思った。だが、その言葉を見つけようと物思いに沈んだ刹那の間を突くようにして、
「こんばんは……白鳥さん。それに黒鳥さん。先生、こんなところでお会いするなんて……でも、先生の審美眼を知っている僕としては、いつかぜひ来てもらいたいと思っていましたけどね……」
 と、ふいにアレクセイの脇から声をかけてくる者があり、振り返ってみるとそこには、翡翠ひすい色の鸚鵡オウムの仮面、黒髪に黒づくめの衣装を着けた若者が立っている。東洋の意匠でひらひらした袖や裾を揺らめかせながら、小柄な鸚鵡オウムは親しげにアレクセイのそばまでやって来た。
 アレクセイも、相手の外見ではわからなかったが、その極めて特徴的な声には覚えがあった。成人した男子でありながらあたかも変声前のように軽やかな声は、彼が幼少の頃に男女のことわりを外れた者であることを示している。
「これは――懐かしい声を聞かせてもらいました、デミ――ああいえ、ここでは本名を呼ぶのはルール違反でしたね」
「ええ、そうルール違反。でも本当に久しぶりにお目にかかりました、僕が大学を卒業して以来かな……それにそちらの黒鳥ブラックスワンの方とは初めてだから、先生のご友人とあれば、自己紹介くらいは許してもらいたいところです」
「ダーリア、こちらは――
 とアレクセイは、ダーリアへ鸚鵡オウムの正体を明かして紹介した。
「デミア・アンリです。魔術師なんですよ、暗き者派の。去年まで帝都大学に在学していましてね、あなたより年下ですが、先輩ということになるのかな。学士院の方も何度か訪れてくれて、それで僕は知り合ったんです」
「大学の授業がつまらなかったんですよ」
 アレクセイは、今度はデミアに向かってダーリアを紹介した。
「ダーリア・スルトです。彼女は僕の法友です。この九月から帝都大学の最終課程に在籍しています」
――よろしくお願いします」
 ダーリアが右手を差し出し、デミアはその手を丁重に捧げ持った。
「こちらこそ。研究者を目指しているんですか?」
「いえ――まだそこまでは。進学したのは単に実験が好きだからで――
「そうですか。僕は子供の頃からずっと宮廷魔術師です。……といっても、地方貴族の相談役兼遊び相手みたいなものだけど」
「宮廷魔術師――
「今日はご主人のお供で?」
 とアレクセイが口を挟んだ。
「まあそうです。それに今夜は、うちの坊っちゃんがバイオリンを弾くので」
「それは楽しみですね」
「そこらの音楽学校の学生なんかよりよほど上手いですよ。貴族の務めより音楽や絵画の方が本当は性に合ってるような人だから……先生とは結構気が合うかもしれませんよ」
「今はどちらに?」
「今夜はイーグルからストラディバリウスの名器を貸してもらえるというので、子供みたいに、すっかりはしゃいでそれに付きっきりです」
「あ、あの――
 と、ダーリアが声をひそめてデミアを呼んだ。それでデミアのおしゃべりが止むと、視線だけ動かして隣のテーブルを指し示す。
 大柄な駒鳥が一羽そこにいて、なにやら恨めしげな様子で、デミアの方を見つめていた。
「俺に構わず続けてくれたらいい」
 と赤毛頭の駒鳥は、一同に視線を向けられるとねた声を出した。
 デミアは苦笑いして、
「いやだな、聞いてた?」
 と駒鳥とはずいぶん親密そうな声色で言う。
「べーつーに、どこかの頼りない貴族の子息がバイオリン一つに子供みたいにはしゃいでるだなんて、そんなことは聞かなかった」
「だって君、本当に演奏が始まるまで楽器に付きっきりかと……こっちに戻ってくるとは思わなかったから」
「おまえの母さんが呼んでる。金糸雀カナリヤが挨拶に来てたぜ」
 駒鳥は一緒に来るようにとデミアへ促すと、アレクセイとダーリアの方へ一瞥いちべつをくれ、
「あなた方は今夜が初めての参加だな。俺はルールに従って名乗ることはしないが、その代わりにここでは何のしがらみもない。鸚鵡パロットの友達なら俺も歓迎だ」
 と、その本来の身分をうかがわせる言葉遣い、単語の発音、鷹揚おうような調子で言う。
 アレクセイは、
「ありがとう。あなたの演奏が今から楽しみです」
 と答えた。それから一つ尋ねたいこともあった。
「すみません、さっき金糸雀カナリヤの名前が出ましたが――彼女は今どこに? 僕たちは彼女に誘われて来たんです。一言声をかけたいと思っているんですが――
「じゃあ、あのにそう伝えておくよ。ここで待っているといい」
 と、気さくな駒鳥は受け合ってくれた。
「今夜は『月影の誘惑』を弾くんだ。後でぜひ感想を聞かせてくれ」
「先生……いえ、白鳥さん、それに黒鳥さん、それではまた、サルーンで……」
 駒鳥とデミアは連れ立って応接室を出ていった。

4

「あの駒鳥ロビンは、デミアの主君ハイアシンシア伯の御令息みたいですね。見事な赤毛でした」
 とアレクセイはダーリアへささやいた。
「なんだか変わった方たちでした」
 とダーリア。
「私が考えていた宮廷魔術師とは違っていたというか――あまり主従らしい雰囲気ではなくて」
「デミアの場合、宮廷魔術師といっても、彼の母親の代から伯爵家に仕えていて主家で養育されたそうですから。そこの御子息とは兄弟のようなものなんでしょう」
「お詳しいですね」
「彼の母親というのが――僕の妹の伯母に当たるんです」
 アレクセイは手にしていたカクテルグラスを再び口へ運んだ。
「つまりデミアはいわば遠縁でね。彼が大学時代に学士院を訪ねて来たのも、それがきっかけでした」
 と、その頃を懐かしむように白鳥の仮面の奥で目を細め、思い出話をダーリアに語って聞かせた。
「二、三年ほど前――初めは帝都大学の学生として学士院の中を見学したいと言って来たんですよ。それで、そういう仕事は学士院で一番新入りだった僕がすることになっていたから――
 デミアは暗き者派の魔術師としては取り立てて変わったところのない人物だと、アレクセイは言う。今夜鸚鵡オウムの仮面で隠されていた下には、東洋人の血が色濃い容貌があり、近視のため黒縁の丸い眼鏡をかけている。体つきはアレクセイよりもさらに小柄である。彼らの教派にままある特徴的な声を隠すためか、少しこもったしゃべり方をする。
 その日、アレクセイは学士院の内部を学生のデミアに見せて回りながら、すっかり暗記している案内の文言を淡々と読み上げていた。取り立てて珍しい物があるわけでもないが、デミアはときどき相槌あいづちを打ったりしながら、神妙な様子でアレクセイについて来ていた。
 しかし、院内聖堂の入口に立ったとき、ふと、
「……なるほど、カテリーナよりもよほどお父上に似ていらっしゃる。魔術の才能のことばかりじゃない、顔立ち一つ取っても……カテリーナがあなたに引け目を感じるのも道理ですね」
 デミアはそんなことをつぶやいて、アレクセイの顔を見つめた。
 アレクセイは、思いがけないことに聖堂の案内の文句も忘れてしまい、デミアの顔を見つめ返した。
―――
「……すみません、驚かせてしまって。僕、あなたの異母妹いもうとのカテリーナの従兄弟です。カテリーナの母エレナは僕の母ディーナの妹なんです」
―――
「そう警戒しないでください……僕は先生がご実家を継ぐかどうかなんて興味がないですから。貴族のおこぼれ目当てで先生に群がってくる有象無象と一緒にされては困ります」
「何の話です? 僕の実家――カミュの家はただの町医者ですが」
「そうですね、先生のお母様は出産に際して市井で医業を営むカミュ家の養女になられたわけですから……僕も貴族の家で育てられたので、高貴な彼らのそういうずるい手口は知っているつもりです」
 アレクセイは、冷ややかに、
「あなた宮廷魔術師ですね。主家はどちらです」
 と尋ねた。
 デミアはよどみなく答えた。
「ハイアシンシア伯爵ソルベ家です」
 アレクセイとしては、デミアのその素直さ、嘘をついているようでもない潔い物言いにいささか拍子抜けのした気分である。
「すんなりと主君を教えてくれるとは思いませんでした――おかしな人ですね。いったい僕に何の用があってここへ来たんですか?」
「ですからつまり……従姉妹のカテリーナの兄上とあれば僕にとってもまた兄同様なわけです。もしよかったら、これから親しくしていただけたら、と」
「今までの態度が友好宣言だったとはとても思えませんが――
「考えてみてください……もし仮に、僕が身分や血縁を隠して先生と友達になれたとして、のちのちになってそのことを先生が知ったらどう思われるでしょう? ……僕に悪意がなかったとしても、先生は裏切られたような気持ちになるのではないでしょうか……」
―――
「もちろん、先生がお嫌なら僕はもう帰ります。二度とお目にかかりません……」
 ――デミアとの間にはそんな応酬があったのだと、アレクセイはダーリアに語った。
「変わってるでしょう?」
 とアレクセイはちょっと苦笑いして見せる。
 ダーリアは何と答えたものかと、唇にカクテルグラスを押しつけてあいまいな相槌あいづちでごまかしている。
「歯に衣着せぬ物言いで僕も初めは身構えましたけど、でも彼、根はいい子なんですよ」
――妹さんのことにしても、デミアさんのことにしても、近頃私は先生のことを何も知らなかったのだと思い知らされることばかりです」
「い、いや、それは僕がちゃんと話していなかったのが悪いわけで――ごめんなさい、ダーリア。あなたには、いずれいろいろと打ち明けなくちゃならないと思ってはいるんですよ」
「そのいずれ﹅﹅﹅というのは、今ではいけませんか?」
「あんまり話すことが多すぎて――それに」
「それに――?」
「僕――僕はね、あなたに何もかも話してしまって、それでもしあなたに嫌われてしまったらと考えると恐ろしいんです。もちろんあなたのことは信頼しています。でも、自分の全てを、たとえ愛する人にでも委ねるのがこんなに勇気のいることだとは、僕も今まで知らなかった」
「先生」
「ごめんなさい、臆病者で――本当に」
「いいえ――それは、私にも覚えのある感情です」
 黒獅子城でアレクセイの目の前に自分の裸身をさらした晩のことを忘れはしない。
(あのとき先生がそうしてくださったように、私も全て受け入れることができるのだろうか)
 と思うと、ダーリア自身、臆病な心が芽生えてくるのを否定できなかった。今のまま、深入りせず、ただささやかな愛の遊びに酔っている方が、もしかしたら幸せなのかもしれないと。
「ねえダーリア、お腹が空きませんか。夕食もまだですしね。せっかくだから、用意していただいたものを少し食べていきましょうよ」
 とアレクセイは話の矛先をそらしてしまい、切り花とキャンドルで飾り立てられたテーブルを見下ろした。中央には三段重ねのケーキスタンドが据えられ、パンの切れ端にパテやキャビアを載せたオードブル、殻付きの牡蠣かき、果物やチョコレートのタルトなどのお菓子に至るまで、贅沢ぜいたくな品々が並べられている。
「さて、どれにしようかな」
「その――卵のフィリングにキャビアを添えたのがとても美味しかったわ――
 と、予期せぬ声とともにテーブルの上へおずおずと差し出された細く小さな手にアレクセイはギクリとして顔を上げた。
 いつの間に現れたのか、アレクセイのすぐそばに、金糸雀カナリヤの仮面を着けた年若い婦人が立っていた。
 彼女は黒髪で、肌の色も生成りのリンネルのようで、アレクセイとは何も似通ったところがなかったが、それでも、
「お兄様――
 とアレクセイのことを呼び、ひどく懐かしそうな目で見つめてくるのだった。

5

 アレクセイは、まごつきながら、
「カテリーナ――ここでは金糸雀カナリヤと呼ぶべきでしょうか。驚きました、すっかり大人になっていて」
 と、ようやくそれだけ言うことができた。
 金糸雀カナリヤの仮面の奥でカテリーナがくすりと笑った気配がした。
「だって、この前会ったのはもういつのことだったか――でもお兄様の方はちっとも変わっていないわ。白鳥の仮面を着けていてもすぐわかりました」
「髪を切ったんですね。子供の頃は背中を覆うほど長かったのに」
「母が亡くなったときに切ったの――短い方が好きなのよ。母に言われて伸ばしていたけど」
 カテリーナは、アレクセイの少し後ろで控えるようにしているダーリアへ視線を移した。
「そちらの黒鳥の方が、お兄様の手紙の」
「僕の友人――いえ、恋人です。紹介しましょう」
 アレクセイはデミアのときと同じように二人を引き合わせた。ただし今度は、ダーリアの方を先にカテリーナへ紹介した。カテリーナの方が年長のためである。
 紹介が済むとカテリーナの方から手を差し出して握手をする。
「仲良くしていただけたら嬉しいわ。お暇があれば学問の話も聞かせてくださいな」
金糸雀カナリヤ、あなた学校には――?」
 とアレクセイが遠慮がちに尋ねると、
「お父様が大学まで行かせてくれたわ。でも成績は全然なの。魔術の才能も――母はときどき伯爵様に呼ばれていたけど、私はだめよ。ましてやお父様になんてほど遠い。私は家の庭いじりでもして静かに暮らすのが好きだし」
 とカテリーナも控えめに答える。
「それなら、仲良くなれそうです」
 と優しい声をかけたのはダーリア。
「私も植物や生き物が好きですから」
「本当に? ぜひ一度家にお招きしたいわ。一緒に庭を探検しましょうよ。特に春は珍しいちょうがたくさんいて自慢なの」
金糸雀カナリヤ――あなたは家に一人でいて――伯爵には仕えていないんですね? でも、今夜だって、あなたは伯爵から招待されたんでしょう」
 とアレクセイがくちばしを入れた。
「あら、お兄様どうして――
「伯爵の御令息に会いました」
「ああそうか――ヴィク――駒鳥ロビンに会ったのよね。それはお兄様のお察しの通りよ。母が生きていた頃は母と二人で来たものだけど――母が亡くなった今も変わらず招待状が二通届くわ」
「それを僕に――?」
「他に誘いたいと思う相手もいないの」
 カテリーナはそう言うと、しばし口をつぐんで異母兄の顔をつくづく眺めた。そして、得心がいったように、ほ、とため息を漏らす。
「ああ、どうしてもお父様を思い出してしまう。お兄様――容姿のことだけじゃなく、声も、話しぶりも――私が子供の頃、学校から帰るとお父様が母に隠れて私を呼んで、ちょうどさっきのお兄様のような調子で、学校はどうだったかって聞くの。懐かしくて――お父様は母とは言い争いが絶えなかったけれど、私には優しかったわ――
―――
「私が母の魔術の訓練に耐えられなくて泣いていたときもお父様がこっそりキャンディをくれたりして――お父様、あんなに優しい人だったのにね。お兄様」
 アレクセイは返す言葉が見つからなかった。カテリーナの語る父の思い出は、自分の胸の奥にしまい込まれているそれとはずいぶん違っているような気がした。
「そう、ですね――でも僕にとっては魔術の先生でもあったから、結構、厳しいところもありましたよ――
 と答えるのがやっとであった。
「それだけお父様もお兄様には期待していたんだわ、きっと。お父様が亡くなったとき、私は魔術師として非力で何もできなかったけど、お兄様が看取って﹅﹅﹅﹅くれたから――本当に――よかったと思っているのよ。そうそう――毎年お父様の命日になるとお花が届いてね。私は知らない方からだけど、もしかしてお兄様はご存知?」
「どういった方です?」
「姓はいつも書いてなくて、ライオネルというお名前だけ――
―――
 それは僕の幼友達です――とアレクセイはか細い声になって教えた。
「子供の頃キャクタシリアに住んでいて、僕の家によく遊びに来ていた人ですよ。父さんが死んだときも彼が僕のそばについていてくれました」
「立派な方ですのね」
「ええ」
 六時の開演が近づくにつれ、応接室からは一人二人と人の姿が消え始めていた。
 カテリーナも少し早めに行かねばならないと言う。
「ヴィク――じゃなかった、駒鳥ロビンが、演奏の前にどうしても励ましに来てくれって言うから――変わった人だったでしょう? 普段から身分のことなんか気にしないような人だけど」
「ああいう方が貴族院で出世してくださると僕たちも暮らしやすそうですが」
「本当ね」
 お話できて嬉しかったわ、お兄様――と言って、カテリーナはアレクセイとダーリアに別れを告げた。
「また手紙を差し上げてもいい?」
 アレクセイがかぶりを振って見せたので、カテリーナは「ごめんなさい」と寂しげにうつむいた。しかしアレクセイは優しい声になって、
「そうじゃありません。僕に断る必要はないってことです。だってあなたは、僕の妹なんですから――でも――今度は、その、父さんの話よりあなたの暮らしぶりのことをもっと聞かせてください」
 と諭すように言う。カテリーナは顔を上げて、仮面越しにもはにかんだ笑顔になったのがわかった。
「ありがとうお兄様。そうね。そうします。ダーリアさんにも庭で一番綺麗なお花を押し花にして送りますわ」
「楽しみにしています」
 とダーリアが答えた。
 応接間から出ていくカテリーナの後ろ姿がすっかり見えなくなるまで、アレクセイとダーリアはそれを見送った。
「カテリーナさん、感じのいい方でしたね」
 とダーリアが言い、
「僕の妹だとは思えないくらいでしょう?」
 と、アレクセイは弱々しい皮肉で返した。
「先生、そんなこと」
「ダーニャ」
 アレクセイがささやくような声で呼んだので、ダーリアはどきりとして身をすくませた。近頃、アレクセイはときどきそんなふうにダーリアのことを呼ぶ。
 アレクセイはダーリアの手に手を重ね、すがるように強く握り締めた。ほんのしばらくでいいから、このままでいてくれと言う。
「先生、それは、もちろん構いませんが――
 アレクセイの手は、その左手は、いつになくじっとりと汗ばんでいた。ダーリアもそれをきつく握り返し、人の目を盗んでその指に唇を押しつけた。

6

(私が、恋に浮かれて、のんきに想像していたよりずっと――先生にとっては勇気がいることだったんだろう。カテリーナさんに――いえ、きっと、カテリーナさんの思い出の中のお父様に会うことが――
 階下へ下りてサルーンへ向かいながら、ダーリアはアレクセイの父親の姿を思い出していた。アレクセイが自室に置いている写真立ての中で、いつまでも老いることのない人。アレクセイがその容貌も、魔術も全て譲り受けたという人――
 カテリーナは優しい父だったと言う。
 アレクセイは――ダーリアに多くを語ってくれたことはない。
「どうかしましたか、ダーニャ」
 先に立って歩いていたアレクセイが足を止めてこちらを振り返る。さっきは尋常の様子ではなかったのに、アレクセイは今はもうけろりとした顔で、ダーリアに片肘を差し出してくる。
 ダーリアはアレクセイの肘に腕を組ませながら、
「私が今夜任された役目は果たせたようなので、安心していたところです」
 と答えた。
「いやだなぁ」
 とアレクセイは苦笑いしていた。
「音楽会はこれから始まるんですから。楽しみましょうよ」
「そういえば駒鳥の方は『月影の誘惑』を弾くんだとおっしゃってましたね。私も知っている曲ですから、楽しみです」
「今思えばフロクシリアでの初演をあなたとライオネルと一緒に観られたのは運がよかったですよ。あれは帝都でもおおいに成功した歌劇の一つになりました。筋は平凡ですが音楽がいいですから、きっと後世に残るでしょうね」
 サルーンの入り口まで来ると、鶏の仮面の従僕が今夜の演目を記したカードを配っていた。二人はそれを受け取ってから入室した。
 白い石と大理石で造られたサルーンの内部はまるで天上の宮殿のように美しかった。壁にも、丸みのある天井にも、天井を支えるために等間隔に並んでいる円柱にも、彫刻の施されていないところは一点もない。柱と同じ間隔で造られた壁龕へきがんには聖者たちの彫像が収められていた。その彫像一つとっても名高い彫刻家の手によるものである。
 数え切れないほどの燭台に火がともされ、それぞれに複雑なカットを加えたガラスの覆いを掛けられて金剛石ダイヤモンドのようにきらめき、白い石壁を照らしてまばゆいほどだった。
 入って正面に楽団が支度を終えていて、聴衆の席は両翼に分かれていた。どこに座っても構わないと従僕が教えてくれた。
 アレクセイとダーリアは左の翼の片隅に空いた席を見つけて座った。
 周りをちらと見るだけでも、野山の鳥、水鳥、小鳥に猛禽、あらゆる鳥の顔がある。金糸雀カナリヤのカテリーナや鸚鵡オウムのデミアの姿を探すと、二羽の愛玩鳥は一緒に右翼側の前の方の席に着いていて、間にデミアの母親らしい洋鵡ヨウムの仮面の老女を挟んで何事か話し込んでいる様子である。
駒鳥ロビンの演奏がオープニングのようですよ」
 アレクセイがプログラムを眺めながらダーリアにささやきかける。音楽のことはわからないというダーリアに演目を一つ一つ説明したり、プログラムの構成の妙をひもといてみせたり――そうしているうちに、いつしか聴衆たちは波が引くように静まり返って、アレクセイたちも自然とその沈黙のなぎに同化した。
 細波さざなみのようなかすかなざわめきを連れて、赤い頭の大きな駒鳥が左右に別れた聴衆の間を進み出た。そのたくましい手には磨き込まれて輝くストラディバリウスを携えて。
 挨拶も何もない。駒鳥が楽団の前に立つと同時に全ての楽器に命が吹き込まれた。
 華やかなる恋の歌を奏でる駒鳥のバイオリンの音色は甘くとろけ、月夜の晩にキューピッドによって結ばれた恋人たちの想いを歌う。
 テンポの速い愛の舞踏。
 睦言むつごとをささやくような、繊細なバイオリンの独奏。
 そしていまだ生きることに恐れを知らぬ若い娘と青年はこう歌い合う。

「時はゆく
 愛は永遠
 プラムの日々は行きて戻らぬ
 愛は永遠――

「愛しき君
 たとえ僕の体が滅んでも
 愛しき君
 君に僕の全てを残そう――

 駒鳥は最後にはバイオリンを弾くのをめ自らの声で歌い上げた。
「君に僕の全てを残そう――
 それはあたかもすぐ目の前にいる恋の相手に捧げるような、優しさと懐かしさのこもった駒鳥のさえずりであった。若々しいオープニングは喝采を博し、今宵の音楽会の成功を約束した。


 小夜啼鳥ナイチンゲールの仮面を着けた異性装の少年が、この世の者とは思えぬようなソプラノの声を震わせて鎮魂歌を捧げている。
 そのときアレクセイは、ふとカテリーナやデミアが座っている方に気を取られて、そちらをそっと見った。
 ボーイソプラノに聴き入っているカテリーナの隣に、出番を終えた駒鳥が聴衆として加わっていた。
 彼もまた、天上の調べにうっとりと感じ入っているように見える。
 ただ一人デミアだけは、音楽に浸りながらもどこか覚めているところがあるようで、アレクセイの視線に気がついたのか、ちらと脇を見るそぶりをした。
 アレクセイは、やはりそっと視線を戻した。
―――
 音楽会は楽団の演奏する華麗なる交響曲でフィナーレを迎えた。音楽家たちを称える拍手は長い間鳴り止まなかった。
 アレクセイとダーリアも心からの拍手を送った。ことにダーリアは興奮の冷めやらぬ様子で、間近で聴く歌や楽器の音が自分の体まで震わせたのだと言っていつになく頬を上気させていた。
 アレクセイはそんなダーリアの素直な感性が愛おしかった。

7

 音楽会の後、参加者たちはギャラリーに場所を移し、思い思いに今夜の音楽について語り論じ合った。
 アレクセイとダーリアは駒鳥の姿を探していた。
 皆からさぞかしバイオリンの演奏をほめちぎられていることだろうと思っていたが、二人の予想に反して駒鳥はねたような顔をして隅の方に引っ込んでいた。そばには鸚鵡オウムのデミアを連れている。
 デミアがいち早くアレクセイたちに気づいて、
駒鳥ロビン、ほら、君が感想をくれって言ったから」
 と、にやつきながら駒鳥の小脇をつつく。
「こんな隅の方で、どうかされましたか? ご気分でも?」
 アレクセイが尋ねると、デミアはますますにやけている。
「いえなに……さっきからいろんな方が声をかけてくださるんですが、皆さんこぞってストラディバリウスの話をなさるので……」
「よせよ!」 
 と駒鳥は鸚鵡オウムのおしゃべりをめさせようとしたものの、少し遅かった。
 アレクセイは「なるほど」と笑っている。
「確かに、非常な名器だったと聞きましたね」
――で、あなたも楽器の話をしに来たのか? あれはいくらで買えるだの、他にどんな有名な奏者の手を渡ってきただの?」
「僕は物知らずで楽器の良し悪しというのはあまりわかりませんが、それから発した音楽の話ならできます。この通り耳が二つも付いていますので」
 とアレクセイが言うと、駒鳥はちょっときょとんとして見せて、そうかと思えばそわそわし始めた。
「俺の『月影の誘惑』はどうだった? 一応とちらずにはできたと思うが」
「ええ、素晴らしかったですよ。もちろん技術的にも。きっと日々たゆまぬ修練を積まれていることだろうと思いました」
「うん。バイオリンの練習は好きだ」
「練習あってこそ、名器を前にしても臆さずその本来の音色を引き出せるのでしょう」
「うん――
 駒鳥は、いざ褒められたら褒められたでくすぐったそうにしている。
「あなたは――『月影の誘惑』はご覧になった?」
「幸運にも初演で観ることができました」
「俺はキャクタシリアでの興行のときに観たんだ。ロマンチックで明るく楽しい恋愛劇だった。月夜の陰でよく見えなかったからキューピッドは人違いをしてしまう。本来結ばれるはずでなかった恋人たちが二組。ケンカばかりしている幼なじみ同士が一組、それに内気な紳士と内気な少女が一組」
「結局――キューピッドの矢が抜かれても彼らの恋が消えることはなく、愛の女王もそれを許すことにしてめでたしめでたし、というね」
「現実には矢が飛んでくることはないが、たまにはそんな運命のいたずらがあればいいと思う。特に、近頃のような時勢にあってはそう思うんだ。それであの歌を選んだ」
「そうでしたか――
 アレクセイと駒鳥が音楽談義に花を咲かせている間、ダーリアとデミアは離れたところにいて二人で何か話しているようだった。カテリーナは伯母のそばについているそうで、近くにはいない。
 アレクセイは少し声をひそめて、
「あなたには――あの歌のように、全てを残したい人がいるんですか?」
 と駒鳥に尋ねてみた。身分を問わない建前とはいえ、相手が貴族だとわかっている以上繊細さを要する話題であったから。
――いない」
 と、駒鳥は含みを持たせた沈黙を添えて答えた。
「まだ独身だし、結婚の約束をした相手もいない。俺があの歌を歌ったのは、何か、解釈が違ったとか?」
「とんでもない。とてもよかったですよ。あれはまだ恋に恐れを知らない無垢むくの歌です。それをよく表現されていたと思います」
「あなたはまるで恋を恐れているような言い方だな」
「ええ。少し」
「あなたならどんな歌を歌う? 楽器は何か習った?」
「いえ――僕はそちらの方はさっぱりです。人の音楽や物語を感じることは大好きですが」
「それは惜しい」
「来年またあなたの演奏を聴くのを楽しみにしていますよ」
 とアレクセイが言うと、しかし駒鳥は浮かない表情に変わる。
「? 何か失礼なことを言ったでしょうか?」
「いや。そうじゃないんだ。楽しみだと言ってくれるのは嬉しい。ただ――ここだけの話だが、この会はおそらく今年が最後だと思う」
「なぜです?」
「時勢さ」
 と駒鳥は言う。
「まあ、英国次第ではあるが――おそらく、早晩音楽会どころではなくなってしまうんだ。寂しいことだが」
「たとえこれからの時代が芸術を許さなくとも、芸術を愛する心まで禁じることは誰にもできません。いずれまた、時勢が変われば音楽会を開けるようになるでしょう。そのときにはあなたのバイオリンを聴かせてください」
――そうだな。弾くよ、約束しよう。それまでの間は、たぶんお目にかかることもないだろう――
「きっと、そうでしょうね」
「次に会うときは、お互い年を取っていることだろうさ」
 しかし結局、この日がアレクセイと赤毛の駒鳥との最初で最後の邂逅かいこうとなった。
 仮面音楽会から半月ばかり経った頃、カテリーナからの手紙がアレクセイとダーリアの下宿へ届いた。手紙には、音楽会が終わってキャクタシリアの家に帰ったこと、従兄弟のデミアとその主君も社交界シーズンでないので所領へ帰ってきたこと、その他日常のこまごまとしたことが書き連ねてある。

 ――お兄様、デミアはよく遊びに来てくれて、庭で冬を越すちょうさなぎを探してるわ。春にちょうが出てきて青虫が生まれたら魔術の材料にするのよ。
 デミアが来るときには、三回のうち一回はヴィクトルも一緒。昔は彼とも遊んだけれど、近頃は立派になってお父上のお仕事を手伝っているんですって。だから、来るのは三回に一回。
 ヴィクトルは――お兄様は彼の名前を知らないかもしれないけれど、お会いになったことのある方よ――彼は駒鳥ロビンのような素晴らしい赤毛で、春には花の赤と見間違えてちょうが集まるの。ちょうはとても目がいいのよ――

 カテリーナは、ダーリアへと言って、庭で摘んだいろいろな珍しい草花の標本なども送ってくれた。小包で送られてきたそれらの中には、真綿で何重にもくるんだ小さな木片のようなものもあった。

 ――綿でくるんでおいたのはデミアが見つけてきたさなぎよ。春になれば羽化します。さなぎの中にちょうの羽ができて、殻を割って出てくる姿はとても不思議よ。ぜひ観察してみてくださいな。
 さなぎを枝に添える方法を教えますから――

8

「紙を――三角に切って――円錐えんすいになるように丸める――端はのりろうで止めておく。一番長い辺を『く』の字の枝に添えて固定して、できたカップの中にさなぎを入れておくこと――
 アダムは、その古ぼけた手紙を、もう一度最初から最後まで読み直してみた。
 読みながら、どさりとあお向けにソファーへ倒れ込む。朝早くから丸一日かけて家中の物をひっくり返して、へとへとに疲れていた。 手紙は、そのときに曽祖母ダーリアの遺品から見つけたのだ。
 他にもいくつか興味をかれるものはあったが、アダムが探している物は結局見つからなかった。曽祖母の形見の中にも、先日亡くなったばかりの父親の部屋にも、どこにもなかった。
―――
 そう――亡くなった。父親のユージーンが死んだのだ。五十五歳。心筋梗塞だった。アダムが音楽学校での授業中に連絡を受けて、病院に駆けつけたときにはもうこの世の人でなかった。
 悲しむ間も、父親との思い出をしのぶ間もなかった。それからは葬儀の手配、相続の手続き、そのための弁護士への依頼、やらなければならないことが次々押し寄せてきて。
 アダムがソファーの上でひっくり返っていると、電話が鳴った。かけてきたのはマグダであった。
「もしもし? アダム? 一人なの?」
「うん――叔父さんは今日は家に帰ってるよ」
「あなた一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。家事もちゃんとしてるし――
「アダム、そういう意味じゃないのよ――ユージーンが――あなたのお父様が亡くなったのは急なことだったから、あなたもまだ心の整理がつかないんじゃないかと思ったの」
 とマグダは優しい声をかけてくれる。
「ありがとうおばさん――でも実際のとこ、なんか悲しむタイミングを逃したような感じっていうかさ――家に一人でいて寂しいのは確かだけど」
「アダム――
「それに、ひいおじいちゃんの手のミイラのことがあるじゃない。俺、今日一日中探したけど、やっぱり見つからなかった――
――確かなのね」
「うん」
―――
「やっぱり、父さんが手放したとしか考えられない。銀行の取引記録だっておかしかった。父さんが生きてた頃、俺の学費は学資年金から出してるって言ってたけどそんなものなかったし、その代わり俺の知らない投資口座があって――
「アダム、結論を急がなくていいのよ。落ち着いて、もう一度ゆっくり考えましょう」
「俺は落ち着いてるよ、おばさん――教団に報告しなくちゃ。たぶん破門かな。教団の宝だったメイガスハンドひいおじいちゃんの手の保管はカミュの血脈俺んちに委任されてたわけじゃん。こんな不祥事起こしたら、相応の処分があるのは覚悟してる」
「とにかく、私も明日そっちへ行くわ。これからのことを二人で話し合いましょう」
 アダムは電話を切る前に、
「あの、おばさんがもし知ってたら――聞きたいことがあるんだけど」
 と話の矛先を別のところへ向けた。
「アレクセイひいおじいちゃんのことでさ」
「ひいおじい様がどうかした?」
「いや、ひいおじいちゃんに兄弟とかいたのかなって」
「私は聞いたことがないわ。教団で保存されている血脈の資料でも、アレクセイ・カミュには兄弟はいなかったはずよ――少なくとも記載はされていないわ」
「どういう意味?」
「つまり、アダム、あなたも知っている通りアレクセイ・カミュはその師と親子関係にありながら、法律的にはそうじゃなかった」
「婚外子だったとは聞いたけど。ああそっか――異母兄弟とか異父兄弟がいたかもしれないんだ」
「もしそうなら、そこまでは資料には残らなかったかもしれないわね」
 電話を切って、アダムは夕食の支度をするためにキッチンへ向かった。
 家事が得意でしかも几帳面だった父親は、亡くなる前にも普段通り掃除をして買い出しに行ったらしかった。キッチンは片付いていたし、冷蔵庫の中にも買い置きの瓶詰めなどが整然と並んでいた。アダムは一人でキッチンに立ってそれを見るたびに、なんだかまだぼやけている父の死が急に鮮明になるようで、心細かった。
 夕食は簡単なもので済ませた。
 アダムはテーブルの上に父親のラップトップを持ってきて、電源を入れた。ログインパスワードは手帳にメモが残っていた。
「Altynay」
 ――このことを明日マグダに教えてあげるべきかと、少々悩むところではある。マグダのフルネームはアルテナイ﹅﹅﹅﹅﹅・マグダだ。
 父親は銀行の取引記録を全てラップトップに保存して、年ごとのラベルを付けたフォルダに分類にしていた。Eメールもアドレス帳も家計簿もそうなっている。ここまでくると神経質と言うべきかもしれない。
「あなたのお母様と離婚してから――ユージーンは――元から几帳面な人だったけど、それが少し強迫的な感じになって、あなたの健康のことや金銭の問題にも過敏になったようだったわ」
 と、マグダが教えてくれたのは、アダムが相続の手続きで右も左もわからないでいるのを手伝ってくれたときのことだ。
 アダムは両親の離婚のことを考えると気が重くなってきて、ラップトップの前から離れ、曽祖母の遺品の方に戻った。
 ダーリアが長い間取っておいた物は、手紙の他、珍しい草花や昆虫の標本、それらを観察したノートなどさまざまであった。
 アダムは手紙やノートを飽きずに眺めた。百年も前のものだから、文章はところどころ現代と語句やつづりが違ったが、おおよその意味は読み取れた。
 手紙の最後の方に書いてあったちょうさなぎ――ノートの方を見ると、それは確かにちょうになったらしい。羽化の様子のスケッチは正確だった。
 しかし、ダーリアは「羽化が始まるには早すぎた」と書き添えている。ノートの日付は三月の初め。成虫になってしばらくは室内で砂糖水を与えていたらしいが、長くは生きられなかったようだった。
 成虫のスケッチと、標本箱の片隅にその死骸の標本が残っている。
 アダムが今まで見たことのない、黒い羽に青く輝く大きな筋が入った螺鈿らでん細工のようなちょうだった。
―――
 アダムは、ふと思い立ち、標本箱を抱えてラップトップの前に戻った。ウェブで検索して、同じ種類のちょうを探した。
「これだ――『Graphium sarpedon』」
 アジアに分布するアゲハちょうの一種である。幼虫の食性が特定の樹木の葉に偏っているのだ。
 珍しい青く輝くちょうの飛び交う庭の主で、曽祖父アレクセイを兄と呼ぶのはどんな女性だろうかとアダムは想像してみた。そうたとえば彼女には――駒鳥ロビンのような赤毛の子供はいなかっただろうか――
 実子のなかった曽祖父アレクセイが妹の子供を養子として迎えた、というのは想像にかたくないストーリーだろう。昔ならよくあった話だ。
(キャクタシリアに行ってこの人の家を探したら、もしかしたら何かわかるかな――いや、そんな簡単にはいかないか。そもそも今でも残ってるのかもわからないんだし――
 アダムは、ほ、とため息をついた。
 来年音楽学校を卒業したら、この家を出たいのだ。一人で住むには広すぎるし――家の中に染みついている父親の気配を感じながら生活するのはどうしても寂しかった。 自由になりたかった。
 アダムは、明日マグダが来たときに、そのことも相談してみようと思った。

(了)