メイガスハート

1

 魔術師たちは、天より来たりて天に帰る。
 気の遠くなるほど昔、天を追われ地に堕ちた御使いたちは地上で人間と交わって巨人の子を産ませ、彼らに魔術を与えた。ゆえに魔術師は天より来た。
 そしていつかは天にまします父なる神の膝下へ帰りゆくことを望む御使いたちは、自らの子らにその願いを託した。ゆえに魔術師たちは天に帰らねばならぬ。
―――
 ロザリア連合王国の北部地方を占めるキャクタシリア地方、その中央都市から首都リリアまではおよそ一時間のフライトだった。アダムの座っている窓際の座席からは、窓の外に広がる白い雲の海が果てまで見渡せた。
 古い時代の人々は、きっと父なる神は雲の上におわすと考えていたのだろう。けれど、科学技術の著しい発達によってそこに神はいないことが確かめられ、さらに宇宙にまで飛び出してみてもまだ見つけられないでいる。
 神の膝下はあまりにも遠い。
 アダムは一眠りしようと目を閉じた。これから少なくとも当分は故郷のリリアで暮らすことになるだろう。ここ最近はそのための賃貸の手続きだの、家財の整理だの、雑多な用事に追われて気が休まる暇がなかった。
 アダムはすぐにうとうとし始めた。夢のようなうつつのようなとろとろした気分を味わっていたとき、
〈目覚めよ――
 とかすかな声が、アダムの耳へ忍び込んできた。
「?」
 アダムは、初め隣の席の乗客の声かと思い、薄目を開けてそちらをうかがった。が、会社員らしい隣人はタブレット端末で映画を観るのに夢中になっている。気のせいかと、アダムは気に留めず再び目を閉じたが、やがて二度目の声が聞こえた。
〈今こそ――父の膝下へ帰るとき〉
 一度目の声に比べるとそれはかなりはっきりした声である。
 目覚めよ、今こそ父の膝下へ帰るとき。男のような声でもあり、女のような声でもある。若く張りがあるようでも、老いてしわがれたようでもある。懐かしいような、初めて聞くような、気味の悪い声色だった。
 アダムは目を開けようとしたが、両目とも上下のまぶたがぴったり貼り付けられてしまったように動かない。手足の先まで金縛りが広がって、呼吸ですら満足にできなくなってきた。キーンと高い耳鳴りの音が脳を横刺しにした。全身から冷や汗が吹き出してくる。
 目覚めよ、今こそ父の膝下へ帰るとき。
 目覚めよ、今こそ父の膝下へ帰るとき。
 目覚めよ、今こそ父の膝下へ――壊れた音楽プレーヤーのようにそのフレーズばかりが繰り返される。
(な、なんのこっちゃ)
 と困惑していたアダムは、急に正体のわからない悪心を感じた。腹の底から丸々太ったゴム製の芋虫がせり上がってくるような、息苦しい吐き気が体内に現れて、アダムの呼吸をますます圧迫した。
 胸の中をぐねぐねとのたうっているそれは、アダムが出口になる口を開けようとしないでいるので、向かう先を背中の方へ変えた。
「!」
 不気味な感覚を覚えてアダムは震え上がった。
 芋虫の小さな口に細かな歯がびっしり生えていて、自分の内側から背中の肉をもそもそ食っている。
 痛みはない。芋虫のイメージ自体アダムが感じただけのもので、本当にそれが肉体を貪り食っているわけではなかろう。ただ、食われた部分に――ちょうど肩甲骨の真ん中辺りに――次第に穴が開いていくような不快な感覚は確かにある。
 破れた背中から芋虫は外へ抜け出そうとする。奇妙なことに、アダムの肉を食らいながらそれはみるみる成長して、今は不格好な羽を何枚も生やした成虫の姿にまでなっている。
(だ、だめだ――
 まるで今にも羽化せんとしているせみのごとく、それがアダムというさなぎの殻を脱ぎ捨てて飛び出ようとしていた。
(出るな、出るんじゃない、頼むから)
 と懇願してみても、それは言葉を解するようでもなかった。
 アダムは、とっさに胸部の第四チャクラへ持てる限りの力を込めた。
 一瞬、羽虫は動きを止めた。が、すぐにまたアダムの体の外へ逃れようとする。アダムはそれを体内に引き戻そうとする。二つの力は拮抗して、膠着こうちゃく状態に陥った。
「っ――うっ、ん、うぅ――う」
 アダムは詰まった息を必死で整え、『施錠』の魔術と同じ呼吸を試みた。金縛りで声も出ないし印も結べないが、それでも何もないよりはましだろうと――
 アダムが少しでも力をゆるめたら、体中の魔力ごとごっそり持って行かれてしまいそうなほど、それが出ていこうとする力が強い。
(やめろ、出るんじゃない――俺の中にいろ――出るな、出るな! 出るな!!
 十秒が一時間にも思えるような苦しい時間だった。
 それがどれくらい続いていたものか。
〈当機はまもなく着陸態勢に入ります。皆様、今一度シートベルトをお確かめください――
 機内アナウンスでアダムがハッと我に返ったとき、不気味な気配はいつの間にか消えていて、声ももう聞こえなくなっていた。
―――
 金縛りもとけていて、自由に呼吸もできたが、手足はまだなんとなく強張こわばっているような気がする。くたくたに疲れて精神的にも参っていた。
「あの、大丈夫ですか? どこかお体の具合でも?」
 と、隣の乗客がアダムの様子を不審に感じたらしく、声をかけてきた。
「途中乱気流で揺れましたからね、気分が悪かったらそこのシックバッグを使うといいですよ」
「ああ、いえ――大丈夫、ありがとう――
 手で額をでるとじっとり汗でれている。洋服も体に張り付いていて冷たい。気持ちが悪かった。
 それにしても、そんな気分に反して窓の外は晴れている。隙間の目立ち始めた雲のカーテンの下にはリリアの高層ビルが乱立する市街地が見えてくる。ロザリアの国土の心臓辺りに位置する首都リリア。そこから全土に人や物を運ぶため、血管に似た大小の道路と神経に似た鉄道の線路とが郊外へ放射状に広がっている。

2

 午前十時十分に飛行機はリンデン空港へ着陸した。
 迎えは十時には来ると聞いている。国立学士院総合研究所の研究員だというから、きっとそれっぽいインテリ風の男だろうな、とアダムは適当なことを思って到着ロビーを見渡したがそれらしい人物は見当たらない。
(はて)
 とりあえずどこか目につきやすい場所へ移動しようか――と動き出そうとした矢先、
「すみません、あの、もしかしてアダム・カミュさんでいらっしゃいますか?」
 と優しげな声をかけられた。
「はい?」
 と、アダムは振り返った。声をかけてきたのは、アダムと同年代らしき若い女性だった。碧眼へきがんに度のきつい丸眼鏡をかけた、金髪の彼女は、ビジネススーツをきっちり着て、いささか自信のなさそうな様子で立っていた。
「あー、えーとそうですけど、あなたは?」
「私は学総研――国立学士院総合研究所研究員のレオナ・ジュネです。以後よろしくお願いします」
「どうも」
 二人は握手を交わした。
「もしかして、ジュネさんがその研究所から迎えに来てくれたっていう?」
「レオナで結構です」
「ああ、じゃあ俺もアダムで」
「ではアダム、その通りです。お迎えに上がりました。さっそく参りましょう、荷物はこれだけですか?」
 アダムはキャリーバッグ一つと、バイオリンケース一つの姿だった。レオナがキャリーバッグを引き受けて、アダムはバイオリンケースだけの身軽な格好になり、駐車場へ向かった。
 空港から研究所まで車で一時間ほどだという。
 レオナが運転する公用車の助手席にアダムは座って、
「ジュネ家の君のご先祖様にライオネルっていう人がいるんじゃない?」
 とれしい調子になって、真っ先にそれを尋ねた。
「ライオネルは私の曽祖父です」
「やっぱりな。それで君が選ばれたわけ? アレクセイ・カミュのひ孫のお世話役に?」
「たまたまですよ」
 それより、とレオナは言う。言いながら車を発進させ、道路へ出た。
「キャクタシリアから遠路はるばるお越しいただいてありがとうございます。学総研でもほっとしているところです。なにしろ今となっては、メイガスハンドを扱える黄金の契り派の魔術師はあなた以外にいないということなので」
「メイガスハンド? ああひいおじいちゃんのミイラのことね――
「あなたのひいおじい様の――最後の学士院院長でいらっしゃったアレクセイ・カミュ氏の左手は、今は大聖堂に安置されています」
「そりゃもう聖遺物扱いだな」
「初めは学総研で保管していたんですよ。でも職員の間で体調を崩す者や事故に遭う者が続出してしまったので、やむなく」
「リリアにも黄金の契り派の魔術師はいるじゃんか。そりゃ、マイナー教派とはいえ。教団だってある。マダム・マグダなんかまだ現役だろ? 『地鎮』は頼んだの?」
「マグダさんは失敗なさって、その他の方には断られました」
「マダムでもだめか。それでとうとう俺に出番が回ってきたってわけだ」
「あなたはカミュ氏の『血脈』だとか――私は教派が違うので詳しくは存じませんが」
「黄金の契り派は一子相伝なんだよ。それを血脈って言って、血脈ごとに微妙に魔術の方法が違うんだ。たいていは親子の間で継承する。俺の場合、血のつながりはないけどね。にしても死んだ後まで人騒がせだな、アレクセイひいじーさまは」
 アダムが嘆息する。
 車は一旦市街地へ入ってから、また郊外へと向かって走った。両側に田園の景色が広がる道をしばらく行き、次第に樹木の見える数が増えて森の中へ入っていく。
「国立研究所っていえば聞こえはいいけど、まったくへんぴなところに建ってるよな」
 とアダムは正直すぎる感想を述べた。レオナは、アダムに少々意地悪を言われても、顔色一つ変えない。
「もともとはオーキッディリア大学――昔の帝都大学ですね、あの近くに建っていたんですよ。その当時は帝国学士院の名前で――第二次世界大戦中の帝国崩壊に伴って体制が変わりまして。場所も移転したんです」
「その学士院を田舎へ追い出したのが、最後の院長だった俺のひいおじいちゃんってわけだ」
「いえ移転する必要があったんです。現代の魔術研究には大型の実験設備が必要なので――
「ウィキペディアで自分の曽祖父の記事くらいは読むよ、俺も」
―――
 二人の間の会話は途切れて、他に話すこともなかった。
 代わり映えのしない林の景色の中を走っているうちに、アダムは次第に眠気を兆してきた。空の上では妙な夢を見てよく眠れなかったことでもあるし。レオナに「あとどれくらいで着く?」と尋ねた。
「二十分ほどです」
 との答えが帰ってくる。アダムは、その間寝かせてほしいと言って目をつぶった。
 しかし――また同じような呼び声と芋虫の夢が訪れた。
「アダム、アダム・カミュ、大丈夫ですか!?
 と、レオナが異変を察知して大きな声で起こしてくれたので、幸か不幸かアダムはすぐに目覚めた。
――ごめん、俺寝言か何か言ってた?」
「寝息が聞こえたと思ったら、急にひどくうなされだして。びっくりしました。体調が悪いようでしたら、少し車をめて休んで行きましょうか?」
 とレオナは優しい声をかけてくれた。アダムは自分が彼女に対していささか皮肉っぽい態度を取っていたことを恥ずかしく思った。
――ありがとう。でも俺のことはいいよ、気にしないで」
 ね、と念を押す。
 浅い眠りは五分かそこらしかもたなかったらしい。アダムの形のいい唇の隙間から重く長いため息が漏れる。
「ねえレオナ、研究所に着くまでしりとりでもしない?」
「えっなんですかいきなり」
「じゃあレオナの『ナ』」
「ナ、ナ? ナ、ナ――ナビエ=ストークス式――
「何なのそれは?」
「ゆ、有名な計算式ですよ。流体力学の。ニュートン力学で言えば第二法則に相当する重要な式です」
 ――どうやら研究員レオナの専門分野は物理学らしい、ということだけはアダムにもわかった。
 やがて、フロントウィンドウの片隅に、丘の上に建つ研究所の建物が見えてくる。開発の進む住宅街を抜けた先。近代的なタイルのビルディングの本館と、現代的なコンクリート箱のような研究棟の一群が融合した奇妙な景色だった。

3

 アダムはセキュリティチェックを受けてから、研究所理事長の秘書の案内で連れて行かれてしまった。
 レオナはひとまず自分の研究室に帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
 と、デスクに着いていた初老の上司のウリエルがねぎらってくれた。
「大変だったね、空港まで往復二時間運転じゃ。公共交通機関で来てもらって旅費を支給すればよかったのに」
「そういうわけにもいかないみたいですよ、理事長のお考えでは。なにせあのアレクセイ・カミュの後継者の方ということで」
 レオナもデスクの椅子を引いて座って、やっとホッと一息ついた。
「モントさんは?」
 とウリエルに先輩研究員の居場所を尋ねた。
「サキ君のところに行くって言ってたよ。後継者さんは、今日はサキ君にも会うのかな?」
「さあ、私は聞いてません」
「後継者さんはどんな人だった?」
「なんというか――派手な人でした。実物で見ると余計に」
「あはは、ユーチューブのミュージックビデオで見るよりも?」
「実物は私が飼ってるインコみたいな色のネクタイしてました」
「いいね、ジュネさんは親近感が湧いたんじゃない? 歳も確か同じでしょう。お友達になったら」
――いえ、なんだか私は嫌われてるみたいでしたし」
「そんな、初対面でそんなことわかるわけないよ」
 と言いながらウリエルは腰を上げた。コーヒーをれに行くらしい。
「君も飲む?」
「あ、自分でやります」
 レオナとウリエルは部屋の隅に置かれたコーヒーメーカーからそれぞれにマグカップを持って戻った。レオナは砂糖だけ一本入れて、ウリエルはミルクと砂糖を二本も入れた。
「カミュさんは、たぶん私がライオネルのひ孫だったのが気に入らなかったんじゃないかなと」
 とレオナは言った。ウリエルはコーヒーを一口すすってから首をかしげた。
「でも、君たちのひいおじい様は確か」
「親友同士だったと私の家では聞いてますけど、向こうはそう思ってなかったのかもしれませんね」
「理事長が気を回して君を使者にしたのが裏目に出たのかな」
―――
 レオナはコーヒーを飲み干して人心地がつくと、ラップトップを開いて、作りかけの研究発表用のスライドを表示させた。
「ウリエルさん、私今日は午後もカミュさんを送って行かないといけないので」
「うん。こっちのことは気にしなくて大丈夫だよ。来週のヒアリングの資料は間に合いそう?」
「残り半分といったところなので、今週中には完成すると思います」
「無理はしなくていいからね」
 レオナは、やれやれとため息をついてラップトップに向かった。アレクセイ・カミュの左手が発見されて以来の騒然とした日々。とうとう彼の後継者までやって来て、それはいいけれど、だからといって他の研究や仕事がなくなったり先延ばしにされたりするわけでもない。
 一方、アダムは秘書の案内で、研究所の上層部エリアへ連れて行かれた。自動車で来るときに見えた古風なビルディングの中にそれはあった。内装も古いタイルの装飾がそのまま残っている廊下を、アダムは物珍しげに眺め回しながら歩いた。大理石の階段を上った二階に理事長室があった。
 理事長室では、学士院総合研究所理事長ロアと、黄金の契り教団首座祭司マグダがアダムを待っていた。
 アダムはそれぞれと握手をした。
「マダム・マグダの方はお久しぶりで――
 と、マグダの方へぎこちなく笑いかけた。白髪をショートカットにした老婦人のマグダも微笑んだ。
「本当に、久しぶりねアダム。昔のようにマグダおばさんでいいのよ」
「ありがとう、マグダおばさん――元気そうでよかった。ひいおじいちゃんの手の地鎮に失敗したって聞いたから」
「ほほ、早耳だこと。恥ずかしいわ」
 三人は応接椅子に座った。ロアとマグダが肩を並べ、アダムはその向かいの席に着いた。
 アダムがなにやら神妙な顔になり、
「学術界と宗教界と、それぞれのトップレベルの人が二人並んで、なんか不思議だと思って」
 と言う。
「それも、ある意味ではあなたのひいおじい様のおかげということになるでしょう」
 と、ロアが物静かな口調で言った。ロアは恰幅かっぷくのいい白い口髭ひげの男である。
「形式的な挨拶などは抜きにして本題に入りましょう。そのひいおじい様の手が、長らく行方知れずになっていたメイガスハンドがようやく見つかったのです。詳細は書面でお伝えした通りですが――盗品の美術品マーケットで取引されていたようです。最後の持ち主が亡くなったので、それによって表の世界に帰ってきたと」
「やっぱり、ひいおじいちゃんのたたりで死んだのかな?」
「いきさつはわかりませんな。ただ、メイガスハンドが周囲の魔力場に強い影響を与えるのは確かです」
「だから今は大聖堂で保管させていただいてるのよ、アダム」
 とマグダが後を引き取った。
「そのまま大聖堂に置いておくわけにはいかないんですか?」
 とアダムは尋ねた。マグダは首を横に振っている。
「大聖堂の中にあってさえ、すでに地脈が変わってしまっているわ。納めるにしてもやはり地鎮式をしてからでないと。私は創世展開までやって失敗したの――
「展開したアストラル体を維持できなかったとか?」
「ええ――そうよアダム。あなたのひいおじい様を前に臆したのかもしれない。自信がなかったのよ――
「マグダおばさんは黄金の契り派の筆頭魔術師じゃないですか」
「いいえ。あなたのお父様が生きていれば――私ごとき足元にも及ばないわ」
「父さんがね」
 アダムは表情をかげらせる。
「でも、元はと言えばその父さんが元凶なんだ。ひいおじいちゃんの遺言に従わず、ひいおばあちゃんが亡くなった後もひいおじいちゃんの手のミイラを大聖堂に納めなかった。挙げ句金に困ってそれをこっそり人に売っちゃってさ。ことがバレて教団からは破門。同じ血脈の俺だって当然そうでしょう。せっかく呼んでもらって悪いけど、今更俺ができることは何もないよ、マグダおばさん」
「あなたの破門を解きます、アダム」
 といっても、まだ教団として決定されたわけじゃないのだけれど――とマグダは申し訳なさそうに言い添えた。
「評決は今月中の予定よ。私がなんとしてでもあなたの破門を解除してあげます、アダム。だから、お願いよ、私たちに力を貸してちょうだい」

4

「私からもどうかお願いします」
 とロア理事長も懇請した。アダムは、旧知のマグダはともかくとして、なぜロアまでもそう熱心なのかわからなかった。
 かつては国内のあらゆる魔術師たちを統べていた帝国学士院。曽祖父アレクセイがいかなる経緯でその院長の地位まで昇りつめたものかアダムは知らない。インターネットのオープンな百科事典にも書かれていない。
 院長としての曽祖父は事実上帝国学士院を崩壊させたのだ、と百科事典には書いてある。第二次世界大戦の混乱の中のことだった。多くの枢機官が失脚し、学士院は魔術師の支配者としての力を失って都を追われた。今では辺鄙へんぴな場所に建つ研究所としてのみ存続している。その研究所の理事長に頭を下げられる理由がアダムには思い当たらないのだった。
「とりあえず、一度ひいおじいちゃんのところへ顔を見せに行ってこようかと思うよ。ていっても、手だけなんだけど」
 とアダムは言った。
 それはよいことだわ、とマグダがうなずいた。
「大聖堂には私の方から連絡しておきます」
「職員に送らせましょう」
 と言ったのはロアである。
「あ、それじゃ――来たときと同じ人を指名できないかな。ライオネルの子孫だっていう、あの」
「レオナ・ジュネですか。いかにも彼女はライオネル・ジュネの直系です。あなたのひいおじい様のアレクセイとライオネルは生涯をかけた友であったと聞いています。二人の後継者が現代に相まみえるのも運命かと思いましてね」
 ロアは一旦席を立つと、自分のデスクからデジタル式の写真立てを持って戻ってきた。その中に収められた一枚に、晩年のアレクセイとライオネルが並んで写っている白黒写真があった。
「当研究所の歴史を後世に残すための資料として保存されているものです。後ろに見えるのが建設中のこの建物です。この小柄な方がひいおじい様ですよ」
 アダムは写真立てを受け取ってまじまじとみつめ、
「若く見えるなぁ、ひいおじいちゃん」
 とだけ感想を述べた。
 研究所内のカフェテリアで昼食を済ませてから、アダムは再びレオナの運転する車中の人となった。
「悪いね、研究の邪魔して」
 と、午前の態度に比べると妙にしおらしいアダムの様子にレオナは内心首をひねっている。
「いえ別に、私は構いませんが――そういえばお体の具合はあれから大丈夫でしたか?」
 やっぱり体調が悪いのかなと思って、そう尋ねた。
 アダムは「大丈夫だよ」とかぶりを振った。
「優しいね、君」
「いえ、お客様に倒れられては私が困りますから」
 少し沈黙があってから、
「あのさ、ライオネルのひ孫の君に聞きたいことがあるんだけど」
 とアダムが、助手席から運転席のレオナの顔をのぞき込むようにして言った。
「君の家では、俺のひいおじいちゃんてどういう人だと思われてるんだ?」
「どう――と言われても。ええと、ライオネルの無二の親友だったと聞いてますが」
「それは俺もそう聞いてる。芸術好きのひいおじいちゃんと、帝都大学教授で学問好きの君のひいおじいさんと、全然違うタイプなのに不思議と気が合ったって」
「え、ええ。そうらしいです」
「俺のひいおばあちゃんがまだ生きてた頃、よくひいおじいちゃんの思い出話を聞かされたよ。いや思い出話というか、ひたすら惚気のろけ話というか――でも俺いまだにひいおじいちゃんがどんな人だったのかよくわかんないんだよね。芸術家肌でよき恋人で、悪い人じゃないのかもしれないけど、じゃあ世の中のために何をして、何を残した人なのかってな」
―――
 レオナの運転する車は山道を下り、市街地の中へ入る。次第に都心部へと近づいていく。ショッピングセンターや集合住宅の頭上に突き出した高層ビルの天辺てっぺんを仰ぐ。
 ロザリア連合王国の心臓部に位置する首都リリア。その都心からやや北へはみ出したところに、この国のシンボルたるローテュセア大聖堂は建つ。その一帯は旧市街の香りの残るテラコッタタイルの街である。
 アダムとレオナは駐車場で車を降りて、その古い土の匂いがする広場を歩いた。
「そういえば研究所の建物もこんな感じだったな、綺麗で古風なタイルのビルで」
 とアダムがつぶやく。レオナが嬉しげな顔でうなずいた。
「ええ、一番古い本館は。私も就職してからずっと好きなんです、あの建物」
「あれもひいおじいちゃんの趣味かねぇ」
 ローテュセア大聖堂の管理は古来より暗き者派と呼ばれる魔術師たちが担ってきた。最大の教派にして今なお世界中に教徒を増やしているという血の夜明け派に比べると、彼らや、それにアダムの属する黄金の契り派などはほんの少数にすぎない。今では滅びた教派も少なくない。
「マグダ首座祭司からご連絡を頂いております。ようこそいらっしゃいました、アダム・カミュ」
 と、アダムとレオナを大聖堂内へ案内してくれたスーツ姿の職員もやはり暗き者派の魔術師だと名乗った。
「学総研に寄ってからいらしたとか――あそこにも我々の数少ない同胞の一人がいます」
「あ、サキさんのことですね?」
 とレオナが言った。
「ええ。イゴール・サキという者です。我々の同胞は昔から宮廷魔術師を多く輩出してきまして、帝国崩壊後はその職の代わりに公務員になっている者が多いんですが、そんな中でイゴールは科学者を志した変わり者です。でも面白いやつですよ」
「レオナの友達?」
 と、アダムが脇から口を挟んでくる。
 レオナはあいまいにうなずいた。
「友達というか、同じ年に学総研に入った同期で――歳は向こうが年上なんですけど。アダムもそのうち会うことになるはずですよ」
「? ふうん」
 大聖堂内部、歴史的遺産の大礼拝堂や美術館になっているエリアを過ぎて、プライベートエリアに入ると、もはや旧時代の香りも失せ現代的な設備に改装されており、一見して宗教施設というよりは閉鎖的な病院のような感じがした。エレベーターで地下二階まで下りるといっそう冷たい空気を感じる。
 プライベートエリアに入る前、アダムとレオナはセキュリティチェックを受けていたが、地下の保管庫に入る前にさらに国民識別番号カードの提出と指静脈および虹彩こうさいによる生体認証を求められた。
 先にレオナが通過し、それからアダムもIDカードを壁面のセキュリティデバイスにタッチした。
「俺、教団からは現状破門状態なんだけどいいのかな?」
「構いません、国のデータベースに魔術師として登録されていれば。右手中指をこちらに。眼鏡を外して正面のスキャナーを見てください」
「はいよ」
 そのような手続きを経て、アダムとレオナはようやくアレクセイの左手に“面会”を許された。

5

 地下保管庫の中はさらに複数の部屋に別れて、各部屋ごとに種々の聖遺物が分類され納められているのだと、暗き者派の魔術師は教えてくれた。
 アレクセイの手は生体組織が納められた部屋にあるという。暗き者派の魔術師が先に立って案内してくれた。
「なんか祭壇ってよりバイオハザードの研究所みたいだ」
 とアダムが感想を述べたのも無理はない。照明の少ないほの暗い室内には大きな聖水の水槽がいくつも並んでおり、ミイラやら、臓器らしい肉塊やら、何の生き物だがわからない嬰児みどりごの遺体やらが、それぞれ個別に石英の箱にしまわれて水中に沈められている。
「レオナ、大丈夫? 結構グロいよ」
 レオナは三人列になった一番後ろを歩いていた。こういったおどろおどろしい光景はあまり得意でないらしい。長身のアダムの背に隠れるようにぴったり後へ張り付いている。
「あの、気分が悪くなったようでしたらおっしゃってください」
 と先頭の魔術師が気遣ってくれた。
「い、いえ大丈夫です。今のところ――
「わっ!!
 と、アダムが急に大声で脅かしたりなどするので、レオナはうつむいて恨めしげな顔をしていた。
「臆病なライオンだなぁ」
 とアダムは笑ってから、
「それにしてもここにあるのは、みんなこんなに厳重にしまっとかなきゃならないようなヤバい代物なわけで?」
 前を行く魔術師に尋ねた。彼はうなずいて答えた。
「体の組織が残っているものは特別です。ほとんどがロゴスウイルスに感染しているので」
「死んでるのに?」
「ええ――まあ私は生体魔術の専門家ではないので詳しいことは知らないんですが」
 やがて三人は足を止めた。
「こちらです」
 と魔術師の指す水槽の中をアダムとレオナはのぞき込んだ。
「久しぶり、ひいおじいちゃん」
 とアダムが、低い声で、左手首から先だけの姿をした曽祖父へ挨拶した。その隣でレオナは息をんでいる。
「レオナは見るの初めて?」
「いえ――二回目ですけど、何度拝見してもドキッとします。まるで生きてるみたいで――
「綺麗だろ」
 アダムが言う。
 アレクセイの左手は今しがた切り落とされたばかりのように色白でみずみずしかった。それでもいくらか水分が抜けて骨の浮き出した細い指に、指輪をいくつもはめている。
「薬指のが結婚指輪で、中指の翡翠ひすいの指輪がひいひいおじいちゃんからの血脈の指輪だったかな。あとは何だったか忘れた――よく指輪全部残ったままで見つかったもんだと思うぜ」
「IDのなかった昔の方はこういうもので魔術師の家系の証明をしたんですね」
「俺がまだ子供だった頃は、ひいおばあちゃんがこれを守ってたんだ。ひいおばあちゃんも黄金の契り派の魔術師だった。俺も何度か見せられたことがあるよ。子供心にはちょっとトラウマだったよなー。そりゃひいおばあちゃんにとっては愛しい夫の手かもしれないけどさ」
「あの、ひいおばあ様が守っていらした間は、何も起きなかったんですか?」
「そうだなぁ、その間の不幸らしい不幸といえば、母さんが出ていっちゃったことくらいかな」
 と、アダムは冗談らしい口調で言ったが、レオナは返答に困ってしまった。彼女がもじもじしてるのを見ると、アダムも憐れな気持ちを覚えるらしい。バツが悪そうに言った。
――いやま、ともかくひいおばあちゃんもいっぱしの祭司だったんで、こういうものが地脈を乱すことや、地脈の乱れが人間の体や心に影響することはよく知ってた。ひいおばあちゃんが元気な間はひいおばあちゃんが、寝たきりになってからは俺の父さんが定期的に地鎮をしてたよ」
「アダムもその地鎮の儀式を行うんですよね」
「うん。たぶんな――
 アダムは少々表情を曇らせ、
「マダム・マグダでも失敗したっていうのが気がかりだけど」
 もう一度アレクセイの手をまじまじと見つめた。
 あまり長い時間この場所にいることは許されないとのことだったが、アダムは促される前に自ら退室した。
「ついでに墓参りもして帰ろうかな」
 その足で大聖堂の地下霊廟れいびょうへ立ち寄った。
 霊廟への出入り口はプライベートエリア側にはないとのことで、アダムとレオナは来た道をまた戻らなければならなかった。その道々、アダムは自分の教派での死者の弔いについて簡単に語った。
「黄金の契り派ではさ、もともと祭司の墓は作らなかったらしいぜ。火葬にするから。でも一番古い方法はミイラにすることなんだって。特に力の強い魔術師は体の一部をミイラにされて取っておかれた。で残りは焼くわけね。帝国が魔術師を支配してる間は、ミイラ作りは禁止されてたみたいだけど、ひいおじいちゃんが死んだのはちょうど帝国も崩壊する頃だったから」
「ああそれで、ひいおじい様の手もミイラにされたんですね」
「なんでそんな気持ち悪いことをしたがるのか俺にはわかんないけどね」
 地下霊廟れいびょうの入退出も国民識別番号で管理されている。入り口でIDカードをセキュリティデバイスにタッチして、登録された墓地の番号が印字されたチケットを受け取るとようやく入場である。
 カミュ家の近親者たちは、地下一階の明るい照明に照らされた一角に小ぢんまりと埋葬されていた。壁面、床面ともテラコッタを敷き詰め、墓標には切り出しの白い石板を置いてある平均的な格好の墓地である。
 アダムの父、祖父から、曽祖母、それに曽祖父アレクセイまで、母を除いた家族の遺骨は皆ここに納められていた。
「ひいおばあちゃんだけはめちゃくちゃ長生きしたんだよな。十九世紀末に生まれて俺が小学校に入るまで生きてたもん。百歳は超えてたね――ひいおばあちゃんが死んだときのことはいまだに覚えてる。初めは軽い風邪だったのが肺炎になって、呼吸器着けて、嬉しそうに」
 と、一族の眠る地面を憂鬱な目つきで見下ろしながら言う。
「ひいおじいちゃんがようやく天国から呼んでくれたんだって、本当に嬉しそうに死んじゃったんだ」
 アダムは自分もいずれ体を焼かれて骨だけが残り、ここに眠るのかと思いをせ、むやみにさみしかった。
 墓参りも済んで晴れた地上へ戻ると、
「こちらではホテルに滞在されるんですか? お送りしますよ」
 とレオナが申し出てくれたのをアダムは断った。
「そこまではいいよ。久しぶりに地下鉄にでも乗って帰る。実家はこっちにあるからさ」

6

「イゴール・サキです」
 アダムが地鎮の魔術を執り行うにあたって、準備に必要な地脈のデータや装置類は学士院総合研究所から提供を受けられるとのことであった。その際にアダムの補助を務めてくれるというのが、暗き者派の魔術師イゴールだった。
 レオナの同期だが歳は五歳年上だという彼は、年長者らしく落ち着いているというよりは陰気な男である。ぼそぼそと自分の名前を名乗ったばかりであとは突っ立っているので、対面しているアダムが首をひねっていると、
「……あなたは賓客ですから、あなたの方から握手の手を差し出してくれないと」
 と、イゴールはまたぼそりと言う。
「あ、ああ、そう」
 アダムは右手を出した。イゴールはすぐにその手を取って力強い握手をしてくれた。
「以後よろしくお願いします」
「どうぞよろしく」
 手を握り合ったまま、アダムはイゴールの黒い髪や黒い瞳を眺めた。国立研究所の研究員に相応しい身だしなみとしてはギリギリの長さまで伸ばした黒い前髪が、東洋の血を匂わせる一重まぶたの裾へ届いている。
「出身はアジアの方?」
「親が片方日本人なんですよ」
 イゴールは聞かれ慣れているという顔をしている。
「『サキ』は日本のファミリーネームだそうで……『イゴール』はチェレンコフ放射光を解明したイゴール・タムと同じイゴールですね……ちなみに……チェレンコフ光を発見・解明したのはイゴールの他にパーヴェル・チェレンコフとイリヤ・フランクという人たちで……」
 と、陰気ながら案外おしゃべり好きらしい。
 アダムは、イゴールのことをなんだか頼りになりそうな男だと好ましく思い、それを口にも出した。
「ドラマやゲームでヒーローを助けてくれるオタクは頼りになるって相場が決まってるもんな」
「研究所がゾンビに襲われても僕は生き残れそうです……ではそろそろ実験室の方へ行きましょうか」
 研究室での挨拶を終えた二人は、イゴールの案内で、数値解析用の計算機が所狭しと並べられた実験室へやって来た。
「すごいな、スパコンとかあるの?」
 とアダムがはしゃいだ声を上げる。
「どれもGPUを積んだただのパソコンです……こっちへ来て座ってください」
 イゴールは窓際に置かれた二十七インチのディスプレイの前に座り、アダムもその隣へ椅子を置いて着席した。イゴールがキーボードとマウスを引き寄せ、エンターキーを押す。ディスプレイの電源が入って解析ソフトウェアのユーザーインターフェースが表示された。
「都心部の魔力場……黄金の契り派の呼び方では“地脈”ですね……は、あらかじめ計算した結果があるのでそれを見てください」
 イゴールは、リリア都心の衛星画像と、それに重ね合わせた魔力場の分布図を示した。魔力場の分布は白、クリーム、黄、だいだい、赤、紫の六色で色分けされている。天気予報の雨雲の分布図に似ている。
「……でこっちが六ヶ月前の分布です」
 と同じ場所の過去の分布図も小さなウィンドウに表示させて並べる。
 アダムは二つの図を見比べた。大聖堂の周辺で明らかに差異がある。半年前までは一帯黄色に染まっていたのが、今では赤色に近い。
「マダム・マグダが言ってた通りだ。地脈が変わっちまってる。ひいおじいちゃんの手は大聖堂の地下にあるってのに――
「これはメイガスハンドからの魔力場放射量予測」
 とイゴールは次々新しいデータを提示する。
「測定法は光置換法。レオナの研究室で実施してもらいました。あなた方の呼び方では“アストラル体”に近いかもしれません。完全に一致するわけじゃありませんが……」
「詳しいな、俺たちの教派のことに」
「昔研究テーマにしていたことがあるので……ただのコンピュータオタクじゃないですよ。研究者なので」
「専門分野は?」
「生体魔術」
 とイゴールは答え、アダムの顔を見た。
「あなたに会えて光栄だと思っているんです。スルト先生のひ孫に当たると聞きました」
――ひいおばあちゃんの方の名前を出す人は珍しいよ」
「現代の生体魔術のいしずえを築いた研究者の一人ですから。ロゴスウイルスの発見までは到らなかったものの、微生物研究で重要な実験結果を多く残した先生です」
「うん、ひいおばあちゃんは家で寝たきりになった後も、ベッドのそばにいろんな植物を置いて実験や観察するのを楽しみにしてたよ」
「それを聞かせてもらえただけで、あなたに会った価値がありましたね……」
 イゴールは陰気な表情を少し和らげて、笑ったようであった。
「僕も以前は生体の研究をしてたんです……いろいろあって今はここでAIを使ったシステムの構築とかをしてるんですが……この魔力場分布も衛星画像からAIで求めてるんです……昔は魔術師が手作業で地形や建物を調べていたのを、今ではあらかじめAIに学習させておいて判定するっていう……」
「地脈を調べるのは俺も見習いの頃にやらされたけどめんどくさかったわ。いい時代になった」
 アダムは改めてイゴールが用意してくれたデータを眺めた。
「ところで、このひいおじいちゃんの手のアストラル体なんだけど」
「魔力場放射量予測」
「アストラル体ってつまり――肉体にあたる物質体に対して精神とか意識とかにあたるもののはずなんだよ。生きてる人間が持ってるもので、魔術師はそれをコントロールして魔術を行うわけ。んで、死んだら大地にかえる」
「はい」
 アダムは何度もグラフを見直しては首をひねっている。
 魔力場はエネルギースペクトルのグラフで表される。魔力場の放射がなければ、グラフはほとんど平坦な一本のラインになるはずであった。
――どう見てもこれアストラル体が出てるよな?」
 アダムが指差す先にはグラフのピークを表すとがったラインが存在している。それはすでにミイラ化しているはずのアレクセイの左手からなんらかの魔力的エネルギーが生じていることを示すに他ならない。
「生きてるんじゃないですかね、ひいおじいさん」
 と、イゴールが真面目な顔で言った。アダムが言葉を失っていると、
「……今のは生体魔術研究者的ジョーク。ひいおじいさんは亡くなってると思いますよ。ただし魔力の発生機構だけがまだ生きてる」
 とも言い添えた。

7

 学士院総合研究所の本館に設けられたカフェテリアは、昼食時になると職員たちの姿でにぎわう。セルフサービスのサーブラインに色とりどりの料理の入ったコンテナが並んで、それぞれ好みや思想、体調に合わせた食事を選べるようになっている。
「今週はベトナミーズフェアらしいですよ」
 とイゴールは口ではそう言う割に、自分の皿にはサンドイッチや加工肉をいくつも取り、それに角切りのフライドポテトを山盛りにしている。明るい窓沿いのカウンター席に着くと、サンドイッチの間にハムやソーセージを追加で挟んでかぶりついていた。
「トランス脂肪酸を信奉する人間にも配慮した食事を選択できるようにしてほしいですよね……」
「不健康だなぁ」
 と、隣席に着いたアダムはバインセオ(ベトナム風米粉クレープ)にグリーンサラダをたっぷり添えて健康志向らしい。イゴールの激しい食欲と、それとは対照的に骨と皮ばかりのような体つきとを交互に眺める。
「よくそのほっそい体型維持できるな。スポーツでもしてる?」
「いえ全然……これでも昔は食べた分だけちゃんと実になってたんですけど、一度病気で倒れて以来こうなりました」
「そりゃ体も壊すって」
「………」
 アダムも威勢よく食べ始めた。バインセオの中程を割って、中に包まれた具と皮を一緒にサラダへ載っけて野菜で包んで手で持って頬張る。イゴールと並んで食べることに専念していたところ、
「隣に座ってもよろしいですか?」
 と後ろから声をかけられた。アダムが口元を拭ってから振り返ると、レオナがいた。
「あ、レオナ」
「やあ……」
 と、イゴールも食べる手を止めてごくごく短い陰気な挨拶をした。
 レオナはイゴールの隣の席に着いた。彼女の昼食のトレーにはサーモンの生春巻きと、蒸し鶏を載せたココナッツ風味のライス、ネギを浮かべたスープが並んでいた。
「レオナ、よく僕たちを見つけられたね……と言おうかと思ったけど、まあ見つかるよね……」
 とイゴールはアダムの派手な風体のことを言った。
 レオナは、ははと笑ってごまかした。
「えーと、二人とも午前のお仕事は順調でしたか?」
「とりあえずアダムに装置の使い方を覚えてもらうだけで、今日は終わりそうかな」
「なあレオナ、俺のひいおじいちゃんの手のミイラってまだ生きてるんだって」
 とアダム。
「測定結果をご覧になったんですね?」
 と、レオナは察しがいい。
「あれは、私も初めて見たときは驚きました。だってひいおじい様はお亡くなりになっているとばかり思っていたので」
「レオナも……よかったら午後からはこっちの研究室においでよ……ヒアリングの準備で忙しくなければだけど」
 とイゴールが誘った。イゴールは、レオナに対してはなんとなく優しげなまな差しを向けているようだと、アダムは思って、
「二人はもしかしてイイ感じだったりするの?」
 と遠慮なしに聞いた。
 レオナは飲んでいたスープが変なところに入ったらしくしきりにき込んだ。
 イゴールは別段顔色も変えずに、
「まあ少なくとも……僕は好きだと思ってますよ」
 と言う。
「でも僕は非恋愛主義なので……」
「なんだそりゃ」
「僕の愛は女性にもポテトにも平等だってことです。愛情とは僕にとって一般化された概念であり、フラットであり、それに恋愛だとか食欲だとか名前をつけて区別しない」
 イゴールはなにやら小難しい説明をした。痩せた指先でフライドポテトを一つつまんで、愛おしげに口の中へ放り込んだ。
「む……ようするに、別に人間嫌いではないですが、人と恋愛的な関係を築きたくないってことですね……」
「ふーん」
 と、アダムはうなずいて、特にそれ以上どうこう言うこともなかった。
 イゴールはアダムにも同じことを聞いた。
「あなたはイイ感じ﹅﹅﹅﹅な相手がいるんですか?」
「俺? いないよ。こっちには帰ってきたばっかりだし」
「学校の友達とか……」
「ずっと音楽学校に行ってて地元の学校に通ってない」
「ああ、そういえば本職は音楽家だって聞きましたよ」
「バイオリン奏者なんだ、これでも」
 アダムはスマートフォンの画面をイゴールに見せて、音楽配信サイトやSNSのホームページを教えた。それからついでにメッセージングアプリの連絡先を交換した。
「レオナもよかったら教えてよ」
 とアダムはレオナにも言った。
 レオナは寝耳に水といった顔になった。
「えっ、わ、私もですか」
「無理にとは言わないけど。セクハラだと思われたら嫌だ」
「はぁ、いえ、私は構いませんけど――
 アダムはレオナとも連絡先をして満足そうである。レオナはアプリに登録したアダムのアカウントを眺め、
(どうして私の分まで聞かれたのやら)
 と内心首をかしげている。初対面の印象ではあまり好かれていないのだろうと思っていたのだけれども。
(社交辞令なのかな?)
「レオナは彼氏いるの?」
「いません」
「じゃあ今度デートしような」
――これも社交辞令なんだろうか?)
 午後になると、アダムとイゴールは研究室でレオナが来るのを待っていた。やがて、レオナが姿を見せ、彼女はモントという名前の主任研究員の先輩を伴っていた。
「やあ、あなたがアレクセイ・カミュの後継者ですか。どうぞよろしく」
 四十男でいささか太り気味のモントは、チョコレート色で手のひらだけが白い柔らかい右手を差し出してアダムと握手をした。
「よろしく」
「メイガスハンドの魔力場予測をご覧になったと聞きました。あれを測定したのはジュネさんと僕なんですが、僕たちも驚きましたよ。魔力場が放射されているということは、つまり体組織内でロゴスウイルスが活動している――ということですよね?」
 モントは語尾を上げながらイゴールの方を見た。生体魔術研究者としての彼に尋ねたようである。
「メイガスハンドの組織はミイラ化してて……さすがにウイルスが増殖できる細胞の状態ではないはずなんで、活動してるって言い方が妥当かはわからないですけど……魔力エネルギーを発生させて魔力相互作用を伝達する能力があるって意味ではそうですね」
 とイゴールは答えた。
「僕たち魔術師の発する魔力の源が、数千年前の祖先に感染したウイルスの遺伝子にあると発見されてからもう随分と経ちますけど、こんな現象が現れたのは少なくとも記録に残る限りでは初めてだと思いますよ……」

8

「はるか昔の……魔術師の始祖は鳥だったんじゃないかっていう説が近年の主流ですね……」
 とイゴールは続けた。
「ゲノムを調べると、いくつかの種の鳥が保有する内在性レトロウイルスの中にロゴスウイルスと同じグループのものが見つかってます……それに歴史的観点から言っても……」
 アダムの顔を見る。
「黄金の契り派は現存する魔術の教派ではかなり古い方ですね。あなたがたは、人間は天から下りてきた御使いに魔術を授けられたと考えてる……」
「そうだな。それに俺たちのルーツの北部地方には、もっと直接的に鳥を信仰してる教派もあったらしいぜ。今はもう滅びたって聞くけど」
「あの辺りが魔術の始まりの地なんでしょうかね」
 ええと、脱線しましたが……とイゴールは仕切り直した。
「つまり鳥なんです……数千年前、ある鳥の体内で、あるウイルスの突然変異が起こったことが全ての始まり。よくある変異です……それまで鳥同士でしか感染しなかったウイルスが人間に感染する力を獲得した。そして宿主を人間に変え、長い年月をかけて感染が拡大していった」
「ゲノム解析でそこまでわかるものなんですね」
 と言ったのはレオナ。
「うん……あらゆる生命の遺伝子には歴史が刻まれてる。たとえば人間はヒトゲノムの中に内在性レトロウイルスの遺伝子の欠片かけらを十万個くらい持ってる。先祖たちが気の遠くなるような年月をかけてウイルスの感染と戦ってきた遺物だね……世界中の生き物のゲノムを丁寧に比較していくと、あるウイルスの遺伝子を保有しているグループ、その変異体を保有するグループ、保有してないグループ……といろんなバリエーションがあるのがわかるんだ。そしてそのバリエーションから、ウイルスがいつ、どこで、何から感染したのか推測できるんだよ」
「まあ俺たち魔術師が生まれたときからウイルスと仲良しこよしだってことは、今日び小学生でも知ってる」
 アダムが口を挟んだ。
「毎年定期検診で血液検査受けて血中なんたら濃度を調べて、エコーでメイガスハートの大きさ測られて、って子供の頃は嫌だったよな。そんでそのうちグレード5だの6だのって検査結果が送られてくる――
「……そういったわずらわしいことはありますけど、ロゴスウイルスのおかげで僕たちは魔力を操る能力を得たわけですから。生物がウイルスを利用して新たな力を獲得するのは自然の中でもよくあることです……シネココッカスという微生物はウイルスの遺伝子で光合成を行うし、人間の女性が妊娠して胎児とともに胎盤を形成するときに内在性レトロウイルスの遺伝子を使ってるって研究もある……」
「魔術を行うときもウイルスに手伝ってもらってるのか」
「ロゴスウイルスは神経系で発現して各種のタンパク質を作らせ、それと同時に……ちょうど心臓の裏辺りに……魔術師の心臓メイガスハートと呼ばれる器官を形成するんです」
 イゴールは右手の人指し指で自分の胸を指す。
「メイガスハートが魔力の励振器官として働いているらしいんですが、その仕組みについて詳しいことはまだわかってない……それを解明することは現代の生体魔術学の悲願の一つでしょうね……」
「どうやって?」
「いろいろアプローチはありますよ。その一つが人体の発する魔力場を物理的に計測しようっていうので……」
 と、レオナとモントの方に顔を向ける。アダムも彼の視線を追った。
「……彼らがその分野で国内最先端の現場にいる人材」
大袈裟おおげさですよ、サキさん」
 とレオナが困ったような顔をしている。
 アダムがいやいやとかぶりを振った。
「だって事実なんだろ? 自信のある顔見せてよ、頼りにしてるんだから」
「あぅ――す、すみません――
 レオナの脇で先輩のモントがにこにこ笑いながら、
「メイガスハンドの測定結果について説明して差し上げるといいよ」
 と促す。
「間違ってたら教えてあげるから」
「はぁ」
 それでも今ひとつ自信の湧かない様子ではあるものの、レオナはアダムの方を向いて話し始めた。
「魔力を媒介する素粒子を魔力子メイジオンと呼ぶわけですが――
「待って」
 としかし、アダムは一旦ストップをかけた。
「できれば専門用語抜きでみ砕いてお願いしたい」
「あ、えー、ええと――私たちが人体から放射される魔力場を測定するときには、魔力エネルギーから変換された光を観測することが多いんです。すると、サキさんが言ったように、メイガスハートが魔力の発生の中心になるんですが――手足のような末端部からも放射がないわけじゃありません」
「普通の魔術師でも?」
「ええ。ただ普通の人の場合は、メイガスハートからの放射が始まった後に末端部の放射が現れます。ひいおじい様の手、メイガスハンドはそれだけで魔力を発生させているから規格外なんです」
 そこまで言い終えてレオナはモントの表情をうかがった。モントがうなずいて見せると、ほっと胸をで下ろしたようである。
 アダムもご存知だと思いますけど――とレオナは言い添えた。
「メイガスハンドの組織の一部は学総研の生体研究部門や王立生化学研究所に提供されました。ひいおじい様の体の中で何が起こったのかは、そちらでの解析結果を待つしかない思います」
「僕は……メイガスハンドからロゴスの変異体が山のように見つかると思うんだよね……ただの直感だけど……」
 と、イゴールがぼそぼそと付け加えたが、その意味するところは不明だった。
 少し休憩を取ろうと、レオナが研究室を出たところへアダムが追ってきて、
「なあ、イゴールって何者? 専門は生体魔術の研究だとは言ってたけど、じゃあなんで今はここでパソコンのおりしてるんだ。本人に聞いても大丈夫なことかな」
 と尋ねた。
 レオナは少し戸惑った顔色になったものの、答えてくれた。
「サキさんも隠してませんけど、元々は王立生化学研究所の方にいたそうですよ。病気がきっかけで転職したと聞きました」
「王立研究所」
「ようするに、王室直属です。研究者のスーパーエリート――だった、みたいな」
「ゾンビに襲われても生き残る自信があるって言うだけはあるのな」
「何の話ですか?」
 レオナが自分の研究室へ向かうと、その後をアダムはついて来る。
「迷惑?」
「いえ構いませんけど、見て面白いものは何もないですよ。コーヒーくらいなら出せます」
「ありがとう。お茶に誘ってもらったお礼に一緒に晩飯でも――と言いたいけど、俺この後大聖堂にも行かなきゃならないんだよな。残念だ」
 レオナは気恥ずかしそうにうつむきがちになって歩いた。
 アダムはレオナの様子には気がつかず「今日はレンタカーで来たんだ」とか「もうすぐ愛車のトヨタもこっちに引っ越してくるんだ」とか、そんなことをとりとめなく話していた。

9

 その日アダムが学士院総合研究所を引き上げて、ローテュセア大聖堂を訪れたのは夕方近くもなってからのことだった。
 旧市街の古い土でできた建物は、低い日差しを受けて暗示的な形の影を地面に落としていた。中でも大聖堂は巨大で緻密な陰影の中にあった。
「ごめんなさい、マグダおばさん、すっかり遅くなった」
 大聖堂の内部でアダムは黄金の契り教団首座祭司マグダと再会した。
 聖堂内への入場者を出迎えてくれる広大な身廊は、奥部に残る中世の壁画の周囲を除いては一般に公開されていた。立ち並んだ柱が側廊へ導くアーケードの開放感、遠い天井近くに連なるクリアストーリー(窓列)から採り入れられた光が身廊の隅々へ行き渡る。身廊は信徒たちのための場所である。魔術師たちの執り行う儀式の間そこへひざまずいて祈りをささげたり、あるいは単なる集会所や災害時の避難所としても役立てられた。
 マグダは入場口のそばの洗礼室でアダムを待っていた。
 洗礼室へ一歩入ると、正方形の部屋と同じ形の水路が床面に引かれていた。一辺に小さな橋が渡してあり、それを渡って中央に大型の水盤が設けられている。水盤は白い石を切り出して作られた古い時代のものだった。上から見ると八角形で、大人が一人体を浸せるほど大きく、六本脚で支えられた杯の形状だった。マグダはそのそばにたたずみ、縁まで水をたたえている水面を見ていた。
「アダム」
「随分待った?」
「いいえ――
 と答えながらも、マグダはどこか疲れたような顔色をしていた。アダムは心配して、マグダの顔をのぞき込んだ。
「大丈夫ですか――?」
「近頃、少し疲れやすいの。もう歳ですからね」
「今日は取りやめにして帰ろうか? 俺車で来てるから、送りますよ」
「いえ、大丈夫よ」
 マグダは気丈に振る舞っているが、老齢になって彼女が痩せ衰えつつあるのはアダムにもわかっていた。今はコートを着込んでいるから目立たないけれど――
 マグダは話題をそらすように、
「今日は学総研の方にも行ったのですってね。どう? ちゃんとやれている?」
 とアダムへ尋ねた。
「レオナとイゴールっていう俺と同年代の科学者が二人いて、親切にしてくれる。今日は地脈を解析するソフトの使い方を教えてもらって」
「よかった。教団もたびたび彼らの支援を受けています。そのソフトウェアも教団との共同研究で開発してもらったのよ。きっとあなたの役に立つわ」
「教団でもそんな学術的なことをしてるんですか」
「不思議はないわよ。教団の設立者とも言えるあなたのひいおじい様自身研究者だったことを忘れたの?」
――そういやそうでしたっけ。学士院会員の研究なんてほとんど形式的なもんだったって聞いてるけど」
 二人は連れ立って洗礼室を後にした。
「ひいおじいちゃんが優れた研究成果を残したなんて話はちっとも聞かないし――まあその点については俺も学問方面は全然だけど。今日もレオナやイゴールがロゴスウイルスのことや最先端の研究のことをいろいろ教えてくれたけど、半分も理解できたか怪しいな。でもSFの登場人物になった気分で結構楽しかった」
「さっそくいいお友達ができたみたいでなによりよ、アダム。恥ずかしがり屋さんだった子供の頃とは見違えたわね。昔は私が家を訪ねるたびに、あなたのお父様がどこかに隠れているあなたを探しに行っていたわ」
「いやだなぁ、よしてよ」
 アダムははにかんで笑い、マグダは昔を思い出しているように目を細めて微笑ほほえんでいる。
「仕事の方はどう?」
 ともマグダは尋ねた。アダムは小首をかしげて見せた。
「バイオリン弾きの?」
「ええ、バイオリニストの」
「どうもこうも。当面は活動休止。キャクタシリアのバンド仲間ともお別れ会してきた」
「そうなの――あなたのバイオリンの演奏、私は今も大好きよ。インターネットで公開されてる動画、全部見てるわ」
「俺たちのバンドの動画の数少ない再生数を増やしてくれた一人ってわけ――いや、ごめんなさい、嬉しいよ。本当に、マグダおばさん」
「いつかまたバイオリンを弾いて聴かせてほしいの。子供の頃みたいに」
「もちろん、おばさんのためならいつでも好きなだけ弾いてあげるって」
 とアダムは勢い込んで言った。マグダは少し疲れやすいだけだと言うが、それにしても彼女の様子は弱気に見えた。いつかまた――と言うのも、まるでもう二度とそれが実現しないと思っているような、そんな調子に聞こえた。
「おばさん、やっぱりまだ地鎮に失敗した後の体が直りきってないんじゃ――?」
 二人は肩を並べ、身廊を奥へ奥へと向かって歩いていく。アダムはマグダを気遣いながら彼女に歩調を合わせていた。
「そうねぇ。そうかもしれないわ――アダム、絵を観て行きましょう」
 身廊の最奥部、ソーニーゲート(いばらの門)と名付けられたアーチを通るにはセキュリティチェックと国民識別番号の認証が必要だった。
 それより先は魔術師たちのための場所である。ゲートをくぐることが許されると、その先は身幅が狭くなっており、中世の姿のまま保存されてきた壁画が両側に連なって、礼拝堂群の集まる内陣へ魔術師たちを導く。上部の窓にも鮮やかなステンドグラスがそのまま残っている。壁画のモチーフは救世主や聖人たち、天の御使いたちが主であった。
「この辺りは血の夜明け派が教王をいただいていた十六世紀の初め頃までの建築よ。絵の題材だけでなく、長方形の窓の形やステンドグラスもその時代の特徴だわ」
 マグダは壁画一つ一つの前で足を止めて、それらの細部に渡る説明をアダムへ与えた。マグダの知識は膨大かつ正確で記憶に一片の不確かさもない。黄金の契り派の魔術師としては珍しくないことである。
「新しい時代が来るたびに、権力を持った人間がこの大聖堂を造り変えてきたのよ。補修や建て増しのためだったり、自らの権威のために前時代の象徴を破壊したり。増改築を繰り返されたせいでいびつになってしまったという人もいるけれど、私はそのいびつさが好きなの。人間に似ているわ」
―――
 大聖堂の身廊は胴体に、壁画の間は首に、そしてその先の内陣は頭部にあたるだろう。大聖堂全体は北に頭を向けて横たわる嬰児みどりごのような形をしている。
 首の髄を上って頭部へ到着したところ、内陣の手前にはブリッジ(陣橋)と呼ばれる控えの間がある。そこでアダムとマグダは一旦別れた。
「アダム、祭服はこちらの管理室へ預けてきているわね? 支度が整ったらもう一度ここへいらっしゃい」
 大聖堂を管理する暗き者派の職員の案内でアダムは沐浴もくよくして身を清め、白い祭服でその体を覆った。

10

 ウロボロスの蛇のベルトが付いた白いローブを着、鼻先から下を全て覆い尽くす白いケープを重ね、血脈の金の宝冠を着ける黄金の契り派の魔術師の姿は今も昔もほとんど変わっていない。
 アダムが先に支度を終えて薄暗いブリッジで待っていると、やがてマグダも同じ祭服姿でぼんやり浮かび上がるように現れた。宝冠だけがアダムとは異なる意匠で、二本突き出した大型の山羊角が斜め後ろに向かって巻いており種々の宝石で飾られている。
 二人ともケープで覆われた口元からの声は不思議とよく通った。
「マグダおばさんはどうして弟子を取らないの」
 とアダムは聞いてみた。宝冠は生涯唯一の弟子が一人前になったときに譲り渡されるのが慣例だった。
「結婚しなかったからよ」
 とマグダは答えた。アダムは満足しなかった。
「別に、弟子は実の子供じゃなくたっていいじゃない。俺だってひいおじいちゃんまでさかのぼれば――
「私たちは、例えば血の夜明け派のように、必ずしも永劫えいごうの繁栄をよしとするわけじゃないの。だって、私たちは収束しなくては」
 というマグダの返答に、やはりアダムは腑に落ちない思いがあったが、続きを尋ねる前にマグダが言った。
「お父様に似てきたわね――アダム、特にあなたのその翡翠ひすいのような目元」
「やめて」
 アダムはマグダから顔をそむけた。普段は眼鏡をかけているが祭服を着るときはかけない。守ってくれるものがないような、頼りない気分だった。
「そろそろ始めましょうか」
 と、マグダがそっと促す。
 二人が今日ここへ来たのは、アダムがアレクセイの手の地鎮を執り行う習式のためだった。予行演習のことである。本来ならアダムの師たる父親が監督するはずだが、すでに故人であるがゆえにマグダがその代理を務めてくれたのだった。地鎮式を取り仕切ることになるアダムがその手順をおさらいする、というほどの内容である。
 アダムがいまだ教団から破門されている事情を鑑みて、習式は大礼拝堂でなく簡素な小礼拝堂で済まされた。祭壇への祈り方、術具の取り扱いなどを一通りマグダに確認してもらい、術式の選択や進め方について助言を受けた。
「アダム、創世展開を行うのね?」
「そのつもり――おばさんが失敗したときの話、何が起こったのか、差し支えなければ聞いておきたいんだけど――
「ええ、もちろんよ」
 とマグダは請け負ったが、いくらか顔色にかげりがあるのは否めない。
「話したくないなら無理にとは」
「いえ、どこから話したものかと考えているのよ――私は――アレクセイ・カミュの左手をささげ持って大礼拝堂の祭壇に登りながら、そのときになってなお自信がなかったの――
 マグダは語った。といっても伝えるべきことはそう多くはない。
「特別なことは何もしていないわ。解錠を終えてアストラル体の展開に入った後、急に、祭壇の手から私の体の中へ別のアストラル体が入り込んでくるような感覚に襲われて咄嗟とっさにチャクラは守ったけれど――展開が中断したせいでそのまま倒れてしまって」
「大丈夫だったの?」
「すぐに生命維持装置が働いて意識も戻ったから、幸い大事には至らなかったわ」
 マグダは思案げな目をして、背の高いアダムの顔を見上げた。
「後になって思えば、あれは――“交歓”だったのではないかしら――――
「“交歓”って何?」
 とアダムは首をかしげた。マグダはハッとした目になり、次にはなにやら気恥ずかしそうなそれに変わった。
「そう、あなたのお父様は、あなたに教えなかったのね」
「みんな知ってることなの?」
「いえ――古い方法だもの。若い人は知らないかもしれない。それにアダム、あなたが、あなたのような人が“交歓”を知らずに育ったことに私は安心しているわ。素晴らしいことよ、本当に――本当に」
 と、マグダは感に堪えない様子だったが、アダムには何のことやらわからない。“交歓”については後ほど知識だけは教えるというマグダの言葉を頼みに、今日のところの習式はひとまず完了ということになった。
 二人は帰る前に、もう一度一緒に壁画を眺めた。アダムは行きにマグダが話したことを全て覚えていて、それを復唱しながら歩いた。
「ねえアダム、あなたのひいおじい様が私たちの教団を設立することに尽力してくださったのは、第二次世界大戦後の混乱の最中のことだそうよ。帝国学士院が事実上瓦解することになって、私たちのようなマイノリティの教派を保護してくれる力がどこにもなくなった。実際に後継者が途絶え滅びてしまった教派もあるのよ。だから、それまで魔術師同士が関わることの少なかった私たちの教派も団結するより他なかった――そしてそのおかげで、以前は個々の魔術師の創意工夫やノウハウだったものが広く共有されるようにもなったの。私たちが幼少期に訓練される記憶術もその一つね」
――ひいおじいちゃんは実は立派な人だった、っておばさんが言いたいのはわかるけどね」
「アレクセイ・カミュの血脈を教団が拒むはずがない、ということよ」
「でもその血脈の父さんがひいおじいちゃんの手を金に換えたんだよ」
「やむにやまれぬ事情があったことは、今では教団の誰もが知っているわ――
―――
「帰っていらっしゃい、私たちの元へ。アダム」
 優しくもりんとした声でマグダが言う。
 アダムは困ったような顔をして見せた。
「帰ってきなさい、って命令した方がいいんじゃないの? 教団の首座祭司としてさ」
「他の人にならそうしたかもしれないわ」
「俺がユージーンの子供だからだ」
 とアダムは核心を突いた。ユージーンはアダムの父親の名だった。
「教団は、アレクセイの血脈だから俺が欲しい。マグダおばさんは、ユージーンの忘れ形見だから俺に優しくしてくれる。そうだろ」
―――
「マグダおばさんが、父さんのことを好きなのは子供の頃からずっとわかってたよ」
 と、アダムは言ってから、急に自己嫌悪の想いがこみ上げてきてうなだれた。
「ごめん――違う、こんな意地の悪い言い方がしたかったわけじゃないんだ。――誰かを責めたいわけでもない」
「アダム、いいのよ」
「マグダおばさん」
「アダム」
「マグダおばさんが、父さんと再婚してくれればよかったのに――
 ずっとそう思っていたのだと、アダムは恥ずかしそうに、ぽつりとつぶやいた。消え入りそうなその声が、熱を持った息遣いが、冷え冷えするほど広い建物の中をしばらく漂って残っているような感じがした。

11

 マグダを送って帰る車の中で、アダムは、
「マグダおばさん、おばさんが地鎮に失敗したときの記録で残ってるのって、生命維持装置に記録されたバイタルの情報と立会人の報告書の他に何かある?」
 と尋ねた。マグダは申し訳なさそうにかぶりを振った。
「それだけよ。ごめんなさい、今回のようなことは初めてで」
「いや、まあ仕方ないって。まさか大聖堂の中に研究所みたいな測定器を持ち込めるわけもないだろうしさ」
「それは難しいでしょうね。大聖堂を管理するエージェンシーの判断になると思うけれど、何しろ前例がないから、すぐに回答は出ないでしょう。こちらから根回しはするにしても――
「だったら、反対にひいおじいちゃんの手を研究所に持ち込んで、魔術の間のアストラル体――魔力場? かな――をモニターしてみるのは? 施術は俺がやるよ」
「それなら手続きとしては教団内で済むから簡単だけれど――アダム、無理はしなくていいのよ」
「大丈夫大丈夫」
 とアダムはうそぶく。マグダは心配そうだった。
「私が失敗してしまって、教団の他の魔術師はみんな尻込みする中であなただけが進み出てきてくれたわ」
「そりゃ、父さんがひいおじいちゃんの手を売っちゃうなんてことやらかしたせいだしね? 俺も連帯責任かなって」
「あなたのせいじゃない。私だってあなたのお父様の――ジーンの苦悩に気づいてあげられなかった。ジーンだって誰かに一言でも相談してくれたらよかった。みんなが少しずつみ合わなかったのよ――あなたのせいじゃない」
 ふ、とアダムの表情が綻ぶ。
――ありがとうおばさん。ちょっとは気が楽になりそう。でも俺がやるって言ってるのは、責任感じてるからってだけじゃないんだ」
 「そうなの」とマグダはうなずいて、それでもなお心配はしてくれたが、最後には、
「私はあなたの力を信じるわ」
 と言ってくれた。
 それから二、三日は、アダムは転居の手続きや自宅の片付けで忙しかった。
 まだ雑然としている家の中、リビングにとりあえず机を置きデスクトップを据えて学総研のイゴールと連絡を取れるようにした。
〈Ig - 11:16 AM
 引っ越しの作業は順調ですか?〉
 と、チャットがつながると、さっそく彼の方から話しかけてくれた。
〈Adam - 11:17 AM
 ありがとう。親戚の叔父さん叔母さんが手伝いに来てくれてるから、すぐ済みそうだ〉
〈Ig - 11:17 AM
 それはなにより😉〉
〈Adam - 11:19 AM
 ところで、相談したいことがあるんだけど〉
 アダムは計画している実験についてイゴールに説明した。
〈Ig - 11:23 AM
 ああ、それならレオナに設備の見学を頼むといいですよ。どんな測定ができるかも彼女が教えてくれるでしょう〉
 とイゴールは了解して、すぐレオナに連絡を取ってくれた。
〈Ig - 11:53 AM
 次回研究所に来るときにレオナが案内してくれるそうですよ。来週のカフェテリアはジャパニーズフェア🍜(ミソラーメンがレベル高いです)〉
〈Adam - 11:53 AM
 わかった🙂また3人で一緒に昼飯食おうぜ🍣🍤🍜〉
 翌週明け、アダムが学士院総合研究所を訪れると、レオナはイゴールの研究室に先に来て待ち構えていてくれた。
 学総研の保有する実験用聖堂はその歴史が古く、帝国学士院時代から存在し、第二次世界大戦後の研究所移転の際にともにその場所を移った。以後、増改築や修繕を繰り返して今に至るそうである。
「まだ帝国学士院だった頃は、教会を持たない魔術師に聖堂を無料で貸し出していたと聞きました」
 と、実験棟へ向かう道々レオナが教えてくれた。
「今ではほとんど実験用の用途で使われてます。でも一応立地条件とか建築方法は国の定めた基準を満たしてますので」
「あれ?」
 とアダムは、行く手に見える灰色のコンクリートブロックのような建物を指差した。レオナはうなずいた。
「ええ」
「なんともまあ、そっけない聖堂だこと」
「見かけはそうですが、中は近頃改装工事があったので新しくて綺麗ですよ。魔力吸収体も石英ガラスからシリコン材になってシールド効果が高くなりましたし」
 実験棟へ入ると、レオナの言う通り隅々まで清潔で、まだ汚れてもいない白い壁材は真新しい匂いがした。
 実験用聖堂は建物の一階北端に位置しており、北を向くように設計されていた。重々しく味気のないエアー式自動ドアから入室する。レオナがIDカードをセキュリティデバイスにタッチするとドアが開いた。中は幅が広く短い通路になっていて、右手に洗礼盤代わりらしい手狭な洗面所があり、左手は倉庫、突き当りが実験室と制御室だった。
「へぇ、一応聖堂の体裁は整ってるんだ。身廊があって、その頭のところに礼拝堂がある」
 とアダムは感心した。洗面所で手洗いを済ませてから、制御室を通って実験室へ入る。
 礼拝堂にあたる実験室の内部は、何もないただ黒い箱とでも言うべきものだった。見上げるほど高い四方の壁、天井はすべて黒いスクリーンで覆われている。レオナの説明では、その向こうには無数の光センサーが敷き詰められていると言う。
「魔術師の生体実験の際には、必要な教派の祭壇や器具をセットアップします。黄金の契り派の儀式に必要な道具も一通りはそろってるはずですよ、非常に古い物ですけど――アダムのひいおじい様もお使いになった物なんじゃないでしょうか」
 とレオナは説明した。アダムは倉庫にしまわれているそれらの術具一式を確認して、再び実験室へ戻った。
―――
 アダムはしばらく黒い壁をにらみ思案げにしていて、やがて、ふとレオナの顔を見つめた。
 レオナはその淡い色の視線から逃げるようにして縮こまった。急に二人きりでいるのを意識して、喉がつかえてくるような感じがする。もじもじしていると、アダムが尋ねた。
「レオナ」
「な、なんでしょうか――?」
「君はその、魔術師としてはどうなの?」
「どう、とは」
「たとえば何か実績があるとか――ジュネ家なら血の夜明け派だろ? 階級は?」
「あ、ええと、あの――詠唱助祭です」
――つまり俺たちで言うところの“黒祭服”か」
 黄金の契り派では魔術を取り仕切ることができる一人前になると宝冠を授かって白い祭服を着る。それまでは黒い祭服を着ている。見習いなのか、とアダムは言ったのであった。そして「ふーむ」とうなっている。
「それじゃ君に魔術の立会人役を頼むわけにもいかないか」
「す、すみません――
 別にアダムは責める口調ではなかったが、レオナは申し訳ないような、情けないような思いでますます小さくなっていた。

12

 一通り設備についてレオナから説明を受けたアダムは、最後に、
「なあ、今からテストで測定してみることってできる?」
 と提案した。
 レオナは制御室の装置やパソコンの電源を入れて準備をしながら、
「それで、何を測定しましょうか?」
 とアダムに尋ねた。
「俺のアストラル体を測ってみてよ」
「でも――黄金の契り派の魔術はとても大掛かりな方法だって聞きますけど――
「本番はそうだけどな。簡単なのをやるから」
 アダムはレオナからバイタルチェック用のウェアラブルデバイスとヘッドセットを受け取った。バイタルチェック用のものは首にかけ、ヘッドセットは骨伝導式だから耳の上に乗せるだけでいいと言う。
 アダムだけが実験室に入った。
「アダム、聞こえますか?」
 とヘッドセットを通じてレオナの声が届く。
「こちらアダム。聞こえるよ」
「足元を見て、中央の赤い枠線の中に立ってください」
「レオナの方からは俺の姿見えてるの?」
「カメラで見てますよ。あなたがマイケル・ジャクソンのポーズを取ってるのも見えてます」
 制御室の方ではレオナがデスクトップの前に座り、測定用ソフトウェアを起動する。アダムの姿は専用の小型ディスプレイに表示されていた。パソコンでその映像をキャプチャーし、アダムのバイタル情報を確認する。
「体温、脈拍、呼吸数正常です。暗い場所は平気ですか? 一旦照明をオフにしますので――
 実験室の照明を切り、カメラを赤外線に切り替える。ディスプレイの真ん中に立っているアダムは完全な闇の中でも平然としていたので、レオナは安心した。
「必要であれば赤色の補助照明をけますが」
「いや、いいよ、いらない。暗い方が落ち着くんだ、俺」
 と言いながら、アダムはおもむろに眼鏡を外して、それをシャツの胸ポケットにしまった。同時に体の四方から光センサーの保護スクリーンが解除されたと思しき音がした。
 やがてすべての機器とソフトウェアのセットアップが完了した。
「始めようか」
 アダムは、これは第四チャクラでアストラル体を御す小魔術だと宣言してから始めた。
 胸の前で両手を握り合わせ、剣の印を結ぶ。剣印に意識を置く。そこからさらに体の内側、胸の中央のチャクラへ意識をもぐらせていく。ある深度に達したとき、そこから何か温かなものが染み出してくるような感覚が起こる。
――レオナ、何か見える?」
―――
 アダムは一度呼吸を整えながら聞いてみたが、レオナは無言だった。
 アダムは、返答を待たずに次の段階へ進んだ。唇を細く開き、その形を少しずつ変えながら、奇妙なリズムの呼吸を繰り返す。体内のアストラル体を叩き、伸ばし、こねて、編んで、鍛え上げていく。
「こ、呼吸パターンが異常です――!」
 とそのときになってようやくヘッドセットの向こうでレオナがうろたえた声を上げたが、もうアダムの耳には聞こえていなかった。
 最後に、アダムはもう一度剣印を結び胸のチャクラへ魔力を込め、練り上げたアストラル体を元のように体内へ押し込んだ。
――以上」
 アダムは魔術を終えて、印をほどいた。
 しばし沈黙があってから、保護スクリーンの下りる音がした。アダムは眼鏡を元のようにかけて目をつむり、照明が戻るのを待ってレオナのいる制御室へ向かった。
 レオナはデスクトップの前でぼんやりと座り込んでいた。
――おーい」
 とアダムが手を振って見せると、はたと我に返った様子で、
「あっ、す、すすみません――ちょっと、驚いてしまって――
 と、うなだれている。
 レオナは、録画した測定結果を再生してアダムにも確認するように頼んだ。ディスプレイに実験室内の光エネルギーの分布が七色の三次元映像として描かれていく。魔術師が魔術を行使するときにわずかに生じる、目には見えない高い周波数の光を壁面のセンサーで感知して求めた分布だと言う。青い部分はエネルギーが小さく、赤に近づくほど大きい。
 暗視カメラが捉えているアダムの映像とバイタル情報の変化も同時に再生してみれば一目瞭然だった。初めは青一色だったエネルギー分布が、アダムが剣印を結んだ直後から胸部を中心に暖色に変化しているのがわかる。さらにアダムの不規則な呼吸のリズムが刻まれるたび、それは放射状に広がって、最後には室内のほとんどが赤く染まってしまった。
「これは――驚くような結果なの?」
 とアダムは首をかしげている。レオナはいっこうに落ち着かない様子で、しきりに眼鏡のつるを触りながら、言葉は要領を得なかった。
「少なくとも私は初めてです。全空間でこんなに強い値が出るのは――でも――あぁもしかしたらアンプの出力が飽和して――モントさんに相談しないと――
「これでひいおじいちゃんに敵うかなぁ」
 と、アダムがため息混じりに言う。
 測定結果はその日のうちにレオナの研究室の職員たちやイゴールにもチェックのために回された。
 イゴールは驚いたと言いつつも例のぼそぼそした口調は変わらなかった。
「これはすごいなぁ。さすが、アレクセイ・カミュの血脈ですね……」
 と言われたアダムは急にねたような顔になってしまって、何とも返事をしなかった。
 レオナは就業時間が終わるまでなんとなくき物に取りかれでもしたような、地に足の着かないふわふわした気分で過ごした。終業の頃にアダムから食事に誘われたが、とてもそんな気分ではなかった。
「すみません、今日は疲れてしまったので――
 と断って、自宅のアパートメントの部屋へ帰った。どこにも寄り道せずまっすぐ帰ったので、帰宅したときまだ外は薄暮に暮れかかっていた。
「レーオナチャン、オカエリヨ」
 リビングに置かれたケージの中で、ホオミドリウロコインコのバターカップが飼い主の姿を察知して騒ぎ立てる。レオナは「ただいま。ご飯にはまだちょっと早いね」とバターカップに声をかけながら窓際へ歩いていった。
 カーテンを引こうとしながら、外の景色に目を奪われていた。眼下の住宅街の通り沿い、等間隔に連なる街灯の光。遠くでは市街地のキラキラした明かりも夕闇を照らしている。西の空の太陽は沈んで、ラベンダー色の光と明星だけを天に残していた。視界に映るさまざまな光を眺めて、レオナは昼間の実験に思いをせた。
 アダムの魔術が発したすさまじい光エネルギーを、装置越しにではなくこの目で見ることができたら、どんなに素晴らしい光景だっただろう――
―――
 アダムはあまりそんなそぶりを見せないけれど、やはりアレクセイ・カミュの後継者――選ばれた魔術師に違いない。
(ライオネルのひ孫というだけで何もパッとしない私とは、世界が違う人なのね)
 とレオナは思って、さみしいトワイライトが夜の闇に変わるまでそこに立ち尽くしていた。

13

「確かに、レベル高い」
 とアダムがカフェテリアの味噌ラーメンを褒めてくれたことが、イゴールはやけに嬉しいようだった。
 二人はカフェテリアの長いテーブルを挟んで差し向かいに座り、ひと足先にラーメンをすすりながらレオナが来るのを待っていた。昼休みが始まったばかりで、サーブラインの周りは特に混み合っていた。だんだんと座席の方も埋まり始めている。
「俺も味噌は家に買い置きしてるんだ。煮込み料理とかに合うよな。ヘルシーだし」
 とアダムが言う。
「自炊してるんですか?」
 と、イゴールは少し意外そうに尋ねた。
「たいていのことは自分でするよ。料理も、掃除や洗濯も、日曜大工も。他にしてくれる人もいないしな」
「こちらでは一人暮らしですか……?」
「実家に帰ってるんだけど、もう家族は誰もいないんだ。父親は病気で死んで母親は俺が小さい頃に離婚して出てった。親戚の叔父さん叔母さんはちょくちょく様子見に来てくれる――いい人たちだぜ。俺が実家放り出してバンドやってた間も、家の管理してくれててさ」
「………」
 そんなことをとりとめもなく話していると、カフェテリアの入り口にレオナの姿が見えた。アダムが手を振って見せると、レオナは気づいて、戸惑いながらも小さく手を振り返してくれた。
 しばらくして、レオナも昼食の載ったトレーを持って二人の元へやって来た。二人とも隣の席はそれぞれ空席だった。そこで彼女はまた戸惑っていたが、
「レオナ、ここ空いてる」
 とアダムが自分の隣を指差してくれて、それにそこが一番手近だったので、おずおずとその席に座った。
「ジャパニーズフェアのときいつも五目寿司だよね、レオナ」
 と向かいのイゴールが優しい声で言った。
 レオナは少し気恥ずかしそうにうつむいて箸を取った。そうしてやっと落ち着いて食べ始めたところへ、アダムが、
「なあレオナ今夜予定ある? デートしない?」
 などと言い出すものだから途端に味がわからなくなってくる。
「うぅ、え、えーと今夜は――ちょっと用事が――
「俺車だから送ろうか」
「セクシャルハラスメントはいけませんよ」
 とイゴールが助け舟を出してくれたのでレオナはほっとした。
 ちぇ、とアダムはねている。
「現在ゼロ勝二敗」
「あ、あの、あのところで、アダム――
 レオナは無理やりに話題を変えようとした。
「今度の実験の立会人、あの、サキさんにお願いしたそうですね」
「うん? ああそうそう、イグにね」
 と、アダムはイゴールの方を見た。
「彼って暗き者派の琅呪ろうじゅ博士なんだってさ。宮廷魔術師で占術と呪詛じゅそつかさどるリーダーって意味」
「まあ宮廷もない貴族もいない今は何もすることがない形だけの役職ですけどね……」
 実のところイゴールは、魔術師としての公式的な仕事は今回が初めてだと言う。
「実家にしまい込んでた祭服を大急ぎでサイズ直ししてるところですよ。最後に着たのはもういつだったかな……大学院を出て……琅呪ろうじゅ博士の叙任式のとき以来かな……」
「書類上、黄金の契り派の祭司相当の立会人が必要なんだよな」
 立会人は二人と定められている。イゴールと、もう一人はマグダである。
「けどマダム・マグダは近頃あんまり体調がよくないみたいでさ、心配なんだ――やっぱレオナに頼んじゃおうかな、こっそり」
 とアダムは表情を曇らせながら言って、再びレオナの方を見た。
「え――い、いえ私はこの間お話した通りまだ見習いなので――私なんかより、黄金の契り派の教団には優れた魔術師の方が何人もいらっしゃるのでは」
「いやほら、俺知らない人に見られてると緊張しちゃうんだよね」
 と、アダムははぐらかした。
 レオナもアダムが本心を言っていないようだとは察したが、その理由までは踏み込んで尋ねる勇気がなかった。左手の指先で眼鏡のつるを触った。
「眼鏡触る癖可愛いね」
 と不意にアダムから言われたので、ギョッとして手を引っ込めた。
―――
―――
 なんともいえない気まずい沈黙。
――丸眼鏡ってレトロでいいよな。俺もそろそろ眼鏡変えようかな」
 アダムが話題をそらしてくれたのはレオナにとっても幸いだった。
 二人の様子を正面の席から黙って見ていたイゴールが、のんびりと口を挟む。
「レオナはピエヌ博士に憧れてるんだよね……」
「誰?」
「サキさん――!」
 とレオナは恥ずかしがったが、アダムは聞きたがった。
「レオナの好きな人?」
「そういうのではなくて、ええと、現代魔術物理学の先駆けとなった百年前の女性研究者で、第五の力の粒子の存在を理論的に予言した方です」
「第五の力」
「強い力、弱い力、電磁気力、重力――そして魔力。これが五番目です。魔力を媒介する粒子のことを魔力子メイジオンというんです」
 レオナはスマートフォンでピエヌ博士の写真をインターネット検索して、アダムに見せた。
「この方ですよ」
 古い白黒写真の中の彼女は戦時中らしい質素な身なりで、短く切った髪は後ろへでつけられ、丸眼鏡をかけている。大変な時勢の頃であったにも関わらず茫洋ぼうようとした穏やかな笑みを浮かべて立っていた。隣に背の高い初老の紳士が並んで写っている。
「あ、この人レオナのひいおじいさんじゃないか? 初めてここに来た日にも写真見せてもらったんだ」
 とアダムが紳士の方を指して言った。
「ええ、私の曽祖父ライオネルです。ピエヌ博士は、帝都大学の学生時代ライオネルの研究室にいらしたんですって」
 レオナは食事が済むと一旦席を立ち、飲み物を取りに行った。
 イゴールがアダムにそっと尋ねた。
「レオナが好きですか?」
 アダムは淡い色の目元をちょっと見張って、
「いい子だなぁとは思うよ――
 とあいまいな返答を寄越す。
「でも彼女は俺のこと苦手なんじゃないかな」
「そんなことはないでしょ……もしそうなら、レオナはあなたの隣に座らずに僕の隣に座ってくれてたと思いますよ」
「デートは断られたけどな。下心があるように見えたかな?」
「その件は残念でしたね……」
 イゴールはしばし口をつぐんで何やら考えている様子だった。アダムも黙って待っている。と、イゴールは唇の薄い口を細く開いて言った。
「……僕でよければ?」
「んん?」
 レオナがコーヒーの入った紙コップを片手に戻ってきとき、アダムはスマートフォンの画面をにらんでいて、それがちらと見えたところではレストランの予約サイトを開いているらしかった。
「今夜イグとデートすることになったから、店の予約してるんだ」
 とアダムは説明した。レオナは立ったままきょとんとしていた。

14

 イゴールは、今夜のことはアダムに一切任せると言った。
「なんせ僕は今までデートなんかしたことがないので右も左もわからないし……」
「非恋愛主義? だっけ? 徹底してるなぁ」
 終業時間になると、アダムはレンタカーの助手席にイゴールを乗せ、都心部へ繰り出した。目指すは枢機宮通りにほど近い隠れ家的レストラン『サローラン』である。
 予めディナーの予約をしていたアダムは店の老主人兼シェフのバティスト・サローランから丁重な出迎えを受けた。
「カミュ様、お久しゅうございます。いつこちらにお戻りに?」
「ついこの間。またシェフの料理が食べられて嬉しいよ」
「ひいおじい様以来のご愛顧が途切れないでいてくださることが私には何よりの励みですよ」
 アダムとシェフは顔見知りらしい。テーブルへ案内されてから、イゴールがそのことを尋ねてみると、
「この店、ずーっと昔からここに建ってるんだ。俺のひいおじいちゃんも常連だったんだぜ。今のシェフは三代目だったかな」
 とアダムは教えてくれた。
「へえ……どうりで雰囲気のある……」
 イゴールは、年代物のインテリアとランプの明かりでアンティークな内装に統一された店内をぐるりと眺めた。その間にアダムの元にウェイターが来て飲み物の相談をしていった。
 ディナーコースが始まって、まずはオードブル。舌を潤すようなさっぱりとしたサーモンのゼリー寄せが供された。
「レオナもここに連れて来るつもりだったんですか……?」
「昔、彼女のひいおじいさんと俺のひいおじいちゃんはよくここで一緒に食事したらしいよ。かたや帝都大学教授、かたや帝国学士院院長。飯を食いながらいろんな会話があったんだろうなと思うとロマンを感じる。それに、シェフもレオナに会いたいだろうしさ」
「なるほど、それはぜひ連れて来ないとですね……」
「だろ?」
 アレクセイとライオネルの頃には親しかった仲も、アレクセイの死後ライオネルがフロクシリアの実家へ戻ってからは両家はだんだんと疎遠になり、今に至る。
「ひいおじいちゃんが死んでからライオネルも後を追うように体を悪くして亡くなったらしいよ」
 アダムはそんな先祖たちの物語ごと味わうように、百年来変わっていないレストランの料理を丁寧に平らげていく。イゴールもそれに倣うように自分の知らない古きよき時代を懐かしんでみる。
「そうだ――昔のことと言えば、イグ、君に質問したいことがあったんだ」
 と、あるときアダムが言った。
「? 何?」
「黄金の契り派の“交歓”ってどういうものか知ってるか? 君確か、俺たちの教派のことを研究してたって言ってたから」
「もちろん知ってます」
 とイゴールはうなずく。
「というか、あなたは知らないんですか?」
「俺の師匠の父さんが教えてくれなかったんでね――一応マダム・マグダに一通りのことは聞いたけど。古い魔術、というより魔力を使った遊び? なのか? 魔術師のアストラル体同士を交わらせるんだって」
「……現代の生体魔術的に言えば、非常に近接した状態で他者の魔力場に曝露ばくろされる……という感じですかね」
 イゴールは言葉を選ぶようにしながら言った。
「僕が黄金の契り派について研究していたのは大学院生の頃の話です。以前にも話したと思いますけど、黄金の契り派は現存する魔術の教派の中でも随分古くて……“交歓”のような簡易な手続きの魔術が残ってる。僕はこの辺りが魔術の起源だったんじゃないかと考えてたんですよね……」
「魔術の起源かぁ」
 アダムは遠い昔を眺めるような目をする。細められた淡い翡翠ひすい色の瞳がランプの光を受けて、今は黄水晶シトリンのようにきらめいている。
「俺たち黄金の契り派の魔術師は、最初は医者だったらしいって父さんには教えられた」
「………」
「六歳で洗礼を受けて魔術の修行が始まると、まずそれを覚えさせられる。祖先の歴史物語。これがめちゃくちゃ長くて大人が急いで話しても三、四十分はかかる」
「一字一句……間違えないように記憶するんですよね。あなたがたの記憶術の訓練がそれだと聞きました」
「うん」
「……以前から疑問だったんですが、それほどの記憶力があるのに黄金の契り派の魔術師から学術分野に進出する人が少ないのはなぜです?」
「百科事典を正確に丸暗記はできるけど必要なときに必要な項目だけを引き出すのは難しいってこと」
「ああ、なるほど……」
 ウェイターが魚料理の皿を下げに来て、間を置かず二人の前にメインディッシュが供された。
「乳飲み山羊のカレーでございます。お好みで香菜シャンツァイを添えてお召し上がりください」
 アダムは好物らしく、さっそく食べ始めた。イゴールは物珍しそうな顔をしている。
「僕、山羊肉の料理って初めてですよ……」
 するとウェイターがさらに説明を添えてくれる。
「都心では珍しいかもしれません。北部キャクタシリア地方では伝統的に山羊、羊を食します。風味の強さが特徴ですが、それにはカレーの刺激的なスパイスがよく合います。当店自慢の逸品でございます」
 イゴールは、向かいのアダムが嬉しそうに食べているのをちらっと見てから、まずは恐る恐るというふうに山羊肉を口に入れてみて、
「あ、美味しい……」
 とそれからはせっせと食べ始めた。
 アダムが食べる手を休めて、ノンアルコールワインのグラスに手を伸ばしながら言った。
「キャクタシリアでは山羊や羊はよく食べてた。その代わりあの地方は鳥を食べない。大昔からそうなんだってさ」
「それは……鳥が人間に魔術をもたらした神聖な存在だから?」
「どうだろうな。俺たち黄金の契り派は山羊を神聖視してるけど、それでも食べるぜ。祖先の物語でもこう歌われてる。『大ヴァルラムは山羊の腹を割いてその中をご覧になった。そして山羊の肉はご馳走ちそうになり、二つの角は大ヴァルラムの冠になった』」
「動物実験をしていた……というような意味ですか」
「たぶん。人間の代わりに解剖されたり、治療の魔術の実験台にされる山羊を大切に思ってたってことじゃないかな。今ではもう直接人の体に対して使う魔術なんてなくなったけど、魔術師のアストラル体と交わるっていう“交歓”がその名残なのかね?」
「そうなのかもしれません……」
 と、うなずいたイゴールの声はいつもの陰気な調子でなく、彼にしては珍しく興奮を帯びているような張り詰めた声だった。

15

「現代に残るどの教派の魔術にも、人体に向けて使う魔術っておそらくほとんどないと思いますよ」
 とイゴールは言う。
「たとえば血の夜明け派の得意分野である悪魔ばらいや精霊調伏も百年前頃にはすでに人に向けた魔術ではなくなっていましたし……」
「なんで?」
「帝国学士院が禁止令を出したので」
「その理由だって」
「それはわからないです……」
 でも……とイゴールは続けた。
「少なくとも現代において、魔術を人に対して使わないのは、強い魔力場にさらされると、僕たちのDNAに組み込まれたロゴスウイルスは簡単に損傷して、突然変異を起こしやすい状態になるからです」
「うん――
「大部分の損傷は自己修復されるし、突然変異だってほとんどは害のない変異ですけど……」
「まあ、運の悪いやつはいるわな」
 アダムはそっけなく言った。
「運の悪いやつがガンになる。いつか頭が変になって死ぬ恐怖に怯えて暮らさなきゃならないわけだ」
「………」
―――
「……もう止めましょうか、この話」
 と、イゴールはその話をすぐ切り上げてしまった。
「なあイグ、ずっと、魔術の始まりについて研究してたのか? 王立研究所にいた間も?」
 とアダムが尋ねた。
「え……ああいえ……それは博士論文までで、黄金の契り派の魔術師のゲノムを他の教派と比較してました。北部地方由来の地域性がある他は、特に目新しい発見はありませんでしたね」
「王立研究所では?」
「言えません……」
「極秘の研究だったとか?」
「そういう意味じゃなくて……今の僕の心の在り方に関わること……というか……」
 イゴールは困った表情になっていた。アダムに、というより他の誰が相手であったとしても自分から口に出しては話したくないことのようだった。
「王立研究所時代に病気で倒れたって聞いたけど――
「なんていうか、その、あなたに話すにはまだ……好感度が足りてない……みたいな感じです」
 アダムは、しょんぼりと眉を下げて、
「デートイベントが起きてもだめだったか」
 と、さみしい声でつぶやいた。
 食事が済み、デザートのプディングを食べている間、二人の会話は少なかった。ことさらにイゴールはさっきのことを気にしていて、気もそぞろで、プディングの味もあまりわからなかった。
 やがてウェイターが現れ、食後はラウンジの方へどうぞ、と案内された。そこは薄暗く、上等なコーヒーと古いタバコの香りに満ちた安らかな場所だった。同じウェイターが戻ってきた。どこから持って来たのか、黒い楽器ケースをアダムへ差し出し、
「シェフからのサービスでございます」
 と言う。アダムがケースを開けて見ると、手入れの行き届いたバイオリンが納められている。ウェイターはあいまいに笑っているばかりで、そのバイオリンがどうした物かということは知らないらしい。
 アダムはバイオリンを取り上げ、手になじませるようにためつすがめつしてみた。
「じゃあせっかくだから何か弾こうか」
 と、きょとんとしているイゴールへ笑いかける。ラウンジには、他に老夫婦の客が一組、隅の方のソファーに仲睦まじく寄り添って腰掛けていた。彼らにも、
「一曲よろしいですか」
 と声をかけてから演奏の支度を済ませる。
「イグ、どんな曲が好き?」
「僕ですか……?」
「君の好きな曲を弾くからさ」
「ええと……それじゃ……何かテンポの速い曲」
「よしきた」
 アダムはジャケットを脱いで動きやすいベストの姿で立つと、バイオリンを顎で支え弓を構えた。
 1、2、3と靴の爪先でリズムを取る。4で弦に弓を当てて弾き始めた。アダムが弾いたのはリーヒの『B minor』。
 イゴールの見上げる先で目まぐるしく動くアダムの左手の運指は正確無比で一度たりともミスはない。五分とかからない曲だ。アダムの演奏に圧倒されていたイゴールにはほんの一瞬の出来事のようだった。
 気がつくと向こうの席の老夫婦とウェイターが拍手をしてくれていて、イゴールも我に返って同じく拍手を送った。
「すごい……プロの演奏ってすごいですね……語彙力がなくてすみません……」
「まあ俺は売れてないプロだけどね。これくらい弾けるやつは山ほどいるよ」
 アダムは老夫婦とウェイターへ恭しく礼をしてから安楽椅子に腰を下ろした。演奏で高揚した気分を持て余しているように、まだ靴の裏でリズムを取っている。
 隣の椅子に座っているイゴールはしばらくその音を数えていたが、ふと口を開いて、
「あの……僕の研究のことなら、インターネットで論文を調べればわかりますよ」
 とアダムへそっと声をかけてみた。しかしアダムはかぶりを振る。
「君の言いたくないことだろ? 俺は知らない方がいいよ。俺考えなしだから、知ったらきっと何かの拍子に態度に出ちゃうだろうしな。それで、あぁまたやっちまった、って後悔するのはもう嫌だ」
「……優しいんですね」
「自分が後悔するのが嫌なだけだって」
「今度の実験……僕を立会人に指名してくれたのはなぜです?」
 と、イゴールは話の矛先を変えてきた。
「初めて会ったときに言ったじゃん。ヒーローを助けてくれるオタクは頼りになるに決まってる」
「それだけですか……」
「そーね、あと、ひいおばあちゃんの話をしてくれたからかな、ひいおじいちゃんの方じゃなくて。俺ひいおばあちゃん子だったんだ」
「ひいおじいさんのことは嫌いですか?」
「嫌いっていうか――偉大すぎるっていうかさ。アレクセイのひ孫、アレクセイの血脈、みんなにそう呼ばれる。でも、ひいおじいちゃんが具体的にどう偉大だったのか、いまだによくわからないんだよ、俺」
「だから面白くない、と……」
「そ」
「少なくとも僕は、学士院総合研究所の設立者としてのひいおじいさんの偉大さはわかりますよ……今の職場は居心地がいいから」
「王立研究所よりも?」
「断然……」
「どうして」
「学総研にはいろんな人がいますからね。半分日本人の僕も特別扱いされないで済む……ってこと。そういう風土を最初に作ったのはたぶんあなたのひいおじいさんですよ……ひいおばあさんのスルト先生が性分化疾患を抱えていらしたことは知ってます?」
「知ってるよ。だから二人の間に子供は生まれなかったんだ。それでも仲良し夫婦だったみたいで、ひいおばあちゃんが生きてる頃は惚気のろけを山ほど聞かされたけど」
「そんなご夫婦の姿を僕たち職員は百年経っても愛おしく思ってるってことです。全職員ではないかもしれないけど、そういう人がきっと多いんだと僕は思う……」
 サローランからの帰りの車中、イゴールは「デートって楽しいものですね」と言った。
「山羊も美味しかったし……」
「非恋愛主義は撤廃?」
 とアダムが聞いてみると、それはまた別の話だと、苦笑している。
「僕、夜は遅い方なので……誰もいない家に帰って寂しくなったらチャットで話しかけてくれてもいいですよ」
 と、運転席の方を見て、アダムが照れてムスッとしているのを可笑おかしがった。

16

―――
 レオナが自宅のベッドで目覚めたとき、いまだ辺りは真っ暗で、サイドテーブルに置いたスマートフォンを見るとまだ深夜三時を少し過ぎたところだった。こんな時間に目が覚めるのは珍しい。
 もう一度眠ろうとキルトを頭の先まですっぽり引き上げたが、浅い眠りのふちで憂鬱な夢とたわむれているばかりで寝入ることもできない。
 明け方、外の雨の音を聞いてのろのろ起き上がり、カーテンを開けて窓際に立った。
 遠く雷鳴のとどろく空は、雲が朝焼けを透かしているのか不思議な桃色をしていた。雷は次第に近づいてきて、そしてまばゆい稲光を放ったのち、雷雲を引き連れて足早に去っていった。
 レオナのいつもの起床時間の頃には外はすっかり晴れ上がっていた。
「おはよう、バターちゃん」
 とケージのバターカップに声をかけに行く。
「オハヨ」
 とバターカップは答えてくれた。
「ネムレナカッタノ?」
 バターカップはときどき本当の人間の受け答えのような言葉を返して、レオナをドキリとさせる。
「うん――あんまりね。やっぱり今日は緊張してるのかも」
 バターカップへ給餌を終えると、レオナは身支度を整えて学士院総合研究所へ出勤した。
 職場は、レオナが想像していたよりずっと落ち着いている。研究室長のウリエルも先輩研究員のモントも平常と変わらず、各自の業務を片付けている。レオナは肩透かしを受けたような気分で自分のデスクに着席した。
「カミュさんとマグダさん、十時頃に大聖堂を出発する予定だって」
 とウリエルが手短に教えてくれた。
 レオナはデスクでじっとしていられず、イゴールの研究室へ行ってみた。入口からちょっとのぞいてみると、なにやら騒がしい。
「あ、レオナ……」
 と気がついてドアのところまで来てくれたイゴールは全身漆黒の絹の祭服をまとっていた。研究室の同僚たちにせがまれて着替えたのだと言う。彼らは「マトリックスみたいだ」などと言い出して、盛り上がっていたらしい。
「救世主に見えるかな?」
 とイゴールもその冗談に乗っていたが、レオナは何と答えたものかともじもじしている。
「……何か用があった?」
「あの、いえ、近くを通りかかったので――
「中でコーヒーでも飲んでいく?」
「いえ――サキさんは、その、緊張してないですか?」
「今日のアダムの実験のこと……?」
「はい」
「もちろんしてるよ……地鎮が成功すればいいと思うけど、アダムは……マグダさんが失敗したのに自分が成功するわけない……なんて夕べチャットで言ってたよ。まあ今回はメイガスハンドのデータがちゃんと取れれば上出来かな」
「無事に終わるといいですね」
「うん、立会人としても何もしないで済ませたいよ」
 昼前に、なんとなく一階フロアがざわついている気配があり、それでアダムとマグダが到着したことがわかった。二人は直接実験棟へ機材の搬入に向かったらしく、レオナやイゴールを訪ねては来なかった。
 実験室の近くに控え室が二部屋用意されていた。どちらも平時はミーティングルームとして使われている雑然とした部屋だった。その片方は今日の祭司たるアダムのためのもので、もう片方は立会人のマグダとイゴールのためのものである。午後になるとイゴールはそこへ行き、マグダと簡単な打ち合わせをした。
「予定通り、地鎮式は午後三時に開始します。以後は私の指示に従っていただきます」
 と、さすがにマグダは落ち着き払っている。
 レオナはウリエル、モントとともに実験室のセットアップに当たった。測定システムの試運転を行い、各装置の点検の結果をラップトップに打ち込んでいく。レオナとモントが作業を進めている間、ウリエルは実験室内に持ち込まれた生命維持装置を物珍しそうに眺めていた。
 実験開始まではまだいささか時間がある。モントが測定用ソフトウェアの画面をにらんでおり、レオナも脇からのぞき込んでみると、先日彼女がテスト測定したアダムの放射魔力場の分布が再生されている。
「このレベルだと人体防護の規制値に引っかかってるよなぁ」
 とモントは不穏なことをつぶやく。
「サキ君もよく立会人を引き受けたよね。彼だってこの結果は見てた。知らないわけないと思うんだけど」
「僕なら引き受けちゃうかもな」
 と言ったのはウリエル。
「だって間近で見てみたいじゃない」
 レオナはといえば、何も言えなかった。
(アダムはどうしてるかな)
 様子を見に行ってもいいだろうか。儀式の前の集中を乱されたくないと煙たがられるかな――そう思いつつも、ともかく彼の控え室の前まで行ってみることにした。断られたら引き返せばいいのだから、と、ドアをノックしてみたが中から返答はない。
「アダム、あの、レオナです。入ってもいいですか?」
 と声もかけてみた。しかしうんともすんとも返事がない。少し心配になり、ドアノブを回してみた。内鍵は掛かっていない。
「アダム――
 レオナはドアを細く押し開けた。室内を見回して、アダムが返事をしなかった理由を悟った。彼は会議用の椅子を並べた上に白い祭服で包まれた体を渡してうたた寝をしていた。
 それも安らかな眠りのようではなかった。全身が強張こわばっており、寝息も速い。いくらかうなされているような声も漏れている。
「アダム、大丈夫ですか、アダム。アダム・カミュ!」
 何度も繰り返し名前を呼ぶと、ようやくアダムは薄目を開いた。そしてドアのところに立っているレオナの姿を見つけ、まずいところを見られたというように跳ね起きる。
――マダム・マグダには内緒にしといて。祭服にしわ付いたかな?」
 レオナはアダムの近くまで歩み寄った。
「平気みたい――ですよ。お疲れでしたか?」
「いや、ちょっと夕べはさすがに全然眠れなくて」
「あ――私もです。緊張してて。夢見も悪くて」
「君までそんなに緊張するこたない。やな夢なんか忘れちゃいな」
 とアダムは慰めてくれた。それはレオナが初めて聞いたアダムの優しい声で、胸の中で朝からずっと凝り固まっていたものに柔らかく触れてくれた。
「でもあの、なんだか、怖いような、それでいてドキドキして――居ても立ってもいられないような感じなんです――
 アダムが、あながち冗談でもなさそうな調子で、
「俺はめちゃくちゃ怖いよ。ひいおじいちゃんなんか片手しかないのに、もし敵わなかったらカッコ悪いよなぁ。俺が自分で言い出した実験だけど、急に彗星すいせいでも降ってきて中止にならないかなと思ってた」
 と言うから、レオナも真面目な顔つきになった。
「私は制御室のディスプレイ越しになりますけど、見守ってます。無理だけはしないでくださいね」
「ありがとう――レオナに会えて嬉しかった」
「そんな、大袈裟おおげさな」
大袈裟おおげさじゃない。一人前の魔術師は、どんな魔術だって命懸けのつもりでやるんだ」
 言いながら、祭服のケープを鼻先まで引き上げる。深呼吸を一度。「――アダム行きます」とつぶやいて、レオナの手を借り、山羊の角を模しているという宝冠をいただいた。

17

 ピピピピ――
 ピピピピ――
 と、ウリエルの右手の腕時計が午後二時五十七分にセットされていたアラーム音を鳴らした。
 午後三時、立会人の二名が実験室へ入った。初めにマグダ。鼻から下の全身を覆い隠す白い祭服と宝冠を着け、足音一つ立てない静かな足取りで入室した。
 実験室内には造り付けの祭壇はないが、今はその中央に簡易祭壇が用意されている。三段に組まれた壇の上に山羊の毛の毛氈もうせんを敷き、最上段は空で、中段には小動物のミイラや柘榴ざくろの果実などが供えられ、そして最下段にはアダムの使う術具が支度されている。さらに祭壇の脇には、生命維持装置とそれに付随する機器が。
 マグダは祭壇の前で祈りをささげたのちに、実験室内を横切り、祭壇に向かって左の隅に立った。
 続いてイゴールが入室した。同じように祭壇に向かい、暗き者派の祈りをささげる。二人がそれぞれ装着しているヘッドセットを通じて、制御室のレオナたちも彼らの祈りの言葉を聞くことができた。
 イゴールは祭壇に向かって右の隅に立った。少し緊張した面持ちで、首にかけている黒いロザリオを外すと、その数珠を数えながら低い声で祭文を唱え始める。ロザリオの端には十字架ではなく小さな木彫りの人形ひとがたがぶら下がっている。
 マグダはイゴールの様子を見守っていた。暗き者派には人形を肉体の身代わりにして呪詛じゅそから身を守る法があると聞いている。イゴールがアダムの魔術の立会人を務めると決まったとき、マグダは彼に面会して彼らの魔術について多くを尋ねた。
「我々黄金の契り派の魔術に立ち会う以上――ある程度ご自身で身を守っていただかなければなりません。我々の規定では、他派の魔術師の立ち会いの場合、血の夜明け派の剣の結界を基準にしています。そちらにはそれに相当する魔術はありますか?」
「僕たちは宮廷に仕える人間が多かったせいか、彼らのように悪魔ばらいなどはしないので……呪詛じゅそを防いだり返したりするものならあります。たいていは、木彫りや粘土で作った人形に蠱毒こどくの肝を塗って自分の身代わりとして使います……蠱毒こどくというのは、ある種のラグワームを百匹から二百匹程度集めて共食いをさせたものです……」
 イゴールは蠱毒こどくの作り方まで仔細しさいに説明して聞かせてくれた。その知識は明瞭で一点のあいまいさもなかった。
「だけどマグダさん、仮に結界で防いでいてもあなた方の発生させる強い魔力場……あなた方の言葉で言えばアストラル体でしょうか……の影響を全く受けないわけではないですよね」
――それをご存知の上で引き受けてくださるのね?」
「はい……」
「アダムが随分無理を言いましたかしら?」
「いえ、彼は不安なら断ってくれと言いましたよ……僕は僕なりの思いがあって立会人になりました」
「よろしければ聞かせていただきたいわ」
「マグダさんにも以前お話したと思いますけど、僕は生体魔術の研究者で……電子顕微鏡の画像を眺めているだけではわからないこともある……と、この歳になってやっと考えるようになったということです。それにアダムはなんだかやけに僕を信頼して頼んでくれたようなので、それに応えたい……」
「あら――でもまだ三十代でしょう。この歳だなんて」
「僕……その、メイガスハート肥大の高グレード群なので……今グレード6です……」
 とイゴールが言うと、マグダは黙り込んでしまった。イゴールも決まりの悪い思いがした。
―――
 マグダは、イゴールが人形に言霊を込め終わるまで目を離さずに見つめていた。星をまつるというその祭文は極端に母音が少なく、一方で多種多様な子音を微妙な口と舌の形の違いによって発音する。ほとんどが「シー」あるいは「シュー」の音に近いが、その息の音だけで五十個ほどの文字を表現する。
 イゴールはロザリオを首にかけ直して、
「……済みました」
 と言った。
 実験室の扉をくぐり、最後に祭司を務めるアダムが石英の小箱をささげ持って入ってきた。ゆったりとした足取りで祭壇の前に立ち、小箱を手元へ置いてから背後の立会人を振り返る。
「本日はこのような若輩者のために、ありがとうございます」
 とアダムはかしこまった挨拶を述べ、マグダとイゴールへそれぞれ目礼する。一見したところ落ち着いていたが、声にも視線にも緊張の糸が張り詰めている。
「肩の力を抜いておやりなさい、アダム」
 とマグダが言い、
「……あなたの信頼に背かぬよう努めます。僕もあなたの力を信じます」
 とイゴールも答えた。
 アダムは小さくうなずいて感謝を伝えた。
 魔術の支度に取りかかる。まず生命維持装置から伸びている二本のケーブルを手に取り、その先に付いている心電センサーを祭服の下へ入れて肌の上に貼り付ける。次に先がプラグになっている物は、胸部にベルトで固定したリンゴ大の外部デバイスへつなぐ。顔の下半分を覆っているケープの中へエアーチューブを挿入する。
 装置の動作状態を確認して、
「立会人、確認してください」
 とマグダたちを呼ぶ。
 マグダとイゴールは生命維持装置が正常に動作していることを確かめた。
「よろしいでしょう」
「確認しました……」
 アダムは祭壇に向かって立った。
 石英の箱を開け、中に収められているメイガスハンド――曽祖父アレクセイ・カミュの左手――を取り出した。直接手に触れないよう絹の布に包まれているそれをそっと持ち上げると、ひんやりと冷たい。両手のひらでささげ持って祭壇の最上段へまつる。
 絹布を広げると、ミイラとは思えぬいまだ白くみずみずしいメイガスハンドが現れる。少し骨の浮き出た指にはめた指輪もそのまま、手の甲を上に向けて伏せた形になっている。
 アダムはそれをつくづくと見据えたのち、両手を祭服の前へ垂らした帯の中へ収めた。祈りをささげ、心が鎮まるのを待つ。
――始めます」
 実験室内の照明が落ち、暗闇の中、四方で光センサーの保護スクリーンが解除された音がした。
 しばらくすると赤黒い色の補助照明がともされ、
「測定開始しています。体温、脈拍、呼吸数正常です。始めてください」
 と、ヘッドセットからレオナの声で指示があった。
 アダムはうなずいて、
「解錠します」
 と魔術の開始を宣言した。

18

「ジュノー――
 と、初めの祭文をささぐ。両手で印を組む。
 祭文を唱える口と印の形を秘匿するための祭服。発声法、呼吸法と、印の形はただ一人の血脈の後継者へと受け継ぐ黄金の契り派の教えは古来より今まで変わっていない。
「ユル――
 と、アダムの口から次の祭文が発せられる。印も形を変える。
 『ジュノー』は「有」、『ユル』は「無」。これら二つの語を決められた順番で、印の変化とともに千と二十四回繰り返す。アダムはよどみなく唱え上げていく。
――ユル」
 最後の一つまで正しく唱え終わると七つのチャクラの鍵が開く。
 七つとは会陰・性器・下腹・胸・喉・眉間・頭頂。開いたチャクラを通してさまざまな魔術の言葉がこんこんと湧き上がり、満ち、あふれ出す。全ての魔術はアストラル体に刻まれている。血脈の曽祖父アレクセイから受け継いだ全てが、刻み込まれているはずだった。
―――
 アダムは目を閉じている。
 ゆっくりと呼吸をして、自らの内部にうず巻く力に酔いしれないようにしなければならなかった。
(落ち着け――
 と自分に言い聞かせる。違う、アレクセイから受け継いだものだけではだめなのだ。今鎮めようとしているのは、そのアレクセイ自身の手なのだから。アレクセイを超えるための何か﹅﹅がなければだめなのだ――
(俺はひいおじいちゃんみたいな天才魔術師じゃない。ただの、売れないバイオリン奏者だ)
 凡庸な人間なのだ。けれど凡人には凡人なりのやり方がある――と、アダムは腹を据えていた。
――これより調和展開の術式を行います」
 と宣言した。
 立会人の二人にも異存はない。マグダの方はまぶしさに目がくらんだように双眸そうぼうを細めてアダムの背中を見つめていた。
 アダムは祭壇へ手を伸ばした。最下段にささげられている術具は二つの杯である。曽祖父の頃からこの研究所に残されていたという古びた銀の杯である。その片方を左手に取り、右手を底に当てて掲げる。
 アデナ、
 グアナ、
 ティナ、
 シトナ、
 の、四つの語の組み合わせから成る祭文をささげる。
 杯の中は空である。しかしアダムが祭文を唱えるにつれ、室内に霧が満ち、それが杯の中に吸い込まれて凝縮する。水があふれる。
 水が杯の縁を超えてこぼれ落ちそうになったとき、アダムはもう片方の杯を右手に取ってそれを受けた。
 左の杯から右の杯へ注がれた水は再び霧になって辺りを包む。その霧は熟れすぎた果実のような甘く重厚な香りを帯びている。最後には地面から湧き出す清流となり、裸足で立つアダムのくるぶしが浸るほどの小川が流れ始めた。
 霧の中に浮かんでいた虹は、水辺に咲き乱れるアイリスの花に姿を変える。
 甘く湿った風がヒョウと吹き上げて、アダムのまとったケープを鳥の羽のようにはためかせる。
 アダムの額には命の炎で温められた汗の粒が流れる。
 アダムは二つの杯を置くと、両手を祭服の中へ入れて印を結び、いつ終わるとも知れない長い祭文をささげた。
―――
 古くから、黄金の契り派の『展開』と呼ばれる魔術は主に植物のイメージを伴ってきた。かつてアレクセイ・カミュが最も得意とした創世展開では自らのアストラル体を巨大な生命の樹として表現した。黄金の契り派の魔術師が一人前と認められるための通過儀礼の場合、アストラル体を二柱の樹木へ展開する。
 アダムの魔術では、それは赤みを帯びた色をしたつるであった。
 アダムが足を浸す清流はいつしか無数のつると変わり、またたく間に複雑に絡み合って茂みを成し、アダムの体を左右から包み込む。親鳥がひなを羽の下に隠して守るような、そんな光景に似ていた。あるいは、つるはアダムの両腕にまで幾重にも絡みついており、その体の一部になったようでもある。大きな赤い翼を生やした御使いのように。
 そして、腐れ落ちる果実の香りはますます強くなっていた。
 祭文を唱え続けるアダムの表情は険しい。
(ひいおじいちゃん――
 祭壇のメイガスハンドは、アダムの魔術を認め応えたように、言い知れぬ存在感を放っていた。それは事実光り輝いてさえいて、黄金のアストラル体の光がアダムの目をくらませていた。
(まだ天国に帰れてないのかよ、ひいおじいちゃん――ひいおばあちゃんはとっくにそっちへ行ったのに)
 と、アダムは心の中でメイガスハンドへ語りかけてみた。心を保つためにそうした。
――ひいおばあちゃんは病院で死んだとき――嬉しそうだった。ひいおじいちゃんが迎えに来てくれたって。まだ子供だった俺が枕元でわんわん泣きじゃくってても、もうそんなの聞こえてなかったみたいだった。ひいおじいちゃんのことだけ考えて死んでいったんだぜ。それなのに――
 それなのに――と深く息を吸って、整える。
(頼むよ、ひいおじいちゃん。ひいおばあちゃんが寂しがるようなことしないでくれ)
 アダムは、腹まで吸い込んだ息で最後の祭文を唱えた。その祭文こそは、アダムを守る赤いつるの茂み、真なる魔術を隠し持っているつるの壁を呼び覚ます。
 しかしアダムの魔術に呼応して、メイガスハンドもまた、アダムへ向けて魔術を放った。
「!」
 メイガスハンドが放った力は一瞬でアダムの体内まで到達し、そしてその途端に、奇妙な感覚をアダムの精神にもたらした。
――!!
 例えるなら胸の真ん中に突然くいを打たれたような――何か﹅﹅が自分のアストラル体の中心部へ無理やり侵入してきたような、そんな感覚。アダムはとっさに楯の印を両手で結んだが間に合わなかった。
 アダムは派手な音を立てて祭壇の上へ倒れ込んだ。
「アダム……!」
 と、緊迫した声を上げたのは後方で見守っていたイゴールである。が、アダムの元へ駆け寄ろうとするとマグダに制された。マグダは、
「まだです。今しばらく」
 と、冷徹とさえ思われるほど落ち着き払っている。ヘッドセットを通じて制御室の方へも「測定を継続してください」と伝えた。
「でも、でもマグダさん……」
「まだアダムには意識があります」
 マグダはイゴールの腕に手を当てて押しとどめながら、祭壇のアダムの方を振り返った。
 その言葉の通り、アダムは祭壇に突っ伏しながらもまだ自らの意識を保っている。しかし体の方は言うことを聞かなかった。手足がガクガクと震えて、祭壇にすがろうとするたびに、その上にささげられていた術具やにえが床の上へ散らばった。

19

(あの夢に――似て、る――
 と、アダムは、祭壇に掛けられた毛氈もうせんきむしりながら思った。
 自分の内部を芋虫が食い荒らしていく、あの夢に似ている気がした。ただあの夢と違うのは、否応もなく侵入してきて体の中を縦横無尽にいずる何か﹅﹅がもたらすのは不快感ではなく、むしろその逆の感覚だったことである。
 性感、などというような生易しいものではない。
「う、あ――っ、ぐ、ウウゥ――
 ほとんど獣じみた声がアダムの口から漏れていた。
 精神の快楽という快楽の根を握られていいようにもてあそばれている――とでも言うべきか、到底全て言葉にすることはできない。アダムの視界には薄紫色の風が金銀の粉雪を伴って吹いていて、耳の奥では何か柔らかな足のない生き物が脳髄をすすっている。震える足を踏ん張っていないと、自分もその粉雪の一片になって飛んでいってしまいそうな浮遊感。
 最も深い眠りに落ちる寸前のような怠惰。
 この世に生まれ落ちたばかりの嬰児みどりごの全能感。
 あらゆる快楽がごちゃまぜになってアダムの内側でスパークを起こした。
―――
 アダムの体がこれまでにないほど大きく震え、海老のごとくけ反って、祭壇の上へたたきつけられるように再び突っ伏した。
 だがそのわずかな間、アダムの両手が自由になった。アダムは必死で門の印を組んだ。
 あの悪夢に慣れてきていたことが、このときには幸いした。ありったけの力を胸部のチャクラへ込め、自分のアストラル体を蹂躙じゅうりんしている何か﹅﹅を捕まえた。
 何か﹅﹅は逃れようともがいた。それを逃してしまったら、やはりあの夢のように魔力をごっそり持ち去られてしまうような気がして、アダムは何か﹅﹅をそのまま押しつぶしてしまおうとした。印を剣に変え、呼吸を使ってアストラル体をたたき伸ばしていく。
 アダムを包むつるの壁がその呼吸に呼応してざわめき出すと、一度はアダムの全身を覆い隠すほど急速に拡がって、まゆのような形状になり――しかしその大きさを維持しきれなくなったように、やがてしぼんで消えた。
 アダムは、祭壇の上に倒れたままでいた。その体が力を失って、ずるずると崩れ落ちた。
 そのときになってようやく、マグダがイゴールを押さえていた手を離した。
 イゴールはアダムのそばへ駆け寄ると、うつ伏せになっているアダムの体をあお向けにさせた。アダムは意識がなく、断続的に痙攣けいれんを起こしていた。
〈心電図を解析しています――
 と、生命維持装置から無機質なアナウンスが流れる。
――電気ショックの必要はありません。ジアゼピマインの吸入を開始してください。患者の気道を確保し――
 イゴールはアナウンスに従って処置を行った。アダムの顔を覆っているケープを引き下げる。ケープの中にしまわれていたエアーチューブには吸入用の小型アタッチメントが付いている。それをアダムの口元にあてがう。
「サキさん」
 と、今度はヘッドセットからレオナのうろたえた声がした。
「大丈夫ですか!? あの、アダムは――
「息はしてる。今から安定剤を吸入させるから……できたら照明を点けて」
 すぐに照明が切り替わり、周囲が明るくなった。イゴールは、いつの間にかマグダもアダムのそばに膝を着いて寄り添っていたことに気がついた。
「………」
「展開は完了していませんでしたが、心臓に異常がなければ大事にはならないはずです。ジアゼピマイン吸入後、四、五分で意識が戻るでしょう」
 とマグダは、やはり落ち着いていた。
「意識が戻ったらアダム自身にチャクラの『施錠』をさせなければいけません。その後、医療機関へ――祭壇で体を強く打ったようですから」
「………」
 イゴールは何も答えず、酸素と薬剤の噴出が始まった生命維持装置の重い動作音の方に耳を傾けていた。
 マグダの言う通り、アダムは五分ほど経つと目を覚ました。イゴールとマグダが自分の顔をのぞき込んでいたので、バツの悪い思いがしたらしい。
「ひいおばあちゃんや父さんの顔が見えるかと思った――
 と、弱々しくうそぶく。
「もう、何を言ってるんだか……」
「アダム、怖かったでしょう――よく耐えたわ――あなたは強い魔術師よ」
 イゴールとマグダは代わる代わるアダムを慰めた。マグダの方は、冷静な首座祭司の仮面の下からようやく優しげな声を漏らした。
「ひいおじいちゃんの手、どうなった?」
 とアダムは尋ねた。メイガスハンドは何事もなかったかのように、荒れ果てた祭壇の最上段に鎮座ましましている。それをイゴールから教えられると、アダムはさらに聞いた。
「君やおばさんは無事――?」
「平気ですよ……マグダさんも、僕も……たぶん本体﹅﹅の方は」
 イゴールは胸に下げたロザリオの人形をアダムへ見せた。魔術が始まる前には五体満足だった人形が、今は左手と左足を根元から失った姿に変わり果てていた。
 ヘッドセットからレオナが呼びかけてきて、
「アダム。アダム、よかった――こっちでもみんなで心配してました。アダムが倒れた後、メイガスハンドの周囲の魔力場も減衰したので、もう大丈夫だと思います」
 と言った。
 しかしアダムの顔色は浮かない。
「でも、地鎮には失敗してる――
 アダムは魔術の間に祭壇へぶつけたところが痛むと訴え、マグダの手を借りてどうにかチャクラの施錠を終えると、すぐに医療機関へ運ばれていった。
 レオナはウリエルと二人で実験棟の玄関先まで出て、アダムを乗せた車を見送った。午後三時に始まった実験だったが、終了したときには六時に近い。外はもう日暮れ時だった。
「なかなか、難題だなぁ」
 と、ウリエルがぽつりとつぶやいた。車はすでに走り去って見えなくなっていたが、レオナとウリエルはしばしその場に立ち尽くしていた。
「ジュネさんもずっと気が張り詰めてて疲れたでしょう。無理しなくていいよ」
「いえ、私は大丈夫です――アダムやサキさんたちに比べたら――
 レオナはかぶりを振った。
「ジュネさん、もちろん承知してると思うけど、今日の測定結果の取り扱いには気をつけるようにね」
 ともウリエルは言った。
「測定対象者の尊厳やプライバシーを守るのが第一。たとえそれで研究に不便が起こっても――と僕は思う。今回の結果は、カミュさんも進んで他人に見られたいものではないだろうからね」
――はい」

20

 翌日、レオナが研究室のデスクでラップトップに向かっていると、そこへイゴールが訪ねて来た。
「アダム、しばらく入院だってさ。聞いた……?」
 と言う。
 レオナはかぶりを振った。
「知りませんでした――あの、アダムのケガ、そんなにひどかったんでしょうか」
「祭壇で体を打った打撲より疲労がつらくて起きてられないって、チャットでは言ってたよ……それとお医者さんに言われて精密検査を受けるんだって……」
「心配ですね」
「うん……ちょっと座らせてもらっていい?」
 イゴールはレオナの隣のモントの席に座った。
「今いるのはレオナだけ? ウリエルさんとヒューさんは不在……?」
 と尋ねた。ヒューというのはモントのことで、ヒューバート・モントが彼のフルネームである。
「私だけです。他の班の人はたぶん実験室です。ウリエルさんたちはそのうち戻ると思いますけど、何かご用ですか?」
「アダムが昨日の測定結果を早く見たいって言うからさ……病院に持って行ってあげることってできるのかなと思って」
「結果の持ち出しは――どうでしょう、できたとしても制限が多いと思いますけど」
 レオナは昨日のウリエルの言葉を思い出していた。ウリエルは難色を示すかもしれないなと思った。
 イゴールはデスクに頬杖をつき、
「病院にアダムの調子を見に行くついでに、黄金の契り教団に寄って昨日の報告書を提出してこなくちゃならない」
 と、なにやら気の重そうな調子で言った。
「ねえレオナ、僕……昨日のことで、マグダさんがなんだか苦手になったよ」
「えっ、な、なぜ」
「だって……アダムのあんな様子を見ても顔色一つ変えないでさ……」
「それは――確かに終始冷静でしたよね。でも首座祭司として毅然きぜんと振る舞っていらっしゃるんだと思ってました。本心でどう思っていらしたのかはわかりませんし――
「……そういうことなのかな」
 イゴールは、自分の頭の中でもやもやと考えていたことについて、とりあえず結論をレオナが言ってくれたそれと決めることにしたらしい。
「ごめん、変なこと言って……」
「私は別にいいですよ」
「なんていうかさ、僕も……探究心のために危険を顧みない気持ちはあるよ。でもそれには限度があることも知ってる。アダムがあんなふうに苦しんでる姿を黙って見てることは、僕の限度を超えてたよ」
 そんなことをつらつらと話しているうちに、ウリエルとモントが戻ってきた。
「おや、サキ君がいる」
「やあサキ君」
 ウリエルとモントは代わる代わるイゴールに声をかけた。
 イゴールはさっそくウリエルへ用件を伝えた。
 レオナの予想通り、やはりウリエルは簡単にはうんと言ってくれなかった。
「まず持ち出すデータは暗号化することと、パソコンも所内で指定の物を使うこと。ネットワークや外部記憶装置の接続を遮断するセキュリティソフトが入ってるやつだね。それからデータ自体も画像処理して測定対象者を特定できないようにすること――万一誰かに見られたときのために――サキ君を信用してないわけじゃないんだけど」
「データの加工は急いでも明日まではかかりますね」
 と言ったのはレオナである。
「カミュさんの退院を待った方が早いかもね。CISO(最高情報セキュリティ責任者)がすぐに許可を出してくれるかもわからないし」
 とウリエル。
「でもアダムの気持ちがはやるのもわかりますし――できるだけのことはしてあげたいです」
 とレオナ。ウリエルは、ふむとうなずいた。
「まあやってみようか。データの処理はジュネさんに任せるよ。明日の正午までにできる?」
「間に合わせます」
「サキ君は情報システム部へ提出する申請書類を作って室長の許可を取っておいで。僕は上の方にちょいちょいっと根回ししておくから」
 と、ウリエルは言ってくれた。
 イゴールの表情が和らぐ。ほっと肩の力が抜けたようであった。
「ありがとうございます……今日中には持って来ます」
 イゴールが自分の研究室に戻ろうとしたところを、モントが呼び止めた。
「サキ君、人の心配もいいけど、君も一度は病院で検査を受けた方がいいですよ。昨日は言わなかったけど、あのとき実験室内の魔力場は人体に影響があるレベルだった。それに紫外線も相応に強かったはずだし、もし皮膚や目に異常を感じたらすぐに――
「わかってますよ、大丈夫。僕にだって主治医くらいいる。今度相談してみます……」
 大急ぎで進めたかいあって、それから二日後の午後には、イゴールは実験データを所外へ持ち出す許可を得てアダムの入院している病院へ出かける準備が整っていた。
 その日の昼休みが終わる頃、イゴールは研究室にいるレオナの元を訪ねた。
「レオナ、用意できてる……?」
 レオナはちょうど外出のために身支度をして、レインコートを羽織っているところだった。
 彼女が自分もアダムのお見舞いに行きたいと、おずおずとイゴールへ申し出たのは前日のことであった。
 二人は一緒に研究所の建物を出て駐車場へ向かった。
「レオナが一緒に来てくれて助かったよ……僕、運転苦手だから」
 公用車の助手席に乗り込みながらイゴールが言う。レオナは運転席に座って車のエンジンをかけた。
「いえ、すみません、急について行きたいなんて言って――
「何言ってるの、レオナもいる方がアダムだって喜ぶよ」
「そ、そうでしょうか」
「アダムは君のことがお気に﹅﹅﹅だから……」
「え、えぇ――いや、そんなことはないと思いますけど。好かれる心当たりなんてないですし。私は――アダムとは全然違うタイプだし」
「彼って調子がいいように見えるけど、案外ものを見る視線は繊細だよ。思わぬところを観察されてる。この間デートしてみてそう思った。レオナも今度山羊カレー食べに連れて行ってもらうといいよ」
「山羊――
 レオナの運転する車は山道を下り、都心部へ向かった。アダムが入院しているのは聖エンジュメディカルセンターだと聞いている。
 昼下がりの総合病院の駐車場は混み合っていた。そこから正面玄関へ回ると、その名を冠した血の夜明け派の偉大な魔術師エンジュの立像が来院する者を見下ろしている。
「エンジュは1340年頃に没した医学者なんですよ。ヴァッサイの詩では、死者の体を切り開いたことを皇帝から罪に問われて殺されるんです」
 とレオナは像を見上げながら言った。
 イゴールも立ち止まってエンジュ像を眺めた。
「……それから五百年以上経って、初めて魔術師の解剖が行われてメイガスハートが見つかったんだよね。知ってる?」
「大学で生体魔術の基礎を取ったときに習ったような――
 二人はそんな話をぽつぽつしながら、院内を盛んに行き来する人々を縫うようにしてアダムの病室へ向かった。

21

 アダムは、今日になってもまだ病院のベッドの中で、いくらかうつらうつらした心地で過ごしていた。
 三日前、学士院総合研究所での実験後、この病院に運ばれてきてそのまま入院――そのときには疲労がピークに達していたようで、何か検査したのか、どういう診断が下されたのかもよく覚えていない。後で医師から説明された話では、強く打った胸や腹については、画像診断でも損傷は見つからなかったとのことである。
 半日以上こんこんと眠り続け、翌日の昼に一度目覚めた。知らない間に入院に必要な物が家から届けられていて、入院の手続きなども済んでいた。その労を執ってくれたのは、親切な親戚の叔父、叔母たちであった。鉛のように重い体にむち打ってどうにかイゴールに連絡を取り、それからまた泥のように眠った。
 今日はイゴールが実験結果を持って来てくれると言うから、うとうとしながらも起きて待っている。それに眠ると、メイガスハンドとアストラル体で交わったのを思い出すような夢ばかり見る。起きられるなら起きている方が気楽でもあった。
――アダム」
 と呼ばれて眠い目をこすると、病室のドアのところにマグダが立っていた。
「もう午後よ。まだ眠気がひどい?」
 マグダはベッドのそばまで来てくれた。あれこれと心配してくれるが、そう言うマグダ自身もやつれた様子だった。病室の白い壁を背にしてなお彼女の方が青白く見えるようだった。
「マグダおばさん、毎日付き添いに来てくれて嬉しいけど――おばさんの方こそ顔色がよくないよ」
「私のことはいいのよ――ところで、今日の午前には精密検査の結果が出ているのじゃなかった?」
 マグダは、ベッドの枕元にスツールを置いて腰掛けた。アダムは物問いたげにマグダの顔を見つめていたが、彼女は弱々しく微笑ほほえんでいるばかりだった。
 アダムはサイドボードに置いてあった書類をマグダへ手渡した。
「検査結果なら、これだけど」
「見てもいいかしら」
「いいよ」
 マグダは書類に一通り目を通すと、そっとアダムに返した。別段驚いた様子でもない。結果を見るまでもなく、アダムの体のことをマグダはかねてから知っていた。
「お医者様はなんて?」
「それは、まあ、手術を勧められたよ。できれば今すぐにでもって」
「あなたの意思は?」
「しない」
 と、アダムは言い、口をつぐんでマグダの言葉を待った。
 マグダも黙り込んでうつむきがちになり、随分長い間、次の言葉を探していた。そして、
――もし」
 もしもだけれど――と、ぽつりぽつり話し始めた。
「今この場に――あなたの母親がいたら、きっと何がなんでも、あなたに手術を受けさせようとするでしょうね――
―――
「私には、あなたの意思を尊重するとしか言えないわ」
 と、マグダは寂しげに目を伏せながら言った。
「いいんだ」
 とアダムはかぶりを振った。
「おばさんには教団の首座祭司の立場だってあるんだから。俺も、少なくとも、ひいおじいちゃんの手の地鎮を投げ出すつもりはないよ」
「アダム」
「気にしないでよ、マグダおばさん。俺の本当の母親は、もし俺が同じように検査結果を差し出してもさ、きっと全然見ようともしないよ。おばさんの方が、よっぽど俺を必要としてくれてると思う」
「アダム――あなたを愛してるわ。私だけじゃない、みんながあなたを愛してるわ」
「アレクセイ・カミュの後継者をね」
 アダムの憂鬱はかたくなであった。
 ――後継者で思い出したけど、とアダムは話の矛先を変えた。
「結局俺は教団に戻されるの? 今月中に結論が出るって話だったけど」
 マグダは、その話題についても浮かない様子で、
「そうね、教団の評議員のほとんどは、月末の評決で賛成に回ってくれることが内定しているわ」
 と、いささか歯切れが悪い。
「全員ではないんだ」
「教団といえども一枚岩ではないわ。強固に反対する人間こそいないけれど、一部は、一度は破門に処したものを手のひらを返すように呼び戻すのには抵抗を感じているようよ。あなたが黄金の契り派の魔術師として相応の功績を――つまり今度のメイガスハンドの地鎮である程度の結果を示してから迎え入れてはどうか、と」
「もっともな意見だと思うけどな」
「ジーンやあなたの事情を酌もうともせずに破門にしてしまったのは一体誰なのかという話よ」
「教団の評決って全会一致じゃないとだめだよね? ということはこの分だと――
「ごめんなさい、もうしばらくかかるかもしれないわ」
 そのことについて二人が話し込んでいると、あるときふと、マグダが、
「破門を許すにはあなたの実力を示してほしいと言っているのはモネの血脈よ。今年十六歳の息子が展開式を終えて戴冠したの。評議員をしているのはその師たる母親で、それでもまだ四十歳を超えたばかりよ」
 そんなことを語り出した。
「さらに彼女の師だった父親が生きていれば、今年六十七歳――私と首座祭司の地位を争ったかもしれなかった。でも十年ほど前に、ガンで亡くなったわ」
「俺の父さんとそんなに歳も違わない人だったんだ。父さんは心筋梗塞だったけど――
「教団の記録では、私たち黄金の契り派の魔術師の平均寿命は六十七・四歳よ。ダーリア・スルト・カミュのような特異的に長命だった例外を除いては」
 とマグダは言う。
「明らかに国民平均よりも低い年齢だわ。でも私たちは、見て見ぬふりをしてきた。誰も大きな声で言おうとはしないけれど、原因は私たちの魔術でしょうね。体に負担をかけすぎているのよ」
「マグダおばさん――なんでそんな話するの」
「ねえアダム、私もあなたのように若かった頃は、自分の命がいつ尽きたって構わないと思っていたわ。自分の人生を犠牲にしてでも、なすべきことがあるのだからと思っていたわ。それが黄金の契り派の魔術師として、私の生まれて生きる意味だと考えていたから」
 そこまで言ってマグダは、急に老け込んだような、頼りないため息を漏らした。
「でも――今になって、今更になって、わからなくなってきたの。本当にそうだったのかしら、と。自分の死期が目前に迫ってようやく、疑問を抱いているの。自分のこれまでの人生を肯定したらいいのか、否定したらいいのかわからないの――私もガンなのよ」
 悪性リンパ腫で主治医にはあと一年もたないだろうと言われているわ――とマグダは言う。
―――
 アダムは顔をゆがめて、口を真横に結んで、マグダを見つめた。マグダは微笑ほほえんでいた。けれども、芯まで疲れたような青ざめた顔で。
「嫌だ」
 と、アダムにはそれだけ言うのが精一杯だった。
「そんなの嫌だ――

22

 イゴールとレオナが病室を訪ねたとき、アダムはベッドの上に起き上がって、赤く腫れぼったい目元をしきりにこすっていて、
「大丈夫ですか……? 誰か呼んできましょうか」
 とイゴールが心配して言うと、慌てて黒縁眼鏡をかけ直した。
「そんなんじゃない。なんでもないんだ、ほんと――ほんとに――
 アダムはごまかしてしまってから、イゴールの斜め後ろでなんとなく縮こまっているレオナの姿をのぞき込むようにして見た。
「レオナもいる。来てくれたんだ」
「ええ、あの――お加減はいかがですか」
「ありがとう。もう、だいぶよくなった」
「それはなによりです」
 イゴールとレオナはそれぞれスツールを持って来て、イゴールがアダムに近い方に、レオナはその隣に座った。
「アダムは一人暮らしでしたよね。入院生活は不便じゃありませんか?」
 とレオナはアダムを気遣った。
「そうでもないよ。親戚の叔父さん叔母さんがいろいろ手伝ってくれた。それに――マダム・マグダが毎日面倒見に来てくれる。今日もついさっきまでいたんだ」
「マグダさんが……」
 と少し意外そうな反応を寄越したのはイゴールである。
「うん――教団の仕事もあって随分忙しいだろうにさ、時間を見つけては――俺にとっては実の母親より母親みたいな人だよ」
「………」
「そうだったんですか。じゃあ、この際ですからマグダさんにめいっぱい甘えないといけませんね」
 と素朴な調子でレオナが言った。アダムが赤い目をちょっと見張って、イゴールは細い目を流し目にして、彼女の方を見つめた。
 レオナは、そんなふうに二人から見られては戸惑ってしまう。
「? え、ええと?」
「君はそう――思う? でも、いいのかな――
「いいんじゃないですか? だってマグダさんもアダムのことを自分の子供と同じように思っているから、忙しくても頑張ってアダムに会いに来てるんじゃ?」
 私何か変なこと言いましたか? と首をひねっているレオナに、アダムは優しくかぶりを振って、
「いや。君って――君のそういうところって俺にはまぶしいよ」
 と言い、いくらか肩肘の力が抜けたようだった。
 レオナが目を白黒させるやら、まごまごするやらしていると、脇からイゴールにつつかれた。
「……今のうちに、あれ、渡しておきなよ。お見舞い」
 と言われ、レオナはバッグから小さなプレゼントの包みを取り出した。
「何? 開けてもいいの?」
 アダムが受け取って包装紙を外すと、中からは外国の翻訳物ペーパーバックのSF小説が一冊出てきた。
 レオナとイゴールは、二人からの差し入れだと言う。
「入院中の暇つぶしになればと思って」
「この間チャットで、日本のSFはまだ読んだことないって言ってたから……ところで、退院の目処めどは立ちそうですか?」
 アダムは『VIRUS』という題のその小説をパラパラとめくって見ながら答えた。
「ああそれは、検査も済んだから、じきに退院だと思う」
「精密検査の方は異常なしだったんですか……?」
「うん――いや、まあ」
 とアダムは言葉を濁した。しばらくもじもじしていたが、やがてはらを決めたらしかった。本を置いて、検査結果の書類を取った。
「別に隠すようなことでもないから。見てもいいぜ」
 検査証明書を受け取ってそれに目を落としたイゴールとレオナが、にわかに身を固くしたのがわかる。アダムはなんともいえずバツが悪かった。
――実験の日、ここに運ばれてきたとき俺は意識が朦朧もうろうとしてたけど、どうも胸を打ったからってCTを撮られたらしいんだよ。それで医者が気づいて――俺も結果を見たけど、確かに心臓の裏側に、これくらいの」
 と言いながら、右手の指でゴルフボール大の輪っかを作って見せる。
「メイガスハートが写ってた。精密検査を受けろって――その結果がそれ。俺もうグレード7+なんだよ。でも、だからなんだって話さ。医者の先生も大騒ぎするようなことじゃないのにな」
「そんな――
 とレオナが言いかけたが後が続かなかった。その代わりにイゴールが薄く口を開き、
「……その口ぶりだと、以前から自覚してたみたいですね」
 と言った。問いただすような目でアダムを見る。
 アダムはうなずいた。
「そりゃぁね。ある日突然そんな大きさになるってわけじゃない。子供の頃から毎年検査は受けてたからな。去年はまだ7-だったんだけど、いよいよ+になったかって」
「手術するんですか……? 少なくともこの結果を見た医師は手術を勧めましたよね。ここまでの大きさになったらもう……外科手術で摘出するしかないと聞きますから……」
「あのひいおじいちゃんの手をそのままにして、魔術師辞めるわけにはいかないだろ」
「……じゃあメイガスハンドの件が解決した後に」
「いいや」
 手術はしない、とアダムは言う。
「あの、す、すみません、どうしてですか?」
 と、遠慮がちに尋ねたのはレオナである。
「このまま放っておいたら、その、つまり」
「何年後かには発狂して死ぬんじゃない。グレード8、狂乱病発症――
 アダムはやや面倒になってきたような調子で、リクライニングさせたベッドの背に寄りかかって天井をあおいだ。
 グレード8――と口に出してみて、自分が思いの外それにリアリティを感じていないことに気づく。他人事のような感じがするのだ。
 “狂乱病”、あるいは、現代では“魔術師のガン”ともよく呼ばれる。
 発症すると、幻覚や錯乱、異常な興奮といった精神症状、あるいは性格の攻撃的変化などが起こる。昏睡に至ることもある。その後、心不全で死亡する。現在のところ、有効な治療法は見つかっておらず、発症後の致命率は百パーセントである。
 その病が初めて歴史上に姿を現したのは十五世紀の末、ローテュセア大聖堂に残る血の夜明け派の壁画がそれを記録している。いばらの門の最奥の、地に横たわった一人の狂える聖人の画。以後長きにわたって魔術師たちの生命を脅かしてきた職業病である。
 現代、魔術師たちもいまだ業病の前に膝を折ったわけではない。狂乱病の原因が、魔術師特有の器官であるメイガスハート(魔術師の心臓)の肥大化にあると解明されたのはこの百年以内のことである。百年前、狂乱病によって死亡したイリヤ・ラフォンという名の魔術師は、自ら望んで死後にその体を解剖された。そのときに初めて、魔術師の第二の心臓、メイガスハートは発見されたのであった。
 アダムは、そうして記憶から引き出した知識を反芻はんすうしてみても、やはりどこか雲をつかむようで実感が湧かなかった。
 マグダは死に臨んで自らの人生を顧み、思い悩んでいると言う。しかし、若いアダムにはまだそれも自分のこととは同じに思えなかった。手の届きそうで届かない、伸ばした手が空を切る蜃気楼しんきろうのような境地だ。
 ――そうそう、まだレオナの問いに答えていなかった――と思い出した。
「なんで手術しないかって話だったっけ――そんなの、メイガスハート取っちゃったら俺に他に何が残るのかって話でさ。君たちみたいに学位を持ってるわけでもないし、生きてればそれだけでいいって言ってくれる家族がずっとそばにいてくれるわけでもないんだぜ」

23

 アダムはそろそろ仕事の話をしないかと言った。イゴールもレオナも押し黙っている重い空気に耐えかねて、わざとらしいほど明るい声を出した。
「君たちだって勤務中だろ。公務員なんだから、職務に専念しなきゃだめだって」
「……それはそうですね」
 と、イゴールが陰気な調子で同意した。同意はしたが、顔を伏せている。しばらくして急に立ち上がり、
「すみませんその前にちょっと……飲み物か何か欲しいので……」
 と弁解するように断って、一人で病室を出ていってしまった。
 イゴールは一階フロアの外来受付の辺りまで行って、ようやく自動販売機を見つけた。たいしたものは売られていない。フレーバー付きの炭酸水が四種類、レモネード、野菜ジュース、スポーツ飲料、ミルク・ビター・キャラメルのビタミン入りチョコレートバー――というほどの品ぞろえである。
「………」
 何が欲しいわけでもなかったが、何も買わずに戻るのもおかしいかと思って、コインを持った手を投入口の前でさまよわせながら、うつむいてぼんやりしている。
 内心、自分が柄にもなく、ひどく動揺している自覚はあった。
「………」
 アダムに対して、もっと何か言うべき言葉があったかもしれない。頭の中に去来する語句はそれが正論にしろ、慰めにしろ、いくつもあった。しかし、舌が口の中に貼り付いてしまったようにぎこちなくしか動かなかった。
 長く尾を引くようなため息ばかりがこぼれる。
(まさか……アダムも、とは、ね……)
 さんざん迷った挙げ句に結局レモネードを買い、それからキャラメルのチョコレートバーも三つ買って、病室へ引き返すためにきびすを返した。
 イゴールが出ていってしまって病室に二人きりで残されたアダムとレオナは、お互い目も合わせられないように、二つの視線はそれぞれ別の方を向いて宙に浮いていた。
(こんなとき何て声をかけたらいいんだろう)
 とレオナは、そんなことも思いつかない自分が情けなかった。
 レオナも魔術師である以上、メイガスハートのこと、そのグレードについて、知らないわけではない。けれどもそれは、彼女にとっては、毎年医療機関から送られてくる代わり映えのしない検査証明書に無愛想に印字されているだけの、すぐに生活の煩わしさに埋もれていくようなことだった。
 レオナはグレード4――平均的な値で、現代ではこの国の魔術師の多くがそうだ。自らの体内のメイガスハートのことなど顧みもせず生涯を過ごす者がほとんどである。グレード5、6と進めば要観察になり、7-からは治療が必要、8になれば発症――知識としては知っていても皆他人事のように感じている。レオナも、本当のところを言えば、すぐにそれを自分自身のことのようには考えられなかった。
 そんな自分が、口先だけでアダムを慰めるのは何かとても悪いことのようで、黙っているしかなかった。
―――
 そういえば――とレオナは思い当たることがあった。アダムが学総研へやって来るようになった頃に、「そのうちグレード5だの6だのって検査結果が送られてくる――」というようなことを言っていた気がする。そのときに気がついてあげられればよかった、と思った。
―――
 ふと、視線を感じ、振り返ると、アダムがこちらを見ている。何を言うでもなかったが、レオナの横顔を見ていた。
 レオナが気まずくてうつむくと、ベッドの足元の壁際に黒いバイオリンケースがぽつんと置かれているのが目に入った。
 アダムはレオナの目線の先に気づいて、
「これ――? 見たい?」
 と、ベッドから身を乗り出してケースを取ると、膝の上でそれを開けてレオナに見せた。音楽にはあまり縁のないレオナが見ても、手入れが行き届いていて、高価な楽器であろうことは一目で察しがついた。
「病院にまでバイオリンを持って来てるんですか?」
「親戚の叔父さんたちに頼んでさ。病室じゃもちろん弾けないけど、外の公園でならいいって聞いて。それにここでも運指の練習くらいはできるしな。毎日少しでも練習しないと落ち着かない。もう今更練習なんかしても――とは思うけど、まあ、子供の頃からの日課だから」
「本当にバイオリンが好きなんですね」
――好きだよ。才能は人並みだけどな。それでも、これが俺の財産でもあるわけでさ」
「大切にされてるのは私にもわかります。とっても綺麗――
「父さんがまだ生きてた頃に買ってくれたんだ。たぶん、ひいおじいちゃんの手を売った金で」
 アダムは静かにバイオリンケースを閉じた。
「子供の頃からあんまり長くは生きられないだろうって医者に言われてた。もっとも俺は、ちゃんと事情がわかったのは大きくなってからだったけど。実の母親は俺を育てるのが嫌になって出ていって、独りになった父さんは俺を溺愛して俺のためなら何でもしてくれた。有名な医者にも診せたし、私立の音楽学校にも入れてくれた。高いバイオリンだって買ってくれた。そんな金がうちにあったはずないのにな。俺の父さんの仕事って、リリアの市立図書館の司書だったんだぜ――
 バイオリンケースを元の場所へ戻し、体を起こして見ると、レオナが今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見つめていた。アダムはびっくりして、ごまかすように半端な笑顔になった。
「君がそんな顔することないのに」
「だって、あなたがそんなに平気そうな顔をしているから――
 とレオナは言いかけたが、その先は口ごもってしまって言葉にならない。もぐもぐと言いよどんだ挙げ句、
「す、すみません、忘れてください」
 結局、最後まで言えなかった。
「なあレオナ、ずっとそんな顔見せられてたら俺も緊張してドキドキしてくるじゃん。君優しいからつけ入りたくなっちゃう。好きになっちゃうぞ」
 と、アダムは冗談を言っておどかした。レオナも、アダムがそれを本気で言っていると取り違えるほど幼くはなかった。
「こ、困ります――というかそれは、なんというか、吊り橋効果的なドキドキなのでは――
「そうかなぁ、案外わかんないよ」
 そんなたわいもないやり取りをしていると、病室のドアがたたかれた。イゴールが帰ってきた。
「イグ、遅かったじゃん」
「いえ……自販機がなかなか見つからなかったもので」
 イゴールはジャケットのポケットから無造作に取り出したチョコレートバーをアダムとレオナにそれぞれ手渡して、二人をきょとんとさせた。
「職務に忠実になるとしましょうか……」
 研究所から持ち出してきたブリーフケースを開け、タブレット型のラップトップをアダムへ差し出す。

24

 タブレットの画面には、グレースケールで表示された実験室の景色を背景に、その中央に立つアダムらしき人物のシルエットが明るい緑色で映し出されている。
「個人情報の保護のために映像を加工しました。音声も今回は消してあります。代わりに音声ファイルから自動生成したテキストを表示させてありますけど、特に祭文の部分についてはつづりが正しくないかもしれません」
 とレオナが説明し、その後はイゴールが引き受けた。
「レオナが一日かかりきりで準備してくれたんですよ。実験室内を暗視カメラで撮影した動画に魔力場の分布を重ね合わせて表示してます。変化が起こるのは解錠の術式を終えた後です」
 アダムは画面の下端に表示されているシークバーを指先で動かしてその場面を探した。見つけると、食い入るようにして画面をにらんだ。
 映像の中でアダムが最後の解錠の祭文を唱え終わるのと同時に、体の中央から魔力場の放射が始まる。それまでアダムの胸部を中心にして黄色い球状に浮かんでいた分布が、瞬く間に暖色に変わり画面いっぱいまで膨張する。
「魔力場が強すぎるので少しカラーマップのレンジを広げてます……ここを見ててください」
 と、イゴールが脇から手を伸ばしてきて、画面上の一点を指差した。そこは祭壇の最上段、メイガスハンドが置かれている場所である。
 映像中のアダムがアストラル体の展開に入り、術具の杯を手にして祭文をささげる。ところが、実験室内でアダムやイゴールが知覚していたような、杯からあふれる水や赤いつるの壁といったイメージは映像には映っていなかった。
「制御室で私が見ていたモニターにもそういったものは映っていませんでした」
 とレオナが残念そうに言った。
「私も見てみたかったです――
 メイガスハンドの異変はアダムが二つの杯を手にしている間に現れていた。メイガスハンド周囲の魔力場が局所的に強まり、分布は赤色にまで変化する。しかしそれは一瞬で消えてしまう――という現象が断続的に発生し始める。
「この状態がしばらく続いて……最終的にアダムが倒れたときの分布がこれ」
 イゴールがシークバーを操作して右端まで早送りすると、そのときの魔力場の分布はアダムとメイガスハンドの二箇所で極大を取っていた。
「まあまず予想通り。展開の間に何か起きてるんだろうなって気はしてた」
 とアダムは言った。
「マダム・マグダも展開の途中で倒れたって話は聞いてる?」
「ええ……マグダさんは創世展開だったと聞きましたけど。今回あなたが別の展開法を選択したのには何か理由があるんですか?」
「そりゃ、一番の理由は自信がなかったから」
「………」
「マダムほど経験豊かな祭司でも失敗してるのに、俺なんかが最初から同じことをやって成功するとは思っちゃいないよ。ただ、失敗するにしても意味のある失敗にしなくちゃならなかった」
 アダムは、メイガスハンドの反応が始まったところまで動画を巻き戻して、その場面を何度も繰り返し再生した。
「俺のやった調和展開ってのは、祭文や術具が創世展開と一部共通してるんだ。調和展開でも同じように失敗したってことは、その共通部分に原因があるのかもしれない」
「合理的ですね」
 イゴールはうなずく。
「その辺を足がかりにして調査してみましょうか……」
「頼む」
「でも、アダム――
 と、レオナがいくばくか不安そうな声を挟んだ。
「その、展開の途中で問題が起こっているということは、仮に原因がわかったとしても」
「そうなんだよな。展開を終わらせられないことには話にならない。詰んでるよなこれ」
 うぅむ、と三人とも考え込んでしまったが、イゴールがいち早く気を取り直して「まあともかく」と言った。
「まずは原因を探ること……今できることから行動を起こしましょう。それから見えてくるものもあるでしょうし……」
 翌週になって、退院したアダムは学士院総合研究所を訪れイゴールを訪ねた。
 研究所設立当時から残っているというタイルの正門をくぐって敷地内に乗り入れたライムグリーンのトヨタは、多くの職員の目をいた。その車内から出てきたアダム自身も、今日は煙がかったブルーのスーツ姿で随分人目についていたが。
 イゴールの研究室へ行くと、
「あの黄緑色の車、アダムのでしょ……」
 と、イゴールはにやつきながら出迎えてくれた。ここからでも見えましたよ、と言う。
「退院おめでとう……体の調子はどうですか?」
「いいよ。もう絶好調」
「……それはなによりです。じゃ、レオナのところへ行きましょうか。今は彼女が頼りです」
 二人はさっそくレオナの研究室へ向かった。
 レオナは、いつもの彼女のデスクにはいなくて、オフィスに隣接した実験室で解析用のデスクトップに向かっていた。
「や、レオナ」
 とアダムが声をかけると、気がついてくれた。
「アダム、来てたんですか? 体調は――
「もう平気。ところで何してるんだ?」
 アダムとイゴールはレオナの横に集まってデスクトップのディスプレイをのぞき込んだ。画面には先日の測定結果が表示されている。アダムが病院で見たのと違うのは、映像の上に細かなグリッドを重ねて表示してあって、その交点ごとに小さな矢印が描かれている。
「祭文の語句と呼吸パターンに場の変化量をひも付けたデータを作ってるんです」
 とレオナは説明した。
「たとえば――『アデナグアナシトナ』の祭文とそのときの呼吸波形を切り出して、それと魔力場の変化を表す数値配列をセットにするわけです」
「それを祭文の最初から最後までやるのか」
 気が遠くなるな、とアダムがぼやく。
「手作業でするわけじゃありませんよ。自動で処理できます。そこからさらに特徴量を抽出していくんです」
「黄金の契り派の魔術は長時間に及ぶので……大量のデータが得られますからね。それをAIに学習させてみたい。事前に発生する魔力場を予測できれば、危険な実験を繰り返す必要もない」
 とイゴールが後を引き継いだ。
「つまり、荒っぽく言えば計算機上にAIでもう一人アダムを創ろうっていう……そういうビジョンですね」
「そんなことできるのか?」
「研究者なめんな……ということですよ」
 ね……とレオナに同意を求める。レオナは「あはは――」と苦笑いしながらもうなずいていた。

25

 ラップトップケースを胸に抱いてイゴールの研究室へ向かいながら、レオナはあくびをみ殺した。
 夕べはなかなか寝つけなかった。明かりを消した寝室で一人横になっていると、その晩は部屋の外も不気味なくらい静かで、目をつぶって闇の中にいるうちにさまざまな思考や思い出が去来した。幼い頃亡くなった祖母のことなども思い出した。その人は、曽祖父ライオネルの長男であった祖父リオットの元へ嫁いできた人で、レオナにとっては厳格な祖母という思い出ばかりがある。その祖母も死んで――死んでどうなったのだろう。
 死んだ後はどこへ行くのだろう――と、レオナは心細い空想にふけった。死ぬということは、私が消滅するということなのか。いずれまた別人として自我は復活するのか。それとも全くの無に帰すのか。私という観測者を失った世界は、その後も存在し続けるのか。それはどんな姿で、いつまで――
―――
 レオナは不意に怖くなってきて目を開け、枕元のランプをけた。暖色の光に照らされると、恐怖はじきに遠ざかった。レオナには、その恐怖と真に向き合うのはまだだいぶ先のことのように思われた。
(でも――
 さみしい空想は再び訪れた。もし自分が重い病気だとわかって、残された日々もごく少ないとしたら――何を思い、どう過ごすだろう。そんなことをあてもなく思い巡らし続け、レオナは二、三粒の涙を枕へ落としてやっと眠りに落ちた。
(どうしてアダムは平然としていられるんだろう)
 と考えながら、とぼとぼ歩いていたら、急に背後から当のアダムの声がしたからギクリと身がすくんだ。
「やあレオナ。もしかしてイグのところに行くのか? 研究室に会いに行ったんだけど、いなかったから探したよ」
「こ、こんにちはアダム――何か私にご用でしたか?」
「いや今夜暇だったらデートに誘おうかと思って」
「うっ」
 と、レオナは思わずうめいてしまった。
「まだ諦めてなかったんですね。というか、その、研究室にそういう目的で来られるのはちょっと」
「どうしても君を連れて行きたいところがあるんでね」
「どこです――?」
「デートOKしてくれたら教えるよ」
 むむ、とレオナは口ごもってうつむいた。
「だったらいいです」
「えぇ、そんなこと言わずに行こうぜ。雰囲気のいい素敵なレストランなんだよ。きっと君も気に入るって」
―――
「レオナの都合が悪いなら今夜じゃなくてもいいから――そうだ、じゃあ俺がひいおじいちゃんの手の地鎮に成功したら、ご褒美にデートしてくれる、てのはどう?」
 などと、アダムは言い出す。
「そしたら俺も頑張ろうって気になるしさ。返事は今じゃなくてもいいから前向きに考えといてよ」
 と勝手に決めてしまうと上機嫌になり、そのままレオナの横にくっついて一緒にイゴールの研究室を訪ねた。
 しかし、研究室は無人で、イゴールの同僚の研究員たちの姿もなかった。アダムとレオナは彼らの実験室の方まで足を伸ばしてみた。
 デスクトップが所狭しと並び雑然とした実験室内には三人の人物がいた。そのうち二人はイゴールと彼の同僚のヴルフで、彼らはペアを組んでAIの開発にあたっていた。残りの一人はアダムもレオナも初めて会う人物だった。栗毛色の頭にそばかす顔の、少年のような面差しの青年であった。
 イゴールと肩を並べて座っていたヴルフが真っ先に来訪者に気がついて、
「ライオンちゃん」
 と、レオナに向かって軽い調子で手を振る。
 しかしそれに返事をしたのは割り込んできたアダムだった。
「ハァイ、オオカミさん」
 ヴルフはたくましい肩をすくめて見せた。
「やあヒーロー、今日のその蛍光ペンみたいなネクタイめちゃイケてるな」
「ヴルフ、そんな意地悪言わないの……」
 イゴールが同僚をたしなめ、それからアダムとレオナへ「や……」と挨拶する。彼らからそばかすの青年は誰かと尋ねられると、
「まあちょっとね……」
 と言葉を濁している。青年は身の置き場がないように苦笑しながら名前だけを名乗った。
「マイルズ・テオです」
 イゴールはテオにアダムとレオナを紹介した。
「テオ……赤毛の彼がアダム。隣の女性がレオナ。レオナ・ジュネ……ライオネル・ジュネ教授の直系の子孫だよ」
「ああ、あなたが。獅子の一族から数代ぶりに研究者が現れたって――どんな怖い人かと思ってたら、優しそうな人でよかった」
 握手してもらえますか? とテオは丁寧に二人へ握手を求め、作法通りにレオナの差し出した手を取り、アダムの方へは自ら右手を与えた。そんな様子を見ていてアダムが、
「きっちりしてるな。なんだかイグに初めて会ったときのことを思い出したよ」
 と言う。イゴールが陰気に笑う。
「いい勘してるじゃないですか……」
「うん?」
「それより、何か用があって来たんじゃないんですか?」
「あ、私ちょっとサキさんに見てもらいたいものがあって――
 とレオナが申し出て、手近なデスクの上で持参したラップトップを広げた。残りの皆は彼女を囲んで人垣を作った。
 レオナはラップトップのディスプレイに最新の測定結果を表示させた。実験室内にアダムが立っており、体の前にはごく簡易な祭壇がある。アダム自身も祭服姿でなく、口元を隠すマスクをつけ、手元の覆いには医療用エプロンを体の前に垂らして済ませていた。
「先日改めてアダムの魔術中の放射魔力場を測定したんです。今回は彼単体、魔術の対象物はない状態で――その結果がこれです」
 スペースキーをたたくと、魔力場の分布が時系列に沿ってアニメーションされる。
「アダムがキャクタシリアからこちらに戻ってくる前に、メイガスハンド自体の放射魔力場も測定したことがあるんです。独立したほとんど時間変化のない定常な場です。それをさっきの結果にベクトル和で重ね合わせたものがこれで」
 と、別のファイルを開いて、二つの結果を横に並べて示す。さらにもう一つファイルを開いた。
「最後に、これはアダムが倒れたときの実験結果ですね。一連の結果に対して高次元へのウラド写像と基底抽出を行って――ええと、細部は省きますが、最終的に得られるのはアダムの周囲の魔力場によってメイガスハンド内部の領域に発生した励振エネルギーです」
「ウラド――何?」
 と、ついていけなかったらしいアダムは首をひねっている。
「DNA上の分子結合が変質するのに必要な魔力エネルギーを求める計算ですよ」
「いや待って、わからん」
「え、えぇ」
 そのとき、レオナの横にいたイゴールが片手を上げて、前のめりになっているアダムを制した。
「ごめん……レオナ、そのデータのコピーもらえる?」
「あ、先輩、差し支えなかったら僕にも――
 イゴールを「先輩」と呼んで頼んだのはテオである。が、イゴールはそれを一笑に付してしまった。
「だめ。君は見るだけ……君の立場は王生研のスパイなんだから」

26

 イゴールは、改めてテオのことをアダムとレオナへ紹介した。
「彼はマイルズ・テオ……僕が王立生化学研究所にいた頃の後輩ですよ。今日はこっちへスパイ活動しに出張して来てるってわけ……」
「人聞きが悪いなぁ、情報交換しに、って言ってくださいよ。だいたい、先輩の方から呼びつけておきながら」
 と、テオは苦笑いしている。
「まあ、実際のところ、こちらでメイガスハンドに対処しようとしてる件については王生研の方でも興味津々なんです。僕たちの方ではメイガスハンドのゲノム解析を進めてるので、その話をお土産に持って来たというわけで」
 と言っても、テオ自身の専門はゲノミクスや遺伝学ではなく、口腔生化学だそうである。
「今は事故や病気などで魔術的発声が困難になった人を治療するための研究をしています」
「ゲノミクス系の研究室にいた僕とは部署も違ったんだけどね……僕が暗き者派の魔術師で研究所内では珍しかったから、彼にはなんだか興味を持たれちゃって追いかけ回されていたんだよね」
「そ、そんなこともありましたね」
 はは――とテオはまた苦笑いした。
 二人の顔を交互に見ていたアダムが言った。
「イグ、君、王立研究所でもちゃんと仲良くしてるやつがいたんだな。ちょっと安心した」
「………」
 イゴールは少し気恥ずかしそうに長い前髪の陰で目を伏せていた。
 テオが持参した土産話というのは、次のような内容だった。
「皆さんご存知だとは思いますが、僕たち魔術師はDNAの内部にロゴスウイルス由来の塩基配列を持っています。例外なく。メイガスハンドもそうです――が、メイガスハンドの組織片を調べたところ、そのDNAはかなり損傷してしまっているようなんです。そしてどうやらそのことが、通常考えられないような魔力の放射に関係しているんじゃないかと――
「まあ……そんなところだろうとは思ってた」
 とイゴールが言う。同僚のヴルフは首をひねった。
「DNAに傷がついてるってことか? なんでまた」
「さあね……放射線に被曝ひばくでもしたか、化学的な刺激か、それとも魔力場にさらされたか……いずれにせよカミュ家の手を離れてた間のことだと思うけど」
「だろうな。少なくともひいおばあちゃんが大事に守ってた間はそんなこと起こりようもなかった」
 とアダムも言った。やっぱり自分と父が手放しさえしなければ――と考えると自責の念が湧き上がるらしい。苦々しげに唇をむ。
 ヴルフがぶっきらぼうに慰めてくれた。
「ヒーローがそうしけた面するなよ。ともかくだ、サキ、そのミイラがどういう状態になってるにしろ、モデルの上での表現はブラックボックスなんだ。生物学的なことはあちらさんに任せておいて、俺たちは俺たちの仕事をしよう」
「……わかってる……テオにわざわざ来てもらったのも、本題はこれから」
 イゴールとヴルフは皆を自分たちのデスクへ招いた。デュアルディスプレイには、片側にはIDE(統合開発環境)が、もう片側には二人で構築したAIの出力結果が表示されている。実験室での実験結果に比べるとシンプルな画面で、白い背景の三次元グラフ上にアダムの立つ位置の座標、メイガスハンドの置かれている位置の座標、その周囲の魔力場の分布のみが描かれていた。
「これは僕とヴルフで組んでみたAIの試作機だけど……精度としては全然だね。今六十パーセントくらい。学習精度の方はそれほどでもないけど、でもテストの方がこれじゃだめだな。テストデータには実測結果のうち一定期間を取り分けて使ってる……」
「最低でも九十五パーセント以上の精度はほしい。で、どうも問題はAIに学習させる入力、つまりヒーローの音声データの方にあるようだ。特徴量の抽出が上手くいってないんだな」
 と、イゴールとヴルフが代わる代わる説明する。
「入力の音声データと出力する魔力場の因果関係を推定してみても、実際今ひとつって感じでよ」
「……そういうわけで、本日は王生研から魔術的発声のプロフェッショナルにエグゼクティブアドバイザーとしてお越しいただいた、と」
「精度改善するまで今日は帰さないぜ、スーパーエリート君」
 そんな調子で二人に捕まって離してもらえそうにないテオは、ひええと情けない声を漏らしていた。
 残されたアダムとレオナは顔を見合わせている。
「俺の思ってた研究者と違う」
 などとアダムは真面目くさった顔つきで言ってレオナを困らせた。
「科学者といえば寡黙な一匹狼でストイック、目的のためには手段を選ばないマッドな存在だと思ってたんだけど」
「それは、私たちは研究室やチームを組んで研究するんですから、そうはいきませんよ」
えない青年を変身ヒーローに改造してくれる謎の科学者は実在しないんだなぁ」
 ヴルフが例によって尊大な口調でアダムを呼んだ。
「なーにを二人でいちゃいちゃしてるんだ。アンタもこっちに来るんだよ、こっちに」
 青年たちの議論はなまなかなことでは終わらず、場所を研究室に移した後も続いた。
「だからさ――半音ずれてるんだって。“アデナ”、『アデナ』。“アデナ”はBで『アデナ』はCes」
 アダムはスマートフォンのピアノアプリを使って、実際にその音の鍵盤をたたいて聞かせる。
「四元素の祭文は普通の言葉で表記すると『アデナ』『グアナ』『ティナ』『シトナ』の四単語に見えるけど、実際には『ティナ』以外の三つには発音が二種類あって、七つの単語で構成されてるってこと」
 と説明しながら、鍵盤を左から右へポロロンと鳴らした。
「おそらく発声方法が異なるのでしょうね」
 と言ったのはテオ。彼はミーティングテーブルのかたわらに置かれたホワイトボードの前に立つと、いくつかの発音記号を書き、それからあまり上手くない絵でヒトの口腔の断面図を描いた。舌端と歯茎の部分に赤ペンで丸をつける。
「たとえば『デ』はこの舌と歯茎の開閉で調音しますけど、調音部位が同じでも、声帯の震えを伴うかどうか、あるいは声帯振動のタイミングによっても発音は違ってきます」
 喉が震えている様子を赤で書き込み、そのそばにはメモも書き添えた。
「魔術的に意味のある発声って限られているんです。教派が違ってもその点は変わりません。黄金の契り派や暗き者派は直接呼吸や発声を利用していますし、比較的新しい血の夜明け派はより自然言語に近い形で取り入れています――この辺りの話はカミュさんもご存知じゃありませんか?」
「俺?」
 アダムはきょとんとしている。
「あなたのひいおじい様のアレクセイ・カミュ氏は、魔術的発声についての知見を著書に残していらっしゃいますよ。『詩歌の中の魔術』という題名で」
 アダムは知らなかった。曽祖父アレクセイのことについては人から教えられることばかりだ――
「いや、全然知らなかった――
「だったらぜひ読んでみてください。国立図書館のパブリックドメインデータベースで閲覧できますから。論文としての評価はともかく、懸命に書かれているのが伝わってくるような本で僕は好きなんです」

27

「じゃあまずは、入力データをカーネル化した主成分分析で次元圧縮してみるところからかな……いいよね、ヴルフ?」
「ああ。スーパーエリート君の言うような分類ができるか試してみようじゃないの」
 青年たちの議論は昼食を挟んで昼下がりの頃まで続いた。イゴールとヴルフは一応の今後の方針を得て、するとそれまで夢中だった疲れがどっと出てきたらしい。
「なあ、ちょっと休もうぜ。アフタヌーンティーには早いが、お茶でも飲まねえか」
 とヴルフが言い、
「賛成……」
 とイゴールもうなずいた。アダムとテオに何が飲みたいかと聞いてから、二人は連れ立って部屋を出ていった。アダムとテオだけが残された。
 テオがなんとなく物寂しげな顔をして言った。
「先輩はこちらに来てからの方が元気そうですね。すっかりデータサイエンティストらしくなって、雰囲気も明るくなったし」
「あれで?」
 とアダムは首をひねっている。テオは、スマートフォンに保存されていた王立研究所時代のイゴールの写真を見せてくれた。そこには三人の研究者が写っていたが、アダムは初めどれがイゴールかわからなかった。
「んん? え、どれがイグ?」
「これですよ、この一番右の――
 アダムがわからなかったのも無理はない。写真の中のイゴールは体型も髪型も、表情も今とは随分違う。その頃は全身肉付きがよく、きっちり分け目の入った前髪の下の双眸そうぼうは退屈そうに伏せられていた。
 そこへ、当人が両手にコーヒーカップを持って帰ってきた。イゴールは、写真に気がついて、彼にしては珍しくうろたえていた。
「いやだな、何を見てるんですか……」
「見ちゃまずかったならごめん」
 アダムは謝った。イゴールは別に謝ることはないと言う。
「ただまあ……普通恥ずかしいじゃないですか、昔の姿を見られるっていうのは……」
 終業時間が来る前に、テオは王立研究所へと帰っていった。「学総研の人質にされるのかと思いましたよ」と冗談を言って笑いながら、建物の玄関先まで見送りに来てくれた三人に手を振って別れた。
 その晩、アダムは愛車のライムグリーンのトヨタの助手席にイゴールを乗せ、彼のアパートメントへ送っていくために黄昏の市街地を走っていた。
 イゴールは、狭い車内でアダムと二人でいるのが落ち着かない様子だった。
「どうかしたか? 酔った?」
 とアダムが見かねて尋ねると、
「いや……昼間、僕の写真を見てたでしょう」
 と言う。
「どう思いました?」
「どうって――何とも。雰囲気が変わったな、くらいかな」
「見た目も今とはだいぶ違ったでしょう。あの写真のすぐ後かな……体を壊してしばらく仕事を休んでたんですけど、その間に激痩せ……病院通いでね、いろいろと精密検査も受けさせられて、僕のメイガスハートがグレード6だってわかったのもそのときで」
―――
 そうだったのか――と、アダムは低い声で言った。
「ショックだっただろ」
「そりゃね……僕もやっぱり世間の大多数の人と同じで、そのときになるまで自分の体のことを省みもしなかった……」
 イゴールの言葉はそこで一度途絶えた。
「……僕は、王生研ではゲノミクス系の研究室にいましてね」
「ああ、昼間もそんなこと言ってたな」
「主にウイルスのゲノム解析やゲノム編集に関わる研究をしてたんです」
「それって――俺が聞いてもいい話?」
「聞いてください。もしよかったら」
 車は赤信号の交差点に差しかかり、アダムは静かにブレーキを踏み込んだ。信号機はなかなか青に変わりそうになかった。
「その頃の僕の研究テーマは、ロゴスウイルスの合成でした」
 とイゴールは言った。
「つまり現在ではヒトのDNAに取り込まれてしまっているロゴスを取り出して、それを元に実験室で生きたウイルスを創り出そうとしてたんです……」
「そんなことができるのか?」
「できる……と思ってました。少なくとも理論的には可能なはずです。他の内在性レトロウイルス……たとえばトリ白血病ウイルスは鳥のDNAから生きたウイルスが得られていますし。その頃の僕には揺るぎない自信があったし、実際のところ実験は順調に進んでました……僕が倒れて仕事を休まざるを得なくなるまでは」
「うん――
「どうにか復職できるようになって、一旦は元の研究室に戻ったんですけど、それからはまあ、低空飛行というか……研究の方も思うように進められなくなって」
 信号が青に変わった。
 アダムが車を発進させる。イゴールはまたしばらく黙り込んでいたが、あるとき、ぽつりと言った。
「……怖くなったんですよね、自分の研究が」
―――
大袈裟おおげさに言えば、ウイルスとはいえ生物を創り出そうとしたことが、創造主の怒りに触れたのかなって……研究所で倒れて病院へ連れて行かれて、メイガスハートがグレード6だって医者に言われたとき、突然そんな考えに襲われて、それ以来頭を離れないんですよ……それで……結局仕事を辞めて……研究は今も引き継がれてるみたいですけど」
「今の君の心の在り方に関わること、っていうのはそのこと――?」
 とアダムは尋ねた。
「前にデートしたとき言ってた――
「そうです」
「なんで、その、俺に話してくれる気になったの?」
「……さあ」
 イゴールは答えず、相好を崩して穏やかな表情になっていた。アダムに話してしまって、いくらかでも胸が軽くなったとでもいうように。
 不意に、ぱたぱたぱたと雨粒が車体をたたく音が聞こえた。窓の外は暗くて天候は判然としないが、フロントウィンドウには確かに雨粒が一つ二つと落ちて流れ始めていた。
「俺が送って帰ってきて正解だったな」
 と、アダムは得意げに言い、ワイパーを動かしながら車を走らせた。
「なあイグ――君の非恋愛主義ってやつもさ、もしかしてそれが原因なのか?」
「メイガスハートの肥大しやすさは遺伝すると言われてますからね」
 とイゴールは言う。
「自分の遺伝子を残したくない。もしどこかに僕を愛してくれる人がいたとして、その人が僕たちの子供を望んでも僕はそれを拒まなきゃならない……相手も傷つくでしょう。それは嫌だなって……」
「その気持ちはわかるぜ、俺も――
「だけど……僕たちがいくら意地を張ったところで、もうロゴスは止まらない……帝国学士院があって魔術師たちを国内に縛りつけていた時代とは違うんです。僕たちは自由に外国へ行けるし誰とでも結婚できる。地球上のあらゆる場所にロゴスウイルスはばらまかれていく」
「ひいおじいちゃんは何を考えて帝国学士院を解体しちゃったんだろうな――
 雨は次第に強くなり、イゴールの住むアパートメントに着いたときにはざあざあ降りになっていた。アダムは建物の軒先ぎりぎりに寄せて車をめた。
 イゴールは家まで送ってもらったことにお礼を言い、シートベルトを外しながら、ふとアダムの方を向いた。
「ひいおじいさんは自ら院長になって帝国学士院を破壊した代わりに、僕たちのような研究者を育てる場所を残してくれましたね」
「あとは若いもんが頑張って科学の力でなんとかしろ、って? それも無責任だなぁ」
「ひいおじいさんに科学への希望を抱かせるような、優れた研究者がそばにいたんじゃないかな……」
 イゴールは車を降り「それじゃ、おやすみ……」と建物の中へ消えていった。
 アダムのまぶたの裏にはレオナの横顔が浮かんでいた。

28

「………」
 キッチンの片隅にあるオーブンの様子を見に行ったイゴールが、もう五分も経つのにその前にしゃがみ込んだままでいる。オーブンの中は二段式で、上段では大きな塊の牛の骨付きリブが、下段ではくし型に切ったじゃがいもがローストされていた。年代物のオーブンで調理中は内部の照明が点灯しなかった。窓から入るわずかな光によって、トレーの縁に沿って溜まった脂がなまめかしく輝く。
 調理台の方でキャベツを刻んでいたアダムが、
「そんなににらんでても早く焼けるわけじゃないぞ」
 と言った。言いながらも包丁を持つ手は小気味よく動いている。くたびれたオレンジ色のエプロンが動き回る体にぴったりフィットしていた。
 小ぶりのキャベツを一玉全部細切りにしてしまうと、鍋を取って調理器にかけ、それが温まるのを待つ間にベーコンも刻む。鍋が温まったらオリーブ油をひと回し注ぐ。まずはベーコンから炒め始める。
 ようやく腰を上げたイゴールが、アダムの横へ来て鍋の中をのぞき込んだ。
「僕キャベツはちょっとでいいからね……」
「もっと野菜も食えって。血液をサラサラにしろ。メイガスハートがでかいやつはただでさえ心臓に負担がかかってるんだから」
 鍋の中のベーコンが縮れて縁が色づいたところでキャベツを加える。アダムは慣れた手つきで鍋を揺すりながら、鍋いっぱいのキャベツをかき混ぜて火を通していく。
 そのとき玄関のチャイムが鳴った。スーパーマーケットの宅配だろうとアダムは言う。
「イグ、悪いけど受け取りに行ってくれないか?」
 イゴールが玄関先へ出てみると、愛想のいい配達員が食料品や飲料水のボトルが詰まったコンテナを運んできたところだった。今夜のために注文したらしいビールやウイスキーの瓶もあった。
 荷物を受け取り、配達の黄色いバンが走り去った後もイゴールはしばしそこに立って辺りの景色やアダムの家の様子を眺めた。
 アダムの家は、古くからの住宅街であるイール川北地区に建っていた。市街地から離れた閑静なところである。家は丘の上にあって、ささやかな庭付きで、そこから見渡せるこの街には戸建ての住宅が多い。戦前から残る家々は次第に新築の家屋に入れ替わりつつある。その中でもアダムの家は、曽祖父アレクセイが建てたものを直し直し住んでいるそうで古かった。この地の土を焼いた煉瓦レンガで造られ、その上から淡い水色に塗られていた。
 屋内の間取りも当時のままだった。イゴールが玄関へ入るとそこは廊下兼小ぢんまりとしたホールで、壁の中に今はもう使われていない来客用の暖炉もある。左手に二階へ上がる階段があって、使い込まれた木製の手すりは滑らかな光を放っている。
 イゴールは荷物を抱えてキッチンへ戻り、またオーブンの中をのぞいて、
「僕……じゃがいもをゲノム編集で完全栄養食にする研究に従事するべきだったのかも……」
 と胡乱うろんなことをつぶやいていた。
 焼き上がって少し寝かせたローストビーフ、ローストポテト、ヨークシャープディング、キャベツとベーコンの蒸し煮、黒オリーブを散らしたにんじんのサラダ。夕食の食卓が整うと、アダムは上機嫌で冷えたビールの蓋を開けた。久しぶりに料理に腕を振るい、誰かと一緒に食卓を囲めることが嬉しいらしい。
「この家……アダムが一人で住むには広すぎる感じだもんね……周りも静かなところだし」
「まあな。隣近所が遠いから気兼ねすることが少ないのは楽だぜ。夜中まで映画見たりゲームしたり。今夜は何する? 一晩かけてクリアまでゲームしたいな。明日も日曜で休みだし」
 乾杯して食べ始めながら、アダムは以前買って積み重ねたままになっているゲームソフトのタイトルをいくつも挙げていった。
「睡眠不足も心臓に負担がかかるんじゃないの……?」
 と、イゴールは昼間の仕返しのつもりで言った。
「そりゃまあ、そうなんだけど――俺、夢見が悪いんだよ。寝ると嫌な夢ばっかり見る。最近一番嫌なのはあれよ、ひいおじいちゃんの手と“交歓”したときの夢」
「……学総研での実験の?」
「そ。いまだに夢の中であの変な感じを思い出して目が覚める。もー最悪。“交歓”って気持ちいいらしいって聞いてたけど俺は嫌いだね。しかも初体験の相手がひいおじいちゃんだったってのも複雑だし」
 アダムは平気そうな口ぶりで話しているが、イゴールはこの広い家で夜中一人悪夢に目覚める心細さを想像して同情を覚えた。
「徹夜でゲームするより、夜に目が覚めたときにそばにいてくれる人が必要なんじゃない? ……たとえばレオナとか」
「なんでそこでレオナの名前が出てくるんだ」
「だって君、お気に﹅﹅﹅でしょ彼女のこと……今週は彼女の研究室に行ってて僕やヴルフのところにはあんまり来てくれなかったし」
「今週忙しかったんだって、俺も、いろいろと」
 とアダムは弁解した。
「教団の方にも顔出さなくちゃならなかった。マダム・マグダに勧められて評議員の先輩の皆様への挨拶回りで、ストレス溜まったところだったわけ。せめて優しい女の子がいる方の研究室で癒やされたい」
「癒やされるようなことあった?」
「いや、ずっと魔術物理学の講義受けてた――
 レオナはあれこれと骨を折ってアダムに素粒子物理学から見た魔術について教えようとしたそうである。が、ついには専門用語を用いた説明を諦め、
「いいですか、これが原子だとします」
 と、彼女のその日のおやつらしいカラフルな粒チョコレートをデスクの上に並べ、そのうち一粒を指差した。その周りにいくつかの粒を集めて、
「原子が結合して分子ができますよね。普通の状態では安定してる分子ですが、この結合部分が何かのきっかけでねじれることがあるんです――ねじれる、という言い方は不正確ですけど。正確にはピエヌの高次空間歪みという特殊なエネルギーを持った状態になったとき、そこから一対の魔力子が生成されます」
 レオナは水色の粒チョコレートを二つ持ってきて、分子を表す集合のそばへ置いた。
「魔力子は魔力のフォースキャリアなので、これが他の分子へ吸い込まれた場合、魔力子のやり取りが発生して魔力相互作用が起こるわけです」
 水色の粒をすぐ近くにあった赤い粒へツンとぶつける。
「魔力相互作用が起こるとどうなるの?」
 とアダムは尋ねながら、その水色の粒をつまみ上げて口の中に放り込んだ。
「それが伝えた魔力によって次の分子結合にも高次空間の歪みが発生します。そうやって次々に魔力子が放出されていくんですよ」
 わかってもらえましたか――? とレオナは不安そうに小首をかしげている。
「うーん八割くらい? 出来の悪い生徒でごめん」
「い、いえ――私たちの研究分野に興味を持ってもらえるのは素直に嬉しいですし」
「ひいおじいちゃんには負けたくないもんな」
 とアダムはまたチョコレートを口に放り込んで、なにやら神妙な面持ちだった。
 アダムの話を聞きながら、イゴールはローストポテトを二個三個と立て続けに食べていた。あるとき思案げな顔つきで食器を置いて言った。
「レオナの教えてくれたそのことが……僕たちの体内ではロゴスウイルスの変異に大きく関わってるんだよ」

29

「一言で言えば……ロゴスは魔力を利用して突然変異を続けながら進化を遂げてきたウイルスだってこと……」
 とイゴールは言う。
「そのことはロゴスの遺伝子を詳しく調べればわかる。ロゴスの遺伝子を構成する分子の中で、ある種のリン酸の結合が魔力に対してとても不安定なんだ……」
「それって、レオナが教えてくれたようなことが俺たちの体の中で起きてるってことか」
「そういうこと……体細胞一つ一つに組み込まれたロゴスが連鎖的に高次空間歪みに陥って魔力を発生させる。そして問題なのは、そうやって魔力を発生させたロゴスは変質してしまっていて……」
「突然変異する」
「全部が変異するわけじゃない……細胞はDNAを自己修復する機能を持ってるし、細胞自体が自殺して異常を取り除くことだってできる……そういう防御をすり抜けたDNAだけが突然変異するんだよ。変異は、何の影響もない無害な変異なこともあるし、腫瘍を形成してガン化することもある……あるいは、ロゴスにとって有利な変異を起こす可能性もある。耐性や感染力を獲得したり……っていう」
――不思議だな。ウイルスなんてただの遺伝子の粒みたいなもんだろ? なのにうんと長い目で見ると、まるで何か大きな意志が働いてるみたいだ。俺たちはウイルスの力で魔術師になって、その代わりにウイルスの進化を手伝ってるわけだ」
 アダムは感心して、ほーっと長いため息を漏らした。とっくに泡の消えたビールのグラスを手に取り、口元へ運んでも、心ははるか遠くを見ているようだった。
 イゴールはまたローストポテトに手を伸ばして、一つ、二つと食べた。
 アダムもにんじんのサラダを大皿から取り分けようとして、そのとき何やら思いついたという表情になった。
「ひいおじいちゃんの手は死んでミイラになってるわけだから、もう細胞が自分で自分を治したり殺したりすることはできないのか」
「うん……だからDNAの損傷やロゴスの異常は全部累積されてるはずだよ」
「君のこれまでの謎めいたセリフがだんだんつながってきた」
 と、アダムは謎解きゲームでも楽しんでいるような調子だった。
「わからないのはさ、僕たちは体内でどうやってロゴスへ指令を出してるのかってこと……祭文だったり呼吸法の工夫だったり、魔術師が魔術を行うための方法があるよね。それらがロゴスにどう働きかけてるのか……盛んに研究されてるのはそこのところだよ」
 とイゴールは言う。興が乗ってきたのか、少し早口になってきた。
「来週は真っ先に僕の研究室へ来てほしいな……見せたいものがあるんだ。黄金の契り派の祭文データをテオに協力してもらって再分類して、四次元プロットしてみた結果なんだけど……ちょっとすごいよ」
「すごい?」
「すごいんだ……絶対に見においでよ」
 イゴールは口で説明するのは難しいと言って、アダムに必ず研究室へ見に来るようにと何度も念を押した。
「それとAIの精度もかなりよくなってるよ。今九十六パーセントくらい」
「やったじゃん。さっすが天才研究者」
「おだててもだめ……」
 イゴールは苦笑してから、
「これ以上はAIの精度を上げることより、そろそろ対メイガスハンドの作戦を考えるべきじゃないかな。構築したAIをもとにメイガスハンドからの魔力場の放射の原因を探ること……その対策を考えること……」
 と、真面目な顔になって言った。
「仮に対策が見つかったとして、それを本番の地鎮で試す前に最低でももう一回は実験が必要だと思うよ……AIの精度が百パーセントでない以上……アダムの体には負担がかかることになるけど……」
「まあ仕方ない。それが俺にしかできないってんなら。今から体力つけておくさ」
 とアダムは請け負って、さらにローストビーフやサラダを取り分け、威勢よく頬張っていた。
 満足いくまで食べ終わると、アダムはキッチンへ舞い戻ってデザートのアップルクランブルをオーブンで温め直した。
 アダムがオーブンの様子をのぞいているかたわら、イゴールは食事の済んだ皿を食器洗浄機の中へ片付けてくれている。ふと、アダムはイゴールを呼んだ。
「なあイグ――
「? 何?」
「君にしてもレオナにしても、研究者ってのは勇気があるよな。君は王立研究所での研究が怖くなったって言ってたけど、俺なんか魔力が起こる仕組みを教えてもらっただけでも俺の想像を超えた世界の話で、ちょっと空恐ろしいような感じがするよ」
「………」
 繊細だね……とイゴールは答えた。深い好意のこもった声色だった。
「アダムも研究者に向いてると思うな」
「無理だろ、俺勉強してないし」
「知識や教育の話はともかく……研究者には、自然とか、宇宙とか、そういうものを畏れる気持ちが何より必要だと思うからね……」
「そんなもんか?」
「自分の研究の理論的正しさだけに溺れてるようじゃだめなんだ……」
 と言ったのは、かつての自分に向けた言葉だったのかもしれない。
 二人はデザートを食べながらテレビゲームをしたり、アダムが持ち出してきた家族の写真を眺めたりして過ごした。一番古い写真は百年ほども前の白黒写真である。婚前の曽祖父アレクセイと曽祖母、二人を囲む友人たちの姿。
「この男装の令嬢がひいおばあちゃん。カッコいいだろ?」
「スルト先生の若い頃かぁ……もっとお年を召されてからの写真しか知らなかったから。りりしいね」
「で、たぶん――この一番背の高いのがライオネル――レオナのひいおじいちゃんで、その隣はピエヌ博士だったんだな。この隅の女の人は誰だろうな、なんかレオナに似てないか?」
 アダムはその写真をスマートフォンのカメラで写し、レオナへも送って見せた。ほどなく返信があり、レオナは隅に写っている女性は彼女の曽祖母だろうと教えてくれた。
 アダムは最後にアレクセイを指差した。その頃すでに三十代だったはずの曽祖父は、しかしいまだ少年の面影が残るほどの童顔である。
「ひいおじいちゃんはまだ帝国学士院のヒラ職員だった。その後ひいおじいちゃんを抜擢したのは、この頃に院長を務めてたフェリクスって人らしい――最近ネットや図書館でちょっと調べてみたんだ」
 とアダムは少し照れくさそうに言った。

30

 テレビ画面の中で宇宙飛行士の姿をしたキャラクターが異星の氷原を駆け回ったり、崖伝いに地殻の下へもぐり地底都市を探検したり。ゲーム機のコントローラーを握っていたアダムはソファーから身を乗り出すようにして懸命にキャラクターを操作していたが、切り立った崖を前にして彼はあえなく足場から滑落し、地の底のブラックホールへ転落していった。
「あぁっ、もー、くそ、あとちょっとだったのに――
「ジェットパック吹かしすぎだよ……貸して」
 と今度はイゴールがコントローラーを握ると、小刻みにボタンを押して自由自在にキャラクターを動かす。アダムはソファーの背に沈み込んでねていた。
「なんでそんなにスムーズに動けるんだ」
「君は力みすぎ……」
「だって――
 その後もしばらくアダムはやいのやいのと口を出してきていたが、次第に口数が減り、ついには黙り込んでしまった。
「………」
 イゴールがゲーム画面をポーズして振り返って見ると、アダムは首をむこうに傾けてうつらうつらしているようである。イゴールは壁に掛けられている古い柱時計へ視線を移した。午前一時を少し過ぎている。
「そっちが今夜は徹夜だって言っておきながら……」
 とは思えど、聞くところによると睡眠不足らしいから、眠れるときには寝かせておいた方がいいのかもしれない……と考え直した。
「………」
 アダムはいくらか顔をしかめるようにしながらも、規則正しい寝息を立て始めた。
 やがて、眠りのふちでふと気がつくと、アダムは純白の祭服に体を覆われて暗闇の中に立っている。眼前には祭壇があり、黄金に光り輝くメイガスハンドがまつり上げられていた。ああこの夢か――とアダムは思った。夢だという自覚があった。
「ひいおじいちゃん、俺、血のつながりがないとはいえひ孫なんだぜ。ちょっとアブノーマルなんじゃないの?」
 とアダムがぼやく間にも、メイガスハンドが発する光はどんどん膨張してアダムの体をも包み込む。アダムは、いつもなら緊張で身を固くして、それが自分の内部まで侵入してくる不気味な感覚に備えていた。しかし今夜は――いつもとは違う試みが胸にある。
「なあひいおじいちゃん。ひいおじいちゃんのこと、俺まだよくわかんないんだよ――周りのみんなに教えられることばかりでさ。情けないじゃん、ひ孫として――
 アダムは、自らメイガスハンドへ手を差し伸べてみた。
 おそるおそるというふうではあったが、自分からそれを受け入れようとした。指先で、曽祖父アレクセイの不思議とみずみずしい肌に触れてみる。
(冷たい――
 と感じた瞬間、アダムの意識は突然天高い彼方かなたへと放り出された。
 そして地へ落ちて戻ってきたとき、見知らぬ部屋のベッドの上で一人あお向けに寝ていた。
 まず気づいたことは、見上げている天井には照明器具がなかった。
 淡い緑に塗られて、現代では到底見ることのできないような繊細なモールドで装飾された天井。かつては建築家だったマグダが何かの折に教えてくれた、戦前の英国式の内装に似ているようだった。首を巡らせて辺りを見回すと、壁際に古めかしいガス式ランプが取り付けられていた。
―――
 アダムは起き上がり、ベッドを出て窓際へ歩み寄った。
 ギロチン窓を押し上げて、頭ごと外へ突き出すようにして景色を見渡した。アダムのいる部屋は小さな一軒家の二階で、地面はさほど遠くない。周囲は同じような家の立ち並ぶ住宅街。その中央を走る路面は舗装されておらず砂埃を立てて辻馬車が行き交っている。高層ビルなど一つも見当たらず、土の香りのするテラコッタタイルで飾られた背の低い建物がどこまでも遠く街中を埋め尽くしていた。
 アダムは窓を閉めて戻り、ベッドの端へしょんぼりと座り込んだ。
 屋内に他に人の気配はない。一階に下りてみると、寝室が二つと他に正餐せいさん室兼居間らしい部屋があった。台所には薪か石炭式のストーブがある。アダムもさすがに使い方は知らない。食料も食器も十分にあった。中でもなぜかティーセットは随分たくさんあり、背の高い食器棚に整然と並べられていた。
 アダムは、はたと思いついて洗面所を探した。
 浴室を見つけ、その中に据え付けられていた洗面台の前に立った。鏡をのぞき込むと、そこに映っているのは見慣れた自分の姿ではなかった。
 鏡にの中にいるのはアダムとは似ても似つかぬ小柄な青年で、亜麻糸のような髪を顔の周りに垂らし、その色は青白く、真ん中からぽきりと折れそうなほど痩せた体つきをしている。アダムは訳もわからず顔や髪をで回した。
――なんなんだよ」
 洗面台の蛇口をひねると冷たい水が出た。
 アダムは二階の寝室へ引き返し、元のようにベッドへごろりと寝転がった。眠ってしまえば、この奇妙な夢から覚めるのかも――と大の字になって寝床に沈み込もうとしたとき、ベッドの脇に置かれたサイドテーブルが左手に触れた。
 指先をうごめかせてみると、帳面のようなものに触れた。
 アダムはそれを取り上げて見た。手のひらほど大きさの革装丁。手ずれのした表紙をめくった。
 日記――というより覚え書きのようなものらしい。何日何時、誰と会う。そんなことが主に書きつけられていた。ひどい悪筆である。
「水曜、6日午後2時、ライオネル」
 ミミズののたくったような文面の中から、アダムはそのメモを見つけた。文字のそばには悪戯書きの獅子の絵が添えられていた。絵の方はやけに上手い。
 アダムは次々にページをめくっていった。
 あるページには、紙をいっぱいに使って一人の女性の似顔絵が描かれていた。長い黒髪の横顔。削り出したようなきりりとした頬の輪郭。切れ長の目を幾分細めて、まなざしは優しい。
「ひいおばあちゃん」
 とアダムはつぶやき、しばしそのページに見入った。
 さらにページを進める。
「暗き者派の魔術師たちが陛下から占琅せんろうを賜る様子。琅呪ろうじゅ博士が指揮を執り一斉に祭文をささげるさまはフルートのアンサンブルのよう」
 と記録されたページには、黒い祭服をまとった魔術師たちの行列が描かれている。それはこの記録者にとって印象的な景色だったらしく、他にもいくつかの走り書きが付されていた。
「父が話していたのを思い出す。僕たちもかつてはより自由に、自在に、魔術の言葉(あるいは音色)を操っていたのだと」
「(父は現にさまざまな工夫によって彼独自の“おまじない”を編み出した。“小魔術”と呼んでも差し支えないかもしれない)」
「(僕はその域に到達することはできないだろう、くやしいけれど)」
螺旋らせん

31

 アダムが次のページをめくると、そこには三匹の蛇が螺旋らせんを描いて絡み合う絵が残されていた。
 また次のページには、蛇を植物のつるに変えて、同じ螺旋らせんの図が描かれている。他にも、水流、炎のゆらめきなど、モチーフを変えイメージをふくらませるようにしながら、執拗なほどにそれは描き続けられた。
 そして最後には、唐突に、
「日曜、12日午前2時、アダム(原初の人間、あるいは赤き土?)」
 と冒頭にそれだけ記されたページがあり、あとは数枚の白紙を残して終わっていた。
 アダムはにらむようにそのページを見つめた。何度見直しても、そこに書かれているのは自分の名前だった。
 そうしているうち――
―――
 不意に、アダムは夢から覚めた。薄目を開けて壁の柱時計を見た。時計は午前二時を指していた。
 アダムはのそりと起き上がった。イゴールはソファーの端で肘掛けにもたれかかって、やはりうたた寝をしているようだった。彼を揺すり起こした。
「……うぅ、なんだ……アダムもう起きたの?」
 イゴールも目を覚ますと、緩慢な動作で時計を見た。
「まだ一時間しか経ってない……やっぱり変な夢見た? 特にうなされたりはしてなかったみたいだけど……」
「なあイグ、今日って十二日の日曜日だっけ」
「寝ぼけてるの……?」
 そう言うイゴールも寝ぼけまなこながら、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、カレンダーの表示されている画面をアダムにも見せた。
「その通りだよ……ほら」
―――
「?」
―――
 アダムはソファーの上で膝を抱えて大きな体を縮こめながら、テーブルの隅に重ねたままにしてあった家族写真へ手を伸ばした。曽祖父と曽祖母の若い頃の写真を探し出し、曽祖父アレクセイの顔を穴が空くほどにらんだ。
 まぶたの裏に焼きついたようによく覚えている。夢の中で鏡をのぞき込んだとき、自分は確かにこれと同じ顔をしていた――と思う。
 アダムはその写真をイゴールに渡して、かぼそい声で、夢で見た光景について話した。
「……寝る前に見たものが夢に出たんじゃない?」
 イゴールは至極現実的な感想を述べ、アダムもそう言われてみるとそんなような気もして、いくらか落ち着きを取り戻した。
「ただ……」
 と、しかしイゴールは少し不可解そうな顔もして見せる。アダムはまた落ち着かない気分になってきた。
「ただ? なんだよ言えよ。気になる」
「夢の中で三重の螺旋らせんを見たって言ったよね」
「あ、ああ――なんか蛇とか、つるとかが絡み合った絵だったけど」
「その話は、僕は君にまだ教えてなかったはずなんだよね……」
 とイゴールが話すところの意味は、翌週になってからアダムが学士院総合研究所を訪れたときに明らかになった。
「よおヒーロー、月曜からしけた面してるな。先週はご無沙汰だったじゃねえの」
 と相変わらずの調子のヴルフは、口は悪いが、これで案外アダムのことを気に入っているらしい。イゴールと二人そろって、彼らの実験室でデスクトップに囲まれながらアダムのことを待ちかねていた様子で、挨拶もそこそこにアダムを彼らの成果物の前に呼び寄せた。
「ほら早く来いよ。俺は今日はさっさと仕事を進めて、午後から娘のプログラミングスクールの発表会に行かなきゃならねえんだ」
 アダムは促されるままにそれをのぞき込んだ。
 大きなディスプレイを全画面使って映し出されていたのは、七色に色分けされた無数の点が立体的な三重螺旋の形に分布したグラフだった。
 脇からイゴールが言った。
「君の家に遊びに行ったとき話したのはこれだよ……調和展開の祭文データを再分類して、四次元プロットしてみた結果。パラメータの詳細は後で説明するけど、おおざっぱに言うと、螺旋らせんの進行方向が時間軸。点の一つ一つが祭文の語句で、点の色はその種類。音声データがこんなに綺麗な形状に分布するなんて信じられないけど、ヴルフや他の同僚に何度も確認してもらったから間違いはないと思う……」
「夢で描かれてた絵と同じだ――三匹の蛇が絡み合ってる形してる」
 アダムは驚くよりも、腑に落ちたという思いだった。
 事情を知らないヴルフ一人が興奮している様子で、
「なあすっげぇだろ? ここまで特徴量が抽出できたおかげで、このデータから魔力場を予測するAIの精度も一気に上がったんだぜ。それに何よりこの形、ほら――
 まくしたてるように言いながらイゴールの方を見る。
「似てるだろ、あれだよ、ヒトのDNAに」
 これはめちゃくちゃラッキーなことだぞ、とヴルフはオーバーな身ぶりで強調した。
「まあ鎖はDNAより一本多いんだけどよ。なんてったってここには、運命的なことに、元ゲノミクス研究者のサキがいるんだ」
「………」
「もしかしたら王立研究所でのゲノム解析の手法が応用できるかもしれないとか――いろいろ夢が広がるだろ?」
「僕はできると思う。メイガスハンドへ影響を与える配列を機械学習的に探し出すことなら……でも、肝心なのは、その後は?」
 イゴールはアダムへ問いかけた。
 アダムはしばし考えふけっていたが、やがてはらが決まった、という顔つきになった。それでもなお、どう切り出そうかと少し悩んでから、
「くやしいけど、ひいおじいちゃんてさ、マジで魔術師として天才だったんだ。みんなそう言うし、どう調べてみてもそうなんだ」
 と言った。イゴールもヴルフも、なぜそんな話を、とは思っただろう。だがアダムの表情にただならぬ気迫を感じたのか、静かに次の言葉を待ってくれている。
「ひいおじいちゃんはどんな難しい魔術を行うときでも完璧だった。その頃には現代みたいに確立した訓練方法も、もちろん生命維持装置だってなかったのに。――でも、そんなひいおじいちゃんでも、できなかったことはある。それはさ、新しい魔術を生み出すことなんだ。自分でオリジナルの祭文を編むことなんだ」
「君が言いたいのはもしかして……魔術を“ゲノム合成”しようってこと? 確かに螺旋らせん構造を維持できる範囲でなら、構成要素の置き換えや導入は可能かも……」
 とイゴールが、ハッとした表情で身を乗り出してくる。
 アダムはうなずいた。うなずきながら、ディスプレイに表示されている三重螺旋らせんを見つめた。
「ひいおじいちゃんの手が――メイガスハンドがウイルスの変異体の塊だっていうなら、こっちも魔術を変異させて対抗する」
 思えばアレクセイの人生の悲しみは、何ものかを生む――というところにあったのかもしれない、とアダムは一人心の中で曽祖父を想った。多くの人が聞かせてくれたことや、書物や電子情報や、不思議な夢の中での邂逅かいこう、さまざまな記憶が脳裏に押し寄せ、流れ去っていった。
 帝国学士院の院長の地位にまで上り詰めながら、その最たる仕事は学士院の解体だった。研究者として評価されたわけでもない。芸術に造詣は深いながら、自ら楽器を奏でたり画家として絵筆を執ることはなかった。妻を愛したことに後悔などあろうはずもないけれど、二人の間に実子は生まれなかった。
 そして、魔術師としてもアレクセイは独創的な父親には及ばなかった。

32

「新しい魔術を――創り出す――そんなことが本当に可能なの? いえもちろん、あなたを信じているのよアダム、でも――
 マグダは前代未聞だと何度も繰り返して、まだアダムの提案が飲み込めないという顔をしている。
 彼らは黄金の契り教団本部のオフィスで面会していた。そこは都心に建つビルのワンフロアで、オフィスの窓からは遠くまで続く高層ビル群も臨める。一見しただけでは宗教施設らしからぬ場所だった。
 アダムは持参したラップトップを広げてマグダに三重螺旋らせんのデータを見せ、
「イグとヴルフのおかげで、祭文の中のどの配列がメイガスハンドの発する魔力場に影響するかはわかってる。こいつらを、祭文の構造を崩さないような他の配列で置き換えればいいと思うんだ。AIの予測では今のところ上手くいってる――
「アダム、展開の祭文にそれをするということは、最悪の事態が起きればあなたの命に関わることなのよ。教団の首座としても簡単に了承できないわ。評議員だって同じ意見のはずよ」
「だけどマグダおばさん、新しい魔術を禁止する決まりなんて教団にはないじゃない。それに、なんなら俺はまだ破門で自由の身だ。いざとなれば教団がどう言ったって」
「アダム――
 アダムの意思が固いことはマグダにも伝わったようであった。
――とにかくまずは十分なシミュレーションと実験での安全確認をすること。その結果を明確に示してくれること――お願いよアダム、無茶だけはしないで」
「うん。大丈夫、わかってるよ――さっきは脅かすようなこと言ってごめん。俺もできるだけみんなが納得できるように努力するから」
 アダムは、ぎこちないながらも、子供が母親にそうするようにマグダの肩を抱いて頬に頬を寄せた。
 マグダの体はこのところ日に日に痩せ細っていくようで、アダムはそれを腕に抱いてみて実感すると胸が詰まった。
 アダムは、そっと体を離すと、
「また研究所で本格的な実験をする必要があるんだ。立会人が必要な規模の――今度は教団の誰かに頼むつもりだけどさ。頑張って頭下げに行くよ。おばさんやイグの体調じゃ、そう何度も頼めないしな」
 と言った。マグダも、不本意そうな面持ちではあるが、うなずく。
「力になれなくてごめんなさい。教団の皆へはできる限りの口添えをするわ」
 と請け負ったものの、いざ立会人を探すとなると、危険や責任を伴う役目でもあり難航した。
 そしてアダムが随分骨を折りながら、ようやく見つけ出したその人は、思いがけない、青天の霹靂と言ってもいい人物であった。
「私たち親子が引き受けましょう」
 と応じてくれたのは、他でもないマダム・モネとその後継者のキール・モネだった。アダムが黄金の契り教団へ復帰することに反対し続けていた血脈の母子である。
 母親のマダム・モネは、四十代半ばほどの落ち着いた雰囲気の女性だった。立会人の役目を快諾すると同時にアダムとマグダを自宅に招き、詳しい話を聞かせてほしいと申し出た。
 土曜日の午後のことである。
「息子はクラブ活動で学校に行っていて――早めに帰るようには言ってありますから」
 モネ家は共働きの夫婦に息子が一人という都会ではありふれた家族構成で、マダム・モネ自身も取り立てて目立つところはない。しかしひとたび魔術師として口を開けば、長い歴史を持つ血脈の柱たる思慮深さがあった。
「誤解しないでいただきたいですが、私はカミュの血脈の破門を解くことに反対したわけではありません。ただきっとこのような日が来ると思って待っていただけです。そして――待っていた甲斐かいがありました」
「マダム・モネ、ええと、さっき説明した通り、俺がやろうとしてることは全く前例がないし、教団の他の評議員には伝統に反するって怒られたりもしたんですけど――
 とアダムが言いかけると、モネはかぶりを振った。
「それでこそカミュの血脈だと私は思います。アレクセイ・カミュが飛び抜けて目立つからかすみがちだけれど、その血脈には素晴らしい探究を行った魔術師が多くいると聞いています。あなたもカミュの後継者の名に恥じない魔術師だというところを、私はこの目で確かめたかったということです」
 ふと、モネは家の外の物音を聞きつけて視線を上げた。自転車を慌ただしく駐車する音がしたようだ。
「息子が帰ってきたみたい――
 ほどなくして彼女の子、モネの血脈の若き祭司キール・モネが飛び込むように帰宅して皆の前に顔を見せた。
 目元が母親に瓜二つの十六歳の少年は、しかし落ち着いた母親とは性格も趣味も正反対らしい。母親譲りの金髪。その右のこめかみのところへ派手な紫色のメッシュカラーを入れ、通学用のリュックサックもおそろいの色だった。
「あっもうお客さん来てる!? こんにちは! あれマダム・マグダ、なんかちょっと痩せた? でも今日もめっちゃ美人すね」
「こんにちは、キール。ありがとう。ふふ」
 マグダもこの遠慮のない快活な少年に対しては思わず笑みが漏れてしまうようである。
 キールはひょいとアダムの方へ向き直った。二人の視線がぶつかった。
「でそっちの赤毛のお兄さんがカミュさん? うおぉすげ、本物だ。実在したんだ!」
「キール、かばんを置いていらっしゃい。座って話しましょう」
「あっママ」
 キールは素直に母親の言うことを聞いて、一旦自室へ引っ込み、またすぐに戻ってきた。まずは母親の細い肩を抱き締め、
「ママ、ただいま」
 と、やっとそれを言った。
「ええ、おかえりなさい」
 モネも愛おしげに息子の頬に頬をすり寄せる。
 アダムやマグダにとっては、そんなモネ母子の日常の光景はなんだかまぶしいように感じられた。
 モネ母子はアダムが必要としてくれたときにはいつでもせ参じましょうと約束してくれた。
「祭司の仕事なら授業休めるしラッキー」
 などと調子のいいことを言うキールは母親にたしなめられていたが。
 ともあれ二名の立会人は確保できた。
 一方、学士院総合研究所では、レオナが先輩のモントとともに中心となって、新しい魔術の実験に向けた準備を進めてくれていた。
「アダムは今黄金の契り派の教団の方で奔走してるらしいから、僕が代わりに打ち合わせに来たよ……」
 そう言って彼女たちのところへやって来たのはイゴールだった。
「アダムも大変なんですね。今度の立会人になってくださる方は見つかったんでしょうか」
 と、レオナがイゴールを測定室へ迎え入れながら言った。
「まあ、たぶん大丈夫でしょ……アダムもほうぼうに頭を下げて回ってるらしいし……ああいうところは、彼は大人だよね」
「私も血の夜明け派の司祭の資格を取れてたら、力になってあげられたかなって――
「……さあそれは、ヒューさんが大反対したかもしれないけど」

33

 測定室内にいたモントは、イゴールの姿を見つけると喜んで、さっそく次の実験のために用意したものを見せてくれた。
「とりあえず応急処置的にだけど、立会人を保護する強化石英ガラスのパネルをいくつか設置しましたよ。これで上手くいったらちゃんと製品化してくれる企業でも探そうかなって」
「それはいいね、特に今回アダムは創世展開っていう前回より強い魔術を行うつもりだから……測定器への入力がオーバーロードしないようにも気をつけてください。そうだヒューさん、あと、魔術中にアダムのヘッドセットからガイド音声を流せるようにしたくて……」
「あ、あの、それは私がやっておきます」
 とレオナが手を挙げた。
 イゴールは他にもいろいろとモントに相談を持ちかけた。
「サキ君、今回は随分入れ込んでるみたいですね。君でもそんなに夢中になることがあるんだな――新しい魔術を合成する、だったっけ? 上手くいきそうなんですね」
 とモントに言われて初めて自分がどれほど熱心に語っていたのか気がついたらしいイゴールは、少しバツが悪そうにはにかんだ。
「……まあね。ヒューさんは知ってると思うけど、僕は前の仕事でゲノムの操作に関わる研究をしてて、今回アダムの魔術を作るのにそれが結構役に立ってるのが嬉しいのかな……」
「わかりますよ。そういうことがあるのは嬉しいよね」
「前職に未練はないつもりだったんですけどね……」
 イゴールとモントが話し込むにつれ次々新しいアイディアを思いついたり、それを検討したりしている脇で、レオナは一人ぽつねんとしていた。
 自分も何か発言したい、と気持ちは焦るが、創造的な意見はなかなか出てこない。そうやってもたもたと考え込んでいるうちに先輩たちの話はどんどん先へ進んでいる。
――サキさんてすごいですよね。生体魔術の研究者としても、データサイエンティストとしても第一線にいて――
 とレオナは、その日の昼食をイゴールと一緒にカフェテリアで取りながら、彼に羨望のまなざしを向けてつぶやいた。
「? ありがとう……どうしたの急に、レオナ」
「いえ――
「………」
「あ、あの、ええと、アダムの実験のことでも私は雑用をこなすのが精一杯で」
「レオナが労をいとわずにデータを処理したり計算してくれたおかげで、いろんな進展があったじゃない……そういう専門性の必要な仕事は雑用とは言わないよ」
「でも――いえその、サキさんが私を励まそうとしてくれているのはわかるんですけど」
「そんな顔しなくてもいいんだよ。僕は君のそういうところが好きだけど……もちろん同じ研究者として、って意味で」
―――
 レオナもイゴールが好きだった。けれど彼を見上げるたびに、自分では到底追いつけそうにないとみじめな気持ちになるのもまた真実だった。
 レオナは、大学で学位を取得後に教授の推薦を受けて学士院総合研究所へ入り、まだ二年目である。これといって目立った研究成果は出せていない。周囲の人は皆、焦らなくてもいいよと言ってくれる。曽祖父ライオネルの意志を継いで研究者を志しただけでも立派だ、とも。
(ユメル・ピエヌ博士は二十代で魔力子の対生成の理論のほとんどを完成させていた)
 とレオナは思い巡らせ、丸眼鏡を指先でちょっと直した。ピエヌ博士の指導教員だった曽祖父も若くして帝都大学に自分の研究室を持っていた。むろん彼らの時代は、現代とは教育制度も人生の過ぎ去る速度も違っていたということはレオナも理解しているけれど。
 その日の夕方近くになってアダムから連絡があり、二名の立会人が見つかったことが知らされ、翌週には新しい魔術による一回目の実験を実施すると決まった。
 実験の日の午前十時頃、アダムと立会人のモネ母子、それに彼らの魔術に必要な機材を積んだ自動車が研究所に到着した。
 実験のセットアップを手伝うためにレオナが実験棟を訪れてみると、アダムがキール・モネとあれこれとおしゃべりをしながら、車から機材を下ろしているところだった。
「研究所の建物ちょーカッコいい。あとで写真撮っていいと思う?」
 と無邪気に歓声を上げている派手な頭髪の少年がキールらしい、とレオナは少し離れた場所から見てとった。アダムはすでに彼と打ちとけた口調で返事をしていた。
「撮影OKな場所が決まってるらしいから、レオナに会ったら聞いてみな――て、ああほら、ちょうど来てくれたぜ、彼女」
 アダムがこちらに気づいて手を振っている。レオナは手を小さく振り返して彼らの方へ歩み寄った。
「こんにちは、アダム。それにキール・モネさん? 何か私もお手伝いすることがあればと思って」
「やあレオナ、しばらくぶり。今日は若くて元気のいいのがいるから力仕事は任せといて」
「こ、こんにちは――え、と、あっ、キールって呼んでください」
「なーに照れてんだキール。年上のお姉さん好きか」
 とアダムが少年をからかう。
「いや女の人がいるとか聞いてなかったし。カミュさん教えといてよそういうこと――心の準備ができてなかったの!」
「日頃教団でオジサマオバサマに囲まれてる箱入り息子には刺激が強かったんだろ」
 と笑いつつ、アダムもレオナに会って気分が晴れたようである。調子のいいことばかり言い始めたものだから、キールに「チャラい!」と評されている始末だった。
 やがてその場へマダム・モネも合流し、実験の準備は万事滞りなく進められた。
 そろいの白い祭服に着替えた三人の黄金の契り派の魔術師は、実験室の中央に用意された祭壇の前に集まった。
「展開の祭文の変異導入は以上七十二箇所。うち五十九箇所は杯の部に集中しています」
 と一転して改まった口調で言うのは祭式を司るアダムである。
「変異導入の方法はイゴール・サキ提案のランダムな末端結合法、相同性を持つ祭文配列による組み換え法の二種類。ランダムな末端結合法は祭文の一部を切断して、その部分へランダムに欠損や配列の断片を挿入することで機能を失わせる。そして相同性を持つ祭文配列による組み換え法は、祭文の一部を同じ機能を持つ他の配列で置き換える方法です」
「何度聞いても不思議な感じっすね――祭文を途中で切っちゃったりつなげたり、そんなの今まで考えたこともなかった」
 と、キールが言う。珍しい四本の山羊角を模した宝冠をいただいている彼は、師たる無冠の母親の方を振り返って「先生」と不安げに呼びかけた。
「もしカミュさんに何か起きたときには、俺たちが生命維持装置を使って助けないといけないんですよね」
「ええ。それに本当に魔術が正しく行われているかを見定めなければ。アダムは私たちがそのための目になれると信頼してくれています。大丈夫、肩の力を抜いて訓練通りやればいいの」
 冠をすでに息子に譲り、豊かな金髪を祭服の背へ下ろしているモネがこの場では最も落ち着いている。
「ではこれより習式を、実験は午後二時から開始します」
 とアダムがいくらか緊張した声で告げた。

34

 実験結果はレオナが整理して、翌日には報告書をまとめてくれた。アダムは、彼女のデスクでラップトップに表示されているそれに目を通しながら、
「レオナは測定室の方から見てて何か気がついたことあった?」
 と尋ねた。
 レオナは「そうですね――」と思案しつつ、
「観測した数値の限りでは魔力場は安定してたように見えました。ただ、あなたのバイタルの方の異常が気になって」
 と答えた。
「うん」
「心拍数が危険域付近まで上がって血圧の低下が見られる場面がありました。幸い何事もなかったですけど、それが長時間続いていたら心室細動を起こしていたかもと思うんです。実験結果では――この数値を赤で囲んでるポイントですね」
「ふーむ、それなら剣の印で補助する方がいいかもな。剣印は魔術の呼吸を助けてアストラル体を制御しやすくするんだ。体への負担が減ると思う」
「そういう方法があるのならそれを利用する方がいいかと――あ、ヘッドセットから祭文のガイドメロディーを流したのは役に立ちましたか?」
 あれはよかった、とアダムは喜んでいた。
「一応新しい祭文も記憶はしたけど、ガイドがある方がプレッシャーは減るよ。あれって大聖堂で本番やるときにも使えるんだっけ?」
「ええ。マグダさんが尽力してエージェンシーに働きかけてくださったおかげで、他に簡単な測定器もいくつか持ち込めるようになったみたいです。魔術中のバイタルも生命維持装置への記録だけじゃなくて、リアルタイムに取得できるようになりました」
「マダム・マグダの根気強さには頭が下がるよなほんと。やっぱり教団には、あの人がいてくれなきゃ。俺なんか、全然足元にも及ばない」
「アダムだってすごく――頑張ってるじゃないですか。体に負担のかかる魔術の実験を終えたばかりなんですから、本当はもう少し休んでいてもらいたいくらい」
「ありがと――でもなんか居ても立ってもいられなくてさ。時間がもったいないっていうか」
「それって」
 レオナは以前アダムの入院中に知った彼の余命のことを思い出して気分が沈んだ。
 アダムもレオナの曇った表情から考えを察したらしい。慌ててかぶりを振る。
「ああいや違う、そういう重たい感じの話じゃなくて、なんていうか」
「?」
「なんていうかさ、少なくとも今はただ純粋に、この仕事を成功させたい、っていう気持ちが強いんだ。新しい魔術を創るなんて、あのひいおじいちゃんにさえできなかったことなんだぜ」
 とアダムは目を輝かせながら、レオナの方へ身を乗り出してくる。
「そりゃ、それができたからって俺がひいおじいちゃんを超えられるわけじゃないけど。俺にできてひいおじいちゃんにできないのは、単にテクノロジーの差だよ。俺は君やイグの頭脳を貸りてばっかりだし」
 それでも、とアダムは続けた。
「ひいおじいちゃんの手の届かなかった世界ってのを、ひいおじいちゃんの代わりに見てみたいんだよ、俺」
「アダム――
 レオナの胸に、ふと、初めてアダムに出会った日の記憶がよみがえった。
 空港から研究所へ向かう車の中で何もかもにねたような顔をしていたアダム。今、目の前で淡い色の瞳をきらめかせているアダム。
 そして彼のそばにいながら何も変わっていない私――
 実験結果についての打ち合わせがひと通り済んだところで、アダムはなにやら、急にそわそわし始め、
「なあ、ところでさレオナ、例の話、前向きに考えてくれた? そろそろ返事が聞きたいんだけど」
 と、しきりにレオナの顔色をうかがっている。
「例の話――?」
「いやほらだから、俺が今度の仕事を成功させたらデートしてって話」
「あぁ――
 レオナは思い出した。
「そういえばそんなことも。なんだか雰囲気のいいレストランだとかって言ってましたね」
「うん、ずっと昔からある隠れ家みたいな小さな店。俺のひいおじいちゃんも常連客だったんだ。君のひいおじいさんともよく一緒に食べに行ってたんだぜ。だから俺も、一度は君を誘って行ってみたいと思ってて」
「つまり、私がライオネルのひ孫だから誘ってくれるんですか」
 と、レオナは、そんな言葉が口をついて出ていた。
 言ってしまった途端に自己嫌悪がこみ上げた。アダムの顔色が変わって、
――ごめん」
 と彼の方から謝られてしまうとレオナには立つ瀬がなかった。
 レオナがうつむいて黙っている間、アダムはおろおろと落ち着きなく、やはり黙り込んでいた。
 だが、やがてアダムの方からそっと口を開いて、
「君は俺と違って顔に出さないけど、やっぱり、ライオネルの子孫だって言われるたびに傷ついてた?」
 と、ゆっくりと語句を選ぶようにして問いかける。
 レオナは、うつむいたまま答えた。
「別に傷ついたというほどじゃないです。ただ、その、そういうふうに呼ばれるたびに、頼りない気分になるだけで」
「本当の自分がどこにいるのか見つけられないような?」
 レオナは顔を上げてアダムの方へ向き直った。抜けるように青い瞳を丸眼鏡の奥で丸くして、物問いたそうに彼を見つめる。
「わかるって」
 とアダムは笑う。
「俺もそうだもん。だからずっと、ひいおじいちゃんとは違う自分だけの何かを探してる。俺は、きっとバイオリンがそれだと思って頑張ってきたけど、結局あんまり上手くいかなかったな」
「私は――
 とレオナは言いかけながら、ぐずぐずしている。こんな気持ちは他の誰にも打ち明けたことがなかった。
「私――研究者としても魔術師としても、ひいおじい様のようにはいかなくて」
「そうか? ストレートで博士号を取って国立研究所にいるってだけで、俺から見たらめちゃくちゃすごいと思うんだけど」
「いろんな人がそう言ってくれるんです。でも、私はそれに甘んじていたくない――というか」
「野心家なんだ」
 意外な一面。とアダムはちょっとおどけたふうに目を見張ってみせる。
「それでこそ、ライオネルから獅子の名前を受け継いだ――って、こういう言い方もアウトかな。ごめん」
「気にしてませんよ」
 レオナは不器用ながらもアダムに笑いかけた。
「それに、私だってライオネルの子孫でよかったと思うこともありますし。たとえば、ええと――あなたと知り合えたこととか」
――ほんとに?」
「あなたがアレクセイのひ孫で、私がライオネルのひ孫でなかったら、全然別々だった私たちの人生が交わることもなかったでしょうから」
「そんなことないさって言いたいとこだけど、そうだな、それは確かにひいおじいちゃんたちのおかげかも」
 気の早いアダムは、
「それで、デートでは何食べる? 俺のひいおじいちゃんは山鷸やましぎが好きだったんだって。あとで卵な。で加減は完璧な半熟ってお決まり」
 とデートの日のメニューや、洋服のコーディネートについてあれこれと思い浮かべ始めているらしい。
「ライオネルの好物については聞いたことがないですが、ワインはサン・テステフがお気に入りだったとか――というか、いつの間にか食事に行くのが決定事項になってるんですけど」
「わはは。俺も仕事に気合い入っちゃうな」
 それからまもなく二度目の実験が完了した日、ローテュセア大聖堂での最後のメイガスハンドの地鎮の日取りが決定された。
 七月一日。その頃には、あの古土の香りの街に透き通った初夏の風が吹くであろう。

35

 太陽暦一日。月相さく、新たな月の生まれる日。星々の方角は吉。
 高層ビルの立ち並ぶリリアの都心部から北へ少し離れた旧市街。その地に鎮座ましますローテュセア大聖堂は上空から見れば嬰児みどりごの地に横たわった形を模している。尖塔の先端を照らす、黄金の夜明け。
 いまだ残る夜影を縫いながら、そろいの漆黒の祭服を着た暗き者派の魔術師たちが列を成して行く。彼らは大聖堂で行われる魔術のためにさまざまな支度をする。祭壇を築き、術具を清め、今日の魔術の成功を祈る祭文をささげて回る。古い時代から変わらぬ彼らの役目である。
 先頭を行く博士と呼ばれる魔術師が指揮を執り、彼らが一斉に祭文を唱えると、その重なり合った息の音が不思議と調和して、木管楽器を鳴らしたような霊妙な音を響かせる。それはわずかな邪気や精霊の気配をも払い、地の不浄をすすぐのだという。
 定められた儀式を終えた博士は大聖堂の地下へ向かう。旧時代的な地上部から一変して現代的な設備を備えた大聖堂のプライベートエリア。そこで今日の祭司たるアダムが待っていた。
 煙がかったブルーのシャツにベスト、同じ色のスラックス、派手なネクタイ、黒縁の眼鏡、といつも通りのいでたちのアダムは、存外リラックスしている様子で博士に合流した。エレベーターで地下二階へ下り、セキュリティチェックを受ける。
 アダムは眼鏡を外して壁面の虹彩こうさいスキャナーをのぞき込んだ。自ら曽祖父アレクセイを迎えに行くために地下保管庫へ入った。
 メイガスハンドを取り出す間に、アダムは博士と少し話をした。
「そもそもどうして、ひいおじいちゃんは手をミイラにして残したんだろうな――
「戦前の帝国時代は禁止されていたと聞きますがね」
「帝国の支配がゆるんだからできたことだってのはわかるんだけど、ひいおじいちゃんがそれを望んだ理由ってのがね、結局最後までわからなかった。それに大金でそのミイラを買おうとする人間がいるってのも、なんでなんだか」
 アダムが地上に戻る頃になると、今日の魔術の立会人であるモネ母子も大聖堂に到着していた。
「普通に考古学的に価値があるからじゃないの?」
 と言ったのはキールである。
「ご先祖様たちが作った最後のミイラなんでしょ? もう今じゃ作り方だってわからなくなってるんだし、そういう意味でめっちゃ貴重そうだけど」
 なるほどもっともな話ではあるが、アダムは首をひねっている。
「そりゃそうなんだけど、それだけとも思えないんだよな」
「ママはどう思う?」
 とキールはマダム・モネの意見を尋ねた。
 モネはしばし目を伏せ、考えているふうだった。
「ミイラ作りが予言に関わっているという話は聞いたことがあります」
 と、あまり自信はなさそうに教えてくれた。モネの血脈で過去にミイラとなった者はなく、あくまで言い伝えの域を出ないと断った上で、
「メイガスハンドのように魔術師の体の一部をミイラ化させたものは、古くは術具の一種として取り扱われたそうです。それを使って行う祭事というのは、いわゆる――過去の出来事の透視あるいは、未来の予知だとか――そんなことが本当に可能だったのか私は疑わしく思っていますが。そしてその祭事を行った魔術師は、必ず自らもまた手指や頭部などをミイラとして残したそうです」
 と語った。
―――
 アダムは神妙な顔をしてモネの話を聞いていた。話が終わった後も、そんな表情のままうなだれているので、キールが不審がってその顔をのぞき込んだ。
「カミュさん大丈夫? 緊張して気分悪いとか?」
――んあいや、大丈夫だって。まあさすがにちょっと緊張してきたかな」
 アダムはごまかしてしまって、顔を上げると、
「そろそろ行こうか」
 と母子を促す。
 アダムとキールはお互いに手を貸し合って山羊角の宝冠をいただいた。
 午前七時過ぎ、アダムを先頭に、その後へキールとマダム・モネが横並びに続く形で、三人は大礼拝堂へ入った。救世主像が掲げられたルードスクリーンの小さなアーチを屈んでくぐると、正面最奥には壁一面を覆い高いアーチの天井まで届く巨大な祭壇がそびえる。
 真円の天井一面にぐるりと描かれた創造神による天地創造の七日間。左右の壁面のステンドグラス窓からは無数の御使いと聖人たちが朝の陽光を視線にして大祭壇を見つめている。天地の狭間に命を得たありとあらゆる生命の秘密を魔術師たちに示す大祭壇。それに畏怖の念を抱かず、その前に膝を折らなかった魔術師はいない。祖先たちに倣い、三人は大祭壇の前でくずおれるように深く身を折って祈りをささげた。
 アダムはメイガスハンドの収められた石英の小箱を掲げ持ちながら、大礼拝堂の中央に設えられた二十二段の階段を上り、頂の小祭壇へ対面する。大祭壇と調和する伝統的な装飾を施されていたはずのその場所は、しかし今、あちこちを計測器や生命維持装置に置き換えられ、幾本ものケーブルやエアーチューブをつたのように床までわせている。
「立会人」
 とアダムが呼ぶ。
 キールとマダム・モネは、一人ずつ階段を上ってきて、アダムの体から伸びるケーブルの数やその先につながる生命維持装置が正常に動作していることを逐一確認したのち、それぞれに、
「確認しました」
「問題ありません」
 と魔術の開始を承認した。先に上がってきたキールは「俺とママでしっかり守ってあげるからね」とこっそり励ましてもくれた。
 立会人が小祭壇の下の所定の位置についたのと時を同じくして、アダムは耳にかけているヘッドセットを通じて、
「レオナ」
 と呼びかける。
――アダム」
 と、レオナの優しげな声が返ってきた。
「思ったより通信の遅延はないみたいですがどうですか?」
「大丈夫みたいだ。研究所の方はみんなそろってる?」
「だいたいそろってるよ……」
 今度はイゴールが答えてくれた。
「君のバイタル情報と魔力場の測定ポイントの値は今のところトラブルもなく取得できてる。AIの予測値とリアルタイムで比較しながら応援してるよ……ただ……いや、ごめん……言うべきか迷ったけどやっぱり言うよ……マグダさんはどうしても体調が優れないらしくて、来られないっって……」
――そっか。ありがとうイグ、本当のこと言ってくれて――
 アダムは、しばし瞑想めいそうするように目を閉じ、深い呼吸を繰り返した。

36

「ジュノー――
 と、アダムが魔術の始まりを告げる。
 しん、とした大礼拝堂の静寂を破り、さざ波が広がるようにして、その声が隅々まで行き渡る。アダムの白い祭服は覆面のように鼻先までをすっぽりと覆っているのに、声は遠くまでよく通った。
 アダムは祭服の下で最初の印を結んだ。
「ユル――
 と、アダムの口から次の言葉がこぼれる。印も形を変える。
 『ジュノー』は「有」で、『ユル』は「無」。これら二つの語を決められた順番で、印の変化とともに千と二十四回繰り返す。アダムはよどみなく唱え上げた。
――ユル」
 最後の一つまで正しく唱え終わると七つのチャクラの鍵が開く。
 アダムは天を仰いだ。アーチの天井には天地創造の壁画が描かれている。
 すなわち、
 初めの日に、光と闇が分かたれ、
 二日目に、天と地が分かたれ、
 三日目に、陸と海が分かたれ、
 四日目に、昼と夜が分かたれ、
 五日目に、全ての陸と海に生命が創られ、
 六日目に、神自らの形に似せて人が創られた。
 そして七日目に神は休息した――それらの御業の画が連なり、頂きの天窓をぐるりと囲む。
 それをあおぎ見ているアダムの両目の端に、細く涙が伝い落ちた。神に形を似せて創られたのに、人の命はあまりにもろくちっぽけで無力だった。お願いだ、神よ見捨てないで――と、声にならない祈りは涙に溶け込む。
 解錠の術式を終えた体に、開いた七つのチャクラを通して魔術の力と言葉が湧き上がる。あふれて満ちる。全ての魔術は我がアストラル体に刻まれている――無限の可能性をもって。
「これより創世展開の術式を始めます」
 とアダムは告げた。
「詠唱補助プログラムバージョン0.8.3スタートします」
 とレオナが応答してくれるのを待ち、アダムは小祭壇にささげられた術具へ手を伸ばした。術具は四つ、すなわち、杖、杯、剣、ペンタクルス。
 アダムは初めに杖をささげ持ち、祭文を唱えた。
 突如、大礼拝堂内に閃光が走った。ごう、という雷鳴とともに稲妻がアダムの手の杖を撃って炎に変える。炎は宙に溶けて消え、アダムの左右のたなごころには何事もなかったように杖が渡されている。
 アダムは杖を置き、次に杯を掲げた。
 ヘッドセットから流れる電子音は、随時アダムの音声をフィードバックして最適化され、次に発するべき語句を正確にガイドする。アダムが長い祭文をささげると、辺りは霧に包まれ、杯から水があふれた。
 火と水が大気を生む。アダムは杯を置き、剣を持った。刃が大気を切って風を起こす。
 アダムは最後にペンタクルスを掲げた。五芒星ごぼうせいが描かれた金の皿が風に吹かれると、黄金の砂となって散る。
 アダムが周囲に四つのエレメントとして散らしたアストラル体は、さらなる祭文によって練り上げられ、たたかれ、伸ばされ、こねられて、編まれ、鍛え上げられていく。
 やがてそれは巨木の形を取る。
 アダムの立つ小祭壇の根元を中心にして、おびただしい数の根が見る間に隅々まで張り巡らされた。そしてたちまち大地のエネルギーを吸い上げ、床を突き破ってでっぷりと太り、宙へ向かって伸び育っていく幹を支える。
 幹と枝は複雑怪奇に絡み合い、幾重にも葉を茂らせて、小祭壇を取り囲みながら大礼拝堂の内部を埋め尽くすまで広がり続けた。ただし、壁面の大祭壇にだけは枝の一本、一葉ですらも触れることができない。また立会人の二人も結界によって身を守り、樹木は彼らの体を避けていた。
 枝葉を伸ばしきった巨木の枝々は一斉に花をつけ、赤い色をした禁断の実を次々に結ぶ。むせかえるような甘い誘惑の芳香を放つ。
 アダムは樹幹の内部にメイガスハンドとともに包み込まれた。赤みを帯びた細いつるの茂みが羊膜のように彼らを覆っていた。その中は羊水の代わりにメイガスハンドの放つ黄金のアストラル体の光で満たされている。
 いつしか巨木は成長を止め、辺りは静まり返った。立会人たちもそれを是として沈黙を守っている。その沈黙の意味は、すなわち展開が完了したということに他ならない。
 メイガスハンドの光に照らされたアダムの顔はびっしょりとれていた。汗とも涙ともつかない水滴がいくつも筋を作って頬を伝った。
「ひいおじいちゃん――
 と呼びかけようとする声が震える。
「ひいおじいちゃん、見えて――? やっと――やっとひいおばあちゃんのところに――
 アダムは、メイガスハンドを包む絹布ごとそれを両手のたなごころへ載せ、曽祖父アレクセイに別れを告げた。メイガスハンドの力が、たとえその遺伝子に組み込まれたウイルスによるものだと科学的に説明されていたとしても、アダムにとっては、メイガスハンドに向き合った時間こそ今は亡き曽祖父に向き合った時間そのものであったから。
 長い別れの時の末、アダムは、
――これより――メイガスハンドの地鎮を、執り行います」
 ついにその言葉を言うことができた。もう震えてはいない。
 立会人の二人もそれを了承した。
「始めます」
 と、アダムが告げた。
 アダムはメイガスハンドを胸の前に抱いたまま、ごく短い祭文をささげた。
 巨木に天から一筋の燐光が走る。二十二本の入り組んだ樹幹、その内の幾本が選び出され、頂に注がれた光は根元へとまたたく間に走り抜ける。
 アダムはアストラル体に刻まれた無限の魔術からただ一つを呼び覚まし、メイガスハンドへそれを施した。
 アダムの腕の中にあるのは、もはや安息に眠る小柄な老人の手のミイラでしかなかった。
 アダムは魔術を終えるための祭文をささげた。大礼拝堂を埋め尽くしていた巨木はいつの間にか消え去り、アダムは小祭壇の前に立っていた。メイガスハンドを絹布で丁寧に包んで小祭壇へ戻すと、全ての魔術を収め、チャクラを施錠する。
 キールとマダム・モネが階段を上がってきて、アダムが地面へ下りるのを手助けした。それほどにアダムは疲労困憊こんぱいしており、緊張の糸が切れて一人で歩くのもままならないほどだった。
「カミュさんマジすごかった。マジですごかったよ! 俺あんな綺麗な魔術の景色見たことない」
 と歓声を上げてくれるキールに、アダムは「ありがとう、キール」とお礼を言うことさえただ唇があいまいに開いたり閉じたりするばかりで、上手くできなかった。

37

 アダムとレオナは、都心のマンションに住むマグダを見舞って、ついさっき彼女の部屋を出たところだった。
 エレベーターの前まで来ると、アダムがそれを呼ぶボタンを押した。上ってくるエレベーターを待つ間に、レオナが言った。
「マグダさん、思ったよりお元気そうでよかった。介護士さんもこのところ病状は安定してきてるって言っていましたし」
「うん――神様は見捨てないでくれたみたいだ」
 アダムは、はーっと長いため息をつく。安堵あんどと、それに幾許いくばくかの憂鬱が入り混じっていた。
「だけど、きっとこれからも何度もこんなことがあるだろうな――そのたびにまた不安でつぶれそうな思いをするのは、つらい――
 エレベーターに乗って、二人は地上に下りた。マンションを出たところでアダムが左手のスマートウォッチを見ると、もうじき夕方六時になろうという時刻だった。
「今から行けば予約時間ぴったりだ」
 二人は並んで歩きだした。最寄りの駅から地下鉄に乗り、リリア一番の大通りである枢機宮通りへ。交差する多くの細道の一つへ入っていく。
 昔は人目につきにくい場所にあったのだが、今では開けた商店街になっている一角に、サローランは店を構えていた。
 アダムとレオナが店のドアベルを鳴らすと、老主人のバティストが丁重に出迎えてくれる。バティストはことさらにレオナに会えたことを喜んだ。
「昔やはりここで料理人をしていた祖父から、よくお二人のひいおじい様の話を聞かされたものです」
「ろくな噂じゃなかっただろ? あ、いや、レオナのひいおじいさんはともかく、うちの方は」
 とアダムが苦笑いしたが、バティストは穏やかな表情で首を横に振っている。
「戦時中の不況で働き詰めで娯楽の一つもなかった祖父には、お二人が食事をしながら語り合ったり、祖父に聞かせてくれる外の世界の情勢や学問の話の一つ一つがよほど刺激に満ちていたんでしょう」
 今夜もどうぞ素晴らしい語らいの時をお過ごしください。とバティストは二人を迎え入れる。レオナが先に奥へ通されたのを待ってから、アダムにだけ、そっと声をかけた。
「食後の“サービス”は結構だとのことでしたが――ジュネ様はきっとお喜びになりますよ。実のところ、私もまたあなたのバイオリンが聴けるかと楽しみにしていたんですが」
 アダムは困り顔で肩をすくめて見せた。
「シェフの気持ちは嬉しいよ――この前も嬉しかった。でも、俺バイオリン弾きとしては今、ちょっと行き詰ってるんだ――
 アダムは遅れて着席すると、メニューを広げて「さーて何食べよう」とむやみに明るい声を上げた。
「サキさんは山羊が美味しかったって絶賛してました」
 と、向かいの席のレオナもメニューを眺めながら言う。
「美味いよ、山羊。ここのは特に。レオナも食べてみる?」
「うーん迷います――アダムのひいおじい様は鳥料理がお好きなんでしたっけ」
 ウェイターに尋ねてみたところ、残念ながら山鷸やましぎは入荷していないとのことだった。
「じゃあ、山羊にしようか――今日は心臓のソテーだって」
 料理が決まると、次は飲み物の相談に来たウェイターに、アダムはサン・テステフの手頃なものを頼んだ。
 コースが始まるまでの時間は二人とも黙りがちだった。
「こういうところで何を話したらいいか」
 とレオナは眼鏡のつるをいじっているばかりである。アダムの方から会話の糸口を差し出すことにした。
「何でも。いつも通りでいいんだって。そういえば、君の研究の方は最近どう? 順調?」
「あ、それは――ええ、私のこれからの研究計画では、つまり、魔術中に放射される魔力場の測定結果から発生源をモデル化できれば、生体内の魔力発生機構の解明の足がかりになると考えているんですけど――モントさんとも相談して、実験条件を検討してるところです。いろいろ条件を変えて測定する必要があると思うので」
「じゃ、その実験条件が決まったら、また俺の出番かな。いつでも呼んでよ。イグも今度のAIを論文で発表したいって言ってたし、研究って休む暇ないな」
「あの、ええ、と、私はもちろん、アダムに実験に協力してもらえたら嬉しいですが――いいんでしょうか? あなたの体のことが――
「誰かに必要だと思われてたいからさ」
 ウェイターがオードブルを運んできた。エッグスタンドにとろけるような半熟卵を載せ、キャビアを少し添えてある。
「こので加減が絶妙で、真似まねできないんだ」
 アダムは卵を殻からスプーンでちまちまとすくっては食べ、うなっている。レオナも同じようにして食べながら、うつむいていた。
(アダムの頑固な心を溶かせるような人が現れたらいいんだけど)
 メイガスハートを手術で摘出して魔術師としての力を失ってしまったら自分に何が残るのかと、アダムは問う。
(あなたが生きているという事実が残るじゃないですか――
 とレオナは思う。けれど、自分がアダムにそれを答える資格があるとは、今はまだその片鱗すら予想できないでいる。
 アダムが、ふと食べる手を止めて言った。
「レオナは、俺の気持ちをわかってくれるだろうと思ってるんだけど。俺たち似た者同士みたいだし」
「まあ確かに私も卵は半熟が好きですね」
「いや、そっちじゃなくて」
 その点でも意見が合うのは嬉しいけどさ、と再びスプーンで卵をすくって口へ運んだ。
「誰かに必要とされたい、ということですか?」
「そ」
――誰か﹅﹅に自分自身も含めることが可能なら、そうですね」
「もちろん可能。ほら、やっぱり俺たちって似てるんだよ」
「に、似てますか? そんなに?」
 なんだかいい加減な気もするなぁと、レオナはこっそり思った。
 ディナーコースも中ほどに差しかかった頃、ウェイターがメインディッシュを運んできた。
「山羊の心臓のソテーでございます。低温調理した心臓の表面を強火でソテーしてございます。この断面のバラ色をご覧ください。ソースは、ハーブとナッツを擦り合わせた驚くほど香味豊かなソースです。ソテーにたっぷりと付けてお召し上がりください」
 山羊肉の料理は初めてだと皿を前に物怖じしているレオナに、アダムは、
「黄金の契り派の物語ではこう歌われてる。『大ヴァルラムは山羊の腹を割いてその中をご覧になった。そして山羊の肉はご馳走ちそうになり、二つの角は大ヴァルラムの冠になった』」
 と、以前イゴールへ教えたのと同じ歌を歌って聞かせ、ナイフとフォークを取って威勢よく山羊の心臓を頬張った。レオナもつられたようにそれを小さく切って口に入れてみて、たちまちパッと表情を華やがせ、アダムを喜ばせた。
「ねえアダム、あなた方の宝冠って皆さんそれぞれにデザインが違うんですよね。アダムの冠は角が短かったですね」
「あれは角を切られた山羊の冠じゃないかって、父さんが言ってたなぁ。由来は何にせよ本当に大切なものなんだ。信頼のおける相手じゃなきゃ触らせもしない」
「でも私――以前アダムが冠を着けるのを手伝いましたよ」
「いやだから、つまりそれはさ」
 わかってよ、とアダムは照れている。
 照れた挙げ句「そのときだって信頼してた」と白状した。アダムがそんなことを言う理由がレオナにはわからなかった。
「だって、まだ知り会ったばかりだったのに、なぜ? あ――私がライオネルのひ孫だったからですか?」
「俺が怖い夢を見てるとき、君が起こしてくれたからだよ」
 アダムは右手の指を二本、人差し指と中指とを立てると、きょとんとしているレオナにそれを振って見せる。はにかみながら、そっと言い添えた。
――二度も」

(了)