時の狭間の魔法使い

「ダーリアちゃんてスラッとしてて素敵ねぇ」
 と、女学生のユメルが着替えを手伝ってくれながら何度もうっとりつぶやくので、ダーリアはすっかり恥ずかしくなってしまった。
 昼間ユメルが街で選んでくれた既製品のドレスは、近頃流行り始めた直線的なデザインで、裾が広がらずにストンとくるぶしまで落ちている。胴も袖も細身だがダーリアの痩せ型の体型ならコルセットなしで着ることができた。
「外国では私たちみたいなお尻のふくらんだスカートは時代遅れだって聞くわ」
 とユメルが言う。
「これからはきっともっと活動的なお洋服が増えるわよ。新しい世界が来るんだもの」
「新しい――?」
 ダーリアは小首をかしげてユメルのにこにこ笑っている顔を見た。
「そうよ。今この国の外では世界の解釈がひっくり返るような素晴らしい物理の理論が次々発表されているのよ」
「そうなんですか?」
「この世の全ては小さな粒でできているの」
「原子のこと?」
「いいえもっともっと小さい粒。でもそうね、聖典でも創造主は土からアダムを創ったと言われてる。土はやっぱり粒の集まりだわ。世界の解釈がひっくり返るというのは不正確ね。原点に回帰すると言うべきかも」
「ははぁ」
 ダーリアが首をひねっていると、キッチンから家主のメサジェ夫人がお茶を運んで来てくれた。
「まあスルトさん、素敵なドレスだこと。美しい漆黒――背が高いからなおさらよく似合いますよ」
 と、夫人もダーリアの婦人服姿を褒めてくれた。そしてお茶と一緒に携えてきた小さな宝石箱を開け、華奢きゃしゃな真珠の首飾りを選ぶと、ダーリアの肌があらわな首元に添えてみて、
「ピエヌさん、これなどいかがでしょう。私が若い頃に着けていた物なので古臭いでしょうけれど」
 とユメルに意見を求める。ユメルは「あらとんでもない」とかぶりを振った。
「とっても綺麗。ひと目見て大切にしていらしたのだとわかります。待ってダーリアちゃん、着けてあげる」
 ユメルは椅子に座っているダーリアの背に立ち、首の後ろで首飾りの金具を留めた。
「これで完成。あとは先生たちがいらっしゃるのを待つばかりね」
 ユメルは自分の席へ戻ると、メサジェ夫人にミルク入りのお茶を供してもらった。ダーリアは手鏡を持ちそれに映る自分とにらみ合ってもじもじしている。
「あの――やっぱり気恥ずかしいです。婦人服を着るなんて女学校以来で――
「ダーリアちゃんが嫌なら無理することはないと思うけど」
「い、いえ、まあ、嫌というほどではないですが、どうしても自信がないというか」
「うふふ」
 約束の時間は夜七時。
 ダーリアとユメルはお茶を飲んだり、メサジェ夫人の思い出話を聞いたりしながら待っていた。
 七時きっかりに、戸外で辻馬車のまる音が聞こえた。メサジェ夫人がすかさず腰を上げて、帰宅したもう一人の住人を出迎えに向かう。
 やがて、アレクセイが斜め後ろにライオネルを伴って居間へ入ってきた。
「お待たせしました。この人がなかなか仕事を片付けてくれないものだから――
 とアレクセイはライオネルのことを言いかけたが、テーブルに着いているダーリアの姿を目にして、翡翠ひすいの玉のような双眸そうぼうを見張った。しかしそれについてアレクセイが何か口にするより早く、後ろのライオネルが言った。
「俺が仕事をしてる横に来ておまえがなんやかんや――いい加減にコーヒーカップを洗えだとか――まとわりつくからだろうが。すまないなダーリア、ユメル、言い出しっぺはこっちなのに。ダーリア、そのドレスよく似合ってる」
「えっ、あ、ありがとうございます、ジュネ先生」
「ユメルが選ぶのを手伝ったらしいじゃないか。先進的で素敵だ」
「あら、私まで褒められたみたい。ありがとうございます」
 アレクセイは一人出遅れてしまったような格好で、
「あの、本当に――似合います」
 とようやくそれだけをダーリアに伝えると、ダーリアははにかんで顔を伏せている。
 ライオネルが皆に促す。
「さて、それじゃそろそろ夕食に出かけよう。馬車を待たせてる」
 四人は辻馬車に乗り込み、枢機宮通りにほど近い隠れ家的レストラン『サローラン』へやって来た。四人分の席の予約が取ってある。アレクセイとダーリア、ライオネルとユメルがそれぞれ隣り合うように着席した。
「アレクセイ、おまえと一緒に飯を食うのもなんだか久しぶりだな。もう何年も経ったような気がする」
「何言ってるんですか? ライオネル。先月だって一緒に来ましたよ。ほら、僕とダーリアの下宿探しの件で」
 と、紳士二人は妙にみ合わない会話を交わしている。
 たまには一緒に食事でも、ということで二人が計画した今夜の会食は、本当ならアレクセイ、ライオネル、ダーリア、ルフィナの四人で食卓を囲むはずだった。が、蓋を開けてみればルフィナの姿はなく、代わりにユメルがライオネルの隣席を務めている。
 アレクセイは困ったような顔をしていて、なんとなくおそるおそるという風にライオネルへ尋ねた。
「あのーそれで、結局ルフィナから何か連絡はありましたか?」
―――
――せめて今どこにいるのかくらい知らせてくれたらいいんですけどね、彼女も」
 夏の初め頃までは西部の都市にいたらしいルフィナだが、先頃またどこかへ移転すると手紙を寄越してそれきりである。ライオネルが招待状を出そうにも住所もホテルの場所もわからないのでは全くお手上げだった。
「先生の恋人ってまるで渡り鳥みたいな方んですね」
 とユメルが前菜のパテにナイフを入れながら言う。
「みたいというか――彼女は実際のところ鳥の化身なので」
 と答えたのはアレクセイ。
「暁の鳥――という教派を聞いたことはありませんか? 鳥を神聖視する原初の魔術の教派です。今では後継者もすっかり少なくなりましたけどね。ルフィナはその数少ない暁の鳥派の巫女の一人なんですよ」
「鳥が神様なんですか? 創造主や救世主でなく?」
「巫女たちにとっては。鳥は神でもあり、眷属けんぞくでもある。僕たち黄金の契り派やあなたがた血の夜明け派は唯一神を頂いていますが、この信仰は土着のものではなく外国から伝来したそうです」
「つまり、私たちのは比較的新しい信仰というわけですのね」
 ユメルは、ちら、と隣席のライオネルの顔色をうかがった。
 押しも押されもせぬ帝都大学教員のライオネルだが恋しい女性のことになるとまったく形なしである。ルフィナが連絡をくれないことがかなりこたえているらしく、すっかりえない表情が染みついている。ユメルの視線に気がついたのか、ふと口を開いた。
「外国といえば、ユメル、君がアインシュタイン博士に宛てた手紙の返事は来たのか?」
「いいえ」
――アインシュタイン博士ってどなたです?」
 とダーリアがユメルにそっと尋ねた。
「遠い外国に住む若き素晴らしい物理学者の方よ」
 と、ユメルは答えた。
「歳は私とそう違わないのだけど、独創的で、今まで他の誰も考えつかなかったような理論をいくつも発表している方なの。相対性理論や光量子仮説や、どれも本当に天才的だわ」
「俺の研究室で今のところ彼の理論を正確に理解してるのは君だけだろうな」
 ライオネルが言った。
「正直なところ俺だってまだ懐疑的に思ってる」
「あなたって結構常識にとらわれがちですもんね」
 と脇からアレクセイがライオネルをからかった。それから、ユメルに尋ねた。
「外国の研究者へ手紙を出すとなると、帝国学士院から厳しい検閲を受けたんじゃありませんか?」
「ええ、三度も書き直しをさせられました。本当は博士へ質問したいこともいろいろあったのに――
「直接会いには行けないの?」
 と聞いたのはダーリア。
 ユメルはかぶりを振った。
「無理よ」
「そ、そうなんですか ――?」
「ダーリアちゃんも帝都大学に一年もいたらわかるようになるわ」
 と寂しげに言う。
「それは、もちろん博士にお会いして議論できたらと思うのよ。どんなに素敵な方かしら」
「君が紳士に対してそんなに夢中になってるのも珍しい」
 ライオネルが、やや強引に明るい話題へ変えようとする。ユメルは茫洋ぼうようとした笑みを浮かべて、
「そうかもしれませんわね。でも博士はすでに家庭を持っていらっしゃるとか――それに、私やっぱり殿方は遠くから眺めている方が性に合ってます」
 博士には親友の方はいらっしゃらないのかしら――とかなんとか、なにやらうっとりと遠くを見ている。
 ダーリアは喉に小骨が引っかかっているような気分だった。
―――
 ふと視線を感じて隣のアレクセイへ顔を向けると、アレクセイは照れくさそうに目を伏せて逃れてしまった。


 サローランの料理長が腕を振るった美味なる料理を、学問や詩歌、スポーツ、近頃流行りの歌劇などの話とともに四人は味わった。ことさらにアレクセイは山鷸やましぎのローストが気に入ったようであった。
「僕は学生時代にキャクタシリアを離れて帝都に来て、生まれて初めて鳥類の肉を食べたんです。あちらでは卵しか食べないので。こんなに美味しいものだったとはそのときまで知りませんでした」
「おまえと同じ北部生まれのルフィナは今でも絶対に口にしようとしないな。まあ彼女は鳥の巫女だから当然としても」
 とライオネルが首をひねっていた。
「俺が幼少期に両親に連れられてあちこち引っ越して回った中でも、北部地方はちょっと変わった土地だった気がするよ。黄金の契り派や暁の鳥派みたいな少数教派の魔術がいまだに残ってることもそうだが」


 四人がサローランを後にして辻馬車を捕まえたのは、夜十時も近くなった頃のことだった。
 馬車は二台頼んで、二組に別れて帰宅した。ライオネルはユメルを下宿まで送って行くと言い、彼女に同行した。アレクセイとダーリアはメサジェ夫人の家へ向かう車中の人になった。
 照明のない車内はお互いのことも見えないほど暗い。が、アレクセイは不思議と昼間と変わらぬようにダーリアの乗車に手を貸し、自分も危なげなく乗り込んで座席に沈んでいる。
 ダーリアは絶えずアレクセイの視線を感じていた。
――そんなに見られると落ち着かないです」
 と言ってみた。
「すみません。でも今夜のあなたはとても素敵で」
 と優しくささやくアレクセイの声をダーリアは息がかかるほど間近に感じた。
「こんなに暗くては見られても見えないと思うんですが」
「あなたの素晴らしいアストラル体の輝きは見えますよ。それにさっきレストランでしっかり目に焼き付けておきました」
 と、アレクセイはうそぶく。
「本当は僕が一番に褒めたかったのに、ライオネルに先を越されてしまったのはくやしかったですが――
――その分たくさん言ってくださったら嬉しいです」
「あなたもなかなか言うようになりましたねぇ」
 頬をそっとかすめていく、アレクセイのくすくす笑う声にダーリアは安らぐ。
「僕のためにそのドレスを着てくれたんだってうぬぼれてもいいですか?」
「もちろんです」
「嬉しいな」
 僕ばかりこんなに幸せでいいのかな――とアレクセイはつぶやきながらダーリアの手を取り、指と指とを深く絡ませた。
――ほら、ライオネルがしょんぼりしてたでしょう、ルフィナの消息がわからないものだから」
「恋しい婦人が今どこにいるかわからないなんて、きっと夜も眠れないくらい心配に違いないです」
「まあ、ルフィナにはままあることなんですけど。でもライオネルがしょげてるのを見ると僕も調子が出ませんからね」
「本当に仲がいいんですね、先生方は」
「僕は彼に負い目があるんですよ」
――?」
「僕が五年ほど前にパーヴェルという名の魔術師に魔術を施した件は知っていますか」
 大きな事件だったので覚えています、とダーリアは言う。それならば話が早い。
「その頃僕は故郷のキャクタシリアへ帰って無為に過ごしていましてね、帝国学士院からの呼び出しを受けて帝都へせ参じたわけですが、そのとき迎えに来てくれたのがライオネルでした」
「なぜジュネ先生が? 先生は帝都大学の教員で、帝国学士院とは関係がないのに」
「それは、建前上大学は独立した学術機関ということになっていますけどね――いろいろあるんです、この国には。ライオネルは僕の幼なじみだったので、それで使者に選ばれたようでした。僕は魔術を執り行うことに乗り気ではなかった。結局ライオネルに説得されてパーヴェルに魔術を施しましたけど、ライオネルはそのことを今でも気にしてるんです。それで、僕も彼に対して負い目を感じているんですよ」
「そう、なんですか――
「ダーリア」
「?」
「あなたは僕やライオネルのようになっちゃだめですよ」
 どういう意味ですか、とダーリアは尋ねた。
 アレクセイはそれには答えないでいる。その代わり、
「僕が学士院にいる間は、僕が学士院からあなたを守ってあげますから」
 と、ダーリアの手を強く握り締めた。
 馬車が北地区の住宅街へ差し掛かると、道路沿いの住宅の壁にガス灯がぽつりぽつりともっている。その前を通り過ぎる度に、馬車の窓から入った光が一瞬車内を照らし、そしてまた夜闇が満ちる。
「名残惜しいですね」
 アレクセイがささやく。メサジェ夫人の家に帰ったら、こうして手に手を触れることもできない、というほどの意味合いらしい。
「ねえ、ダーニャ」
 と不意に、アレクセイはそんなふうにダーリアを呼んだ。ダーリアにはその意味するところがわからない。
「ふふ。ダーニャ﹅﹅﹅﹅、お父上がお母上を同じように呼んでいるのを聞いたことはありませんか?」
「いえ――ああ、でも、そういえばジュネ先生のお母様が母のナターリアのことをナーニャ﹅﹅﹅﹅と呼んでいました」
「ええ、婦人同士で呼ぶこともあります。元々は北部の幼い女の子たちの言葉なんですよ。ライオネルの一家はしばらくキャクタシリアに住んでいましたから、知っているんでしょう」
「子供の呼び方なんですか?」
「成人した男が婦人を呼ぶのに使うときは特別な意味があるんです――つまり、僕の父も母をそう呼んでいたということ」
――あの、その場合、私は先生のことを何とお呼びしたら?」
「婦人の方からは特にこれというのはないですが――僕はアレクと呼ばれるのが好きです」
「アレク――
 ダーリアは細く声に出してみた。が、それはやはり気恥ずかしさが勝る。熱くなった頬を手で押さえた。
「私にはまだ早いと思います、先生」
「そうですか?」
 アレクセイも無理強いをするわけではない。「ダーニャ」と改めて愛しい婦人を呼ぶ。
 馬車はメサジェ夫人宅へ向かう道の最後の角を曲がったところであった。
「ダーニャ、ええと、僕は今すごく、あなたにキスしたいと思ってるんですけど――
「奇遇ですね、先生――私も――でも暗くて、お互いの顔もよく見えません」
「もうすぐ街灯の前を通りますよ」
 馬車がガス灯の明かりの前を走ったわずかな光の間に二人は見つめ合った。恍惚こうこつとした視線を交わして、どちらからともなく唇を重ねる。歓びに震えながら離れて、それからもう一度。時よ止まれ。今この瞬間がいつまでも続くように。アレクセイがそんな睦言むつごとをささやく。
 馬車がまり、馭者ぎょしゃが扉を開けに来てくれるのを待つ間、ダーリアはほてった顔を冷ますようにしながら、
「でも私は、先生と一緒にもっとたくさん時間を過ごす方がいいです。欲張りですね」
 と言った。
 アレクセイは、ダーリアの細い体を胸に抱いている両腕へ、ぎゅっ、といっそう力を込めた。そうして、彼女の黒髪に顔をうずめながら、静かに馭者ぎょしゃを待っていた。

(了)