マイ・フェア・メイガス

1

「まあアダム、今日もヴィオロンを聴かせてくれるのね――
 と、アダムの年老いた曽祖母はいつだって優しく、幼いアダムを寝室に招き入れてくれた。
 アダムは物心がついて以来、曽祖母が自分の足で立っているところを見たことがない。思い出の中の彼女は、ほとんど寝室で寝たきりの生活だった。週末になると、父親の押す車椅子に乗って庭先で陽光を浴びていることもあった。若い頃はスポーツもくしたという彼女にとって、そんな晩年の生活はさぞつまらなかっただろうと思う。
 幼いアダムは、毎日のようにバイオリンを抱えて曽祖母の寝室を訪れ、習ったばかりのモーツァルトの練習曲や聞き覚えた歌謡曲などを弾いて聴かせた。曽祖母は一曲ごとに手をたたいて喜んでくれた。
「素晴らしいわアダム。なんて澄んだ音色でしょう。難しい曲をよく練習しましたね」
 そしてアダムをそばに抱き寄せ、頭をそっとでてくれる。アダムにはそれがなにより心地いい。得意になって、ふふんと胸を張る。ひいおばあちゃんの腕の中でだけは、自分だってヒーローになれる。
「アダム、おまえは本当に、ひいおじい様に似ています。ひいおじい様も芸術を愛した方でした」
 と、しかし曽祖母が亡き曽祖父の話を始めると、アダムの誇らしい気分は途端にしぼんでしまうのだった。
 アダムは曽祖母の腕を抜け出して、
「でも、ひいおじいちゃんは、バイオリンは弾けなかったでしょ」
 と口をとがらせる。
「ええ、ご自分では楽器を演奏したり歌を歌ったりはなさらなかったの。でもとってもお詳しくて、私もよくひいおじい様に連れられて歌劇や演奏会に行きましたよ。私は教えられることばかりでした――
 曽祖母は、古い恋の思い出に浸っているようにうっとりと目を細めている。幼いアダムはまだその意味を正確には理解し得ないが、どうもなにやら面白くない。バイオリンを置いて室内をぶらぶらと探検し始めた。
 曽祖母の寝ているベッドの周りには書物や小ぶりな植物の鉢が集められていた。いつも枕元に置いてあるノートには、曽祖母が丁寧にスケッチした植物の組織図や、交配の記録などが書き留められている。壁に飾られているのは曽祖母の学位証書、研究者時代に授与された賞状などであった。
 しかしアダムの興味はそういった学術的なものよりも、クローゼットやドレッサーといった華やかなものの方にもっぱら向けられていた。
 樟脳しょうのうの甘い匂いをまとった黒のドレス。細身の背広。ネクタイ。乗馬服。フェンシングのユニフォーム。中でもアダムのお気に入りは天人の羽衣のようなロイヤルブルーの絹のショール。
 ドレッサーの引き出しを開けて見るのもアダムは好きだった。その中にしまわれている宝石箱や、化粧品の小箱や小瓶はどれもキラキラ光っていて、貴重な宝物のように思われる。
 曽祖母は、アダムが飽かずに一人遊びを続けているのを見守りながら一言の口出しもしなかった。寝室の窓の外からは毎日アダムと同じ年頃の男の子たちが遊び回っている歓声が聞こえたが、それに交じれとも言わなかった。アダムが男の子たちのスポーツや冒険の遊びに加われないでいるらしいことも、さりとて女の子と一緒にも遊べないでいることも知っていて、それによいとも悪いとも言わずただ穏やかに慈しんでいた。
「ひいおばあちゃん、これさ、ひいおじいちゃんが買ってくれたの」
 とアダムが宝石箱の中の指輪や耳飾りを指して聞いた。
「いいえ、それは魔術師に必要なものです。おまえも日曜日に黄金の契り派の洗礼を受けるときには、お父様から血脈の証の指輪を授けられるはず」
「? ふぅん」
「ひいおじい様が贈ってくださったのはこれ――
 曽祖母はアダムを呼び寄せると、左手を差し伸べて見せてくれた。しわだらけの薬指にダイヤモンドの婚約指輪がはまっている。
「でもねアダム、私がひいおじい様からもらったなにより素敵なものはたくさんの思い出なの。どんなにきらめく石の光も、素晴らしい思い出を胸によみがえらせる触媒にすぎないのよ――おまえにはまだ少し難しいかしら」
「そんなことないよ」
 とアダムは強がる。
 曽祖母の語ってくれた曽祖父との思い出の中でも、アダムにとって印象深かったものがいくつかある。
「まだ物も知らず目も開かない未熟な娘だった私の心を、ひいおじい様はいとも簡単にさらっていってしまったの――初めて黒髪を褒められたときのなんて嬉しかったこと」
「ひいおばあちゃんの髪は白いじゃない」
「昔は黒く、だんだんと灰色になり、今のように真っ白になったのですよ。ひいおじい様は黒髪のときは宝石のようだと言って、白髪が混じって灰色になってくると今度は夜明けの色だと言ってくださって」
「じゃあ今は指輪のダイヤと同じ色だね。白くてきらきらしてるから」
「まあ、アダムったら」
 また別の思い出話では、
「私が都に出てきて間もない頃、ひいおじい様は私を歌劇に誘ってくださったのだけれど、行きがけに枢機宮通りでドレスを買って行きましょうだなんておっしゃって。娘の私は驚くことばかりでした。そのときは意気地がなくて断ってしまったけど、ひいおじい様のお気に召すままに任せていたら、どんな素敵なことが起こっていたかしら」
「僕がひいおじいちゃんの代わりに連れて行ってあげるよ。きっとひいおじいちゃんよりきれいなドレスを選んであげるから」
「あら、私のようなおばあさんを車椅子に乗せて行くのは大変ですよ」
 と曽祖母は笑いながらも、アダムを強く抱き締めて感激を伝えてくれた。幼いアダムは、本当に、近いうちにでも曽祖母をデートに連れ出すつもりでいたけれど、それが叶うはずもなかった。
 やがて曽祖母も亡くなり、彼女が曽祖父の思い出を抱いて生き長らえていたのと同じように、アダムの胸にも思い出ばかりが残った。しかし毎日がそれぞれ新たな人生の始まりの日のように過ぎるめまぐるしい少年の日々のうちに、そんな思い出も次第に胸の奥深くへとしまい込まれていった。
 そして、二十余年の年月が流れ――

2

―――
 魔術の最中にさまざまな想いや記憶が脳裏を巡ることは珍しくないが、それのせいで魔術を中断してしまったことは滅多にない。というのに、今がその滅多な状態だった。壁面をびっしりと光センサーで覆われた広い暗室の中央にアダムは立っていて、金属製の術具を両手に掲げたまま硬直している。二元展開の術式を終えたところだった。
―――
 思いがけなく胸によみがえった曽祖母の思い出をアダムがもう一度初めから思い返そうとしたとき、ヘッドセットから、
「アダム? アダム・カミュ? 大丈夫ですか?」
 と呼ぶ声がした。
 アダムは、はたと我に返った。
「あ――ごめん、ちょっと、ぼーっとしてた――
「魔術が中断してしまったようですけど、平気なの?」
「ああ展開まで終わってるから、それは大丈夫」
「よかった「
――レオナ、悪いけどちょっと休憩させてくれ。なんか気分が乗らない」
「ええ、そうしましょう。照明をけますから」
 アダムが目をつぶると、光センサーの保護スクリーンが下りた音がしてから急に周りが明るくなった。
 ゆっくり目を開ける。目の前に術具の捧げられた簡易な祭壇があり、その周囲をいろいろな計測器が取り囲むようにしていた。アダムの体のそばでは、バイタルチェックや緊急時の生命維持のための医療機器が動いている。
 アダムは法の書の形をした術具を祭壇へ置き、首に掛けた胸掛けの布の下に手を入れて印を結んだ。祭文を唱えてチャクラを『施錠』すると、自分の体と医療機器をつないでいるケーブルやエアーチューブを引き外して実験室の外へ出た。
 出てすぐの制御室では、レオナが一人で測定用のデスクトップパソコンの前に座っていた。出てきたアダムの顔を心細そうな表情で見上げる。
「あの、具合が悪くなったのなら言ってくださいね。この中で気分が悪くなったりパニックになる方も少なくないんです。実験中は暗いし、それに計器に囲まれて狭いでしょう。だから――
「いやそんなんじゃなくて、ちょっと集中力切れただけ」
 アダムは祭服の代わりに着けていた衛生用マスクと使い捨ての胸掛けをその辺の机の上に放り出した。
「にしてもこのマスクとエプロン姿はどうにかならんかね。実験中は誰も見てないからまだ我慢できるけどさ」
「なんなら黄金の契り派の大祭服で来てくださっても構いませんけど」
――あれはあれでダサい。なんか見た目、あの、海にいるウミウシみたいじゃないか? 重くてかさばるしな」
 と言うアダムは、ネクタイとベストの裾をちょっと直し、シャツの袖で眼鏡のレンズを拭った。太いフレームのこじゃれた眼鏡を通った鼻筋の上にスチャッとかけて、さらにその手で鮮烈な赤毛の髪を一掻き。
「外でお茶でも飲んで来たらいかが?」
 とレオナが勧めてくれた。
「君も一緒に行こうぜ」
 とアダムは誘った。
「いえ、私は勤務中なので」
「じゃ俺も行かない。一人じゃつまらん、やだやだ」
―――
 駄々っ子か。
 と口に出して言わない程度に淑女のレオナ・ジュネ女史は、仕方なくアダムに同行して研究棟を出ると、学士院総合研究所の本館カフェテリアへ向かった。
 昼食時もとっくに過ぎた時間帯である。カフェテリアに人はまばらだった。ミーティング中らしい職員のグループの脇を通り抜けて、アダムとレオナは窓際のテーブルを選んだ。
 コーヒー、紅茶はセルフサービス。アダムが自分の分とレオナの分、紙コップを二つ持って戻ってきた。
「はいよ」
「あ、ありがとうございます」
 レオナは、コーヒーを渡してくれるアダムの派手な容貌と風体を見上げた。研究所という場所柄、かなり浮いている。
(妙な二人組だと思われてるんでしょうね、たぶん)
 さっきから他のテーブルの職員たちが、ちらちらとこちらに視線を投げてくる。アダムは知らん顔をしているが、レオナは落ち着かない。近眼鏡の細いつるを何度も指先でいじっていると、
「君はコンタクトにはしないの」
 と、アダムが取るに足らない雑談を始めた。
「ええまあ、眼鏡の方が好きなので。あなたこそ」
「俺のは近視じゃないからね。まぶしいのが苦手なだけ」
「そういえばあなたの目の色、すごく淡いですよね」
 レオナはアダムの目を眼鏡のレンズ越しにのぞき込んで、そしてすぐに気恥ずかしくなって目をそらした。アダムの目は氷翡翠ひすいの球をそのままはめ込んだようなごく淡いグリーンカラーである。
「俺のひいおばあちゃんが――この目もひいおじいちゃんと似てるって、よく言ってたよ。おかしいよな、俺ってひいおじいちゃんと血はつながってないんだけど」
「ひいおじい様も目が弱くていらっしゃったの?」
「さあ、そこまでは聞いたかどうか覚えてない。他に覚えてる人もいないだろうな、ひいおじいちゃんが生まれた頃って百年以上前、第一次世界大戦よりも前だぜ」
「まあ確かに、私も自分の曽祖父のことはそれほどよく知りませんけども」
「まだひいおばあちゃんが元気だった頃、いろいろ昔話を聞かされたはずなんだけどな、案外覚えていないもんさ。ときどき何かの拍子にふっと思い出すことはあるけどね。さっき魔術止めちゃったときもそうだったんだ」
「そういうことでしたか」
「ひいおばあちゃんにしてあげたかったのにできなかったことがたくさんある――胸のつかえまで思い出した気分だ」
 とアダムはしんみりつぶやいて、その胸に染み渡らせるようにゆっくりと熱いコーヒーを飲んだ。
 レオナは好ましく感じ、
「ひいおばあ様っ子だったんですね」
 と微笑ほほえむ。
「俺、胸がつかえてとても魔術なんてできる状態じゃない。やる気出ない。君の実験を手伝えそうにない」
 と、アダムはそらぞらしい調子になって言う。
 レオナはうろたえた。
「それは困ります――!」
「うんうん困るよな、だから今夜俺とデートする約束して」
 何が「だから」なのかレオナにはさっぱり理解できない。
「?、??」
 今度は目を白黒させて言葉を失い百面相のレオナを、アダムは可笑おかしそうに口元をゆるめて見つめている。

3

「レオナ、君、今夜他に予定がある?」
「えっ、い、いえそれは、別に、ないですけど――
「じゃあいいじゃない、オペラ観に行こ。その格好じゃなんだから、行きがけに枢機宮通りでドレス買ってさ」
 その格好とアダムが言う。今日レオナは実験のため、動きやすいポロシャツにパンツ姿だった。
「あ、もちろんドレスは俺が買ってあげるから」
「こ、困ります、そんな急に」
 とレオナはかぶりを振る。レオナにしてみれば、デートに誘われて嬉しいとか恥ずかしいとかいう以前の問題で、なにがなにやらわけがわからない。
「あの、どうしていきなりそんなことを思いついたんですか? ひいおばあ様のお話をしてるんじゃなかったんですか? 順序立てて説明してもらわないと」
「まあほら、俺って余命いくばくもないわけじゃん?」
 と、アダムはにこやかに言った。
 反対に、レオナの表情はにわかに強張こわばる。
―――
「今のうちに『最高の人生の見つけ方』しとかなきゃと思うんだよね。死ぬ前になって後悔するのは絶対に嫌だ――君がそんな顔するこたない」
「いえ、でもそれは――まだそんな、決まったわけじゃ――
「気休めはいらない。変に気を遣うくらいならデートしてよ。俺、一度は女の子をオペラに誘ってみたかったんだ」
「女性をオペラに連れて行くくらい、あなたなら何度もしてそうに思えるんですけど」
「ちょっとどういう意味かなそれは」
 アダムは、行こうよ、行こう、と駄々をこねて聞かない。レオナは参ってしまうし、他のテーブルの職員たちがなんだなんだとこちらに注目しているのにも弱りきってしまう。狭い職場のことである、どんな尾ひれを付けて話が広まるかわかったものでない。ともかく早急にこの状況を脱したい。
「アダム、せめてもう少し小さい声で。人目があるんですから」
「そんな中学生じゃあるまいし、いい大人が、それもかの高名な国立研究所に在籍する高潔な職員の皆様方が、他人の恋愛話ごときで騒いだりはしないでしょ」
「恋愛じゃないですよ!?
「力いっぱい否定するし。というか小さい声でって言ったのはそっちだろ」
 アダムは、調子は軽いのだが、妙に頑固なところがある。俺はなんとしても譲らないぞ、と、長い体を椅子の上にけ反らせてテコでも動かぬ構えである。
 そしてとうとうレオナに「うん」と言わせてしまった。
「で、で、でも今夜の公演なんてチケットが取れるんですか?」
「あるよ――当日券」
 アダムはすぐにスマートフォンで劇場のウェブサイトを探して答える。
「八時からの一幕物なら、終業時間に出て買い物に寄っても間に合うでしょ。決まり。そうと決まったらさっさと実験終わらせよう」
 とアダムは、先程とは一転してやる気があふれてきたらしい。レオナを追い立てるようにして実験棟へ戻ると、文句も言わずにマスクと胸掛けを着けて自ら実験室へ入っていった。
 レオナのいる制御室の方に置かれた測定器は、実験室の壁面に敷き詰められた光センサーが感知したわずかな光を増幅して、その空間的・時間的分布を求める役割を担っている。魔術師が魔術を行う際、人の目には見えない高い周波数の光子が生じることはすでに実験的事実として知られている。それを測定することで魔力場を観測できる。
 百年前、天才とうたわれた魔術物理学者ユメル・ピエヌが理論式から魔力を媒介する素粒子の存在を予言し、三十年後にそれは物理学界で認められ、現在の魔術物理学では魔力子の存在は常識になった。魔力子は魔力場の量子状態であり、さまざまなエネルギーの変換によって光や熱が発生する。
 測定結果を表示しているデスクトップパソコンのディスプレイには、実験室内の光エネルギーの分布が三次元映像として描かれている。青い部分はエネルギーが小さく、赤に近づくほど大きい。アダムの立っている位置を中心に、赤色が球状に分布している。
――ジュノー、ユル、ユル、ユル――
 とスピーカーから聞こえるアダムの声は、黄金の契り派の『解錠』と呼ばれる予備魔術の祭文を唱えている。『ジュノー』は「有」を、『ユル』は「無」を表すという。これら二つの語を決められた順番で、胸掛けの下で組んだ手印の変化とともに千と二十四回繰り返す。
――ユル」
 千二十四個目の祭文を捧げ終わると同時に、ディスプレイに表示されているエネルギー分布が急激に膨張を始め、数秒後には実験室内部全体にまで赤色の部分が広がった。
 レオナはその映像にうっとりと見入った。
(何度見ても素晴らしい――なんて大きなエネルギー――
 こんな光景は、レオナはアダムと知り合うまで他に目にしたことがない。
(アダムは、血のつながりはないんだってしきりに言うけど、やっぱりあの伝説のアレクセイ・カミュのひ孫、唯一の後継者――天才)
 それに比べたら自分のなんと平凡なことか。曽祖父ライオネルと同じく魔術物理学の研究の道に進んで、ひいおじい様の意志を継いで立派だねと周りの人は言うけれど――自分には優れた理論など見つけられそうにないし、魔術師としても特出したところのない――
「レオナ、レオナ聞いてるか? 展開始めていい?」
「え――あ、すみませんちょっと待って」
 レオナは我に返って、急いで暗視カメラの電源を入れた。専用の小型ディスプレイに実験室内に立つアダムの姿が映る。パソコンを操作して、その映像をキャプチャーし、アダムのバイタル情報と併せて画面の端に表示させた。
「体温、脈拍、呼吸数正常です――赤色ライトはいらないんでしたよね?」
「大丈夫、場所覚えてるから。二元展開から始めるよ」
 アダムは気軽な動作で簡易祭壇に捧げられた術具へ手を伸ばす。術具は筒に収められた法の書の巻物である。それを左手に持ち、右手で中の書を長く引き出す。法の書は全五部十五巻からなる。一巻ごとに書を広げてその巻数を述べ、それぞれに、
「ワイエナ、エイナ、ダブリナ、エイナ、テッラ、モー」
 という祭文を捧げるのである。
 レオナは、アダムが術式を進めていくことによって刻一刻と変化する光エネルギー分布を、息をんで見つめていた。魔術師が魔術を行使する過程での魔力場の状態を観測し、その発生機構を実験的に明らかにしたい。レオナの目下の研究計画である。そのための実験対象として、アダムのような魔術師に出会えたのは、レオナにとっては非常な幸運だった。

4

 日暮れの長い影が路面に落ちている駐車場は黄昏れて薄暗い。レオナが通勤バッグを抱いて、頼りない心持ちでぽつねんとそこに立っていると、向こうを回ってアダムの車が近づいてきた。物寂しくセンチメンタルな情緒に背負い投げを食らわすような色鮮やかなライムグリーンのトヨタである。
(こんなド派手な車を本当に選ぶ人がいるんだな)
 とレオナが閉口していると、トヨタは目の前に停車して助手席のドアが開いた。
「お待たせ」
 と、奥の運転席からアダムが顔をのぞかせる。促されるままにレオナは助手席に座った。
「失礼します」
「はいどうぞ。シートベルト着用。出発進行」
 アダムは不思議と元気だった。レオナはシートベルトを着けながら、
「アダム、本当に行くんですか? 疲れてないですか? 昼間はずっと魔術を執り行ってたのに」
 と聞いてみた。
「いやまあ疲れてはいるけどね。これくらいなら二時間の演奏会の後の方がキテるかな。ミュージシャンて意外と体力あんのよ」
 アダムの本業はバイオリン奏者。
 「そういえば、お仕事の方は順調ですか?」と走り出した車内の退屈を紛らわすためにレオナは尋ねた。
「リリアに帰ってきてからは気ままにやってるよ。配信とか、気が向いたら演奏会に呼んでもらったりさ」
「あ、インターネットで配信されてる曲は聴きましたよ」
「まじ? ありがとう。今度演奏会にも来なよ――クラブやバーでやってる気楽なやつだから」
「そういう場所に一人で行ったことがなくて」
「じゃあイグでも誘っておいで」
 レオナは同僚の研究者イゴールの陰気な顔を思い浮かべた。あの人もクラブなんか苦手そうだけどなと思った。
「ところでどんなドレスにする? 好きなブランドとかないの」
 と、アダムは話の矛先を変えてきた。
「あの、本当に、どうしても行くんですか」
 レオナは再度念を押した。
「行くんだって。もう逃げられないぞ」
―――
「今夜のオペラの演目は『月影の誘惑』だってさ。古典だな。四人の男と女の――知ってる?」
「少しは――
 『時はゆく 愛は永遠 プラムの日々は行きて戻らぬ 愛は永遠――
 というのでしょう?」
「そうそう。上手いじゃん。
 『愛しき君 たとえ僕の体が滅んでも 愛しき君 君に僕の全てを残そう』」
「や、やめてください! 縁起でもない――
「歌の続きを歌っただけだろ」
 アダムはブロンズレッドの長い前髪と眼鏡の奥で目を細めて笑っていた。彼が本当のところはどんな気持ちで笑っているのか、レオナにはわからない。昼間も「俺って余命いくばくもない」と笑っていた。
 “魔術師のガン”
 という単語がレオナの頭をよぎる。ただしそれは近年になっての呼称で、かつては“魔術師の狂乱病”と呼ばれていた。長い間、原因不明の致死性精神病として恐れられていた魔術師の職業病であった。
「俺もうグレード7+なんだよ」
 と、アダムが、出会って間もない頃に検査証明書を見せてくれたことをレオナは覚えている。グレード7+。その意味するところは、つまり、遅くとも今後数年以内に狂乱病が発病するリスクが極めて高い状態にある。
 発病を防ぐためには、魔術師の心臓メイガスハートを全摘出する他にない。しかしそれは、命が助かるのと引き換えに魔術師としては死んだも同然になることと同義だった。
「俺が心臓取っちゃったら困るだろ、レオナも」
「そんなこと――
 そんなことはない、と、きっぱり答えられない自分がレオナは恥ずかしい。
 研究者としての自分の野心は、確かにアダムが魔力を失っては困るのである。せめて自分の今の研究が終わるまではそのままでいてほしい――そんな気持ちが心の片隅にないと言ったら嘘になる。あまりに身勝手な恥ずべき考えだと思う。
 レオナがうつむいてもじもじしているのを横目に、アダムは、
「君のそういう全然嘘がつけないところ、俺結構好きだぜ」
 と苦笑して言った。
「うぅ――ごめんなさい――
「いいって。そんな顔しなくってもさ、俺たちデート中なんだから。それとも、今夜は、俺に対するその罪悪感的な何かから付き合ってくれてるってこと?」
「え、えぇ? いえ、別にそんなことは考えてなかったですけど」
「じゃ、なんで俺とデートしてくれてるわけ?」
「なんでって――あなたがあまりに強引に誘うからじゃないですか」
「強引に迫られたら誰でもいいの?」
「あなた以外に強引にデートに誘ってきた人がいないのでわかりません」
「そ、そうなの?」
「そうです」
 (というか)とレオナは心の中でだけ付け加えておいた。今まで紳士的に誘ってきた人もいないというか、男性とデートらしいデートもしたことがない。
(わざわざ口に出して言うようなことでもないけど――
 アダムはゆっくりとブレーキを踏んで赤信号の交差点に車を停止させた。
「で、ドレスはどこに買いに行く? シャネル、プラダ――はさすがに無理だけど」
「無理ですね、私のお給料じゃ」
「何言ってんの、俺が買うよ」
「いえさすがにそれは申し訳ないですから」
 とレオナは引き下がろうとしない。
「いっそこの機にちゃんとしたドレスの一着も買っておこうかなと思うんです。二十九歳ともなると周りや同期は結婚式ラッシュでいつも着る物に困りますし。それに、あなたの演奏会に着て行くドレスがなくちゃ」
―――
 信号が青に変わり、アダムは弾んだ気持ちで車を発進させた。
「レオナ、君って色白で血管の青が透けてるから――ネイビーや濃い紫のドレスが似合いそうだ」
 機嫌がよくなったアダムはそんな話までした。
「遺伝なんですよ」
 とレオナは言った。
「でも君の実家は東のフロクシリア地方の旧家だろ? 確か獅子の一族とかって――君のLeona﹅﹅﹅﹅﹅って名前も」
「まあ古いには違いありませんね。私の曽祖父のライオネルまでは確かにみんな東部出身でした。でも曽祖母が北部のキャクタシリア地方の生まれだそうです。曽祖父とは、なんだか大恋愛の末の結婚だったんですって」

5

 アダムの運転するトヨタはやがて、何十店ものブティックが出店しているショッピングセンターに着いた。
「あの、じゃあ私は服を買ってきますけど、アダムはどうします?」
「そりゃ俺もついて行くに決まってるでしょ」
「一緒に来るんですか? 婦人服なんか見てても退屈じゃ」
「いやいや、任せなさい。俺が君の、ええ、可憐さを引き立てるドレスを選んであげるから」
「今ちょっと言いよどみませんでした?」
美しさ﹅﹅﹅とどっちがいいか迷ったんだって」
 とアダムは調子のいいことをのたまう。
「俺に選ばせてよ。そうじゃなきゃ、ひいおじいちゃんに勝った気がしないからさ」
「? どういう意味です?」
 レオナは首をかしげたが、アダムははぐらかした。「早く行かないとオペラに遅れるぜ」とレオナを車から誘い出し、店内へエスコートして向かう。
「まあ私はファッションセンスには全く自信がないですから、選んでもらえるのはありがたいですけど」
「そうそう、俺の審美眼を信じなさい」
「でも、派手な色はやめてくださいね」
 二人はさっそく手頃そうなデザイナーズブランドのブティックに入ってみた。
 ショーウィンドウに飾られた色とりどりの洋服、イミテーションの花や宝石、エモーショナルなブランドの広告パネル、着飾ったマネキン――そういった華やかなものにアダムの視線は吸い寄せられた。少年時代、曽祖母の寝室を探検していた頃から変わっていない。
「レオナ、どんなのが好き? 可愛い系とか、セクシーとか、キレイめーとか」
「動きやすい服が好きです」
「えぇ、もう張り合いがないなぁ」
「あなたの好みのデザインでいいですよ」
「そんなこと言って――すんごい露出の激しいエッチなやつ選んじゃうかもよ」
「そんな下品なのはあなたの趣味じゃないと思います」
 と、なぜか妙にレオナの信頼は厚い。
「というか、アダム、あなたは何を着て行くんですか? オペラに」
「俺? 俺はこれの上着持って来てるから」
 アダムは煙がかったブルーのベストとそろいのスラックスを着ていた。「じゃあこれに合わせましょう」とレオナが言う。
「今後君が他のヤツとデートするときに、俺のスーツに合わせた服を着て行くわけか?」
「他の人とデートすることなんかないから大丈夫です」
「なんて?」
「いえその――私をデートに誘おうなんて方は滅多にいないですよ――
 レオナは「皆無だ」と言わなかった分だけつまらない見栄を張ってしまったような気がした。これ以上話していると墓穴を掘りそうだ、と思って、自分から手近なハンガーに掛かっているベージュカラーのドレスに手を伸ばした。
「それはスカートがタイトだから動きづらいって。あとやっぱり、色が濃くてはっきりしてる方がいいな」
 アダムも別のドレスを取って、レオナの体に当ててみる。どうもしっくりこなかったらしく「他の店に行こう」とレオナを連れ出した。
「靴も欲しいな。おそろいの色のバッグも。あとアクセサリー――
「そんなに買ってたらオペラの時間に間に合いませんよ」
「むぅ」
 と口をとがらせているアダムの横顔に、レオナは彼の少年の面影を見た。
 三店目に入ったシックな雰囲気のブティックで、その少年の目がにわかにきらめいた。
「レオナ、肩が出るのは平気?」
 アダムが手に取ったのはこっくりしたプラムのドレスだった。確かに胸元が広く浅く開いており肩先まであらわになるデザインだが、いやらしく見えるほどではなさそうだとレオナは思った。
「特に見えて困るものはないです」
 膝が隠れる丈のスカートは柔らかいシフォンで、動きやすそうなところがいい。それに胸元から首の後ろに掛ける飾りのリボンもいいと思う。ネックレスがいらない。
「試着してみたら」
 とアダムに勧められるままに、レオナはフィッティングルームへこもった。
 背中のファスナーを上げるのと、首の後ろでリボンを結ぶのとにだいぶ苦心した。
(アダムを呼ぼうか)
 と一瞬考えたが、さすがに恥じらいがまさった。
 肩にかかる長さの金髪を両側にき分けながら、もぞもぞ身をよじってどうにかファスナーを一番上まで上げきると、次はリボン。もう一度同じように髪を真ん中から分けて取りかかる。何をするにも邪魔になる量の多すぎる癖毛。子供の頃は、Leona﹅﹅﹅﹅﹅という名前のせいもあって、男の子にライオン頭だなどとからかわれたものである。
 少しブルーな気持ちになりつつ、ついにリボンも攻略してフィッティングルームから出てみると、アダムの姿が見当たらなかった。代わりに近くにいた店員の女性が来て、
「まあ素敵。よくお似合いですよ。色白でいらっしゃるからドレスのお色が映えますね」
 と、お世辞かもしれないが、褒めてくれた。
「あ、あの、私の連れがどこに行ったか知りませんか。赤毛の男の人で、背の高い――
 とレオナはドレスのことはさておいて尋ねた。店員は訳知り顔である。
「お連れ様はすぐ戻るからとおっしゃって、外へ行かれました」
「そ、そうですか」
「ところでこちらのドレスですが、こういったショールや丈の短いジャケットを合わせていただきますと季節を選ばずに着ていただけるかと。インナーも薄手で温かい物がございます――
 と、店員の立板に水のセールストークをレオナが神妙に聞いているところへ、アダムが戻ってきた。
「アダム、急にいなくなるから驚きましたよ」
「ごめんごめん。俺もちょっと買い物してきた。それより――いいじゃん、似合うよ」
 アダムは目の前でレオナをくるっと一回転させて、ためつすがめつした。Aラインのシフォンのスカートがふわっと広がって、また彼女の細い膝にまとわりつくのが軽やかだった。広い襟ぐりからのぞく肩の形も綺麗だ。

6

 アダムは上機嫌になって声を弾ませた。
「いい、完璧。アメイジング。素晴らしい――ただし」
「た、ただし」
「後ろのリボンが縦結びになってることを除けばな」
 と、レオナに向こうを向かせると、首の後ろのリボンの端を引っ張った。
「ひぇ――
 とレオナがたまらずおかしな声を漏らす。石のように固まっているのを見て、アダムは「心外な」と弁解した。
「別に脱がそうとしてるわけでもないのに。飾りだろ? これ」
「それは、その、そうですけど急に予測不可能な動きをしないでほしいというか事前に予告してほしいというか」
「ではお許しを頂けますか、マダム?」
 アダムは笑いながら、慇懃いんぎんに許しを請うた。「どうぞ」とレオナが答えてからリボンをほどいて、一呼吸考え、それをレオナの胸の前で一度クロスさせる。首の後ろでリボンを優しく結び直した。
「はいできた」
「ありがとうございます――
 アダムは、さっき買ってきたのだと言って、ショッピングバッグから大粒のイミテーションパールのイヤリングを取り出した。
「なあこれも着けて、これも。俺が着けてあげようか?」
「じ、自分でしますから」
 レオナはアダムに促されるままに両耳のピアスを外して代わりにイヤリングを着けた。
「いいね、いいね、百点満点が百二十点になった」
―――
 レオナは、アダムが自分に着飾らせてはしゃいでいるのを見るのは決して悪い気がしなかった。アダムは――自身の余命についていつも冗談めかしているけれど、彼だって苦しんでいないはずはないのだから。せめて気晴らしにでも付き合ってあげられたらいい、という気持ちはレオナにもある。
 しかしそんな気持ちと裏腹に、少し懐疑的な想いもあって。ようするに、アダムは単に着せ替え遊びが楽しいだけなのではないのかと。
(“お人形”は別に私じゃなくても)
 そして実際アダムは、
「ようやくひいおじいちゃんに一つ勝った気分だ」
 と言う。
「ひいおじい様?」
「ひいおばあちゃんが若い頃、ひいおじいちゃんにドレス買ってデートしようって誘われたけど結局行かなかったらしくてな。子供の頃その話聞いてさ、じゃあ俺はいつかそれを実現してやるぞと思ってたの。昼間それを急に思い出して――いてもたってもいられなくなった」
 と、アダムは幼き日の思い出に浸っているらしい優しい声で語った。
――ひいおばあ様っ子のあなたのことだから、きっと本当は、ひいおばあ様にドレスを買ってあげたかったんでしょう」
「まあそれは、子供の頃の話だからさ」
 とアダムは苦笑いしていた。
 ドレスはそのまま着て行くことにした。用意のいいアダムはイヤリングと一緒に肌色のストッキングも買ってきてくれていた。それも穿いた。
 レオナはクレジットカードでドレスの代金を支払うと、メイク直しがしたいからとお手洗いへ行った。
 といっても、衛生用品をまとめて入れているポーチの中には化粧品はそんなに入っていなくて、せいぜい眉とリップを直す程度なのだが。鏡をのぞき込んで淡いピーチのリップを塗りながら、なんとなくがっかりした気持ちを持て余している。
(考えてみれば、昼間だってひいおばあ様の話をしている最中に急にデートだなんて言い出して、ひいおばあ様絡みの話じゃないはずがなかったのよ)
 どうしてこんな気持ちになるのだろう。あまりに急で、しかもアダムが強引だったから、つい何か自分勝手な期待を抱きかけていたのかもしれない。
(ああ、もう、恥ずかしい――変な勘違いをしなくてよかったけど)
 頭を切り替えなければ、とリップをポーチにしまい、一歩後ろに下がって鏡に全身を映してみた。
 アダムが選んでくれたドレスは確かに素敵だった。体の動きに合わせてふわふわ揺れるスカートは、子供の頃お気に入りだったフリルのワンピースを思い起こさせた。
(そういえば、まだアダムにドレスを選んでもらったお礼を言ってない)
 後で言っておこう、と思った。イヤリングとストッキングのお礼も。
(イヤリングはともかく、男の人が一人でストッキングを買いに行くって勇気があるなぁ)
 ちょっと感心してしまう。
 そのことについて、劇場に向かう車内でアダムに尋ねてみると、
「普通にドラッグストアで買えたけど? 女性用のパンストどこですかって店員さんに聞いたら嫌な顔一つせずに案内してくれたし」
 と言う。
「それはそうでしょうけど――店員さんに何も聞かれなくてよかったですね」
「彼女のストッキング破っちゃったんでーとか言っときゃよかったな」
 と、アダムは少々セクシャルな冗談を言った。
 劇場の駐車場で、アダムは後部座席のドアを開けて、クリーニングしたての透明なカバーがかかったままの上着を取り出した。それを羽織り、ネクタイも新しい物に替えた。
「さっきこれも買ったんだ。レオナのドレスとおそろい」
 とアダムは上機嫌で。濃いパープルと淡いラベンダーのギンガムチェックのネクタイを締め終えると、レオナをエスコートして歩きだした。
「そんなに買い物してたんですか。早技ですね」
 とレオナが言うと、
「残された時間が少ないからその辺は効率的にね」
 とアダムは笑っている。
「飯は後でいいよな、もう開演まで時間がないから」
 それでも開演十五分前には、アダムがインターネットから予約しておいてくれた当日席の座席に着くことができた。
 ∪字の形の大ホール。見上げる天井は真円のドームで、少し視線を下げると四階まで一面に連なるバルコニー席。それぞれの座席を照らす照明が一粒一粒ダイヤモンドのように輝いている。正面の舞台の幕はまだ下りている。
「ここに来るのも久しぶりだ」
 とアダムが言った。
 レオナは、座席の膝先に据え付けのガイドモニターを眺めていたが、顔を上げてアダムの方を見た。
「ここで演奏したことがあるんですか?」
「まさか。聴く方だって。でも俺もいつかあんな舞台にって――
 と、アダムは言いかけたが、すぐに寂しそうな表情になって口をつぐんだ。
――私も高校生の頃に両親に連れられて来て以来です。その頃はフロクシリアに住んでたので、旅行で」
「今夜の『月影の誘惑』はフロクシリア地方の戯曲なんだって知ってる?」
「そうなんですか? 知らなかった」
 という話も長く続かなかった。
 二人とも黙り込んで開演を待っている。アダムは口をつぐんだままずっとレオナを見つめていた。レオナはそれに気がついていたけれども、言うべきことが見つからずうつむいている。

7

 しかしついに視線に耐えかねて、
「あの、私の頭に何か付いてますか」
 とレオナは声を上げた。
「いや、ごめんそうじゃなくて――君には『可憐』とか『美しい』とか言うより、やっぱり『カッコいい』が似合ってるかなと思って」
「カッコいい」
 それは果たして褒められているのかどうか。
「褒めてるんだよもちろん。こうして見ると気高い獅子の横顔って感じだ。黄金色に輝くたてがみの――
―――
 レオナは複雑な思いで、アダムの目を遮るようにしきりに髪をでた。
「なあ、俺のひいおばあちゃんてさ、俺が生まれたときにはもうすっかり白髪だったんだけど、昔の写真を見ると若い頃は黒髪だったんだ。真っ黒な水晶の結晶みたいなストレート。ああいうのは古今東西で美しい髪って言われるんだろうな」
「ま、またひいおばあ様の話ですか」
「うん、また。俺ってひいおばあちゃん子だから。子供の頃はほんと、大人になったら結婚したいと思ってたくらい好きだった。でも、ひいおばあちゃんは死ぬまでひいおじいちゃんにメロメロだったから。いつも薬指に婚約指輪してて」
「結婚指輪じゃなく?」
「先に天へ帰ったひいおじいちゃんが、そろそろこっちへおいでって呼んでくれるのを待ってたんだ。もう一回結婚の約束をしてるような気持ちだったんじゃないかな」
「すごいですね、そんなに長い間、恋心が続いていたなんて――よほどドラマチックな恋愛をなさったんでしょうか」
「うーんそんな感じじゃなかったけどな。ひいおじいちゃんに初めて黒髪を褒められて嬉しかったとか、ひいおじいちゃんの好物ので卵を上手に作る研究したとか、どれを取っても平穏で優しい恋の思い出って感じで」
「はぁ――そういうものでしょうかね」
「案外な。そういうもんかも。子供の俺が間に入る余地なんてなかった」
 アダムはホールの天井を仰いで、
「ひいおばあちゃんと結婚は無理だとしても、俺も大人になったらそんな優しい気持ちになれるような恋愛してみたかったなぁ」
 と、真面目な顔をしてぼやいた。
「今からでもできますよ」
 とレオナは慰めた。
 アダムはにこりともしない。
 開演のアナウンスがあって、ホールの中は徐々に暗くなり始めた。
 一幕物のオペラ『月影の誘惑』の幕が上がると、座席のガイドモニターには改めて物語のあらすじや登場人物の紹介が表示され、歌曲の字幕、その外国語訳などが次々流れ始めた。
 『月影の誘惑』のあらすじは、四人の若い男女が、キューピッドの間違いで本来の運命とは違う相手と結ばれそうになってしまうというもので、とりわけて珍しい筋ではないが、明るく朗らかな歌曲と軽快なセリフ回しで百年前の初演から現代まで親しまれているオペラだ――とモニターには表示さている。
 レオナは俳優たちが演技を始めても、舞台の方に集中できずにいた。
(さっきは軽はずみなことを言ってしまったのかもしれない)
 と思って、そのことがなかなか頭から離れなかった。ちら、と隣のアダムを盗み見る。
 アダムは食い入るようにして舞台に見入っていた。ときどき目をつぶって歌曲に浸る。オーケストラのバイオリンの音には特に耳を澄ませているようである。
(アダムが気にしていなければいいけど――
 とレオナは考えながら、アダムの見つめる先を追って舞台を眺めるうちに、自分でもだんだんと物語の中へ引き込まれていった。
 オペラは午後十時より少し前に終わった。
 ホールに照明の光が戻って、観客がスマートフォンを持って俳優たちの写真を撮ったり、帰宅を始める中、レオナはまだ舞台の後の倦怠けんたいに沈んでいた。ぼんやり虚空を見ていると、
「疲れた?」
 とアダムがこちらの顔をのぞき込んでくる。
「あ、いえ、幕が下りたらちょっとぼーっとして――素敵でしたね」
「俳優さんと写真撮る?」
「いえ――
「じゃあ飯食いに行こ」
 劇場の地下にはカフェがあるし、近隣にも観光客向けに観劇後のためのメニューを用意して深夜まで営業している飲食店が多い。アダムはレオナを連れて老舗の隠れ家的レストラン『サローラン』へ入った。
「いらっしゃいませ、カミュ様、ジュネ様」
 顔見知りの店の主人で、兼シェフの老紳士がにこにこと挨拶に出てきてくれた。
「お二人ならいつでも歓迎いたしますよ。なにせ百年来の常連のお客様でいらっしゃいますからね」
「レオナ、何食べる? 腹減ってるよな?」
 と、アダムはメニューをにらんでいる。レオナは遅い時間だから軽いものがいいと答えた。
 シェフがアダムの手にあるメニューを指して、
「でしたら一皿料理でラムの小ローストはいかがでしょう。赤身であっさりして、それでいて風味豊かです。ワインはグラスでポイヤックがお勧めです」
 と丁寧に勧めてくれた。二人はそれに従った。ただし車を運転するアダムはワイン抜きで。
 料理が来るのを待つ間、アダムは壁に飾られたアンティークのランプを眺めていた。電球の部分だけ新品のLEDに入れ替えてあって、ピンクガラスのシェードを透かした柔らかな光が白いクロスを掛けたテーブルを照らしている。
「今日はありがとうございました」
 とレオナが、店の雰囲気を壊さないように、ささやくような声で言った。
「思いがけずいろいろと新しい経験ができました。楽しかった――と思います」
「それは――ちょっと微妙じゃんか、その言い方」
「あなたといると戸惑ってしまうことも多いんですよ」
 とレオナは正直に白状した。
 アダムは面食らって、
「俺なんか変なことした?」
 不安げに顔をしかめ、のそりと身を乗り出してくる。
 (やっぱり言わなければよかったかも)とレオナはうろたえて、赤くなりながらうつむいた。
――わ、私なんかの髪を褒めてくれたりとか」
「? 自分の感性に従順になってそう言っただけだけど」
「そんなことを言われたのが初めてなので、戸惑ってしまうんですって」

8

 やがてウェイターが料理とワインを運んできた。
――子供の頃から、よく男の子にライオン頭ってからかわれたりして、憂鬱だったんです」
「えっそうなの――じゃあ嫌なこと思い出させて悪いことしたかな」
 ごめん、とアダムが言う。
 レオナはかぶりを振った。
「違うんです、そうじゃなくて――確かに、嫌な思い出も少しよみがえりましたけど――それを上書きしてくれるような優しい思い出が今夜できたってことです」
―――
 そっか。
 とアダムはなんだかきょとんとした顔でうなずいて、それから後は黙々と料理を口に運んでいた。
(ま、また何か軽率なことを言ってしまったのかな)
 と、レオナは心配したが、アダムは別に気分を害したというふうにも見えなかった。デザートを注文する頃には機嫌のいい調子で、オペラの歌曲を口ずさんだりもしていた。
「愛しき君 たとえ僕の体が滅んでも 愛しき君 君に僕の全てを残そう――
 そのフレーズが一番のお気に入りらしい。行きの車の中と同じように、帰りの車でもフンフンと歌っていた。
(あなたにも、全てを残したいと思う人がいるんですか?)
 とレオナは聞いてみたいと思ったが、繊細さを要する話題であったし、それに、
(やっぱり、またひいおばあ様の話になりそう)
 という気もしたので、結局黙っていた。
 アダムはレオナの住むアパートメントの近所まで送ってきて、明るい街灯の下に車をめた。
「はい到着。お疲れさん」
「ありがとうございます。こんなところまで送ってもらって」
「気をつけて帰りなよ。家に着いたらメッセージ送って」
 夜気は冷えるから、と、後部座席からスーツの上着を取ってレオナに羽織らせた。
―――
 レオナはドアを開けて外に出ようとしたときに、こちらをじっと見つめるアダムの視線に気がついた。
「な、なんですか、アダム」
「いやぁ、ほら、なんだ、デートらしくおやすみのキスくらいした方がいいんじゃないかなぁと思って」
「えっ、しませんよ!?
「って即答するし」
 アダムは少し真面目に態度を改めた。
「余命数年内の人間の一生のお願いだって言っても、やっぱりしてくれない?」
 かつて帝国と呼ばれていたこの魔術師たちの国も、戦争や経済成長の時代を経験し世界に開かれた結果、帝国魔術師たちの血脈は世界中に広まって、もう誰にも制御できなくなってしまった。
 “魔術師のガン”あるいは狂乱病もそれとともに拡散した業病なのである。アダムがレオナに見せた検査結果。グレード7+第七階梯は無治療での五年生存率が十五パーセント以下であることを示す。
 レオナはかぶりを振ってアダムの問いに答えた。
「あなたの“一生のお願い”を聞いてしまったら、それを肯定するみたいで嫌なんです」
 けれども、そう言いながらもまだドアに手をかけただけで、ぐずぐずしている。
 アダムは小ずるい気持ちで、レオナの同情心につけ入るような気持ちで、さっとシートベルトを外し彼女の方へ身を乗り出した。
 レオナの小さな唇にキスしようとしたが、しかしこう見えてその実運動神経のいいレオナにはなんなくかわされ、唇の代わりにフェイクレザーの通勤バッグが彼の顔面に押しつけられた。
「セッ、セクハラ、は、いけませんよ――もう、ああ、びっくりした」
 とレオナはバッグを抱え直して小さくなっている。
 ごめん、とアダムは謝った。ため息とともに体を起こして、曲がった眼鏡を直した。
「俺が悪かったよ。ちょっと酔ってるのかも」
「お酒は言い訳になりません! というかあなたは一滴も飲んでないでしょう」
「いや何だろ、自分に?」
「もう――アダム」
―――
「アダム」
「なに」
 とシートベルトを着け直しながら振り返ったアダムの頬に、レオナの唇が掠めるように触れた。
―――
 え、とアダムのぽかんと空いた口から間の抜けた声が漏れる。一度では気が済まず二度も漏れた。
「えっ」
「パ、パパにするのと変わりませんから。それじゃ、おやすみなさい」
「え、あ、おやすみ――
 そそくさと車を出て帰っていくレオナの姿が見えなくなるまでアダムは見送った。
 そしてアダム自身も、イール川北地区の住宅街に建つ自宅に帰った。曽祖父アレクセイが建てた古く小さな一軒家に今はアダム一人で住んでいる。
 リビングの電気をけ、スマートフォンの通知を確認したが、レオナからのメッセージはまだ届いていない。妙に心配になってきて、
〈Adam: 家には着いた? 俺は今帰ったところ〉
 と自分から送ってみた。十五分ほどうんともすんとも返事がなくてやきもきしたが、やがて、
〈Leona: ごめんなさい、帰宅してます。お風呂に入ってました〉
 という返信が来た。それと一緒に、なにやら写真も送られてきた。レオナの湯上がりの姿――などであるはずがなく、彼女が飼っている緑色のインコの写真だった。それの上に「Sorry」と手書き文字の一言が吹き出し付きで添えられている。
(やれやれ)
 そんなインコの写真一つでも結構嬉しくなっている自覚はある。
 アダムは、風呂は後回しにして着替えだけ済ますと、自室へ向かった。かつて曽祖母の寝室だったその部屋は、彼女の死後片付けられてしまって、今ではアダムの音楽室になっている。
 譜面台に教本を広げ、バイオリンのケースを開けた。肩当てを付け、消音器を付け、弓を張って松脂まつやにを塗る。
 バイオリンの練習は一日だって欠かしたことがなかったけれど、今夜は特に、不思議と意欲が湧いた。今更練習なんかしてどうなるのかとねた気持ちになることもない。まずはボーイングの基礎練習から。
 音階スケール
 モーツァルトの練習曲。
 最後に聴き覚えた『月影の誘惑』の歌曲を弾いてみた。
 愛しき君 たとえ僕の体が滅んでも 愛しき君 君に僕の全てを残そう――それってどんな気持ちだろうか。どれだけ愛していたらそう思ってもいいのだろうか。それは――自分の奏でるバイオリンを聴いてほしいと思う気持ちとは違うのだろうか。同じだろうか。
 アダムはその曲を何度も繰り返し弾いた。ゆっくりと一音一音を確かめながら弾いた。テンポを上げて運指に一つのミスもなく完璧に弾けるまで練習した。満足のいく音が出せるようになると、それを聴いてもらいたくてたまらなかったけれど、もう夜更けだ。聴かせたい相手はとっくに緑色のインコにおやすみを言って寝ている頃だろう。
(これで今夜は最後)
 と、アダムはもう一度だけ弾いた。優しい愛の調べを、眠れる獅子への子守唄のつもりで。

(了)