恋の狭間の魔法使い

1

「というかですね」
 その晩、夕食の最中ずっとアレクセイは不機嫌そうだった。
 隠れ家的レストラン『サローラン』の屋外テーブルには火を使わない魔法のランプが置かれ、ピンクシェード越しの優しい明かりが席に着いた三人を照らしていた。アレクセイの隣席のダーリアが物珍しげにそれを眺めている。
「ダーリア、それはな、本当は魔法でも何でもないぞ」
 と教えたのは向かいの席に座っているライオネルである。
「ただの電灯だ。輸入品だな。帝国じゃ発電に馬鹿みたいに金がかかるから珍しいだけだ」
「へぇ、店主の方は新し物好きでいらっしゃるんですね」
「変わり者なんだよ」
 と、そんな調子で二人が一向に話を聞いてくれないので、アレクセイは声を大きくしてもう一度言った。
「と、いうかですね、ライオネル、ダーリア」
 すると、やっとライオネルもダーリアも振り向いてくれた。ライオネルがいかにも面倒くさそうに言った。
「何だよ、さっきから」
「何だよ、じゃないですよ。ライオネル、まさかあなた本気で僕にダーリアのルームメイトになれって言ってるわけじゃないでしょうね」
「俺はこの前おまえに話したときから至って本気だが」
「あれは僕をダーリアに会わせて驚かせようとしたんだとばかり――
「実際のところ、俺は今ダーリアの下宿探しを手伝ってる」
「私は帝都には不慣れなので」
 とダーリアが言い添える。
「ジュネ先生が新聞広告からよさそうな下宿を見繕ってくださってるんです」
「なんでまたこの人に頼むんですか」
 アレクセイはなんとなく面白くなさそうな様子で、手に持ったナイフとフォークでやたらと皿の上の水鳥のソテーを回したりひっくり返したりしている。
「それは、私が一度はお断りしたシモン先生の研究室への入学を改めてお願いするときに、ジュネ先生が熱心に口利きをしてくださって、それ以来何かとお世話に――
 とダーリアが説明しようとすると、ライオネルが苦笑いしながら割って入った。
「ダーリア、そうじゃなくて、こいつは自分を頼ってもらえないのが面白くないだけさ」
 ダーリアは、きょとんとしてアレクセイの顔を見つめた。
 アレクセイは口を尖らせてライオネルをにらんだ。
「僕は別にそういう――
「なあアレクセイ、おまえだってまだ転居先が決まらなくて難儀してるんだろう。悪い話じゃないと思うが」
「いやそりゃ、僕の方だってなかなかいい部屋が見つからないのは確かですけど、だからって彼女と一緒には住めませんよ」
「どうしてだ。アパルトマンで二人きりってならともかく、下宿は家主も同居だぞ。今時の学生なんか、家賃を安く済ませるために男女で同じ下宿を借りてるのは珍しくもない」
 むしろ、とライオネルは続けた。
「女だけで借りるより家主にも歓迎される。男手が欲しい寡婦も多いしな」
「アパルトマンで一人暮らしというわけにはいかないんですか? ダーリア」
 とアレクセイが話を振ると、ダーリアは困ったように眉を下げた。
「母がようやく帝都大学への進学を許してくれた条件が、一人暮らしはしないということだったので――身元の確かな下宿の家主に手紙を書いてもらうよう母から言いつかっているんです」
「どこの母親も、いつまでも子供扱いが直らないのは同じですね」
 とアレクセイも心当たりがあるらしく、憂鬱そうな顔をしている。
 肉料理とサラダが済んでデザートを待っている間に、ライオネルが思案をして、ダーリアの下宿探しについて今後の方針を決めた。
「まあ、アレクセイが嫌だって言う以上仕方ない。別のルームメイトを探すか、女一人で借りられる部屋を探すか、どっちかだな。カムカット紙辺りに下宿求むの広告を出してみるか。俺が明日にでも新聞社に連絡しておくよ」
「ありがとうございます、ジュネ先生。私にも何かお手伝いできることがありますか?」
「ルームメイト募集の方は大学に掲示を依頼するのがいいと思うんだが、君はあと二ヶ月の間は正式な学生じゃないからなぁ――うちの学生に仲介を頼もうか。明日暇なときにでも俺の研究室に来てくれないか?」
「わかりました。伺います」
「君と歳の近い女子学生もいるから、よかったら紹介しよう」
 そういうことで話がまとまった。
 夕食を終え、三人は辻馬車を呼んでサローランを後にした。
 先にダーリアを宿泊先へ送り届け、それからアレクセイ、ライオネルの順に帰宅した。ダーリアは、下宿が決まるまでの間、指導教員のシモンの妻の家で世話になっているのだという。その話を聞いたとき、アレクセイは意外そうな顔をしていた。
「シモン先生ってご結婚なさってたんですね。僕が学生時代の頃からずっとそんな様子はなかったから、てっきり独身かと」
「もう結婚して二十年にはなるそうですよ。ただ、長い間奥様とは別居なさってるとか」
 とダーリアが教えてくれた。アレクセイは首をひねった。
「夫婦仲があまりよろしくないんですか?」
「さあ、そんなふうには見えませんでしたが――仲のいいご友人同士のような雰囲気でした。シモン先生はもともと医学部の出身で、後から近代魔法学部に転向なさったんだそうです。奥様とは医学生時代にお知り合いになったと聞きました」
 シモン夫人の名はマルセルという。それを聞いて、アレクセイとライオネルは顔を見合わせた。ライオネルが感慨深そうに言った。
「イリヤの解剖の執刀医がシモン夫人だったわけか。妙な巡り合わせもあるもんだな――
 おやすみなさい先生方、と挨拶して降りていったダーリアの後ろ姿が街角の小さな家に入るのを見届けてから、馬車は次にアレクセイのアパルトマンへ向けて出発した。
 四輪馬車の暗い車中、アレクセイとライオネルは隣り合って座っていた。
 アレクセイはおもむろに上着のポケットへ手を入れると、そこから細い銀の指輪を取り出して左手の薬指にはめた。中央には華奢な爪で濃い色の紫水晶を一石留めてあった。
「それ」
 とライオネルが指摘して、
「どうしてダーリアの前では外してるんだ?」
「別に、僕の勝手でしょう?」
「彼女の前ではわざと不機嫌な態度まで取って」
 アレクセイは図星を指されたらしく、弱ったように顔をしかめた。
「アレクセイおまえも案外人並みだな。ま、ともあれダーリアが来てくれたおかげで、俺は近頃おまえに妙なことも言われないし、貞操の危機も感じずに済んで助かる」
「わかりませんよ、僕って気が多いですからね」
 図星を指された仕返しのつもりか、脇からいきなりアレクセイが腕に腕を絡めてきて、ライオネルは慌ててそれを振り払った。
「冗談はよせって」
「ライオネル、僕が誰を好きになったとしても、あなただけは特別です」
 アレクセイは真面目な声を出した。
「あなたにとっても僕は特別です。そうでしょう?」
―――
「僕はあなたのためにパーヴェルを殺しました。あなたは僕にパーヴェルを殺させた罪の意識から逃れられない。だから僕たちは離れられない」
 そういうことでしょう。と、言いながらアレクセイは左手の指輪を右手でもてあそんでいる。
 ライオネルは何も答えなかった。

2

 下宿を求む。当方女子学生。帝都大学に在学中。教養あるあまり派手やかならざる家庭で、大学への通学に便利な北地区または北西地区を望む。男性の後見人有り、家主との定期的な面談を行うものとする。

 というような内容の広告をライオネルが新聞に出した翌日には、もう応募の手紙が新聞社の郵便受箱へ届き始め、三日もすると書類鞄がいっぱいになるほどの数になった。その全てを開封して目を通し、見学に行く部屋をいくつか選び出すわけだが、それだけでも大変に骨の折れる仕事である。
 帝都大学近くの明るいカフェーで、ライオネルとダーリアは一緒に昼食を取りながら、応募の手紙を一通一通確かめていた。あるとき、そこへ給仕がやって来て、
「お連れ様がお着きです」
 と告げた。給仕の後を追うように現れたのは、ライオネルの研究室の女学生ユメルだった。
「先生、お言葉に甘えてご馳走になりに来ました」
「おっ、やっと来たな。まあ座ってくれ」
 促されるままにユメルはライオネルとダーリアの間の席に着いた。ダーリアの方を向いて、
「ダーリアちゃん、こんにちは」
 と笑いかける。
「こんにちは、ユメルさん」
 とダーリアがほほえみ返すと、ユメルは嬉しそうにはにかんだ。先日ライオネルが研究室で紹介して以来、ユメルはどうもダーリアのことをいたく気に入っているらしかった。
「ユメル、ダーリアと仲良くしてくれてるようで何よりだ。俺も紹介した甲斐があったよ」
「うふふ。ああそうだ先生、ルームメイト募集の件、大学に掲示してもらって三日経ちますけど、まだ応募はないみたいです。この時期に部屋を探している学生を見つけるには、しばらく時間がかかるかもしれません」
「そうか――まあもう七月だもんな。いっそ九月まで待てば探しやすいのかもしれないが、そうも言ってられない」
「ユメルさん、いろいろ手伝ってくださってありがとう」
 とダーリアがユメルにお礼を言った。ユメルは頬を染め、分厚い眼鏡の奥で目をうんと細めて言った。
「いいのよ――
 まるで少女が絵本の中の人物やお人形を眺めてでもいるようなうっとりした表情で、ダーリアは首をかしげたが、ライオネルは普段研究室で見慣れているから気にしなかった。
「先生」
 と、ユメルがライオネルの方に向き直る。
「お部屋探しの方の首尾はいかがです?」
「ダーリアと二人でいくつかよさそうなのを挙げたところだよ」
「じゃあ近いうちに見学に行かれるんですね」
「そうだな、今週の日曜日にでも」
「お二人で?」
「まあ、こういうことには男手があった方がいいだろう」
「そうですね。女一人だとわかると急に威張り出す人も世間にはいないではありませんし」
 ユメルは相変わらず茫洋とした表情をしているが、その言葉にはやけに重みがある。カフェーから大学への帰り道、ダーリアはそのことをそれとなくユメルに尋ねてみた。ライオネルは先に帰っていて、学生二人肩を並べているだけなら気兼ねすることもなかった。
「世間にはいろんな人がいるのよ。女にはものがわからないと思ってる人とか――もちろん、そうじゃない紳士の方が圧倒的に多いけれど」
 とユメルはにこにこしながら答えた。
「つらいことがあったの?」
 とダーリアは優しく問いかけた。
「つらいというほどのことはないけど――魔術物理なんか専攻してると日頃周囲は殿方ばかりで、心細い思いをすることはあるわ――
「私にできることがあったら助けになりたいわ」
「ありがとう」
 ユメルは頬を上気させてはにかみ、またもうっとりとダーリアを見つめた。
「ジュネ先生がダーリアちゃんのこと、とってもいい子だって言ってたけど、ほんとね」
「そ、そうですか? ありがとう」
「先生とは家族同士でお付き合いがあるんですってね」
「私の母が、先生のお母様と友達なの。ユメルさんこそ、先生がこちらに研究室を持って以来ずっと一緒だって」
「ええそう。おかげでもうあんまり先生っていう気がしないわ。歳も近いし」
 帝都大学の最終課程最高学年であるユメルは二十七歳で、ライオネルとは四つしか違わない。ダーリアにとっては三つ年上である。
 ユメルは冗談めかして言った。
「ジュネ先生って結構素敵じゃない? 知性的だし紳士だし――あれで仕事人間じゃなきゃね。日曜にダーリアちゃんと一緒に出かける話も怪しいところだと思うわ。週明けに論文の締切を抱えてるはずだもの」
 ユメルの予言は当たった。
 金曜日の午後、シモンの研究室で他の学生に実験器具の使い方を教わっていたダーリアのところへ、ライオネルがふらっと訪ねてきて、
「ダーリア、すまないが日曜の約束の件――
 と切り出した。
「論文の執筆でお忙しいんですか?」
 とダーリアが皆まで聞かずに問うと、ライオネルはきょとんとして、首をかしげた。ダーリアはすぐにタネを明かした。
「ユメルさんから聞きましたよ」
「ああなるほど――本当に申し訳ないんだが、締切が火曜でな、月曜には郵送しなくちゃならん。それで、俺の代わりにアレクセイに同行を頼んでおいたから」
「えっ」
 今度はダーリアがきょとんとする番だった。
「まあ、頼りないやつだがいないよりはマシだろう。それに、帝都へ来てからバタバタしてて、あいつと二人でゆっくり話す機会もあんまりなかったんじゃないか?」
 とライオネルが言い、ダーリアは照れてうつむいた。それを見て、ライオネルは人のよさそうな顔でにやついた。
 日曜の朝八時にダーリアはアレクセイのアパルトマンを訪ねた。ライオネルに教えられた通り、帝都中央の枢機宮通りに交わるイール川を北に上って歩いて行った。
 北地区の住宅街は静かなところで、中流の独身者向けらしい手頃な様子の集合住宅が道沿いに並んでいる。アレクセイのアパルトマンは、35-F番地に建つ白く背の高い建物だとライオネルは言っていた。ダーリアはその建物に入り、階段を上って307号室に向かった。
 部屋の呼び鈴を鳴らすと、待ち構えていたようにアレクセイが出てきた。
「やあ、いらっしゃい――
「おはようございます、先生」
「おはよう、ダーリア」
 アレクセイは、寝起きでも悪いような風体で、にこりともせずにダーリアを玄関先へ招き入れた。
 部屋の中はそこからでもわかるくらいがらんとしていて、生活感が感じられない。ダーリアはなんとはなしに尋ねた。
「先生お一人で住んでいらっしゃるんですか?」
「他に誰がいるっていうんですか」
「いえ、家政婦さんの一人でもいらっしゃらないのかと」
「ああ、その手の人は週に一度掃除と洗濯に来てくれる人が――家主の勧めでね。アパルトマンならそういうところが多いですよ。下宿なら家主がするかもしれないけど。ちょっと待っててもらえます? 上着と帽子を取って来ますから」

3

 辻馬車の待合所へ向かって路地を歩きながら、アレクセイが言った。
「そういえば、こっちへ来てからもずっとその格好ですね」
 ダーリアは、黒獅子城にいた頃と変わらず紳士服で身を固め、山高帽をかぶった男装である。夏向きの薄手な紺地の三つ揃いが涼やかだった。童顔のアレクセイと並ぶと、大学の男子学生が二人連れ立って歩いているようにしか見えない。
「婦人服のスカートはどうも心配で」
 とダーリアは言う。アレクセイは首をひねった。
「心配とは?」
「もし中身﹅﹅が見えるようなことがあると困るということです。先生もご覧になった通り、私の体は――
 ダーリアが皆まで言う前に、アレクセイは赤くなってそっぽを向いてしまった。黒獅子城での一件は忘れもしない。
 ダーリアは小首をかしげ、アレクセイの顔を追った。
「私が女の姿をしている方が先生は嬉しいですか?」
「嬉しいというかその――ちょっと見てみたいというか」
「婦人服を着て差し上げてもよろしいですよ。ただし先生が、どうしてそう私につれない態度を取るのか、教えてくださればですけど」
 アレクセイが、はっとした顔になってダーリアを見つめた。ダーリアの表情が曇る。
「私が帝都に来て以来、先生はいつもご機嫌麗しくないご様子なので」
―――
「私がこちらに来てはご迷惑でしたか?」
「迷惑だなんて、そんなことあるはずが――
 と口では言いながらも、アレクセイは浮かない様子である。
 話が宙ぶらりんになったまま、やがて二人は馬車の待合所へ着いた。手近な二輪馬車を拾って乗り込み、さっそく一軒目の下宿へ出発した。
 帝都で住むところを探すとなれば、一日中めぼしい物件を回っても決まらないなどというのはザラである。新聞広告には「宿料低廉、風呂付、食物上等」とか「枢機宮通りに面し貴女と交際の便利あり」とかうたっている物件が山ほどあるが、実物はそううまい話でないことがほとんどだ。それに加えてダーリアの場合は、家主が人品骨柄いやしからぬ人物という条件もあるから難しい。
 アレクセイとダーリアは、まず一番大学から遠いところから始め、徒歩で五軒ばかり回った。
 一軒目は立地がよかったが、家賃が高かった。二軒目は日当たりが悪く、三軒目は応募の書面に書かれていた内容と実物がかけ離れていた。四軒目は上流階級の社交界シーズンとそれ以外とでは家賃が変わるとのことだった。下宿の家賃の多くは週払いで定められており、そういうこともままある。
 五軒目は、立地もよく家賃も手頃で、実際に宅内を見学したところ部屋の居心地もよさそうだった。が、アレクセイは反対した。
「家主が男やもめ一人というのはどうかと思いますよ」
 その家の主は、もう六十歳を過ぎた老紳士で、先年長く連れ添った妻と死に別れ、それ以来空いてしまった部屋を学生向けに貸し出しているそうだ。元は私塾の教師だったらしく、今は退職して気ままにしているが、多少なりとも若者の助けになれば、というのが家主の語ったところである。
「立派そうな方に見えましたが」
 とダーリアが言ったが、アレクセイはかぶりを振り、
「立派なことを言うだけなら誰だってできます。僕も帝都大学に在学中は下宿住まいをしましたが、あの手の話は結構多いんです。もちろん本当に立派な心がけで貸してくれる人もいますけど、詐欺まがいのことだってあるんですから」
「それは今後交渉していく間にわかるのでは?」
「ま、まあそうかもしれませんが」
 アレクセイはなんとなく歯切れが悪い。
「でも、あの、あなたのお母上は、いくら老人とはいえ男性と二人暮らしなんて許さないんじゃありませんか?」
「否定はできませんね」
 と、ダーリアは憂鬱そうな顔になった。
 結局、その日は足を棒にして回ったが部屋を契約するには至らなかった。二人は昼食を取り損ねていたので、帝都大学近くのカフェーに入ってお茶を注文した。
 天気がよかったこともあり、二人が案内されたのは屋外のテラス席だった。表の通りを女子学生がひっきりなしに行き来している。彼女たちの何人かはアレクセイとダーリアに意味ありげな目線を投げかけていく。
「ああ」
 と、アレクセイは今更気付いて言った。
「ここ大学生の溜まり場なんですね」
「そうみたいですね」
 と、ダーリアはうなずきながら帽子を脱いで席に着いた。ダーリアの肩に長い黒髪がすとんと落ちたのを見て、通りの女子学生の幾人かはがっかりしたような顔をした。
 アレクセイがちょっとおかしそうに笑いながら言った。
「こういうところで男子学生がガールハントしたり、女子学生がお喋りしてたりするわけですか」
「先生も学生時代、こういう場所で楽しく過ごしたんじゃないですか?」
「とんでもない。僕は地味で内気な学生でしたよ。女子学生と話したことだってほとんどないんですから」
「まさか」
 とダーリアは信じない。
「いえ本当に――あの頃の僕は自分のこと以外どうでもいいと思ってたから――
―――
「そういう考えは口に出さなくてもやっぱり人に伝わるもので、ちゃんとした友達も恋人もいませんでした。独りぼっちになるべくしてなっていたわけです」
 やがて、給仕が、お茶とパンやケーキなどの軽食を運んで来た。アレクセイは店の値踏みをするようにティーセットを眺め回してから、食事に手を付けた。
「大学生活はどうですか?」
 とダーリアに尋ねた。
「シモン先生の研究室の皆さんは親切にしてくれますか?」
「はい。先生も学生の皆さんも」
「シモン夫人のお宅での暮らしに不自由はありませんか?」
「奥様は女医としてお忙しく働いていらっしゃいますが、私の衣食のことまでいろいろと気にかけてくださいます」
「あの――
 アレクセイはぐずぐずと逡巡したのちに言った。
「シモン夫人は――イリヤ・ラフォンという人のことについて、何か言っていませんでしたか?」
「それは先月一日に、帝国魔術師として初めて死後解剖を受けた、イリヤ・ラフォン第六階梯魔術師のことですか」
「七月一日付けで第八階梯魔術師です」
「ラフォン氏は“変異体”でしたね」
「そんなふうに呼ばないでください。彼の望まぬ形で天に近付いてしまったんです」
 ダーリアは毅然とした表情でアレクセイを見据えた。
「シモン先生の奥様は、ご自身の患者について軽々しくお話しになるような方じゃありません」
 アレクセイはしょんぼりと肩を落とした。
「すみません」
――先生にとって、ラフォン氏はそんなに忘れがたい人ですか?」
「あなたも、僕と会う前にゴシップ新聞で読んだはずでしょう? 僕やイリヤのことは」
「噂話は信用しないことにしています」
「新聞に書かれたことは嘘がほとんどでしたが、僕たちの大学時代の関係については概ね真実です。僕たちの間に肉体関係はありませんでしたが――“交歓”で恋人の真似事くらいはしました。僕の恋人ごっこに付き合ってくれた学友の一人なんです、イリヤは」
 それに、と、アレクセイは低い声を出した。
「僕は魔術を施して彼のアストラル体を現世から消し去ったんです――僕が殺したも同然の人を忘れることはできません」

4

 ダーリアがなんだか不機嫌そうにして、ろくに目も合わせてくれない様子にアレクセイが気付いたのは、それからすぐ後のことだった。
 ちょうど彼女と初めて会ったときに似ていた。アレクセイにかける言葉こそ親切だが、心は遠くにいて、なんとなくよそよそしい。
 カフェーの支払いを済ませ、外へ出ようというところで、アレクセイはこらえきれなくなって、ダーリアの顔を覗き込みながら問いかけた。
「あの、僕、何かあなたの気に障ることを言いましたか?」
 ダーリアは、聞こえなかったと言わんばかりに、ぷいと目をそらして帽子を目深にかぶり、髪をその中に押し込んで、表通りへ踏み出す。アレクセイは急いで追いかけた。ダーリアの左隣に並び、まごまごとしばし思案をした。
「もしかして、その、イリヤの話をしたからですか? それともシモン夫人のことで怒って――
「ラフォン氏の方です」
 とダーリアは不意に言った。
「こんな気持ちになったのは、子供の頃好きだった男の子に恋人ができたのを知ったとき以来です」
「それってつまり――
 言いかけて、アレクセイはひどく赤面してしまった。
「あなたといると、まるでダメですね、僕は」
 と言う。ダーリアが物問たげな目を向けると、アレクセイは苦笑いを返した。
「本当は、僕なんかあなたに嫌われた方がよっぽどあなたのためになるって、わかってはいるんですけど。だから、できるだけ冷たく振る舞おうとまでしてたのに」
 アレクセイは右手をそっと持ち上げると、何度もためらってから、おそるおそるダーリアの左腕に指先で触れた。
「ねえダーリア、腕を組んで歩いてもいいですか?」
――どうぞ」
 ダーリアは怪訝そうな顔をしつつも肘を差し出してくる。アレクセイはそれにおずおずと手首を絡めた。
「ありがとう。僕、こんなふうにして街を歩くのは初めてです。学生の頃憧れてたんですよね」
「ラフォン氏とは?」
 アレクセイは首を横に振る。
「ちょっとは機嫌を直してくれましたか?」
 と、困ったように眉を八の字にしながらダーリアに笑いかける。
 ダーリアは、切れ長の目をきょとんと丸くしていた。しばらくそのままでいたが、じきに照れくさそうに下を向き、
「はい」
 とうなずく。
「だけどダーリア、僕たちはまだ知り合って間もないし、お互いのこともよくわからないでしょう」
「これから知っていけばいいと思います」
 と、ダーリアは言う。
「時間はいくらでもあるんですから」
「あなたはそうでも、僕に一体どれくらいの時間が残っているのか――
「? どういう意味です、それ」
 アレクセイはあいまいにほほえんでいるだけで答えない。その代わりに、
「僕のことを知ってもらうために少し昔話でもしましょうか」
 と、優しい声で言った。
「ダーリア、黒獅子城であなた初恋の話をしてくれたでしょう。今度は僕の話も聞いてくれます?」
 ダーリアは少し黙り込んでいたが、腹の据わった様子で先を促してきた。
「聞きます」
「じゃあ――僕も十歳くらいの頃だったかな。好きな女の子がいました。その子は僕に勉強を教えていた家庭教師の娘で、よく親に連れられて僕の家に遊びに来ていました」
「どんな方だったんですか?」
「そばかす顔で、金髪のふわふわした巻き毛で、いつもひらひらした洋服を着てて、お人形みたいでとっても可愛かった――でもお転婆でね、あなたに負けず劣らないくらい」
「それは相当なお転婆だったんでしょう」
 と、ダーリアは言い返す。アレクセイは笑った。
「ええ本当に。ひらひらの服で木に登ったり、川に入ったり、何でもしていましたよ。僕たちのリーダー格のライオネルがまたそういう遊びが好きでね。僕はいつもぐずぐずしてて置いてけぼりだったけど、その女の子は一生懸命ついて行って」
「その方はジュネ先生が好きだったんじゃありませんか」
「そうだったのかもしれません。僕はその子と手をつないだり、キスしたり、してみたかったけど、とうとう好きだとは言えずじまいでした。嫌われるのも怖かったし、それに、ライオネルの方が好きだと言われるのも怖かったのかもしれませんね。一緒にいて、ただ眺めているだけで精一杯だった」
――その方とは、今は?」
「友人同士ですよ、相変わらず。今ではライオネルがその女性を愛してます。昔とは逆に、今度は彼の方が彼女を追いかけてるんだから、人生おかしなものです」
 ほら、彼が左手の薬指に着けてる指輪の相手ですよ。とアレクセイが教えると、ダーリアは思い出したようである。
「ああ、あの」
「ダーリア、あなたのそばにいると、僕の胸にそんな優しい思い出や、気持ちが、温かく呼び起こされて蘇る気がします」
 アレクセイはそのことを言いたくて、古い思い出を語ったらしい。
 二人は帝都大学の正門までやって来た。
「そうだ、ライオネルのところに寄って行きませんか。あの人、明日提出の論文を書くために大学に来てるはずだから」
 とアレクセイが言い、ダーリアも賛成した。
 近代魔法学部にある魔術物理学研究室には、ライオネルと、ユメルの他数名の学生が日曜だと言うのに出席して、論文や報告書を書いていた。
「論文の方は進んでますか? ライオネル」
 と、居室を訪ねてきたアレクセイとダーリアに、ライオネルは別段驚きもしない。この週末は寝不足で疲れていて、そんな気力はないらしい。
「まあなんとか締切には間に合いそうだ」
 ライオネルは執務椅子の上で大きく伸びをしてから立ち上がり、アレクセイたちに応接椅子を勧め、自分も座った。
 そこへ頼んでもいないのにユメルがお茶を持って来てくれた。親切心で、というよりは三人の様子を覗きに来るきっかけがほしかった体である。
「いい下宿は見つかった?」
 と、ユメルはダーリアに尋ねた。ダーリアはかぶりを振った。
「いいえ、まだ。部屋を探すのもなかなか難しいですね」
「ルームメイト募集の方もさっぱりよ」
「だからアレクセイ、おまえが一緒に住めば万事解決するんだ」
 ライオネルが満更冗談でもなさそうな口調で言って、お茶を口に運んだ。
 アレクセイは参ったような表情になり、
「この間は冷たい言い方しちゃいましたけど、僕は何も嫌だと言ってるわけじゃないんですよ。ただ僕たちは男と女なんですから」
「あら案外お古いんですね、カミュ先生。それにお二人が一緒に住んだ方が楽しいのに」
「なんなら私のことは男と思っていただいても構いませんが」
 と、ユメルとダーリアが順番に口を挟んできて、アレクセイはますます参ってしまう。
「それは無茶な相談ですよ」
 ライオネルがティーカップを皿に置いて言った。
「せっかく見つけた掘り出し物の物件だっていうのにな。北地区の通り沿いで便利はいいし、寝室二部屋に居間一部屋、三階建ての南向きで日当たり良好の上、風呂付き家具付き、家主の老夫人は料理が上手いし、おまけに家賃は格安だ」
「そんなにいい物件なのに、どうして今まで借り手が付かずにいるんです?」
―――
 あ、しまった。という顔をライオネルがしたのをアレクセイは見逃さなかった。
「ライオネル、僕たちに何か隠してることがあるんじゃないですか?」
 ライオネルはアレクセイと目線だけで何やら二言三言やり取りしてから、結局観念したらしく、
「いや実はな、いわゆる――いわく付き物件らしいんだ」
 その部屋を借りた人間は皆不幸になる――そういう噂のある家なのだと言った。

5

 北地区シカーダ通り231番地に古いながらも堅牢なレンガ造りの家があって、メサジェ夫人はもう十年ばかりそこを下宿として切り盛りしているとの話である。
 メサジェ夫人は、生まれこそ裕福ではなく貧しい労働者の家庭で育ったが、両親が向学心のある人たちで商業高校にまで行かせてくれた。学校を出た後は帝都の郵便支局に勤め、同じ職場の紳士に嫁いだ。息子を二人産んで、二人とも立派に育って独立した。夫は幸い出世をしたので、暮らし向きに不自由はなかった。
 夫を亡くして以降下宿の経営を始めたそうである。立地もよく、家は手入れが行き届いており、宿料は良心的ということで、評判はよかった。
 メサジェ夫人の家で妙なことが度々起こるようになったのは、二年ほど前からだという。
 最初は、大したことではなかった。一階の寝室を貸していた大学生が急に風邪を引きやすくなったり、何もない場所で転ぶようになった。そして半年後、その学生は留年して金に困ったため家を出ていった。元々成績は悪くなかったはずだが、その半年ですっかり単位を落としてしまったということだった。
 それからすぐに次の借り手が見つかったが、三ヶ月後に馬車にはねられて入院した。その次の住人は過労で倒れた。その次は賭博で破産して、そのまた次は婚約者に逃げられてと、死者こそ出ていないものの、皆ろくな目に遭っていない。
 それでいつからか、噂が立つようになったのである。
「シカーダ通り231番地に住んだ人間は皆不幸になる――と。そういうわけですか」
 と、メサジェ夫人の話を聞き終えたアレクセイはうなずき、隣席のライオネルをじろりとにらんだ。
「ライオネル、あなたそんな家をダーリアに勧めようとしてたんですか?」
「別にそういうつもりはない」
 とライオネルはかぶりを振る。正面の椅子に姿勢よく座っているメサジェ夫人を見た。
 場所は問題の231番地に建つ夫人の家で、彼女を訪ねてきたアレクセイ、ライオネル、ダーリアの三人は一階の居間に通されている。ライオネルが言った。
「メサジェ夫人、話に聞くところ、その不幸な目に遭ったのは、この家に住んだ全員というわけじゃないのでしょう?」
「はい」
 と老夫人は上品にうなずいた。
「この通り私などは平気でおります。不運な方々は全て北側の一階の寝室を貸していた方﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅なのです」
 ダーリアが、なるほど、と相槌を打った。
「つまり、それ以外の部屋に住んでいれば大丈夫なんですね」
「はい。ただまあ、たいていは一階の方と一緒に借りていらっしゃいましたから、一人では家賃が高いと仰って皆さん出ていかれましたが」
「そういうわけだ、アレクセイ」
 と、ライオネルがアレクセイに向き直って言った。
「ダーリアが二階を借りて、おまえが一階を借りる。これで丸く収まる」
「収まってないでしょう!? 僕が不幸な目に遭うじゃないですか」
「おまえ今更不幸が一つや二つ増えても大して変わらないだろう」
「いやおかしいでしょう、どういう意味ですか。僕を何だと思ってるんですか」
「それにおまえなら、もし何かあっても“祓える”んじゃないかと思ってな」
 と、ライオネルは真面目な声になって言った。
 アレクセイはあきれた顔をした。
「我々黄金の契り派は、あなたたち血の夜明け派と違って、悪魔祓いや呪詛返しは得意じゃないですよ」
「だが地相を見たりはするんだろう? この手のいわく付き物件、つまり『悪魔の棲む家問題』の場合、俺たちが悪魔祓いをしても一時的な効果しかないことも多いんだ。根本的な解決のためには、汚れた土地そのものを、地相なり植物相なりを変えて改善する必要がある」
 ライオネルの言葉にメサジェ夫人もうなずく。
「今まで何度か魔術師の方を呼んでお祓いをしていただいたのですが、効き目はありませんでした」
「そういうことなら、確かに僕たちの領分のようですが――
「なんだよ、もったいぶって」
「僕はこの件には直接関与できませんよ。こう見えても公務員ですからね。学士院に無許可で魔術を執り行ったとなれば懲戒不可避です」
「肝心なときに使えないやつだ」
「何とでも仰い」
 とアレクセイは言いつつも、含みのある口調である。
「ま、そういうわけで、僕は﹅﹅手を出せませんけどね」
 ちらりとダーリアに流し目をくれる。
「黄金の契り派の祭司は、なにも僕だけというわけじゃありませんよ」
「なるほど」
 と、ライオネルもダーリアを見た。それにつられるようにメサジェ夫人もダーリアの方を向いた。
 ダーリアは、珍しくうろたえた声を上げた。
「わ、私はついこの間やっと祭司と認められたばかりで」
「展開式は成功させたと聞きましたよ。お母上に戴冠してもらったんでしょう? それならもう一人前です。その力を人のために役立てなければ」
 とアレクセイは諭す。
「日頃、人のために魔力を使ってないおまえが言うのもどうかとは思うが」
 とライオネルに茶々を入れられたが、アレクセイは無視して続けた。
「きっといい経験になりますよ、ダーリア」
「私からもお願いいたします、スルトさん」
 メサジェ夫人も深々と頭を下げる。
「私ももう六十を過ぎまして、年金とこの家の他に稼ぐあてもございません。もし、この家を昔の通り平穏な家に戻していただければ、お家賃の方は多少おまけいたしますから」
 と夫人もなかなか商売上手である。
 結局、ダーリアはこの家の調査を引き受けることになってしまった。当人としてははなはだ不安そうである。
「お受けしたのはいいですが、魔術に必要な術具も何も私の手元にはありません。ほとんど身一つで帝都へ出てきたようなものですから」
「だったら学士院へいらっしゃい。申請すれば誰でも聖堂や作業部屋を借りられます。我々に必要な術具も一通りは揃っていますよ」
 と、アレクセイが請け負った。
 そういうわけで、次の月曜日、ダーリアはさっそく帝国学士院を訪れたのであった。

6

 水路を張り巡らした敷地内の歩道を通って、学士院の白いタイルとテラコッタに覆われた建物へ入ると、すぐ左手に受付らしきものがある。ダーリアがそこで名前と身分を告げると、お役所仕事にしては案外待たされることもなく、三階にあるアレクセイの研究室へ通された。
「やあ、帝国学士院へようこそ、ダーリア。大学の方は大丈夫ですか?」
「はい。シモン先生に事情を話して、快く承知していただきました」
「それは重畳」
 目的の聖堂は学士院の一階北東の最奥に位置する。アレクセイは三階から一階に降りるまでの間に、ダーリアに学士院のことを簡単に説明した。
「学士院の役目は、我々帝国魔術師の管理の他、大学と同じように研究をしたり、市井の魔術師への援助活動などもあるんです。聖堂の貸し出しもその一環でね」
 途中すれ違う顔見知りの会員一人一人に挨拶をしながら、階段をぐるぐると降りていく。
「ここには国で認められている全ての教派の魔術師がいます。聖堂も全ての教派が使用を許されています」
「先生もお使いになるんですか?」
 とダーリアは尋ねてみた。
「使いますよ。公に魔術を行うときは、ここか、それでだめなら大聖堂に行きます」
 聖堂の中は実用に徹しており、飾り気のない簡素なものであった。正面に祭壇、少し手前に演台があり、それに向かい合って木製の長椅子が並べてある。
「さあ、何から始めます?」
 と、アレクセイはダーリアに問いかけた。
「ええと、まずはメサジェ夫人宅の周囲の脈図を作らないと――
 とダーリアが答えると、アレクセイは正解だと言って、祭壇の裏にある香部屋へ案内してくれた。香部屋というよりはまるで倉庫で、各教派に必要な術具などをきちんと整理してしまってある。アレクセイは書類棚を開けて北地区の地図を一枚取り出した。
「筆記用具は持って来ましたか?」
「はい。ペンとインクと帳面くらいは。他に必要な物は、羅針盤と、天球儀と、暦と――
 聖堂の演台に地図を広げ、メサジェ夫人の家の住所に印を付ける。
 暦を調べて天球儀の惑星の位置を合わせる。羅針盤で吉凶の方角を見て、それを地図に書き込み、惑星の配列は隅にメモした。
「まあ、夫人宅の異変は二年前からずっと続いているとのことなので、天脈の影響は小さいのではと思いますが」
 と言いながら、ダーリアは正答を求めるようにアレクセイの顔を見た。
「僕もそう思います。異変の範囲も狭いですからね」
 アレクセイは、香部屋から煉瓦のごとく分厚い帳面をいくつも抱えて出てきた。
「地脈に寄与する物には何があるか覚えていますか? ダーリア」
「ええと、山林や河川のような地形の他、教会や聖堂、墓地、獣の多くいる場所、大木、植物の群生地――
「そう。他にもいろいろありますが、それらを全て考慮した脈図を作成しなければなりません」
 と、骨の折れることを、アレクセイはさらりと言ってのける。持って来た帳面を広げてダーリアへ見せ、
「これはね、学士院で僕や僕の前任者たち黄金の契り派の魔術師が作ってきた帝都の地脈調査書です。ここに考慮すべき地形や建物などは全て記してありますから」
 それをそっくりダーリアに渡し、
「これを見て脈図を作ってくださいね」
 と言う。ダーリアは目の前に積み上げられた調査書に、しばし途方にくれてから、アレクセイの顔色を窺うようにして言った。
「あの、これを私一人で」
「一人でするんです。一人前の魔術師は皆そうしてきました」
「先生も?」
「もちろん、僕もです。まあ僕はその調査書の内容は全部覚えてますから、あまりその点で苦労したことはないんですけど」
「えっ!? これを全部!?
 ダーリアは目を剥いた。しかし考えてみれば、そんな超能力に等しいほどの記憶力あってこそ、黄金の契り派の複雑極まる儀式を自在に行うことができるのに違いない。
(私にはたぶん一生かかっても及びもつかない話だわ――
 ダーリアは脈図を作るために連日学士院へ通うことになった。毎日午後三時頃には大学での研究を切り上げ、それから二時間ばかり学士院で術具や資料を借りて地道な作業に没頭する。わからないことがあれば、遠慮せずアレクセイを訪ねて教えを乞うた。アレクセイはどんな些細なことでも丁寧に教え示してくれた。
 月曜日から始めて、土曜日の夕方には地図の上に数えきれないほどの印が付けられ、メサジェ夫人宅を中心に幾つも直線が引かれ、真っ黒になるまで書き込みがされていた。
 ダーリアは、アレクセイに監督され、たどたどしいながら占術も執り行った。水鏡と振り子を使った水占いは、黄金の契り派独自の方法ではないが、かの魔術師たちは地脈探査のためにそれをよく用いる。
 土曜日の終業間際のことだった。
 ダーリアが地脈図とにらみ合っている部屋へ、アレクセイがふらりとやって来て、
「ダーリア、もしよかったらこの後食事に行きませんか」
 と言う。ダーリアは二つ返事で了承した。
「ええ、喜んで」
「どこか行きたいところあります?」
 と聞かれても、ダーリアはまだ帝都のことはよくわからない。
「あの、先生にお任せします」
「じゃあ、枢機宮通りへドレスを買いに行って、着付けをしてもらったその足で歌劇でも観に行きましょうか」
「ええっ、そ、それはちょっと」
「僕に任せるって言ったじゃないですか」
 とアレクセイは笑った。
「それにこの間、婦人服を着て見せてくれるって言ってたから」
「いえそれは、まあ、言いましたが――
 ダーリアはすっかり参ってしまった様子である。
 アレクセイは本気というわけでもなかったようで、くすくす笑いながらかぶりを振った。
「まあ、今日でなくてもいいですけど、いつか必ず行きましょうね。約束ですよ。で、今夜はどうします?」
 ダーリアは、少し考えてから、気恥ずかしそうな顔をして答えた。
「もしよろしければ、先生の家に行きたいです」
「ちょっ、それはちょっと僕の方が困ります」
 今度はアレクセイの方が慌てた。
「ぼ、僕たちはまだ知り合って間もないわけですしあのその」
「早とちりしないでください。そういう意味で言ったんじゃありません。ただ、何と言うか」
「?」
「この間先生のお宅に伺ったとき――なんとなく心配になって」
「僕のことが?」
 ダーリアはうなずく。
「黒獅子城で――私は長年こもってきた殻の外へ先生に連れ出してもらいました。私にも同じようにとまでは言いませんから、せめて先生の殻の中を一目覗かせてもらうわけにはいきませんか?」
――詩人ですね、ダーリア」
 とアレクセイは言った。ダーリアは、何が言いたいと問いたげな目つきをした。
 アレクセイは、穏やかな、そのくせ他人から一歩離れた場所にいるいるような、複雑な表情になっていた。
「僕はそういうのに弱いですからね――いいですよ。あなたさえ承知の上なら、いらっしゃい、僕の部屋へ」
 ただし食べる物は本当ーにろくな物がありませんよ。と、真顔で付け加えておいた。

7

「確かにろくな食べ物がないです、先生の家」
 と、ダーリアはもはや社交辞令を述べる気にもなれず、包み隠さずはっきり言った。
 アレクセイのアパルトマンへ着き、何はともあれ台所にある食べ物を確かめたところ、常備しているのはパンとバターくらいで、あとは小さな薫製のニシン、卵が少し、缶詰のタン、缶詰のビスケット、いささか古くなったチーズ、それくらいしかない。
 仕方ないので、とにかくパンとチーズを切って並べ、ニシンを一尾ずつ皿に乗せ、缶詰を開けて、卵を茹でた。台所に調理器具の類がほとんどなく、ダーリアはそれだけの支度にも難儀した。そのくせ、ティーセットは山ほどあって、お茶を入れるのには困らなかった。
「食器を集めるのが僕の道楽なんですよ」
 と、アレクセイはティーポットに沸いた湯を注ぎながら言った。
「すみませんね、片付いてなくて。掃除に来る人にもよく叱られるんです、使いもしない食器の箱が邪魔極まりないって。本当は壁に棚でも付けて飾りたいんですけど、今の家主は許してくれなかったし」
 顔を上げると、ダーリアが、生活感のない台所を見回してあきれ顔をしている。アレクセイは苦笑して、
「やっぱり、せめて仕出し屋に料理でも頼めばよかったですね」
「先生は普段家で食事をなさらないんですか?」
「ええほとんど。食事自体取ったり取らなかったりだから」
「あの、もう少し健康に気を遣った方がいいですよ」
「ライオネルも、ルフィナ――先日話した僕の初恋の子ですよ――も、友人たちみんなそう言います」
 やがて支度が整うと、二人は居間で夕食を取った。
 アレクセイは、嬉しそうに茹で卵の頭を取り、スプーンで中身をちまちますくって食べている。
「お好きなんですか?」
 とダーリアが尋ねた。アレクセイはうなずいた。
「実家の母の家政の手腕で、唯一父が褒めていたのが卵の茹で加減でした。珍しく魔術を教わった以外で父との思い出があることなので」
「お父さん子でいらしたんですね」
「まあね――
「私も父が好きでした。母は、子供心にはちょっと怖くて」
「お父上は優しかったんですか?」
「はい。信心深く、血の夜明け派の魔術師らしく学問の好きな人でした。私が帝都大学へ進学したいと言ったときも父は賛成してくれました」
 食べ物はこの上なく簡素で、アレクセイにもダーリアにも飾るところなく、平凡な食事だった。帝都で再会してから、二人は何度か外で夕食や午後のお茶をともにしたが、そのどれよりもくつろいだ時間が流れた。
 食後に、アレクセイはとっておきのオードヴィを開けて、惜しみなくダーリアに振る舞った。自分は水煙草に火を入れ、甘い煙を吸いながら、魔術のことや、芸術や食器のことなどとりとめなく喋っていた。
 時折会話が途切れ沈黙しても、アルコールで気分がよくなっているせいか、居心地は悪くない。
 そのとき、ふと、ダーリアが椅子から立ち上がって、室内をなんとはなしに歩き回り始めた。
 がらんとして無機質な感じのする部屋である。家具も少ないし、収集した食器も箱にしまわれたまま床に積まれている。本棚は隙間の方が多い。脇のくず入れには、封も切らない手紙がそのまま何通も突っ込んである。
「新聞に載った件で、未だに変な手紙が届くんですよ」
 とアレクセイは語っていた。
(この寂しい部屋に、先生は毎日どんな気持ちで帰ってくるのかしら)
 ダーリアはそんなことを思いながら、窓際を通り、暖炉とビューローのある方の壁へ移動した。ビューローの机の上に、撮影機で写した似姿が立ててあるのに気がつき、それに手を伸ばそうとしたとき、
「それは僕の父です」
 と、急に背後でアレクセイの声がして、脇から伸びてきた手がダーリアに先んじて写真立てを取り上げた。
 ダーリアはアレクセイの方を振り返った。
「先生のお父様――
「ええ。僕と似てますか? よくそう言われるんですが」
 アレクセイは似姿を見せてくれた。そこには三十代半ばくらいの魔術師の姿が納められており、端麗な容貌など確かにアレクセイに似ている。
「先生そっくりです。でも、この写真のお父様は随分お若いのでは?」
「これでももう四十は過ぎていたはずですよ、亡くなる何年か前に撮った物だから。いつまでも美しく、才能にあふれた人でした」
 アレクセイは、空いている方の手の指で、そっと似姿の父親を撫でた。その指先の動きに、ダーリアはなぜかなまめかしさを感じてどぎまぎした。アレクセイはここに帰る度にいつもそうしているのではないか、という気がした。
「お父様は、お亡くなりに?」
「ええ、五年前に」
 アレクセイは似姿を机に戻した。
「さて、そろそろ夜も遅くなってきました。あなたをシモン夫人の家に送り届けないと」
「あの先生、お父様のお名前は?」
「ごめんなさい、訳あってこれ以上父のことは教えてあげられないんです」
「訳とは?」
 と尋ねられ、アレクセイはためらい、一度は心を閉ざしかけたが、ダーリアのすがるようなまなざしを見て思い直した。
「僕は私生児だから」
 と弱々しく言う。
「僕のカミュ性は母方のものです。父には母の他に正式な妻がいて、家庭がありました。万が一そちらに迷惑がかかるようなことがあると困るんです」
 ダーリアは言葉を失った。言うべきことが見つからず、ただひどく罪悪感を感じて、
「すみません、私、無神経で――
 と謝ったが、アレクセイは気にしていないようである。
「別に謝ることないですよ。さあ、シモン夫人の家まで送りますから、出かけましょう」
 帰りの辻馬車の暗い車内で、ダーリアはずっと黙りこくっていた。アレクセイも何も言わない。ダーリアは馬車の左側に、アレクセイは右側に、隣り合って座席に身を沈めている
 不意に、ダーリアが脇からアレクセイの腕に腕を絡めてきた。
―――
 アレクセイはかすかに息を乱したが、なすがままになっていた。
 ダーリアは、絡めた腕の手を静かに滑らせて、アレクセイの左手に触れた。そのとき、薬指の指輪に気づいた。
(いつの間に――家を出るまでは気がつかなかったのに)
 その指輪の意味をよほど問いたかったが、意気地がなくて、気づかなかった振りをした。
 アレクセイが、わざとその場の空気を入れ替えるような明るい声を出した。
「そういえばダーリア、脈図の件はどうですか? 順調に進んでいますか?」
「あ、はい。ほぼ完成しました。先生にいろいろ教えていただいたおかげです」
「あなたに資質があるからですよ」
「脈図を作っていて、メサジェ夫人宅の『悪魔の棲む家問題』について、私なりの解決策が浮かんでもいます。先生、よかったら明日にでも、ジュネ先生とご一緒に聞いていただけませんか?」
「素晴らしいですよダーリア。もちろんです」
 アレクセイは心から褒めた。ダーリアは、それだけで気持ちが弾んでしまう自分は現金だなと思った。

8

「ここなのか?」
 と、ライオネルは、後から来るダーリアとアレクセイを振り返って言った。
 二人は何事か真剣な顔で話し合っており、ライオネルの理解が及ぶ範囲では、これから執り行う予定の魔術について、アレクセイがダーリアにこまごまとした指南を与えているようだった。
 三人がいるのは、メサジェ夫人の家から数ブロックばかり離れた場所に建つ廃屋の前である。ダーリアが地図を広げ、住所を確かめた。
「ここです。間違いありません。この中に――おそらく“教会”があるんです」
 ダーリアがそのことを言い出したのは、この間の日曜日、ライオネルの研究室で完成した脈図を披露したときのことだった。
「これが、地脈調査書を元に作成した脈図です。本来あるべき地脈の姿です」
 と言いながら、ダーリアは北地区の地図を応接テーブルへ広げた。地図の上にはびっしりと書き込みの跡があり、その上からさらに青いインクを重ねて地脈の分布が記されている。山の等高線に似ており、線の密な場所は力が強く、疎な場所は弱いのだとダーリアはライオネルに説明した。
 それから、ダーリアはもう一枚同じ地区の地図を取り出して広げた。
「そしてこれは、私が占術で探査した現在の大まかな地脈です」
 ライオネルは二枚の地図の上に大きな体で屈み込んだ。興味深そうに両者を見比べる。どちらもメサジェ夫人の家に赤の丸で目印が付けてある。その周囲の地脈線の形状が一枚目と二枚目では異なっていた。
 ライオネルはダーリアの顔に視線を移して言った。
「一枚目の夫人宅の付近、特に問題の部屋がある北側は線が疎だが、二枚目を見るとかなり密に線が集まっているな。これはつまり、そこの地脈が本来より強くなっていて、その影響を受けた住人が不幸になっていると――?」
 ダーリアはうなずき、
「大まかに言えばそうです。力の強い場所は人のアストラル体に著しく影響します。だから、性格が変わったようになったり、精神的に不安定になって身を滅ぼしたり、事故に遭ったりしたんじゃないかと」
「なるほど――しかし原因は?」
「地脈調査書が間違っているか、あるいは調査書から漏れている要因が存在するんです」
「それが何かわかるのか?」
「脈図のずれ方から大まかにはわかります。正確な位置を求めるには非常に複雑な幾何学的操作が必要で、解析的に解くのは難しいでしょう」
 ただ――と、ダーリアは句を継ぐ。
「我々黄金の契り派の経験的に、こういった現象の原因は、多くは隠し教会によるものです」
「隠し教会とは、帝国学士院の認可を受けていない礼拝所や祭壇のことですよ」
 とアレクセイが口を挟んだ。ライオネルは「知ってる」と答えた。
「俺の実家も大昔、まだ血の夜明け派が帝国に反発してた頃はそうだったんだ」
「そういえばそうでしたね。隠し教会は、現代にもまま存在します。学士院に認められていないモグリの魔術師が作ったり、異教の儀式を行うためだったりね」
「そしてそういった祭壇を作るには、教派による違いは多少ありますが、方位や立地などの条件が決まっています。どこでもいいわけではないんです」
 と、ダーリアがアレクセイの後を引き取って続ける。おもむろに脈図のある一点を指差して言った。
「ここに、長い間廃屋になっている建物があります。ここが隠し教会だと仮定すると、脈図が実際の地脈と概ね一致するんです」
 ダーリアはペンを取って赤いインクを付けた。指差したところに印を書き、それを基準に定規を使っていくつも線を引く。
「ここに地脈の要因があるとすると、この影響は重ね合わせで現れますから――
 直線を引き終えると、今度は各所に点を打ち、最後に曲線でそれらを結んだ。それをアレクセイとライオネルに示し、
「最終的にはこの形になります。二枚目の地図の地脈と比べて見てください」
「見事ですよ、ダーリア」
 と、アレクセイは見るまでもなくそう評した。ライオネルは、じっと二枚の地図を見比べ、両者の地脈が一致していることを確かめて、
「大したもんだな。アレクセイよりよほど優秀なんじゃないか?」
 と、満更冗談でもなさそうな口振りで言った。ダーリアはすぐさまかぶりを振った。
「とんでもない。私はここまで、先生に教えてもらいながら一週間かかりました。先生は同じことをたった数時間でなさったそうですから」
「本当か? いつの話だよそりゃ」
 ライオネルは疑わしげにアレクセイの方をにらんだ。アレクセイは一向に気にせず、涼しげな顔をしている。
「“変異”したイリヤを探すときとかね」
―――
「僕のこと見直してくれてもいいんですよ? ライオネル」
 そういう次第で、三人は問題の廃屋を訪れたのであった。
「中に入れるのか? 鍵は?」
 とライオネルに聞かれ、アレクセイは上着のポケットから旧式のスケルトンキーを取り出して見せた。
「土地の持ち主に連絡して、一応借りてきましたよ。家を探してるから中を見たいって名目で。あと、話を聞く限り、持ち主や以前の住人に魔術師はいないようです」
「その鍵じゃ、防犯には期待できそうにないな」
 ライオネルが先頭になって廃屋の玄関先に立った。試しにドアノブを回してみると、案の定というか、鍵はかかっていない。
 細く開けたドアの隙間から、そっと中の様子を窺う。屋内は天窓から差し込む日の光で案外明るい。人の気配はしなかった。
 ライオネル、ダーリア、アレクセイの順に家の中へ入った。
 見る限り家具の類は一切なく、剥き出しの床に厚く埃が積もっている。三人が歩くと、それが舞い上がるのが日光に浮かぶ。
「ライオネル、あなた喘息持ってたでしょう。大丈夫ですか」
「子供の頃の話だろ、それは。よく覚えてるな」
 建物は狭いながらも三階建てで、玄関を入ってすぐ脇に居間があり、向かいに階段、奥には風呂と台所が詰め込んであって、それを過ぎるともう裏口に出る。裏口の外は、近所のおかみさんたちで賑わう雰囲気のいい石畳の路地だった。
 三人は手分けをして“教会”を探した。
 半時間ほどして、コンパスを持って一階を探していたダーリアが、上階にいたアレクセイとライオネルを呼びに来た。
「先生方、ありました。台所です。この家の北東の端でした」
 ダーリアが見つけたのは、一階の台所隅にある床下の物入れだった。三十センチ四方ばかりの大きさの蓋を開けると、古い新聞で覆いがしてあり、その下にごく粗末な祭壇が隠されていた。
「古式の聖霊召喚の祭壇らしいな、これは」
 とライオネルが言った。形式としては血の夜明け派のもので、魔方円の結界の中に、手製の木彫りの十字架、聖像、贄の子山羊の頭蓋骨などが並べてある。
 それらを隠していた新聞にダーリアが目をとめて言った。
「この新聞の日付は二年前になってます。メサジェ夫人の家で異変が起こり始めた時期と一致しますね」
「どこぞのモグリの魔術師が忍び込んで儀式をしたか。隠してこそあったが、祭壇がそのままってことは失敗だったのかもな――アレクセイ」
 とライオネルは呼んだ。
「帝国学士院に届け出る必要があるか?」
 アレクセイは肩をすくめて見せた。
「本来はその必要がありますが、まあ、この規模なら黙ってても構わないでしょう。さっさと片付けてしまいましょう。ダーリア、地鎮をしますよ」

9

「我々黄金の契り派の得意とするところの一つですね。こういった力あるものを鎮め、地脈を整えることを我々は地鎮式と呼びます」
 とアレクセイはライオネルへ説明した。
 二人の前には、木の板を重ねて作った急ごしらえの祭壇があり、アレクセイが学士院から馬車に積んで持ち出してきた術具を捧げてある。術具は全十五巻からなる法の書である。
「地鎮式は現地でやる必要がありますからね。支度が手間です。術式自体は、よほど強力なものを相手にするのでなければ、解錠と二元展開が主で単純な部類ですが。我々が展開式と呼ぶ通過儀礼とほぼ同じですよ」
「その地鎮をすれば、メサジェ夫人の家は元に戻るのか?」
「たぶん」
「たぶんって」
「まあそりゃ、実際その後そこに住んでみなきゃ確かめられませんし」
「おまえ住んでやれよ。どうせまだ、転居先は決まってないんだろ?」
「いやだからそういうわけには。ダーリアが望んでくれるならともかく、あなたに言われても」
「おまえのために言ってるんだよ俺は。おまえが一人でどんな暮らししてるのか、あの部屋見て気がつかないとでも思ってるのか?」
 そんなことを二人きりでつらつら話し込んでいると、席を外していたダーリアが戻ってきて、
「お待たせしました」
 と、黄金の契り派の純白の祭服姿でアレクセイとライオネルの眼前に立つ。正式な祭司を表す白の衣に、口元を覆う白いケープを重ね、金の胸飾りを着ける。髪をあらわにすることが許され、師に預けられた冠を飾る。冠の他はどれも真新しく、まだダーリアの方が衣に着られている感がある。
 アレクセイは、色素の薄い双眸を弦月のように細めて、ダーリアに見とれた。
「あなたのその姿を見ることができて、こんなに嬉しいことはありません。本当に――
「そのお言葉に背かぬように、若輩者ながら精一杯役目を務めさせていただきます」
 ダーリアは幾分緊張した面持ちで頭を下げた。
「俺もアレクセイと同じ心持ちだ、ダーリア。肩肘張らずに気楽にやってくれ」
 とライオネルも述べ、アレクセイとともに少し離れてダーリアを見守る。
 ダーリアは祭服の長い裾を掻き取って祭壇まで進み出た。そこで丁寧に祈りを捧げたのち、
「これより地鎮式を執り行います。展開は二元展開とします。解錠!」
 と、よく通る声で宣言する。紺碧のショールで手元を覆い、印を組み、千と二十四の祭文を捧げた。
 開いたチャクラから解き放たれたアストラル体を、棗椰子と石榴の木の二柱に展開する。両柱はダーリアの全身を覆うように深く枝葉を絡め合った。
 ダーリアは、両手をそれぞれの枝に触れ、ごく短い祭文を唱えた。
 ほんの一瞬、燐光が棗椰子と石榴の幹に走る。天から注ぎ、二柱を通り抜けた光は、静かに地に吸い込まれて消えていった。


 魔術師としての初仕事に熱心なダーリアは、メサジェ夫人宅の一階の寝室に住んで、地鎮式の結果を確かめるのだと言って聞かなかった。
 調査結果についてダーリアから説明を受けたメサジェ夫人は、魔術的な話はピンとこないようであったが、ともかくダーリアが自分の家のために儀式をしてくれて、その上に下宿も借りてくれると聞いて喜んでいた。せめてものお礼にと宿料はできる限り安くする約束もしてくれた。
 ダーリアは荷物をまとめて、七月三十日にシモン夫人の家からメサジェ夫人の下宿へ移った。引っ越しにはユメルが手伝いに来てくれた。と言っても、ダーリアの持ち物はせいぜい衣服と身の回りの物、わずかな書物くらいのもので、荷造りも荷ほどきもさしたる手間ではなかった。
「一人で借りるにはちょっと広いお家ねぇ」
 と、ユメルが、家の中をぐるりと見て回り居間に戻ってくるなり言った。
「お家賃は安くしてもらえるにしても、少し寂しくない?」
「そうですね。結局ルームメイトも見つからなかったし」
 とダーリアは苦笑いしている。
「カミュ先生が一緒に住んでくだされば楽しいのに」
 とユメルが言う。
「カミュ先生も、最近研究室にいらした折にジュネ先生と新居のお話をされているのを聞いたけど、結局いいお部屋は見つかっていないみたいよ」
「そうですか――
「ダーリアちゃん直接お願いしてみたら?」
「えっ、いや、そんな」
 ダーリアは慌ててかぶりを振る。
「どうして? 好きな人のそばで暮らしてみたくない?」
「あの私、ユメルさんに、そ、その、カミュ先生が好きだって話しましたっけ?」
「してないけど、ダーリアちゃんの顔を見てたらわかるわよ。カミュ先生と一緒にいるときのダーリアちゃん、王子様みたいだもの」
「王子様」
「あ、ごめんなさい、ダーリアちゃんが女の子だってわかってはいるのよ。でもカミュ先生って、ジュネ先生と一緒にいるのを見ててもそうだけど、なんていうか受け身? じゃない? ダーリアちゃんが王子様になるくらいでちょうどいいと思うの」
 ユメルは例のごとく少女のような夢見る瞳で言った。この女学生は物理学の難解な理論について語るときも、愛や恋について語るときも同じ目をしている。ダーリアはその無邪気さに励まされるような気がした。
 翌日の夕方、アレクセイが引越し祝いにと花束を持って訪ねてきた。
 それを居間を飾ろうという話になり、ダーリアが寝室にある花瓶を取りに廊下へ出ていったとき、
「メサジェ夫人、ダーリアの魔術の技量は僕が保証します」
 と、アレクセイは家の女主人に密かに伝えた。メサジェ夫人はうなずいた。
「ありがとう存じます。でも私、スルトさんに事の次第をお聞きしたときから、何も心配はしておりません。いい加減なことを言う方とは思えませんからね」
「ええ――これから彼女をよろしくお願いします」
 とアレクセイが頼むと、メサジェ夫人は妙な顔をする。上品な仕草で首をかしげて見せた。
「ところで、カミュ先生はいつこちらに越していらっしゃるんです?」
「へ?」
 そこへちょうどダーリアが戻ってきて、慌てて二人の間に割り込んだ。
「メサジェ夫人! その話はまだ先生には」
「あら、私はてっきり先生もご承知なのかと思っていましたよ。先生のために二階の寝室のお掃除も今朝済ませたんですから」
 アレクセイは一人話が飲み込めず、困惑した表情のまま固まってしまっている。
 ダーリアはメサジェ夫人と顔を見合わせた。メサジェ夫人は、気を利かせてさり気なくその場を離れてくれた。ただし、去り際、
「なお私の家のでは異性交友は禁止させていただいておりますので、ご承知くださいね」
 と釘を刺していくことを忘れない。
 二人きりにされて、先に口を開いたのはアレクセイの方だった。
「あ、あの、も、もしかしてライオネルですか? あの人が何か余計なことを」
「ジュネ先生は関係ありません。私が自分で決心したことです」
 と、ダーリアは、アレクセイの目をまっすぐ見据えて言った。
「先生、私と――私やメサジェ夫人と一緒に暮らしませんか。きっと、その方が楽しいです。楽しくしてみせます」
―――
「それとも」
 とダーリアは消え入るような声で言い添えた。アレクセイが息を呑んだのがわかる。
「やっぱり先生はあの寂しいお部屋で、写真の中のお父様と二人きりで暮らす方が幸せですか」
 その問いへの答えが返されるまでに、長い長い沈黙があった。
 アレクセイがメサジェ夫人の家の二階に、少量の荷物と多量の食器とともに引っ越して来たのは、それからちょうど一週間後のことだった。

(了)