人の狭間の魔法使い

1

 イリヤの死はアレクセイを散々に苦しめた。
 彼の死が帝都のみならず帝国中に与えた影響は大きく、帝国学士院が事件について公表するとすぐ国内各地の新聞社は一面に自社の論説を掲載した。中でも全国紙のプラム紙とマンダリン紙は、毎度のごとく前者は帝国礼賛の論調を展開し、後者は反帝国主義を掲げて対抗した。
 どちらの新聞記事も、イリヤの残した遺言に焦点が当たった。すなわち、
「帝国魔術師としての全階梯を返上の上、死後の病理解剖を希望する」
 という内容に対して、プラム紙は反対の立場であり、マンダリン紙は支持の立場を取った。
 前者の言い分は、
「帝国学士院との話し合いもなく一方的に階梯を放棄することはできず、またイリヤ・ラフォンは病が原因とはいえ、二人の善良な市民を殺害しており、願いを聞き届けられる身分ではない」
 ということであり、後者の方は、
「帝国魔術師である以前に一人の人間であり、自らの体を学術的研究に役立てたいという意思は尊重されるべきである。“狂乱病”患者の解剖が実現すれば、病の発生機構や治療法の研究が大きな一歩を踏み出すことができるだろう」
 というような言い分である。どちらかといえば後者のマンダリン紙の方が世間の人を味方に付けていた。事件公表直後に、帝国学士院のさる枢機官がうっかりと失言をもらした件なども世間の反感を買い、それによってマンダリン紙は勢いづいている。
「あの方もこの先そう長くはなさそうですね」
 と、そのようにアレクセイは件の枢機官を評した。帝国学士院の建物の三階にある日当たりのいい研究室で、アレクセイはライオネルと差し向かいに座ってお茶を飲んでいた。空になったティーカップをソーサーへ置いて言った。
「ゆくゆくは政界に打って出るというような野心もあったようですけど、口が軽い人はだめですよ。枢機官としてあれはないでしょう」
「『法的に有効であったとしても、学士院の許可を得ていない遺言は認められない』だったか?」
 とライオネルが相槌を打つと、アレクセイはうなずいて、
「まあそんなところですよ」
 やれやれとため息を付く。
「確かにイリヤの遺書の件は前代未聞です。だから、学士院としてはまずちゃんと対応を考える必要があるし、その結果裁きを司法に委ねることになるかもしれない――とでもいうならわかりますよ。でも頭ごなしにああいう言い方しちゃ、そりゃ、なに思い上がってんだこのクソジジイと思われますよ。僕だってそう思いました」
「まあ俺もそう思った」
「でしょう?」
 アレクセイはそこで一度言葉を切り、 しばし物を思って黙り込んだ。
 ライオネルがティーカップをソーサーから持ち上げたかすかな音がした。アレクセイはそれに声を重ねた。
「イリヤの解剖、来月に決まったそうですね」
「らしいぜ。うちの大学で公開するそうだ。イリヤ自身は死亡直後の病理解剖を望んだんだろうが、そこまでスムーズに事は進まなかったな」
 現在、イリヤの遺体は薬品で処理を施されて、帝都大学に安置されているのだとライオネルは説明した。
「学士院のお偉いさんは渋ったんだろうが、結局イリヤの願った通りになったわけだ。反帝国主義者どもも喜んだことだろうよ」
 と、ライオネルは続けて言った。アレクセイが口を挟んだ。
「学士院にもイリヤの遺言を支持する人はいるんですよ。学術的な意味の大きさからすれば当然です。だけど上の方はね――たとえどういう理由であれ、僕たち魔術師が学士院に従わなかった、という実績を作りたくなかったわけです。なぜなら、かつて一度は帝国に背いた魔術師たちを縛り管理するために置かれたのがそもそもの帝国学士院の始まりだから」
 アレクセイはそこまで一息に喋ってしまうと、疲れたように応接椅子に体を預けた。
 ライオネルが心配そうにその顔を覗き込む。
「大丈夫か――?」
「大丈夫じゃないですよ」
 いつものアレクセイなら、ここでライオネルに、
「優しいんですね、ライオネル。なんならベッドで慰めてくれてもいいんですよ」
 くらいのことは言って、冗談めかした猫撫で声を出しているところだ。
 帝国学士院はアレクセイのことについて、“変異体”となったイリヤを鎮めた魔術師であるとだけ発表した。五年ほど前、同じく狂乱病によって“変異体”となった黄金の契り派の魔術師パーヴェル・バルトに、大魔術を施して鎮めたアレクセイの記憶が再び世間の人々の間に蘇った。
 そしてそれに対して過剰に反応したのが、悪名高いバードック紙をはじめとするゴシップ新聞の記者たちであった。
 若く美貌で、帝国学士院会員の地位と、黄金の契り派の祭司としてまれな魔力を持つアレクセイ。そして彼が魔術を施したイリヤ・ラフォンの二人は、実は同じ帝都大学の学友同士であった。というネタだけで記者たちは当面食っていけると確信した。
 アレクセイとイリヤが単なる学友以上の仲だったことは、二人の交遊関係を調べればすぐわかることだった。
 そこへ尾鰭を付けて二人の関係を暴露する記事が初めにバードック紙の紙面を飾り、騒ぎになった。それだけで済めばまだいい。記事の内容は次第に過激になっていき、ついにはイリヤの婚約者にまで言及して、
「イリヤ・ラフォンの婚約者ニコル・サティ嬢が殺害された事件には不可解な点が残る。たとえば――これらの点から我が社が考察するところは――事件は本当に狂乱病に冒されたラフォン氏が起こしたものなのだろうか? 彼の元恋人、美貌の魔術師の事件への関与の可能性は?」
 といった根も葉もない記事まで書き立てられるようになると、さすがにアレクセイも、帝国学士院も黙って見ているわけにはいかなくなった。
「僕も上から相当絞られました」
 と、アレクセイはげんなりした調子で言った。
「イリヤといつ会ったとか、何を話したとか、肉体関係は持ったかとか、全部大勢の枢機官の前で話さなくちゃならなかったんですから。人を何だと思ってるんですかね」
 その証言と警察の捜査結果を照らし合わせた上で、帝国学士院はバードック社に抗議し、今争っている最中なのだと、アレクセイはライオネルに教えた。ライオネルは慰めの言葉を見つけられなかった。それで、
「アレクセイおまえ、今後学士院にいられなくなるようなことは――
 と、ばつが悪そうな顔をしながら尋ねた。
「それはありません――上の人は僕を手放す気はないようですよ」
 とアレクセイは答えた。
 イリヤの件について枢機官たちの前で弁明した後、アレクセイはそのまま帝国学士院の院長室に連れて行かれ、執務机の前に立たされて、院長と二人きりになった。院長のフェリクスはアレクセイに背を向け、窓の外を眺めていた。窓下で、学士院の建物の前に集まった新聞記者たちが守衛と言い争っているのが見える。
「アレクセイ・カミュ」
 と、フェリクスは振り返らずに呼んだ。
「かつて君の父上は学士院に迎え入れられて以来、一切の交友関係を絶ち、実子の君さえ近づけようとしなかったそうだな」
―――
「その理由が君にもわかったのじゃないか?」
 言いながらフェリクスは、やっとアレクセイの方に向き直った。アレクセイは口を真横に結んで、怒ったような顔でフェリクスをにらんだ。
 フェリクスはアレクセイの相手はせず、ただ一言、
「今後も誇りある帝国学士院会員として職務に励んでくれたまえ、カミュ君」
 とだけ言った。

2

「ライオネルの方は大丈夫ですか」
 と、アレクセイは聞いた。
「ああ、俺の方は今のところ何も。学士院が俺の名前は公表しないでくれたから――新聞記者らしいやつらは大学の近くをうろうろしてるがな。ルフィナの方も記者に追いかけられたみたいだが、あいつはそうそうへまをするような女じゃない」
「ルフィナなら、僕にも彼女から手紙が来ましたよ」
「そ、そうか」
「ねえライオネル」
 アレクセイは神妙な面持ちになって言った。
「あんまり、僕の近くにいない方がいいですよ」
 ライオネルは「えっ」という表情になり、上背のある体を半身ばかり後ろに引いた。
「おまえ、男日照りのあまりついに男なら何でも見境なく襲いそうになってるとかそういう――
「違います! そうじゃなくて、その、あまり僕に関わらない方が」
「関わらない方がって言ったって、おまえと俺の研究室で共同研究してる形になってる以上、打ち合わせや書類のやり取りをしないわけにもいかないだろうが」
「そ、それはそうなんですけど」
「まあそれはそれとして」
 と、ライオネルはお茶を濁してしまい、
「おまえの家族は大丈夫か? 今回のことで」
「僕の母親は新聞なんか読むような生活してませんから。あの人から最近来た手紙は全くいつも通りでした」
「あの人、っておまえ自分の母親を――
 アレクセイはライオネルの小言には取り合わず、紅茶のおかわりを淹れるために一旦席を外した。やがて新しいティーポットとカップのセットを抱えて戻ってきて、
――“交歓”によって交わった者同士の想いを、あんな軽薄な連中が理解できるものですか」
 と、低い声で愚痴をこぼした。軽薄な連中、というのは特定の誰かを指しているわけではなく、たぶん新聞社や母親、ないしは世の中全てをひっくるめてそう言っているのだろうと、ライオネルは思った。
 ライオネルにも、“交歓”がどんな想いのするものなのかはわからない。だから黙っていた。が、アレクセイはライオネルの気持ちを鋭く見透かしてきた。
「知りたければ試してみるしかありませんよ、ライオネル」
――よせよ。俺はその線だけは超えない」
 とライオネルがはっきり拒むと、アレクセイはどこかほっとしたような、寂しそうな、複雑な表情になった。
「まあ――そうですよね。あなたはルフィナみたいな女性が好きですもんね」
「げふっ!!
 と、ライオネルは急に紅茶が妙なところへ入ったらしく、大げさなほどむせ込んだ。
「だ、だだ誰がルフィナと」
「別に隠さなくたっていいじゃないですか。あなた子供の頃から、ああいう女性らしい感じの女性ばっかり見てましたし。実際好きなんでしょう? ルフィナのこと」
「いや、す、好きというか、なんだ」
「じゃあその薬指の指輪は一体誰のために着けてるんですか」
 とアレクセイはライオネルの左手を指差した。ライオネルは、薬指にはめている濃紅のガーネットをあしらった指輪を隠すように、左腕ごと背へ回してしまった。
 子供じゃあるまいし、と、アレクセイは肩をすくめた。
「それで? 食事にくらいは誘ったんですか?」
 などと言っているから、鋭いんだか鈍いんだかわからないところである。ライオネルは、ほっと胸を撫で下ろした。
「誘ったところで、あのルフィナが『うん』って言ってくれると思うか?」
「僕が以前夕食をごちそうしたときは喜んでくれましたよ?」
―――
 ライオネルがティーカップを置き、両手で顔を覆って悲しそうな格好をしているのを横目に見ながら、アレクセイは新しいティーカップに唇を押しつけた。
 面会時間の終わり際、アレクセイは帰り支度をしているライオネルに上着を着せてやりながら尋ねた。
「たぶん建物の玄関辺りに新聞記者が潜んでいますけど、裏から出ますか?」
 ライオネルはかぶりを振った。
「何もやましいことはないんだ。堂々としててやるさ。おまえの方こそ、あんまり気に病まないようにしろよ。顔色悪いぜ」
「ありがとう」
「なあアレクセイ、もしよかったら――
 と、ライオネルは何か提案するようなそぶりを見せたが、それ以上口が動かず、言い淀んだ挙げ句、
――いや、やっぱり今日は止めておく。また明日来てもいいか」
「? いいですよ」
「午後二時に来る。じゃ、またな」
 夕刻、アレクセイも勤務を終えて帰宅した。記者の集まる正面玄関を避け、裏口に呼んであった辻馬車に滑り込む。自宅との行き帰りのために信頼できる御者を月極で雇ってあった。
 馬車の窓から、ちらっと後ろを振り返ると、隠れていたらしい数名の記者が何事か話し合ったり、小型の撮影機をこちらに向けたりしていた。アレクセイは身を縮めて姿を隠した。
 馬車は大通りを行き、枢機宮通りに直交するイール川を北へ登った河岸にある住宅街へ入る。表通りに面して並ぶアパルトマンの前をゆっくりと走って、記者のいる場所を見定めてから、彼らから離れた場所に馬車は停まった。
 アレクセイは静かに馬車を降り、足早にアパルトマンの階段を上った。
 部屋の郵便受けには今日も手紙が山程入っていた。そのほとんどが、見ず知らずの相手からの手紙で、新聞記事を真に受けた批判めいたものから脅迫じみたもの、支離滅裂なもの、なぜかファンレターのようなものまであったが、それらを全てゴミ箱に放り込むと重要な手紙は一通だけしか残らなかった。その一通はアパルトマンの家主からで、
「あなたのおかげで建物の周りを新聞記者がうろついて、騒音や建物の汚れが増えて迷惑している。できれば退去してもらえないか」
 という内容だった。
 アレクセイは夕食を取る気になれず、睡眠薬だけ飲んで寝床に潜り込んだ。じきに薬が効き、死んだような眠りに引きずり込まれた。
 夜半、夢を見た。
 イリヤが“変異”したときの夢だった。魔術の蛇で宙に磔にされたイリヤの背を食い破って、黄金に輝くアストラル体が蝉の羽化のように物質体を脱ぎ捨てる。その途中でイリヤの顔はアレクセイの父親に変わり、最後にはアレクセイ自身になった。
「嫌――いやだ――!」
 と、アレクセイは無我夢中で叫んでいた。
「“変異体”になんてなりたくない!! 助けて――
 助けを求めて呼ぼうとした名前は、父だったのかライオネルだったのか、それとも他の誰かだったのかわからない。その瞬間眠りから覚めて、アレクセイは暗闇の中で両目を見開いた。
 寝床が湿るほど寝汗をびっしょりかいて、息もいささか上がっている。胃の辺りが締め付けられるような不快感もある。アレクセイはよろよろとベッドを出ると、手洗いに向かった。数日間ろくに食事をしていなくて胃の中はほとんど空だった。苦い胃液ばかりをひっきりなしに吐いた。
 翌日、約束通り午後二時きっかりに、ライオネルは再びアレクセイの研究室を訪れた。そして、こう切り出した。
「アレクセイ、もしよかったらしばらく休暇を取って俺の家に来ないか」
 きょとん、とアレクセイが目を丸くしているのを見て、ライオネルは「勘違いするなよ」と慌てて言い添えた。
「俺の家っていっても、フロクシリアにある実家の方だ。少し帝都を離れて、気を休めちゃどうかと思ってな――

3

 オーベール王が統治する帝国東部の州都フロクシリアまでは、健脚が自慢の駅馬車でも二、三日はかかる。早朝に帝都のゼルコバ駅を六頭仕立ての馬車で出発したアレクセイは、途中宿駅で二泊して三日目の午前中にフロクシリアの玄関口であるササンクア駅へ到着した。定刻より一時間ばかり早かった。
 ライオネルの生家はフロクシリアの郊外にあり、ここからもうしばらく馬車に揺られねばならない。土地に不慣れなアレクセイのために、駅まで迎えをやるよう実家に頼んでおいてくれるとライオネルは言っていたが、それらしい姿はまだ見当たらない。 
 アレクセイは駅の待合室の長椅子に座って大人しく待っていた。膝の両脇に旅行鞄を一つずつ置いてある。アレクセイ自身はこんな大荷物にするつもりはなかったのだが、
「そうそう、アレクセイ、祭服を忘れず持って行けよ」
 と、ライオネルに出発前念を押して言われ、一式詰め込んだらこの荷物の量である。ライオネルが言うには、
「俺の家には古い教会があってな。大して立派でもないが歴史だけはある。せっかくだ、中を見てこいよ。祭壇は祭服着用じゃなきゃお袋が許さないから」
 ということらしい。なぜかしきりに勧めてくるので、アレクセイも首をひねりつつそれに従ったのであった。
 駅の待合室は乗客たちでそれなり混み入っていたが、皆アレクセイには見向きもしない。帝都から遠く離れた地方都市までは都の猥雑な噂話も及ばぬものらしい。そう思うとアレクセイは久しぶりに落ち着いた気持ちになり、旅行鞄の間で子供のように手足を縮め体を小さくした。
 ふと、
「失礼、アレクセイ・カミュ先生ですか?」
 と、正面から呼ばれて、アレクセイは頭を持ち上げた。
 目の前に、黒い山高帽を目深にかぶり、きちっとした紳士服に身を包んだ青年が立っていて、じっとアレクセイを見下ろしている。アレクセイは返事をしながら腰を浮かせた。
「そうですが――あなたは?」
「“獅子の一族”から先生の迎えを頼まれた者です。ここではこれ以上名乗らない方がいいでしょう。外に車を用意してありますから、ともかくそちらにご案内します」
 アレクセイが立ち上がると、ちょうど同じくらいの背丈をした青年と目の高さが合う。青年は帽子の奥に潜む切れ長の双眸で見つめ返してきた。瞳の色は珍しい淡い灰色だった。その目の色といい、肌の白さといい、北部の血を感じる面立ちにアレクセイは郷愁を覚えた。
「ええと――よろしくお願いします」
 とアレクセイは頭を下げ、床に置いた旅行鞄へ手を伸ばした。青年はそれを手伝おうとした。
「お持ちします」
「い、いえ、女性にそんなことをしてもらうわけには」
 と、アレクセイは言った。
 ぴたり、と青年の動きが止まる。男性にしてはなだらかな、しかし女性というには尖った喉から低い声が漏れた。
「なぜ私が女だとお思いに?」
「なぜと言われても」
 今度はアレクセイの方が面食らった様子で、
「一目見てそう思ったからとしか――あの、もし僕の勘違いだったのなら謝りますが」
―――
 青年はゆっくりと右手を山高帽の上に乗せた。それを脱ぐと、帽子の中にしまってあった長い黒髪が、すとんとコートの背へ落ちる。
 アレクセイは改めて青年の顔を見つめた。両頬に、黒い水晶の結晶のようにまっすぐな髪がかかった面差しは、少し骨が張ってはいるが、確かにアレクセイの言うように女性に近く見える。
「なんだ、やっぱり女性なんじゃありませんか」
 とアレクセイが言うと、青年――男装の娘は困っているのか、切りそろえた前髪の下で眉を曇らせた。
「私は男でも女でもありません」
「え?」
「ともかく――行きましょう、先生」
 娘は、物問いたそうなアレクセイを尻目に、さっと旅行鞄を両手に持ち、待合室の外へときびすを返した。
「あ、ちょっと」
 と、アレクセイも急いで追いかけ、結局鞄の片方だけを取り返し、もう片方は彼女に任せた。
 駅舎を出てすぐの厩に青毛の牝馬が一頭繋がれており、近くに二人乗りの四輪馬車が停めてあった。アレクセイが日避けの下の座席へどうにか旅行鞄を詰め込み、座る場所を確保しようと悪戦苦闘している間に、娘が厩から馬を引いてきて車に繋いだ。娘は馬の扱いには慣れた様子で、アレクセイは感心して尋ねた。
「あなたが馭者も務めるんですか?」
――女が手綱を取る車に乗るなんて心配だ、とでもお思いですか?」
「そ、そんなこと言っていないじゃありませんか」
 第一、この娘が運転してくれなければアレクセイは困るのである。アレクセイは、ほんの子供の頃に家庭教師から馬術の真似事を習って以来、一人で手綱を握ったことさえない。
 娘はアレクセイの隣に体を押し込むと、手綱を取った。
「出発しましょう」
 手綱で馬へ合図を送ると、馬車は小刻みに揺れながら街道を走り出す。
 アレクセイは脇の荷物を押さえて、ひっくり返らないようにすることばかり考えていた。娘の方は、時折ちらちらと後方を窺っている。あるとき、不意に、
「後ろからずっとついて来る車に乗っている人は先生のお知り合いですか?」
 と言った。
 アレクセイは、どきりとした。そっと視線を背後へ送る。娘の言う通り、二輪の粗末な辻馬車がこちらと付かず離れずの距離を空け、同じ道を辿って来ていた。乗客の顔までは遠くて見えない。しかし風体で予想はつく。嫌になるほど身の回りで見かけた、新聞記者の連中とそっくりだ。
 アレクセイは、急に胃の辺りが冷えてきて、寒気を覚えた。さっき駅の待合室で感じていた安堵はまがい物だったのかと思うと、余計に苦しくなった。正面に向き直って娘の問いに答えた。
「知り合いじゃありません。知り合いたくもない人たちですが――
「なるほど」
 と娘はうなずき、アレクセイにしっかり掴まっているよう念を押した。アレクセイは、はてと首をひねった。
「どうするつもりなんです?」
「喋ると舌を噛みますよ!」
 娘は勢いよく右手を振り上げ、馬の尻に鞭を一発、二発とくれた。途端に、がくん、と大きく馬車が揺れ、飛び上がりそうになった旅行鞄にアレクセイは慌ててしがみついた。
 鞭に追い立てられた青毛の馬は、よほど脚が丈夫らしく、重い車をものともせず力いっぱい駆け出した。
 後方で辻馬車の馭者と新聞記者の罵声が上がったと思うと、あっという間に遠ざかった。記者の方は、速度を上げて前の馬車を追えと指図するのだが、馭者はうんと言わない。馬の早駆けは規則で禁止されており、警吏に見つかれば多額の罰金を支払わされるからであった。
 アレクセイと娘を乗せた馬車はその隙に街道をそれて脇道へ入ってしまった。
 もう後を追ってくる影はない、と確信が持てるところまで一気に走り抜けてから、娘が手綱を引いて馬の足を緩めさせた。
「警吏に捕まらなくてよかったですね」
 娘はハスキーな、それでいて優しい声で言って、
「ここまで来ればもう大丈夫でしょう。申し遅れました、私はダーリア・スルトと申します。ジュネ家の奥様に頼まれて先生を迎えに上がった者です」
 と、名を名乗り、隣で旅行鞄に埋もれているアレクセイへ控えめに笑いかけた。

4

 アレクセイとダーリアは改めて自己紹介し合い、握手を交わした。
 普通、女性の方から手を差し出すものである。しかしダーリアがまごついているので、アレクセイは自分から右手を出し、ダーリアの手を捧げ持った。
「ありがとう、助かりました。今後ともよろしくお願いします、スルトさん」
――差し支えなければダーリアと呼んでください、先生」
「なら僕もアレクセイでいいですよ」
「それは私に差し支えます。若輩者ですから」
 ダーリアは礼儀正しいが、他人と一歩距離を置く人間らしい、とアレクセイは理解した。
 ダーリアの御す馬車はどんどん山間部へと入り込む。小一時間ばかりかけて山道を進んでいった。
 やがて、初夏の青々した山の合間に、灰色の煉瓦を積み上げた古めかしい建物が見えてきた。
「あれですか、ライオネルの生まれた家というのは」
 とアレクセイが驚きの声を上げたのも無理はない。まるで山城かと思うような高い壁に囲まれ、その頭上に塔の先端やいくつもの黒い屋根を覗かせた館は、いくら近づいても全容が見えない。山肌に半分埋没したような姿はいかにも中世の趣である。
「この辺りの人には黒獅子城と呼ばれているそうですよ」
 と、ダーリアが教えてくれた。その理由は館の門の前まで来るとわかった。左右に開く鉄格子の門の両側に、一対の黒い獅子が向き合った格好の紋章が入っている。門の脇の門番小屋に人気はなく、ダーリアは自分で門を開けて馬車を通した。
 そこからしばらく並木道のトンネルが続く。トンネルを抜けると視界が開け、綺麗に刈られた芝生が広がっていた。
 中央に母屋らしい大きな建物があり、その奥に離れや、銃眼のいくつもある古風な塔が建っている。どれも蔦に覆われて、青草の匂いが鼻の奥まで届いてくるようだった。
 母屋の車寄せに使用人と思しき身なりの男が二人現れ、馬車を迎えた。
「ようこそおいでくださいました、カミュ様。お帰りなさいませ、スルト様」
 と、年配の方の男が丁寧に挨拶してくれた。こちらが執事で、もう一人は従僕だった。よく似た顔立ちからして、二人は親子らしい。従僕の方が馬車を引き受け、執事は車から下ろした荷物を中へ運び入れた。
 アレクセイは応接室へ通された。ダーリアの方は、
「それでは私はこれで」
 と一礼してどこかへ行ってしまったので、アレクセイは執事に勧められた椅子に一人で座って待った。
 応接室には日の光を取り込むために大きな窓が並んでいる。隅のガラス戸で温室に繋がっていて、そこでは植木が育てられていた。応接室と温室に面したテラスには小さな椅子とテーブルのセットがある。その向こうは季節の花木が植えられた庭園だった。
 アレクセイが、庭木の根元に咲いている小さなスズランを眺めていると、執事が戻ってきて尋ねた。
「不都合でなければ、旦那様と奥様がすぐにでもカミュ様にお会いしたいと申しております。いかがでしょうか?」
「もちろんお願いします」
 しばらくして、館の主人であるセレスタン・ジュネとその妻リオンティーヌ・ジュネが自ら応接室に姿を現した。
 アレクセイは二人の顔を見ると懐かしさがこみ上げて、急いで立ち上がった。
「おじ様、おば様――いえ、ジュネさん、それにジュネ夫人、お久しぶりです」
「昔のように呼んでくれて結構だよ、アレクセイ」
 と、背の高いセレスタンが頭上からにこやかに笑いかけてくる。灰色になった髪を黒に戻し、顔中の皺を伸ばせば息子のライオネルと瓜二つになりそうだ。だがライオネルと違って、セレスタンは万事控えめな紳士であった。
 ライオネルの母親リオンティーヌの方が自信に満ちた表情で、黒いレースをまとった恰幅のいい体に生気をみなぎらせていた。
「本当に久しぶりねアレクセイ。こんなに立派になって。子供の頃レオの後をヒヨコみたいについて歩いてたのが嘘みたいよ」
 リオンティーヌもセレスタンも息子のことをレオと愛情を込めて呼ぶ。
 アレクセイの脳裏に幼少のみぎりのさまざまな光景が次々浮かんでは、消えていった。


 今でこそ黒獅子城を守っているジュネ夫妻だが、若い頃は血の夜明け派の司祭として帝国各地の修道院に勤めた。中でも、帝国北部の地方には長く住んだ。
 北部地方の州都キャクタシリアに夫妻が転居してきたとき、夫妻には八歳になる息子がいた。ライオネルである。夫妻が家を借りた住宅地には、裕福な中産階級の家庭が数軒住んでいた。その中に一軒、母親と息子の二人きりで暮らしている家があり、それがアレクセイの生家だった。
 ライオネルと初めて会ったとき、アレクセイはまだ六歳で、物心がつき始めたばかりだったが、それでもそのときのことはよく覚えている。
 アレクセイの母親は、近所の奥方たちを集めてサロンの真似事をするのが好きで、引っ越してきたばかりのジュネ家にも当然のように招待状を送った。
 招待を受けたリオンティーヌは物怖じのしない婦人だったから、見知らぬ奥様たちの中にも堂々と突入していった。そしてそのとき、ライオネルを一緒に連れて来て、アレクセイと引き合わせた。年も近いからきっと遊び相手になるだろうと考えたのであった。
「らいおんくん――
 と、教えられた名前をオウム返しにつぶやきながら、幼いアレクセイは、目の前に立っている自分より少し大きい男の子を、まじまじと物珍しげに眺めた。
「ライオネルだよ」
 とライオネルは訂正した。
「らいお――らいおんねるくん?」
――ライオンくんでもいいよ、もう」
 ライオネルから見れば、アレクセイは二つ年下というにはいくらか幼すぎるところがあった。町の私塾の下級生でも、就学年齢ともなればもっとしっかりした受け答えができる。
 その日は家の書斎で、二人で大人しく絵を描いたり本を読んで過ごした。
「むずかしい本ばかりだね」
 と、ライオネルは天井まで届く高い本棚を見上げて言った。
「ぜんぶ先生の」
 とアレクセイは答えた。
「先生って? 家庭教師の?」
「ううん――ほんとうはお父さんの」
「お父さん、いるの?」
「お父さんは、たまにまじゅつ﹅﹅﹅﹅をおしえにきてくれるぼくの先生。でもライオンくんないしょにしてね」
「なんで?」
 ライオネルは首をかしげたが、アレクセイも真似をして首をかしげているばかりで埒が明かない。
「ぼくがよんであげる」
 と、アレクセイは言い、本棚の最下段から一冊取って抱えた。ライオネルを促して長椅子に座ると、本をちょっと開いて文字ばかりのページを見せ、
「かみさまが世界をつくったときのうただってお父さんが言ってたよ」
 と教えてから、目を白黒させているライオネルの前で、ところどころ舌足らずな口調になりながら長い長い詩を暗唱して聞かせたのだった。
 それからジュネ一家がフロクシリアに帰るまでの六年間、アレクセイとライオネルは竹馬の友であった。アレクセイに勉強を教えている家庭教師にやはり同じ年頃の娘がいて、名前をルフィナといった。ルフィナと三人で遊ぶこともよくあった。


 懐かしい思い出に浸りかけていたアレクセイを、リオンティーヌが現実へ引き戻した。
「アレクセイ、レオから話は聞いているんでしょう?」
「えっ――?」
「ダーリア・スルトのことよ。昼食が済んだらすぐにでも教会の方へ来てちょうだい。祭服は持って来た?」

5

「この家は、ずっと昔、まだ血の夜明け派が教王を頂点に頂いて、帝国の支配と闘っていた時代に造られたそうよ」
 と、アレクセイの先を歩いているリオンティーヌが道々教えてくれた。
「もう何百年も前の話よ。今では私たちも団結を失って、各々地方の教会で冠婚葬祭を司る程度の司祭として生きているけれど。でも昔は、皇帝陛下にだって恐れられる力があったのよ――だからこそ、この家のような隠し教会も各地に残っているのよ」
 リオンティーヌは足を止め、アレクセイの方を振り向いた。シュッ、と衣ずれの小気味いい音を立てて、目の覚めるような朱の法衣の裾を右手で掻い取る。アレクセイは血の夜明け派の位階には詳しくないが、それでもリオンティーヌの姿が高位の司祭ものだということはわかる。
「足元に気を付けて」
 とリオンティーヌが言った。二人は黒獅子城の石畳の中庭を中央へ向かって歩いていた。そこに古風な石造りの噴水があり、中央には水を吐く対の獅子の石像が立っていたが、もうとっくに枯れ果てていた。そしてかつて水をいっぱいにたたえていたはずの場所には、今は地下へと続く階段がぽっかりと口を開けている。
 アレクセイも白い祭服の裾を持ち上げ、リオンティーヌの後に従って階段を下りた。
 地下礼拝堂にはすでに明かりが入っていた。天井を支える多くのアーチと柱の合間合間に吊るされた燭台で蝋燭が燃え、橙色の光がタイルの装飾に覆われた壁面と床を照らす。
 正面奥には主祭壇があり、一番高いところに救世主の像が磔にされ、捧げられた生贄や術具を見下ろしていた。その周りの空間はさして広くはないが、信徒を十人か二十人くらいは招き入れられそうである。
「今でもここで聖体拝領を行うし、結婚式もするわ」
 と、リオンティーヌが説明してくれた。
「私もここでセレスタンを夫に迎えたのよ。レオもきっとそうするでしょう」
「相手が『うん』と言えばの話ですけどね」
「言わせるわよ。私の息子だもの――相手がいるのかしら?」
「まあ、それはさておいて、おば様」
 とアレクセイは言いながらリオンティーヌの顔を見た。アレクセイの鼻先まで覆い隠しているケープの下から不思議とよく通る声が漏れ出てくる。
「そろそろ教えていただけませんか。ライオネルが僕に話さなかったことって何です?」
「レオも悪い男になったものねぇ。一番大事なことを知らせておかないなんて」
「話を引き伸ばさないでください。僕はライオネルが好意で招待してくれたものと思って来たんですよ?」
「都ではいろいろ大変のようね、アレクセイ」
―――
「別に細かいことを聞きゃしないわ。ゆっくり休んでまた元気が出るまで、どんなに時間がかかっても構わないの。それまで好きなだけここにいていいのよ。ただねアレクセイ、そんなふうに休息を必要としてここに来てる魔術師は、あなただけじゃないの」
――あのダーリアという女性のことですか」
「そう」
 リオンティーヌは脂肪ののった顎を小さく引いてうなずいた。
「いい娘だったでしょう? 会ってみると」
「そうですね。迎えに来てもらった上に、いろいろ親切にしてもらいました」
「じゃあ恩を返したいと思うわよね?」
「う――そ、それは、もちろんですけど」
「事情は後で話すわ。あの若い娘には休息と、それに助言が必要な状況よ。ふさわしい人物からの的確な助言がね」
「それなら、おば様やおじ様の方がよほど――
 とアレクセイが口を挟みかけたのを、リオンティーヌは制し、
「いいえ、あなた以上の適任者はいない。パーヴェル・バルト亡き今、数少ない黄金の契り派の中であなたが筆頭魔術師のはずよ、アレクセイ」
「我々の魔術に関わる話だということですか」
「ま、説明するより、実際に見てもらう方が早いでしょう」
 リオンティーヌは主祭壇に視線を送った。アレクセイもそれを追う。祭壇の脇に細い扉があり、おそらく香部屋に繋がっているのだろうと思われた。リオンティーヌはそこへ向かって呼びかけた。
「ダーリア、支度は済んだ?」
 返事があり、開いた扉の隙間から黒々した人影が一礼して滑り出てきた。
 アレクセイは目を見張った。
 香部屋から現れたダーリア・スルトは、頭の先から足の先まで漆黒の祭服をまとっていた。それ自体はどの教派でもよくある姿で珍しくはないが、
「法友でしたか、ダーリア――
 とアレクセイが言ったのは、ダーリアの鼻先から下を全て覆い隠すケープや、手元を見せないために体の前へ垂らしたおびただしい長さのショールは、アレクセイと同じ黄金の契り派に限られた姿だからであった。
 ダーリアは、そこだけ黒い祭服姿からぽっかり白く浮かんでいる目元をアレクセイに向け、ケープの下から低い声で返答した。
「ご覧の通りの若輩者です、先生」
 祭服の色を見れば祭司としての階級がわかる。アレクセイのように白い祭服であれば、独り立ちして完全な魔術を許された正式な祭司だが、ダーリアのような黒色はつまり見習いの証だった。
「始めてちょうだい」
 とリオンティーヌに促され、ダーリアは主祭壇の前に進み出た。アレクセイはリオンティーヌに従えられ、ダーリアの背後にやや距離を空けて立った。リオンティーヌがささやくように言う。
「アレクセイ、よく見ててあげて」
 祭壇に向かったダーリアは、短い祈りを捧げてから息を整え、
「解錠します」
 と宣言した。
 ショールで覆った両手で印を組み、
「ジュノー――
 と、ケープで隠した口で「有」の祭文を唱える。
「ジュノー――ユル、ユル、ユル――
 「有」、「無」、「無」、「無」と印を変えながら続け、その後も定められた組み合わせで淀みなく唱え上げていく。たとえ同じ黄金の契り派であっても、血脈を違えるアレクセイとは祭文と印の組み合わせが異なる。だからこそ彼らは、一つの教派の仲間であっても魔術を行う姿を見せようとせず、ただ一人自らの後継者にのみ全てを伝えていく。アレクセイが師である父親一人からあらゆる魔術を受け継いだように。
 ダーリアが千と二十四回祭文を唱え終わると、彼女の体で七つのチャクラが開く。後ろで見ているアレクセイにもそれがわかった。
 アレクセイの視界いっぱいに金色の光があふれ、まぶしくて思わず両目を閉じる。
(大きなアストラル体――
 が、光はじきに収まった。
 アレクセイはそっと目を開けた。
 ダーリアのアストラル体は力なく明滅しているように見えた。時々大きく脈打つように明るさを増し、礼拝堂の壁や天井一面を照らすのだが、すぐに息切れを起こして弱い光へ戻ってしまう。
 その明滅に呼び起こされるようにして、アレクセイの胸に少年の日の記憶が蘇る。
「アレク、おまえはまだ幼すぎるのだね。こんなに素晴らしいアストラル体を持っているのに、まだ幼いから――
 という父親の声と、慰めるように体を抱いて頭を撫でてくれる大きな手のひらの感触。どちらも優しかったが、その裏に焦りを隠していた。
「アレク、私には時間がないんだ。アレク――

6

(なんだか今日は、昔のことばかり思い出す――
 と、アレクセイは感傷的な気持ちになっていた。
あれ﹅﹅は確かライオネルがフロクシリアに帰ってしまった後で、僕は十三歳か十四歳か、そのくらいだったっけ。父は僕が歳の割に幼いままだと言って、嘆いていて)
 アレクセイは、不安定なアストラル体をまとったダーリアの後ろ姿を少年の頃の自分に重ね合わせた。すると必然的に、ダーリアを見つめている今の自分は父親と重なった。
 ダーリアは、時間をかけて息を整えてから、
「これより『二元展開』式を行います」
 と宣言した。
 定められた型の通りに祭服の広い袖を払い、右手で祭壇に捧げられていた術具を取る。術具は法の書で、無垢銀の筒に巻いて納められている。ダーリアは筒を左手に持ち、右手で書を長く引き出した。
 両手を胸の高さに掲げ、書を読み上げようとした、そのとき、
「それ以上はやめておきなさい、ダーリア――
 と、不意に背後から声がした。アレクセイの声だった。
 ダーリアが取り合わずに儀式を続けようとすると、アレクセイはもう一度、今度は強い口調になって言った。
「だめです。やめなさいダーリア!」
 アレクセイの視界で、ダーリアのアストラル体の明滅する周期が次第に短く、狂おしく、めちゃくちゃになり始めている。
「展開式は失敗です! 今のあなたの状態では持ちこたえられません、早く『施錠』を――
 アレクセイがそこまで言ってもなおダーリアは従おうとせず、
――大ベレシタス、第一、ワイエナ、エイナ、ダブリナ、エイナ、テッラ、モー」
 と祭文を捧げようとしたとき、急に両腕両脚がガクガクと震え出し、その痙攣があっという間に全身に伝わった。
「あ、あ、ああ、アアっ!!
 ダーリアは悲鳴とも喘ぎ声ともつかない奇声を発して、術具を取り落とした。床を転がった巻物の筒が甲高い音を立てた。
 ダーリア自身も、その場に膝から崩れ落ちた。
「危ない!」
 と、アレクセイが寸でで駆け寄り、ダーリアの体を支えた。ダーリアは、ひきつけの発作でも起こしたかと思うほど激しく痙攣していた。呼吸をしていない。瞳もほとんど開ききっている。
 アレクセイは床に座り込んでダーリアの体を抱え、頬を軽く叩いてやりながら叫んだ。
「わかりますか、ダーリア、アレクセイです。息をしなさい。吐いて!」
 が、ダーリアに反応はない。と見るや、アレクセイはダーリアの背中から鳩尾へ腕を回し、両拳で力いっぱいそこを押し込んだ。
「かはっ!!
 と、ダーリアは力ずくで息を吐かされた。アレクセイは、彼女に嘔吐がなかったことを確かめ、力を緩めた。
「吸って!」
 とアレクセイに言われるままに、ダーリアは深く息を吸い込んだ。その息を、アレクセイは再び吐かせ、また同じように吸わせる。一連の処置を何度か繰り返すと、あるとき、ダーリアの体の痙攣がぴたりと収まった。
 アレクセイは後ろを振り返り、リオンティーヌを呼んだ。
「おば様、ダーリアを支えていてくれませんか」
 リオンティーヌは歩み寄って来て、心配そうにダーリアの上にうずくまった。さすがに取り乱してこそいないが、先程までの光景に息を呑んでいた。
「大丈夫なの?」
「とりあえずは」
 アレクセイはダーリアの体をリオンティーヌに預けた。自分はダーリアの手を掴んで無理やり印を組ませ、ショールでそれを覆うと、
「ダーリア、祭文を」
 と、促した。
「あなたが自分で『施錠』するんです。さあ、しっかりして」
―――
 ダーリアは、アレクセイの言葉が耳に届いているものかどうか、無気力に宙を見つめているばかりである。
(どうしよう)
 とアレクセイは思案した。アレクセイ自身、未だ弟子を持ったことはないし、そのための教育を受けたわけでもない。よりどころになるのは、自分が見習いだった頃にどうやって育てられたか、という経験だけである。
 アレクセイは、自分の口元を覆い隠しているケープを喉まで引き下げ、ダーリアに顔を見せた。
「ダーリア、わかりますか。わかるならこちらを見て」
 と、優しく声をかけると、ダーリアは二つの眼球だけを動かしてアレクセイの目を見た。
「ありがとうダーリア。よく聞いてください。僕は、さっきまであなたの魔術を見ていました。失敗はしてしまいましたけど、あなたは素晴らしいアストラル体を持っています。大きく、黄金色に強く輝く、美しいアストラル体です」
 アレクセイは、ダーリアの額へ、そっと手を置いた。亡き父親が昔そうしてくれたように、頭を撫でて慰めてやりながら言った。
「ただ、あなたはまだ若いから、上手くそれを扱えないだけです――大丈夫、それだけのことですよ」
 自信を持って、とアレクセイはひたすらに励まし、改めてダーリアの両手を握って印を組ませた。
「祭文を」
 ダーリアは、瞬き一つせず、すがるような目でアレクセイを見上げていた。アレクセイの淡い色の翡翠のような瞳に興奮のため血が上り、今は紫がかって見える。夕暮れの東天と西天の境のような優しい薄紫色のどこを探しても、ダーリアに失望しているような感情は見つからなかった。
 ダーリアのケープの下で唇がかすかに動いた。
「ジュ、ノー――
 と、弱々しくはあるがダーリアが祭文を唱え始めたので、アレクセイは安堵し胸を撫で下ろした。もう大丈夫だろう。
「そうですダーリア、次の印と祭文を」
 ダーリアは、一つ一つ印を結んでは祭文を上げた。その数は『解錠』と同じ千と二十四であった。最後の一つを終えると、ダーリアのアストラル体は物質体の奥深くにしまい込まれ、七つのチャクラで封じられた。
 ダーリアは印を解いた手を床へ落とし、ぐったりとリオンティーヌの腕の中に沈み込んだ。
「終わりました、おば様」
 とアレクセイがリオンティーヌに告げた。リオンティーヌは、ほーっと長い息をつき、ダーリアを我が娘のように抱きしめた。
「おば様、ダーリアを館へ運びましょう。休ませてあげなくては」
「ええ、ダーリア、聞こえた? もう少しの辛抱よ」
 リオンティーヌの手を借りてアレクセイがダーリアを背負い、三人は館へ帰った。
 ダーリアを客室へ運んだ後、アレクセイとリオンティーヌは二人で話をした。二人とも祭服から平服に着替え、ダーリアの部屋で眠っている彼女を見舞いながら、声を潜め合っていた。
「ダーリアの母親から話には聞いていたけど、我が目で見たのは今日が初めてだったわ」
 とリオンティーヌは前置きしてから言った。
「いつもああなってしまうらしいの。アレクセイ、あなた言ってたわね、ダーリアがまだ若いからだって」
――いくつです?」
「ダーリアのこと?」
「ええ、歳はいくつなんです、彼女」
「今二十四歳のはずよ。今年の春にフロクシリア大学の中等課程を修了して、帝国魔術師としては第五階梯まで進んでるわ」
「二元展開式に限って言えば、健常な﹅﹅﹅魔術師なら平均的には十二歳から十五歳、もちろん個人差はあるでしょうけど、遅くとも二十歳頃までには習得できると父が言っていました」
 アレクセイはそこで一旦言葉を切った。
「たとえば僕の場合――十三歳か十四歳でした。ただ、僕も最初はダーリアのように失敗しましたし、本来ならもっと遅かったはずだと思います」

7

「おば様も、覚えていらっしゃるでしょうけど」
 と、アレクセイはためらいがちに語り出した。
「僕は子供の頃、周囲より精神的に随分幼かったんです。同じ年頃の子供と比べても未発達で」
「それは環境のせいよ、アレクセイ。あなたの両親が、あなたを学校に入れることを頑なに拒んで――
 とリオンティーヌが口を挟もうとしたのを、アレクセイは押しとどめ、
「いいんですおば様、そのことは。とにかく僕は実年齢より幼い子供でした。それが足を引っ張って、魔術を上手く行えないことはよくありました。我々黄金の契り派の魔術において、心身の健康はとても大切なことですから」
 アレクセイの視線がリオンティーヌの双眸を射る。心の中まで覗き込むような目つきだったが、リオンティーヌはたじろがなかった。
 アレクセイが言う。
「ダーリアは、何か、身体的あるいは精神的に、問題を抱えているんじゃありませんか?」
「私にもわからないのよ、アレクセイ」
「ダーリアの師は?」
「彼女の母親よ。今はフロクシリアの市街に住んでいるけれど、元々はあなたと同じキャクタシリア出身の魔術師でね。娘の教育には熱心な人よ――熱心すぎるくらい」
 リオンティーヌは含みを持たせた言い方をした。アレクセイは、なんとなく事情を察してうなずいた。
「それも問題の一つでしょうね。それだけではなさそうな気はしますけど――
 アレクセイの脳裏に、ダーリアと駅で出会ったとき、男装した彼女が「私は男でも女でもない」と言っていた場面が思い浮かんだ。
(きっと、あれが何か関係があるんじゃないか)
 と考えたが、それ以上のことはダーリアが話してくれなければわからない。
 アレクセイは足音を忍ばせてダーリアの枕元へ歩み寄った。
 ベッドへ仰向けに寝かされたダーリアは、落ち着いた呼吸を繰り返して眠っていた。白い寝間着を着たなだらかな胸が寝息に合わせて上下している。そこへ窓から差し込む午後の光が当たって、布地の陰影が水面のようにゆるやかに動く。
 アレクセイが黙りこくったままでいると、リオンティーヌもベッドの近くへ来た。
「ねえアレクセイ」
「はい」
「あなた、自分も魔術を扱えるようになるまでに本来なら﹅﹅﹅﹅もっと時間がかかったはずだったと言ったわね。それはつまり、本来よりも早く習得するための方法があったのではないの?」
 ギクリ、とアレクセイは身を硬くした。
「どうなの、アレクセイ」
――僕は、時間をかけてでも心身の問題を解決して、自然に会得するのを待つべきだと」
「方法があるかないかと聞いているのよ」
 とリオンティーヌは追求の手を緩めない。アレクセイは、観念して、
「“交歓”をする方法があります」
 と、答えた。
「“交歓”?」
 リオンティーヌは首をかしげた。それを見てアレクセイはいくらか安心した。
「我々黄金の契り派の秘法――とでも思っていただければ。“交歓”を行うと、一時的に精神が高揚して入神状態に入ります。その間に魔術を行わせるんです。それを何度も繰り返して、無理やり覚えさせるんですよ」
「あなたも、そうやって?」
「ええ」
 リオンティーヌは、何か思案を巡らせているようだった。ダーリアの寝顔を痛ましげな表情で見下ろし、やがて腹が決まると、
「アレクセイ、ダーリアにもその“交歓”をする方法は可能?」
 と、アレクセイへ尋ねた。
「い、いけませんそれは!」
 とアレクセイは思わず大きな声を上げてしまい、慌てて手のひらで口を覆った。
「可能か可能でないかで言えば、おそらく可能――だとは思います。でも、あの、“交歓”には相手が必要なので。特にこういう場合の相手は経験のある魔術師でないと――つまり今の状況だと僕しかいないんですが」
――先生が“交歓”の相手なら、私は構いませんが」
 と、ふいに、ベッドの方からか細い声が上がった。アレクセイは驚いてダーリアに視線を戻した。ダーリアはいつの間に目覚めていたのか、ぼんやりと天井の一点を見つめている。
 アレクセイは、ばつが悪い想いをしながら尋ねた。
「聞いてたんですか?」
「はい――
「いつから起きてたの?」
 とリオンティーヌも聞いた。ダーリアは申し訳なさそうに眉を曇らせ、
「ごめんなさい、奥様」
 と謝った。二人の会話のほとんどを聞いていたらしい。
 ダーリアはアレクセイの方を見上げて言った。
「本当に“交歓”で魔術を行えるようになりますか?」
「そ、それは」
 アレクセイはまごついた。
「たぶん――でも、こういうことは、その、簡単には」
「“交歓”は別に性行為でもなんでもないんですから、私は構いませんが」
「あなたが構わなくても僕が構います!」
 と、アレクセイは声を大きくした。
「ダーリア、あなたも“交歓”がどういうものか知っているなら、もっと自分を大事にしてください」
 皆、重苦しく口を閉ざし押し黙っていた。長い沈黙ののちにそれを破ったのは、勘のいい年嵩のリオンティーヌだった。
「アレクセイ、一つ聞いておかなければいけないことができたのだけど」
 と呼びかけ、
「あなたも子供の頃“交歓”をして魔術を覚えたのよね? その“交歓”は、一体誰と﹅﹅行ったの?」
 リオンティーヌは、アレクセイの顔をまっすぐ見据えていた。口調こそ静かで、責めるようなそぶりはなかったが、アレクセイを逃すまいとする威厳が感じられた。
 アレクセイはアレクセイで、リオンティーヌと目を合わせず、決して心を開こうとしない。
――言えません」
 というのがアレクセイの返答だった。話はそれきりになった。
 その日の宵の刻のことである。
 館の居間で一人ぽつねんと夕食を待っていたアレクセイのところへ、ダーリアが浮かない顔をしてやって来て、
「あの、先生、もしよろしかったらこれを」
 と、手にしていた小さな花飾りを差し出した。手作りと思しきそれは、スズランを中央に白い小花を集めて、同じ色のリボンで結んであった。どれも今の季節、館の庭に咲いている花である。
 アレクセイがきょとんとしていると、ダーリアは「昼間のお詫びです」と言ってうつむいた。
 アレクセイは花飾りを受け取った。
「ありがとう。でも、あなたに謝られるようなことは何もないですよ――これ、あなたが作ったんですか?」
 ダーリアがうなずく。アレクセイは重ねてお礼を言い、花飾りを夕食用の上着の襟へ挿した。見ればダーリアも同じく三つ揃いの紳士の礼装をしていた。アレクセイは、ダーリアに、長椅子へ座らないかと誘った。
「体の方はもう大丈夫ですか」
 と、アレクセイは尋ねた。隣へ腰を下ろしたダーリアは、大丈夫だと答えた。
「ダーリア、僕の方こそ、昼間はキツい物言いをしてすみませんでした。自分を大事にしろなんて、本当は僕が言えた義理じゃないんですけどね」
―――
「それに、僕とはあまり関わり合いにならない方があなたのためです。駅まで迎えに来てくれたときの様子からして、あなたも知ってるんでしょう、僕が帝都を離れてここへ来た理由」
 ダーリアは否定しなかった。が、さりとて引き下がりもしない。
「先生、私にはもう時間がないんです」
 先生――ともう一度呼びながら、ダーリアの灰色の双眸がアレクセイを捕らえて離すまいとしていた。

8

 ライオネルのアパルトマンには、いつも朝一番に郵便配達が来る。その日の郵便物を確かめてから大学へ出勤するのが、ライオネルの日課だった。
「ジュネさん、おはようございます。今日は、いい人からのお手紙があるといいですね」
 と、決まって一言多い顔見知りの郵便配達人を玄関先から追い払って、ライオネルは封書の束を居間のテーブルへ置くと、その足で風呂に入った。そうしてやっと寝間着とガウンから紳士の姿になると、次は台所へ向かう。
 ライオネルも平均的な下層中流の独身男の例に漏れず、大して料理など知ってはいないが、他に作ってくれる人間もいないから朝食くらいは自分で支度をする。火を入れてあったストーブでトーストと卵を焼き、湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
 居間で食事を取りながら郵便物を一つ一つ改めた。郵便配達人にからかわれたようにルフィナからの手紙など滅多にない。郵便物のほとんどはたわいもない内容だ。行きつけのレストランからの請求書や、政治家の広報や、学会からの論文の依頼――と上から順に見ていくと、最後に見覚えのある印璽がある。アレクセイからの手紙だった。
 アレクセイが帝都を出発したのは一週間ほど前のことだ。日数からして、遅くともライオネルの生家に着いた翌日には出された手紙らしい。
 ライオネルは封を開けて中を読んだ。
「よくもダーリアのことを黙っていてくれましたね、ライオネル」
 と、要約すればそのような内容のことが、アレクセイの酷い悪筆でつらつらと書き連ねてある。
 ライオネルは便箋を置き、お行儀悪くテーブルへ両肘を着いた。その拍子に鼻先へ前髪が垂れたのを払いのけ、背を丸めて思案するような格好になった。
 そのうち、無性に煙草が欲しくなって腰を上げ、探したが、あいにくパイプ用の煙草を切らしていた。大学で吸わなくなって以来買い置きをやめたのだ。研究室で一服やると、秘書のソニアに白い目で見られる。
 ライオネルは仕方なく安い紙巻きに火を点け、くわえながらテーブルへ戻った。
(ダーリア・スルトか――
 アレクセイの手紙に何度も名前が出てきた女魔術師について、ライオネルは名前だけは以前から聞き知っていた。逆に言えば、それしか知らない。
 ライオネルが父母とともに帝国北部で過ごしたのは、四歳頃から十四歳までの十年ばかりだったが、環境の変化に強い母リオンティーヌは向こうで新しい友人を何人も作った。その中にアレクセイの母や、それにダーリアの母親もいた。
(いや、スルトのおば様は、あの頃はまだ未婚だったか)
 なにせライオネルが就学前の時分の話だから、記憶があちこち定かでない。
 たまにリオンティーヌに招かれて家に来ていたスルト夫人は、アレクセイやルフィナと同じ北部出身者らしい容姿の女魔術師だった。その頃は知らなかったが、教派は黄金の契り派だったそうだ。
 スルト夫人がリオンティーヌを訪ねていたのは、単に世間話をするためではなく、
「教派も違うのにこんなことを頼むのはおかしいと重々承知しているのですけど――どこかお抱えの魔術師として雇ってくださるお屋敷でもご存知でしたらと思って――
 というような用件が主であったらしい。北部の大きな修道院に勤めていたリオンティーヌは、仕事柄その土地の貴族や地主と関わる機会も多かった。
 中世ならいざ知らず、今の時代、有力者といえども祭事や占卜のために専属の魔術師を抱えているのは珍しい。各州の王や一部の貴族は慣習的にそういった雇用を続けているが、魔術師からすれば狭き門である。
(結局、スルトのおば様は、魔術師としては行き場が見つからなくて、周りの勧めで見合いをして結婚したんだ)
 奇遇だったのは、スルト夫人の嫁ぎ先がライオネルの故郷フロクシリアだったことである。
 やがて夫人は娘を産み、幸いにも魔術師として才能のあったその子に、ついえた自身の夢を託すようにして魔術を教え込んだ。
(よくある話だよな)
 ライオネルは最後の煙を吐ききり、短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。
(かわいそうなのは娘だ)
 ライオネルはダーリアと直接会ったことはない。ライオネルがフロクシリアへ帰ってきた頃には、すでにダーリアも就学年齢になっていたし、ライオネルもその後すぐ寄宿学校へ入ってしまった。だからどんな娘かは知らないが、同情した。
 先日リオンティーヌから手紙が来て、しばらくの間、黒獅子城でダーリアを預かることになったと書かれていた。少し母親と離れさせて、落ち着かせた方がいいだろうとリオンティーヌは言う。また、彼女に助言ができる魔術師が必要だとも。
 ダーリアはこの春に大学を出た後、フロクシリアのさる貴族に召し抱えられる約束になっているそうだ。母親のスルト夫人が手を尽くして奔走した結果、どうにか手に入れた就職先らしい。
 が、問題が起きた。ダーリアはまだ正式な黄金の契り派の祭司ではない。正式に祭司と認められるためには、一人で最低限の魔術を執り行えなければならない。ダーリアにはそれができない。
 相手方の貴族からは、
「六月までは待ってもいい」
 と言ってもらった。ただしそれ以上は待てないと。
――魔術師として生きるばかりが魔術師の幸せじゃないさ」
 と、ライオネルは一人でぼやきながら腰を上げ、テーブルを片付けた。
 寝室へ戻ると、鏡の前で暗褐色の髪に櫛を入れる。前髪を後ろへ撫で付けていつもの髪型になった。その場でついでに手首にコロンを付け、カフスを留めた。
 両耳に金色の小さな耳飾りを着ける。最後に鏡の前の小物入れから指輪を取ってはめた。両手の親指にはそれぞれ、父母から魔術師の血を受け継いだ証の金の指輪を。そして左手の薬指にはガーネットの指輪をして、ルフィナへ操を立てた。
 ベストのポケットに時計が入っていることを確かめ、上着を羽織り、シルクハットをかぶる。蛇頭のステッキを片手に家を出た。
 表通りには同じように大学へ出勤するため歩く教員や学生の姿が多かった。ライオネルはめいめいに挨拶をしながら、彼らを追い抜いていく。
 頭の中は未だにアレクセイの手紙のことでいっぱいだった。アレクセイは、
「ダーリアは僕と“交歓”をしてでも、どうしても早く魔術を行えるようにならなければ、もう時間がないと言うんです。この件、僕一人でどうにかできる自信がありません。あなたに相談したいです。会いたい、ライオネル――
 と、恋文か何かかと思うような句で手紙を締めくくっていて、ライオネルを辟易させたが、一人きりで困っているのは真実らしい。
(急に会いたいと言われても、俺だって仕事で忙しいんだぞ)
 と考えながらライオネルは自分の研究室に着いた。先に来ていた秘書のソニアが迎えてくれた。
「おはようございます、ジュネ先生」
「おはよう、ソニア――なあ、この先二、三週間の間に重要な来客や会議の予定はあったかな」
「休暇をお取りになりますか?」
 とソニアは、ずばり言った。
「先生がお休みになりたそうなときは、いつもそういう風に切り出されますからね。午前中のうちに予定の調整をしておきます」
 仕事の早い秘書はさっさと部屋を出て行ってしまった。
 一人残されたライオネルは、上着と帽子を掛けてから、執務椅子に深く沈み込んだ。結局なんやかんや言っても、自分はアレクセイに逆らえないのだ、と思う。
(せめてもの罪滅ぼしのつもりなんだろうな――俺はあいつの実の父親を――

9

 黒獅子城での朝食は八時。執事のエヴァンとその息子が給仕をし、エヴァンの妻が料理を作る。館での家事の一通りはこの一家が受け持っており、ジュネ家に仕えてはや四代目だという。
「じゃあもうこちらのご家族同然ですね」
 と、アレクセイがハムエッグの皿を供してくれる父エヴァンに言うと、老執事はにこやかに笑いながらうなずいた。
「左様に扱っていただいております。ライオネル坊ちゃまがお生まれになったときは、息子と二人でおしめを替えて差し上げたこともございます」
「ライオネルにも、坊ちゃまなんて呼ばれてた時代があったとはね」
 今のぱっとしない大学教員ぶりからは想像もつかない。
 アレクセイの隣の席にはリオンティーヌが着いており、向かいにダーリアとセレスタンが座っている。
 アレクセイは、正面の席のダーリアにちらりと目をやった。ダーリアは今日も昨日と同じように紳士服で身を固めている。乗馬やスポーツのためにトラウザーズを履く女性はたくさんいるが、食事まで三つ揃いでするのは珍しい。
 ダーリアは痩せた見かけに反してよく食べる。卵のおかわりを息子の方のエヴァンに頼んで、トーストも二枚目に手を伸ばした。パンにバターを塗りながら、アレクセイの視線に気付いたのか、
「先生、お体の具合はいかがですか」
 と、にこりともせずに言った。アレクセイが面食らうと、小声で言い添えた。
「昨日は昼も夜もあまり食が進まないご様子だったので――
「そうよアレクセイ」
 とリオンティーヌが加勢してくる。
「レオから頼まれているのよ、きちんと三食食べさせて、夜は寝かしつけてやってくれって。夕べは夜更かししてたでしょう」
「おば様までそんな、まるで子供扱いして――夕べはちょっと手紙を書いてただけですよ。ライオネルに無事着いたことを知らせようと思って」
「年寄りには子供扱いされておくものよ」
「もう――おじ様、助けてくださいよ」
 と、アレクセイは、にこにこ笑って聞いていたセレスタンに会話の矛先を向けた。
「アレクセイ、許しておくれ。リオネも私も、久しぶりに息子と、それに娘もいっぺんにできたような気分で、はしゃいでいるんだよ」
 セレスタンはアレクセイとダーリアを順に見つめ、目を細めて顔中の皺を深くする。一から十まで穏やかな老紳士であった。
(ライオネルは、顔こそ父親似だけど、性格は母親譲りだな)
 アレクセイはそんなことを思った。
 二人に愛情を注がれて育ったライオネルが羨ましい。そのくせ、リオンティーヌやセレスタンが、自分を息子と同じように扱おうと気を遣ってくれると申し訳ない気持ちになった。
(ダーリアは――
 アレクセイはもう一度ダーリアを見やった。
(この娘は僕のことをどう思ってるんだろう)
 それが無性に気になるのだ。ダーリアは、アレクセイには捉えどころのない娘だった。“交歓”についての返事は、まだ彼女には与えていない。
 朝食が済んだ後は特別やることもなく、アレクセイは庭園に面したテラスで、温室に背を向け、安楽椅子に沈んでうつらうつらしていた。午前中は周りの山々の陰になって日差しも強くない。いい心地だった。
 夢うつつに、ダーリアとの“交歓”について考えてみた。しかし異性との“交歓”など今まで想像したこともなかったし、予想もつかない。自信は全く湧かなかった。
 そのとき、背後の温室に人が入ってきたが、アレクセイは気が付かなかった。
 水の入ったジョウロを抱えてやってきたのはダーリアだった。ダーリアは、応接室の隅のガラス戸を通って温室に入った。
―――
 ダーリアの方は、テラスにアレクセイがいることに気が付き、ちょっとためらったが、結局声をかけるのは思いとどまった。
(昨日のことで――変な人間だと思われてるに違いないもの)
 温室のガラスの壁面越しに、安楽椅子に座ったアレクセイの後ろ姿を眺める。白く塗られた椅子に、淡い灰色の服を着た色白のアレクセイが座り、緑の色鮮やかな庭園を背景にしている光景が美しい。
 ダーリアは、アレクセイの顔に視線を絞った。童顔で、とても自分より五つも年上には見えない。鼻筋が恐ろしく通っている。血色の薄い形のいい口元。細く尖った顎。今は閉じている双眸は完璧な二重で、木の実のような丸い形をしていて、瞳は氷翡翠の玉みたいだった。
(綺麗な人――
 その上、黄金の契り派の魔術師の中では随分著名だし、帝国学士院会員の地位もある。
(こんな男性なら、世の中さぞ生きやすいのではないかしら)
 とダーリアは安直に考えた。そうやってしばしアレクセイの寝顔を眺めていたが、やがて思い返り、恥ずかしくなってきて、植木の世話に注意を戻した。
 ダーリアは執事に頼んで、温室の中だけという約束で、植木や庭木の世話を手伝わせてもらっていた。生き物や植物を触るのが好きなのだ。花木の世話をしたり、厩の馬と遊んでいるといくらか慰められるような心持ちがする。
 植木にたっぷりと水をやる。病気や虫が付いていないか、葉を一枚一枚確かめていると、外のアレクセイが椅子の上で、びくりと身じろぎしたような気がした。
 最初は、アレクセイが起きたのかと思って気に留めなかった。が、そうではなく、
「あっ、く――
 とアレクセイは苦しそうに喘ぎ声を上げていた。温室のガラス越しにそれが耳に届いたダーリアは驚き、
「先生、先生大丈夫ですか?」
 と、その場から声を掛けたが、アレクセイは気が付かない。ダーリアは急いでテラスへ飛び出した。
 ダーリアが駆け寄った足音でアレクセイは目を覚ましたらしかった。
「あっ!!
 と悲鳴を上げるのと同時に両目をいっぱいに見開き、知らぬ間にそばにいたダーリアを見て怯えたように身をすくませる。穏やかな天候に似つかわしくない青白い顔に冷や汗をびっしょりかいていた。アレクセイは、ようよう意識がはっきりしてきて、
「ああ――あなたでしたか」
 と深い溜め息とともに吐き出すように言う。
「すみません、つい居眠りしてしまって――寝入り端に少し嫌な夢を見ただけです」
「きっと、旅の疲れが取れていらっしゃらないんでしょう」
「いえ、昨晩なかなか寝付けなかったもので。寝る前に飲んだ睡眠薬がまだ抜けていないんですよ。まあ、いつものことですから」
 アレクセイは上着の内ポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。そうした後で、ばつがわるそうにうつむいた。余計なことを話してしまった、と思い至ったらしい。
 ダーリアは自分の安直さを恥じた。
「執事さんに頼んで、何か体の温まる飲み物でも持って来てもらいましょうか」
 と、優しい声をアレクセイに掛けた。アレクセイは、
「ええ、すみません、お願いします」
 と小声で言った。本当に飲み物がほしいというよりは、ダーリアにこの場から離れてほしいから、そう答えたようだった。

10

 その日の晩のことだった。
 夕食ののち、アレクセイはリオンティーヌと居間で『血脈』について論じ合っていた。『血脈』はジュネ一家の属する血の夜明け派の聖典で、魔術の指南書として、また詩歌の書としても名高い。
「僕たち黄金の契り派から言わせてもらえば、ヴァッサイの詩に魔術的な力が宿るのは当然のことです。つまり彼の詩の構成と、随所に散りばめられた無声音が――
 と、アレクセイはそんなことを語っていた。区切りのいいところで、ふとリオンティーヌが白髪の混じる頭を持ち上げて暖炉の方を見やり、
「私があなたを独占していては申し訳ないようね」
 と、にやつきながら言った。アレクセイもリオンティーヌの見ている方を振り返った。
 火も入っていない暖炉の前にぽつんと座っているダーリアが、アレクセイたちに見つかるとあからさまにそっぽを向いた。
 リオンティーヌが立ち上がって言った。
「年寄りは夜も早いし、お先に失礼しましょうか」
「いえ、で、できれば、おば様にも一緒にいてもらった方が、僕としては心安いんですけど」
「ふふふ、いやあねアレクセイ、私の夫のようなことを言って」
 それじゃ、とリオンティーヌは席を外してしまった。
 アレクセイは、不意に肩の裏側で気配を感じた。慌てて振り返ると、ダーリアが気恥ずかしそうな顔で立っており、
「ごめんなさい、あの、ご歓談中に」
「い、いえ、僕はいいんですけど――とりあえず座りませんか」
 とアレクセイは椅子を勧めた。しかしダーリアはかぶりを振って、
「もしよろしければ球戯室の方に――
 と、アレクセイを人気のない廊下へ誘い出した。
 アレクセイは球戯室へと案内してくれるダーリアの斜め後ろを歩きながら、眼前に長い廊下が伸びる風景に、学生時代に学友たちと無人の校舎で秘密の時を過ごしたことを思い出し、
(あの頃みたいだ)
 などと思って一人で勝手に照れている。
「ダーリア、僕はまだ、あなたとの“交歓”を了承したつもりはないですよ」
「いえ、その件ではなく」
 ダーリアはアレクセイを球戯室へ連れ込み、撞球台の脇を通り抜けて奥にある喫煙用の席を勧めた。アレクセイは訝りながらも、素直に従うことにした。アレクセイが一人掛けの藤椅子に腰を下ろすと、ダーリアは斜め向かいの長椅子へ座った。
 手近なテーブルの上には、アレクセイの見慣れないガラスの容器が置いてある。
「何です? これ」
 林檎ほどの大きさの丸いガラス瓶の上に華奢な金属のパイプが伸びており、全長は人の頭一つ分ほど。さらにそのパイプに細い管が繋がれ、先端にはペン先くらいの大きさをした吸い口が付いている。ガラス瓶は濃紫色で、銀色の流水模様がすっと一筋走る景色が洒落ていた。
「綺麗ですね」
 アレクセイの淡い色の目が細まり、口元がほころぶ。
「お好きですか?」
 と、ダーリアも嬉しそうな顔をした。
「フロクシリアには東国の方からいろいろな物が運ばれてきます。この水煙草もその一つなんです」
 ダーリアは煙草入れから煙草を少し取り、金属パイプの上の受け皿に乗せた。それに蓋をする。炭入れを開けて、火の点いている小さな木炭のかけらを火箸でつまみ出すと、水煙草の蓋の上に置いた。
 ダーリアは管の先の吸い口をアレクセイへ差し出した。
「いかがです?」
「僕シガーはあまり得意じゃないんですが」
「ああいう物とは違います」
 と、ダーリアが言う通り、炭火で暖められた煙草からは香草の甘い香りが漂ってくる。
「じゃあ――
 アレクセイはいい匂いに引き寄せられるように手を伸ばし、ダーリアから吸い口を受け取って口元へ運んだ。
 ダーリアが静かに言った。
「どうぞ。気持ちが落ち着いてよく眠れますよ」
 アレクセイは物問いたげにダーリアの横顔を見つめたが、ダーリアは昼間のことはおくびにも出さず、
「お気に召しましたか?」
 とだけ尋ねた。
 アレクセイは一口吸ってみて、
――本当だ、シガーと違っていい匂いがする。カモマイルですか?」
 ふっ、と青白い煙を細く吐くと、気に入ったらしく続けて二口三口と吸った。
 ダーリアは、ほっとしたように椅子に背を預けた。
「ご名答です。他にもジャスミンやオレンジの香りもしませんか?」
「ダーリア、あなた親切な人ですね」
 と、アレクセイは優しい声になって言った。
「おば様やおじ様に黙っていてくれてありがとう」
―――
「それで、僕をこんな人気のないところへ連れ込んで、どうしようっていうんです?」
 とアレクセイがからかうような調子になると、ダーリアは心外そうな顔をする。
「“交歓”の件は今は関係ないと言いました」
「じゃあこれを勧めてくれるためだけに?」
「いけませんでしたか?」
「いけなくはないですけど」
 アレクセイは、むず痒そうに言葉を濁した。照れ隠しに、香草の香りをわざとゆっくり味わう。
「よければ少し話くらいはしませんか。僕たちはお互いのことを知らなすぎるんだし」
「それは」
「僕は帝都から逃げ出してくるような、あまり素行のよくない人間ですけど、それでも全く知らない人と“交歓”をしたことはありませんよ」
「先生に、何か知りたいことがあると仰るのなら――
「何でもいいんですよ。たとえば生まれたところのこととか。僕は北部キャクタシリア生まれの、キャクタシリア育ちです。あなたは?」
「私は生まれも育ちもフロクシリアです。こちらでは黄金の契り派は珍しいんですけれど――母が先生と同じキャクタシリア出身の魔術師なので」
「お父上は?」
「父は血の夜明け派で、フロクシリアの町外れに教会を持っているんです。こことは比べ物にならないくらい小さな教会ですけど」
 ダーリアは左手を甲を上にしてアレクセイに見せた。魔術師の血統を証す指輪が人差し指と小指にはめられており、人差し指は黄金の契り派の母親を表すウロボロスの蛇。小指は血の夜明け派の父親を表す飾り気のない金の指輪だった。
「私が生まれたとき、どちらの教派を継がせるかで両親は揉めたんです。父は無論、教会を継がせる気でいました。でも母が、生まれたばかりの私を見て、この子には必ず黄金の契り派の魔術師として才能があるはずだから、と言い張って聞かなかったそうで」
「生まれてすぐ?」
「はい」
――まだ言葉も話せないうちから才能を見抜いてたなんて、お母上は随分見る目がありますね」
 というより、そんなことはまず不可能なはずだ。と、アレクセイは思ったが、口には出さなかった。
(そうまでしても、どうしても我が娘を自分と同派に育てたかったのか、それとも何か確証があったんだろうか。この子に何か――
 考えたところでわかるはずもない。アレクセイは、疑念を胸の引き出しに一旦しまい、深く吸い込んだ水煙草の煙で覆いを掛けた。

11

 アレクセイは煙を吐いた。
「学校には?」
 と話題を変えて、ダーリアに尋ねた。
「六歳から私塾で六年、寄宿学校で六年学びました」
 と、ダーリアは答えた。
「へえいいな、羨ましいです。僕は学校に行かなかったので」
「一度もですか」
「ええ、ずっと家庭教師が付いていて」
「でも、その分魔術の方は早くお修めになったんでしょう」
「まあね」
 アレクセイは苦笑いして、
「それがよかったかどうかは、今となってはわかりませんけど――寄宿学校はどちらに?」
「コーリオプシリア女学院です」
「それなら東部地方一の名門校じゃありませんか」
「学校は立派でしたが、私はそれに見合うほどの出来ではなかったもので」
 近代の学問が不得手なところは、アレクセイと同じらしい。
「それにしても――
 と、アレクセイは水煙草を咥えながら、ダーリアをまじまじと見つめた。
「かのコーリオプシリアの貞淑な女学生の制服をあなたも着ていたわけですか。伝統の裾が長いドレスをまとって。『足を見せびらかすのは毒婦の始まり』でしたっけ」
「私は、あの床を掃除しながらしか歩けないスカートがどうも不便で、隙あらば馬術や剣術クラブのユニフォームばかり着ていましたけどね」
 と冗談らしい口調で言って、ダーリアは珍しく笑った。笑うと笑窪ができて年齢より幼く見える。アレクセイもつられて笑い出した。
「あなたのあの見事な馬鞭さばきも、貞女教育の賜物と」
「乗馬は淑女のたしなみだと習いました」
「だけど綺麗だったでしょうね、制服姿」
「そうですね、黒白のドレスを着た学友みんなでずらっと並ぶと壮観で――
「いえそういう意味ではなくて、あなたのことですよ。きっと似合っただろうなと」
 ダーリアが切れ長の目をいっぱいに見開く。アレクセイは気が付いていないのか、何気ない調子で続けた。
「あなたは背が高いし、宝石みたいな黒髪の持ち主だし、婦人服も映えるでしょう」
――背は女性の中にいては高すぎるくらいですし、黒髪も東部では珍しいものじゃありませんけど」
「そうですか? 僕の友人のライオネルもここの出身で黒っぽい髪ですけど、あなたほど見事な漆黒じゃないですよ」
 アレクセイの言葉に言外の意味はなく、自分の感性に従順になって正直な感想を述べているだけなのだが、それでもダーリアはすっかり恥じらって、赤らめた顔を下に向けてしまった。
「先生は変わったことを仰るんですね」
「? そうですか?」
 アレクセイは心当たりがなさそうに首をひねっている。
 二人の話題は大学のことに移った。
「先生は帝都大学を卒業されたとか――
「初等課程だけですけどね。あなたは?」
「私はフロクシリア大学です。中等課程まで。先生のご友人で、こちらのご子息のライオネル・ジュネ先生は同じ大学の先輩に当たるんです。お名前だけは母づてに子供の頃から存じてたんですが、まだ一度もお会いしたことがないのが残念で」
 と、ダーリアがやけに熱の入った言い方をするので、アレクセイは不思議に思って訳を聞いた。すると、ダーリアは意外そうに、
「ジュネ先生は、フロクシリア大学出身の研究者としてはおそらく最も有名な方ですよ」
 と言った。アレクセイも意外な話に目を丸くした。
「そ、そうなんですか?」
「ジュネ先生はフロクシリア大学の最終課程を、過去最短の一年と八ヶ月で修了なさってるんです」
 本来なら三年間で修める課程である。ライオネルはそれをほぼ半分で終えたのだとダーリアは説明した。
「その後は若くして帝都大学で研究室を持たれて、素晴らしい論文をいくつも発表されています。研究者を志す学生なら憧れずにはいられないような経歴ですもの」
「へーえ――あのライオネルがね」
 アレクセイの知るライオネルといえば、大学の雑務と研究費獲得に追われ、お偉いさんには頭が上がらない、どうにもパッとしない教員といったところである。しかし世間の目はそうは見ていないらしい。
(もう長い付き合いのつもりだったけど、案外僕って彼のこと何も知らないのかもしれない)
 と、アレクセイは神妙な気持ちになった。それと同時に、ふと気が付いた。
「ダーリア、もしかしてあなた、本当は研究者を目指してたんですか?」
 と尋ねられると、ダーリアは、ためらいがちに首を縦に振った。アレクセイに打ち明けたいという気持ちが、体面を守ろうとする気持ちに勝った。
「ええ」
「あの、専攻は何を?」
「生体魔術を」
 どきり、
 とアレクセイの胸が大きく鳴る。イリヤの思い出が脳裏をよぎった。
 ダーリアは少し悲しげな表情で語り出した。
「私は勉学の方はあまり得意じゃなかったんですが、魔術の実験は好きで――幸い大学では恩師に恵まれて、最新の研究に触れさせてもらいました。ご存知ですか? 今や人体における魔術の影響も細胞レベルで論じられているんですよ」
「細胞説の本や『生物の自然発生説の検討』は一度読んだことがありますが」
「恩師は、ぜひ最終課程に進んでほしいと――できれば十二分に設備の整った環境で研究を続けてほしいと言ってくださったんですが、結局私はその期待にも応えられませんでした。魔術師としても研究者としても中途半端なままで」
「ダーリア――
 アレクセイはダーリアを慰めてやりたいと思ったが、上手い言葉が見つからない。
 考えあぐねて、水煙草の煙をのろのろと呑んでいたら、煙の味がだんだんといがらっぽくなってきた。アレクセイが咳き込むと、ダーリアが様子を察して言った。
「ああ、先生、煙が器の中に溜まっているんですよ」
 と、ガラス瓶を指し、アレクセイに吸い口から軽く息を吹き込むようにと教えた。そうすれば、管の先の金属パイプに空いた穴から古い煙が抜ける。
 アレクセイは教えられた通りにした。
「そういえばダーリア、あなたもやっぱり愛煙してるクチなんですか? 随分詳しいですけど」
「愛煙というほどじゃありませんが、ときどき無性に欲しくなるもので。その水パイプもつい旅行鞄に押し込んで持って来てしまいました」
「げふ!!
 と、アレクセイはさっきとは違う意味でむせ込んでしまった。
「げほ、げほっ――こ、このパイプあなたのなんですか?」
「そうですが――大丈夫ですか? まだ煙が古かったですか?」
「そういうことじゃなくてですね、い、一応、僕は異性なんですから! 自分の喫煙具を簡単に貸したりしちゃいけませんよ」
「はぁ」
 ダーリアは別に気にしていないようだったが、アレクセイが照れているのにつられて少し赤くなった。
 この夜、アレクセイは初めてダーリアに好意を抱いた。
(いい子じゃないか)
 魔術師としても研究者としても進む道を見失って、身動きが取れないでいる彼女のために、何かできることがあればしてやりたいと思った。
 アレクセイは、その晩は近頃になくよく眠った。

12

 ライオネルは、アレクセイからの手紙を受け取った翌日には荷造りをして、秘書のソニアと研究室の学生に大学の仕事のことを頼んだ。
 ライオネルの代理で授業を任されたユメルという名の最年長の女学生が、
「先生、今度のお休みカミュ先生絡みなんですか?」
 と、なぜか嬉しそうに尋ねてきた。
「そういう言われ方をすると、まるで俺がいつもカミュ先生のために休暇を取ってるみたいに聞こえるんだが」
「違うんですか?」
「今度の休みは実家に帰る用事ができただけだ」
「論点がすり替わっていますわよ、先生」
「うぐ――ユメル、君はカミュ先生のファンか何かなのか?」
 あいつは外面はよくても中身はあれだぞ、あれ。と、ライオネルは心の中で付け加えた。
 しかしユメルは、分厚い眼鏡の下で頬まで染めながらかぶりを振り、
「いえ、私は先生方お二人の熱い友情に傾倒しているのです」
「?」
 友情に傾倒するとは一体どういう意味なのか、ライオネルは汲みかねて、
「友達がほしいのか? まあ、君にもそのうちいい研究者仲間ができるさ」
 と、ピントのずれた返事をした。ユメルは満足げににこにこしているばかりである。
「ともかくユメル、俺が不在中の魔術力学の授業を頼むよ。初等課程の男子部相手で大変だとは思うが――
「お任せください。喜んでお引き受けいたします」
 ユメルは面倒な仕事にも関わらず嫌な顔一つしない。
「ありがとう。君の研究もあるのに、仕事を増やしてすまないな」
「とんでもありません。今からとっても楽しみです。さっそく教材の準備をしますから、先生、今日お帰りになる前に添削してくださいね」
 と、うきうきしながら隣の学生居室にある自分の机に帰っていった。
 ユメルが出ていったのと、ほとんど入れ違いに来客があった。
 ライオネルは女学生のユメルのために執務室のドアを開け放していた。その開いたドアをノックする音がして、
「ジュネ君、入りますよ」
 と、のんびりした調子の四十男が部屋に入ってきた。生物魔法学研究室の室長シモンであった。シモンはベストの上に白衣のラボコートを羽織っただけの簡素な姿で、ライオネルに招き入れられるままに執務机の前に立った。
「面会の予約もせずに、すみませんね。近くに来る用事があったものですから、ついでにと思って」
「いえ、今ちょうど手が空いたところですから。何か御用で?」
「用というほどでもないんですが、ちょっと世間話でもさせてもらっていいですか」
 シモンは応接椅子に腰を下ろし、骨と皮ばかりのような細い脚の上に、いっそう細い両手首を乗せる。膝の上で両手の指を絶えず組み替えながら切り出した。
「ラフォン君の公開解剖、六月の第一週目になりそうですよ」
――まだ具体的な日付が決まらないんですか。ほぼ二ヶ月も会議に費やしておきながら」
「まあ前例のないことですから」
「執刀は?」
「医学部の方でするそうですが、我々近代魔法学部の研究者も見学はできます。詳細な報告書も後日公開されるらしいですよ。生体魔術に携わる者としては――ラフォン君の遺志を無駄にしないためにも――そこからなんとしてでも研究成果を得たいところです」
 シモンは急に困ったような顔になった。
「そんな大事な時だっていうのに、人手が全く足りていないんですよ、僕の研究室」
「先生のところは、最終課程の学生はいないんでしたっけ」
「いないんです。いや、本当は今年の四月に来てくれるかもしれないって話があったんですが――君の母校でしたよね、フロクシリア大学の先生が一人推薦してくださったんです」
「その学生は?」
「本人はうちを希望してくれてたみたいですが、どうもご家族に反対されたようで」
 しょんぼり、とシモンは肩を落とし、
「今年こそ新しい学生に新鮮な風を吹き込んでもらって、研究とか、授業とか、雑務とか雑務とか雑務とかを分かち合うつもりだったのに」
 ジュネ君、とライオネルに呼びかけてから腰を上げる。
「いい学生を知っていたら教えてくださいよ。まあ生体系のどこの研究室も、ラフォン君の解剖を控えて似たような状況だと思いますが、僕が一番に予約しますからね、僕が」
 と、シモンは言いたいことを言って、ひとしきり愚痴を吐き出すとすっきりしたのか、それだけで帰っていった。
 翌日の早朝、まだ夜も明けないうちにライオネルは身支度を整え、駅馬車に乗るためゼルコバ駅へ向けて出発した。
 東の空が白む頃に駅に着き、駅員に聞くと東部行きの馬車は定刻から一時間ばかり遅れるという。ライオネルは待合室の長椅子に腰を下ろして大人しく待つことにした。
「旦那、朝刊いかがですか?」
 と、新聞売りの少年が差し出してきた朝刊を買い、夜明けの薄暗い室内で暇つぶしにそれを読んだ。ライオネルが買ったのはプラム紙であった。一面は政治家の汚職を追求する記事で、それを流し読んでから社会面、経済面、学術面と順に目を通していく。
 経済面には、外国でまた新しい鉄道会社が開業したという記事が載っていた。帝国の外では、国内の全ての都市を繋ぐほど鉄道網を発達させた国も珍しくない。燃料となる資源の乏しいこの国では、まだそこまではいかないが、帝国南部地方にある貴金属の鉱山では物資の運搬用に蒸気機関が使われていると、ライオネルは聞いたことがある。
(いずれはこの駅も鉄道の駅になるのかもしれないな)
 馬車より速い鉄道なら、実家に帰るのに二日も三日もかけることもなくなるだろう。郵便もずっと早く届くことになるはずだ。
(仕事が忙しくなりそうで困る)
 と、ライオネルが現実的なことを考えていると、さっきとは別の少年が新聞を売りにきた。
「何がある? プラム紙は今読んだばかりなんだ」
 とライオネルは少年に尋ねた。
「ええとマンダリン紙と、経済紙ならオークラ紙、ゴシップがお好みならバードック紙とシュターク紙があります」
「バードック紙をくれないか」
 ライオネルはアレクセイのことが気になって、ゴシップ紙を一つ買った。
 広げて見ると、一面にでかでかと扇情的な見出しを掲げていたのは、プラム紙と同じ政治家の汚職についてだった。もっともこちらは、政治家が某有名女優と不倫関係にあったとか、豪華な別荘に金をいくら使ったとか、前身である帝都大学教授時代の素行とか、そういう話ばかりだったが。
 二面、三面としつこく同じような記事が続き、最後まで読んでも、アレクセイの名前はもうどこにも出ていなかった。ライオネルは安心したのと同時に、
(イナゴ共め)
 と腹の内で毒づいた。神が東風に乗せて異教徒へ差し向けたイナゴの大群は、地上の植物という植物を喰らい尽くして去った。一つのネタを徹底的に食い尽くしては、また新たなネタを見つけて一斉にそれに群がる新聞記者はちょうどイナゴのようだ。とライオネルは思ったのだった。
 発車の時刻が近づいてきて、待合室から外へ出ると、地方から朝一番に上ってきた馬車が停車するのが見えた。降りてくる乗客には記者らしい姿の男も何人か交じっている。汚職事件のネタの方が儲かると見て、新聞社に呼び戻されたイナゴたちだろうか。
 遠くから馭者の吹くラッパが聞こえた。東部行きの馬車が到着を知らせていた。
 ライオネルは荷物を車掌に預けると、馬車に乗り込んだ。

13

 黒獅子城のお茶の時間は午後四時ちょうど。本当か嘘かわからないがそれ以外の時刻であったことは一度たりともなく、執事のエヴァンが語るところによると、もう何代も前からそうなのだという。
 鮮やかな東国風の赤い織物を敷いたテーブルに、絵付けで異教の神々が描かれたティーセットが支度され、パン、バター、ジャム、缶詰のイワシ、レタスやトマトといった野菜、モリーユ、ケーキ、カスタードなどが並んでいる。
 テーブルを囲む席には、アレクセイ、ダーリア、セレスタンの三人が着いていた。リオンティーヌは、今日は大教会での仕事があるからと言って市街へ下りている。
 三人はそれぞれに紅茶や軽食へ手を伸ばして食べた。セレスタンが、パンの上に野菜やイワシを乗せてサンドイッチを作りながら言った。
「そういえば、ついさっき郵便屋が来てね」
「僕宛ての手紙があったでしょうか」
 とアレクセイは尋ねた。
「レオからの手紙があったよ。エヴァンが部屋へ届けてくれているだろう。もう一通、私とリオンティーヌにも寄越してくれたんだが、五月十八日の朝一番の駅馬車でこちらへ来るそうだよ」
「ええっ」
 とアレクセイは驚き、
(彼まさか僕の手紙を読んで――
 確かにライオネルに宛ててしたためた手紙には、ダーリアのことを相談したいとか、会いたいとか書いた覚えがあるが、さすがに本当にすっ飛んで来てくれると思っていたわけではない。
 アレクセイが言葉を失っている隣で、ダーリアが無邪気な声を上げた。
「ジュネ先生がいらっしゃるんですか? 嬉しい」
「そう言ってくれると私も嬉しいよ、ダーリア」
「あの、おじ様、ライオネルはどうしてまた急に。大学での仕事だって忙しいでしょうに」
 と、アレクセイはセレスタンに聞いてみた。
「なんでも夏に大きな研究会があって、そのために今年は長い夏季休暇を取得できそうになくて大学から叱られるというので、いくらか暇のあるうちに休んでおくつもりだと、そう書いてあったよ。君たち二人がいる間なら、この山奥の実家でも退屈はしないだろうからね」
 とセレスタンは答え、それからダーリアへ話の矛先を向けた。
「ダーリアはレオと会うのは初めてだったね?」
「はい。あの、どんな方かお聞きしても」
「皆私にそっくりだと言うよ、顔だけはね。性格はリオネ譲りだと思う」
「奥様に」
「似たというよりは、母親とケンカをするうちにたくましくなったというか」
「お二人は仲があまりよろしくていらっしゃらないので――?」
「とんでもない。仲はいいんだ。揺るぎない愛情をお互い信じ合っているから、ずけずけと物を言い合っているんだよ。もっとも、今まで息子が白星を上げたことはないがね、私の記憶にある限りでは」
「それが愛情の発露だと仰るにしては、おじ様とおば様の方は滅多にケンカなんかしなさそうですけど」
 と、アレクセイがちょっと意地の悪い口を挟んだ。セレスタンはにこりと笑って言い返した。
「妻と夫の間には他にもいろいろの愛の伝え方があるんだ、アレクセイ」
 セレスタンの声には、穏やかだがまだ男を失っていない甘い響きがあった。聞いたアレクセイの方がどぎまぎしてしまって、返答に困った。
 お茶の後、アレクセイが自室に戻ると、机の上にライオネルからの手紙が置いてあった。その場で封を開けて読んだ。
 要約するとだいたい次のような返信である。
「別におまえに呼ばれたからじゃないが、休みが取れたから帰省する。間違ってもおまえに呼ばれたからじゃないが」
 アレクセイは便箋を丁寧に畳み、お守りでも身に着けるように大事そうにそれを上着の内ポケットへしまった。
 夕方から夕食までの時間は、ダーリアと二人で庭園へ出て過ごした。
「ダーリア、おまじないを一つ教えてあげます」
 と、欅の木の下に立ってアレクセイは言った。ダーリアも木の陰にいて、首をかしげた。
「おまじない?」
「第四チャクラでアストラル体を御す法です」
 アレクセイは、背を欅の幹へ預けた。
「こっちへ来て」
 とダーリアを呼び寄せる。彼女の目の前で両手を握り合わせ、剣の印を結んだ。
「先生それは――
 ダーリアは師以外の魔術を見ることに躊躇したが、アレクセイはさして気にしていないらしい。
「構わないでしょう。僕が父に教わったものですけど、正式な魔術じゃなく、たぶん父の考えた工夫なんだと思います。ほんのおまじない程度のものですから」
 アレクセイは呼吸を整え、剣印に意識を置いて胸のチャクラへ軽く魔力を込めた。体の内側から何かが染み出してくるような感覚が起こり、アレクセイはうっとりと目を弦月のようにして遠くを眺め、
「ダーリア――
 と、ダーリアの手に手を触れた。震えているそれを掴んで、いささか強引に間近まで引き寄せる。
「よく見ててくださいね――
 アレクセイは、色の薄い唇の形を少しずつ変えながら、奇妙なリズムの呼吸を繰り返し、自らの巨大なアストラル体を叩き、伸ばし、こねて、編んで、鍛え上げていく。その一つ一つを行う度にダーリアが震え上がり、息を呑むのがわかる。
 最後に、アレクセイはもう一度印を結び胸のチャクラへ魔力を込めると、アストラル体を体内へ押し込んだ。
――以上を、慣れれば最初と最後の印はなしで呼吸だけでも行えます。展開式でアストラル体を制する助けになるはずです」
 そんなに難しくはないでしょう? とダーリアを見やる。ダーリアは、その声ではっとして、アレクセイに握られていた形のまま持ち上げていた右手を引っ込めた。
「は、はい――たぶん――あの」
「ええ」
「あの、すみません、驚いてしまって――
 と、か細い声で言って、ダーリアはうつむいた。
「僕と“交歓”するということは、このアストラル体と交わらなくちゃならないってことですよ」
 と、アレクセイは静かに言った。
「怖くなりましたか?」
「別に、そんなことはありません」
 強がっているダーリアに、アレクセイは畳みかけるようにして問うた。
「ダーリア、あなた、これまでに“交歓”の経験は?」
―――
「大事なことです。本当に僕と交わろうというなら」
 ダーリアはうつむいたままで答えた。
「一度だけ」
「じゃあ僕の方が経験は豊富そうです。ただ僕は、女性とはしたことがないですけど」
 とアレクセイは告白した。
 ダーリアがこちらを見た。問いたいことがいろいろありそうな顔をしていたが、聞かないでいてくれた。
「先生」
「はい」
「私は――女でも、男ですらないんです」
「初めて会ったときも、あなたそう言っていましたよね。訳を聞かせてくれませんか?」
 アレクセイは辛抱強く黙って待った。が、ダーリアはついに口を開こうとしなかった。
 アレクセイは、諦めて、
「ごめんなさい、あなたを苦しめたいわけじゃないんです。無理に話せとは言いませんから――そろそろ戻りましょうか」
 と優しい調子でダーリアを促し、館へ帰った。帰るとすぐ、アレクセイは一人でエヴァンの元へ行き、明日以降、自分宛てにフロクシリア大学からの手紙があればすぐ教えてほしいと頼んだ。

14

 アレクセイも、ダーリアもなんとなく“交歓”のことを切り出せないまま、時間だけがゆるゆると過ぎていく。
 アレクセイ、ダーリア、ジュネ夫妻、エヴァン一家。それだけの人間で過ごす黒獅子城での生活は極めて穏やかなものだった。リオンティーヌやセレスタンは、アレクセイとダーリアを信頼しきっていて余計な口出しをしなかったし、執事の家族は親切で、使用人の職分をよく守っていた。
 アレクセイはダーリアに魔術や教義の解釈、詩歌などを教えた。反対にダーリアからは、学術や、動植物のことや、スポーツなどを教わった。
 慣れない手付きで馬の手綱を取り、彼女と二人で遠乗りに出たこともある。山のふもとを見下ろす高台から、二人でフロクシリアの市街を眺めた。と言っても、アレクセイは腰が引けて崖の近くまでは行けず、ダーリアが巧みに馬を繰って崖縁に立つのを見ていた。
 天地の明るく開けた景色に、漆黒の馬と黒い紳士服を着たダーリアの姿がくっきりと浮かぶ。長い髪が風になびいていた。
(綺麗だ――
 と、アレクセイは見惚れた。今見ている光景を、光彩に満ちたたくさんの色の絵の具で大きな絵画に残したいと思った。
「? どうかされましたか、先生?」
 と、ダーリアがこちらを振り向いた。アレクセイが沈黙しているのを気遣ってくれたらしい。
「ああいえ――怖くないですか? そんな高いところに」
「大丈夫ですよ。黒獅子城の馬は気立てのいい馬です。人間の方が怖がらずに信じてやれば、彼らもどんな場所でも恐れません」
 ダーリアの表情は明るい。アレクセイが初めてここへ来て会ったときよりも、今はずっと生気に満ちて、笑うことも増えたようだ。
「アレクセイ、あなたのおかげよ。ダーリアが近頃随分チャーミングになってきたわ」
 と、夕食のときリオンティーヌが皆の前で評した。満足そうな様子だった。
 隣席のアレクセイは困って、
「僕はまだ特に何もしていませんよ」
まだ﹅﹅ということは今後何かする予定があるのかしら?」
「そう言葉尻を捕まえないでください」
「ふふ」
 老夫人は若者をからかうのが楽しいらしい。今度はダーリアに矛先を向けた。
「アレクセイは優しくしてくれる?」
「え? え、ええ、先生には親切にしていただいてます」
 と、ダーリアも気恥ずかしそうに答えた。
「あなたの可愛らしい姿が見られて嬉しいわ、ダーリア」
 リオンティーヌが言うと、
「私もリオネと同じく嬉しいよ」
 と、向かいに座っているセレスタンも言い添えた。
「君やアレクセイが元気でいてくれることが、私たち夫婦には何より嬉しいんだ。魔術師としての問題は難しいことだろうけれど、ゆっくり考えればいい。私たちはいつまでも君たちの味方だよ」
「そうよ。何かを成すのに人より時間がかかっても、その分長生きすればいいの。三年余計にかかったら、人より三年は長くしぶとく生きるのよ」
 リオンティーヌは笑い飛ばすように言って、それから、
「ところで」
 と話題を変えた。
「明日、十一時の駅馬車でレオがこっちに着くのだけど、あなたたち二人で迎えに行ってくれない? こちらから二輪馬車で行って、帰りは貸し馬車を一両借りて二両で帰ってくればいいわ。どう?」
「私は構いません」
 と、馭者役のダーリアが承知したので、それで決まった。アレクセイには断る理由もない。それに、町へ行きたい用事もあった。
「ダーリア、もしよければ少し早めに出発しませんか。ちょっと市街に寄りたいんですが」
「いいですよ。どちらへ?」
「いえあの、僕も煙草を買おうかなと思って――いつもあなたの分を分けてもらってるのじゃ悪いから」
「でしたら、私が行きつけている店にご案内します」
 そういうことになった。
 翌朝、朝食を終えるとすぐ二人は支度をした。ダーリアが客室のある二階から下りてくると、廊下で、アレクセイがエヴァンの息子に朝届いた郵便物のことを尋ねていた。浮かない顔をしているところからして、近頃待ちわびている様子の便りはまだ届かないらしい。
 アレクセイとダーリアは合流して出発した。身軽な二輪馬車でうねる山道をどんどん下り、半時間もすればふもとが見えてくる。
 都市部の近代的な建物と、東国風の赤い柱や青銅で彩られた建物とが入り交じるフロクシリアの町並みは、晴れた空の色と美しい対照を成している。市街の中まで入ってよく見ると、近代的な建物でも帝都のそれとは違い、東国の獣や神々を象った装飾が多い。
 道路を歩いている土地の人々は皆黒か茶色の髪をして、男性も女性も背が高く、聞こえてくる言葉の訛に特徴がある。
「姿は同じようですが、訛が強いのは東国の人やその二世三世です。古くからこの土地に根付いている人たちは訛が少ないんです」
 とダーリアが教えてくれた。
 目的の店は、フロクシリアの市街でも下町的雰囲気の漂う小さな商店や工房の集まった街角にあった。馬車を店の下働きの少年に預け、アレクセイはダーリアと連れ立って店内へ入った。
 近代的な外装に反して、店の中は東の匂いに満ちている。香のような、香辛料のような刺激的な香りの奥で、太った店主が二人を迎えた。店主には強い訛りがあった。
「おや、お久しぶりで、スルトさん」
「ご機嫌よう」
 と、ダーリアは帽子を脱いで挨拶し、それからアレクセイを紹介して、店主に事情を話した。
「水パイプをお求めで。そりゃあ、ありがとうございます。卓上用でしたら、この辺りが最近入ったばかりの物で。都の方でしたらいいお土産にもなりますよ」
 店主は、店のショーウィンドウに面した一角にずらりと並べた水パイプを指差して言った。他にも金属製のパイプなど、珍しい喫煙具が揃っている。
 水パイプは容器がガラス製の物、陶器製の物とさまざまな種類があり、どれも色、装飾とも美しい。アレクセイは思わず屈み込んでそれらに見入った。
「どれも綺麗だ――店ごと買い占めたくなりますね」
「願ってもない話ですなぁ」
 と店主は笑った。アレクセイも笑いながら肩をすくめた。
「僕が宮仕えの薄給取りでなけりゃの話ですけどね」
「先生、これなんていかがです?」
 と、脇からダーリアの手が伸び、淡い青磁色の陶器でできた水パイプを取り上げた。アレクセイの眼鏡にもかなう品だったらしく、
「ああ、いいですね。まさか本物じゃないでしょうけど、青磁風にしてもいい色です」
「ちょうど先生の目の色と同じだと思いました」
 とダーリアは言った。手にした水パイプをアレクセイの顔の高さまで掲げ、
「やっぱり。綺麗な翡翠色」
 と、顔をほころばせる。アレクセイはくすぐったそうに睫毛を伏せた。
「そう言われると欲しくなるじゃありませんか」
 それで心が決まり、ダーリアの選んでくれた青磁色の水パイプを買って、後で黒獅子城まで届けてくれるよう頼んだ。煙草の葉は、アレクセイの好みを聞いて店主が見繕ってくれた。
 ダーリアが、ついでに実家へ届ける煙草を頼むというので、アレクセイは一足先に外へ出た。店の脇に停めた馬車のところで退屈そうにしていた下働きの少年にチップを渡し、ダーリアを待っていたとき、
「あらぁ、金髪さんじゃないの。ハーイ、ご機嫌いかが?」
 と、急に頭上から甘ったれた声をかけられた。

15

 通り沿いの建物は、たいてい一階が店舗や工房、二階以上は商人・職人たちの住居や下宿、安価な集合住宅になっている。
 煙草屋の向かいの建物は金物屋で、二階の薄いカーテンの掛かった窓が開いており、そこから女が一人こちらを見下ろしていた。三十から四十歳の間くらいといった容貌だった。化粧はしていなかったが、なんとなく派手な感じがした。
 女はカーテンを避けて窓から身を乗り出してきた。
「ここらじゃ見ない、様子のいい男ねぇ。ちょっとぉ、あなたのことよ、そこの煙草屋の前にいる」
 と、アレクセイにやたらと絡んでくる。
 女は黒髪を掻き揚げて、胸元のはだけた寝間着へだらしなく垂らし、まだ昨夜の酒が抜けきらない調子で喋っていた。いかにも、夜の仕事を終えた水商売の女という風で、
(いやだな――
 とアレクセイは無視を決め込んだが、女の方が放っておいてくれない。
「どこから来たの? 観光客? 今夜暇なら店に来ない? 銀狐通りのカクテルハウス『青林檎』のポリーヌを訪ねて来て頂戴よ」
―――
「そうむっつりしてないで、気の利いた断り文句くらい聞かせてほしいわね」
 アレクセイがすっかり辟易して困っていると、折よくダーリアが煙草屋から出てくるのが見えた。
「お待たせしました」
 と言いながら馬車の前まで来たダーリアは、アレクセイがもじもじしているのと、向かいの建物の窓から顔を出している女を交互に見て、
「何かあったんですか?」
 と、アレクセイに尋ねた。
「あの、ええと、あのご婦人ちょっと酔ってるみたいで」
「ああ――なるほど」
 ダーリアはうなずくと、向かいの女に向かって、はっきりした声で言った。
「不埒な真似をするとそちらの下宿のおかみさんに訴えますよ」
「まあなによ、いけ好かないやつ」
 と女はダーリアに悪態をついたが、痛いところを突かれたらしく、それだけで部屋に引っ込んでしまった。
 ダーリアはアレクセイを促して馬車に乗せた。自分も隣に座って馬の手綱を取る。
「ありがとう、ダーリア」
 アレクセイは、ばつの悪そうな顔でお礼を言った。
「情けない話だと思われるでしょうけど、僕はどうもああいう場面が苦手で」
「私もあの手の人は怖いです」
 そう言われると、ただ黙っていた自分が余計弱虫に思えてアレクセイは恥ずかしかった。
 二人は大通りへ出て駅を目指した。二輪、四輪の馬車が何台も行き来する中を、ダーリアは臆せず手綱を操っていく。
 駅に着いたとき、アレクセイが懐中時計を見ると十一時を十分ほど過ぎていた。が、ライオネルの乗った駅馬車は遅れており、まだその姿はない。
 結局、駅馬車が到着したのは十二時に近くなってからだった。
 ただでさえ背の高いライオネルは、シルクハットなどかぶると周囲より頭二つ飛び出しているからすぐに見つかる。待合室にその姿が入ってくるなり、アレクセイは長椅子から腰を上げて、弾んだ声で居場所を知らせた。
「ライオネル」
「なんだアレクセイか。おまえが迎えに来てくれたのか」
「なんだってことはないでしょう。久しぶりに会えたのに」
「エヴァンは?」
「執事さん親子は、あなたが帰ってくる支度でいろいろと忙しいんですよ」
 アレクセイはダーリアの方を振り返り、
「彼がライオネルです。あなたの会いたがっていた。ダーリア」
 と紹介した。次にライオネルへダーリアを紹介する。
「ライオネル、彼女がダーリア・スルトです」
 ダーリアがいささか緊張した面持ちで帽子を脱ぎ、ライオネルを見上げる。ライオネルも脱帽してダーリアに笑いかけた。
「君がスルト夫人のお嬢さんか。会うのは初めてだな」
「こちらこそお会いできて光栄です、ジュネ先生。あの、よろしければダーリアとお呼びください」
「よろしく、ダーリア」
 ライオネルはダーリアの手を捧げ持って丁重な握手した。
 三人は二両の馬車に別れて黒獅子城へ帰った。一両はダーリアが馭者を務め、ライオネルが同乗した。もう一両は貸し馬車を借りて、アレクセイがライオネルの旅行鞄とともに乗り込んだ。
「へえ、フロクシリア大学出身か。じゃあ後輩だな。俺もそうだよ」
 道々、ライオネルは知り合ったばかりのダーリアと当たり障りのない自己紹介をし合った。
「先生のお噂はかねがね」
「ろくな噂じゃなかっただろう」
「とんでもありません。噂というよりは伝説のようでさえありました。未だに先生より早く課程を修めた学生はいません」
「そんないいものじゃない。学費を払う金がなくてやむにやまれずさ――ダーリア、君、専攻は何だ?」
「生体魔術です。サリニー先生の生物魔術分析学研究室でした」
――もしかして、帝都大学のシモン先生の研究室に紹介された学生というのは君のことかな」
 と、ライオネルは思い当たって言った。
 ダーリアはちょっと驚いた顔をしたが、
「そうです」
 とうなずいた。
「サリニー先生は随分熱心に推薦してくださいましたし、シモン先生もぜひにと仰ってくださったんですが――
「君は? 帝都大学に来て研究を続けるつもりはないか?」
――いえ、もうお断りしたことですから」
「論点がズレてるぞ。君の意思はどうかと聞いてるんだ」
―――
 ダーリアが押し黙ってしまったので、ライオネルは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「すまん。どうも俺は物の言い方がまずいらしい。アレクセイになんかよく文句を言われる。理詰めで話すのはやめろってな」
「お謝りになることじゃありません、私は気にしていませんから。それより、お話には聞いていましたが、本当にカミュ先生と仲がよくていらっしゃるんですね」
「よしてくれ。腐れ縁のようなものさ」
「でもジュネ先生のことをお話になるとき、カミュ先生はいつもとても優しい雰囲気で」
「そういえば、君こそアレクセイとはどうだ? 少しは親しくなれたかい」
 と、ライオネルは話題をそらすように言った。
「はい――カミュ先生は親切にしてくださいます」
 とダーリアが答え、文句こそありきたりだったが、頬を淡く染め、声には恥じらいがこもっていた。
(おやおや)
 君こそ随分な様子でアレクセイについて話すじゃないか。とライオネルはからかいたくなったが、知り合って間もないことでもあるし我慢した。
「アレクセイのやつも手紙に君のことを書いて寄越してきたよ」
「変な法友に出会ったとでもお書きになったのでしょう」
「いや、君のことを心から気にかけて心配してるようだった」
 ダーリアの頬が桜色から薔薇色に変わる。
 これはアレクセイによくよく話を聞く必要がありそうだ。と、ライオネルは思った。

16

 久しぶりにライオネルが帰省した黒獅子城では、まずジュネ夫妻が、次に使用人一家全員が代わる代わる城の跡取り息子を腕に抱いて出迎え、いつにも増して賑やかになった。
「皆さんに愛されて育ったんですね、ライオネル」
 と、アレクセイが羨むように言った。
 アレクセイとライオネル、それにダーリアの三人は居間で簡単な酒食を取りながら夕食を待っていた。ダーリアだけが、他の二人から少し離れて、なんとなくおかしそうな顔で彼らを眺めている。容姿も性格もちぐはぐなのに気だけは合う二人の様子が興味深いらしい。
 頭の先から足の先まで黒づくめのライオネルが、対照的に淡い色の三つ揃いで身を包んだアレクセイを見下ろして言った。
「親父にお袋、エヴァンにエヴァン夫人に息子のセルジュ、小言も五人前だったってことだ」
「どうせ、あなたがやんちゃなことばっかりしてたからでしょう」
「ふん」
「図星だ」
 くすくすとアレクセイが笑う。屈託のない笑顔だった。
「帝都にいた間よりだいぶマシな顔つきになったな、おまえ」
 とライオネルは気付いて言った。アレクセイは、きょとんとして、
「そうですか?」
「そうだよ。まあ、いいことだ」
 ライオネルが、ふいにダーリアの方へ視線を向ける。アレクセイもそれを追い、離れたところにいる彼女を見つけて呼んだ。
「ダーリア、そんなところにいないでこっちへ来たらいいのに」
 ダーリアは素直に近寄ってきた。
 アレクセイなりに、ライオネルとダーリアが親しくなれるよう気を遣っているらしい。
「そうだライオネル、あなた撞球できますよね?」
「うん? ああ、多少は」
「じゃあ食事の後でダーリアと一勝負してあげてくださいよ。僕のような初心者相手じゃ、赤子が手を捻られるようなことにしかならなかったから」
「君、強いのか?」
 と、ライオネルに聞かれ、ダーリアは珍しく自信ありげに微笑んだ。
「試してご覧になってください」
「ダーリアは剣術や馬術も得意なんですよ。僕も二十年ぶりくらいに乗馬を教わりました」
 とアレクセイが言い添える。
 ライオネルは感心してうなずきながら、意味ありげな目線をアレクセイに向けた。が、アレクセイの方はわかっていないようである。
 ちょうどそのときジュネ夫妻が揃って居間に現れ、じきに夕食が始まった。エヴァン夫人がライオネルのために作った料理は、子牛の頭のスープ、ヒラメ料理、セレスタンが切り分ける塊の子牛のロースト、茹でたマトン、冷製の料理、林檎のパイやクリームに至るまで、いつもに増して腕によりをかけた物ばかり。エヴァンの息子が注いで回るワインも上等だった。
 食後、五人は球戯室に移り、リキュールと煙草でくつろいだ。
 ライオネルとダーリアは撞球で三番勝負をして、うち二戦をダーリアが、一戦をライオネルが制した。
 ダーリアが先攻を取った二戦目は、ライオネルは一度も球を突けずに投了したほどである。ダーリアは長いキューを支える上半身をすらりと台上に伸ばし、赤球、黒球と交互にポケットへ落として得点を重ねていく。
(こうして見ると、確かに婦人らしからぬ身ごなしなんだよな)
 と、ライオネルはダーリアの後ろ姿を眺めながら思った。ダーリアは上着を脱いで動きやすいベスト姿になっており、肩のいかった形が際立っている。腰が細く、お尻まで小さくまとまって少年のような背中をしていた。
「ちょっと」
 と、アレクセイがうんと潜めた声でライオネルを呼び、忍び寄ってきて脇腹を指でつついた。
「なに変な目つきしてるんですか。スケベだなぁ」
「ばか。そういう目で見てたわけじゃない」
 夜も更けてくると、ジュネ夫妻とダーリアは自室に戻り、アレクセイとライオネルが二人きりで球戯室に残った。ダーリアに負けたのが悔しかったらしいライオネルは撞球台に張り付いて球を突く練習をしていて、アレクセイはそばの喫煙席に座り、昼間さっそく街から届けられた自前の水煙草を吸っている。
「おいアレクセイ」
 と、ライオネルが撞球台を見つめたままで言った。
「なんですか」
「おまえ、ダーリアに気があるのか?」
 げほげほげほ!! と背後で激しくアレクセイがむせ込んでいる声がする。ライオネルはにこりともしない。
「どうなんだ?」
「どうって――ごほ、あなただって知ってるでしょう、僕は今まで女性と交際したことさえないのに」
「それとこれとは関係ないだろ。これまではこれまでだ。今おまえがどう思ってるかって話だよ」
「どうと言われても――
「ダーリアの方は、おまえに惚れてるぜ、あれは」
「冗談はよしてくださいよ!」
「冗談なもんか。まあ、たぶんだけどな」
 と言いながら、キューの先にチョークを塗る。
「この間手紙で聞かされたのとはだいぶ状況が違ってるらしいじゃないか」
「ダーリアの魔術について、どうにかしてあげなくちゃならないっていう状況は変わってないですけどね」
「期限の六月まであと一週間しかないんだぞ」
 ライオネルは、やっとアレクセイの方を振り返った。
「“交歓”してやればいいじゃないか。それで解決するなら」
「“交歓”がどんな思いのするものか、知らないあなたが口を出せることじゃありません」
 と、アレクセイは強い口調で言った。
「ライオネル、僕がダーリアに好意を抱いてるように見えるとしたら、もし本当に“交歓”しなくちゃならないときのために、少しでも彼女と親しくしておこうと思ってるからですよ」
 ただ――と言い淀む。ライオネルは首を捻った。
「ただ?」
「実際には彼女と打ちとけるほど――“交歓”なんてしたくない気持ちの方が大きくなってくるんです」
 アレクセイは、ダーリアが自分の目の色と同じだと言って選んでくれた水パイプから少し煙を吸い、糸のように細く吐き出した。
「できることなら、ダーリアに自力で立ち直ってほしいと思うんです。そのためなら何だってしてあげます。僕にできることなら――
「何だって、とはまた大きく出るじゃないか」
「“交歓”で魔術に目覚めても、その負い目が一生自分について回ります。そんな思い、しなくて済むものなら彼女にはしてほしくありません」
「ダーリアは、おまえとは違うかもしれないぜ」
「そ――それはまあそうですけど」
「おまえの言いたいことはわかる」
 ライオネルは撞球台へ身を乗り出し、キューを構え直した。
「で、俺は何をすればいいんだ?」
「あなたの頭脳を貸してくださいよ。ダーリアはおそらく、自分の性のことで何か悩みがあるんです。それが彼女の魔術に対する自信を妨げてるんです。それだけのことなんだと思います」
 ただ、それだけのことが人生まで左右しようとしているのだとアレクセイは言う。
 ライオネルは困ったように唸った。
「俺の専門は魔術物理だぞ」
「でもあなたなら、母校のフロクシリア大学につての一つや二つくらいあるでしょう? 僕も大学に問い合わせてはいますが、一向に返事が来ないんです」
――地方大学は学士院嫌い揃いだからな。仕方ない」
 結局、ライオネルはアレクセイの頼みを引き受けることになった。

17

「自分の性別に対して違和感を覚える疾患は、大別すると肉体的な疾患と精神的な疾患に分類される。肉体的疾患はいわゆる両性具有や、内性器と外性器の性別が一致しない状態などで、つまり体の方に異常が認められる。それに対して精神的疾患は、体は正常な男性あるいは女性だが、その性別に強い違和感を感じて日常生活が困難になるものだ」
 ライオネルはそこまで話してから、手元の帳面をアレクセイに渡した。ライオネルの几帳面な字でびっしりとメモが取られているページに、アレクセイは黙って目を通した。一通り読み終わると帳面を閉じ、隣席のリオンティーヌへそれを回した。
「あらアレクセイ、もういいの?」
「ええ、大丈夫です」
「そういえば、あなたは昔から物覚えのいい子だったわね。いつだったか連れて行った教会で、何百もある墓標を全部覚えてたときは目の玉が飛び出たわ」
 言いながらリオンティーヌは老眼鏡をかけて帳面のページをにらんだ。
 ライオネルは手元のコーヒーカップをソーサーごと持ち上げ、口元へ運んだ。黒々した水面から立ち上る強い芳香が味蕾まで刺激した。
「母さん、ちょっと煙草吸っていいか」
「だめよ。食堂は禁煙」
 と、リオンティーヌは帳面から顔も上げず一蹴する。
 ライオネルは不満気だった。一人遅い昼食を終えたばかりである。一昨日と昨日、今日とライオネルは母校フロクシリア大学へ赴き、うち丸二日は図書館にこもっていたし、今朝は朝早くから数名の教員を訪ねて回った。疲れた顔をしている。
 執事のエヴァンがライオネルにコーヒーのおかわりを持って来て、
「坊ちゃまもお疲れでしょう。このところ遅くまで書斎でお勉強なさっていたようですし」
 と慰めてくれた。エヴァンはすぐ台所に引っ込み、食堂には元のようにアレクセイ、ライオネル、リオンティーヌの三人だけになった。
 ライオネルは空になったコーヒーカップをテーブルに置いて、言った。
「さっき俺は疾患と言ったが、見てもらった覚書きにもあるように、これは完全に医学的な問題だ。性自認に関する疾患は肉体的なものにしろ精神的なものにしろ、魔術的な現象とは全く関係ないというのが主な見解だそうだ」
「ようするに、中世の昔のように悪魔の仕業だの霊的な力がうんぬんだのというのは、ただの迷信だってことですね」
 とアレクセイが言った。
「そうだ。現在の生体魔術の研究では、生体内の魔術的機構は男女の性によらないことがわかっているし、逆にそれが性別に影響を与えることもないと言われてる」
「フロクシリア大学でそういった研究に就いていたのが――
「ダーリアの恩師サリニー教授というわけさ」
「彼女が生体魔術の専攻に進んだのは、もしかすると」
「自分のことを知るためだったのかもな。ただ、俺がサリニー先生に会って話した限りでは、ダーリアは在学中、先生に自分の性別について相談したことはないようだ」
「ダーリアの問題が医学的なものだとして、肉体的な問題なのか、精神的な問題なのか、どちらなんでしょう。ダーリアは、自分を男女のどちらでもないと言うんです」
「それだけじゃなんともな」
「結局ダーリアのことは何もわからないんじゃありませんか」
「問題を整理することに意味があるんだ」
 ライオネルは、右手の指を人差し指から順に立てながら説明した。
「重要な点は三つだ。一つはダーリアの外性器を含めた外見の性別。二つ目は内性器の性別。三つ目は彼女自身の性自認――俺たちは彼女﹅﹅と呼んでるが、本当はなのかもな」
 ライオネルは椅子の脇に避けてあった鞄からペンとインクを取り出し、リオンティーヌから帳面を返してもらって、新しいページに1から3まで数字を書いた。
「とりあえず三つ目に関して、当人は『男女どちらでもない』と言ってる。ただし本心かどうかは不明だから、仮としておこう。あとの二つは――
「ダーリアには月のものが来ていないわ」
 と、リオンティーヌが出し抜けに言った。アレクセイとライオネルが揃って、ぎょっと目を剥いたが構わず続ける。
「ひと月も一緒に暮らしているのに、それらしい様子が一度もないもの。まさか妊娠してるとも思えないし。なんだったらエヴァン夫人にも聞いてみるといいわ」
――つまり、内性器が男性、あるいは女性だが機能していない状態だと」
 ライオネルは、二の項にそのように書き付けた。
「母さん、外見に関してはどう思う?」
「そのことなんだけれど、確かダーリアが幼い頃から何度も、あの子の母親が――
 リオンティーヌは額に手を当て、古い出来事を思い出そうと遠くをにらみつけている。
「あの子の母親は、ダーリアのことを天使のようだと熱心に繰り返していたのよ。それは我が子可愛さで比喩的にそう呼んでるのだと思っていたけれど」
「天の御使いは完全なる体、つまり両性体です」
 と、アレクセイが後を引き受けた。
「我々黄金の契り派では、天の御使いあるいはそれに準じる姿となって天へ帰ることを至高なる魔術師のあり方とします。ダーリアの母親は、彼女が生まれたときから、彼女の魔術師としての才能を強く信じていたそうです。それは彼女の身体的特徴を見てそう思ったのかもしれません」
 ライオネルは帳面にそれも書き留めた。
「仮にダーリアが両性具有なんだとすると、周囲にそれを隠して生活を続けるのはつらいものがあるだろうな」

 1. 外性器は両性具有の可能性がある。
 2. 無月経である。内性器は男性、あるいは女性であるが機能不全。
 3. (仮)当人の性自認は男女どちらでもない。

 上のようにライオネルが書いたメモを見下ろしながら、アレクセイは浮かぬ顔をして言った。
「僕は初めて会ったときからずっと彼女を女性だと思っていましたし、両性かもしれないなんて正直なところぴんとこないんですが――これから彼女とどう接していけばいいんでしょう」
「今まで通りでいいさ」
 とライオネルは答えた。
「まだ確かなことがわかったわけじゃない。全部かもしれない﹅﹅﹅﹅﹅﹅仮に﹅﹅の話だ。仮説は往々にして現実とは合致しない。条件の限定や補正項を必要とするものだが、仮説があれば考える足がかりにはなる」
 それでとりあえず締めくくられ、三人の話し合いは一旦散会となった。
 ライオネルが帳面や筆記用具を片付けているそばにリオンティーヌがやって来て、ちょっと拗ねたような顔をして見せた。
「レオ、お父さんに聞いたわよ。あなた本当に五月中には帝都へ戻るの? 今日はもう二十四日よ。あと一週間しかないじゃないの」
「六月の頭に大事な行事があるんだ。来年はもっとゆっくり休むよ、母さん」
 ライオネルが廊下へ出ると、先に退室したアレクセイが待っていて、身を寄せてきた。
「ライオネル、さっきおば様と話してた大事な行事って」
「イリヤの公開解剖だ。俺は立ち会うつもりだが、おまえどうする?」
――まだ決めかねてます」
 と細い声で言って、アレクセイはうつむく。ライオネルはいつになく情のこもった声で慰めてくれた。
「ダーリアの方についててやりたいなら、それでもいいと俺は思うぞ。ところでおまえ、明日暇か? ダーリアはどうだ? 実は今日大学で、俺の恩師が余り物だからって金糸雀座のチケットを四枚もくれてな――

18

 『月影の誘惑』という題の、四人の若い男女を描いた短い恋愛歌劇は午後八時きっかりに終わって、フロクシリア最大の劇場である金糸雀座の赤い柱が立ち並ぶ玄関口はさまざまな階級の観客たちでごった返した。
 アレクセイもダーリアと肩を並べて、人波に乗りながら外へ出たところだった。ホールまで一緒だったライオネルは、
「脚本家が恩師の知り合いらしいんだ。挨拶して多少話に付き合うくらいはしなくちゃならん」
 と律儀なことを言い、二人とは別れて劇場に残った。三人で九時から食事をする約束をした。
 ダーリアが懐中時計を見るとまだ八時を四半時間も過ぎていない。
「だいぶ時間がありますよ。どうします?」
 とアレクセイに尋ねると、
「待ち合わせ場所は酒場なんでしょう? 先に行ってカクテルでも飲んでいましょうよ」
「では私もお相伴に預かります」
 二人は辻馬車を拾い、フロクシリアの繁華街へ繰り出した。
 フロクシリアで一番の繁華街といえば銀狐通りと通称される飲食店街で、夜になればそこらじゅう東国の色とりどりの燈火に照らされ、遅くまで客足が絶えない。特に観光客が多い。
 アレクセイたちは銀狐通りの中ほどにある『黄昏』という名前のカフェーに入った。店内いっぱいに客が詰めかけていて、ちょうど奥のカウンターの真ん中辺りを境に、労働者の客と中流の客とに別れていた。アレクセイとダーリアは中流側のカウンターの隅に身を置いた。
 給仕がカクテルとエール、バターを厚く塗ったパンの切れ端を運んで来てくれた。
「お芝居はどうでした?」
 アレクセイはカクテルに口を付けながらダーリアへ尋ねた。ダーリアはなんとも言えない顔をしている。
「普段ああいった演劇を観ないので、新鮮ではありました」
「恋の歌は嫌いですか」
「先生はお好きなんですか?」
――好きですよ」
 とアレクセイが答えると、ちょっと意外そうにダーリアの双眸が丸みを帯びる。
「恋をしていらっしゃるんですか?」
「いや、別にそういうわけじゃありませんが――恋の歌を聴いて感性を刺激される人間みんなが誰かを愛してるとは限らないでしょう」
「そういうものでしょうか」
 ダーリアはあまりぴんと来ない様子で、エールのグラスをちびちびと傾けている。アレクセイは、
「ダーリア、あなたこそ、素敵だなと思う紳士の一人くらいいないんですか?」
 と聞いてみた。
「先生は素敵だと思います」
「そ――れは、僕が言った素敵というのとは意味が違うんじゃないですか」
「そうかもしれません。ジュネ先生や先生のお父上、執事さんも、執事さんのご子息も皆さん素敵な紳士だと思います」
「そうじゃなくて、好きな人はいないんですかと聞いているんですよ」
「もう随分長い間そういった感情を覚えたことがありません」
 と、ダーリアは言う。
 アレクセイはダーリアの横顔をじっと見つめた。悩める心の中まで覗こうとするような視線だった。
 が、ダーリアは未だ硬い薄殻一枚隔てた向こうで身を守っていた。その殻を外から無理やり壊そうとすると、中にいるダーリアまで傷つけてしまうのではないかと、アレクセイは思った。
(そこから出ておいで)
 と念じてみる。どうやったらその言葉がダーリアに届くのか、今はまだわからない。
 あなたが女性でも、男性でも、それ以外だったとしても、僕たちの友情は何ら変わりませんよ。とでも言ってやればいいのだろうか。ライオネルがするように理路整然とした説明が必要? それとも僕が秘密を打ち明けたら引き換えに心を開いてくれる?
 アレクセイは煩悶しながら、ずっとダーリアを見ていた。
「あの――そんな目で見ないでください――
 とダーリアに言われて、アレクセイはようやく我に返り、
「えっ、あ、すみません――
 と恥じ入って下を向いた。ダーリアもうつむいていた。二人とも顔が赤くなっているのは必ずしもカクテルやエールのせいだけではなかった。
 アレクセイはベストのポケットから時計を出して開いた。蛇の尾を象った針は九時の少し前を指している。ライオネルの姿はまだ見あたらない。
 アレクセイが時計の蓋を閉じようとしたときだった。
「ちょっと金髪さん、今何時か教えてくださる?」
 と、脇から不意に声を掛けられ、アレクセイは反射的に、
「八時五十分です、お嬢さん」
 と返事をしてしまった。
 声を掛けてきたのは、いかにも娼婦らしい、襟ぐりの大きく開いたドレスの女で、視線を上げて女の顔を見たアレクセイは、ぎくりと肝を冷やした。娼婦の女は今夜は顔中に厚く白粉を塗っていたが、底意地の悪そうな目つきには見覚えがあった。
 アレクセイが何か言うより先に、娼婦の女もアレクセイの顔を思い出したらしく、
「あらぁいやだ」
 と、素頓狂な声を上げた。
「もしかしてこの間、うちの前の煙草屋のところにいた人? 奇遇ねぇ。ハーイ、ご機嫌よう。一人――ではないようね」
 娼婦の女はダーリアに気付いて、無遠慮にその顔を覗き込む。
「そっちの人もご機嫌よう」
「ご機嫌よう、お嬢さん」
 ダーリアは淡々と応じた。
「ああ、あなたこの前もこの人と一緒にいた」
 と、娼婦の女はダーリアの声で気が付いたらしい。
「なんだ、あなた女だったんじゃないの。この間は怖がって損したわ。ねえ、なんでそんな男の格好してるの?」
――私に構わないでおいていただけませんか」
「女に生まれたけど心は男ってやつ? 夜の相手に困ってるようなら、お金次第で相手してくれる娼婦も知ってるわよ。紹介してあげましょうか」
「違います!!
 とダーリアは、アレクセイも驚くくらい激しい口調になって反発した。
「私は男ではないし、どんな人間も買いません! 放っておいて――!」
「ダーリア!」
 アレクセイは思い切ってダーリアと娼婦の女の間に割って入り、
「落ち着きなさい――あなた」
 と、二人を順に見た。娼婦のふてぶてしい面構えを前に怯んでしまわないように、できるだけ静かな表情を作って言った。
「いきなり不躾じゃありませんか」
「ろくな躾もされずに育ったものですからね」
「彼女に無礼なことを言うと許しませんよ」
「あなた、この間は私が何を言っても、うんともすんとも答えようとしなかったくせに」
 と、娼婦の女は小馬鹿にしたような面をアレクセイに向けた。
「あなたたち恋人同士?」
――そうだと答えれば、もう僕たちに構わないでくれますか?」
「気に入らないわ。人を悪徳の町の使者でも見るような目で見てくれて」
「僕たちに構っていても、あなたは銀貨一枚だって稼げないんじゃないですか?」
「ねえ、あなたその娘の裸を見た?」
「いいえ」
 アレクセイはかぶりを振った。
「そう、この先がっかりするようなことにならなきゃいいわね。その娘まるで女らしさってものが――
 と娼婦の女がまた傲慢な口を利こうとするより早く、アレクセイは女に挑むように言った。
「彼女は今あるだけで完全です。何一つ足りないものなんてありません」
 ちょうどそのとき、給仕が三人のいる席へやって来て、
「お連れ様がお着きです」
 と事務的な調子で告げた。

19

「何かあったのか?」
 と、遅れて合流したライオネルは、開口一番怪訝そうに首をひねった。アレクセイとダーリアは揃って青ざめて身を固くしているし、見知らぬ娼婦らしき様子の女と一緒だった。
「失礼ですがどちら様で? お嬢さん」
 ライオネルは丁寧な言葉で娼婦の女に尋ねた。女は物怖じせず返答した。態度は大きいが、言葉の発音は下層出身者のそれではないなとライオネルは思った。
「私? ポリーヌよ。背高さん」
「ではポリーヌ嬢」
「今はただのポリーヌよ」
「ポリーヌ、俺の連れに何の用だ?」
「別に、ちょっと時間を聞いてただけよ」
 と、ポリーヌは肩をすくめて見せる。
「背高さん、あなただけ独り者なわけ?」
 言いながらアレクセイとダーリアにちらりと流し目をくれ、すぐにライオネルへ視線を戻した。
「よかったら、お友達との約束の後で、いかが? 私、あなたのような物をわかってそうな紳士の方が好みに合ってるわ」
「悪いが間に合ってる」
 と答えて、ライオネルは左手の薬指にはめたガーネットの指輪を示した。多少なりとも教養のある者ならその意味を汲み取れるはずである。
「あらあなた魔法使いの先生なの。しかも誰かに操を立ててらっしゃる? 構わないじゃない、指輪が怒るわけでもないし。ね」
「おい触るんじゃ――
 ポリーヌの細い手首がこちらの腕に絡んできそうになり、ライオネルは慌てた。その背中を不意にアレクセイがつつき、体を寄せて何事か手短に耳打ちした。
 ライオネルはやにわに厳しい表情になってポリーヌを見下ろした。
「君の店はここじゃなくて『青林檎』らしいじゃないか。人様の縄張りで客を取るのはいかがなものかと思うがな」
 ポリーヌは舌打ちでもしそうな品のない顔つきをし、
「余計なことを覚えてるのね、金髪さん」
 と忌々しげに吐き捨てる。ライオネルは諭すように言ってポリーヌを追い返した。
「君のために言ってるんだ。同業者から私刑にされたくはないだろう。さあ、もう行けよ」
 ポリーヌの姿が店内の人混みに消え、見えなくなった途端にアレクセイが、
「うう」
 と情けない声を上げた。
「ライオネル、もうちょっと早く来てくださいよ。怖かった――
「おまえな、もうじき三十にもなろうってのに、未だに水商売の女一人あしらえないのか」
「怖いものは怖いんだから仕方ないじゃないですか」
 ちょうどアレクセイが子供の頃、虫や蛙を怖がっていた様子とまるで同じだとライオネルは思った。さすがにあきれてしまう。
「それで、俺が来るまでダーリアに助けてもらってたのか?」
「助けられたのは私の方です」
 とダーリアが弱々しい声を出した。
「先生は私を庇ってくださいました。ジュネ先生、そんなにカミュ先生をお責めにならないでください――
「なんだ、そうなのか? アレクセイ」
「い、いえ、僕はものの役に立ちませんでしたし」
「そんなことはありません」
 と、ダーリアは言う。アレクセイと目が合うと、戸惑ったようにまぶたを伏せる。言葉のいずるより早く目が心を語ってしまうのを恐れているような、そんな風であった。
 予定通り三人は食事をして、夜遅くに黒獅子城へ帰った。
 日付が五月二十六日に変わろうかという頃、アレクセイが自分の客室で身仕舞いをしようとしていると来客があった。ドアを控えめに叩く音がした。
「誰です?」
 と尋ねると、
「ダーリアです。こんな刻限にすみません」
 という返事があった。
 アレクセイはほどいたタイを結び直し、ベストを着てからドアを開けた。
「どうしました? ダーリ――
 ダーリアの名前を呼ぼうとした形のまま、アレクセイはぽかんと口を開けている。
 ドアの前で待っていたダーリアは、いつもの紳士服姿ではなく、寝間着の上から羽織るような濃紫色のガウンを、前をきつく合わせて着ていた。その下に寝間着を着ているのかどうかアレクセイにはわからなかった。
「あの、カフェーでのことのお礼をちゃんと言っていなかったと思って」
 とダーリアは切り出した。
「あ、ああ、いいですよそんなこと。僕もライオネルが来てくれなきゃ、どうなってたことか」
「すみません、私のせいで先生にまで怖い思いをさせてしまいました」
「あなたが謝ることじゃないですよ」
「いいえ、申し訳ないです。私は不完全で足りない物だらけで、先生にあんなふうに庇ってもらえるような価値はないのに」
―――
「先生」
 と、呼びかける声が震える。
「先生、中へ入ってお話させていただけませんか?」
「いや、そ、それはですね」
 アレクセイはダーリアの格好を見て躊躇した。
「あなたの不名誉になるようなことは――もちろん僕に邪な気持ちは一切ないですけど、だけど」
「お願いします。こんな私でも嫌わないでくださるのなら」
「嫌うだなんて――
 そう言いながらも、アレクセイはぐずぐずしていた。だが、やがて腹が据わったのか、一方後へ下がってダーリアを部屋に招き入れた。鏡台の前の椅子をダーリアに勧め、自分はベッドの脇から小さな腰掛けを持ってきて座った。
 ダーリアは、アレクセイが膝の上で組んだ両手をじっと見つめていた。
「先生は、誰かに操を立てたりなさらないんですか?」
「僕ですか? 僕は別に――
 アレクセイが両手にはめている指輪は、父の形見と母からの贈り物、帝国学士院の印章、後は気分によって変わるが愛の証は一つもない。
「ジュネ先生は左の薬指がもう埋まっていました。心に決めた方がいらっしゃるんですね」
「彼は真面目ですから」
「私も心に決めた人がいました――といっても、子供の頃の話ですけど」
 二つ三つ数えるほどの、わずかな沈黙があった。
 その間に、ついさっきまでアレクセイの表情に残っていた困惑が消え、身を乗り出すようにしてくる。
「子供の――いつの話です?」
「寄宿学校に入るすぐ前の頃です。十歳から十二歳くらいの間でした。私は街の私塾に通っていて、そこでは男の子も女の子も一緒に勉強していました。私は毎日授業が終わると、同じ年頃の男の子に混じって剣術の真似事をしたり、ボール遊びをする子供でした」
 ダーリアはそこで一度言葉を切った。アレクセイは何も言わず、小さく相槌を打って先を促してくる。ダーリアは先を続けた。
「私は、自分は本当は男の子なのかもしれないと思い始めていました。男の子と遊ぶ方が楽しかったからです。特に遊び仲間の中でも一番剣術の得意な子がいて、その子と一緒にいると幸せな気持ちになりました」
「その男の子のことが好きだったんですか?」
「初めはそうは思っていませんでした。自分はきっと男の子だから同じ男の子と一緒にいたいんだ、と――でも、彼らは一緒に遊んではくれても、私を本当に男の子の仲間には入れてくれませんでした。男の子には男の子だけの秘密があって、その話をするのは決まって私のいないときでした」
 ダーリアはそのことがつらくて、次第に男の子と遊ぶのを避けるようになったのだと言う。
「そんなとき、例の剣術の得意な子だけが、私に会いに来てくれるようになりました。その子は、私が剣の稽古にちょうどいい相手だからだと言いました。私は――今度は女の子として、その男の子にだんだんと惹かれていきました」

20

「私は女の子の方の仲間にもあまり入れてはもらえませんでしたけど、女の子は男の子と違って秘密の話も聞かせてくれました」
 苦笑いでもするようにダーリアの眉が八の字になった。
「先生、ご存知でしたか? 女の子には二種類の秘密があるんです。一つは他人に話してもいい秘密。もう一つは本当の秘密で、これは女の子同士でも滅多に打ち明けたりしないものです」
「初耳ですよ」
 とアレクセイは答えた。
「それで、ダーリア、その男の子とは――?」
「私は、女の子たちが秘密の話で教えてくれるささやかな恋の話を聞いて、自分の感情も彼女たちと同じものだと思いました。その男の子が会いに来てくれて私は嬉しかったですが、彼は私と会っていることを必死に隠そうとしているようでした」
「なぜ?」
「私と遊んでいると知られたら、他の男の子に笑われるからです」
 ダーリアは悲しそうに微笑んだ。
「それでもよかったんです。その子さえいてくれれば――でも、そんな関係は長く続きませんでした。私塾の最高学年になった年の冬のことです。彼は、同級生の女の子と交際するようになっていました。交際と言っても、子供のそれですけどね」
「そんな、あなたがいたのに。ひどいじゃありませんか」
「私たちは男女として付き合っていたわけじゃありませんから――でもそのことがあって、私も初めて自分の気持ちを伝えたんです」
「彼は何て?」
「なんとも。ただ、困っているようでした。私は、彼に、一度だけでいいからキスしてほしいと言いました。それでも、彼は困っているばかりで――私は、キスしてくれるなら何でもしてあげると言ったんです。彼の望みはお金でした」
―――
「ちょうど降誕祭が近くて、彼は交際相手への贈り物を買いたかったそうです。私はちょうどそのとき、母からお遣いを頼まれたお釣りを持っていました。それを渡すと、彼はほんの少し触れるだけのキスをしてくれました。そのときは嬉しくて、悪いことをしたとは思いませんでした――
 そこまで語ると、ダーリアはうつむいた。長い黒髪が垂れて顔を覆った。
「家に帰ってから、母にお金のことを咎められて、全て打ち明けると酷く叱られました。人から春を買うような人間に育てた覚えはないと言って。二度とこんなことはしないと私が誓うまで叱られました」
 それに、と語を継いだ。
「私は女の子ではないのだから、男の子を好きになるはずがないのだとも。そんな男の子のことは忘れてしまいなさいとも、母は言いました」
――だから、今までずっと、自分は男でもない、女でもないと思ってきたんですか」
 ダーリアが顔を上げて見ると、アレクセイが今にも泣き出しそうな顔をしてこちらを見つめていた。ダーリアは戸惑って、半端な笑顔になった。
「先生がそんな悲しそうな顔をなさることはありません」
「あなたがそんなに平気そうな顔をしているから、僕が代わりに泣いてあげたい気持ちになっているんですよ」
 アレクセイは逡巡を重ねた末に、ようやくダーリアに問いかけた。
「ダーリア、あなた本当は、どちらだと思っているんですか」
―――
「ライオネルが教えてくれました。ほとんどの場合、自分の性別は男性か女性かのどちらか片方を自認するんです。あなたも本当は、心のどこかで――
 ダーリアも長い間沈黙していた。何度もためらって、考え直してから、ついにぽつりと返答した。
「私も普通の女の子と同じように生まれたかったです」
 さらに言った。
「普通の女の子として育って、普通の女性として先生に出会えていたらよかったのに」
「僕にとって、あなたは普通の女性と何ら変わりないですよ」
「先生は私のことを何もご存知ないから、そんなふうに仰るんです」
「だったら」
 と、アレクセイは強い口調になって言った。
「教えてください。僕の知らないあなたのことを。全部」
 ダーリアの覚悟は元より決まっていたのだろう。
「教えます。全部」
 と、尖った顎を静かに引いてうなずく。
「見てください――私がどんなに出来損ないか」
 ダーリアはおもむろに椅子から立ち上がり、ベッドの方へアレクセイをいざなった。
 薄暗い寝床へ座り込むと、アレクセイの見ている目の前でガウンの紐をほどく。両手が酷く震えていたが、ダーリアはそれをこらえて、一人で脱いだ。ガウンの下には何も身に付けていなかった。
 アレクセイは、ベッドの脇に立ちつくしてそれを眺めていた。胸が裂けそうなほど重く鼓動を打った。薄暗がりに浮かぶダーリアの白い肌から目をそらすことができず、釘付けになった。
 ダーリアの肩からガウンが落ち、薄い胸板が露わになった。
 そこに乳房はなく、少年のようにうっすらと筋肉が付いている。
 ダーリアは、アレクセイが何の言葉も発せないでいるのを見てから、腰の周りにまとわりついていたガウンも背へ避けて、一糸まとわぬ姿になった。
 少年のような胸から腹へ下りると、その先に小さな男性器のようなものが頭を覗かせていた。
「これだけではありません」
 とダーリアは冷めた声で言い、膝を立てて、その間をわずかに開いて見せる。
 男性器様の器官の下に著しく未発達な女性器が鎮座していた。ダーリアは羞恥心に耐え切れず、さっと脚を閉じてしまったが、アレクセイの胸の動悸はいっそう激しくなって顔には血が上る。
 二人は長い間、顔も見合わせることができなかった。夜更けの静まり返った室内を二つの乱れた呼気の音だけが満たしている。
 先に動き出したのは、アレクセイの方だった。
 アレクセイは、何度か深呼吸をしてから、ゆっくりとした動作で、ベッドの縁へ膝を着いた。かすかに軋んだ音が耳に入り、ダーリアは、ぎくりと素肌を震わせた。
 アレクセイが伸ばした手は、ダーリアの体の脇をすり抜けて、寝床の上に丸まっていたガウンを引き寄せた。
「着てください」
 と言って、ガウンをダーリアに差し出す。彼女がまごついていると、有無を言わせずその裸体に巻きつけた。アレクセイは真っ赤な顔をダーリアからそむけて、
「ごめんなさい。僕はあなたを辱めました」
 と、謝った。ダーリアは慌ててかぶりをふった。
「そんなこと、私の方が打ち明けたいと思ったんですから。今夜、いえ、もっとずっと前からです。先生が優しくしてくださる度に――私は、それに値するような、ちゃんとした人間ではないと――知ってもらいたくて」
 そのとき、やっと、アレクセイは雷に撃たれたようにして全てに理解が及んだ。
 アレクセイは、そうせずにはいられなくなって、ダーリアの背にそっと右腕を回して抱き寄せた。腕に抱いてみれば、ダーリアの体の特徴ははっきりと肌の上に伝わってくる。胸と胸のチャクラを重ねるように押しつけ合う。
 ダーリアが驚いて身を引こうとしたが、思いの外アレクセイの力が強く、それを許さない。アレクセイは別段それ以上のことはせず、切なげにささやいた。
「僕がもっと早くこうしてあなたと“交歓”して気付いてあげていれば、あなたを辱めずに済んだのかもしれなかったのに」

21

 二人分の肉と肋骨と、それからアレクセイの着ている薄いシャツ一枚を隔てて、お互いの心臓の鼓動が絡み合う。
 アレクセイに抱きかかえられてダーリアはほとんど硬直していた。このままアレクセイが“交歓”を行ってアストラル体で侵されたら、とても逃げられない。
(あんな大きなアストラル体と接触したら、正気ではいられない――
 とダーリアは背筋が寒くなったが、どうすることもできない。緊張してその瞬間を覚悟した。
 しかし、アレクセイはいつまでもダーリアの心音を聞いているばかりで、“交歓”を望む気配はなかった。
「あなたと今“交歓”して魔術を教えることは簡単だけど、でもねダーリア」
 と、アレクセイは少し体を離し、真面目な顔をして言った。
「あなたに今本当に必要なのは“交歓”ではないはずです」
 困惑している様子のダーリアに、アレクセイは畳みかけた。
「あなたに必要なのは自信じゃありませんか、ダーリア。自分は今あるだけで完全な人間だという自信が、あなたには全く足りないんです」
「だって私は不完全です」
「一人前の立派な女性です」
「先生もご覧になったはずです。私の体は」
「何一つ欠ける物のない完全な体だったじゃありませんか」
「とても健常な大人の体とは言えません。私――月経もないんです」
「だけど心は正真正銘の女性でしょう?」
 ダーリアにはそれを認められた思い出というものがない。母親も、幼友達も、周囲の人間は誰も彼女を女の子だとは言ってくれなかった。ダーリアの心には未だに彼らの影が巣食っている。
(どうやったらそれを追い出せるだろう)
 と、アレクセイはわずかな時間思案した。あまり、いい考えが浮かんだともいえなかったが、それでも言った。
「僕は初めてあなたに会ったときから、一度だってあなたを女性でないと思ったことはありません。いつも僕を助けてくれる素敵な女性でした。僕がそう思っているだけでは、あなたには足りませんか」
 ダーリアは切れ長の目をいっぱいに開いて、アレクセイの顔を見つめた。アレクセイも淡い翡翠色の瞳で見つめ返した。
「あなたは僕と一緒にいても楽しくなかった――?」
 とんでもない、と言うようにダーリアは大きくかぶりを振る。アレクセイはうなずいた。
「ダーリア、もしあなたが僕を嫌いでなくて、僕といて少しでも快く感じてくれるのなら」
「せ、先生、私は」
「あなたのつらい思い出を、僕との思い出で上書きしてしまうことはできませんか」
 そうささやいたアレクセイの声は、今にも涙がこぼれそうなほど感情の極まったものであった。ダーリアは、何を言われたのかわからないような顔をした。
 アレクセイはダーリアを再び抱き寄せて、キスした。
――!」
 唇が触れ合った瞬間、互いの体に走った震えの大きさに驚いて二人は離れてしまった。アレクセイはもう一度、心を落ち着かせて、唇をダーリアのそれに押し当てた。
 随分長い時間に感じられたが、現実にはほんの一つ二つ数えるほどの間だった。ダーリアから体を離すと、
「この上あなたからお金や自信まで奪うような男はどうしようもない大馬鹿者です」
 と、断言した。アレクセイは血の上った顔を隠そうと必死になっていた。
―――
 ダーリアも、やはり朱を散らした顔を両手で覆い、息さえ満足にしていない。
「あ、あの」
 とアレクセイが何か言いかけると、ダーリアは、びくりと跳ね上がるように寝床の上で後ずさりをした。
「ご、ごめんなさい、先生、でも――――
 と要領を得ない言葉をいくつか発した後、ダーリアは不意にベッドを離れて立ち上がった。アレクセイに背を向け、髪が真下に垂れるほど身を縮めた。強く自分の体を抱く。
 そのままじっと立ち尽くし、ダーリアは言うべきことを探していた。しかしどうしても見つけることができなかった。
「ごめんなさい――私、もう自分の部屋に戻ります」
 と、声を詰まらせて謝ると、ダーリアは乱れたガウンの前を掻き合わせて逃げるように廊下へ飛び出していった。
 一人取り残されたアレクセイは、一体どれほどの間、ダーリアの出ていったドアをぽかんと眺めていたものかわからない。やがてベッドの上にへたり込むと、両手の手のひらに顔をうずめた。切なげな息が指の間から漏れた。
 自分の客室に戻ったダーリアは、真っ暗な室内に明かりを点けることもせず、ベッドに身を投げ出した。うつ伏せになった顔と枕の隙間から嗚咽が漏れてくる。
 熱い涙が目の縁にあふれ、頬と枕を濡らした。毛布を頭の上まで引きかぶり、声を押し殺して泣き続けた。その晩は明け方近くまで眠れなかった。
 ダーリアは、初めて幸福というものを知った。
 翌五月二十六日の朝のことであった。
 八時の朝食まではまだいくらか時間があり、それまで朝刊でも読もうかとライオネルが居間へ下りてくると、
―――
 暖炉の前の安楽椅子に先客がいる。といっても、開いた新聞を顔の上に乗せて、ぼんやりと椅子を前後に漕いでいるばかりで、真面目に内容を読んでいる様子ではない。
 ライオネルはつかつかと歩み寄って、先客から朝刊を取り上げた。
「おはよう」
 新聞紙の下から現れたアレクセイの冴えない顔に朝の挨拶をして、ライオネルは隣の長椅子に腰を下ろし、大きな背を預けた。
「おはようございます」
 と、アレクセイがしょぼくれた声で挨拶を返してくれたのを聞きながら、朝刊の一面を確かめる。フロクシリアの地方紙であるクウィンス紙は、現地の記事を主に掲載しているが、大事件となれば帝都に関することも一面に載せることがある。今朝はそういった記事はなかった。
「ライオネル」
「なんだよ」
「何があったのかとか聞いてくれないんですか」
「何があったんだ」
「そんな取って付けたように」
「いいから早く言えよ。また不眠症の気が出てきたのか?」
「いえあの――ダーリアのことで」
「振られたのか」
―――
 いつの間に席を立っていたのか、不意にライオネルの左腕にまとわりついてきたアレクセイが情けない声を上げた。
「ねえ、もし僕がダーリアにケダモノ扱いされても嫌いにならないでくれます?」
「うわっ! ひっつくな気持ち悪い」
「うう、やっぱり気持ち悪いですかそうですか――
 アレクセイは膝を抱えて小さくなり、しくしく泣いているような真似をした。そこへ間の悪いことにセレスタンが入ってきて、
「レオ、未だにアレクセイに意地悪して泣かせてるのかい。三つ子の魂なんとやらだなぁ」
 と笑われてしまった。
「こいつが勝手に泣いてるんだよ父さん」
 と、ライオネルが父の方を振り返ると、セレスタンの先に立ってダーリアの姿もあった。
 ライオネルはアレクセイの肩をつつき、
「おいアレクセイ、ダーリアが見てるぞ」
 と言ってやった。アレクセイは恥じ入ったようにますます小さくなった。
 やや赤く腫れぼったい目をしているダーリアは、なんともいえない表情でアレクセイを見つめていたが、
「そろそろ朝食の時間ですよ、先生方」
 と言った調子はいつも通りであった。

22

「ライオネル坊ちゃま――
 と執事のエヴァンが、朝食の席に着いているライオネルに何事か小声で伝えに来て、それを聞いたライオネルの顔色が変わった。
「わかった。食事が済んだらすぐ確認する。ありがとうエヴァン」
「何かあったんですか?」
 と、斜め向かいの席からアレクセイが尋ねた。
「帝都大学から連絡が来たんだ。アレクセイ、後で少し話がある」
「? わかりました」
 朝食が済むと、アレクセイとライオネルは二人きりでテラスに出て、大学からの手紙を確かめた。よほど重要な内容なのか、料金を割り増して速達になっていた。差出人は生物魔法学研究室のシモンである。
 書面にざっと目を通して、ライオネルが言った。
「イリヤの公開解剖の日程が確定したようだ。六月一日、朝十時から帝都大学医学部でマルセル・シモン女医の執刀により行われる」
「六月一日!?
 信じられない、という顔をアレクセイはした。
「驚いてるのは俺も同じだ。こんなに早いとは思わなかった。俺が帝都を発った頃はようやく六月の初旬と決まったところだったんだが――それでもまだ幾分帝国学士院と揉め合ってたんだ。てっきりもっと引き延ばされるものだと」
「学士院がこんな譲歩をするなんて、何かあったんでしょうか」
「さあな。ともかく俺は明日の馬車で帝都に戻る」
 と、ライオネルは言う。
「明日出発すれば定刻で三十日、どう遅れても三十一日には帝都に着く。アレクセイ、おまえはどうする?」
「僕――
 とアレクセイは言い淀んだきり、先の言葉が出てこない。
 そんなアレクセイの様子を見ていて、ライオネルは至極真面目な表情になり、
「俺の意見を言わせてもらえば、おまえはダーリアについていてやった方がいいと思うぜ。今生きてる人間の方が大事だろう。死んだイリヤに義理立てする道理はない」
「でも、彼は僕の――学友でした」
「ただの学友だ」
「あなたに僕たちの何がわかるっていうんですか!!
 アレクセイは激昂した。が、すぐに正気に返ったらしかった。
――すみません」
「いいさ別に。気にしてない」
 ライオネルは一足先に屋内へ戻り、父母に帰京の件を伝えに姿を消した。
 アレクセイは、ぽつんと一人テラスに立ち、長い時間をかけて考え込んでいた。
 五月の終わりともなれば日差しも強くなり始めていて、山陰とはいえ汗ばむ陽気であった。
 アレクセイは、あるときふと誰かの視線を感じた。目を細めながらテラスに面した温室の方を振り返る。透明なガラスを隔てた向こうで枝葉を伸ばしている植木の合間に、ダーリアの黒い髪と灰色の瞳が覗いており、語りかけるような目でこちらを見ていた。
 ダーリアはアレクセイと目が合うと、気恥ずかしそうに目をそらした。手にしているジョウロの水を全て植木に差してからテラスへ出てきて、
「ついさっき、ジュネ先生がご両親のところへいらして、明日には帝都へ出発すると仰っていました」
 と言う。
「なんでも六月一日に帝都大学でとても大事なお仕事があるとか――先生もお戻りになるんですか?」
「い、いえ、僕は――
(この子はどうしてこんなに平然としていられるんだろう)
 とアレクセイは思った。まるで昨夜のこと全てが夢だったのではと疑いたくなるほど、ダーリアはいつもと変わらぬ様子に見える。いつもと同じ凛とした紳士服姿で、泰然としている。恨み言の一つさえ言わない。
 アレクセイは、ダーリアにとって昨夜の事件はその程度のことだったのかしらと思った。それで、自分もできるだけ平静に振る舞うよう務めた。
「あの、僕は、もうしばらくここへ残ってはどうかとライオネルに言われたんです」
「それは本当に先生のご意志に沿うんですか?」
 と、ダーリアは問いかけてきた。
「だってダーリア、あなたの展開式もしなくちゃならないし」
「私のことならいいんです」
「いいって、そんな」
「私――もう大丈夫です」
 ダーリアの表情にも声にも迷いはない。心身の脈動は波が柔らかく寄せる海のように安定している。何もかもが穏やかである。
「先生、私結局先生と一度も“交歓”することはなかったですけど、何度もアストラル体を交えるよりもっと深く先生と繋がっていられたような気がします。先生と過ごした間ずっと」
 だから、と言う。
「私には先生との大切な思い出がありますから」
 ダーリアは両手を差し出してアレクセイの手を取った。震えが走るアレクセイの手をなだめるように握り締めた。
「私は一人でも大丈夫ですから、先生は先生のなすべきことを――先生の心に従ってなさってください」
「ダーリア」
 アレクセイは、返すべき言葉を見つけられなかった。どれだけ思い悩んでみてもだめで、うなだれた。
「ごめんなさい、僕――友人の最後の姿を見届けに、どうしても帰りたいんです」
 ダーリアは、事情を詮索したりはせず、静かにうなずいてくれた。
 アレクセイはその日のうちに帰りの荷物をまとめ、翌日の五月二十七日の朝方、ライオネルとともに帝都へ向かう駅馬車に乗り込んだ。
 駅まではエヴァンの息子セルジュが四輪馬車で送ってくれた。二人分の旅行鞄を積んでライオネルが大きな図体を押し込み、アレクセイが最後に乗り込むと、馬車の中は満員である。
 二人を見送りに、ジュネ夫妻、ダーリア、エヴァン夫妻全員が母屋の車寄せまで出てきていた。
「二人とも体に気をつけるのよ。たまには手紙くらい頂戴ね」
 と、リオンティーヌが母親らしい別れを述べた。
 それが済むと、ダーリアが進み出て、
「カミュ先生、ジュネ先生、短い間でしたが本当にお世話になりました」
「こちらこそ」
 馬車の窓からアレクセイが寂しげに答え、ライオネルも、
「また何か困ったことがあったらいつでも連絡してくれ。力になるよ」
 と請け負って、別れの挨拶の代わりにした。
 ダーリアは最後に、アレクセイへ尋ねた。
「いつか、先生に会いに帝都へ行ってもいいですか?」
――待ってます」
 と、アレクセイは言ってくれた。
 アレクセイとライオネルを乗せた馬車が出発して、芝生に挟まれた道を過ぎ、並木道のトンネルの中に消えて見えなくなってしまってから、リオンティーヌはダーリアを慰めるように彼女の肩を抱いた。
「よく分別をしたわねダーリア。もっとわがままを言ったって誰も責めやしないのに」
「いいんです、奥様」
「泣いても構わないのよ」
「泣いているような暇は私にはありません」
 とダーリアは言い、リオンティーヌの顔を見上げた。
「奥様、母と立会人を呼んでいただけませんか。予定通り五月三十日の正午から二元展開式を執り行います」
「ダーリア、だけどあなた」
 リオンティーヌは随分驚いてダーリアの顔を覗き込んだ。
 ダーリアの顔つきも、声も、全てが決意に満ちている。
「お願いです。今がそのときなんです、奥様」

23

 黒獅子城地下礼拝堂の主祭壇へ贄と術具が供えられ、たくさんの燭台が室内を隅々まで照らしている。そのため地下の割に暑く、全身を覆う祭服の下では汗がにじむ。
 礼拝堂の後方には教派の異なる三人の魔術師がいる。血の夜明け派のリオンティーヌ、黄金の契り派であるダーリアの母ナターリア・スルト、そしてもう一人は暗き者派と呼ばれる教派の魔術師で、その名の通り根の暗そうな様子の男だった。ダーリアを宮廷魔術師として召し抱えようというドラモンディア伯が寄越してきて、リオンティーヌとともにダーリアの通過儀礼に立ち会う手はずになっている。
「リオンティーヌ」
 と、ナターリア・スルトが小声でリオンティーヌを呼ぶ。黄金の契り派独特の覆面をして、おびただしい長さのショールを掛けた白い祭服姿のナターリアは、容姿こそ北部者らしい金髪で娘とは似つかないが、覆面の下から漏れ出るハスキーな声がそっくりだった。
「なあに、ナーニャ」
 とリオンティーヌは返事をした。
「アレクセイ・カミュは、本当に私の子に何もしなかったでのでしょうね?」
「安心なさいな、彼は紳士よ」
「わかったものじゃないわ。いかがわしい新聞に名前が載るような人でしょう。最初から知っていれば、ダーリアをそんな人とひと月も一緒にいさせたりはしなかった。リオンティーヌ、あなたもどうして教えてくれなかったの」
 ナターリアはじれったそうにかぶりを振る。
「だいたい、カミュも血脈の違う弟子に構うものじゃないのよ。あの人は師から正式な後継者と認められていないそうだけど、やっぱりどこかおかしいところが――
「お母様」
 と、不意にナターリアを呼ぶ声がした。三人が振り返ると、祭壇脇の香部屋からダーリアが出てきたところであった。ダーリアは漆黒の祭服の裾を引きずって近づいてきた。
「お母様、支度は全て整いました。これより始めます」
 師である母親に一礼し、それから立会人二人に挨拶した。
「本日は私のような若輩者のために、ありがとうございます」
「ダーリア、肩の力を抜いておやりなさい」
 とリオンティーヌが励まし、
「あなたが我々宮廷魔術師の一員となるのを楽しみにしています」
 と暗き者派の魔術師も言った。
 ダーリアは主祭壇の前へ進み出た。祈りを捧げ、心が静まるのを待つ。
「解錠します」
 と宣言して始めた。
 青いショールで覆った両手を定められた形に組み、
「ジュノー――
 と、祭文を捧ぐ。印とそれに対応した祭文一つ一つを丁寧に唱え上げていく。六歳で黄金の契り派の洗礼を受けてから、何百回と唱えてきた祭文である。迷いはない。
 千と二十四回祭文を繰り返し、チャクラの鍵を開く。
 開いた七つのチャクラを通して魔術の力と言葉が湧き出る。あふれて満ちる。
 ダーリアは目を閉じて天を仰いだ。
(私は――
 ゆっくりと呼吸をしながら考えた。背後で一部始終を見届けようとしている立会人のことも、母のことさえも忘れ、あらゆる意識が自分の内側に向かう。
(私は不完全な人間だけれど――
 ダーリアは全く幸福な気持ちだった。
 いつでも身の回りに幸福があったことに思い至った。アレクセイやジュネ一家と過ごした間。恩師に恵まれた学生時代。友人たちと出会った女学校の頃。苦い思いはしたけれど初恋を覚えた幼少期。母が涙して喜んでくれた誕生の日から、いついかなるときも。ダーリアはいつも殻を一枚隔てた内側から外の幸福を恐る恐る眺めていた。
 殻に隠れている自分を見守ってくれている大勢の人たちがいた。その中から、アレクセイが一人すぐそばまで来て教えてくれた。そんな殻は薄くもろいのだと。
 ダーリアは閉じていた目を開いた。
 祭壇の上に掲げられた救世主の像を見つめる。黄金の契り派には偶像を祀る教義はないが、今はその聖像を通じて父なる神へ語りかけたかった。
(天地を創造したお方、私のような不完全な人間でも愛してくださいますか。私は貴方のしもべです)
 かつて感じたことのない信教の歓びが肢体を貫く。灰色の双眸をうっとりと細めた。
(今――御前に)
 心の殻が破れるのと同時に、体内で大きく膨張したアストラル体をアレクセイに授けられた魔術で抑えた。剣の印を結び、呼吸でもってアストラル体を練り上げ、手中に収める。
「これより『二元展開』の術式を行います」
 と宣言し、ダーリアは祭服の袖を払って祭壇に捧げられた法の書を取った。無垢銀の筒を左手に持ち、右手で書を長く引き出す。法の書は、
 大ベレシタス、
 大シェモタス、
 大ワイクラス、
 大ベミドバラス、
 大デヴァリータス、
 の五部からなり、それぞれが三巻に分けられ全十五巻となる。これを読み上げることでアストラル体を魔術を扱うための形に展開する。ただし、その方法は少々荒っぽく、書を広げてその巻数を述べ、
「ワイエナ、エイナ、ダブリナ、エイナ、テッラ、モー」
 という祭文を捧げて一巻を読んだことにする。
 ダーリアが祭文を捧げると、法の書が風に吹かれたように舞い上がり、やがて黄金の砂となって散る。それが宙に溶けるように消えてしまうと、ダーリアの両手に何事もなかったように書が戻っている。
 礼拝堂の後方で見守る三人の魔術師たちは一言も発さず、固唾を呑んでダーリアを注視していた。
 そのときふと、彼らの鼻腔に甘く熟れた果物のような匂いが届いた。
 同時に、礼拝堂の床や壁を恐ろしい速度で植物が侵食していることに気がついた。どこからともなく生えてきた根や葉、蔦、花、苔といったものが石のタイルを覆い尽くしていく。蔓や草葉が魔術師たちの祭服の裾や袖にまでまとわりついた。
 ダーリアが十五巻の法の書を読み上げ終えたとき、礼拝堂内に広がっていたのはどこか黒獅子城の中庭を思わせるような光景だった。
 主祭壇の辺りは、小さくいびつな二本の樹木に守られている。二つの柱を思わせるそれは、片方は棗椰子のように見え、もう片方は十個の果実を付けた柘榴の木であった。それらが複雑怪奇に枝や幹を絡め合い、ダーリアの姿まで覆い隠してしまっていた。
 二柱の樹木の内側からダーリアは宣言した。
「以上をもって『二元展開』の術式を終了いたします」
 展開したアストラル体を収める祭文を捧げ、チャクラを『施錠』した。
 ダーリアは母親と立会人に礼を述べてから香部屋へ引き取った。ナターリアも感激した様子でその後を追った。
 二人きりになった立会人たちは、多少の話をした。
「いかがでした?」
 と、リオンティーヌが問うと、
「いささか魔術にまとまりを欠き未熟とは思いますが、あとは宮廷魔術師として仕事をしながら覚えてくださればよいでしょう」
 と、もう一人の立会人は満足気な口ぶりで答えた。
 香部屋に入ったダーリアは、それまでの緊張の糸が切れ、また儀式を行った疲労がどっと出て、中央のテーブルの上に倒れ込むようにうずくまった。祭服の下は汗みずくで息も乱れている。
 追いかけてきたナターリアが、
「ダーリア、よくやったわね。素晴らしかったわ」
 と、感極まった声を上げて愛娘に寄り添う。
「あなたもこれで本当にお母さんの跡を継げるのよ。カミュに口を挟まれたと聞いたときはどうなるかと思ったけど――
「お母様」
 ダーリアは口元を覆うケープを首まで引き下げ、テーブルに両手を着いて、大きく深呼吸をした。母親を振り返って問いかけた。
「私は独り立ちしてもよろしいのですか」
「もちろんよ。あなたはこれでドラモンディア伯の――
「私は宮廷魔術師にはなりません」
 とダーリアは言い放った。呆然としている母親の表情に怖気づきそうになって手が震え、涙が目元ににじんだ。それでも己を奮い立たせて最後まで言い切った。
「私はもう一人前だとお母様は言いました。だったら私のことは私が自分で決めます。私は、ドラモンディア伯には仕えません。宮廷魔術師にはなりません」

24

 黒獅子城でのゆったりとした五月と違い、アレクセイが帝都へ戻った六月はあれよあれよと過ぎた。
 六月一日、午前十時、帝都大学医学部大講堂においてイリヤ・ラフォンの公開解剖が行われた。
 執刀医のマルセル・シモン女医は、医師として脂ののり始めた四十代半ばの外科医であった。手術用の上着付きの動きやすい婦人服に身を包み、多くの助手を従えて、前例のない解剖に臨んだ。
 講堂は前に行くほど低く、後ろほど座席が高いところにあり、それらが正面の手術台をぐるりと扇状に取り囲んでいる。そこに五百人を超える見学者が集まった。医学、生体魔術の研究者が最も多く、他にも大学教員や学生、帝国学士院会員、新聞記者とさまざまな素性の人間でごった返した。
 アレクセイとライオネルは、座る場所も足りないほど混み合った講堂の一番後ろに立ち、手術台の上で青い布を掛けられているイリヤの体が開かれるところを遠巻きに眺めた。
 最前列の辺りに座っている見学者たちは、熱心にスケッチを取り、マルセル・シモンが逐一述べる所見をそれに書き留めている。
 遺体の肋骨を切断して開胸し、胸部の解剖に移ったとき、マルセルは静かに眉だけしかめた。周りの助手も似たような反応を示し、マルセルの所見を待った。
「大動脈に腫瘍? いえ違う、大動脈には癒着で、本来の患部は深部心臓神経叢。神経に未知の肉腫が――
 アレクセイは、骨を切られ肉塊に分けられていく旧友の姿から片時も目を離さず、ライオネルはそんなアレクセイを慰めるように肩に手を置いてやっていた。
 歴史的解剖の興奮覚めやらぬ六月四日、アレクセイは帝国学士院の院長室に呼ばれた。
 院長のフェリクスは、アレクセイに早く公開解剖の報告書を提出するようにと小言を言ってから、
「バードック社とは示談になった。本日全ての手続きが完了した」
 と教えてくれた。
「もうあちらの記者が君の周囲をうろついていることはあるまい。先日帝都大学へ行ったときはどうだったかね? あるいは私生活では?」
「確かに大学で新聞記者に声をかけられることはありませんでした。こちらに帰ってきて以降、自宅付近で会うことがないわけではありませんが、近付かれたり写真を撮られるようなことはありません」
「自宅周辺の記者の件はバードック社に伝えておこう」
「あの」
 と、アレクセイは訝しげに首をひねり、
「示談の条件をお聞きしても?」
「いくらかの金銭的やり取りの他、我々の要求は君に関する過剰な取材活動の自粛だ。その代わり、こちらからは彼らに新しい仕事を提供した」
「それはつまり、新聞社に何かスキャンダルのネタを漏らしたってことですか」
「君は帝都を離れていたから知らないかもしれないが、五月半ば頃に政治家の汚職事件があった」
「存じてます。確かその方の前身は帝都大学の教授だったとか」
「いくら叱っても身内の悪い政治家と手を切ろうとしない輩には困ったものだ」
 とフェリクスはぼかした言い方をした。
「しかしまあ、今回のことでようやく腐った部分を切り落とす決心をしてくれた。しかも、彼らは引き換えに我々学士院の譲歩を得て、我が国の魔術・医術の歴史に残る六月一日を実現させたわけだ。悪い話じゃない」
 フェリクスは、アレクセイに今の話は他言無用だと釘を刺すことさえしない。
「ところでカミュ君、五月中は旅行に行っていたそうだが、ゆっくりできたかね」
――ええ、おかげさまで、解剖の日程があまりにも急に決まって飛んで帰った以外は。フェリクス院長」
 六月半ば、ライオネルが共同研究の打ち合わせのためにアレクセイの研究室を訪ねてきた。
「アレクセイ、ダーリアの話は聞いたか?」
 と、応接椅子に座るなりライオネルは言った。紅茶の支度をしようと、その横を通りかけていたアレクセイは、どきりとして足を止め、
「彼女が何か?」
 と聞き返した。
「なんだアレクセイ、おまえダーリアと文通くらいしてるもんかと思ってたぞ俺は」
「してないですよ何も――あんな別れ方しちゃったわけですし」
「ダーリアの展開式は上手くいったらしいぜ。五月三十日付けで黄金の契り派の正式な祭司として認められたそうだ」
「本当ですか」
 アレクセイは安堵して、自分のことのように喜んだ。ライオネルも同じである。
「なあ、あの観劇に行った夜にダーリアと何があったのか、そろそろ話す気になれないか?」
「ライオネル、それは」
 と、アレクセイは困った。
「申し訳ないですけど、やっぱり話せませんよ。彼女が僕を信用して打ち明けてくれたことですから」
「俺に協力させるだけさせておいて、惚気の一つもなしか」
「の、惚気って、僕たちは別にですね」
 ライオネルがにやにや笑いながら尋ねてくる。
「ダーリアに会いたくないか?」
「会いたいですよ。彼女は――よき友人でしたから。でももう会えません。宮廷魔術師になるんでしょう? 僕のような人間とは関わらないのが彼女のためです」
「まあ、そうだな。ダーリアが宮廷魔術師になるんならそれが正しい」
 アレクセイは寂しげな背中で部屋から出ていった。
 じきにティーセットを携えて戻ってきて、ライオネルに紅茶を供したとき、ライオネルがいやにじろじろと手元を見つめてきたから、アレクセイは居心地悪そうに右手で左手の指を覆い隠した。
 ライオネルはそのことについては別に何も言わず、ティーカップを口に持っていった。アレクセイもソーサーごとカップを取りながら言った。
「そうだ、まだ言ってなかったですけど、僕ちょっと今の家には居づらくなってて。以前記者に追いかけられて家主に迷惑をかけましたし、変な手紙も未だに来ますし。近いうちに引っ越そうと思ってるんです」
「ほう」
 と、ライオネルが身を乗り出して来る。
「新居は決めたのか?」
「いえ、まだですけど」
「奇遇な話だが、俺も今ちょうど知人のために部屋を探してやっててな、結構な下宿を見つけた。だがそこは一人で占領するには負担が重すぎるし、ルームメイトがいれば何よりなんだが」
「それを僕に紹介してくれるんですか?」
「おまえさえ乗り気ならな」
「相手はどんな人です?」
「うちの大学の学生さ。正確に言えば、九月から正式に最終課程の学生になる。シモン先生の生物魔法学研究室に入るんだ。気立てのよさは俺が保証する」
 アレクセイは、まあ相手に会ってみてから考えても遅くはないだろうと思い、
「その方と会って話はできますか?」
「まだ帝都にいないんだが、今月末頃からシモン先生の下で勉強や雑務の手伝いをするそうだから――二十八日に大学に来れるか?」
「予定を開けておきますよ。ありがとうライオネル、助かります」
 そして六月二十八日、アレクセイは約束通り帝都大学へ赴いた。
「直接シモン先生の部屋に行ってくれ。場所はわかるな? 話は俺が通しておく」
 と事前にライオネルから連絡があったので、一人で近代魔法学部へ向かい、多数建ち並ぶ研究棟の間を通り、生物魔法学研究室のある第五研究棟へ辿り着いた。その二階にあるシモンの居室の前まで来て、開け放たれたままのドアをノックしたが返事はない。
「先生、ご在室ですか? アレクセイ・カミュですが」
「すみません、シモン先生は所用で席を外しているんです。ジュネ先生からお話は伺っています、カミュ先生」
 女学生が一人、シモンの居室と続きの大部屋から出てきて、アレクセイへ呼びかけた。女性にしては少しハスキーな、中性的な声だった。アレクセイの心臓がどきりと大きく打った。
 振り返って息を呑む。
 背へ垂らした濡羽色の長い髪、骨が張った顔立ち、淡い灰色の煙水晶の瞳、それにいつもその身を凛と包んでいる紳士服。たったひと月会わなかっただけなのに、どれもこれもひどく懐かしく感じた。
 ダーリアが嬉しそうに顔をほころばせてアレクセイを見つめた。
 アレクセイは平静を取り繕おうとして言った。
「どうして――
 言ったつもりだったが、声が声にならない。ダーリアのまっすぐなまなざしは優しく、アレクセイは少年のように赤面してしまった。

(了)