天地の狭間の魔法使い

1

 天より来たりて天へ帰る。それが魔術師なのだと、アレクセイは父親に教えられて育った。
 アレクセイの父親は先年殺された。数少ない『黄金の契り派』に属する魔術師の中でも、アレクセイの父親は最も才能ある一人とうたわれていた。生前は。
 父親が死んだときのことを、アレクセイは今でも夢に見る。
「はぁ――うぅ、うあ――!」
 その度にうなされ、寝汗をびっしょりかいて、夜半ベッドの上で飛び起きる。
「あっ!!
 目覚めると、夢であったかとため息をつき、呼吸を整えてもう一度毛布の下へ潜った。
 アレクセイはアパルトマンの寝室で、一人で寝ていた。暗闇の中、目をつぶり、枕に鼻先をうずめて、父との幼い頃の思い出をなんとなく脳裏に浮かべていると、じきにうとうとし始めた。
 夢と現の境をさまよう不安定な状態にアレクセイがいたとき、それ﹅﹅は初めて現れた。最初は声であった。
〈目覚めよ――
 とかすかな声が、アレクセイの耳へ忍び込んできた。初めアレクセイはその言葉を聞き取れず、小さな物音だろうと思って気に留めなかった。が、二度目の声は一度目よりもはっきりと、
〈今こそ――父の膝下へ帰るとき〉
 と、アレクセイに語りかけてきた。
 アレクセイはやっと気が付いて、目を開けようとしたが、両目とも上下の瞼がぴったりとくっついてしまったように動かない。目だけではない、全身がベッドに縛り付けられたようにピクリともしない。
 闇の中で聞こえる声は、同じ言葉を延々と繰り返していた。
 目覚めよ、今こそ父の膝下へ帰るとき。男のような声でもあり、女のような声でもある。若いようでも老いたようでもある。懐かしいような、初めて聞くような、不思議な声音だった。
(目覚めろと言われても――
 目が開かないのではどうにもならないではないか。と、案外アレクセイは落ち着きながら、しかし呼吸も満足にできない状態で、全身に冷や汗が吹き出していた。
〈父の膝下へ帰るとき――
 と、何度目かに声がささやいたそのときだった。
「!」
 ぞろり、と背中を巨大な羽虫が這ったような、不気味な感覚を覚えてアレクセイは震え上がった。羽虫は、脊椎に沿って下から上へ這い上ってくると、アレクセイの首の付根の辺りで止まった。そしてそこへ鋭い顎を突き立て、皮膚と肉とを食い破り始めた。
 痛みはなかった。虫のイメージ自体アレクセイが感じただけのものであって、本当に化物のような羽虫がくっついているわけではなかろう。ただ、食われた背中に穴が開いていくような不快な感覚は確かにある。
 破れた背中から何か﹅﹅が抜け出そうとする。
(や、やめ――
 まるで今にも羽化しようとしている蝉のごとく、何か﹅﹅がアレクセイという蛹の殻を脱ぎ捨てて飛び立とうとしていた。
 アレクセイは咄嗟に胸部のチャクラへ全魔力を込めた。
 一瞬何か﹅﹅は動きを止めた。が、すぐにまたアレクセイの体の外へ逃れようとする。アレクセイはそれを体内に引き戻そうとする。二つの力は拮抗して、膠着状態に陥った。
「っ、うっ! うぐ――!!
 アレクセイが少しでも力を緩めたら、体中の魔力ごとごっそり持って行かれてしまいそうなほど、何か﹅﹅が出て行こうとする力が強い。
(やめろ、出るんじゃない――僕の外へ――出るな、出るな! 出るな!!
 と、アレクセイは必死になって念じた。金縛りでこわばった喉からどうにかうなり声を上げた。そうやって少しでも集中を保とうとした。
 十数える間が一時にも思えるような苦しい時間だった。
 それが明け方近くまで続いた。
 はっ、とアレクセイが気付いたとき、何か﹅﹅の気配はいつの間にか消えていて、声ももう聞こえなくなっていた。
 窓の鎧戸の隙間から、うっすらと朝の光が差し込んでいる。外は夜が明けているらしかった。
 アレクセイは大きく深呼吸をして、毛布の下で寝返りを打った。よほど寝汗が酷かったらしく、寝床が湿っていた。それが気持ち悪かったから、眠るのはもう諦めて、のそのそと寝床から抜け出し、ベッドの端に座り込んだ。
 立ち上がるのも億劫なほどくたくたで、精神的にも参っていたが、体に異変らしい異変はない。魔力は十分に体に満ちていた。不調に感じたことといえば、一晩中食いしばっていたらしい奥歯が痛いことくらいだ。
「ああ――ただの夢だったのかなぁ」
 と、アレクセイは両手に顔をうずめながら声に出してつぶやいた。疲れ切ったため息がもれた。
 悪夢だったとすれば、父親の夢よりも苦しい夢を見たのは近年なかったことである。
―――
 気になることがあって、重い腰を上げ、浴室へ向かった。
 うっすらと朝日の差し込んでいる窓を開け、汗で肌に張り付いた寝間着を脱いで、鏡の前に背中を向けて立った。肩越しに鏡面を覗き込んでみた。
 何の変哲もない自分の背中が映っているばかりだ。アレクセイは痩せ型で、両の肩甲骨がくっきり浮き出している。そのちょうど間の辺りから、昨夜何か﹅﹅が出ようとしていた。と、思うのだが。
(やっぱりただの夢だったんだろう)
 自分に言い聞かせるように、そう考え直した。
 アレクセイは体の向きを変え、正面から鏡に姿を映した。
「ひっどい顔してる」
 当年とって二十九歳になるアレクセイは、外見だけなら二十歳と言っても通りかねない童顔で、色白の細面は美男と呼んで差し支えない。だが昨夜の睡眠不足で、鏡の中の美青年はやつれた顔色をしていた。
 アレクセイは、北部の地域に多く見られるような色素の薄い髪を持っている。それを肩に乗るくらいの長さに切って無造作に垂らしてある。眼の色も淡く、灰色がかった青い目は、今住んでいる帝都リリアでは珍しい。
 アレクセイは、伸びても大して目立たない柔らかな髭を撫でつつ、浴槽の蛇口をひねった。アパルトマンのボイラーには幸いすでに燃料が入っており、熱い湯が出た。
 手短に風呂を済ませて汗を流し、髭をあたって寝室に戻った。体が温まったせいか多少気分は持ち直していたが、それでもやる気が出ないことこの上ない。
「あー仕事――行きたくないな――
 火急の用件がなければ休んでしまおうかなどと、だらしのないことを考えている。ベッド脇のテーブルの上に投げ出してあった小さな帳面を取り、覚え書きを確かめた。今日は帝国学士院にある研究室へ来客の予定が三件。その内二件は学士院の枢機官で、これはアレクセイには正直なところどうでもいい。
 残りの一件は帝都大学の教員との約束だった。
「ああもう、そうか、今日はライオネルが来るんだっけ。こういう日に限って――あの人は相変わらず気が利かないんだから――
 アレクセイは帳面を置き、クローゼットを開けて、しぶしぶ身支度を始めた。

2

 国立大学の中では第一級の研究教育機関である帝都大学も、近年は他の大学の例にもれず教師や学生の質が落ちたと評される。
「ろくに研究費も給料も寄越さないでおいて、勝手なことを言いやがる」
 と、ライオネルはその手の話になるといつも不機嫌になる。
 アレクセイより二つ年上で、帝都大学で教員をしている彼は、本名をライオネル・ジュネという魔術師だった。東部出身のライオネルは髪も目の色も濃く、白っぽいアレクセイと並んでいると目に優しくないと、子供の頃から周囲によくからかわれる。
 応接椅子に沈み込んでぷんすか怒っているライオネルに、アレクセイは手ずから淹れたお茶を差し出した。自分もティーカップの乗ったソーサーを手にライオネルの正面に腰を下ろすと、言った。
「また偉い人に嫌味でも言われたんですか?」
「おまえんとこの枢機官様にだ」
「僕に文句を言われても。同じ帝国学士院にいるといっても、僕はただの会員ですからね。それより」
 お茶が冷めますよ、とアレクセイは話の矛先をそらした。
 そう言われてライオネルはティーカップを見た。取っ手は付いているが、東部風の鮮やかな染め付けがされた陶器の器の中で黄金色の水面が揺らめいている。茶葉のいい香りが立ち上ってきて、ライオネルは吸い寄せられるように口元へティーカップを運んだ。
 アレクセイも自分のティーカップから一口飲んで言った。
「お気に召しましたか?」
「あ、ああ」
「ならよかった」
 アレクセイはお茶の残ったティーカップをテーブルへ置いて、椅子へ身を沈めた。
「アレクセイ――おまえ今日は体の具合でも悪いのか?」
 とライオネルが気付いて尋ねた。
「いえ――昨晩あまりよく眠れなくて」
「何か悩み事でもあるのか」
「あれ、ライオネルこそどうしたんです、今日はやけに優しいんですね?」
「いや別にそんなことは」
「特にこれといって悩みもありませんが、そんなに心配なら一晩中僕のベッドで添い寝してくれたっていいんですよ?」
「誰が! するか!!
 ライオネルがすぐムキになるので、アレクセイはおかしそうに、
「ふふ」
 と笑った。だがその顔も、やはりどこか普段に比べて覇気がないようにライオネルには思えた。
 アレクセイはティーカップを手の中に戻し、しかしお茶を飲むでもなく、掌で器をもてあそびながら言った。
「それで、用件は何でしたっけ? ジュネ先生﹅﹅﹅﹅﹅
「よせよ。来年度からの共同研究の件だ。契約書を作ったからな、目を通してくれ。提出期限は今月の二十五日だ」
 ライオネルは鞄から巻いた書類の束を取り出し、アレクセイへ渡した。アレクセイは受け取って、必要な物がそろっているかどうか、ざっと確認した。
「とりあえず不足はありませんね。期限の一週間前には署名して返します」
「頼む。形だけの共同研究とはいえ、その辺は事務方がうるさいんだ」
「まあ事務がうるさいのはこちらも同じですから、お察ししますよ」
「これで何とか研究費を切られずに済みそうだ」
「帝都大学に勤めて研究室を構えているといえば聞こえはいいですけど、苦労してますね、ライオネル」
 と言って、アレクセイは皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。ライオネルは、むむ、と口をとがらせた。
「なんだよ」
「いえ別に」
「まさかおまえ――頼みを聞いてやった見返りに添い寝しろとかそういうことを」
「いやだなぁ、そんなこと言いそうに見えるんですか」
「見える」
 とライオネルはきっぱり答えた。
「おまえは昔からそういうことを言う性格の悪いやつだった。パーヴェルの事件のときだって――
「性格が悪いのはお互い様でしょう?」
 アレクセイはライオネルの言葉を遮って、その話はそれきりになった。
「アレクセイ、おまえの研究の方は近頃どうなんだ?」
 と、ライオネルはアレクセイの近況を尋ねた。
「僕はいつもどおりですよ」
「ようするに、のらくらしてるってことか」
「一応帝国学士院の研究会員ってことにはなってますけど、上も僕に研究方面で期待してるわけじゃないですから」
―――
「僕を手元で飼っておかないと不安なんですよ、あの人たちは。次の第八階梯魔術師が現れたときのために、ね」
「そ――
 とライオネルが口を挟みかけたときだった。
 コンコンコン、
 と、ドアを上品に叩く音がして、アレクセイもライオネルも反射的にそちらへ視線を向けた。アレクセイが返事をした。
「どうぞ」
「失礼いたします、カミュ先生」
 細く開いたドアの隙間から、秘書らしき慎ましい身なりの婦人が遠慮がちに姿を覗かせた。ライオネルは知らない顔だったが、アレクセイはよく知っているらしく、
「あれ、エペ先生のところの」
 ご婦人は申し訳なさそうに小さくなって頭を下げた。
「はい、あの、ご来客中にすみません先生」
「いいですよ。ライオネル、エペ先生の秘書の方ですよ。魔術空間の実験的証明で有名な」
 何かご用ですか? とアレクセイが首をかしげると、秘書の婦人はますます小さくなり、
「その、ただ今エペは実験中なんですが――
「ああ、わかりました。また測定器が止まっちゃったんですね」
 初めてのことではないらしい。ご婦人が皆まで言わずともアレクセイは察して、腰を浮かせた。
「すぐ行きますと先生に伝えてください」
「お手数をお掛けして申し訳ございません。よろしくお願いいたします」
 ご婦人は何度も頭を下げて出て行った。
 アレクセイはライオネルを見やり、
「というわけで僕はちょっと外しますけど、どうします?」
「実験を見学させていただきたい――と言いたいところだが、それはまずかろうな。待ってるよ」
「おや、今日は長っ尻なんですね」
「この間学生の修了試験も終わってようやく暇ができたところなんだ。少し気分転換させてくれ」
「ええ、そういうことならもちろん。学生さんは皆さん無事に課程を修了しましたか?」
「ああ、どうにか全員第五階梯に進級した」
「それはなによりでした。じゃ、じきに戻ります」

3

 一人残されたライオネルは、お茶を飲み干してしまうと手持ち無沙汰になり、なんとはなしにアレクセイの居室の中を見回したりしている。
 はっきり言って魔術師の研究室らしからぬ部屋だった。帝国学士院の三階建ての建物の最上階にあり、小ぢんまりとはしているが、南向きで日当たりがいい。
 壁面の棚の一角に道楽で収集した食器の山がある他は、簡素なものだ。執務机と応接用の椅子とテーブル。事務書類のしまってある棚。隙間の方が多い本棚。アレクセイはあまり本を読まない。読んだとしても、一度読んだら二度以上はまず読まない。
「一度読めば全部覚えていますから」
 とアレクセイは言うが、本当かどうかライオネルは知らない。
(長い付き合いのようでも知らないことの方が多いな)
 ライオネルは、ふと本棚の中段に目を引かれた。本と本の間に潜ませるようにして、似姿が一枚立てかけてある。ライオネルはついそれへ手を伸ばしていた。
 随分旧式の撮影機で撮られたらしいそれには、一人の魔術師の男の姿が収められている。三十代半ばくらいの、淡い金髪で、すっと通った鼻筋の辺りがアレクセイに似ていた。まあ似ているとは言っても、アレクセイよりはずっと優しげな紳士に、ライオネルには見えたが。
 ライオネルは似姿の男が誰か知っていた。アレクセイの死んだ父親だった。
―――
 ライオネルはやり切れない気持ちになり、似姿を元の場所へ戻した。
 本棚の棚板に手を置いたまま、うつむいて物思いに沈んでいたとき、
 コツコツコツ、
 とドアを叩く音がした。
 ライオネルは、アレクセイが戻ってきたのかと思って、はっと本棚から離れたが、考えてみればアレクセイならノックせずに入ってくるだろう。ちょっとためらいつつも、
「はい」
 と返事をした。
 ドアが開き、そこに立っていたのはライオネルの見知らぬ赤毛の男だった。男は、ライオネルの顔を見るなり、いぶかしげに眉をひそめ、
「ここはアレクセイ・カミュの研究室では?」
 と、尋ねてきた。美しいテノールの声をしていた。
 ライオネルの見たところ、男は自身やアレクセイと同じ三十歳前後くらいの年齢だった。ゆるく巻いた赤毛の前髪を伊達な格好に伸ばし、顎にうっすらと髭を蓄えている。着ているものは洒落た紳士服だったが、たぶん魔術師だろうとライオネルは見て取った。昨今、帝都の若い魔術師は自分たちも含めて皆そうだ。
 それだけなら、アレクセイを尋ねてきた研究者か何かだろうと思うところだ。しかし異様だったのは、男は、馬鹿馬鹿しくなるほど大きな赤いバラの花束を小脇に抱えていた。
 ライオネルも怪訝な顔になって言った。
「確かにここはアレクセイ――カミュ先生の居室ですが、あの、どちら様で?」
「それはこちらのセリフだ」
 言いながら、男はつかつかとライオネルの正面までやって来て、値踏みするような視線を遠慮なく寄越してきた。ライオネルの上着の襟に付いている帝都大学の校章に目をとめると、
「ふうん、大学の教師か、君は。帝都大学の教師の質が落ちたという噂は、どうも本当のことらしいな。僕が学生だった頃は、もうしばらくましなことを言える教師が多かったものだが」
「んな――!?
 名も名乗らず、いきなり冷笑されたライオネルが目を白黒させているのをよそに、男は応接用のテーブルをちらりと見て、ティーカップの数が二つであることを確かめた。
「アレクは席を外しているだけか? じきに戻るのなら待たせてもらおう」
「ちょ、ちょっと待――っていただきたい」
 ライオネルは、思わず「待て」と言いかけたのを、どうにか紳士の言葉に直した。
「ご覧のとおり、カミュ先生は私と先約があるんです。そちらがこの時間に約束していたというなら話は別だが」
「約束はない」
「でしたら、後ほどお越しください」
「君がアレクの今の男か?」
 ライオネルはまた目を白黒させる羽目になった。慌てて、大きな声を出すところだったが、男に先制され、
「アレクの好みは相変わらず謎だな。こんないかにもくたびれた大学教師のどこがいいんだ。おおかた研究室でも雑務や学生の世話に追われてロクな研究成果も出せず、私生活もパッとしないんだろう。おまけに閨事も“交歓”も下手そうだ」
 とまくし立てられた。
 なんで初対面で会ったばかりの名前も知らない相手にここまで言われなくちゃならんのだ。と理不尽に思う気持ちを、初めライオネルは感じなかった。目の前の男に圧倒されて、しばし言葉を失っていた。
 が、だんだんと腹の底からこみ上げるように怒りが湧き上がってくる。
「お、おまえ――おまえは、俺を二重にも三重にも四重にも侮辱したぞ」
 と、肩を震わせてうなったライオネルを、男は鼻先で笑った。
「はは、案外簡単に本性を出したな。こらえ性のないヤツだ。寝間でも早そうだな、五重に侮辱して悪いが」
 さすがに面と向かって早漏とまで罵られて黙っていられるほど、ライオネルも温厚な紳士ではないのである。くたびれた教師でも、腐っても魔術師だ。魔術師らしく非礼には決闘を申し込んでケリをつけてもいい。
(こンの野郎――『血の夜明け派』の魔術師を甘く見るとどうなるか――
 ライオネルがはらわた煮えくり返りそうになっていた、そのときだった。
 不意に、ドアの向こうに人の気配がした。ライオネルと男が気付いて視線を向けたのと、
「すみません、お待たせしました」
 と言いながら、アレクセイが戻ってきたのと、ほとんど同時だった。
 ライオネルと男は図らずも一緒に声を上げた。
「アレクセイ!!
「アレク!!
 二人からいっぺんに呼ばれたアレクセイは、きょとんとドアの前で足を止めた。
 先に動いたのは男の方だった。両手を広げてアレクセイに駆け寄った。
「アレク! 久しぶりだなアレク!! ああなんてことだ、あれから十年も経つのに君は全く昔のあどけない姿のままなのか。美しい僕のルシフェル!」
 男は、びっくりして目がまん丸くなっているアレクセイへ赤いバラの花束を押しつけると、感極まったように天を仰いでその足元へひざまずいた。
 あまりの光景にライオネルが絶句している一方、アレクセイは心当たりがある様子だった。困惑げに宙へ目を泳がせる。
「イ、イリヤ――イリヤ・ラフォンじゃないか」
 とアレクセイがつぶやいたのが、この赤毛の魔術師の名前らしかった。

4

「え、ええと、紹介しますよ。こちらはイリヤ・ラフォン。僕が帝都大学に通っていた頃の学友です。ライオネル」
 アレクセイは先にライオネルへイリヤを紹介した。次にイリヤへ向き直り、
「ライオネル・ジュネです。帝都大学の先生ですよ」
「僕が先に紹介されたということは、あちらのジュネ先生の方が目上というわけか」
「だって僕は今のあなたの仕事も知らないんですよ、イリヤ」
「実を言うと僕も故郷の大学の先生さ。去年雇われたばかりの新米だけどな」
「そうなんですか? だったらライオネルの方が年上だから。僕たちより二つ上なんですよ、あれでも」
「へえ、あれでも」
 ライオネルは、
「おまえたちそれはどういう意味だ!」
 とわめいてやりたいのをなんとかこらえ、作法に従って目上の自分からイリヤへ手を差し出した。もちろん嫌々ではあるが。
 イリヤはその手を取って軽く握った。握手が済むと、ライオネルは、離した手を目の前で拭いてやりたい衝動を抑えるのに苦労した。
「ところでイリヤ」
 と、アレクセイが言った。
「一体どういうわけで、ここに?」
「決まってるだろう。アレク、君にもう一度愛をささやくためにさ」
 と答えて、イリヤはアレクセイの手を取った。アレクセイは困って目を泳がせ、もう一度聞いた。
「あの、本当の理由は何ですか」
「本当だよ――まあ、そうだな、ついでに帝都で催される研究会にでも参加しようかとは思っているが」
 と、イリヤは、不審げな目つきをしているアレクセイをなだめるように言い添えた。アレクセイは納得したようだった。
「なんだ、僕は仕事のついでなんですね」
「とんでもない。逆だよ、逆」
 イリヤは甘ったるい声を出し、アレクセイの細い肩へ腕を回して抱き寄せた。頬をアレクセイの額へすり寄せ、彼にだけ聞こえるように愛の言葉をささやく。
 アレクセイは、迷惑とまでは言わないが、
「いたたた――イリヤ、髭が」
 イリヤの頬が肌に当たる度、髭がこすれて、それだけは辟易しているらしい。イリヤも気付いて、
「ああ、すまない、まだ自分でも慣れなくてな」
「学生時代と随分雰囲気が変わりましたね」
「僕も人並みに歳をとったのさ。アレク、君はそうじゃないようだが――本当にあの頃の、少年の姿のままじゃないか。君は人じゃなく天使か何かじゃないのかと本気で思いたくなる」
「まさか。僕もこう見えて結構老けましたよ」
「そんなことはない」
 イリヤは両手の掌でアレクセイの頬を優しく包み込んだ。
 完全に二人の世界といった感じで、面白くないのは一人ほったらかしにされているライオネルである。
 ごほん、とわざとらしく咳払いをする。が、一度では効果がなく、三度繰り返してようやく二人はライオネルの方を振り返ってくれた。ライオネルは不機嫌を隠さずに言った。
「お取り込みのところ邪魔をして悪いが、アレクセイと先約してるのは俺だ」
「男の嫉妬とは見苦しいものだな」
 とイリヤに揶揄され、ライオネルはますます不機嫌になる。
「違う! 俺は道理の話をしてるんだ!」
「ははは、気を悪くしないでくれ。僕も若い頃は、アレクセイの周りの男たちによく嫉妬したものさ」
「だからそうじゃ!」
「まあまあ二人とも」
 とアレクセイが割って入ってきた。
「ライオネルの言うとおりですよ、イリヤ。今日はこの後も他に予定がありますし」
「じゃあ夜はどうだ? 仕事の後に予定は?」
「え?」
 アレクセイはちょっと口ごもり、ちらりとライオネルに流し目を送った。が、ライオネルはそれだけで察して助け舟を出してくれるような気の利いた男ではない。
 何の手助けも得られないそうにない、とアレクセイは早々に諦めて、視線をイリヤに戻した。
「今夜は、まあ、今のところ特に何も」
「だったら夕食に誘わせてくれ。そうだな――七時に迎えに来よう。どうだ?」
「七時半にしてください」
「わかった。七時半だ」
 イリヤは約束を取り付けると、最後にもう一度アレクセイの耳元で何やら甘いセリフをささやき、去って行った。ドアから出るとき、ライオネルに向かって勝ち誇ったような一瞥をくれた。それがまた、ライオネルの癇に障る。
「なんなんだあの男は!」
 と、ドアが閉まってイリヤの姿が見えなくなるとすぐさまアレクセイに詰め寄った。
「ライオネル、イリヤに聞こえますよ。まだ廊下にいるでしょうし」
「聞こえるように言ってるんだ!」
「とにかく座ってくださいよ」
 どうどう、とアレクセイはライオネルをなだめて元の応接椅子に座らせた。
 ライオネルはアレクセイをにらみながら言った。
「アレクセイ、正直言ってだな、ああいう男を紹介されると、おまえへの信用が揺らぐぞ」
「あれ、信用してくれてたんですね、僕のこと」
「冗談で言ってるんじゃないぜ、俺は」
――まあ、イリヤは確かに尊大ですけど、そこに面白みのある人でもありますから」
「ただのご学友﹅﹅﹅って関係じゃなさそうだな」
「あー、それは、その」
「恋人だったのか」
 アレクセイは、どう話したものかと言いよどんでいる。小さくまとまった口元をもごもごさせていたが、やがて、
「あの、僕が何を話してもあきれないと約束してくれます?」
 と彼にしては珍しく、ライオネルの顔色を窺うような切り出し方をした。
 ライオネルはやっぱり聞くのをやめようかと思った。なんだか嫌な予感がする。とはいえ、それでは話が進まない。仕方なくうなずいた。
「約束はできないが努力はしてやる」
 ならばとアレクセイは話し始めた。
「イリヤは僕の大学時代で五人目の恋人でした。確か――いや待てよ、六人目――だったかな?」
「俺はもうすでに努力を放棄したくなってきた」
 やっぱり聞くんじゃなかった。とライオネルはさっそく後悔した。

5

「五人目だか六人目だか知らないが、アレクセイおまえ、学生時代からそんなにいろんな男と付き合ってたのか」
「僕は大学の初等課程に四年間いましたから――ええとその間に全部で十五人くらい交際したかなぁ」
 アレクセイが真面目な顔で指折り数えているのを眺めながら、ライオネルはめまいがしてきた。
「アレクセイ」
「何ですか」
「俺はおまえの男好きをとやかく言うつもりはないが、それにしたってよくもまあそんなに取っ替え引っ替え」
「ぼ、僕だってまだ若かったんですよ。故郷から進学のために帝都へ出てきたばかりで寂しかったし、それに――
「それに?」
――ま、まあとにかくいろいろ事情があったんです。イリヤとはたぶん一番長く続いて、それでも半年くらいでしたかね。二年生だったから、ちょうど二十歳くらいの頃でした」
「あんな嫌味な男のどこがよかったんだ」
「ああ見えて、彼は学年中で常に首席を取るほどの秀才だったんですよ」
「へーえ、人は見かけによらないな」
「昔は、ああいう感じじゃなかったんですけど。成績抜群で、スポーツも上手で、弁論も得意で、友だちも多くて。『可』ばかり取って一人でぽつんとしてた僕からすれば世界の違う人間でしたね」
―――
 ライオネルは、初めて聞くアレクセイの思い出話に感慨深い気持ちを覚えた。よほど神妙な顔になっていたらしく、アレクセイもそれに気付いて首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「いや、考えてみれば、おまえの学生時代の話なんか今まで聞いたことがなかったと思ってな」
「そうですね。あなたと再会したときには、僕もとっくに大学を出ていましたし」
「それで、おまえはその秀才のイリヤに惚れてたってわけか?」
「惚れてたというか、それは、ねえ?」
「ねえ、と言われてもだな」
「イリヤとは半年交際して、そのあと振られました」
「聞いたところ人気のありそうなヤツだから、他に恋人でもできたとか?」
「いえ、僕が別の学友に二股をかけてたのがバレたもので――
 ライオネルはあからさまにあきれた顔になっていたらしい。
「あきれないでくれるって言ったじゃないですか」
 とアレクセイが口をとがらせた。
「努力する、とは言ったが約束はしてないぞ、俺は」
「僕には愛想が尽きましたか?」
――そこまで単純な関係でもないだろうが、俺たちは」
 アレクセイは、ほっとして、
「で、その、二股がバレて振られたんですよ。そのときは逆上されて殴られもしましたし、以後は同じ学内にいても話すこともなくて、避けられてるものだとばかり思ってました」
「そんなヤツがどうして今になって」
「それがわからないから困ってるんじゃないですか」
 アレクセイは参ったようにため息をつき、恨めしげにライオネルをにらんだ。
「さっきイリヤに夕食に誘われたとき、僕は助けを求めてたのに、あなたは全然気付いてくれないし」
「わかるわけないだろ、おまえの頭の中の声が聞こえるわけでもなし」
「ちぇ」
 と、アレクセイはお行儀悪く舌を鳴らしてから言った。
「嫌だなぁ、今夜何言われるんだろう」
「別に恨み言を垂れようって感じには見えなかったと思うが」
 と言って、ライオネルはテーブルの上に置かれたバラの花束に目を落とした。
 アレクセイは夜のことを考えて気が重いらしい。しきりにぼやいていた。
「もしイリヤに、今恋人はいるかって聞かれたら、ライオネルだって答えてもいいですか?」
「絶っっっ対にやめろ!!
 そのうち、次の来客の予定の時刻が近付いてきた。ライオネルは、多少気がかりそうなそぶりを見せつつ大学へ帰って行った。
 アレクセイは夕刻までの間、客人の相手をしたり、ライオネルに頼まれた共同研究の書類に目を通したり、できるだけ忙しくして過ごした。
 夜七時半、約束の時間きっかりにイリヤは再び現れた。
「アレク、僕だ」
 ノックをして部屋に入ってきたイリヤは、支度をすっかり済ませて待っていたアレクセイを見て、満足そうに目を細め、口の端を吊り上げた。
 応接用のテーブルの上に花瓶が置かれ、昼間イリヤが持ってきたバラが活けてある。イリヤはそこから一本花を折って、アレクセイの上着の襟へ挿した。
「よしてくださいよ」
 と、アレクセイは顔をしかめた。
 イリヤは別段気を悪くした風でもない。
「君の白磁のような肌には赤がよく映えるのに」
 と苦笑して、アレクセイの上着から花を取ると、それをそのまま自分の上着の襟へ挿した。
 イリヤは晩餐のために着替えたらしく、昼間よりも改まった格好をしていた。伊達な様子だった赤毛も、前髪を上げて後ろへ撫でつけてある。
 アレクセイが言った。
「昼間よりは昔の面影がありますよ」
「そうかな?」
「ええ、学生時代を思い出します――いろいろと。ねえイリヤ」
「おっと、積もる話は店に行ってからにしようじゃないか。僕はもう腹ペコでさ」
 イリヤは、物言いたげなアレクセイを制して、外へ連れ出した。
 学士院の建物を出たところで、イリヤはちょっと後を振り返って、
「アレク、君は僕の容姿が随分変わったと言ってくれるが、君も――見た目はともかくとして――いささか変化があったらしい。まさか君が、かの誉れ高い帝国学士院の会員になっているとは夢にも思わなかった」
 と言った。
 外壁を白いタイルの装飾とテラコッタに覆われた学士院の建物は、荘厳というよりは瀟洒で近代的な感じがする。
「僕もいろんなことがあったんですよ」
 とだけアレクセイは答えた。それ以上踏み込んでほしくなさそうな口調だった。
 水路の張り巡らされた学士院の敷地を抜けると、手近な辻馬車を拾って二人は市街地へ向かった。
 帝都は日が落ちてますます賑わっていた。一番の大通りである枢機宮通りは、帝都の中でも最も栄え、歓楽と奢侈の天地だった。昼は数多の商店で人々が贅を競い、夜は飲食店と賭場に客が押し寄せる。
 二人を乗せた辻馬車は、枢機宮通りに交わる多くの細道の一つへ入っていった。
 ちょっと人目に付きにくいところに、サローランという名の隠れ家的レストランが店を構えていた。アレクセイとイリヤはそこへ入り、屋外のテーブルへ通された。蔦の這う壁際の席に二人差し向かいに座った。
 魔法の明かりを入れたガラスのランプが店を照らしている。テーブルには燭台も置いてあって、手元は十分に明るい。
「食前酒は?」
 とイリヤに聞かれ、アレクセイは一、二拍置いて答えた。
「ベルモット。辛いので」
「じゃあ僕もそれだ」
 給仕が小さなグラスに酒を注いでくれた。
「乾杯するか?」
 とイリヤが言った。
「何に?」
 とアレクセイは首をかしげた。おおかた、二人の再会に、とでも返されるのだろうと思っていた。
 アレクセイの予想は外れた。イリヤはグラスの脚に触れながら言った。
「そうだな、まずはアレク、君が帝国学士院に迎えられたことに。第七階梯への進級おめでとう」

6

 この国の魔術師は大別して二つに分けられる。帝国魔術師か、それ以外か、の二つだ。
 大まかには、帝国魔術師は国が認可した魔術師、それ以外は非認可であると言っていい。いわゆる官許の魔術師に当たる帝国魔術師を総括しているのが帝国学士院である。
 魔術師のほとんど――アレクセイのような学士院会員やライオネルのような大学教員を初め、田舎町で薬草を売っているような零細魔術師に至るまで――が帝国魔術師であった。
 彼らはもれなく、帝国学士院によって明確に階級付けられている。この階級は『階梯』と呼ばれ、第一階梯から始まって、最高位は第八階梯である。
 実のところ、今日では帝国魔術師のほとんどは第三階梯から第六階梯のいずれかに属している。古い時代には、階梯は真に魔術師の力量を表すものだったが、現在では形骸化してしまった。下位の第一、第二階梯は事実上存在しなくなり、第三から第六階梯は教育機関で一定の課程を修めることで取得できる資格になった。
「今じゃ実質的には称号以上の意味は持たないとはいえ、第七階梯へ進級できるのは限られた魔術師だけだ。名誉なことだぞ」
 と、イリヤは言って、グラスのベルモットを飲み干した。アレクセイも半分ほど空けていた。
「ありがとうイリヤ。でも所詮、学士院の偉い人が決めたことですから」
 第七階梯は、特に功績のある魔術師に対して帝国学士院が授与する勲章的な意味合いが強い。帝国学士院には功績顕著な魔術師を優遇する役割もあり、第七階梯を授与された魔術師は学士院会員に招かれるのが通例だった。
 アレクセイはグラスの中身を全て喉へ流し込んでから、さっきのセリフに重ねて言った。
「僕は一応学士院の研究会員ですけど、研究方面はさっぱりですよ」
「だろうな。君は学生時代から学術的な方面には疎かった」
 と、イリヤは笑った。嫌味な感じではなく、昔を懐かしんで、思わず笑みがこぼれたという風に見えた。
 イリヤは給仕を呼んで、料理を始めてくれるよう頼んだ。それからアレクセイに向き直って言った。
「君が学士院の勧めに従って会員になっていたのは正直意外だがな、君の功績がどんなものだったかは、僕の故郷まで聞こえていたよ。そういえば言っていなかったな? 僕は帝都大学の初等課程を修了して第四階梯に進級した後、実家の都合で故郷の大学へ移った」
「そうでしたか」
「ちょうど五年くらい前だったか? 帝都に現れた“変異体”を、君が黄金の契り派の大魔術によって鎮めたと――
「“変異体”じゃありません、第八階梯魔術師です」
 と、アレクセイはイリヤがまだ話している最中に口出しをした。非礼を詫びてから言い添えた。
――パーヴェルという名の第八階梯魔術師でした、僕が魔術を行った相手は」
「そのパーヴェルというのはかつてない魔力を持つ魔術師だったと聞いてる。この帝国で、君の他にそいつを滅し得る魔術師はいなかったそうだ」
「世間の人はとかく大袈裟に話すものですよ」
「いや、僕はあながち嘘ではないと――むしろさもありなんと思ったよ、それを聞いたとき」
―――
 給仕がやって来て、二人の前に料理を供し、新しいグラスに白ワインを注いだ。
「君に出会うまで、僕は真の魔術師というものを知らなかった」
 と言い、イリヤはアレクセイの淡い色の双眸を覗き込むように見つめた。
「出会ってからは全く魅入られてしまった。君自身と、それに黄金の契り派が伝える素晴らしい魔術にも」
「夕食を頂きませんか、イリヤ。お腹が空いてたはずでしょう?」
――そうだな」
 アレクセイには目をそらされたが、イリヤはそれを追うことはしなかった。
 二人は前菜を済ませ、妙味に富む海老のビスクを経て、牡蠣、子羊と進んだ。食べながら、極力当たり障りのない思い出話をした。
「イリヤは口が悪い割に人気者でしたからね」
 と、あるときそんな話になった。
 イリヤは、ふんと笑ってかぶりを振った。
「ああいうのは悪目立ちしていたというのさ。当時こそ僕もいい気になっていたけどな、多少歳を食って賢くなった今ならわかる」
「まあそうだとしても、いい青春時代だったんじゃないですか。僕なんかは田舎から出てきたばかりで友人もいなかったし、成績も中の下といったところで――
「ああ皆、君の事をそういう風に思っていた。てっきり垢抜けない子供だとばかりな。僕も最初はそうだった」
 帝都大学の初等課程は、帝国魔術師として第四階梯に進級するための教育を学生たちに施す。学生の入学年齢は多くが十八歳か十九歳だった。アレクセイとイリヤは、ともに十九になる年に入学した。
 アレクセイは、自分でも言うとおり、今ひとつ成績の振るわない学生だった。単位を落としたことこそなかったが、いつもギリギリで合格し、それ以上学力が向上する様子もない。
 一緒に勉強するような友人もいないようだし、大学の講堂でも一人でぽつんとしていることが多かった。ただ、人目を引く容姿だから、声をかける学友は少なくなかった。だが、どういうわけか皆長続きしない。
 一方でイリヤは、毎日取り巻きに囲まれて過ごし、それが自信を裏打ちしていた。ある日、たまたま周りの学友たちにそれぞれ用事があり、一人になったことがあった。いつになく落ち着かない気分だった。
 それで、講堂でふと思い付いて、窓際の席に一人でぼんやり座っていたアレクセイに近付いた。
「アレクセイ・カミュ」
 と、呼びかけると、アレクセイはこちらを振り向いた。イリヤは不遜な口調で続けた。
「隣に座っても?」
「どうぞ」
 アレクセイはうなずいた。元のように前を向いて、少し考えたのち、またイリヤを見て、
「あの、あなた誰でしたっけ?」
 と首をかしげた。それがイリヤの自尊心をはなはだ傷付けた。思わず上ずった声が出た。
「僕を知らないのか!? 一年同じ学年にいたのに!?

7

「イリヤ・ラフォンだ」
 とイリヤは極めて不機嫌そうに名乗った。
 アレクセイはその名前に興味を覚えたらしかった。
「へえ、イリヤ――ご両親は血の夜明け派の魔術師? あなたもそうなんですか?」
「そうだが――どうしてわかる」
「イリヤは1359年に没した、血の夜明け派の偉大な魔術師の名前だから。『血脈』に書かれたヴァッサイの詩にも名前が出てきます。
〈大イリヤは鷹を放つ。
 鷹の嘴が天を裂き、翼が風を送って雲を吹き飛ばす。
 光を飲み込み、闇夜を飛び去っていく。
 イリヤの鷹は戻らない。〉」
 イリヤは目を見張った。
「『血脈』は、血の夜明け派の聖典だぞ。君も同じ教派だったのか?」
「違います。でも父に勧められて一度だけ読みました」
「では、お父上が血の夜明け派の?」
「いいえ、父は黄金の契り派です。それに僕も」
「黄金の契り派?」
 名前を知らないわけではなかったが、イリヤは実際にその教派の魔術師に出会ったのは初めてだった。現代ではそれくらい珍しい。
 黄金の契り派は北部の地方にいくらか姿を残していると聞く。彼らがどんな教義を持ち、どうやって魔術を行使するのか、イリヤはほとんど知らなかったが。
 アレクセイの容姿にはなるほど北部出身者らしい特徴がある。色白の肌、金髪、淡い色の瞳――イリヤはまじまじとアレクセイを見つめた。アレクセイの方はそれに気付かないのか、あるいは気付いていても珍しがられるのには慣れているのか、知らん顔をしている。
 アレクセイはイリヤが思っていたよりずっと多弁な少年だった。
「『血脈』は素晴らしい指南書ですね。血の夜明け派がこの国で最も大きな教派に育ったのは、ああいう優れた書を残したおかげでもあると父が言っていました」
 と言い、気に入っている詩の一節などをいくつかすらすらと暗唱して見せたから、イリヤは目を剥いた。
「『血脈』を読んだのは一度きりだと言わなかったか? あれは千ページ以上あるんだぞ」
「一度読めば覚えてますよ」
「馬鹿な!」
 イリヤは理解に苦しんだ。アレクセイの涼しい顔を穴が空くほどにらみながら言った。
「それだけ物覚えがいいのに、僕の名前も覚えていなかった」
「興味のないことは覚えられません」
 と、アレクセイにはっきりと言われてしまった。イリヤとしては面白くない。
 むっ、とイリヤが口を真横に結んでいると、アレクセイが言った。
「今覚えましたよ」
「ありがとう」
 とイリヤは口を横一文字にしたままお礼を言った。
 イリヤは、ふと、思うところあって、アレクセイに問いかけた。
「君の大学での成績が振るわないのも、興味がないからなのか? 近代魔法学は美しい理論だ。それに教派に関わらず広く役に立つ」
「僕は無事過程を修了して、第四階梯に進級できさえすればいいんです」
 と、アレクセイは我関せずと遠くを眺めて答えた。イリヤは食い下がった。
「なぜ?」
「魔術師として必要なことは全て父に教わりました。ただ、世間の人が要求する地位や称号は、こういう場所でないと手に入らないでしょう?」
(なんてヤツだ)
 というのが、イリヤのアレクセイへの第一印象を要約した想いだった。それは必ずしもいい印象ばかりではなかったが、以後イリヤはアレクセイを見かけるとちょくちょく声をかけるようになった。
 アレクセイは、伝統的な魔術の諸派の教義や、古い詩や芸術について語らせると非常に雄弁だった。あるとき、講義の合間に血の夜明け派の教義の解釈について論じ合った際など、自派であるはずのイリヤの方が言い負かされそうになったくらいだ。
 その代わり、大学で講義を受けたはずの魔法学の知識となると、アレクセイはてんでダメなのである。
「ヴァッサイの詩を完璧に暗唱して解釈できる君が、どうしてマールの法則や、ヒエロニムスの公式や、最終定理程度のことを考えられないのか理解に苦しむ」
 と、イリヤはいつも不思議がっていた。
「寄宿学校ではどうしていたんだ? 初歩的なことは習ったはずだが」
「僕は学校に行っていないので」
「全く?」
「ええ。魔術のことは父に、それ以外は家庭教師に習いました。魔法学の初歩は家庭教師が教えてくれたはずだと思いますけど、楽しくなかったから」
「お父上は子供の君にヴァッサイなんか教えていたわけか」
「そうですよ。他にも父の知ることは何でも――僕は父の魔術の全てを受け継ぎたかったんです」
「父親の複製になりたかったと」
―――
 アレクセイがいつになく冷たい目つきでイリヤをにらんだ。イリヤはそっぽを向いて言った。
「僕は謝らないからな」
「あなたに謝られても、それはそれで気持ち悪いですよ」
「お父上は今も故郷に?」
――いえ、父は帝国学士院にいます」
「へぇ、それは大したものだ。大学からも近いじゃないか。会いに行ってるのか?」
「いえ――
 とアレクセイはかぶりを振ってうつむくと、じっと黙り込んでしまって、あとは取り付くしまもなかった。
 そんなような思い出話を晩餐席のアレクセイとイリヤはしていて、その話がふと途切れたとき、イリヤが言った。
「そういえば、僕は今日帝国学士院へ行ったが、君のお父上らしき魔術師はいなかったな、アレク」
「父は亡くなったんです」
 と、アレクセイは短い言葉で答えた。
「亡くなった? いつのことだ」
「五年前――
「君がパーヴェルとかいう第八階梯魔術師相手に魔術を行ったときか?」
「ええ、まあ」
 お父上はパーヴェルに殺されたのか、と聞かれるものとばかり思って、アレクセイは身構えた。が、その予想はまたも外れた。
「随分つらい思いをしたんだな君も」
 とイリヤは、思わずはっとするような優しい声で慰めてくれた。
 アレクセイは決して不快には感じなかった。心の中で固く締め付けた紐の結び目があり、イリヤにそれをそっと撫でられたような気持ちだった。

8

 大学時代、アレクセイとイリヤが恋人のような﹅﹅﹅﹅﹅﹅交際を始めたのは、親しく話すようになってから半年ばかり経ったのちのことだった。
 二人は課程の二年生を半分終え、季節はそろそろ秋に差しかかろうというところだった。
 二年生になると、座学の講義の他に魔術の実験などもいくらかあった。普段の授業と違い、そのときだけは大学指定の黒いローブを着用する規則になっていて、学生たちにはすこぶる不評だったものだ。
 ある日の実験中に、アレクセイがガラスの試験管を一つ割ってしまい、後で居残って再実験するように教員に命じられた。そのとき、同じ班の班長だったトマスという学生が監督することになった。
 イリヤは別の班の班長だったが、授業中のその些細な事件を覚えていた。それで、放課後なんとなく気になって実験室に戻ってみた。アレクセイは、いくら学術的なことが苦手だとはいえ、そういうくだらないミスをするようなタイプではなかったはずだと思う。
 講義棟の奥まったところにある実験室は日の光がほとんど入らず真っ暗に近かった。照明も落ちている。部屋の中にも、辺りにも人気がない。ひっそりと静まり返っている。
(もう二人とも実験を終えて帰ったのか)
 とイリヤは思って、部屋の前後にあるドアの後ろの方に近付いた。無造作にノブをつかんで静かに押し開けた。
 途端に、中から人の気配を感じた。
(! しまったな)
 と思ったが今更ノックをするのも間が抜けている。それに、アレクセイとトマスが魔術の実験をしているにしては妙な雰囲気だった。
 暗闇の向こうから、トマスらしきうめき声が聞こえた。
「っ、あ――
 イリヤは、ぎくりと身を硬くした。ドアノブを握る手に我知らず力がこもる。息を潜め、足音をうんと忍ばせて、部屋の中へ一歩身を乗り出した。
 アレクセイとトマスが、前方の実験机の上で二人折り重なっている姿がぼんやりと目に入ってきた。
 トマスが上で、アレクセイが下になっていた。裸ではないようだったが、アレクセイは黒いローブの前を開いているらしく、白い胸元が暗がりにぼんやり浮かんで見える。
「あ、っく、ああっアレクセイ――
 と、トマスの切羽詰まったような声が聞こえる。アレクセイは、腹の上に乗っているトマスの背中へ細い両腕を回してささやいた。
「うん――素敵だよ、トマス。大丈夫、そのまま――
 二人が何をしているのかわからないほどイリヤは子供ではなかったし、それを興味本位で覗くのは紳士のすることではないという克己心もある。室内へ入れた右足を廊下へ戻し、音を立てないようにその場を去ろうとした。
 だが、ドアを閉める直前、ふと、誰かに見られているような視線を感じた。
 イリヤは、アレクセイは実験机でトマスに組み敷かれ、夢中になっているものとばかり思っていた。しかし顔を上げて見ると、アレクセイが冷めた目つきをして、トマスの肩越しにこちらを見ていた。互いに目が合った。
 ぞっ、とイリヤは背筋が冷え、急いでその場を離れた。
 イリヤは大学の学生寮に帰り、夕方頃まで自室で一人で過ごした。実験室で目にした光景についてずっと考えていた。
(あれは一体何をしていたんだ?)
 二人が抱き合って何かしていたのには違いない。さっきは安直に同性間で関係を持っているものと思った。けれど、それにしては――
 埒の明かぬ考えをあれこれ巡らせていると、来客があった。ドアをノックされたので、
「どうぞ」
 と、イリヤは多少上の空気味に返事をした。
 ドアを開けた人間を見て、イリヤは、ぎょっと目を剥いた。
「寮の部屋って思ったより広いんですね」
 と、アレクセイが物珍しげに室内を見回しながら入ってきて、イリヤのいる机から少し離れたところで立ち止まった。
 イリヤは椅子を蹴って腰を浮かせた。
「アレクセイ」
「いきなりお邪魔してすみません」
「い、いや――
 アレクセイはすぐに用件を切り出すそぶりがなく、のんびりとイリヤの部屋を眺めている。勉強用の机と、ベッドと、小さなクローゼットと、身の回りの物をしまう場所が少し。簡素なものだが、一人部屋だった。二人部屋より一人部屋の方が人気だから、要領よく申し込まないとすぐ埋まってしまう。
 やがて、イリヤの方が沈黙に耐え兼ねて口を開いた。
「実験室でのことなら謝る」
――珍しいですね、あなたが謝るなんて」
「ノックを忘れたのは僕の過失だからだ。君たちの関係を他言するつもりはない」
「まあそれはいいんですけど」
 アレクセイは上目遣いになってイリヤを見つめた。
「僕とトマスがしてたこと、あなた気になってるんじゃないかと思って」
 イリヤはきっぱりと首を横に振った。
「君たちの個人的な関係には――
「そうじゃなくて、何を、していたかってことです」
―――
「やっぱりね」
 にたり、とアレクセイは不気味な笑みを浮かべた。
「あなたなら興味を持ちそうだと思いました」
「僕は同性愛者じゃない」
「関係ありませんよ、性別とか性的指向というのは、あまり。まあ僕は、今まで異性との間で“交歓”したことはないですけど」
「“交歓”――?」
「僕たち黄金の契り派の魔術師はそういう風に呼んでいるんですよ。物質体による性交とは全く別の、アストラル体同士を交える禁じられた遊びのことを、ね」
 イリヤにとっては、にわかには理解しがたい話だった。
「物質体? アストラル体? なんのことだ」
「僕たちの教派での人体の解釈法の一つです。物質体はいわゆる肉体ですね。アストラル体は、わかりやすく言えば精神とか意識とか、そういう物に近いでしょう。普通の性交は物質体の結合をもって行うものですが、“交歓”はアストラル体を直接繋げてしまうわけですよ、荒っぽく言えば」
「他人同士の精神を繋げる!? 不可能だ!」
「と、みんな最初はそう言うんです」
―――
「あなたも試してみたいって顔してますよ、イリヤ」
 とアレクセイがからかうと、イリヤは恥じ入ったようにうつむいた。アレクセイはますます気味の悪い悪魔のような笑顔になって、ゆっくりとイリヤに歩み寄った。
「案外可愛いところがあるんですね――
「だ、だめだ!」
「どうして?」
「君にはトマスが」
「トマスとはただの遊びですよ。それに彼はあまり上手じゃなくて、実験室でしたときも僕は満足できなかったから」

9

 東向きの寮の部屋は、夕方になるともう明かりなしでは手元が見えないほど薄暗い。暗がりの中ぼんやりと、白っぽい姿のアレクセイが壁紙から浮かび上がって見えていた。
「ベッドを借りますよ」
 と、アレクセイは言って、硬いシーツの敷かれた寝床の上へ座り込み、淀みのない手つきでベストのボタンを外し始めた。上着は先に脱いである。ほっそりした指先をシャツの襟とタイの隙間へ差し込んでタイをほどいてしまうと、透けるように白いシャツ一枚の姿になった。
「おいで、イリヤ」
 と促す。イリヤはベッドから少し離れたところに立ち尽くし、彼にしては珍しく、ぐずぐずと迷っている様子だった。
 アレクセイはイリヤを挑発した。
「怖気づきましたか?」
 イリヤは正直に白状した。
「ああ怖いさ」
「“交歓”が? それとも男同士で寝床に上がるのが?」
「両方だ!」
「別に怖がるようなことじゃありませんよ。“交歓”自体は痛くもなんともないし」
 アレクセイはシャツの一番上のボタンを外した。
「あなたがどうしても嫌だっていうなら、まあ別に寝床でなくても、立ったまま手を触れているだけでだってできることではありますけど――でもあなたは初めてだから、横になってした方が楽ですよ」
「手を触れているだけでいいんだったら、どうして君は服を脱いだんだ?」
「チャクラを介した方が簡単ですから」
「チャクラ?」
「アストラル体と物質体を接続する急所のようなものです。人の体には七つあり、そのうち一つは胸にあるんです」
 イリヤは、アレクセイが実験室でもローブの前をはだけて胸元を露わにしていたことを思い出した。
「君が実験室でトマスと抱き合っていたのは――
「ああやってお互いのチャクラが触れ合うようにしていたんです。それ以上のことは別に。何もしませんよ――あなたが僕に欲情するっていうんじゃなきゃね」
 アレクセイの涼しい顔に、イリヤが思わず圧倒されそうになるほど淫らな笑みが浮かぶ。アレクセイの表情も声も自信に満ちていた。今この場で主導権を握っているのは間違いなく彼の方だ。
 手慣れている。今まで何人も他の学友たちをもてあそんできたに違いない。とイリヤは思った。しかし同時に、
(僕はそう簡単にはオモチャにはされないさ――
 自分だけは違う、大丈夫だ、と心のどこかにそんな気持ちがある。その希望的観測にすがりつくのは危険だが、最も気が楽な選択だった。
 イリヤは意を決して、ついに一歩踏み出した。ゆっくりとベッドに近付くと、縁に腰を下ろして、真顔でアレクセイの顔を覗き込んだ。
「アレクセイ、僕は君に欲情したりはしない」
「そうですか」
 アレクセイは苦笑しながら寝床へ仰向けになった。
「じゃ、どうぞ、イリヤ」
 イリヤはアレクセイに乗り掛かるようにして上になった。ただ、完全に覆いかぶさる前に、寝床へ置いた両腕で体を支え、その間にいるアレクセイを見下ろして言った。
「一つ聞きたいんだが、その、“交歓”にはつまり――性的な快楽が伴うのか?」
 実験室でトマスがもらしていた声は情事のときの喘ぎ声そのものだったようにイリヤは思う。
 アレクセイは、さあ、と首をかしげた。
「知りません。僕は童貞だし、それにいわゆる処女﹅﹅なので」
―――
「でも気持ちいいのは確かですよ――とっても――
 アレクセイはイリヤを抱き寄せ、自分の胸の真ん中をイリヤの胸板に押しつけるようにした。
「イリヤ、いきなり何か入ってくる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ような感じがすると思いますけど、驚いて僕から離れたりしちゃだめですよ」
「あ、ああ」
「下手をすると、あなたの魔力がごっそり僕の方に吸い取られますからね」
 と、アレクセイは怖いことを言う。
「アレクセイ、脅かすな」
「冗談で言ってるわけじゃありません。アストラル体は魔術師の魔力の実体と言っても過言じゃないですから――僕を信用して任せて」
 イリヤは、間近で聞こえるアレクセイの呼吸が特殊なリズムを持って繰り返されていることに気付いた。
「アレクセイ――
「しっ」
 アレクセイはイリヤにそれ以上喋らせなかった。
 “交歓”がどのように気持ちいい﹅﹅﹅﹅﹅のか、アレクセイも、その相手をした学友たちも一切語ったことはなかったし、イリヤも結局生涯誰にも話さなかった。
 小一時間も経った後には、アレクセイとイリヤの関係はそれまでとは一変してしまっていた。
 アレクセイはその日イリヤの部屋に泊まった。翌日も泊まった。
 そして三日目の明け方頃、イリヤと一つ寝床でまどろんでいたアレクセイが、寝物語にこんな話をした。
「僕たち魔術師の遠い祖先は、天に住まう創造神の御使いたちなんだよ。御使いたちは地上で人間と“交歓”によって交わって、巨人の子を産ませた。それが僕たちの始祖。御使いたちは、人間にいろんな魔術や技術を教えて、それが神の怒りに触れたんだ。人間が神に近づくことこそが原罪だから」
 イリヤはアレクセイに向けた背中でそれを聞いていた。枕へ突っ伏した顔が目に見えてやつれている。この二晩、ほとんど眠れていない。胸中に去来する背徳感で目は冴え切っている。“交歓”をアレクセイにせがまれると、イリヤはもはや抗えなかった。
 アレクセイは、イリヤが黙っていても気にせず語り続けた。
「御使いたちは天を追われ、地に堕ちた。それでもみんな、いつかは天に帰ることを――父なる神の膝元へもう一度侍る日を夢見ていたんだ。その天へ帰りたいという望みは、彼らの末裔である僕たち全ての魔術師の血に深く刻み込まれているんだって」
――それも父親に教わった話か、アレク」
「そうだよ」
 アレクセイはイリヤの耳元へ口を寄せてささやいた。
「あなたのその甘い声で『アレク』って呼ばれると、まるで父さんに呼ばれてるみたいだ。父さんはとっても声の綺麗な人なんだよ、イリヤ」

10

 ねぇイリヤ、とアレクセイはさらに言った。
「変異体って知ってる?」
「“変異”――?」
「まれに起きる魔術師の先祖返りのこと。何年かに一度くらい、騒ぎになって新聞にも載ってるよ」
 イリヤは、しばし思案してから、首をひねりながら聞き返した。
「もしかして『魔術師の狂乱病』のことか?」
「今の学問ではそう呼ぶのかな?」
「原因不明の精神病だ。ある日突然魔術師が発狂して、そのまま何日かすると死ぬ――遺伝性のものだとか地域性のものだとか、いろいろ言われてはいるが、確かなことはわかっていない。魔術師の人口に対して発症率が決して高いわけじゃないからな」
「黄金の契り派ではそれを“変異”とか“先祖返り”と呼ぶんだ。だって、あれはどう考えてもただの脳の病気じゃないでしょう」
「僕はこの目では見たことがない。どうなるんだ?」
「先祖の姿に返るんだ――僕も実際に見たわけじゃないけど。さっき話したじゃない、僕たち魔術師の始祖は天の御使いと、彼らが人間に産ませた巨人だって。そういう姿になるみたいだ」
「それじゃ化け物じゃないか」
「そうかもね。でも僕たちの血に刻まれた古い記憶からすれば、それこそが至高の魔術師なのさ。僕たちはいつか堕天した御使いたちに代わって天へ帰るために、天地の狭間で生かされてるんだから」
 アレクセイがイリヤの顔を見ると、彼は大人からいきなり難しい話を聞かされた子供のような、疑わしげな目つきをしていた。それをアレクセイは面白がっているらしい。
「イリヤ、帝国魔術師の階級の最上位は何だか知ってる?」
「第八階梯だ」
「その選定基準」
「極めて功績ある――
「それは最近の建前。本来のだよ」
「知らない。もう長いこと空位になってるはずだ」
「空位しかあり得ない」
「? なぜ」
「第八階梯を認められるのは“変異体”の魔術師だから。つまり始祖の姿に戻ってしまった化け物。長くは生きていられないんだ」
―――
「最も天に近い魔術師に――天国への梯子を多く上った者に魔術師として最高の地位と名誉を与えるってわけ。帝国学士院も案外気が利いてると思わない?」
 と、アレクセイは笑いながら言ったが、イリヤは何も答えなかった。
「イリヤ」
 アレクセイは少し不安そうな表情になって、細い眉をしかめた。
「あんまり面白い話じゃなかった?」
 イリヤは静かにかぶりを振った。
「いや。ただ――考えていたのさ」
「何を?」
「君たち黄金の契り派について。君たちの教義は近代魔法学とは全く異なる解釈でこの世界を見ているが、その方が腑に落ちることも多いらしい。それなのに世間にほとんど知られていないのはなぜだ?」
「さあ」
「もっと世間に自派を広めたいと思わないのか?」
「別に、思わないかな」
「なぜ?」
「だって僕たちは収束しなくては」
 と、アレクセイが返してきた答えをイリヤは理解できなかった。それをそのまま口に出すと、アレクセイは、ふふと笑い、
「〈増えよ、増えよ、増えよ。〉とヴァッサイが歌った血の夜明け派とはその点ではわかり合えないのかもね」
 と言いながらイリヤの体へ手を伸ばした。イリヤは、びくっと小さく身震いしたが、拒みはしなかった。アレクセイはイリヤの寝間着のボタンを上から一つずつ順に外し、自分も同じようにしてなだらかな胸元をさらけ出した。
 促され、イリヤはアレクセイの上に乗りかかった。アレクセイが下からイリヤの背中へ両手を回し、耳たぶへ唇を押しつけて言う。
僕たちは至高なる一体に収束しなくては﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 アレクセイの声は興奮を隠そうとせず、ぐび、と生唾を嚥下する音が混じった。暗い部屋の中では目立たなかったが、いつもは淡く灰色がかった青い目も、今は血が上って赤みを帯びているに違いない。
「イリヤ、あなた素敵だよ――最近した相手の中では抜群に上手だし、アストラル体も大きくて、かなりはっきりしてて、熱い――
「そうか」
「あなたの蜜なるアストラル体が“変異”したらどうなるのか、僕は興味があるよ。ああイリヤ」
 うっとりと目を細め、“交歓”のために魔力をチャクラへ置き、特殊な呼吸法でそれを練り上げていく。叩き、伸ばし、こねて、編んで、そうして鍛えたそれでイリヤを侵す瞬間、アレクセイは大きくのけぞって白い喉を歓喜で震わせた。
 イリヤは寝床のシーツを握り締め、歯を食いしばって、アレクセイに入られた瞬間だけは耐えた。が、その後はもうだめだった。
 それから二人は溺れるようにしてこの関係にのめり込んでいった。
 これまでアレクセイが付き合った学友たちは、皆普段はわざとアレクセイによそよしい態度を取り、自分たちの関係を周りに気取られないように細心の注意を払っていた。
 しかしイリヤは全くタイプが違う。堂々とアレクセイのそばで過ごした。イリヤを取り巻いていた軽薄な学友たちの中には、気味悪がって離れていった者も少なくなかった。
「いいの? せっかくたくさんお友達がいたのに」
 と、アレクセイは聞いてみたことがある。
 イリヤは、ぶすっと口をとがらせた。それを見てアレクセイは苦笑いし、
「少しは気にしてるんでしょ」
「別に。人の交際相手を見て離れていったやつらだ、お友達なんかじゃなかったわけだろう、実際」
「元気出しなよ」
 とアレクセイは慰めて、講義机の上に広げていた荷物を片付けた。
「次の講義があるから、僕もう行くよ」
「次は詠唱分析か?」
「うん。講師の先生が素敵なんだ」
「アレク」
「冗談だよ――ところで今夜は僕の下宿に来る?」
「いや、今夜はシモン先生と約束がある」
「そう」
――アレク、次の講義までどれくらい時間がある?」
「半時間ってところかな。急げば今なら自習室が空いてるよ、きっと」
 “交歓”は昼夜を問わずどんな場所でもできた。
 詠唱分析の講義が始まる定刻ぎりぎりにアレクセイは講堂へ駆け込んだ。隅の方に一つ空いていた席へ滑り込むと、隣の席に座っていた学生が待ちかねたように声をかけてきた。
「アレクセイ、遅かったな――イリヤと?」
「まあちょっとね」
 隣の学生は不機嫌そうに眉をしかめ、周りに聞こえないように声を潜めて悪態をついた。アレクセイは苦笑して、
「その代わり、今夜は彼、先生と約束があるんです」
 と、教壇の方を見ながら、小声でつぶやいた。隣の学生が途端に嬉しそうな顔になり、同じように教壇の方を向いてささやいた。
「じゃあ僕の下宿で待ってるよ」
 アレクセイはイリヤと度々口論になった。たいていの場合原因は、アレクセイがイリヤ以外の男と“交歓”で関係を持つからだった。
「僕に不満があるのか!?
 とイリヤは何度も問い詰めたが、アレクセイがはっきりと答えを寄越したことは一度もない。イリヤは優秀な学生で、弁才も経ち、赤毛の容姿も人目を引く。大学の女子部などにはイリヤに憧れている娘もいるらしい。アレクセイに対しては誠実だったし、“交歓”も他派にしては巧みだった。不満らしい不満など起こりそうもない。
 しばらく経つとほとぼりが冷めて、二人はまた互いに求め合い“交歓”に溺れた。
 だがアレクセイはいつもどこか満たされないままである。やがて他の男にちょっかいをかけ始め、それをイリヤに咎められて、その繰り返しだった。
 そんな関係が半年もった。
 ある日、もう何度目かの口論になったとき、イリヤは逆上して初めてアレクセイに手を上げた。
 アレクセイは例のごとく別の学友に二股をかけていた。その相手は、あのトマスであった。かつて自分の方がトマスからアレクセイを奪ったはずなのに――と思うと、イリヤは自尊心を酷く傷付けられた。
「もうたくさんだ!!
 と吐き捨てて、イリヤはアレクセイと決別した。
 アレクセイも、多少寂しげな顔はしたが、
「さようなら――
 とだけ答えて、イリヤを引き止めはしなかった。

11

「ずっとあのときのことを謝りたいと思ってた」
 とイリヤが言った。
 サローランでの晩餐は全ての食事を終え、アレクセイとイリヤは社交室に通されていた。安楽椅子でくつろいでいるイリヤの吸う煙草の煙が、薄暗い店内の照明に照らされて天井の辺りでゆらめくのをアレクセイは眺めていた。
「え?」
 と、アレクセイは意外そうに目を見張って、イリヤの目の高さへ視線を下ろした。あのときのこと、が学生時代お互いに決別した日のことだろうとは察しがついた。しかし、
「謝るなんてとんでもない。悪いのはどう考えても僕の方なのに」
 イリヤが謝る道理はないと思って、慌てて言った。するとイリヤも意外そうな顔をした。
――やっぱり、だいぶ内面は変わったらしいな、アレク」
 イリヤは煙草を置いて、ブランデーの注がれた器を手に取った。煙草に合わせた強い風味の酒を一口含み、噛みしめるようにして喉へ送る。そのとき何か考えている風情だった。
 アレクセイも食後酒を手にして、イリヤの次の言葉を待った。アレクセイの細い指に支えられた円錐型のグラスには澄みきった紫スモモのオードヴィが満たされている。
 イリヤはブランデーを置き、煙草を指の先に持ち直して、首をかしげた。
「あのライオネルとかいう教員が君を変えたのか? 彼は優しくしてくれる?」
「ライオネルとはそういう関係じゃありませんよ。彼とは幼なじみなんです」
「幼なじみ? 初耳だ」
「子供の頃しばらく近所に住んでただけですけどね。五年前、パーヴェルの件で縁あって再会しまして」
「ふうん」
「あの、本当にライオネルとは何もないですから、あんまりいじめないであげてくださいよ」
「ああ昼間のことか」
 はは、とイリヤは自嘲するように笑ってから言った。
「ああいう男を見ると、なんだか鏡を覗いているようで、嫌味の一つも言ってやりたくなるのさ。いかにも冴えない大学教員という感じだろう」
「ライオネルはともかく、あなたは冴えないってことはないでしょう。昔からあんなに秀才で」
「君と別れてからは何も上手くいかなかった」
 と、イリヤはつぶやくようにして言い、低い声で後を続けた。
「魔術の研究も――まあ論文は書いて第六階梯まで取得はしたが――大した成果は上がらなかった。私立の研究所はどこも雇ってくれなくてな。なんとか空きのあった大学で教員になった。大学教員なんて雑用係みたいなものさ」
「あの、研究は何を?」
 とアレクセイは、明るい話題を探して尋ねた。イリヤは少しだけ嬉しそうな声色になって答えた。
「生体魔術だ。テーマは『生体内における魔力錬成モデル』」
「そういえばあなたは学生時代も、シモン先生なんかと親しくしていましたっけ」
「ああ。もし帝都大学に残れていたら、是非あの先生の研究室に入りたかった」
 イリヤは、しばし物思いのために口をつぐんだ。手にした紙巻き煙草を一口吸ってから再び口を開いた。
「生体の方に進んだのは君に出会ったせいだ、アレク」
 長くなった煙草の灰を灰皿へ落とし、もう一口吸う。
「黄金の契り派の教義や“交歓”の経験が僕の心に爪を立ててつかんだまま生涯離さなかった。近代の理論でもってそれに挑もうと思った」
「いやだな」
 と、アレクセイは困惑して、手の中でグラスを揺らしたり傾けたりした。
「変な言い方しないでくださいよ。生涯、なんて、あなた僕と同い年なのに」
――すまない」
 イリヤは謝ってから、急に笑顔になった。わずかに覗きかけていたイリヤの本心がその笑顔の下に隠されてしまったようだった。
「ところで、アレク、ライオネルとはただの幼なじみで、別に交際してるわけじゃないんだな?」
「え、ええ」
「“交歓”は一度も?」
「してませんよ」
「じゃあ今は一体誰が君の寝間に侍っているんだ? 君は父上を想うと寂しくて一人で眠れないのに?」
 かっ、とアレクセイの白い頬に血が上る。
 イリヤは煙草を持っているのと反対の手をアレクセイの顔へ伸ばした。指先で、形のよい顎の先へちょっと触れ、
「僕も、トマスも、他の男たちも皆君の父上の身代わりだった。気が付かないと思ってたのか?」
 アレクセイの紫がかって見える双眸を視線で射抜きながら言った。
「最愛の父を亡くした君を誰が慰めてくれた? ライオネルも気の利かないヤツらしい」
「僕はもう一人でも大丈夫なんです。大人になったんですよ、あなたやみんなに甘えていた頃とは違って」
 とアレクセイは言い返したが、イリヤは本気にしたものかどうか、鷹揚な笑みを浮かべられた。アレクセイはそれをにらみ、
「あなたこそ、今はどんな素敵な方と一緒に過ごしてるんです?」
「僕はこの春結婚する予定になっていた。婚約者がいたんだ。故郷の大学で知り合った。才能のある魔術師で、素晴らしい女性だった」
――だった?」
「亡くなったんだ」
―――
「誰かに慰めてもらいたいと思うのはそんなに恥ずかしいことか?」
 イリヤは煙草を灰皿へ落とした。
「アレク」
「僕にあなたの傷を舐めろと? イリヤ」
「いけないか?」
 イリヤの手がアレクセイの膝へ伸びる。トラウザーズの折り目に触れ、その山をなぞって太腿へ向かう。アレクセイの方へ身を乗り出してささやいた。
「僕がどれだけ君の傷を、治りもしないのに舐めてきたと思う?」
 アレクセイは、店内の他の客の目を気にして、イリヤの肩を押し返した。
「イリヤ、こんなところじゃ」
 拒まれて、イリヤは却ってにやりと笑った。
「こんなところがダメなら、どこでならいいんだ?」
 夜半、アレクセイのアパルトマンのベッドで起き上がったイリヤは、隣で寝ていたアレクセイの様子を確かめた。アレクセイは久しぶりの“交歓”で疲れたものと見え、規則正しい寝息を立てている。
 イリヤは、そっと寝床を抜け出した。裸の胸にシャツだけを引っ掛けた。
 アレクセイのアパルトマンの部屋は、独り者らしい手狭さで、一つの階に生活空間の全てが収まっている。イリヤはさほど探索する必要もなく、一通りの部屋を見て回った。
 アレクセイは自炊などしないらしい。台所には、やたらと茶器ばかり置いてあって、調理器具の類はほとんどない。金気の物といえば果物用の小さなナイフくらいだ。
―――
 イリヤは寝室に戻った。クローゼットや引き出しを覗いたが、魔術用どころか競技用の剣の一つも置いていない。ここでは、テーブルの上に予定用の帳面や筆記用具と一緒に投げ出してあったペーパーナイフを見つけた。
 イリヤはそれを手に取って、眺めてから元のように戻しておいた。それからベッドへ戻り、静かにアレクセイの隣へもぐり込んだ。
 アレクセイは、眠っている振りをしながら、背中でイリヤを観察した。イリヤはじきに寝入ったようだった。
 それでアレクセイも、仕方なく眠った。昨晩のような嫌な夢は見なかった。

12

 翌日、アレクセイは帝都大学に赴き、ライオネルの研究室を訪ねた。突然の訪問だったので、あいにくライオネルは不在だったが、彼の秘書のソニアが通してくれた。
「ジュネは会議が済めば戻ると思います。そうですね、あと半時間もすれば」
 とライオネルの予定を教えてくれたソニアにアレクセイはお礼を言った。
「ありがとうソニア。彼が戻るまでに、ちょっと見せてもらいたい物があるんですが」
「なんでしょう、私にわかることであれば」
「今年度版の各大学教員の総覧を。ここなら置いてあるでしょう? 学士院にはなくて」
「ええ、ございます」
 ソニアはライオネルの執務机の横の本棚から分厚い冊子を取って寄越した。
 きっちり半時間後にライオネルが帰ってきたとき、アレクセイは応接椅子に沈んでぼんやりしていた。しおりを挟んだ教員総覧がテーブルに投げ出してあった。
 ライオネルはソニアから話を聞いたらしく、アレクセイを見ても驚かなかった。
「アレクセイ、コーヒーでも飲むか?」
「あなたの汚いコーヒーカップに耐えられる気がしないので遠慮しておきます」
「さよで」
 ライオネルは執務机の脇まで来ると、上着を脱いで楽なベスト姿になった。シャツの襟と黒い蝶タイを直してから、アレクセイの正面に座った。
「教員総覧を見に来たのか?」
「イリヤはシスリア大学の先生だったようですよ。研究テーマは生体魔術。最終課程の学生の間にいくつか論文を発表したそうです」
「そんなことわざわざ調べてたのか。夕べ一緒に食事に行ったんだろ?」
「聞きそびれましてね。ベッドで聞くような話でもないし」
――寝たのか? あいつと」
「妬いてます?」
「妬いてない」
「“交歓”しただけですよ。イリヤは肉体的には異性愛者です。婚約――していた、と」
「過去形なのか」
「最近婚約者が亡くなったんですって」
「婚約者が死んですぐ、おまえにちょっかいかけに来たってか?」
 理解できん。とライオネルはかぶりを振り、立ち上がって執務机のベルを鳴らした。すぐやって来たソニアに二、三用事を頼んでから、コーヒーを淹れるために少し席を外した。
 ライオネルはコーヒーカップを手に戻ってきて、元のように座った。あまりまめには洗っていないと見えるカップからアレクセイは目をそらし、言った。
「イリヤの様子なんですけど、ちょっとおかしくて」
「どんなふうに?」
「ああ、ええと、それは」
 具体的に話せと言われると難しい。
「まあその、婚約者の件もそうですけど、急に僕とヨリを戻そうとしたり、雰囲気がなんとなく――
「おまえも、おかしいと思ったのならなんで関係を持ったりするんだ」
「だって断れる状況じゃなかったんですよ」
 それに僕も多少人肌恋しかったし。と、アレクセイがぼそりと言い添えたからライオネルはあきれた。
「おまえなぁ、もう少し気を引き締めて生きてないといつか刺されるぞ」
「あなたが僕の男になってくれれば万事解決すると思うんですけど」
「絶っっっ対にごめんだ!!
 アレクセイは、今夜もイリヤと約束があるのだとライオネルに伝えた。
「帝都での研究会が終わるまでの間はこっちにいるからって言われましてね」
 ライオネルは苦々しげに顔をしかめて、アレクセイに忠告した。
「あんまり、深入りしない方がいいと思うぜ俺は」
「ええ、わかってますよ」
 とアレクセイはうなずいたが、どことなく力の入らない返事で、
(怪しいもんだ)
 とライオネルは思った。
 アレクセイが帰った後、ライオネルも教員総覧に目を通した。ごく当たり障りのない内容で、イリヤも自分と同じように冴えない教師ではないかと思った。
(昨日は俺に随分なことを言いやがったくせに、この野郎)
 ライオネルはふと思い付いて、ソニアを呼んだ。ソニアは十数える間と待たせずに来た。
「お呼びで?」
「シモン先生に面会を申し込んでくれ」
「いつですか?」
「今すぐだ」
 幸い、シモンは自分の研究室にいたので簡単につかまった。ライオネルより十ばかり年上のシモンは、帝都大学の教員にしては陽気で、年中機嫌のいい男だった。ライオネルが急に訪ねてきても、嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。
「久しぶりですねぇ、ジュネ君。コーヒーでも?」
「いえ飲んできたので結構――それより先生、今帝都で生体魔術関係の研究会が開かれているのでは? 先生は参加なさらないので?」
「研究会? いや、ここしばらくはないですよ」
――イリヤ・ラフォンというシスリア大学の教員が訪ねて来ませんでしたか?」
「ラフォン君が帝都に来ているんですか? なら顔を見せてくれればいいのに。去年の帝国会議で会ったきりだなぁ」
 ライオネルは自分の研究室に帰ると、執務椅子に埋もれて思案した。
 コンスタンティン王の治める南西部の州都シスリアは、帝都から比較的近い地方都市で、駅馬車なら丸一日、郵便は急げば朝に出して夕方に着く。
(シスリアか)
 ライオネルの脳裏に一人の女性魔術師の姿が浮かぶ。アレクセイと同じ北部生まれの白い肌。黄金の巻き毛に包まれた優しげな顔立ち。婦人にしてはいささか背が高すぎるきらいがあるが、長身のライオネルが腕に抱くのにはちょうどいい大きさだった。
(ルフィナ――確かあいつ、今はシスリアにいるって言ってたっけ)
 彼女が転居の連絡を自分に毎回きちんとくれているとすればの話ではあるが。
 ライオネルは悩みつつ、やがて意を決したようにペンと便箋を取った。さらに四半時間も悩んだ挙げ句、
「最愛なるルフィナ・ダカン」
 と書いてはみたものの、やっぱり怖気づいてしまい、その後に続けて書く勇気がない。それで結局、新しい便箋に、
「親愛なるルフィナ・ダカン」
 とライオネルは書き出した。

13

「“変異体”に施す君の魔術とはどんなものだ?」
 と、イリヤはベッドの中でアレクセイに尋ねた。重ねて、
「第八階梯魔術師と認められたパーヴェルの“変異”はどういうものだった?」
 とも聞いた。
 アレクセイはすぐには答えなかった。
「なぜ、そんなことを知りたがるんです」
「僕の――研究内容に関わる」
「僕もパーヴェルの“変異”の瞬間を目にしたわけじゃないんです。僕がライオネルに連れられて帝都へ来たとき、彼はもう肉体的にはただの脱け殻になっていました」
「中身は――アストラル体はどうなった?」
「彼の巨大なアストラル体は天へ帰ろうとしたんだと僕は思ってます。でも彼ほどの魔術師でもそれは叶わなくて、それで」
「それで?」
「他の生きた魔術師のアストラル体と結合して、さらに大きくなろうとしたんですよ」
 イリヤが、重い声で言った。
「近代魔法学でも、狂乱病に陥った魔術師は多くの場合他者に対して非常に攻撃的になると知られてる。だがそれは、普通肉体のある状態でそうなるんだ」
「ええ、普通は“変異”直前に他者を襲うんです。“変異”後にアストラル体だけで生き長らえるだけでも規格外だっていうのに――たいてい、物質体なしではアストラル体を保てずに死んでしまうはずですよ」
「それほどパーヴェルというのは優れた魔術師だったわけだ」
「僕の知る中では、最も天に近く蜜なるアストラル体の持ち主でした」
「ではそれに魔術をかけた君は」
 と、言いながらイリヤはアレクセイを抱き寄せた。
「パーヴェルを超えるアストラル体の持ち主なんじゃないのか?」
――そうかもしれません」
「否定しないところが君らしい」
 イリヤは、アレクセイの裸の胸に頬を寄せて笑った。素肌に息がかかり、アレクセイが身じろぎする。するとイリヤの顎の髭がこすれて今度は痛い。
 痛いのをこらえて、アレクセイはイリヤの首の後ろへ細い腕を回した。赤毛へ指を差し込んだ。
「あなたも密なるアストラル体を持っていますよ、イリヤ」
「君は学生時代にもそう言ってくれた」
「ねえイリヤ、あなた夢を見たりしませんか。自分から何かが抜け出ていってしまうような、嫌な夢」
「それは僕の夢とは違うようだ。君はそんな夢を見るのか?」
―――
「悪夢のことなんか忘れてしまう方がいい。なまじ夢の意味なんて考えるから恐ろしくなる」
 イリヤの左手がアレクセイの右手に触れた。アレクセイはイリヤの手を握り、それを通じて、チャクラを介さないより純粋な“交歓”を試みた。
「んんっ――!!
 アストラル体が交じり合うと、アレクセイはのけぞって喘いだ。
 イリヤも声を上げた。聞きようによっては、苦痛に耐えているようにさえ聞こえるような唸り声だった。


 ライオネルがルフィナに手紙を送って、翌日は音沙汰がなく、その次の朝になった。
 明け方、自分のアパルトマンで寝ていたライオネルは、
 コッコッコッ、
 と外から窓枠を叩かれる音で目を覚ました。ライオネルの部屋は建物の五階にある。周りに足場はない。
 怪訝に思いながら、ライオネルは寝床から起き上がった。目の前に垂れた前髪を掻き上げ、欠伸をしつつ窓の鎧戸を開けた。
 が、やはり窓の外に誰もいるわけがない。と、油断したところへ、
「ばぁ!」
 と急に窓の上から顔が降ってきて、ライオネルは危うく腰を抜かすところだった。よく見れば、その顔は人ではなく、大きな朱のオウムであった。
 オウムは窓からライオネルの部屋へ勝手に入ってきて、安楽椅子の背に止まった。そして、美しい女性の声になって喋り出した。
親愛なる﹅﹅﹅﹅ライオネル・ジュネ〉
「ルフィナ!」
 とライオネルは思わずオウムへ呼び掛けたが、返事はなく、オウムはただ教えられた言葉を機械的に復唱した。
〈ルフィナよ。手紙を読みました。お返事を書くより直接会って伝えた方がいいと思ったから、今から帝都へ向かいます。明日の朝には、この子が一足先にあなたのところへ着いているでしょう。私は午後三時に西エルマ駅へ着く馬車に乗ります。ごきげんよう〉
 ルフィナが帝都へ飛んでくるという。ライオネルは胸騒ぎを覚えた。
 ルフィナの使い魔のオウムは、逃げる様子もなく、役目を終えた後は気ままに歌ったり、意味のわからないことをライオネルに話し掛けてきた。ライオネルはいちいち適当に返事をしてやった。彼を家にそのまま置いておくわけにもいくまい。一緒に連れて大学へ出勤することにした。
 秘書のソニアや学生たちが朱のオウムを珍しがっているのを横目に、ライオネルは午後の予定を全て断ってルフィナを迎えに行く支度をした。
 ルフィナの乗った馬車は、午後三時の定刻から遅れずに、帝都郊外の西エルマ駅へ到着した。
 ライオネルは、降りてきた乗客たちの中から一目でルフィナを見つけた。
「ルフィナ!」
「ライオネル」
 と、ルフィナも気が付いてくれた。肩に派手なオウムを止まらせていたライオネルは、待合室の中でもただでさえ目立っていた。
 ルフィナはライオネルから使い魔を受け取った。
「フォーちゃん、いらっしゃい」
 フォーオクロックというのが使い魔のオウムの名前であった。
 使い魔を肩へ止まらせたルフィナは、すらりとした長身に、秘書か家庭教師のような控えめな装いをしていた。豊かな金髪も今は頭上でひとまとめにされ、小さな帽子で押さえつけられている。
 ライオネルはルフィナの荷物を持ち、駅の外へ待たせておいた馬車の元へ彼女を案内した。その道すがら尋ねた。
「ルフィナ、君仕事は?」
「今はシスリアの小さなお屋敷で家庭教師をしてるの。一週間ほど暇をもらってきたわ」
「そうまでして俺に伝えたかったことって何だ?」
アレクセイとあなた﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅に伝えなくちゃと思ったのよ」
 ルフィナもまた、アレクセイやライオネルとは幼なじみの仲だった。五年前、パーヴェルの事件で再会した点でも同じである。
 ライオネルの顔つきがだんだんと厳しいものに変わり始めている。
 ライオネルがルフィナへの手紙に書いたのは、イリヤのことだった。可能であれば、シスリア大学教員のイリヤ・ラフォンについて調べてくれないか、と。特に最近何か事件を起こしたり、巻き込まれたりしていないか。教員総覧からイリヤの似姿が入ったページを切り取って同封しておいた。
 馬車に乗り込み、動き出すとすぐ、ルフィナは鞄を開けて封書を一通取り出した。それを隣に座っているライオネルに渡し、
「中身はあなたが送ってくれた教員総覧のページと、それにシスリアの新聞記事がいくつか」
「記事になるようなことがあったのか? こっちの方じゃそんな話は全然――
「事態が進展すれば帝国中の新聞に載るかもしれないわ」
 と前置きしてからルフィナは言った。
「イリヤ・ラフォンは一週間くらい前から婚約者のニコル・サティと一緒に行方不明になってたのよ。つい三日前に、婚約者の方だけはイリヤ・ラフォンの自宅で発見された。死体でね」

14

「アレクセイ、おまえ、その後イリヤとどうなった?」
 日暮れ頃、帝国学士院のアレクセイの研究室を急に訪ねてきたライオネルが開口一番にそう言ったのは、日ごろ紳士ぶっている彼にしては珍しいことだった。アレクセイも怪訝そうに問い返した。
「なんですかライオネル、約束もなしに来たと思ったら藪から棒に――お茶でも飲みます?」
「いらん」
 ライオネルは、執務机にいるアレクセイの方へつかつかと歩み寄った。正面からアレクセイの細面を見下ろした顔つきは、何か思いつめているようにさえ見える。眉間に幾重にも皺を寄せ、口を真横に結んでいた。
 アレクセイも立ち上がってライオネルの目を見つめ返した。執務机の背の窓から差し込む夕日の光で、ライオネルの濃いヘーゼルの瞳が赤く燃えている。
「イリヤとのことは僕の私生活の範疇ですよ」
 とアレクセイは静かに言った。
「あなたといえども、本来口を出す筋合いはないと思うんですけど」
「イリヤがもう二人殺してるとしてもか?」
―――
「これを見ろ」
 と言って、ライオネルは封書を一通ポケットから取り出した。
「何ですか?」
「今シスリアで何が起こってるか、この中身に書いてある。ルフィナが持ってきてくれたんだ」
「ルフィナが帝都に来てるんですか?」
 アレクセイは、受け取った封筒を開けて、中に入っていた数枚の新聞記事の切り抜きを取り出した。それに一枚一枚目を通していく。アレクセイの顔色はほとんど変わらなかったが、全て読み終わった後もアレクセイは何も言わず、黙りこくっている。
「イリヤの婚約者は亡くなったんだったな。それをおまえはイリヤ自身の口から聞いたわけだ」
 と、ライオネルはアレクセイの手から封書一式を取り返しながら言った。
「イリヤが俺たちの前に現れたのは三日前。イリヤの婚約者ニコル・サティが死体で見つかったのも三日前。シスリアから帝都へは馬を飛ばしても丸一日がかりだ。となると、イリヤはニコルの死体が見つかる前に、彼女の死を知っていたことになる」
 アレクセイが口を開いた。か細い声を出した。
「それだけじゃ、イリヤが殺した証拠にはなりませんよ。たとえ死体がイリヤの自宅から出てきたとしてもね」
「ああ、それだけなら、重要参考人の域を出ないだろうよ。それだけならな」
「さっき見せてもらった記事は、イリヤの婚約者に関する物だけじゃありませんでしたね? それにあなたは、イリヤはもう二人殺したって」
 アレクセイは新聞記事の文面を読み上げ始めた。記事の切り抜きはライオネルの手にあったが、それをさも見ながら読んでいるのと同じようにすらすらと暗唱した。
「一週間前の記事でした。『昨夜十二時頃シスリア大学構内の第二研究棟付近で同大学中等課程二年生のロベール・フィケ氏が惨殺された姿で発見された。我が社の探知したところによると、死体には犯人と争った跡が見られ直接の死因は背中をナイフ状の凶器で一突きにされたことであるという』――シスリア大学で学生が殺された、と」
「ああ。一週間前、つまりイリヤが婚約者と一緒に行方不明になる直前に、シスリア大学の学生が死んだ。通り魔的な犯行だと見られてるようだ」
 俺の考えを述べよう、とライオネルは言った。
「イリヤはある事情から同じ大学の学生を殺してしまった。そしてそれを婚約者に知られて、彼女も殺した――いや、もしかしたらそうでなくても殺してたかもな。婚約者も魔術師だったそうだから」
 手元の新聞記事をめくりながら続ける。
「婚約者も学生と同じように『背中を一突きにされて』殺されてたと書かれてるのに気付いたか?」
 さらに記事をめくる。
「シスリアの警察や新聞社も、二つの事件は関連があると考えて調べ始めてたようだ。特に消息不明だったイリヤについては、被害者の一人かあるいは犯人かはわからなかっただろうが、いずれにしても周囲をだいぶ根掘り葉掘り嗅ぎ回ったらしい」
「『我が社の取材に応じたシスリア大学の関係者の証言によると、同大学教員のイリヤ・ラフォンは勤勉で実直な人柄であったが、ロベール・フィケ氏の殺害事件が起きる一、二週間ほど前から急に学生を怒鳴りつけることが度々あった、何かに怯えているような言動があった等、事件直前には不審な様子が見られたことがわかっている。また、同じ頃から身体的にも胸に何らかの疾患を抱えていたようであり、通院の記録が残っている』」
 とアレクセイがまた記事を読み上げると、ライオネルはうなずき、
「イリヤはおそらく狂乱病だ。あいつはもうじき“変異”する」
 と言った。勢い込むようにして後を続けた。
「性格が攻撃的になったり、強い不安を感じるようになるのは典型的な狂乱病の症状だ。それに胸の疾患の方は――詳しいことはわからないとはいえ、もし魔術の行使時に強い苦痛を伴うのなら狂乱病の特徴的な症状だ。確かに現時点ではまだ他の病と見分けにくくはあるが、経過的にもその後一、二週間で他の魔術師を襲い始めてるのは過去の例と同じ傾向だ。アレクセイ、おまえの言葉を借りればイリヤはもう『他者のアストラル体を求め始めてる』」
――早計じゃありませんか? 今の時点で傾向を語るのは。あなたらしくも」
「アレクセイ、おまえもパーヴェルの事件を忘れちゃいないだろう」
 ライオネル自身、先刻ルフィナに言われたことだった。
「ライオネル、躊躇してる場合じゃない。まさか忘れたわけじゃないでしょう?」
 と、駅から市街地へ向かう馬車の中で、ルフィナはライオネルの手に手を重ねて、諭すように言い含めたのである。
「パーヴェルのときはほとんど手遅れだったのよ。何人もの魔術師が犠牲になったわ。もっと早く帝国学士院が手を打っていれば、犠牲を出さずに済んだのかも。それにアレクセイだって、あなただって、あんなつらい思いをしなくてもよかったかもしれない」
 とにかく、とライオネルはアレクセイを見据えた。
「少なくともイリヤのことは学士院の上層部へ届けておくべきだ。それに警察にも。アレクセイ、おまえもあいつに関わるのはやめろよ。今夜にでもイリヤがおまえを狙ったとしても俺は驚かないぜ」
「ご忠告ありがとうございます。だけど疑わしきは罰せずという言葉も」
「どうしてあいつの肩を持つんだよ」
「別に肩を持つわけじゃありませんが」
「じゃあ、もうあいつには会うな。わざわざ危険を冒してまで、あいつと寝間をともにする必要がどこにある? よく考えてみろ」
 むっ、とアレクセイが顔をしかめる。ライオネルの言葉は正論だった。が、正論ゆえに腹が立つような物言いをライオネルはすることがある。
「あなたの理攻めはどうも好きになれませんよ」
 とアレクセイはため息をもらした。
「確かにあなたの言うことは正しいです、ライオネル。でも僕にも感情というものがあるので。イリヤは――どういうつもりだったのかはわかりませんが、それでも結構僕を慰めてくれましたよ」
 ライオネルが何も答えないので、アレクセイもしばし口をつぐんでいた。やがて、形のいい唇を薄く開いて、
「代わりにあなたが僕の寝室に来てくれるとでもいうなら」
 と、つぶやいた。いつもの皮肉めいた冗談とは違う。ライオネルの返答も常とは違い、静かなものだった。
「アレクセイ、それがおまえの望む、俺の罪の償いか?」

15

 帰り際、アレクセイが上着から懐中時計を出して見ると、もう夜九時を回るところだった。
 時計をポケットへ落とし、コート掛けからコートを取って着込む。黒の山高帽を頭に乗せながら研究室を後にした。
 帝国学士院の白い建物を出た直後のことだった。
「アレクこっちだ」
 と不意に呼ばれて、アレクセイは声の聞こえたのと逆の方向を﹅﹅﹅﹅﹅振り返った。
 建物の柱の陰にイリヤが潜むようにして立っていた。それを確かめてから、アレクセイがちらりと声のした方を見ると、別の柱の根元に小さな鼠の死骸がある。それはただ落ちているのではなく、仰向けにされ、腹を銀のナイフで地面に打ち付けられていた。
「何のイタズラ? イリヤ」
 と、アレクセイはイリヤに視線を戻して聞いた。
「さすがに君はかからないか」
 笑いながらイリヤは物陰から出てきて、アレクセイの前を通り過ぎ、鼠の死骸へ歩み寄ってナイフを抜くと、それをハンカチに包んで上着の内ポケットにしまった。そのとき、ちょっと息苦しげに胸を手で押さえた。
「許してくれアレク、ちょっとからかってみたくなっただけさ」
「君が魔術を仕込んだ鼠に僕が返事をしていたら、どうするつもりだったの」
「さて、君が鼠の死骸を僕だと思っている隙に、後ろからおどかしてやるくらいはしたかな」
 アレクセイは何か言いたそうな顔をしたが、それは飲み込んだ。その代わりに、
「学士院には来ないでって言ったじゃないか」
 と言った。イリヤは笑ってごまかした。
「いいじゃないか、待ちきれなかったんだ、会いたくて」
「僕、今夜はライオネルと約束があるよ」
「へえ、あいつとは何もないんじゃなかったのか?」
「ちょっと急展開があって」
「僕にはもう飽きた?」
 アレクセイはイリヤの顔を見た。イリヤの口の端にうっすらと笑みが残っていた。
 アレクセイは甘ったれた声を出した。
「まだ飽きてはいないよ――
 うちに来る? とアレクセイはイリヤを誘った。
「まだ、な」
 とイリヤは苦笑してから答えた。
「ライオネルとの約束はどうするんだ?」
「それまで少し時間があるよ」
 イリヤはアレクセイに同行して彼のアパルトマンへ向かった。
 暗い部屋に入るとすぐ、イリヤはアレクセイにしなだれかかろうとした。
「アレク」
「我慢しなよ、寝室まで」
 アレクセイはそれをするりと避ける。室内は何も見えないほど真っ暗なのに、まるで日中と同じような身ごなしだった。
 イリヤは右腕にアレクセイの左腕が絡んできたのに気づいた。アレクセイに腕を引かれて歩きだしながら言った。
「この暗さでも見えてるのか? 君は」
「うん」
「それも黄金の契り派の魔術?」
「魔術というほどのことじゃない。あなたのアストラル体を見てるだけ。それに家の家具の配置くらいは覚えてる」
「アストラル体を見る?」
「見えてるよ。暗闇の中で明るく大きく光ってる。普通の人でも、物質体を離れたアストラル体を見ることはあるよ。幽霊とか見える人いるでしょ」
 アレクセイは寝室のドアを開けてイリヤを連れ込んだ。ドアを閉めた途端、闇の中から声がした。
「アレクセおかえり。おかえり」
 ぎょっと身をこわばらせたイリヤをアレクセイはなだめ、
「大丈夫。今のはこの子の声」
 まっすぐ窓へ向かい、鎧戸を開けて月明かりを入れると、ベッドの脇のテーブルに一羽の大きな朱のオウムが止まって意味をなさない独り言をわめいているのが青白い光に照らされて見える。イリヤは不審そうに首をひねった。
「どうしたんだ、その鳥は? 昨日まではそんなのいなかったじゃないか」
「今日友人から預かったんだ。昼にシスリアからの馬車で来てね、今夜一晩どうしても預けたいって言うから」
「それは親切をしたな――と褒めたいところだが、閨を覗かれちゃ興醒めだ」
「心配しなくても外に出しておくから。さ、フォーオクロック、おいで」
 と言い、アレクセイはさっさと窓を開けてオウムを放ってしまった。イリヤの方が却って拍子抜けして、逃げやしないかと心配した。 窓の外は表通りの頭上の高いところに面していて、近くにオウムのように大きな鳥が止まれるような場所もない。
 アレクセイはかぶりを振った。フォーオクロックを信用しきっているらしい。
「平気だよ、賢い子だから」
 イリヤはドアの方へ行き、内側から鍵を掛けて言った。
「アレク、友人はシスリアから来たと言ったか」
「そう、あなたが来たのと同じ」
「友人から何を聞いた?」
「さあ、別に。何でもいいじゃない、そんなこと」
 アレクセイは窓辺を離れてベッドの方へ行き、帽子をコート掛けに引っ掛けた。コートと上着を脱いでベストとトラウザーズの姿になった。ベストは背中の大きく開いている仕立てだった。
「おいでよイリヤ」
 と、アレクセイはとろけるような声で誘った。
「いくら我慢の強いあなたでも、僕が欲しくてもう限界でしょう?」
 カマーベストに締め付けられた白いシャツに同じくらい白い背中が透けていた。そこへ月光が落ちて石膏像のようになめらかな陰影を作り出す。
 イリヤはアレクセイの真っ白い体に吸い寄せられるように一歩踏み出した。
 アレクセイは大人しく待っていた。背中にイリヤが立つ気配がした。と同時に、
!?
 アレクセイは足元から魔力が噴き出すのを感じた。感じたときにはもう遅い。
「あっ――!!
 大きな魔力の先端が足首に絡みついてくる。そこから枝分かれし、のたうちながらアレクセイの体を這い上がる。さも足のない蟲のようなそのイメージにイリヤが魔術をかけると、魔力は銀色の蛇の群れの形を取ってアレクセイの全身を締め上げた。
「〈無知なる魂よ、楽園の蛇が汝に知を授けるだろう。父は汝を祝福する!!〉」
 とイリヤの唱えるヴァッサイの詩が魔術を助ける。
 アレクセイの体が軋み、喘ぐような声が上がった。アレクセイは宙へ磔にされた。その四肢といい胴体といい、余すところなく蛇の鎖でがんじ絡めになっていた。首にさえ一匹の蛇が食い込もうとする。
「こういう遊びが好きだとは――知らなかったよ」
 とアレクセイは、こんな状況でなお冗談めいたセリフを吐いた。背後から間近に迫ったイリヤはそれに取り合わず、
「本来、人に向けて使う魔術じゃない。地鎮や、精霊調伏に使うんだ」
 と苦し気に言った。胸が痛むのか、チャクラの真上辺りに衣服の上からかきむしるように手の指を食い込ませていた。イリヤは、息を整え、さらにアレクセイに近付きながら言った。
「見くびるなよアレク。学士院の前でも、家に入ったときも、君は僕が何をしようとしたか気付いてただろう?」
――ええ」
「どんな罠だったのか知らないが、その格好じゃ僕を捕まえられはしないだろうな」
 さすがのアレクセイも苦しげに息を詰まらせる。イリヤは上着のポケットからハンカチに包んだナイフを取り出し、右手に握った。
「アレク、君ならこの程度の魔術“返せる”ものかと思っていた」
「残念ながら――黄金の契り派はそういうことは不得手なんだ。あなたたち血の夜明け派には十八番だろうけど」
「僕は幸運だったと思うべきだな」
 イリヤはナイフを持っていない方の手でアレクセイの背中に触れた。ぞくり、とアレクセイの肌の上に震えが走った。
「どうして僕を選んだのさイリヤ」
 と、アレクセイは、ナイフの刃が自分の肉体を破る瞬間をできるだけ先伸ばしにしたがった。
「シスリアから帝都に逃れてきて、“変異”のときまで街角で見知らぬ魔術師を襲って過ごすこともできたのに」
 イリヤは何も答えなかった。

16

 窓の外で、夜空の下にも関わらずカラスが長く尾を引いて鳴いていた。
 イリヤは右手でナイフを振りかぶった姿のまま、そっと窓の方を向いた。生き物の気配がした。
 アレクセイがオウムを逃がした後開け放してあった窓辺に、小さな駒鳥が一羽止まっていた。小首をかしげているその一羽の元へ、仲間らしき駒鳥が二羽、三羽と集まってくる。
 イリヤが異常さに気付いたときには、すでに魔術の中だった。
 どこからともなく大小さまざまな鳥が部屋の窓を目がけて飛び込んでくる。その中心にあの朱のオウムがいた。オウムは他の鳥より一際力強く羽ばたいて、まっすぐにイリヤの方へ飛び掛かってきた。
 オウムの長い爪がイリヤの頭部に届いた瞬間、広がった赤い翼が緋色のスカートに変わり、爪は踵の尖った靴底になってイリヤに襲い掛かった。
「うっ!?
 イリヤがすんでで飛びすさり、払いのけると、オウムが変身した緋のドレスのルフィナも素早く身をかわして床へ着地した。
「ライオネル! 今よ!」
 とルフィナが声を張り上げる。
 それに応えるように、黒々した一群のカラスが窓を通ってアレクセイの元へ集まる。瞬き一つした後には、それが黒い紳士服を着たライオネルの姿に変わった。
 ライオネルは縛られたアレクセイの首の後ろへ手を当て、アレクセイとの間に魔力の通り道を作ると、
「〈父なるヴァッサイが祝福する! 天秤を狂わす者を粛清せよ!!〉」
 と、詩の一節を借りて“返し”の魔術を施した。
 アレクセイの全身を縛り上げていた銀色の蛇たちが、現れたときとは逆に体を滑り下りて足元へ吸い込まれていった。同時に、魔術はそれを使った者のところへ返った。イリヤの足元から蛇の群れが吹き出し、彼の体を宙に縛り上げる。
 “返し”に成功したのを見届けてから、ライオネルはアレクセイを振り返った。アレクセイは床にうずくまり、自由になった喉で勢いよく息を吸い込んでむせていた。
「約束の時間ちょうどだったみたいだな」
 とライオネルは言った。
「い、いささか遅刻気味だと思うんですけど。危なくなる前に来てくれる約束じゃありませんでしたか」
 と、アレクセイは文句を寄越した。仕方ないだろう、とライオネルは言い返し、
「部屋のドアに鍵を掛けられてたじゃないか。中へ入るのにルフィナの手を借りても多少手間取った」
「許してちょうだい、アレクセイ」
 とルフィナも言った。フォーオクロックがその肩に止まって羽を休めたところだった。他の鳥たちは羽根の一枚も残さず、いずこへか消えてしまっていた。
 ルフィナは蛇に縛られたイリヤの方へ近付いた。ちょうど先刻のアレクセイと同じように四肢を括られ、首を絞められてイリヤは呻いていた。
 ルフィナはイリヤの右手をこじ開け、銀のナイフを取り上げると、彼の苦しげな顔を覗き込んで尋ねた。
「悪い子ね。なぜこんなことをするの?」
―――
 アレクセイもよろよろと立ち上がって、イリヤのそばに歩み寄った。
「イリヤ」
――君にさえ出会わなければ」
 とイリヤがかすれた声を出した。
「君にさえ出会わなければ、僕は何も知らず、ただ自分は妙な病気で、頭がおかしくなって死ぬのだと思っていたはずだ――
「苦しいのイリヤ」
「とても――
 イリヤの喉から、ひゅうと息のもれるような音が聞こえる。苦しいのは呼吸のせいではない。
 アレクセイは少し考えて、
「ねえイリヤ、あなたと再会した夜、あなたにはチャンスがあったよね。その次の晩だって。なのにどうして、今夜まで僕を食べずに取っておいたの」
「ああアレク――
「今夜が限界なのかい、イリヤ」
「ああ、あれ、あれは、見えない――一つ――
 だんだんとイリヤの言葉がうわ言のようになり、呂律が回らなくなってきた。
「ライオネル」
 とアレクセイが呼んだ。
「ヴァッサイの鎮魂の詩を捧げてあげてくれませんか――
 ライオネルは乞われるままに、はっきりとした口調で、一語一語イリヤに注ぎ込むようにして詩を唱え上げた。
「〈――死は汝が生きた証。
 死を祝うがいい。
 祝杯を上げよ。
 喇叭を鳴らせ。
 父が汝を解放する。〉」
 イリヤがそれを理解したのかはわからない。ただライオネルが詩を唱える間、イリヤは静かにしていた。
 鎮魂歌が済むと、アレクセイはライオネルに向かって頭を下げた。
「ありがとう」
「いいさ」
「ライオネル、よく見ておいてください。“変異”の瞬間がどんなものか――あなたはもしかしたら、将来もう一度これを見ることになるかもしれないから」
「それはどういう――
 意味だ、とライオネルが言い終える前に、それは始まった。
「しっ!」
 と、アレクセイはライオネルを黙らせた。
 アレクセイも、ライオネルもルフィナも皆息を飲んで見守った。
 視覚的な捉え方は三者三様だった。ルフィナにはイリヤが苦しみながら息を引き取ったようにしか見えなかった。ライオネルは、こと切れたイリヤの肉体から、ぼんやりと陽炎のようなものが立ち上るのを見た。
 アレクセイの目には、羽化のように見えた。イリヤの背中の辺りが大きく裂け、黄金色に光輝くアストラル体が身を震わせながら這い出してきた。
 初め、その光の塊はイリヤの体の四、五倍程はある大きさだった。だがそれは次第に大気へ溶けるように小さくなっていき、最後には半分程に縮んでしまった。ちょうど羽化に失敗して羽を広げられないまま衰えた蛾のように、光の塊はふらふらとイリヤの体から離れた。
 直後、それが猛然とアレクセイに飛び掛かってきた。
!!
 まるで肉食の昆虫が獲物を捕食するような不意打ちだった。アレクセイは虚を衝かれ、それでも咄嗟に逃れようとして足元のバランスを崩した。
「アレクセイ!」
 とルフィナが肩のフォーオクロックを放つ。ルフィナには見えてこそいなかったが、勘は鋭く働いた。
 朱のオウムはアレクセイをかばうように飛び込んできて、アレクセイの身代わりになって光の塊に捉えられた。光の塊がフォーオクロックを包んだ瞬間、わずかに隙が生じた。
「〈いと高きところに父の栄光、地には安寧あれ!!〉」
 と、ライオネルが魔よけのまじないを叫ぶと、光の塊はもんどり打って霧散した。
「やった?」
 イリヤの体を離れた陽炎のようなものが見えなくなり、気配も消えたので、ライオネルはほっとした様子だったが、アレクセイの表情は依然険しい。
「この場から――逃げただけだと思います」
「馬鹿な。イリヤもそう﹅﹅なのか!? パーヴェルと同じようにアストラル体だけで生き長らえた!? あり得ない――
 静まり返った部屋の床の上には二つの死体がある。
 こと切れたイリヤは魔術がとけてうつ伏せに倒れていた。なんとなく、生前より一回り小さくなったようで、少し背を丸め手足を曲げて胎児のような形をしている。
 もう一つの死体は光の塊に襲われたフォーオクロックであった。ルフィナがその上に屈み込み、羽の付け根を片手でわしづかみにして持ち上げ、
「こっちはまた新しい霊魂を吹き込めばいいわ」
 と、さして悲しむ素振りもなく言った。
 アレクセイとライオネルがイリヤのそばに膝を着いた。アレクセイはイリヤの顔を優しく撫で、別れを告げた。
「イリヤ、あなたのアストラル体、天へも帰れずに、地へ還って他の命へ巡ることもできなかった――だから僕が引き受けてあげるよ、この天地の狭間で、全部」

17

 今回の一件に関して、帝国学習院の対応が素早かったことにライオネルは感心していた。
 夕方、アレクセイとライオネルがイリヤについて報告した直後に全枢機官が召集され、短い会議があって、午後八時頃には対策委員会が立ち上がった。警察とも連絡を取り合って動き出していたらしい。
(今の院長はだいぶやり手みたいだな)
 とライオネルは思った。五年前には考えられなかった迅速さだ。
(パーヴェルの件がこたえてるんだろうな――クソが)
 あのときにもこのくらい早く動いてくれていれば、と悔しさがこみ上げて、思わず紳士にあるまじき単語がいくつも脳裏に浮かんだ。
 ライオネルが、学習院にあるアレクセイの研究室で一人悶々として待っていると、午前一時を回った頃に事務官らしき婦人がドアを叩いた。
「お待たせいたしました、ジュネ先生」
 虫の居所が悪かったライオネルは皮肉の一つも返してやりたくなったが、上の命令で動いているだけの事務官をいじめるのはよくない、と思い直してやめた。たぶん彼女も深夜に急に呼び出されて、事情もよくわからぬまま働いているのだろう。
 ライオネルは応接椅子から腰を上げ、丁寧な口調で事務官に尋ねた。
「カミュ先生の方は進展がありましたか?」
「先程こちらでの術式を終えました。これから大聖堂の方へ移動します。ジュネ先生の方もご一緒にいらっしゃるということでよろしいですね?」
「もちろんです」
「ではこちらに署名をお願いします」
 と言って、事務官は数枚の書類を差し出してきた。おおまかに言えば、私は自らの意思で同行を志願いたしました、という程度のものである。
(この辺りはやっぱり学士院だな)
 と、内心辟易しつつ、ライオネルは全てに署名をした。書類を受け取った事務官は「それから」と前置きして言った。
「帝都大学からご面会の方がいらしてます」
 案内されてきたのは、ライオネルの秘書のソニアであった。こちらも深夜に呼び出されたらしいソニアは、それでも文句一つ言わず、大学での手続きについて教えてくれた。
「大学への書面での報告は事後一週間以内で結構だそうです。ええと、あとはこれ、必要なんじゃないかと思いまして」
 気の利く秘書は、荷物からライオネルの公用の祭服を取り出して渡した。
「ありがとうソニア。急に働かせてすまなかった。君は俺の自慢の秘書だよ」
 と、ライオネルは心からお礼を言った。
 ライオネルは馬車に乗せられ、帝都の北側にある大聖堂へ連れて行かれた。アレクセイは先に出発したらしく、同じ車内にはいなかった。
 ライオネルがアレクセイとやっと再会したのは、大聖堂に到着して祭服に着替え、香部屋へ案内された後のことだった。
 大礼拝堂の奥にある古い香部屋はアレクセイの控え室として使われていた。そこへ入ってきたライオネルの姿を見て、アレクセイはくすりと笑った。
「あなたがその祭服を着ているところ、久しぶりに見ましたよ。大学指定のは垢抜けないからって、いつも着ようとしないのに」
 そういうアレクセイも真っ白い祭服姿である。かすかに甘い香の匂いがする純白のローブに、鼻先から胸までを覆うケープ。ケープの下から体の前に長く垂れた帯。腰にはウロボロスの蛇のベルトを締め、胸の中央に着けた金の胸飾りから幾重にも垂れ下がった細い鎖は肉体を張り巡らされた神経のように、全身を這う。そのうちの一つは金と螺鈿細工の髪飾りへ通じている。
 沐浴をして清めた身はうっすらと透けてさえ見えそうで、ライオネルは、ぞくりと身震いした。何度見ても祭事のアレクセイの姿には慣れない。
 ライオネルは、小さなテーブルの前にいるアレクセイに近寄り、隣に立った。ライオネルの祭服は黒いローブと帝都大学の教員用の赤黒いケープで、アレクセイとは反対に闇に溶け込んでいた。
「ルフィナは?」
 とアレクセイが聞いた。ライオネルは手短に答えた。
「おまえの家の方を片付けてる」
「それは面倒をかけてしまいました」
「気にすることはないさ。ルフィナもきっとそう言う。俺たち三人の仲じゃないか」
「ありがとう――
 ところで、とライオネルは話題を変え、
「イリヤの方は?」
「学士院の聖堂でいくつか試してみましたが、見つかりませんでした。でも消滅したわけじゃありません。帝都中心部で大地の地脈がおかしくなってます。たぶんイリヤがどこかで息を潜めてるせいでしょう」
「放っておくわけには――いかないんだろうな」
「パーヴェルのように他の魔術師を襲う可能性がないとは言えませんから」
「まあ実際、おまえを襲いかけてたが」
「あのとき、まだまとまった形が残ってる間になんとかできればよかったんですけど」
――すまん」
 とライオネルは謝った。
「俺が余計なことをしたんだろうな、おそらく」
「なんであなたが謝るんですか、僕を助けてくれたのに」
 アレクセイが苦笑いする。
「あなたは毎度そうなんですよ。正しいことをしてるのに、謝ってばっかりで」
 ライオネルは返す言葉が見つからなかった。それで、仕方なくまた別の話をした。
「イリヤをどうするつもりだ?」
「どうもこうも、地に隠れられてる間は」
「だがそれじゃ」
「ええ、だから」
 アレクセイは平然と言った。
「大地の方を力づくであるべき姿に戻します。それでイリヤのアストラル体が異物として吐き出されればいいんですが」
「吐き出された後は?」
「僕たちのところへ誘い込みましょう」
 僕たち﹅﹅﹅という言い方をアレクセイはして、ライオネルに笑いかけた。
「手伝ってくれますよね? ライオネル」
「最初からそのつもりだ」
 と、ライオネルは祭服のケープの裾を摘んで見せながらうなずいた。
 午前三時過ぎ、まずライオネルが大礼拝堂へ入った。
 壁一面を覆い高いアーチの天井まで届く巨大な祭壇へ、ライオネルは血の夜明け派の祈りを捧げたのち、礼拝堂の四隅に燭台を立てて結界を張った。
 アレクセイが入室し、結界の中へ入った。ライオネルと同じように大祭壇へ黄金の契り派の祈りを捧げてから、礼拝堂の中央に設えられた二十二段の階段を登り、宙へせり出した小祭壇に立った。ライオネルはアレクセイのいる祭壇の下に立ち、右手に魔術用の白銀の剣を持って胸の前にまっすぐに立てた。

18

「ジュノー――
 と、アレクセイが魔術の始まりを告げる。
 しん、と静まっていた大礼拝堂にさざ波が広がるようにして、その声が隅々まで行き渡る。アレクセイの白い祭服は覆面のように鼻先までをすっぽりと覆っているのに、不思議と声はよく通った。
 アレクセイは両手で最初の印を結んだ。体の前に長く垂れた帯は印の形を秘匿するためにある。祭文を唱える発声法、そして特別な呼吸法と、印の形。これらはただ一人の後継者にだけ伝えていくのが、黄金の契り派の古くからの教えだった。
「ユル――
 と、アレクセイの口から次の言葉がこぼれる。祭服の下で印も形を変える。
 『ジュノー』は「有」であり、『ユル』は「無」である。これら二つの語を決められた順番で、印の変化とともに千と二十四回繰り返す。これにおよそ半時間ばかり。アレクセイは淀みなく唱え上げた。
――ユル」
 最後の一つを正しく唱え終わると七つのチャクラの鍵が開く。チャクラは人体に七ヶ所、会陰・性器・下腹・胸・喉・眉間・頭頂にあり、物質体とアストラル体をつなぐエーテル体の中枢を指す。
 アレクセイは天を仰いだ。
 大礼拝堂のアーチの天井には一面に鮮やかな壁画が描かれており、中央の天窓から入る星明かりで夜目にもよく見えた。それは、教派こそ違えど全ての魔術師の信仰の基礎となる創造神による天地創造の絵だった。
 すなわち、
 初めの日に、光と闇が分かたれ、
 二日目に、天と地が分かたれ、
 三日目に、陸と海が分かたれ、
 四日目に、昼と夜が分かたれ、
 五日目に、全ての陸と海に生命が創られ、
 六日目に、神自らの形に似せて人が創られた。
 そして七日目に神は休息した――それらの業を連ねて、頂きの天窓のぐるりに描いてある。
 アレクセイはうっとりしたように目を細め、睫毛の先を震わせた。
 『解錠』の術式を終えた体に、開いた七つのチャクラを通して魔術の言葉が湧き上がり、満ち、あふれ出してくる。全ての魔術は我がアストラル体に刻まれている。というのが黄金の契り派の魔術師の信ずるところだった。それは人間の頭にしまおうとすれば気が狂うほどの莫大な情報量で、他の諸派――たとえば血の夜明け派のように書に記し伝えていくことなど到底できないのだと彼らは言う。アレクセイも父親にそう教えられ、疑ったことは一度もない。
「これより『創生展開』の術式を始めます」
 と、アレクセイは下にいるライオネルに教えた。
 アレクセイのいる小祭壇には四つの道具が祀られている。すなわち、杖、杯、剣、ペンタクルスの四つである。
 アレクセイは印を解いた両手を祭服から出して、杖を捧げ持ち、祭文を唱えた。その祭文とは、
 アデナ、
 グアナ、
 ティナ、
 シトナ、
 の四つの語の複雑な組み合わせから成る。流水のように途切れることなくアレクセイの口から祭文が流れ出る。
 突然、大礼拝堂内に閃光が走った。稲光であった。轟、という雷鳴とともに一瞬視界が真っ白になり、稲妻がアレクセイの手の杖を撃って炎に変えた。炎はすぐに宙に溶けて消えてしまい、アレクセイの左右の掌には何事もなかったように杖が渡されている。
 アレクセイは杖を置き、今度は杯を掲げた。祭文を捧げると、礼拝堂の中は霧に包まれ、杯から水があふれた。
 火と水が大気を生む。アレクセイは杯を置き、剣を捧げ持った。剣の刃が大気を切って風を起こした。
 アレクセイは剣を置き、最後にペンタクルスを掲げた。五芒星を描かれた金色の皿である。それが風に吹かれ、黄金の砂となって散った。
 アレクセイはペンタクルスを置き、両手を祭服の中へ入れて印を結んだ。気の遠くなるほど長い祭文が捧げられた。
 それに呼応して、大礼拝堂の中で生命﹅﹅がざわざわとうごめき始める。アレクセイが周囲に四つのエレメントとして散らしたアストラル体が練り上げられ、叩かれ、伸ばされ、こねられて、編まれ、鍛え上げられていった。
 やがてそれは生きた樹木の形を取った。
 大礼拝堂の床を突き破って太い根を力強く張り、それを支えにして幹が育ち枝葉を伸ばしていく。幹と枝は幾重にも絡み合い、アレクセイのいる小祭壇を囲みながら大礼拝堂いっぱいを埋め尽くすまで広がり、壁までも貫いて成長しようとする。
 が、ライオネルの張った結界に阻まれてそれ以上外には出られなかった。加えて大祭壇だけは一切侵すことがない。結果、樹木の一番外側の部分はいびつな形になった。
 鎮座ましました樹幹の真ん中辺りでは、細い枝と蔓がアレクセイに寄り添うように伸びてきて、ゆるやかに四肢へ巻きつき体を支えた。
 見ようによっては、巨木の玉座にアレクセイは着いているようでもある。
 樹木の成長が完全に止まると、アレクセイはライオネルの姿を探した。小祭壇の下にいたはずだが、その辺りも今は木の根に覆われていて何も見えない。
「ライオネル、大丈夫ですか?」
 とアレクセイが呼ぶと、
「大丈夫だ――
 と、その根の下から返事があった。
 ライオネルの方にも体のすぐそばまで樹木が迫っていた。ライオネルは胸に抱いた剣にひたすら念を込め、魔除けを唱え、どうにかそれに飲み込まれないで済んでいた。アレクセイが長い時間をかけて魔術を施す間、気力を保ち続けているだけでも大したものだった。
「さすがですね、ライオネル」
 と、頭上からアレクセイの鷹揚な声が降ってくる。
「学士院のご老人に相棒を任せていたら、とっくに僕のアストラル体が飲み込んでしまっているところでしたよ」
(この馬鹿でかい木の全てがアレクセイのアストラル体か――
 ライオネルは背筋がぞっとした。少なくともアレクセイは自分でそうだと言う。
 それにしても、この樹木の姿はアレクセイの魔術で創り出された、いわば幻のようなものだろう。なのに実体と変わらぬほどの鮮明なイメージを持ち、しかもこの大きさでそれを維持しているのは、魔力だけでなく人並み外れた感受性がなければできることではない。
「しかし、いささか窮屈ですね」
 とアレクセイが、結界の外に出られない枝や根を眺めて言う。ライオネルは半ばあきれたような心持ちすらした。
「隠れ家は手狭だと相場が決まってるだろうが」
 と言い返してやると、アレクセイは、それもそうかとうなずき、
「ではそろそろ終わらせましょう」
 と言った。

19

「これより、地脈を大地と均衡が取れる形に戻します。いいですかライオネル、一瞬ですよ」
 と、アレクセイは念を押した。
 ライオネルは了承の返事をしながら、
(“魔術”とは一体何なんだろうな)
 とそんなことを思った。ライオネルは、アレクセイを始めとする黄金の契り派のように、魔術は天の御使いから与えられたものだとか、魔術師は天へ帰るべき存在だとか、そんな伝説は正直なところ信じていなかった。
 アストラル体や“変異”のような雑駁な概念も、便宜的には借用するが、それが真理とは思わない。学術的に説明可能な未知なる要素や現象があって、それをアストラル体とか“変異”と呼んでいるだけなのだ、と思う。
(理をもって魔術に向き合うのが、古来血の夜明け派の魔術師の矜持だからだ)
 だが、学問として魔術を論じ、解き明かそうとし、優れた書を残してきた自分たちには、アレクセイが平然と口にするような――人智を超えた大魔術は行えない。彼ら黄金の契り派は理には疎いが、血の夜明け派が近代未だ論理化できていない魔術の本質を体得していた。ライオネルはそれが知りたかった。
「始めます」
 と、アレクセイが静かに告げた。
 アレクセイはごく短い祭文を捧げた。
 玉座の大木に一筋の燐光が走った。入り組んだ樹幹は数え上げれば二十二本であり、その中のいくつかを通って、頂から注がれた光が根元へと稲妻のように走り抜けた。
 そうやってアレクセイは、アストラル体に刻まれた無限の魔術からただ一つを呼び覚まし、遥かに広がる大地へそれを施した。
 夜明けの間近に迫る帝都の地は冷たい大気に覆われ、生き物という生き物が息を潜めていた。夜の生き物は眠りにつき、昼の生き物はようよう覚醒し、昼も夜もない原始的な生き物と人間ばかりが細々と息をしうごめいていた。
 白み始めた東の空に、ぽつりと小さな光の粒が吐き出された。見る間にその粒は増え、寄り集まって一つの光の塊になった。
 光の塊は行き場を探しているらしかった。だが地脈の安定を取り戻した大地は彼を二度と受け入れず、彼は追いやられた。
 そして逃れた先に大聖堂があった。そこは特別な場所で、羽を休めるのにはちょうどよさそうだった。中に誰の気配もしなかった﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 光の塊が大聖堂へ十分に近づいた瞬間を見計らい、
「ライオネル!」
 とアレクセイが鋭く叫んだ。
 ライオネルは白銀の剣に魔力を込めて振り下ろし、アレクセイを隠していた結界を破った。
 その瞬間ようやく光の塊も事態を悟ったがすでに手遅れで、結界から解き放たれたアレクセイの巨大なアストラル体の枝が、もがく彼を捕まえ、ひと飲みにしてしまった。
 アレクセイは魔術を終えるための祭文を捧げた。大礼拝堂を埋め尽くしていた樹木はいつの間にか消え、アレクセイは何事もなかったように元の小祭壇に立っていた。
 全ての魔術を納め、元のようにチャクラを『施錠』して、大聖堂を後にした頃にはすっかり夜が明けている。帝都はいつも通り昼の世界を謳歌していた。
 学士院へとりあえずの報告と手続きを済ませた後、アレクセイは自宅へ帰って泥のように眠った。
 翌日になってから、ライオネルが帝国学士院を訪ねてきた。が、あいにくアレクセイは不在で、
「カミュ先生は、本日は休暇をお取りになっています」
 と学士院の事務官は言う。ライオネルはアレクセイのアパルトマンへ向かった。
 ライオネルが呼び鈴を鳴らすとすぐ出迎えてもらえたのはいいが、
「あらライオネル。アレクセイに何か用?」
 と、ドアを開けてくれたのはなぜかルフィナで、ライオネルは目が点になった。
「き、君こそなんでここに」
「なんでって、イリヤの事件の夜からずっとここに泊まってるのよ私」
「ホテルに帰ったんじゃなかったのか!?
 とライオネルが大声を上げたのを聞きつけたらしく、部屋の中からアレクセイの声が聞こえた。
「ライオネル? ライオネルなら入ってもらってくださいよ、ルフィナ」
 ルフィナは、わかったと返事をして、ライオネルを招き入れた。奥へ案内しながら言った。
「昨日からひっきりなしに来客があるのよ。警察の人だとか、どこから嗅ぎつけたのか新聞記者だとか」
「ふ、ふうん」
「そういうお客への応対とか、アレクセイの身の回りの世話が必要だと思って泊まり込んでるの。現にアレクセイは昨日の昼からついさっきまで眠ってたのよ。何度もうなされてて、その度に起こそうとしたけど結局丸々一日起きなかったわ」
―――
「あなたがどんな下世話な想像をしたのか知らないけど」
 と、ルフィナがぼそりと付け加えたので、ライオネルはしどろもどろになって胡乱な弁解をした。
 ルフィナがお茶を用意してくれると言い、台所へ入った。ライオネルは、
「ああ、いいよ、自分でできる」
 と後を追って断った。
「そう?」
 ルフィナは、それならとライオネルに任せることにした。
「そうだ、ライオネルあなたも来たことだし、私一度ホテルへ戻るわ」
「それがいい。少し休んでおいで」
「ええ。ところでライオネル、その前に一つあなたに釘を刺しておかないとと思ってるんだけど」
「へ?」
「五年も前にたった一度寝たきりで自分の女にしたと思ってるんなら甘いわよ、あなた」
 それじゃ、とルフィナはきびすを返して出て行ってしまった。ライオネルには引き止める暇もない。
 ライオネルが自分で用意したティーポットとカップを持って居間に姿を現したとき、よほどしょぼくれた顔をしていたのか、アレクセイに不審がられた。
「何かあったんですか? ルフィナは?」
「宿に帰った」
 ライオネルはテーブルに着き、アレクセイの斜め向かいの席に座った。
 アレクセイは本当に寝起きらしく、寝間着だか下着だかわからないシャツ一枚を着て、髪も櫛が入っていないし、目つきもまだぼんやりして眠たげだった。半分閉じた目で書面を片手に睨みながら、もう片手に持った小さなスプーンで茹で卵をちまちますくって食べていた。
「その書類は?」
 とライオネルが聞くと、
「枢機官への報告書を書かなくちゃならないんですよ」
 と、アレクセイは弱り切った様子で答えた。ライオネルはアレクセイの手元をちらりと覗いてみた。ほとんど真っ白な紙の上にミミズが二、三匹のたくっているような状況で、これはだいぶ時間が掛かりそうだ。
 ライオネルは自分でカップに紅茶を注いで飲んだ。そうして舌の滑りがよくなってから言った。
「アレクセイ、おまえに教えておいた方がいいだろうと思うことがいくつかある。てっきりもう知ってるかと思って俺は先に帝国学士院の方を訪ねたんだが、休んでるっていうしその様子じゃ知らないんだろう」
「なんです?」
 アレクセイは書面から顔を上げ、首をかしげた。
「イリヤの遺書が見つかった」
 と、ライオネルは言った。

20

「遺書――日記に近いようなものかもしれないな。シスリア大学で学生のロベール・フィケと些細なことから激しい口論になって衝動的に殺してしまった、という告白から始まってたそうだ。イリヤの遺体を検めたときに、上着の内ポケットから見つかった」
―――
「俺もまださほど詳しいことは知らん。今朝、帝国学士院と警察にそれぞれ呼び出されたときにちらっと話を聞いたくらいでな」
 お役所仕事はじれったくてかなわん。とぼやいてから先を続ける。
「まあとにかく、イリヤは遺書でロベール・フィケと婚約者ニコル・サティを手に掛けたことを告白したそうだ。自分はおそらく狂乱病を発症してるだろうということと、自覚症状の記録も」
――やっぱり自覚してたんですね彼」
「そうらしいな。性格の変化や不安感、錯乱なんかの精神症状の記録はすさまじいものがあったそうだ。俺たちの前ではそういう素振りを見せなかった辺り大したもんだが」
「他には何か?」
 書いてありませんでしたか、とアレクセイは尋ねた。
 ライオネルは神妙な表情になって言った。
「学士院の枢機官が内々の話で教えてくれたが、遺言が二つあったそうだ」
「というと?」
「一つは自分の帝国魔術師としての全階梯の返上、除名を希望すること。もう一つは、可能な限り自分の遺体の献体を希望すること」
「それってつまり、自分の体を研究のために解剖してほしいってことですか?」
「そういうことだろう」
 ライオネルの口調は重く、どことなくイリヤへの敬意のようなものが感じられた。
「狂乱病を発症した魔術師の解剖なんて前代未聞だ」
「だってそれは」
 とアレクセイも低い声になって言った。
「帝国学士院が許可を出すはずがないですから――
「そうみたいだな。ただし、その魔術師が帝国魔術師なら、だが」
「イリヤはそれを知ってたんですね。だから全階梯の返上なんて」
「イリヤの研究を覚えてるか? 生体魔術だ。テーマは『生体内における魔力錬成モデル』。魔術師の狂乱病の発生機構にも興味を持っていたようだ」
―――
 イリヤと食事に行った晩、彼がそういう話をしていたのをアレクセイは思い出した。ライオネルに先を促す。
「ええ、それで?」
「それで、五年前パーヴェルの事件の後、イリヤは帝国学士院に対してパーヴェルの病状の調査を申し入れてたんだそうだ。いや実際はイリヤだけじゃなくて、生体魔術の研究者が何人も同じ要求をした。が、帝国学士院は一切応じなかったというわけさ。そのときパーヴェルはすでに第八階梯の栄誉に預かっていた」
「あなたはどうしてそのことを?」
「大学でシモン先生にイリヤの遺書のことを伝えたとき、教えてくれた。先生もイリヤの件ではだいぶ気を落とされた様子だった」
 ライオネルがそこまで説明すると、アレクセイはすっかりふさぎ込んでしまった。
「アレクセイ」
 どうしたんだ、と聞いてみても、アレクセイは何やら逡巡しているばかりで要領を得ない。
「イリヤは――彼は勇気がありますね」
 アレクセイは、随分経ってから、ようやくそんなことを言った。
「僕には彼のような勇気ある決断はできそうにないです。もし、もし自分が――彼と同じような境遇になったとしても」
「そりゃ、俺だってそうさ」
 と、ライオネルはアレクセイの言葉を素朴に解釈して同意し、
「そういえば、イリヤの遺書にはおまえのことは何も書いてなかったみたいだ」
「そうですか――
「あいつが今際のきわにおまえのところに来た理由は、結局わからずじまいだな」
 アレクセイは、しばらく考え込んだのち、寂しそうに目を伏せて言った。
「きっと、僕のアストラル体目当てだったんですよ」
(そうかな)
 とライオネルは思った。
(本当にそうなら、イリヤにはアレクセイを手に掛けるチャンスが何度もあったじゃないか)
 どうも理に適わない気がするのである。それよりは、
(イリヤはアレクセイに助けを求めてた――いや、違うな。それよりは、もう自分は助からないとわかってて、引導を渡してほしかったんじゃないか。自分が“変異”してもアレクセイなら始末をつけてくれるだろうと思って)
 そう考えたらよほどしっくりくる気がして、アレクセイにも教えてやろうと喉まで声が出かかった。が、そこで踏み止まった。
―――
 その方がアレクセイにとっては余計酷ではないか。
 と、ライオネルは思い直し、ティーカップをソーサーから取り上げて、濃いミルク入り紅茶と一緒に出かかった言葉を飲み込んだ。
 空になったティーカップをソーサーに戻し、
「元気を出せよ」
 と、ライオネルはアレクセイを慰めた。
 アレクセイはお礼を言った。
「ありがとう。優しいんですね、珍しく」
「今だけだぞ」
――なんなら、もっと慰めてくれてもいいんですよ。幸いすぐそこにベッドもありますし」
「子守歌くらいなら歌ってやってもいい」
 ライオネルの返答がよほど意外だったのだろう。アレクセイは、きょとんとした顔のまま固まってしまった。ライオネルは追い討ちをかけた。
「それとも本でも読んで聞かせてやる方がいいか? 悪い夢でも見てるようなら引っぱたいて起こしてやるよ。俺はルフィナと違って手加減しないぜ」
「もう――っ」
 と、アレクセイが気恥ずかしそうに口をとがらせる。顔をしかめたのは照れ隠しらしい。
「あなたも変な人ですね」
 などと素直でないこと言う。だから、ライオネルも言い返してやった。
「おまえほどじゃないけどな」

(了)