鬼の霍乱
「兄貴
蛇骨が何故だかやたらと楽しそうに笑っている。
「ねぎだぁ？」
煉骨がマスクを口の上から引き下ろして、思い切り怪訝な顔をする。
そうしてから、また、
げほっ
げほっ
と激しく咳き込んだ。
「ああもう兄貴大丈夫かよ」
蛇骨が煉骨の背中を軽くさすってやると、
「だ、大丈夫だ」
荒い息をつく合間にあまり大丈夫ではなさそうな声で煉骨は言う。
「それより蛇骨、俺が頼んだものは……」
「買ってきた買ってきた。ほら、冷却シート」
蛇骨はドラッグストアのビニール袋から冷却シートの箱を取り出して、さらにその中からシートを一枚出すとセロハンを剥がして煉骨の額に貼り付けてやる。
煉骨は相変わらず激しく咳き込みながら、真っ赤な顔をして台所の椅子にぐったりと身を預けている。
「で、その葱は何なんだ」
「こないださぁ、ネットで見たんだよね」
「何を」
「風邪引いたときは葱ケツに突っ込むといいんだってよ」
と、言って、蛇骨は、
「なあ兄貴、包丁貸して」
右手に長葱を握り締めてにやにやと笑っている。
「……」
「だーいじょうぶだって、細く切りゃ入れても痛くねえよ。多分」
「…てめえ本気で言ってやがるなら」
「え？」
「てめーにうつった時には、それそのまんま腹ん中まで突っ込んでやる……」
覇気は無いがその分余計に恐ろしい顔で煉骨は蛇骨を睨んだ。
「これ腹ん中まで？」
蛇骨が引き攣った笑みを口元に浮かべる。
「下から？」
「下からだ」
ただいまー、という間延びした声が玄関の方から聞こえる。
ややあってから学生服姿の蛮骨が、台所の入り口からひょいと顔を覗かせた。
「何だ蛇骨来てたのか……」
蛮骨の視線が蛇骨の右手の葱の上で止まっている。
そして蛮骨は葱を指差しながら
「…葱プレイ？」
真剣な顔をして、尋ねてくる。
「蛮骨の兄貴……変なビデオの見すぎだぜ。何だよ葱プレイって」
「それケツに突っ込んで……」
「突 っ 込 ま ね え っ ！！」
と煉骨はいきなり、蛮骨や蛇骨が驚いて身を
「…お帰りなさい、兄貴」
と、ぜいぜいと荒い息を吐きながら、今にも後ろにひっくり返りそうな顔をして言った。
「煉骨どうしたんだよ。風邪か」
「兄貴は風邪だって言ってるけど」
蛇骨が手に持っていた葱をようやくテーブルの上に下ろして言う。
「熱があるみてえだよ」
「なら部屋で寝てりゃいいじゃねえか。なんでこんなとこにいるんだよ」
「まだこれから大学に出るんだと」
「もう夕方なのに？」
「何かやっとかなきゃなんねえ実験が残ってんだってさ」
ふーん、と、蛮骨が頷く。
「おい煉骨、病院行かなくていいのかよ。バイト近いのに」
「何の、これしき……」
ふらふらと、煉骨は立ち上がる。
そしてやはりふらふらした足取りで、蛮骨の横をすり抜けて廊下へと出た。
そのまま玄関の方へと歩いて行く後姿を、蛮骨はしばし眺めていたがその内小さな溜め息をついて、蛇骨のいるテーブルの方へとやって来て椅子に腰掛けた。
「ったく、頭のいい奴は馬鹿だよなあ」
「どーしてあんな状態でまでガッコ行きたがるのか分かんねえ……」
やれやれと、蛮骨と蛇骨は口々にそんなことを言う。
「なあその葱、ほんとにケツに突っ込むつもりで買ってきたのか」
「まーね。余ったらお粥に混ぜて食えばいいかなと思ってさ。それより蛮骨の兄貴、煉骨の兄貴出掛けちまったけど、兄貴晩飯どうするんだよ。俺何か作ろっか」
蛇骨は、結局尻の穴に入ることは無かった葱を見つめながら、言った。
「チャーハンとか……」
その葱を入れるつもりなのであろう。
「ああ…そうだなぁ、別にコンビニでもいいけど……」
ううん、と、唸りながら蛮骨がのんべんだらりと夕飯のことに考えを巡らせた。
その時であった。
どん
がつん
ごん
どさり
……そんな音が、順番に二人の耳に入ってきた。
最初の、どん、という音は、何かにぶち当たった音であろう。次の二つはどこかに頭でもぶつけたような音で、そして最後は膝から崩れ落ちるような音である。
蛮骨と蛇骨は目を丸くして、思わず玄関の方向へと揃って目を向ける。
「したらばよ、煉骨の兄貴が玄関でぶっ倒れてたのよ」
「なるほど、靴履いて立ち上がったときに失神してドアで顔面打ったのか」
睡骨は呆れた顔で
「失神するほどの高熱で出掛けるつもりなんだから、兄貴もたいがい馬鹿だな」
だいたい熱が四十度もあったら普通まず医者にいくとかだな……とか何とかそんなことをぶつぶつと呟きながら、睡骨は手の中のチップをじっと見ている。
「やっぱりな」
「何がやっぱり何だよ睡骨」
「こりゃ風邪じゃねえ、A型のインフルエンザだ」
「インフルエンザ？」
「そうだ。まあ急な高熱に、それに気道の炎症も起こしてるしな、見た目にもインフルエンザだが……ま最近は便利になったもんだ。インフルエンザ判定用キットなんてのが売られてるんだから」
「ああ、それ」
蛇骨が睡骨の摘んでいるチップを指して言う。
それから、うーん、と面倒臭そうな顔をした。
「しっかしインフルエンザか…どうしたもんかね」
「救急車呼んで病院に連れてきゃ手っ取り早い」
「でもそりゃ絶対、あとで煉骨の兄貴に怒られるぜ。入院なんてことになったら金もかかるしよ」
「まあな。しょうがねえ、救急車の代わりだ」
と、言うなり睡骨はズボンのポケットから携帯電話を取り出して、どこぞに電話をかけ始めた。
「……」
「誰にかけてんだ、睡骨」
「……ああ、もしもし、俺だ。ああ、ああちょっとな、煉骨の兄貴がインフルエンザで倒れたんでな…そう、オセルタミビル…ああタミフルだ。それからアセトアミノフェンの……ああじゃあそっちがいい。あとアスベリンもな。ああ、ああ早いとこ頼むぜ。じゃあな」
「だから誰だっつの」
「すぐに来るとよ」
「だから……」
誰が、と蛇骨が言う前に、睡骨が蛇骨を見下ろして真面目な顔で言う。
「大兄貴に言って、タオル貰って来い。それから、あれば
「は？」
睡骨は蛇骨から視線をそらして、今度はベッドに気を失くして横になっている煉骨を見ると、
「汗が酷い。拭いて服も着替えさせなきゃ却って体に悪いぜ。それに体温も少しは下げてやらないと今のままじゃ体がもたねえよ」
と、珍しく医師らしい事を言って、
「ほらさっさと行け。着替えは俺が出しておくから」
蛇骨に向けて、追い払うように手を振って見せた。
「三十八度一分」
体温計の表示を見ながら、だいぶ下がったな、と言って睡骨は霧骨と顔を見合わせる。
うんと霧骨は頷いて、
「解熱剤がどんずばり効いてるな」
「タミフルも今のうちなら効くはずだ。まあ四、五日もすりゃ大学にも出られるだろう」
「バイトは来週だし、まあ大丈夫かぁ」
と、呑気な声を出した。
しかしその向かいで、屈みこんでまだ眠ったままの煉骨の顔を見ている蛇骨は浮かない様子で、
「俺たちにうつってなきゃーな」
と言う。
かちゃり、
と部屋のドアが開いて、学生服からトレーナーとジーンズ姿に着替えた蛮骨が中に入ってきた。
その音に気がついたらしく、煉骨が不意に眼を開けた。
「あ、なんだ煉骨気がついたのか」
後ろ手にドアを閉めて、蛮骨はベッドの方へと歩み寄り煉骨の顔を覗き込んでくる。
「ほらポカリ」
蛮骨が差し出した500mlペットボトルのポカリスエットを、隣に立っていた蛇骨が受け取って、
「煉骨の兄貴、飲んどけよ、だいぶ汗かいたんだし」
そう言ってふたをひねって、煉骨に手渡した。
煉骨はまだ多少ぼんやりとした様子だったが、それでもどうにか上半身を起こして、それを受け取り、口をつけようとして、
「なんでおまえらがここにいるんだ」
と、今更気がついたように睡骨と霧骨に尋ねる。
「蛇骨に、兄貴がぶっ倒れたから日勤が終わったらすぐ来いって呼ばれて」
と睡骨が答え、
「睡骨に薬もってすぐ来いって呼ばれてよ」
と、霧骨が答える。
睡骨が、
「兄貴、風邪だって言い張りてぇ気持ちは分からなくもないが、インフルエンザだぜ」
と溜め息混じりに言った。
「これからの時期小児科はインフルエンザのガキで溢れるもんなぁ。睡骨おまえ今年も足の先まで
霧骨はどうでもいいようなことを言いながら一人うんうんと頷いている。
煉骨はようやくポカリスエットをひとくち口に含んだ。
「兄貴、食欲はねえかもしれねえが、できれば多少は何か食ってだな……」
睡骨はポケットから取り出した紙の包みを煉骨に差し出して
「これがインフルエンザの治療薬で朝夕二回、五日分だ。それから」
さらにもう一つ別の包みを。
「せきが酷いらしいから、これはせき止め…アスベリン散だ。一日三回、毎食後にな」
「解熱剤は」
煉骨が尋ねてきた。
「俺が倒れてる間に使っただろう」
「……」
睡骨と霧骨は揃って妙な顔をして、また顔を見合わせる。
蛮骨も苦笑いのような表情になって、それとなく煉骨から視線をそらした。
蛇骨が一人あまり品の無いにやつき方をして煉骨を見ている。
「いや……」
少しばかり逡巡してから、何とも言いにくそうに、霧骨が口を開く。
「その、解熱剤はアセトアミノフェンの
「ざざ……」
いやそのっ、と、霧骨は睡骨の陰に隠れるように身を縮こまらせる。
「四十度も熱がある上に失神してるんじゃ、錠剤は飲めねえしそれに坐剤の方が早く効くから……」
それは本当のことである。
坐剤は直腸粘膜から体内に吸収されるため、経口投与のように胃腸での分解を受けない。また、吸収後大部分が腸管静脈から直接下大静脈に入るために肝臓での代謝も受けにくく、つまり吸収が良く即効性があるのである。
さらに坐剤は意識障害や嘔吐症状の見られる人間にも投与可能であるので、今回の煉骨のような場合、坐剤を使用するのは間違ってはいないのである。
理屈の上ではそうなる。
「…誰がやった」
霧骨が睡骨の陰に隠れて小さく手を挙げた。
「いや俺は睡骨にやれって言ったんだぜ…どうせ子どもに投薬するので慣れてんだし……」
「ジャンケンで負けたんだから文句言うな」
睡骨が苦い顔をして横目に霧骨を睨んでいる。
ようするに、睡骨も霧骨も坐剤の投薬なんかやりたくなかったのである。珍しく医師根性を出していた睡骨も、とりあえず薬は霧骨に持ってこさせたが、こればかりは少し後が怖かったのであろう。
「見てたのかっ！」
と、煉骨は声を大きくして、蛮骨と蛇骨の方を振り返った。
「おまえのケツ見ても嬉しかねえよ」
「いいじゃねえか兄貴、ケツの穴の一つや二つ、減るもんじゃなし」
「……」
煉骨のこめかみの辺りが、ふるふると引き攣って震えている。
「てめえみたいなホモに見られたら減るわっ！」
あっひでー、と蛇骨が身を乗り出してくる。
「ゲイ差別だぜそういうの」
「ゲイは別に差別しねえ。おまえ個人に見られるのが嫌なだけだ」
憮然としてそう言い放ってから、煉骨はげほげほと激しく咳き込んだ。
釈然としない様子の蛇骨の隣で、蛮骨が笑いをこらえるように肩を揺らしている。
「確かにこいつに見られたら減るな……」
「何だよ、蛮骨の兄貴まで」
「蛇骨、あんまり意地悪すんなよ。一応病人なんだぜ、煉骨だって」
「別に意地悪くなんかしてねえよ」
蛇骨は子どものように口を尖らせて、ぷいとそっぽを向く。
「蛇骨はずっと俺と一緒にいたんだ。見てねえよ」
蛮骨がにやにや笑いながら言う。
「銀骨や凶骨も心配してたとよ。霧骨が言ってたぜ」
蛮骨は煉骨の勉強机の上にお盆を置いてからお粥の入った器を二つ手に取ると、片方を煉骨の手に渡してやる。
「……葱」
葱粥である。あの葱であろう。
煉骨はしばらく口を一文字に結んで何やら複雑そうな表情をしていたが、やがて器の縁の方から少しずつ粥をつつき始めた。
蛮骨も机の椅子に腰掛けて、煉骨と同じ葱の入った粥を口に運んでいる。
「この粥……」
「蛇骨が帰る前に作ってったんだ」
「ああ……あいつら…いつものことながら人の見舞いに来たんだか騒ぎ立てに来たんだか分かりゃしない」
「みんなおまえが好きなんだよ」
「は」
突拍子も無い蛮骨の言葉に驚いて、煉骨は間の抜けた声を出していた。
「何を言って……」
「そうとは言わねえし、思ってもねえかもしれねえけど。来てもしょうもないことばっかり言ってるし……」
「……」
「でも、みんな仕方ねえなぁなんて言いながら電話一本でおまえの面倒見に来てくれたじゃねえか。好きなんだよ」
「……」
…そんなことはないですよ、と、煉骨は言い訳か照れ隠しでもするように言って、またぞろぞろと粥をすすり出した。
「まあとにかくよ煉骨、さっさと直せよ。おまえが寝込んでると学校に持ってく弁当も無いし、洗濯物は溜まる一方だし……」
「はあ」
「あとできるだけこれ以上熱出さねえようにな。俺おまえの坐薬入れてやるなんて嫌だぜ」
言うなり、蛮骨は煉骨に向かってにやりと笑んで見せる。
「自分で入れますよ！ それくらい」
そして顔を赤くして仏頂面になった煉骨を見て、あははと可笑しそうに笑った。
（了）