あにき

 細身のジーンズに、黒い革ジャン、それに緑と白を組み合わせた色あいの、正面につばの付いたキャップをかぶって、いつもとは多少印象の異なる姿をしている。
 誰がって、煉骨がである。
 今日はコンタクトレンズを入れているらしく、眼鏡もかけていない。
「へー、兄貴カッコいーじゃん」
 そんな声が聞こえるのと同時に、
 ぽん
 と肩を叩かれて、煉骨はそちらを振り返った。
「蛇骨」
「お待たせ」
 薄いベージュ色のサングラスの下でにやけている蛇骨を、煉骨が気持ち悪そうに見ている。
「何だよそのだらしねえ顔は」
「今日の兄貴なら、まあ連れ歩いて見せびらかしてもいいなあと思ってさ」
「は?」
「なあ兄貴、やっぱ今日二丁目行かねえ?」
「……やっぱり俺は帰る」
 そう言って背を向けた煉骨を、蛇骨は慌てて引き止める。
「ああ、ごめん冗談だって冗談。久々に一緒に遊びに出るってのに連れないこと言うなよ」
「おまえの冗談は冗談に聞こえねえんだよ。生々しすぎる」
 憮然としている煉骨に、無理やり話題を変えるように、
「なあ兄貴、この帽子どこで買ったの」
 カッコいい、と蛇骨は言った。
 二人は、肩を並べてぶらりと歩きだす。
「買ってねえ。貰った」
「貰った?」
「誕生日に」
「誰に?」
「志麻さんに」
「……」
 蛇骨の表情が見る間に曇る。
「…女かよ」
 彼女? 、と訊いてくる。
「いや、研究室の後輩だ」
「ふーん」
「いつも大学で飯食わせてやってるお礼だとよ」
「…飯、って、兄貴また大学に鍋とか炊飯器とか持ち込んで飯作って食ってんのかよ。教授のセンセに怒られねえの?」
「持ってくるなとは言われるが、でも先生も結局一緒に食ってるからな」
 ふーん、と、蛇骨はもう一度頷いた。
「で、どこ行こうか」
 話題を変える。
「修論の気分転換になるならどこでもいい」
 煉骨が溜め息交じりに言う。
 どうやら、大学院修士課程の終了論文の進み具合が今ひとつ宜しくないらしい。
 蛇骨はしばらく前を向いて考えてから、何か思いついたか煉骨を振り向いた。
「じゃカラオケは」
「却下」
「…何でもいいって言ったくせに」
「カラオケ以外で選べ」
「いーじゃん、どうせ俺しか聴いてねーっつーのに」
「おまえが聴いてるから嫌なんだよ」
「ちぇ、ミスチル歌いたかったのに。あ、あと俺最近ラップも練習してんだよね」
「ふぅん」
「オレンジレンジとかさぁ……ああ兄貴、あれ得意だったじゃん、えっと、レミオメロン?」
「レミオロメン、だろ」
「こなーゆきー、ってやつとか」
「ていうか、蛇骨、おまえな、さっき…いや前々から言おうと思ってたんだ。人前でアニキアニキ連呼すんな」
 にわかに煉骨が顔をしかめて、言う。
「どう見たって俺たちゃ兄弟にゃ見えんだろ」
「今更何言ってんの、兄貴」
「また……」
「兄弟に見えなきゃ恋人どーしに見えるかもよ」
 兄貴がネコだかんな、勿論。
 とか、なんとか、ふざけながら蛇骨が腕を絡めたりしてくるのを、煉骨は振り払って、
「冗談じゃねえ」
 しかめっ面で、少し足を速めて蛇骨より先に立って歩いていく。
「じゃあ兄貴、カラオケが駄目ならさ、たまにはクラブでも行ってみね?」
「……ガキの多いとこはごめんだぜ」
「『Ash』は?」
「……」
「第二金曜はロックとハウスとポップの日」
「…行くか」


 そのAshという店は、クラブというよりも、フロアのあるバーとでも呼んだ方がしっくりくるような、こぢんまりとした店であった。
 バーカウンターの隅の席で肩を並べ、カクテルグラスを傾けている。
 蛇骨のグラスにはキールが、煉骨のグラスにはギムレットが注がれている。
 煉骨のグラスを見て、
「今時、ハードボイルドってのもね」
 蛇骨がまた揶揄やゆしてくる。
「…ハードボイルドの語源を知ってるか」
「え?」
「固ゆでのゆで卵のことだ。蛇骨、おまえはもうちょっと固ゆでになったくらいでちょうどいいんじゃないか」
「…んじゃ俺はソフトボイルドってとこ?」
「それじゃ半熟だ。温泉卵だろ、おまえは」
 温泉卵ぉ? と、蛇骨が不満げに口を尖らせる。
 キールを一口含んで、
「どういう意味だよ」
「自分で考えろ」
 煉骨もギムレットを一口飲んで、背のフロアに視線を投げる。
 響いてくるロックに合わせて、こつこつと指先でカウンターを叩いてリズムを取っている。
 蛇骨が面白くなさそうに言う。
「兄貴はさ、何がって頭がハードボイルドだよね」
「…おまえな」
「ゆで卵に顔書いたらそっくりよ? たぶん」
「……」
「たまには髪伸ばしたら。前は伸ばしてたじゃん」
「おまえがスポーツ刈りに失敗して丸刈りにするまではな」
「あっ、やだねーまだ根に持ってんの」
「練習させろって言うから頭貸してやったのに……」
「練習なんだから、そりゃ、失敗するかもしれねえだろ」
「俺の前に何回かやって上手くできたっていうから、貸してやったんじゃねえか」
「今はちゃんとできるぜ。もう理容学校も卒業したしさ」
 蛇骨がキールを口に含む。
「…なあ蛇骨、おまえなんで理容師になったんだ。今時、美容師じゃなくて理容師選ぶなんてやっぱり変わってるぜ」
「だから前にも言ったじゃん、高校のとき好きだった男が理容学校行きたがってたから」
「それだけか」
「まあ、あとさ、男客が多いじゃん、理容師の方が。実際俺が今勤めてる店、正面の美容院と客分けてるしよ。うちは男と子ども専門」
「んなに女が嫌いかよ」
「嫌いっつうか興味ゼロ。兄貴だったら、そーだなあ、例えば野郎の裸見たいと思うかよ。裸で目の前に立たれたらヤりたくなる?」
「願い下げだ」
「それと同じだよ。俺も女は願い下げなわけ。その代わり可愛い男の子に裸で目の前に立たれたら立っちゃうってことよ」
「じゃあ、一度聞いときたかったんだけどな、おまえ、その、睡骨と一緒に住んでるだろう。あいつにもそういう……」
「…そうだね、女と寝るくらいならあいつとエッチした方がマシかもね」
「……」
「でも絶対彼氏にはしたくないタイプだよ、あんなのはさ」
 そうかよ、と頷いて、煉骨がギムレットを口に運ぶ。
「それにあいつさあ、あれで案外上手くやってやがんの。去年のクリスマスだって、ほら大兄貴が倒れたじゃん、あの時。あの時あいつも彼女とデートだったんだと。出掛ける前に俺に髪やってくれって言ってきてよ」
「やっぱり医者はもてるか」
「子どもが半径一メートル以内に寄ると蕁麻疹じんましんが出るような小児科医が、出世するわきゃねーのにな」
 はは、と蛇骨が笑った。
 その時……
 二人組みの、二十歳くらいの女性客がふらりと現れて、煉骨と蛇骨が掛けている横に、並んで腰掛けた。
「すみません、マリブミルクとー、あとカシスソーダ」
 バーテンダーにカクテルを注文してから、二人は小声でおしゃべりを始める。
「……だって…やっぱあたし絶対無理。ねえ…が声かけてよ」
「えーでもさぁ……だし」
「いーじゃん、大丈夫……のが可愛いもん、ねえ……」
「ええー……」
「……ほら…だよ」
 蛇骨が、溜め息をつく。
「俺さ、時々お袋恨みたくなるんだよね。よくもこんな顔に生みやがって、って」
 ぽつりと、つまらなそうに呟く。
「……」
 女の子二人はそれからまたしばらく、なにやらこそこそと話していたが、ふいに蛇骨の隣に座っている方の子が、
「あのー……」
 と、蛇骨に声を掛けてきた。
「すみません、あの、今日のDJさんて、誰か知ってます?」
「……」
 蛇骨はしばらく口をつぐんでいたが、
「教えてやれよ。知ってるだろ」
 と、煉骨が横で促したので、仕方なく、
「…『URP』だよ」
 と、低い声で、ぼそりと言った。
「あ、アープさんていう人なんですかぁ。あたしたち今日初めて来たんで全然分かんなくて」
「……」
「よく来るんですか? ここ」
「…たまに」
「えーと、じゃあいつも、奥の…そっちの彼と一緒に?」
「……」
 煉骨がグラスに残ったギムレットを飲み干しながら、
「たまにね」
 と、答える。
「…あのさ」
 蛇骨が、溜め息交じりに言った。
「あんたら、どこまでやりたいと思ってるわけ」
「…えっ?」
「今夜中にエッチしてさよならしたいのか、それともあわよくば彼氏にしたいとか? どっちみち、カクテル飲んでお話したいだけじゃねえんだろ」
「……」
 女の子が明らかに戸惑った顔をしたのに、蛇骨は、さらに、
「俺はね」
 いきなり、女の子の穿いていた迷彩柄のパンツの上から、その下腹よりもう少し下の辺りをぐっと右手で掴んで、
「やっ…」
「ここに付いてない奴とは、セックスもお付き合いもできねーんだよ。悪ぃけど」
「おい蛇骨」
 煉骨がさすがに見咎めて、呼ぶと、
「ふん」
 と蛇骨は小さく鼻を鳴らして、煉骨の方に向き直る。
「蛇骨、おまえ今のは性犯罪だろ」
「なあ、煉」
「…は?」
 煉骨があっけにとられた顔をして、蛇骨を見返した。
「レン?」
「煉」
 何だか妙に色っぽい声音で、蛇骨は煉骨のことをそう呼んで、
「テーブルに移ろ」
 と言うなり、煉骨の腕を引いて店の奥の方へと歩きだした。


「…なんか前もこんなことあったよな」
 蛇骨が溜め息をつく。
「なんで俺、こんな女好みの顔に生まれちゃったんだろ」
「…蛇骨」
「何だよ、煉ちゃん」
「何なんだよその、煉だの煉ちゃんだの」
「だって、“アニキ”は嫌だって言ったじゃん」
 う、
 と、煉骨が言葉に詰まる。
「名前で呼んだ方がよっぽど恋人どーしに見えちゃうと思うけどなあ、俺は」
 蛇骨が言う。
「おまえの呼び方に問題があるだろうが」
「そう?」
 蛇骨はとぼけた顔をして、それからどこか遠い目になった。
「なんて映画だったっけ。その映画に出てきた丸坊主のヤクザがさー、“兄貴”って呼ばれてたんだよね。これがまた兄貴そっくりなの」
「…そうだよてめえが一番最初に“アニキ”って呼び出して、それが定着しちまったんじゃねえか」
「大兄貴はバイトのリーダーみたいなもんだから、アニキのアニキってことでさー」
「俺たちゃヤクザか」
「似たようなもんじゃん」
「……」
「で? どうすんの、やっぱり“アニキ”はやめた方がいい?」
「…もういい」
 蛇骨が楽しそうに笑う。
「俺兄貴のそういうとこだーい好き」
 そんなことを言いながら体を寄せて腕を絡めたりしてくる。
「可っ愛いーなもう」
「……」
 どうか兄弟に見えますように……
 と、煉骨はこっそり願ってみた。
 しかし、願ってみたところで、自分たちを見る周りの目は、やっぱり、あれなのである。
「はあ……」
 重い溜め息をついて、顔を隠すように深くキャップを引きかぶるより他なかったのであった。

(了)