視力が落ちると金がかかる

「また視力が落ちたんじゃないのか」
 白いカップからコーヒーをすすりながら、睡骨が言う。
「その眼つきじゃ周りから怖がられるだろう。ただでさえ細目で恐ろしい顔なのに」
「…ほっとけ」
 ふん、と鼻を鳴らしながら、煉骨もコーヒーを一口含んだ。
「その黒縁メガネもそろそろ変えたらどうだ」
「……」
 カップを手に持ったまま、ずれたメガネの位置を直しながら煉骨が回転椅子を回して背後を振り返る。
「おまえは小姑こじゅうとか」
「蛇骨にでも付いてってもらって、メガネ屋に行ったらいいじゃねえか。あいつに選ばせりゃまず外れたもんは選らばねえよ。やたらたっかいのは進められるかもしれねえが」
「だから嫌なんだよ。だいたいまだこれで見えるんだから必要ねえ」
 その煉骨の黒縁メガネというのは、細身のレンズが黒いプラスチックのフレームにはめ込んであるという、ま、ありていに言えばセール品か何かのような安物なのである。
「両目の裸眼視力は」
 睡骨が訊いた。
「……」
「大学の健康診断では、視力検査は無かったか……それ以前に、あんたちゃんと健康診断受けてるのか?」
「……」
「また実験で忙しいとかいってさぼってるのか。血液検査とレントゲンくらいならすぐ済むだろう」
「……」
「まあ裸眼視力はともかくとしても、矯正視力が0.7きったらまずいんじゃ……大型二輪の免許もだがそれ以前に出入りのときに……」
「……」
 煉骨が黙ってもう一度椅子を回して、元のようにパソコンの画面に向かってコーヒーをすする。
「…ひょっとして視力検査が嫌だとか」
「それは違う」
 ぐっ、と強く拳を握って、それから煉骨は溜め息をついた。
「ただな……」
「ただ?」
「もし目が悪くなってたときの出費のことを考えるとだな……」
「メガネの一つくらいいいじゃねえか」
「てめえは蛇骨と一緒に住んでて金銭感覚がおかしくなってるんだ!」
 またいきなり煉骨がこちらを振り返ってきたので、睡骨はちょっと驚いたように身を後に引いた。
「だから最初に言ったんじゃねえか、俺と蛇骨が一緒に住んじゃまずいんじゃないかって……やっぱり学生二人じゃ何かと不便だろう」
「だからっておめえや蛇骨じゃ、中間期末テスト前の大兄貴の面倒は見切れねえだろうが。帰りが遅い生活してやがるくせに」
「そりゃあ……」
「ほっといたら全教科赤点取って帰ってくるぞ、兄貴は」
「……」
 睡骨は斜め上の方に視線を遣りながら溜め息をついてみせる。
「で、この間の中間の成績は?」
「最高が数学の71点だな」
「なんだ、悪くないじゃないか」
「高校の勉強をやってできないわけじゃないが、身に付けるつもりがないんだろうよ」
「英語は多少喋れるのにな……」
「あれは霧骨の店の辺りをうろつく内に覚えたんだろう。門前の小僧習わぬ経をなんとやらだな」
「ああなるほど、あの辺は不法入国の外国人も多い場所だからな」
「そういうことだ」
 普通の保護者なら高校生の男の子に、そんな不法入国者の溜まっているような場所を歩かせることすらしないはずであるから、煉骨も十分どこかの感覚がずれているのである。
「まドラッグだけはやらせない方がいいぜ、あの腕っ節を失くしちゃ惜しい」
 と言って、睡骨がまたコーヒーを一口飲んだ。
 煉骨が頷く。
「それくらい、大兄貴なら自分で分かってるだろう」
「あれで正規のトレーニングを受けりゃ、もれなくチャンピオンベルトが待ってるだろうに。身長体重はあれでも、筋力瞬発力動体視力、他にも戦闘行為というか…格闘技というかに必要な素養は常人の域を出てるんだ」
「さあ、将来のことは何を考えているのやらな。……それより将来といえば、おまえはまだ病院辞めないのか」
「まあ」
 ふん、と、煉骨が頷く。
「体中蕁麻疹じんましんだらけになっても、小児科医でいたいってか」
「…辞めたい辞めたいとは思うんだが、なんとなくきっかけが掴めないというか……」
「子どもが半径一メートル以内に寄ると蕁麻疹が出るなんて小児科医は、日本中探してもてめえだけだろうよ。実は子ども好きなんじゃねえのか。好き好んで小児科に行ったんだしよ」
「何で行こうと思ったのか、自分でも分からねえよ」
 睡骨はぐいとカップの中身を飲み干してから、深い深い溜め息をついてみせた。


「……」
 値札を見て、煉骨が顔を歪める。
(これだけありゃひと月飯が食えるじゃねえか……)
 歪んだ表情のまま、手に取っていた銀縁のメガネをショーケースの中に戻した。
(レンズも付けたらこれの倍以上は……)
 視力が落ちると金がかかる、というのは紛れも無く本当だ。
(フレームを変えずにレンズだけ……いやそれでも……)
 実はバイトの時に使っている一日用使い捨てのコンタクトレンズも、度が合わなくなってきているのだ。
 これはかなり、痛い出費である。
 メガネにコンタクトレンズ……どちらも安くはないのだ。あまり安すぎるものは質が良くないこともあるのであるし。
 煉骨は、無意識に胃の上辺りに手のひらを押し当てている。
 実際に痛みを感じるわけではないが、何となく胃痛がしてきそうな気がする。
「……」
 帰るか。
 どうせ今日のうちに買い換えるつもりで来たわけではない。
 と、思って煉骨がくるりと踵を返した時であった。
「兄貴、どうせ黒縁ならこういうのがいいんじゃねえの」
 という科白とともに眼前に差し出された細い黒フレームのメガネを、ついつい、煉骨は受け取っていた。
「毎日使うなら軽い方がいいだろうしよ」
「……」
「パソコン使うならそれ用のレンズ入れるとか……」
「…蛇骨」
 何だよ、と、蛇骨はショーケースの中を覗きこんだまま、振り向かずに返事をした。
「てめえまだ仕事が……」
「ああ、そうなのよ。今オーナーにパシられて昼飯買いに出てたとこでさあ」
 蛇骨は、黒いシャツに鼠色ねずみいろのジーンズをはいて、薄いピンク色のサングラスをかけて手にはゴーグルの付いた赤い色のヘルメットを抱えている。
「走ってたら店の窓から兄貴の坊主頭が見えたから寄ってみたんだよ。兄貴今日授業ねえの?」
「いや午後から実験があるがよ」
 溜め息混じりに言って、煉骨は手にしていたメガネをガラスケースの上に置いた。
「おい蛇骨、今日のところはまだ買いに来たわけじゃ……」
 と、言いかけたとき、
「こちらなどは、軽くて使いやすいですし、色の展開もたくさんあって人気の型なんですよ」
 といつの間に近寄ってきていたのか、蛇骨の横に立っていた女の店員がつややかな笑みを浮かべて言った。
 二十代半ばくらいの、今時の美人のお姉さんという感じの店員である。
 髪は下品過ぎないくらいの茶色に染められていて、肩に着くあたりで内巻きにカールされている。
 前髪は綺麗に分けられていて、化粧も抜け目無く、ファッション雑誌のモデルのような感じである。
 美人だな、と、煉骨は思った。
 それと同時に、この女蛇骨目当てだな、とも思った。
 俺一人の時は奥の方で退屈そうにしてたのに、蛇骨が来た途端に目の色変えて来やがった。
「ふうん、人気のねえ……」
 蛇骨は大して興味も無さそうに返事をしながら、その横の銀縁のフレームを取り上げると、それを煉骨の目の前まで持って来て、
「やっぱり兄貴にゃ、もうちょいはっきりした色の方がいいよな。就職活動でもするなら地味好みもいいけど……博士課程ドクターに進むなら、当分はさ」
「……」
「だいたい地が役者顔でいい感じなんだからさあ、下手に流行りもん追うより、こう、びしっと決めてた方が……」
「……」
「までも、どうせいっつもシャツ一枚で学校いくんだろ。それならやっぱ多少明るい色でもいいよなあ」
「それでしたらこちらなど皆様……」
 また蛇骨はその店員の指すものの一つ横のフレームを手に取って、今度はそれをわざわざ正面から煉骨にかけさせてやって、
「ああ、こういうのも似合うじゃねえか」
 と、囁くような声で言いながら、するりと手を煉骨の脇腹から腰の辺りに這わせてくる。
 煉骨がぎょっとして身を硬くしたが、蛇骨はお構いなしに、ふふ、と笑って見せてから急に店員の方を振り向いた。
「ほんとに商売っけで声掛けてもらったんなら悪ぃんだけどね、俺ゲイだから、男が好きなんだよ」
「……」
 女の店員は、息を呑んだような表情のまま蛇骨から一歩後ろに離れている。
「女ぁ嫌いなんだ。特にてめえみてえな、ファッション雑誌と他人の真似する以外に能の無い、顔の小ささと乳のでかさしか取り得のねえような女……」
「……」
「帰ろうぜ、煉骨の兄貴」
 蛇骨は、再び煉骨の方に向き直って、先程かけてやったメガネをゆっくりはずしてやると、それを綺麗にたたんで元の位置に戻し、その後は黙って煉骨の腕を引っぱって店の外へと出て行った。
 店を出た途端、煉骨が手に持っていたトートバッグで蛇骨の頭を殴り飛ばした。
「痛っ! あにすんだ兄貴」
「てめっ、おかげでもう二度とこの店入れねえじゃねえか!」
「ふん、知ったこっちゃねーや」
「家から一番近い店だったのに……」
「メガネ屋なら、俺の行きつけの店紹介してやるよ」
 蛇骨が煉骨に向って、黒いフルフェイスのヘルメットを放ってよこしてくる。
「駅まで送るぜ。ま…せめてものお詫びに」
 赤と黒色のボディの、派手なCB750に跨って、蛇骨もヘルメットをかぶった。
 それでも幾分怒気を含んだ声で、煉骨は言った。
「別にてめえの物言いが悪いた言わねえ…むしろすがすがしいと思うがな、ただTPOを考えろってことだ」
「……参考にするよ」
 煉骨が後ろに乗ったのを確認してから、蛇骨はバイクのエンジンをかけて煉骨が掴まってくるのを待っている。
「兄貴さあ、あの黒いメガネかけてるとダサいって言われんの?」
「センスがいいとは言われんぞ」
「そう」
「何が言いたい」
「…それでもあのメガネが勿体ないからって、ずーっと使ってる兄貴が、いい男なぁだと俺は思うわけよ。だいたい兄貴は顔だって色っぽくていい男なのによ、そういう魅力が分かんねー女どもが、俺はだっっ嫌ぇなんだよね」
 けっ、と蛇骨が毒づいた声がした。
 颯爽さっそうと風を切って、二人を乗せたCB750が制限速度も若干違反気味に、黒いアスファルトの道路の上に滑りだした。

(了)