ヘアーサロンひてん
「てめ、上等だ表出やがれ!!」
店のガラス戸を開け放って、通り向かいの店に向かって飛天は声を張り上げた。
しかし、それをその向かいの店の窓の中から、結羅が一笑する。
「いやぁね、男って野蛮で」
「るせえこの泥棒猫! あれほど男と子どもの客はこっちに回せって言ったじゃねえかよ!」
「だぁってあのお兄さん、髪の毛がもの凄くあたし好みだったんだもの」
「んなこと俺の知ったことか!!」
だんだんと声が大きくなっていく飛天の後ろで、蛇骨が溜め息をついた。
「オーナー、掃除の邪魔なんだけど」
「おう蛇骨、てめえも何とか言ってやれ、あの厚化粧に!」
飛天が向こうの結羅を指差して言う。
「厚化粧とはなによ、このラーメンマン」
「んだとっ! 俺のどこがラーメンマンなんだよ!!」
「今時流行んないわよ、そんなお下げ」
「ほっとけ! てめえだっておかっぱのくせに!」
「あら、黒髪におかっぱが流行の最先端なのよ。知らないの?」
「…その最先端って、どうせてめえの中だけで最先端なんだろうが」
「そういうこと言ってるから流行に乗り遅れるのよ。お馬鹿さん」
飛天が言い返してくる前に、さらに結羅は続けた。
「それにしても、蛇骨さんは今日も素敵な髪ねぇ。その黒髪…つやつやキューティクルがそそるわあ」
「……」
「うちの常連の龍羅さんみたいに綺麗なビビッドカラーでどっさりもっさりしてるのもたまんないし、ひーちゃんみたいに無駄に長い黒髪もまあいいけど…ねえ蛇骨さん、今度一回くらい触らせてね、髪」
ひーちゃん、というのは飛天のことらしい。
「いや、俺は……」
蛇骨があからさまに嫌な顔をしたが、そんなことはお構いなしに結羅はうっとりとした表情で蛇骨の髪を見つめている。
「はっ、誰がてめーなんぞにこいつの髪切らせてやるかよ。こいつの髪は俺のだ」
ここぞとばかりに飛天が、意地悪く言う。
しかしそれでも結羅の方が口達者かもしれない。
「あらやだ、俺のだ、なんて、あんたたちひょっとしてできてるの?」
そう言ってくすりと笑った。
「できてねえっ!」
「あらあらいいのよ。それくらいでひーちゃんを嫌いになるほど懐の狭い女じゃないもの」
「ていうかひーちゃんて呼ぶなっ!!」
と、そのとき、時計の針が丁度午前八時半を差した。
「オーナー」
蛇骨が、若干うんざりした様子で飛天を呼んだ。
「掃除させてよ、そこ。つーかあんたも早く準備してくれよ」
時を同じくして結羅の店の方でも、
「結羅さん、掃除の邪魔です。どいてください」
「そうだった? ごめんなさいね、瑠璃ちゃん」
「あと三十分で開店ですよ。早く準備してください」
「分かってるわよ、玻璃ちゃん」
そんな遣り取りが行われている。
「だいたい、なんで毎日毎日あんな女と
飛天が、紺色のエプロンの紐を腰で結びながら文句を垂れている。
こちらは胸当て部分のついた普通のエプロンだが、蛇骨は同じ色のギャルソンエプロンを身に付けている。
どちらも太股の辺りに二つポケットが付いているのは同じである。
「先に店構えたのはこっちだぞ!? それをわざわざ真正面に美容院なんか構えやがって……」
「オーナーに気があるんじゃねえの、あの女」
「あいつが生身の男に興味なんか持つもんか。興味があるのは髪の毛だけだろ」
「…興味持って欲しいのかよ」
「欲しくねえよ! 誰があんな変態……」
「……」
「ったく」
蛇骨は、ぶつぶつとまだ何か呟いている飛天を
「あんたさっき、ちょっとだけ動揺しただろ」
「何の話だよ」
「あんたと俺ができてるって言われた時」
「…別に、そんなこたねえよ」
「ならいいけど」
「……」
飛天が大きく息をついた。
「別にな、俺ぁてめえがホモでもバイでも何でも、気にしねえよ。さすがに押し倒されたときは驚いたけど」
「オーナー、強ぇんだもんなぁ……さすが元ヤンなだけあるよな」
「馬っ鹿やろー、誰が元ヤンだよ、誰が」
…あれは蛇骨を雇ってひと月ほど経った頃であったか。
閉店後の掃除も半ばの午後八時二十分。
いきなり店の電気が消えた。
スイッチをいじる音が聞こえたから、停電ではない。
「蛇骨か?」
暗闇の中を、こつ、こつ、という足音が近づいてくる。
ゆっくりと、一歩一歩近づいてきて、飛天の背後で立ち止まった。
そして、
「っ!?」
あろうことかいきなり床にうつ伏せに押し倒されたのである。
その拍子に、近くにあった台の上から
さらにあろうことか、背後からズボンのジッパーあたりに手の先が回ってくる。
「ばっ、馬鹿、てめえっ…!」
慌てて、背後に遠慮なく肘打ちを食らわせて、それを追うように右ストレートを顔面に叩き込んだ。
相手が鼻血を噴いたのが、暗闇の中でも分かった。
次第に目が慣れてくると、表情も見えるようになってくる。
蛇骨が、手の甲で鼻を押さえながら、獲物を狙う蝮のようなてらてらと光る眼でこちらを見ている。
「このっ…! 馬鹿やろ、鋏、先週研ぎに出したばっかりだったのに……」
「オーナー?」
蛇骨の声で、飛天ははっと我に返った。
時計を見ると、午前八時四十五分を指している。
「さっさとしねえと客来るぜ」
「ああ、分かってるって」
もう一度飛天は溜め息をついた。
蛇骨に辞められなくて良かった。
ただでさえ人手が足りないのだ、ここで辞められたらたまったもんじゃない。
しかしそういう男だというのは分かったが、この蛇骨、よく分からない男である。
あの時だって、その日はあんな蝮みたいな顔してやがったが、次の日にはやけにすっきりした顔で、落とした鋏の研ぎ代まで持ってきたのである。
どういうつもりかは知れないが、まあそれからは襲われることもないし、俺のことはあきらめたのだろう。
多分。
「そういや、今日満天が来るって言ってたな」
ちなみに、もし今度同じようなことがあれば、その時は即刻足首から下をコンクリ漬けにして東京湾だ。
「満天?」
蛇骨がこちらを振り返った。
「俺の弟だ」
そしてそう言った瞬間、蛇骨の目の色が変わったような気がした。
「弟? オーナーの?」
「ああ」
「実の弟だよな」
「そうだけど……」
蛇骨が一人でガッツポーズを取っている後姿を、飛天が不審そうに眺めている。
「オーナーの弟かぁ……そりゃ楽しみだなあ」
「確かカットに来るって……」
「俺がやってもいいだろ!?」
「顔剃りもやるか?」
「やる! 絶対俺がやる!」
…やっぱ変な奴だな。
と、飛天は、何やらもの凄く興奮している蛇骨を見て思う。
普段からそれくらいやる気を出してりゃ、理容師としては、言うこと無いんだが。
飛天は一瞬弟の身を案じかけたが、まあそうそう満天もやられはしまいと思い直した。
向かいの美容院も開店準備が整ったようだ。
「さて、じゃ、まあ満天はおまえに任せるとして、店開けるか」
結羅の経営する『ヘアースタジオ逆髪』、そしてこの飛天の経営する『ヘアーサロンひてん』、双方が第二商店街唯一の美容院、理容院である。
ちなみに今日の午後になって、満天はやって来るのだが、その時蛇骨がどういった反応を示したかについては皆さまのご想像にお任せすることにする。
(了)