鬼舞

「このへったくそが! しゃんしゃん手足動かしやがれ!」
 と、そんなげきを飛ばす声が聞こえてきたのは、もう夏も終わりに近い葉月の末のこと。
 蒸し暑い山の雑林の中、二つの人影がなにやら激しく四肢を動かし、跳んでいる。
「っ、んなこと言ったって分かんねーもんは分かんねーんだよ!」
「分かれよ、それくらい! ったくおめえはほんとに馬鹿だな」
「…蛮骨の兄貴に言われたくねえっつーの」
「へえ?」
 ひく、と蛮骨の口の端が吊りあがる。
 しまった…と思ったときには遅かった。
 顔の左側に飛んできた平手をよけきれず、蛇骨はもんどりうって倒れる。
「平手だっただけありがたく思うんだな」
「っ…ってえ…」
 まるで左頬にだけ血が集まってくるように、じんじんと熱く、感覚を失っていく。
「蛇骨、いつまで寝てる気だ、さっさと起きな」
 きっ、と蛇骨の目が蛮骨を睨む……が、
「俺にそんな目を向けるんじゃねえよ」
 にやりと蛮骨は笑った。
「俺は学はねえけどな、下世話なことならいくらでも知ってんだよ。蛇骨、おめえみてえな野郎どもが舌噛んで死にたくなるようなことだってな」
「……」
「俺にそんなことされたくねえだろ?」
「…はっ、そうくるわけかよ」
 蛮骨と同じように、蛇骨もにやりとした。
「されたい、って言ったらどうするつもりだったんだよ」
「…おめえそんな趣味もあったのか」
「ねえよ! けど気になるじゃねえか、ほんとに蛮骨の兄貴がそんなことすんのかなーって」
「してやろうか?」
 蛮骨はその場にしゃがみ込むと、上目で蛇骨の目に視線を合わせた。
「やめろよ兄貴、そんな可愛い顔されたらこっちが本気になっちまう」
「冗談よせよ」
 案外そっけなく、蛮骨は視線をそらした。
 そのまま立ち上がる。
 それにつまらなそうに、蛇骨がちぇっ、と舌を鳴らした。
「なんだよ、ノリ悪いな」
 蛇骨が泥で汚れた着物をぱんぱんと払いながら立ち上がると、蛮骨は黙って顎で後ろを指す。
「ん?」
 蛇骨がその先に見たものは、
「あれっ、煉骨の兄貴何してんだよ、んなとこで」
「大兄貴…蛇骨…邪魔して悪いが、一度戻れと、家老さんが」
 煉骨が赤らめた顔をしかめてこちらを見ていた。
 蛮骨が小さく溜息をつく。
「それから、二人とも後で話がある」
「えっ…れ、煉骨の兄貴~、ちょっとふざけてただけじゃねえか…」
 きっ、と煉骨の視線が蛇骨を射抜く。
「いいな」
「……」
「煉骨、分かってるよ、すぐ戻る」
「…本当に分かってるんでしょうね」
「ああ分かってる。だからおめえは先に戻れ」
 じゃあ…と歯切れ悪く、煉骨は後を振り返った。
 一歩二歩と歩を進めだす。
「おい蛇骨」
 その姿を確認して、蛮骨は声を潜めて蛇骨を呼んだ。
「蛮骨の兄貴~、どうするよ? このまま帰ったらこってりしぼられて骨と皮だけになっちまう…」
「そのことなんだがな、どうだここは一つ…」
「駆け落ちでもするかい」
「似たようなもんだな。夜逃げだ、夜逃げ」
「こらっ、早く帰ってこい!! 夜逃げなんて考えるな!!
「…地獄耳」
 蛮骨と蛇骨は悪態と同時に溜息を、深く深くついたのであった。


「やっぱ、駄目だ。こいつにゃ才能がねえ」
「…るせえなあ、分かんねーもんは分かんねーんだからしょうがねえだろ」
 ふん、と蛇骨はそっぽを向いた。
「蛇骨」
 蛮骨が蛇骨の耳を掴んで自分のほうを向かせる。
「いて、いたいたいたっ…」
「しょうがねえで済むか。じゃあ今度の仕事はどうするつもりなんだよ」
「知るかよ…いてっ!」
 蛮骨の、蛇骨の耳を掴む手に力が増す。
「あのなあっ、次の仕事の報酬が取れなかったらどうなると思ってんだ! 蛮竜は磨ぎに出せねえし、女遊びもできねえし、それに凶骨が飢え死にしちまうだろうが!!
「…蛮骨の兄貴、俺たちってそんなに貧乏だったのかよ…」
「最後にゃ俺とおめえあたりで客でもとらなきゃなんねーかもしれねえんだぞ? それでもいいのか!?
「そんな、蛮骨の兄貴にそんな真似させられるわけねえだろ!」
 がしっ、と蛇骨の両手が蛮骨のそれを握り締めた。
「分かってくれたか、蛇骨」
「ああ、いざとなったら煉骨の兄貴あたり山寺に売り飛ばせば済むことだよな」
「全然分かってねえじゃねえか!!
「…それ以前に」
 突如背後から割り込んできた低い声に、蛮骨と蛇骨の二人はびくっ、と体を縮める。
「ちゃんと俺の話を聞け!!
「…聞いてたぞ、一応」
「じゃあ俺はさっき何て言った」
「…いざって時には俺が銀骨と曲芸でもして稼いでやるから心配するな」
「適当なこと言うな!! だいたいそんなに貧乏じゃねえぞ、七人隊は!!
「え~、だってこの前、次の仕事がとれねえとやばいって言ってたじゃねえか…」
「それは大兄貴がツケにしてる遊女屋の金が払えねえからだ。いくらなんでも凶骨が飢え死ぬまではいってねえ」
 煉骨は憮然とした様子で居住まいを直した。
 蛇骨が一瞬嬉しそうな顔を見せる。
「あっ、じゃあ俺もう舞い習わなくてもいい…」
「そうとは言ってねえよ」
 しかし煉骨に睨みつけられてすぐに縮こまる。
 はあ、と煉骨は大きな溜め息をついた。
「どうしてこうも話がそれるんだ」
「えーと、最初って何の話してたっけ?」
 とぼけた声をあげる蛇骨に、煉骨は額に血管を浮かせている。
「大兄貴!」
「……」
「今後人目につくところで蛇骨とふざけるのはやめてくれ! ……あんたも蛇骨が愛人だのなんだのと言われんのは嫌だろう」
「…わーったよ、もうしない」
「蛇骨、おまえもだ」
「…分かった」
 煉骨はもう一度溜め息をついた。
「俺が言いたかったのはそれだけだ」
「煉骨、俺もちっと話があるんだけどよ」
「何です」
「蛇骨のことだけどな、駄目だ。こいつ、舞いの才能ねえわ」
「う…蛮骨の兄貴~、だからできねーもんはできねーんだってば…」
「それで、だな」
 蛮骨の顔は至極真面目だった。
 つられて、煉骨の表情も緊張する。
「俺が代わりにやろうと思うんだが、おまえどう思う」
「反対ですね」
「駄目か?」
「今回に限っては」
「そうか…」
「…今回のことは」
 煉骨がゆっくりと口を開いた。
「普段と勝手が違う。敵の城を落とすとか、そういう話じゃあない。今いるこの城の、殿さんの首を落とすんだ。俺たちを雇ったここの家老が言うには、殿を討つには次の月見の宴を利用するのが一番いい」
「そこで舞われる舞いの舞い手に紛れて討つ…俺の趣味じゃあねえんだがな」
「でしょうね、あんたはもっと派手な戦のほうが好きそうだ」
「闇討ち、とかいう類はおまえの得意じゃねえのか、煉骨」
 にやっ、と蛮骨は口の端を吊り上げて見せる。
「どういう意味ですか、それ」
「さて、どうだかな…まあ俺の趣味じゃねえんだが、任せようと思った蛇骨にできねえんじゃ、しょうがねえだろ」
「そうは言うが、相手だって馬鹿じゃあない。ここの城にはいろんなもんが飼われてる」
「まあな」
「夕べも、寝ている床の中に忍んできた女や童が、俺と睡骨だけでも一人頭三人だ」
「んだよ、俺と蛇骨が必死こいて練習してる間にそんないい目見てたのか」
「いい目なもんかい。全部殿さんの飼い犬どもさ。こっちの好みに合わせようととっかえひっかえ来やがる」
「なんでえ、馬鹿な奴らだな。そんなんじゃばればれじゃねえか、こっちに」
「牽制のつもりかもしれねえぜ。俺たちが殿さんを討つことを知ってるってことだ」
「けど、建前上は隣国との戦のために﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅殿が、俺たちを雇ったことにはなってる。雇った後でこっちの動きに気づいたんだろうな」
「家老の勧めで俺たちを雇って…しかしどうして、すぐに俺たちを解雇しないんだ?」
「俺と蛇骨がいるからさ」
「…なるほど」
「なあ蛇骨」
「ああ、すっけべそうな目で、舐め回すみてえに見られたんじゃたまんねえよな」
 蛇骨はまるでその視線を思い出したかのように、ぶるっ、と震えてみせる。
「あの馬鹿殿、俺と蛮骨の兄貴と両方いっぺんに相手してえとか、ぜってーそんなこと考えてんだぜ」
「って、蛇骨も大兄貴も殿さんに会ったのか? よく会えたな」
「俺が座敷で蛮骨の兄貴に膝枕してたら、それ見てにやつかれたよ。睨んでやったらすぐ帰ったけどさ」
「…ほらみろ、だから人目につくようなところで…」
「煉骨、まあその話はいいじゃねえか。まあとにかくそういうわけで、殿さんは俺たちを解雇しねえのさ」
「その上宴にまで招かれた、と」
「知ってたのか。ま、俺だけだけどな」
「だから俺は大兄貴が討ち手に回るのに反対…というか、無理だな。あんたが席を外せば、必ず怪しまれる」
「そこをおまえ、何とかできねえか。どうにか理由をつけて…」
「…気が進まないな」
「何とかしろ」
「…分かったよ」
 さてどういう理由をつけるかね…
「蛇骨、おめえも月見に出な。ちょっとは殿さんの気をそらせるだろ」
「ん、分かった」
「にしても、つまんねえ仕事だぜ」
 蛮骨は胡坐をかいたその膝の上にひじを乗せ、さもつまらなさそうに呟いた。
「戦がしてえなあ」
「そうだよなあ…もっと派手なことしてえ…」
 蛇骨もそんなことを言いつつ、寝転がると蛮骨の膝の上に頭を乗せた。
「あー、蛮骨の兄貴の膝は広くていいや…」
「おい二人とも…」
 煉骨の言葉など聞いちゃいない。
 空いた蛮骨の手は結われた蛇骨の髪の先を弄ぶ。


 真っ白な月の光は、熱さえ帯びているように感じられた。
 丸く大きな望月が辺りを照らし出し、美しい。
「月見日和じゃねえか」
 普段の小袖を脱ぎ、紺の素奥すあおをぴしりと纏って、煉骨は天を仰いだ。
「満月なんてもう見飽きたっつーのよ」
 その傍らに蛇骨が立つ。
 こちらはいつもと変わらぬ着流し姿である。
「見飽きるほど見たのか? 望月なんぞ」
「最近、煉骨の兄貴が頭に布巻いてないからな」
「……」
「……」
「…おい蛇骨」
「ん~?」
「どういう意味だ、そりゃ」
「ん~…まあこんなに白くは光ってねえかなあ」
「光るか!! …ったく、緊張感のねえ野郎だ」
「んなもん俺に求める方が間違ってんのよ」
 ところで、蛮骨の兄貴は? と、蛇骨は今にも欠伸でもしそうなほどとぼけた顔をしながら問う。
「大兄貴は今頃女どもに囲まれてるさ」
「んあ…なんだって?」
 一瞬、蛇骨の表情が曇った。
「見に行くか?」
「行く」
 煉骨が可笑しそうに頬を緩めた。


「騙したな、煉骨の兄貴」
「騙しちゃいねえよ。確かだったろうが、大兄貴は女に囲まれてたろ」
「女っつっても城の女どもじゃねえか。家老のおっさんが貸してくれたんだろ? 大兄貴の着替えにさ」
「蛇骨」
 その蛮骨が蛇骨を呼んだ。
「何考えてたんだ、おまえ」
 言いながらにやにやと笑っている。
 その身には、金糸・銀糸を細やかに刺繍したきらびやかな衣を纏い、これまた華美な金地の短袴。
 さらにその上には、真っ赤な生地に金糸で見事な花鳥風月を刺繍された、打ち掛け。
「べーつに。それよか、大兄貴、んなもんまで着んの」
 その打ち掛けを指して蛇骨が言う。
「何の舞いなんだよ、一体」
「そりゃ…」
「鬼女の舞いだ」
 答えたのは蛮骨ではない。
 背後から現れた大きな影に、蛮骨は軽く一瞥をくれた。
「…睡骨か」
「おう、ちょっくら様子見にきたぜ」
 後には霧骨も続いている。
「煉骨の兄貴と蛇骨も来てたか」
 霧骨が二人を見上げる。
「なんだよ、煉骨の兄貴はいいかっこしてんなあ」
 それに応えたのは蛇骨。
「蛮骨の兄貴の代わりに月見に出るんだからな」
「ああ、そうか。いい口実見つかったんか、煉骨の兄貴」
「ああ」
「どんな?」
 煉骨はちらりと蛮骨の方を見た。
「七人隊首領は満月を見ると暴れだすので欠席させていただきたく…」
「っておい煉骨! てめえ、なんて理由つけてんだよ!」
「どうにかしろと言ったから、どうにかしたんじゃないか」
「それで納得したのかよ、先方は」
「俺と蛇骨が代わりに出ますから、と言ったらな」
「けっ」
 ぷい、と蛮骨はそっぽを向いた。
「煉骨の兄貴、なかなか上手い言い訳じゃねえか」
 その姿を見て、睡骨が可笑しそうに言う。
「どこがだよ」
 蛮骨は脹れっ面のまま髪の結い紐に手をかけた。
「ん、蛮骨の兄貴ほどくのか?」
 蛇骨がその蛮骨の手を取る。
 そして、その手をそのまま蛮骨の髪の中へと差し入れると、紐をほどいて一気に指でいた。
「悪いな、蛇骨。ま、自分で言うのもなんだけどよ、鬼女にはもってこいなざんばら髪だよな」
「そうだな」
 笑いながら、蛇骨はほどいた結い紐を器用に自分の左手の指に結びつける。
「そろそろだ」
 凛とした表情を、蛮骨は見せる。
「煉骨、蛇骨、後は頼むぞ」
「ああ」
「おう」
「睡骨、霧骨、俺のこと、上手く隠しとけよ」
「分かってる」
「任せろって」
「よし、んじゃ…」
 足下に置いてあった風呂敷包みを、蛮骨は取り上げた。
 それを開き、中から現れたのは古びた、しかし見事なつくりの般若の面。
 蛮骨はそれを手に取ると、ゆっくりと己の顔へとあてがった。


 一瞬何が起きたのか理解できなかった。
 …蛮骨の兄貴?
 かん、と乾いた音がして、鬼の面が地に付いた。
 かたかたと揺れていた。
 蛮骨の長い髪が宙を舞う。
「おい、大兄貴!」
 倒れ込んだ蛮骨の体を、睡骨はどうにか支えると己の腕を兄貴分の背に回し、抱き起こす。
「おい!」
「蛮骨の兄貴!」
 蛇骨が駆け寄る。
 兄貴…
 わけが分からない。
 どうして…
「兄貴! おいこら、どうしたってんだよ!!
 声を張り上げて名を呼ぶと、強く閉じられていた蛮骨の目が薄く開いた。
「るせえ…」
 口を開いた途端、その端から真っ赤な液体がこぼれ落ちる。
 口元から、顎を伝い、首を流れていく。
「蛮骨の兄貴…何が…」
「蛇骨」
 背後から呼ぶ声がした。
 振り返れば、霧骨が落ちた面を拾い上げ、なにやら険しい面持ちでそれをこちらに見せる。
「これだ」
「…面?」
「裏側に毒が塗ってある、な」
「毒だと?」
 訝しげに、煉骨が霧骨の方へとその顔を寄せる。
「ああ、煉骨の兄貴、分かるか? この臭い」
「…いや」
「さすがの大兄貴も気づかなかったんだな…こりゃ猛毒だ。下手すりゃ軽く吸っただけで極楽往生だぜ」
「な…おい、大兄貴生きてるか」
「生きてるよ、馬鹿…」
 蛮骨の声はいつもに比べればかなり弱々しかったが、芯はしっかりとした声だ。
 煉骨はほうっ、と息を吐いた。
 蛇骨も安堵に溜め息をつく。
「誰がこんなこと…」
「さっきの侍女どもか、そんなところだろう。あっち側の人間がいたってことだ」
「……」
「煉骨…」
 蛮骨がゆっくりと口を開いた。
「なんだ」
「俺のことはもういい…それより、宴が始まっちまう…」
「どうするんだ」
「どうにかしろ…」
「蛮骨の大兄貴、あんまりしゃべらねえ方がいい。毒が回る」
 霧骨が蛮骨の近くへと寄る。
「睡骨、ここにいたんじゃどうにもならねえ。大兄貴をあっちまで運んでくれねえか」
 そう言って霧骨は煉骨の方を振り返った。
「煉骨の兄貴、いいよな」
「ああ、こんなとこにいつまでもいるわけにはいかねえからな。人に見られても困る」
「睡骨」
「ああ」
 返事が早いか、睡骨は蛮骨の背に置いた手とは逆の手を彼の膝下に差し入れ、横抱きに抱き上げた。
 霧骨について歩み去るその背を見ながら、蛇骨は前に屈みこむと、己の頭、髪の結い目に手を遣った。
「蛇骨?」
 白い月光に、蛇骨のかんざしたまが煌いた。
 その身を起こせば、長い黒髪が肩を伝う。
「煉骨の兄貴」
「どうした」
「舞いの着物ってさ、替えとかないのかな。あと面も」
「…本気か」
「本気だよ」
 蛇骨が煉骨を振り返る。
 笑っていた。
 否、笑っているのは口元だけだ。
 にやり、と吊り上げた真っ赤な唇が小さく動く。
「怒った鬼は恐えんだぜ?」
「…今聞いてきてやるよ」
 もう止まらないだろうし、止める必要もあるまい。
 鬼は…蛇骨は背の刀に手をかけた。
 振り抜く。
 しゃっ、という薄い金属音とともに、その刃は空を切り、己の身に纏わりついた。
 刀を引く。
 もう一度薄い金属音。
 しゃらしゃらと、連なった刃はひとつに戻る。
 その刃に白い月が映っていた。
 あの月を、真っ赤に、真っ赤に染めてやろう。


 能舞いだとか、そんなご大層なもんじゃあない。
 金地の袴に白い小袖を纏い、般若は一歩前へと進み出た。
 正面には、この城の城主。
 その脇に、側近ども、家老、若家老、侍女やら、なんやら。
 煉骨の兄貴。
 太鼓の音が小さく響いていた。
 音を合わせている。
 …さて、いくか。

 どおん

 突然にそれは始まった。

 だんっ

 般若が脚を踏み鳴らし、腰を落として舞い始める。
 激しい。
 思わず誰もが目を見張った。
 跳ぶ、撥ねる、脚を踏み鳴らし、手に持った扇は宙を舞う。
「家老よ、これは…なかなか珍しき舞いじゃな…」
 少々放心したような声で、城主が呟く。
「はあ…」
 家老自身も驚いていた。
 あやつら…稽古とは全く違うではないか…
 般若の舞いは、止まらない。
 それにしても、舞曲を奏でる衆の優秀なこと。
 般若の舞いとぴたりと揃って、ただの一度もずれはしない。
 見惚れた。
 その時。
 何かが煌いた。
 おお、と一同から歓声が上がる。
 切り刻まれた扇が辺りに散った。
 薄い金属音。
 しゃらしゃらと、何かが辺りを舞っている。
 それは般若の体に纏わりつくように、うねっていた。
 皆が、それの正体を見極めようと目を凝らす…暇も無かった。
 龍笛りゅうてきの音が、一瞬縮こまってしまったかのように思えた。
 肉の切れる鈍い音がする。
 笛の音が掠れてしまっていた。
 中に水が溜まってしまったな…
 赤い水が。
 吹き手はぼうっとそんなことを思う。
 額の上を生温かい液体が伝っていった。
 もう、誰も歓声も、嘆声も上げなかった。
 誰が上げるというのか。
 生き別れた胴体を悲しむがせいぜい。
 月見の宴は赤く、赤く染まった。
 太鼓を打つ者、竜笛を吹く者、家老、煉骨。
 誰も何も言わない。
 ただ楽の音が辺りを支配して。
 血の臭いと楽の音と、薄い金属音が絡み合う。
 月までが赤く染まったように見えた。
 しばらく押し黙っていた家老と煉骨であったが、ようやく、小さく口を開く。
「見事」
 細い、家老の声だった。
 それを合図とするように、突然舞は止まり、合わせて、楽も止む。
「よくやった、蛇骨」
 蛇骨は般若の面を己の顔から剥がし取った。
「悪いな、着物、血で汚しちまった。あんたらのも」
 端正な顔立ちのその鬼は、やはり笑っていた。


 それから、二日ほど経った。
 蛮骨の調子はと言えば…
「大兄貴…頼むから粥ぐらい食ってくれ!」
「粥なんて喉通るかよ…」
「…じゃあ、そう言いつつ今食ってるそれは何だ! 魚は喉通って、なんで粥が喉通らねえんだよ!」
 睡骨は思わず声を大にする。
 まだ毒にやられてから二日しか経っていないというのに、蛮骨の食欲といったら、目を見張るものがある。
 とはいえ…
「まあいいじゃねえか睡骨。蛮骨の兄貴なら、魚、一気に三匹もたいらげられりゃ心配ねえだろ」
 傍らの蛇骨はそう言うが、普通はそうはいかないのだ。
「んなもん、そんなにいっぺんに食ったら胃の腑が驚いてまた具合悪くなるだろうが」
「平気だって」
 蛮骨は意に介さない。
 蛇骨はそれを見て、嬉しそうに頬を緩めていた。
「…なんだよ、蛇骨。さっきから人の顔じろじろ見やがって」
「いや?」
 心底嬉しそうに、蛇骨は目を細める。
「丈夫な兄貴で良かったなあと」
「今更何言ってやがる」
「ま、それもそうだけどよ。前に崖から落っこちたときも、石火矢に打たれたときも三日で治ったもんなあ」
「俺あ体のつくりがおめえらとは違うんだよ」
「まったくだぜ」
 くつくつと蛇骨は笑う。
「頑丈で良かったよ、蛮骨の兄貴が」
「それより、蛇骨、おめえ結局やったんだってな、舞い」
「やったよ」
「よくやった」
「…あんがと」
 けどなあ、と蛮骨が蛇骨をじろりと睨む。
「最初っからその気でやってりゃ、俺がこんな目に遭うことも無かったわけだ」
「う…それは…」
「なんでおめえはここ一番でしか本気にならねえんだよ」
「いや…だってさあ…」
 蛇骨はばつが悪そうに視線をそらした。
「…ばーか、本気で責めてんじゃねえよ」
「…ほんとか?」
「ほんとだって。それよりご褒美の一つも欲しいんじゃねえのか? 蛇骨」
「くれんの?」
「やるよ。何がいい。着物か、簪か…」
「いい男が欲しい、男、男」
「…あのな、んなもんは自分であさりに行ってこい」
「え~、だってさあ、このところ舞いの稽古だのなんだのってさ、ずーっと男日照りなんだぜ~?」
「俺の知ったことかよ。じゃあ煉骨か…睡骨そこにいるだろ。相手してもらえよ」
「睡骨なら早々に逃げてったぜ」
「んな…あの野郎…」
「それに」
 言うなり、蛇骨の腕が動く。
 蛮骨の首元に絡みついて、離さない。
「おい…」
「俺の好みとしちゃ、蛮骨の兄貴のほうが好みだし?」
「馬鹿かてめえ」
「馬鹿で結構。なあ兄貴、ご褒美くれるってんなら…」
「なんだよ」
「口、吸ってよ。ちょっとでいいからさあ」
「…やだ」
「な…冷てえんじゃねえの? こっちから誘ってんのに」
「何が楽しくておめえと口吸ちゅうしなけりゃなんねえんだよ」
「ご褒美くれるっていったじゃねえか」
「着物か簪で手え打てよ。俺にはそっちの趣味はね…」
 言い終わらなかった…というか、言い終えることができなかった。
「んっ…!」
 蛮骨のそれに、蛇骨の唇が当たっていた。
「…確かにもらったぜ、ごほーび」
 唇を離してすぐ、蛇骨は笑い出した。
「してやったり、ってか」
「自分で言うな! …このやろ…」
「怒るなよ、蛮骨の兄貴」
「ふん」
 ぷい、と蛮骨がそっぽを向く。
「…蛇骨、頼むから本気にだけはならないでくれよ…」
 切実な声だった。
「なんだよ、そんなに嫌がらなくてもいいじゃねえか」
「困るんだよ」
「何が」
「おめえみてえなこぶ﹅﹅付だってんじゃ、素人女どころか遊女だって寄って来ねえや」
「…あのな…そういう意味かよ」
「俺だって女日照りなんだよ。てめえの稽古に付き合ってたせいでな」
「あーやだやだ、女なんかのどこがそんなにいいんだか」
「そりゃーやっぱ…」
「言わなくていい! 聞きたくもねえってんだ」
「…なあ蛇骨」
「なんだよ」
「ものは相談だ」
 くるりっ、と蛮骨は振り返った。
「城下に下りねえか? 俺とおめえと、二人で」
「城下にか?」
「おう。今の時期なら市にゃ芸人もいるだろうしよ。何か見物して、甘いもんでも食って、その後は…」
「なるほど、お互いに、ってか…けど煉骨の兄貴が許してくれねえだろ」
「そりゃそうだ。だから見つからねえように…」
「…いいねえ」
 二人は揃ってにやりと笑う。
「よっしゃ、そうと決まればさっそく…」
 が、
「こら!! 大兄貴! 蛇骨!」
 突然部屋の障子から現れたのは…
「げっ、煉骨」
「大兄貴! あんたまだ倒れてから二日しか経ってねえんだぞ!! んな体で女なんか買えるか!!
「買える」
「買えねえ!!
「大兄貴! こっちだ!」
 と声のする方を見てみれば、いつの間に外へ出たのか、屋敷の庭から蛮骨を呼ぶ蛇骨の姿。
「よし! 蛇骨!!
 蛮骨の体が跳ねた。
 だんっ、と縁側を踏み鳴らしたそのまま、蛮骨は外へと飛び出す。
「兄貴!」
 蛇骨が軽く腰を落とし、両手の平を天に向けて、ぱん、と打ち鳴らす。
 それが合図のようだった。
 蛮骨の体が宙を舞う。
 蛇骨のその重ねられた掌の上に蛮骨の右足がかかった。
 蛮骨の体が一際高く舞い上がる。
 塀を越えた。
 それを見届けて、蛇骨の体も跳ね上がる。
 あっという間に塀を飛び越え、そこを足場にさらに高く。
 越えた塀の元で、蛮骨はそれを見上げていた。
 綺麗じゃねえか。
 蛇骨の着物裾がひらひらと揺れる。
 こいつが舞ったんなら…さぞかし。
 最高の舞いだよ。

(了)