紅唇

いつからだろう。
この、赤黒い液体に愉悦を覚えるようになったのは。


「俺はもてる」
「…またとーとつに、何言い出すかと思ったら」
「だってほんとだもん」
「はいはい、そうだね」
 秋も深まった霜月に、寺の境内からそんな声が聞こえてくる。
「でも坊様たちにもてても俺は嬉しくないよ」
 坊主頭の小坊主が、境内をほうきではき回りながらもう一人の子に向かって言う。
「じゃあ誰にもてたら嬉しいんだよ」
 もう一人の子供は、話し方から男とは分かるが、長い髪を揺らし大きな瞳を輝かせ、一目では少女のように見えた。
「そりゃあ…」
 言いかけて小坊主ははっとする。
「ば、馬鹿、何言わせるんだよ」
「あー、ひょっとしてやらしいこと考えたんだろ。坊主のくせに、和尚さまに言いつけてやろー」
「ばっ、やめろよ!」
「やーだね。絶対お仕置きされるぞー、まだまだ修行が足りん! とか言われてさ」
 髪の長い少年が屈託無く笑いながら境内を駆けていく。
「待てよ! 時輔ときすけ!」
「やーだよ!」
 二人の少年の高らかな声が、辺りに心地良く響いていった。


 少年の名は時輔という。
 いや、名と言うべきではないかもしれない。
 名というものが、この世に生を受けたそのときに定まるものとするならば、これを名と呼ぶのはふさわしくない。
 呼び名、だ。
 年の頃は十一、二。
 まだ声変わりもしない、少女のような姿。
 ただ中身は、外見に似合わず腕白な少年であるのだが。
「と~き~す~け~」
「おっ、おかえり、煉慶れんけい
「おかえり、じゃない! ほんとに言いつけやがって!」
「俺あ嘘はつかねえから」
 からからと時輔は笑う。
「おかげでえらい目に遭った」
 時輔が腰を下ろしている縁側に、煉慶も腰を下ろした。
「怠けてっとまた叱られるぜ」
「ふん、毒を食らわば皿まで、ってやつだよ」
「ん? 何?」
「毒を食らわば皿まで。嫌なことにはとことん付き合ってやろう、ってこと」
「ふーん、煉慶頭いいなあ」
「って、おまえ、若先生に学をつけてもらってるんじゃなかったのか? それぐらい知ってるだろ」
 へへ、と時輔が頭を掻いた。
 その顔が煉慶にはぴんと来る。
「おまえ…どうりでいつも若先生がおまえを探して走り回ってると思った」
「だーって俺頭使うこと嫌いだもん」
「おまえなー、せっかくの若先生の好意をむげにして…」
 若先生、というのは寺の僧で、御年二十歳と若年だが、学識豊富だということで近隣の寺でも名高かった。
「やだ、あんな助平坊主」
「すっ…」
「会うたびに人の足ばっか見てさ。蛇の舌に舐められてるみたいなんだぜ、気色悪い」
「あ、でも…」
 おまえは…
「いっくら俺がお稚児さんだからってさ、いい加減にしろっつーの」
 稚児…というのは、一般的に寺社で祭事のときなどに美しく着飾って行事に参加し、時には神霊を降ろす尸童よりましの役目も負ったという童子のことだ。
 そして女色の禁じられた僧たちの夜のお相手も務めることがあったという。
「あのさあ、時輔」
「なに」
「その…嫌じゃないのか?」
「何が?」
「だから、その…」
「坊さんにやられんのが?」
 あまりに露骨な時輔の言いように、煉慶は思わず顔を赤らめる。
「…嫌っていうかさ、可笑しいよ」
「可笑しい?」
「いつもは、やれ精進精進言って真面目そうにしてる坊さんがさ、俺の前だとどうなると思う?」
「どうって…」
「夜中に女の床に忍び込んでく、その辺のおっさんらと同じような顔してるんだぜ。笑えるよなー」
 …本当に、笑えるのか、それ…
 煉慶の目はからからと笑い声をあげる時輔の顔をじっと見つめている。
 可哀想な奴。
 いっそ俺みたいに小坊主にでもなってしまえば…いや、それでも変わらないか。
 …確か親はいないって言ってたっけ。
 いるんだろうけど、どこにいるのか…この寺に拾われて、こいつは本当に幸せなのかな…
「煉慶、余計な心配すんなって」
「うん…」
「俺は可哀想じゃないよ」
 どきっ。
 心の中を見透かされているのかと思った。
「楽しいもん、毎日。おまえも遊び相手にいるしさ」
「…うん」
 なんとなく、煉慶は心の中でごめん、と謝ってしまった。
 屈託の無い時輔の笑顔に、罪悪感が募って止まらない。
「なんだよ、煉慶、そんな顔すんなよ」
「…うん」
「……」
「……」
「…あーもー辛気臭い!」
 不意に、時輔が動いた。
 不意に。

 !

 唇に、ふわっと軟らかいものを感じた。
 時輔の顔が、近すぎて見えなかった。
 入り込もうとしてきた舌を思わず噛みそうになって、煉慶は慌てて顔を離した。
「時輔!」
「あー、馬鹿動くなよ、これからってときに!」
「馬鹿はそっちだ!!
 煉慶の顔は耳まで真っ赤だ。
 その顔を見て時輔が笑う。
「ゆで蛸」
「うるさい!!
 馬鹿野郎!!
 日が暮れ始めていた。
 宵闇が、辺りを覆い始める。
 少年たちは声も高らかにじゃれ遊ぶ。
 別れのときも知らず。
 時輔の楽しそうな笑い声が辺りに響き渡った。


「若先生、痛い」
 宵闇は辺りを覆いつくした。
 夜も更けた。
「あ…すまん、時輔」
「うん…」
 握られていた腕に赤い痕が残っている。
 人の手の形。
 夜の闇の中でそれはそこだけで別の生き物のようで、気味が悪い。
「時輔…」
 ゆっくりと、若僧の唇が少年の首筋に落とされる。
 その周りが鳥肌立つようにぞくりとうずく。
 気持ちが良いような気もするし、悪いような気もする。
「あ…」
 強く吸い上げられて思わず身を硬くする。
 その間にも男の手が少年の体を這い回る。
 手馴れたものだ。
 男にしても、少年にしても。
 時輔は若僧の背中に腕を回し、力を込めた。
 それで男が悦ぶと分かっているから。
 自分の体に男が酔いしれていることに、快感を覚えているような気もした。
 可笑しかった。
「ん…」
 時輔の細い体を、男の手は滑っていく。
 やはり鳥肌立つような感覚。
 快感に近いのかもしれない。
「時輔」
 名を呼ばれた。
 男の手が少年の首筋を撫でた。


 がたがたと風の音がする。
 煉慶は眠れなかった。
 風の音がちくちくと頭の奥を刺激する。
 無性に苛立つ。
 それでもどうにか眠りにつこうと目を閉じると、まぶたの裏に浮かぶのは…
「っ……」
 …なんであんなこと思い出してるんだ、俺は!
 軟らかい、唇の感触。
 濡れた舌の…
 顔が熱くなってきて、それ以上考えられない。
 考えるな、煉慶! あいつは男だぞ!
 …いや、女のこと考えるのも駄目なんだけど…
 はあ、と煉慶は溜め息をついた。
 なんか、坊様方があいつに夢中になるのがちょっと分かった気がする…
 そのとき、
「?」
 物音がした、ような気がした。
 …若先生の部屋の方からだ。
 確か…今夜はあいつもあそこに…
 胸騒ぎ、というのだろうか。
 心臓の奥がざわざわと落ち着かない。


「いっ、痛っ…ちょっ、若先生!」
 少年の悲鳴に近いその声は、もはや男の耳には届いていなかった。
 少年…時輔の鎖骨の掴み上げ、折らんばかりに力を込めるその腕。
「私が見ていないとでも思っていたのか…この淫売が…」
「っ…? 何のこと…」
「知らぬ振りをしても無駄だ。皆声をそろえて言うわ、おまえの体は極楽浄土へ誘ってくれるようだとな」
「っ、う…」
 非力な僧とは思えないほど、男の手は時輔の体にくい込んでいく。
「今日の昼間も! 私の教えを受けるのはそれほど嫌か。あんな餓鬼と口を吸いあうのはそんなに楽しいか!!
「…煉慶のことかよ…」
「師に寵愛されるだけでは飽き足らぬのか。あんな下碑な餓鬼にまで手を出すのか、おまえは!!!」
 ぎりっ…
 っ…くそっ…
 不意に、力が緩められた。
「はっ…」
 時輔が小さく安堵に息をつく。
 が、
「!」
 男の手が時輔の首に触れた。
「…もう私は疲れたんだ」
 その手が首の周りをゆっくりと撫で回す。
「おまえを私から奪おうとする輩に嫉妬するのも、おまえ自身を憎むのも…」
 手が、止まった。
「時輔」
「……」
「死のう、一緒に」


 風の音が一層強くなったような気がする。
 煉慶の胸の不快感はおさまる気配を見せない。
 何、なんなんだよ、このざわざわ。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 吐きそう…
 ただ寝ているのは余計に辛かった。
 煉慶はごそごそと布団を抜け出した。


「っぁ…」
 時輔の目が見開かれた。
 声が出ない。
 男の手が少年の細い首を強すぎるほどに締め付ける。
「苦しいか? 時輔……心配しなくてもいい、私もすぐに後を追ってやるからな…」
「っ、っぅ…」
 ちくしょう…
「ああ、時輔、おまえは苦しむ顔も美しいな…美しいよ……おまえは美しいまま死ねる…こんなに喜ばしいことはないだろう? なあ…」
 力が次第に強くなっていく。
 少年の顔が苦痛に歪む。
 ちくしょう…この…
!?
 男の腹に衝撃が走る。
「と、時輔…貴様…」
 時輔の足が男の腹を蹴り上げている。
「…そういうところが可愛いのさ、おまえはな」
 その足も男に掴まれる。
 が、
「っ!?
 人の足は二本あるのだ。
 逆の足が動いている。
 ほぼ人間離れした軟らかさでその足は曲がり、男の肩口から顔を出す。
 左足なのに、重なっている男の左肩からだ。
 その左足が跳ねた。
「うぐぁっ!!
 がたっ
 男の体が脇の障子まで飛んだ。
「は、はあっ、この野郎…」
 時輔が飛び起きる。
「なめてんじゃねえぞ! このクソ坊主!!
「とっ、時輔…」
「…なんて顔してんだよ、若先生」
「あっ、わ、私は…」
「へへ…餓鬼だと思ってなめてるからこうなるんだよ…ばあーか」
「っ……」
「今まで散々可愛がってくれてありがとよ」
「……」
 時輔の顔が、笑った。
「…今度は俺が可愛がってやるからな」


 血。
 血。
 血。
 血。
 血。
 そこらにあった焼き物ぶち壊してできた破片で、切りつけるとじわじわと赤黒い液体がにじんで。
 赤。
 赤。
 赤。
 あか。
 アカ。
 生温かい。
 ああ、あんたの言ってたこと少しは分かるよ。
 死顔だけは綺麗だねえ、若先生。


「時輔!」
 障子を開けたら、境内に時輔が立っていた。
 障子に何かがぶつかる音や、何かが割れる音や、人の呻き声や、血の匂いや、嫌なものがたくさん感覚を刺激して、もう麻痺してしまっていたのかもしれない。
 時輔の姿に何も感じなかった。
 血まみれの、薄物一枚の姿に何も思わなかった。
 時輔は何も言わない。
 ただこちらを振り返って、一瞥をくれた。
 ちょっと苦笑っているように見えた。
 そして駆け出す。
 四肢を大きく振って、振り返りもせず駆けていく。
 何も言えなかった。
 ただ、あの少年の生命力を見た気がした。
 初めてのことじゃなかったんだな、きっと…
 静かに障子を閉めた。
 あまりに唐突な別れであったのに、実感だけは強かった。
 もう二度と会うこともないだろう。


「おい、一人も残すんじゃねえぞ。きっちり始末しろよ!」
 蛮骨の声だ。
 蛇骨は心踊って仕方がない。
「なあ睡骨、いいなあこういう仕事」
「あ?」
「皆殺しって、俺すげー好き」
「ぶっそーだな、物騒」
「んだよ、おめえだって好きだろ」
「ああ、好きだね」
 んじゃ行くか、と蛇骨が軽快に走り出した。
 自称斬り込み隊長、以下続く。
 廊下に足が着くたび、大きな音が立つ。
 人と見れば斬る。
 蛇骨刀が伸びる。
「おい蛇骨! 俺にもちったあ残しとけよ!」
「あーもう、うっせよ!」
 斬る。
 飛んでくる死体を避けながら、睡骨は蛇骨の後を走る。
 悲鳴。
 血飛沫。
 地獄絵図のよう。
「っ、とっとっとっとっとっ」
 危ねー危ねー、見逃す所だった。
 一つだけ締められた障子。
 開け放つ。
「なんだ、坊主が一人か」
 部屋の真ん中に、僧が一人。
 若い僧だ。
 ゆっくりと蛇骨の方へ顔を向けた。
「…二度と会わないと思ったのに」
「あ? なんか言ったか、てめえ」
「やっぱり坊主になんか、ならなければよかった…」
「何言ってんだ、ごちゃごちゃと」
「あの日、俺も出て行けばよかったんだ。坊主になんかなったって、迫る死は恐いし、煩悩は消えないし…」
「黙って死ねよ」
 蛇骨刀が振り上げられた。
「でも…」
 ひゅっ
「…おまえに斬られればその生きる力で転生できようか」
 それ以上声はあげなかった。
 どさりと。
 首の落ちる音も聞かず、蛇骨は走り去っていく。
 睡骨は落ちた首を見た。
 泣いていた。

 彼の日に触れし血の唇の、辛い味こそかなしけれ。

 あの日感じた、最初で最後の唇は、血の味がした。
 今思えば、悲しくてたまらないよ。

(了)