背中
蛮骨の背に、煉骨は立った。
その理由が、煉骨には分からない。
こうも簡単に、自分に背中を許す。
余裕? 信頼? どちらかといえば前者か。
「大兄貴」
「なんだ? 煉骨」
「家老さんが、呼んでる」
「またか? 面倒くせえなあ」
「できるだけ早く、とのことだが」
蛮骨は大きく溜め息をついた。
「あんの助平ジジイが」
「助平…」
「さっき呼ばれていったとき、俺の尻撫でやがったんだぜ、あいつ」
「……」
「もうぜってーあいつには尻は向けねえ」
…俺は?
「俺に背中を向けることは平気なのか」
「へ?」
「あ、いや…なんでもない」
蛮骨が不思議そうに煉骨を見た。
「なんだよ、変な奴だな……まあいいや、んじゃま、俺はご家老のとこ行ってくるから、あと頼むぜ」
蛮骨は振り返ってそのまま歩きだす。
煉骨の横を通り過ぎた。
「煉骨」
「何か」
「そのときが来なきゃ分からねえさ。そうだろ?」
「な、何の話だ」
「てめえに、最後に背中を見せる時が来ねえことを祈るよ」
「!」
蛮骨はそれ以上言わず、黙って去っていった。
煉骨は、体中からどっと汗が噴き出しているのを感じた。
「…別に今から裏切ってやろう、ってんじゃねえさ」
誰に向かって弁解しているのか。
思わず自嘲した。
合戦場。
叫び声と鮮血に彩られた異空間、というのは言いすぎか。
これを日常として生きている者にはなんということもない、当たり前の光景だ。
「煉骨」
背後から呼び声がする。
顔だけで振り返った。
見知った顔ではない。
「誰だ」
「わしの顔に、見覚えはないか」
「……」
そう言われれば、どこかで見たような気も…
「…ああ」
そうか。
「若家老殿」
「左様」
「何か御用か」
「ああ。だからそう恐い顔をするな」
若家老は才覚で選ばれるとは聞くが、この男はやたらと若い。
まだ三十路に掛かるか掛からないかくらいにしか見えない。
「この顔は生まれつきです」
ほっとけ。
「それで、御用とは?」
煉骨が振り返ると、若家老はにやりと口の端を吊り上げる。
「手短に願います」
「では単刀直入に言おう」
言って、若家老は煉骨に歩み寄り、耳元に口を寄せた。
「蛮骨は邪魔だと思わぬか?」
!?
「どうだ、思わぬか」
……
「思わぬのか」
「…お、思うと言えば、いかがなさる」
「思うか」
「いや…もし、の話で…」
若家老は相変わらずにやにやと笑いながら、煉骨の顔を覗き込む。
嫌な顔だ。
俺の頭ん中を見透かしているようで。
「そのときは、わしが手を貸してやろうと思ってな」
「何故、またそんな…」
そんな目で俺を見るな。
「なに、実を言うとわしが殺したいと思っているのさ、あの
「……」
「家老の一人があの餓鬼に御執心だ」
それは知っている。
さっき蛮骨を呼んでいた家老のことだろう。
「年寄りのくせに、隙のない男さ。ああ見えて長柄の
「…それで」
「あの男は邪魔だ」
「……」
「どうにか隙を作りたい」
…なるほど。
「それで大兄貴を…」
「あの男は女はからきしだが、少年にはだらしがなくてなあ。特におまえの兄貴分のような生意気げな餓鬼にな」
「大兄貴がいきなり目の前から消えれば…」
「大なり小なり隙を見せてくれることであろうよ」
要するに家老と若家老との権力抗争か。
家老に引導を渡して自分が後釜に座ろうってんだろう。
「わしの手の内には腕の良い鉄砲足軽がおる」
「…そんな奴らでは蛮骨は殺せねえよ」
「分かっておるさ。今までも何度か狙ってみたがことごとく気配を悟られた。まったく背中に目がついているのか、あの餓鬼は」
「似たようなものだろう」
「そこでだ、おまえに助力を頼みたいのよ」
「俺に?」
「おまえに蛮骨の背中に立ってもらいたい」
背中に…
「何故」
「おまえの気配で隠せぬか、その後ろの足軽の気配を。おまえなら蛮骨の後ろに立てるだろう」
「そりゃあ立てるが…」
気分良く立っているわけではない。
「手を貸してはくれぬか」
それはつまり、
「蛮骨を裏切れ」
…そう、煉骨の耳には届いた。
頭の中で、その言葉は何度も何度も
「ったくあの助平ジジイ!」
蛮骨は勢いよく背を振り返った。
「なあ煉骨、おめえもそう思うだろ?」
「いや…俺には何とも…」
「あの野郎、俺が背後取らせねえようにしてたら、今度は前に手え伸ばして気やがんだぜ!?」
「はあ…」
「いい年こいて、蛇骨じゃあるめえし」
「……」
蛮骨は再びくるりと煉骨に背を向けた。
その背中を見ながら、煉骨は自分の背後の気配に気を遣る。
一人か…
まあ確かに、種子島を持ってるってんなら、殺すには一人で十分だがな。
相手が相手だ、ちっと少ねえんじゃねえか…
「どうした煉骨、難しい顔して」
蛮骨に呼ばれ、煉骨ははっと顔を上げた。
蛮骨はこちらを振り向いてさえいない。
「い、いや…よく、分かるな、俺の顔なんざ見てねえのに」
蛮骨が顔だけ煉骨を振り向く。
口元が笑っていた。
「悩んでる、って感じが背中にひしひし来るんだよ、おめえの場合」
「そ、そうか?」
「ああ、おめえは頭はいいくせに、ほんと馬鹿正直だよなあ」
…なんて鋭い。
煉骨は小さく溜息をついた。
それとも、本当に俺は馬鹿正直なんだろうか…
心拍がどんどん早くなっているのが分かる。
体は確かに馬鹿正直だ。
四半刻も立たない未来に、自分がどうなっているのか。
そう考えれば考えるほど、体中が緊張していく。
結果は、二つに一つ。
背を冷たい物が伝っていった。
そのとき、
!
「なんだ? ありゃ殿さんの鷹じゃねえか」
宙を、一匹の鷹が舞った。
「何でまたこんなときに…」
蛮骨は不思議そうにしている。
しかし、煉骨には分かっている。
来た…!
それが合図だった。
裏切りの合図。
蛮骨を裏切る。
蛮骨が死んで、俺は…
俺は…
……
……
……待てよ。
俺はどうするんだ?
七人隊を乗っ取るか?
無理だろう。
俺自身が蛮骨を殺すわけじゃない。
どうして今になって…!
まるで理性の
俺らしくもねえ!
どうして先に考えなかったんだ!
そのときの衝動で動いちまうことほど、馬鹿なことがあるか…!!
そうしている間にも、背後の足軽は銃口を持ち上げ、狙いを定め始める。
いくら蛮骨の背中を見るのが居心地悪くても、今殺す必要なんか無かったはずだ…
蛮骨が死ねば七人隊は崩れる。
そうしたら俺は…
今はそれなりに居心地が良かったってのに。
弟分抱えて、銀骨を改造して、好き勝手できたじゃねえか。
自分でそれを捨てちまったってか…馬鹿か俺は。
どうする。
銃口が蛮骨の左胸に向けられた。
どうする。
どうしたらいい。
蛮骨を殺すのも具合が悪いが、俺が死ぬのも御免だ。
だが…
くそっ!!
死にたくはねえ。
蛮骨も死なせたら困る。
二人とも生き残るにはどうしたらいい。
足軽の指が引き金にかかる。
今からじゃ鉄砲の弾は止められない。
ちくしょう!!
引き金が…
ふっと煉骨の体から力が抜けた。
引き金が、引かれた。
破裂音がした。
煉骨は一歩も動かなかった。
蛮骨の背後から。
「…?」
十分に着弾する時間はたったはずなのに。
何故痛みが来ない?
「?」
気がつけば、目の前に青い野山の風景が広がっていた。
蛮骨がいない。
「…うっ」
背後で呻き声。
まさか!
ばっ、と煉骨は振り返った。
「大兄貴!」
蛮骨が煉骨に背を向けて身を屈め、鎧の上から右の胸を押さえている。
「ごほっ! ごっ! …痛えなちくしょう…!」
激しくむせ返っていた。
煉骨の血の気が引いていく。
「お、大兄貴…」
「煉骨、てめえのせいだぞ…」
「あ…」
まさか…こんなことになるなんて…
「お、俺は…」
そんなつもりじゃ…
「と、とりあえず大兄貴、傷口を…」
「馬鹿野郎!! んなことしてる暇があったら今逃げた奴を追え!! てめえのせいで逃げられたんだぞ!!」
「…は?」
俺のせいって…
「てめえがぼーっとしてて後ろにいる奴に気づかなかったせいだろうが!!」
「え、いや…」
「あーもー、後ろにいる奴の気配くらい読めよなあ。素人じゃあるめえし」
蛮骨は言うと体を起こして立ち上がった。
「お、大兄貴、傷は…」
「あ? 傷なんてねえよ」
「……」
そんな、鉄砲玉が当たったのに…
煉骨がわけが分からない、という顔をしていると、蛮骨がにやりと笑った。
「これのおかげでな」
そう言って蛮骨は鎧の中に手を入れ、ごそごそと何かを取り出した。
「それは…」
「見て分からねえか、鉄板だよ」
「何でそんなものが…」
「助平ジジイが、くれたのさ」
「家老が…」
「わしのせいでそなたの命が狙われてはかなわん、とか言ってな」
…家老は、分かっていたのか、若家老が蛮骨の命を狙っていることを。
「まああんなジジイの言うことでも、たまにゃ聞いとくもんだな」
煉骨は、ほう、と長い溜息をついた。
「ん? どうした、煉骨」
「いや…ちょっと可笑しくなってきてな」
俺は馬鹿だ。
大馬鹿だな、本当に。
煉骨は、はは、と声を出して笑い出した。
「何が可笑しいんだよ」
「…別に」
蛮骨は腑に落ちないようであった。
「なんだよ」
「それより、あの逃げた奴だが誰だかは見当がついてるぜ」
「お、ほんとか」
「ああ」
裏切り組は馬鹿の集まりだったな。
「よし、んじゃさっそく捕まえにいこうぜ」
「ああ」
俺は馬鹿には用は無い。
「んにしても、やっぱおまえにゃ、背を向けねえほうがいいかな」
どきり。
「どうして、そう…」
「俺の後ろで弾くらって死なれたんじゃ、飯がまずくなる」
「……」
「もっと精進しろよ」
「…俺も、大兄貴の後ろは居心地が悪いさ」
「なんでだよ?」
「俺の目の前から急に消えるからな」
「それが、なんで…」
「さあな、昔からそれが居心地悪いんだ」
消えてどこに行くのか、見当がつかないから。
だから…消してみたいと思っても、消せない。
消えたときにどうなるか、見当がつかないから。
「なんだよ、それ」
その居心地の悪さが、ちょうどいいんだろう、俺には。
「まあいいじゃねえか。さ、大兄貴、捕り物に行くんだろう?」
「そりゃ行くけどよ…」
「行こうぜ」
蛮骨は溜息をついた。
「行くよ」
今の俺は、馬鹿じゃない。
今の俺は……
(了)