傷
黒い夜闇を引っかいているかのように、
今日に限って、なんでだよ。
蛇骨は大きく溜息をついた。
夜遊びの帰り際、その辺をぶらぶらしてる野郎どもに声をかけられるのはいつものこと。
だいたい二、三人で固まって、やたら横柄な態度で近寄ってくる。
……
兄さん一人かい。
危ないぜ、こんな時間に一人歩きなんてしちゃあ。
見ない顔だけど、芸人かなんかかい。
宿は?
俺たちが送ってってやろうか。
…うるせえな、どっか行けよ。邪魔だ。
なんだよ、人がせっかく親切に言ってやってるんだぜ、しおらしく甘えとけよ。
なんでてめえらなんかに。
なんか、ってこたねーだろ? 一人でなんて歩いてちゃ、その辺の発情したジジイに襲われちまうぜ?
てめえらみてえな、こ汚ねえ犬に襲われるくらいなら、その方がましかもな。
こっ…
な、なんだとてめえ! 女みたいな優男だと思って優しくしてやりゃあ!
るっせえなあ、ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん吠えてんじゃねえよ! さっさとどっか行っちまえ!!
柄悪く振舞うことしか能のない馬鹿に、俺は用はねえっつーの。
この…
男の手が蛇骨の腕を掴む。
離せよ。だいたい、てめえらなあ、俺とやりたきゃ、まずそのぶっ細工な顔のつくりをどうにかするこった。
俺好みの可愛い顔によ。ま、てめえらじゃ、一生どころか後生までかかっても到底無理だろうけどな。
蛇骨は
…この野郎!! いい気になってんじゃねえぞ!!
ついに耐えかねて男の拳が飛ぶ。
おっと。
蛇骨はそれをなんの事無く避ける。
右手が背中の刀の柄にかかった。
やっぱり、
ぎゃんっ、と金属の擦れる音が、夜の闇を小さく切った。
…と、これがいつものことで。
ところが今日はちょっとばかし勝手が違う。
なんでって?
そりゃあな、この俺としたことが、もうすでに下に敷かれちまってるからだよ!
(にしても誰だこいつ…)
夜の闇はすべてを覆い隠してしまっている。
それでも相手の顔くらいはみえそうなものだが、生憎その顔は今蛇骨の耳の後ろの辺りに接吻を繰り返しており、蛇骨からは見えない。
蛇骨の両手は頭上でまとめて押さえつけられ、そしてその力は思いのほか強い。
なんとかそれをほどこうと腕を動かしてみるものの、びくともしない。
(んとに、誰だってんだ…)
大兄貴並…とまでは言わねえけど、相当力強えじゃねえか。
痛えっつの。
つーかだいたいな、人を襲おうってんなら正面からかかって来やがれってんだ。
顔も見せねえで、勝手に押し倒して勝手にやりてえなんて虫が良すぎるんじゃねえのか。
…ぜってー殺す。
男は荒い息を繰り返しついていた。
興奮が最高潮まで達してしまっているらしい。
男の手が蛇骨の着物の裾の中に差し込まれる。
その手はせわしなく、蛇骨の長くてすらりとした脚を撫で回す。
ったく気色悪い。
次第に奥のほうへと伸びてくるそれに、蛇骨は吐きそうなほどの嫌悪感を感じた。
ちくしょう…
蛇骨は男を引き剥がそうと、腹を突き上げて体を反らせる。
だが、男の体重はそれを妨げようと蛇骨を地に押しつけてくる。
くそっ、く…
「うっ!?」
思わず蛇骨は呻いた。
…言っとくけどてめえに撫でられてるからじゃねえぞ。
口には出さないが、そう心の中で男に向かって吐きつける。
蛇骨の体から力が抜けていた。
わき腹に熱い痛みが走る。
…こんなことならちゃんと手当てしときゃよかった。
裂傷。
この前の戦で負った。
軽い刀傷だったから、大したことないだろうという考えであったが、確かに傷自体は大したことはなくとも、この状況ではその痛みが
自分以外誰も知らない傷。
あー、せめて煉骨の兄貴に薬でももらっておけば…
と、今更後悔しても遅い。
とにかくこの状況をどうにかしなければなるまいよ。
そのとき、
「…はあ、あ…じゃこ…つど…の…」
(…何?)
それは、荒い息遣いの中に紛れた、ほとんど聞き取ることができないような、細い声。
だが、自分の名前が呼ばれたことははっきりと分かった。
(こいつ……)
確かにこの野郎今、俺を「蛇骨殿」って呼んだよな…
こいつ俺を知ってやがる…しかも俺に
それで随分男の正体が絞られた。
…お侍さん、まずいんじゃねえの? 雇い傭兵なんかにこういうことしちゃ。
おそらくは、今雇われている武家の侍。
しかも腕っ節が強くて、礼儀正しいとくりゃ…
当てはまるのは一人。
しかし、
(…なんだったかな、名前)
顔は分かるのだが、肝心の名前が思い出せない。
うーん…
えーと…
あー…
…駄目だ、忘れた。
あーあ、こういうとき頭良かったらなあ…煉骨の兄貴くらい頭良けりゃ、いっぺん見聞きしたことは忘れねえんだろうに。
「はあ、は……」
男の息が肌にかかる。
生温かくて、湿ってて、不快なことこの上ない。
この野郎…
誰だ…
男の手が蛇骨の下帯の中に入り込んだ。
「
「!!」
「あ…そうだ大朝!」
そうそう、そんな名前だ…って。
今の…その声は…
「お、おまえは」
大朝はがば、と体を起こした。
すぐさま後ろを振り返る。
「大朝殿のようなご立派な方が、そんな傭兵ごときに恋慕の情でも抱かれましたか」
「い、いや…」
「蛇骨」
「…煉骨の兄貴…」
「どうした、驚いたような顔しやがって」
そりゃ驚くって。
「…え、なんで来るんだよ、こんなとこに」
「なんだ来ない方が良かったか。そりゃあ邪魔したな」
そう言って煉骨はふっと目をそらした。
まるで恋人の浮気に嫉妬する男のように。
「いっ、いやそんなこたないけど」
「まあいい。とりあえず着物ぐれえ直したらどうだ」
「あ、ああ…」
なにやらいつもと様子の違う煉骨に戸惑いながらも、蛇骨は素直に言うことをきいて着物を直す。
「煉骨殿…」
大朝はどうしたらよいか分からないようにずっと煉骨を見ている。
その顔は三十代前半くらい。
それなりに整った顔はしている。
鼻筋の形も悪くないし、眉も目も細く、すらっとしている。
ただ、今その細い目はがっと大きく見開かれ、煉骨に向けられているのだが。
「大朝殿も、なかなか趣味がよろしいですな」
「は…」
「蛇骨をいくつだとお思いで。
「み、見ていたのか…」
「さて……蛇骨、直したらこっちに来な」
「…煉骨の兄貴…年増ってどういう意味だよ」
「年甲斐もなく素足なんかさらしてるからこういうことになるんだ」
「おい、人の話聞いて…」
蛇骨が噛み付こうとしたとき、煉骨の手がそれを妨げた。
手が、
「俺の目の届かねえところでこんな格好はするな」
その手が軽く裾を引っぱると、からげられていた着物がするっと落ちる。
「へ…あ、兄貴?」
「それから、よその男には簡単に体に触らせるな」
「……なんで?」
思わず、次の
「俺のものだからだ」
「……」
予感、当たっちまったじゃねえか…
…どうしたんだよ、煉骨の兄貴…なんでそんなこと言い出すんだ…
頬を淡い桜色に染め、蛇骨はうつむいた。
「大朝殿」
「……」
「今後、こいつに一切の手出しは無用です。もし何かあれば…」
「あ、ああ」
「なに、そんなに心配なさらずとも。そのときは自害に見せかけて葬って差し上げますよ」
大朝の顔が青ざめる。
「わ、分かった。肝に銘じておこう…」
「ええ、是非そうしていただきたい」
大朝の顔を冷や汗が伝っていた。
無念さと恐ろしさと後悔が心をさらっていった。
「…帰るか、蛇骨」
「ん…」
ごく自然に、煉骨の手は蛇骨の手を取り、指が絡み合った。
蛇骨が煉骨の顔を見る。
煉骨が口を開いた。
ばかやろう
口だけが、そう動いたように蛇骨には見えた。
「へ?」
「行くぞ」
煉骨が歩きだした。
蛇骨はわけの分からぬまま、無言でそれに引かれていった。
「この馬鹿!」
狭い部屋の中に、怒声は大きく響いた。
「…そんなに怒らなくてもいいじゃねえか」
「いいや、良くない! まったくてめえは、いつも手のかかる…」
「おい煉骨、もうその辺にしといてやれよ」
「駄目です! こいつは何度言っても聞きゃしねえんだ。一回に相当言っとかねえと」
蛇骨は思わず手で耳を塞いだ。
部屋の中にいる、煉骨以外の者皆が同じ気持ちだった。
「こらっ、ちゃんと聞け! もう少しでてめえ七人隊の恥さらしになるところだったんだぞ!」
「蛮骨の兄貴~、やっぱ恥になったか? あのままだったら」
蛇骨は傍らの蛮骨に助けを求めるように訴える。
「そりゃーまあ、弟分が夜道で襲われてなすがままー、ってんじゃやっぱ七人隊の名に傷がつくかなあ」
「ほらみろ、大兄貴もそう言ってるじゃねえか」
「…分かったよ」
蛇骨は膝立ちになって二、三歩後ずさると、そこに正座をした。
そして床に手をつき、頭を下げる。
「俺が悪かった! すまねえ!」
そして恐る恐る顔を上げた。
その頭を蛮骨がぽんぽんと軽く叩く。
「随分威勢のいい
煉骨はふう、と一つ溜め息をついた。
「まあな」
蛇骨の顔に安堵が見えた。
そして上半身を起こすと、再び膝立ちで、今度は蛮骨が座っているすぐ傍まで擦り寄った。
そのままぽてんと背中を蛮骨に預け、脚を伸ばした。
いつもどおり、着物の左裾は膝上まで捲り上げられている。
「にしてもさあ、なんで煉骨の兄貴が来たんだよ。どうせなら蛮骨の兄貴が来てくれりゃ良かったのにさ」
「悪かったな俺で」
「俺はちょっと用事があってさ」
「用事?」
「恋文をもらった遊女に会いに行ってて忙しかったんだよなあ、大兄貴は」
「馬鹿っ、黙って…」
「…へーえ」
じろっ、と冷たい視線が蛮骨に向いた。
「…もー、煉骨よー、黙っとけってば。蛇骨が怒ったら暇つぶす相手がいなくなるじゃねえか」
「えーえー、俺はどうせ暇つぶしぐれえにしかならねえよ」
「おめえも怒るなって…機嫌直せよ」
「じゃあ
そう行って蛇骨は軽く唇を出す。
「…なんでそうなるんだよ」
「なら煉骨の兄貴」
「なんで俺が」
「だって、俺は兄貴のもんなんだろ?」
「おめ…それはあのとき口をついて出ただけだ! あの助平侍に手を引かせるのに…」
「帰り際に手も握ってくれたじゃねえか」
「へえ~、煉骨おめえ蛇骨のことをそんなふうに思って…」
「違う! あれは芝居だろうが、芝居!」
「じゃ、煉骨の兄貴は役者だよなあ、俺どきどきしちまったぜ、ほんとに」
「ほー、なんて言ったんだ? おめえがどきどきするようなことって」
「えーっとなー…」
「言うな!!」
「そんな兄貴恥ずかしがらなくても」
「恥ずかしいわ!! …だいたい、てめえが傷なんて隠しとくから、俺がわざわざ手え貸してやるはめに…」
「え…」
傷って…
「傷?」
蛮骨が訊き返す。
「ああ、蛇骨の奴、この前の戦で脇腹斬りつけられてそのままにしてやがる」
「……」
なんで、知ってんだ、兄貴が…
蛮骨は無造作に蛇骨の懐に手を入れると、脇腹の辺りに手をやった。
「痛っ」
「煉骨、おめえよく気づいたな、こんな傷」
「戦ってる間中ずっと傷口を庇うようなかっこしてりゃすぐ分かるさ」
「え…してねえよ、俺」
「んじゃ無意識に庇ってたんだろ」
「そうかな…」
蛇骨はなんだか照れくさくなってきた。
自分でも気づかないことを、この兄貴分は……
そう思うと、煉骨に助けられたときとはまた別に、どきどきと心拍が早まる。
「やっぱ、煉骨の兄貴は煉骨の兄貴だな…」
「はあ? なんだそりゃ」
「んや、別に」
煉骨の兄貴はこういう兄貴なんだよなあ。
蛮骨の
何となく、いい気分だった。
「なあ…」
誰かが蛇骨の着物の裾を引っぱった。
蛇骨が振り返る。
「なんだよ、霧骨」
…ちゃんと蛮骨・煉骨・蛇骨の三人以外も部屋の中にいたのである。
「で、結局煉骨の兄貴は何言ったんだ? おめえがどきどきするようなこと」
「俺も聞きてえな」
とこちらは睡骨。
「ぎし」
銀骨。
「な、銀骨てめえまで…こら蛇骨、言うなよ」
「どーしよっかなー」
「おい!」
「いいぞ、言っちまえ、蛇骨」
蛮骨がさらに促す。
「えーと、あのな…」
「蛇骨!!」
「煉骨の兄貴は俺の着物の裾を…」
「このやろ…」
言いかけた蛇骨の口を、煉骨が背後から手で塞いだ。
「言うなっつってんだろうが!!」
「んぐ…ぷは、それで俺の耳元で、俺の目の届かねえ…」
「わー!! 言うんじゃねえ!!」
「てめえの声がでかくて聞こえねえじゃねえか、煉骨! ちょっと黙っとけよ」
「冗談じゃねえ!!」
「えー、それで俺の体は煉骨のあに…」
「…蛇骨!! いい加減にしろ!!」
…その後、彼らが屋敷の者から「やかましい!!」と文句を言われたのは言うまでもない。
…なあ、煉骨の兄貴、やっぱ俺弟分で間違いなかったよ…なあ…?
(了)