えびす

 膳の上の瓜を全て平らげた果宋堂山かそうどうざんは、今座っている縁側に面した裏山を眺めていたりしたが、あるときふと向かいの煉骨に向き直り、
「そうだ、ちょうど港で簡単な仕事があるんだが、おまえついでにやってゆかぬか」
「果宋さまに簡単と言われて簡単だったためしがない」
 お断りします、と言いたいところだが、七人隊も食い扶持を稼がねばならない。とりあえず話を聞くことにした。
「先日、船着き場の浅瀬に『えびす』が打ち上げられてな」
 と、果宋は平然と言ったが、煉骨には『えびす』というのは聞きなれない言葉である。
「えびす、とは」
「なんだおまえ、知らぬのか。えびすというのは、海からやってきた神仏のことだ」
「神や仏が流れついたと?」
 ちょっと信じられない話だ。
「ああ、いや、神仏というのはたとえだ。たとえ。実際には、人の形をした流木や、怪魚だったりする。そういうものには神格が宿ると言われる。この間は、大きな鯨の死骸が打ち上げられたんだ」
むくろに神が宿りますか」
「漁師や水軍の者たちがそう言って聞かん。凶兆だ、船を出せば沈む、病気が流行る、とな。怖がって漁には出ないし、生きた鯨を捕るなんてもってのほかだ。おかげで今年はまだ鯨肉が手に入らん」
 この時代ただでさえ超高級品の鯨肉がますます手に入りにくくなって、果宋は嘆いているらしい。おおかたどこぞの武家にでも献上するつもりだったのだろう。
「で、だな、鯨の死骸を丁重に供養し奉ろうということになり、港に掘っ建て小屋建ててそこに運び込んだ。そうしたら今度は、その小屋の周りに亡霊が出るというのだよ」
「供養すればいいでしょう、すぐにでも」
「港の寄り合いでは意見が割れているそうだ。すぐに供養すべし、と言う者もいれば、いやそれでは治まらない、えびす様のお望みを叶えねば、と言う者もいる」
「望みといったって、誰にもわからないことを」
「俺もそう思う」
 と頷いている。
「果宋さまは神を信じていらっしゃるので」
 煉骨は聞いてみた。禅僧の果宋が、仏はともかく八百万やおよろずの神々を信じるのか。
「まあ、信じるというか、人の心を動かす力のあるものであるとは思うな。霊というのもそうだが」
 というのが果宋の返答だった。それにこんな話をしてくれた。
「昔、友人に酒を馳走になった男が、盃の中に蛇の姿を見て病に掛かった。しかし友人の男が、それは角で飾った弓の影だと教えたら、病はたちまち治った。神や霊とは、盃の中の蛇と同じことだ」
「なるほど。えびすにしても、それを皆が恐れるというところが問題だと」
「そういうことだ」
「で、俺たちに何をさせようと」
「ひと口に言えば、蛇の正体を弓の影だと暴いてほしいんだ。俺は早く鯨を供養してやりたいからな。なんせこの時節、骸はいたんで臭うものでなぁ」
 それが坊主の言うことか。とはいえ、きれい事を言ってもしょうがない。死骸を放置するのは衛生的とは言えない。
「特に掘っ立て小屋に霊が出るのを水軍が怖がっている。水軍がうんと言わねば供養ができん。そこで、霊など出ないという証を立ててくれんか」
「幽霊をとっ捕まえますか」
「そこまでする必要もなかろうよ。二、三日小屋に泊まりこんで、何も出ないということを皆に伝えてくれればいい。できれば、霊の噂を気にしないような、鈍いやつにやらせるといい。ああいうのは、出るかもしれないと思っていると出るから」
「それなら適任がいます」
 煉骨は引き受けた。それから報酬の交渉をして、双方の合意を得ると、さっそくねぐらに帰って仕事に取り掛かることにした。
 町の通りの一番端にある町屋の暖簾をくぐった。
 土間を上がってすぐの板の間で、蛇骨がだらしなく着物を肌蹴て昼寝をしている。他の者の姿はなかった。
「おい蛇骨、起きろ」
 頭を小突いてやる。
 蛇骨がうめきながら起き上がり、大あくびをして、腹の辺りをばりばり掻いているところに、煉骨は果宋から土産にもらった瓜を投げて寄越した。
「おお、うまそ」
 よく熟れた実から甘い匂いが漂って、蛇骨の顔がほころぶ。
「蛇骨、大兄貴や、他のやつらはどうした」
「大兄貴は霧骨と睡骨連れて、昼間っから女買いに行っちまった。あとの二人は浜に行ったぜ」
「銀骨の野郎、潮風に当たるなって言ったのに」
 それはともかく、
「蛇骨仕事だ。出かけるぞ。そのしまらねえ格好をなんとかしろ」
「ええ、今からかよ」
「早くしろ」
 蛇骨に衣服を直させ、煉骨は休む間もなく港へ向かった。
 煉骨の兄貴、と蛇骨が斜め後ろから眠たそうに呼びかけてくる。
「どんな仕事なんだよ。俺一人で大丈夫なのか?」
「おまえと――まあ凶骨でもいれば済むような簡単な仕事だ」
「兄貴が簡単っつって簡単だったためしがねーぜ」
 あちい暑い。とぼやく蛇骨を連れ、果宋に教えられた船着き場へ行く。さほど広くない港湾に繋がれた漁船が三隻ばかり、ゆらゆら波に揺られている。水軍の船などはいなかった。
 船の近くにいた漁師に場所を聞き、鯨の死骸を安置している小屋を訪れた。
 藁ぶきの簡素な屋根の下に大きな黒々した肉塊が鎮座している。腹回りだけで、大人がふた抱えするほどはある。
「うわっ、くせっ」
 蛇骨が思わず小屋の外へ顔を出してえずいた。息が詰まるほどの腐臭が充満している。煉骨も顔をしかめ、袖で鼻と口を覆った。
 部屋の隅には酒が供えてあった。死骸にたかる蝿がときおりそちらへ飛び、瓶子へいしの口にとまっては前足を擦り合わせている。そしてまた死骸の方へ戻っていく。


「えーっ、こんなとこに泊まり込めってのかよ」
 煉骨から事情を話された蛇骨は、最後は言うことを聞くしかない、とわかっていつつも不満たらたらである。
「おまえ一人にやらそうってんじゃねえ」
「凶骨なんかと枕並べたってうれしかねーよ。いびきはうるせえし」
「文句を言うな。三日ほど死体見張ってりゃ金がもらえるんだ。これ以上簡単なことはないだろうが」
「つーか、ほんとに見張ってるだけで金になるのか? 兄貴騙されてるんじゃねえの」
「心配はない。おまえは死体にイタズラされねえように見張ってるだけでいい」
 煉骨の意地が悪いところは、亡霊が出るかもしれない、とは教えないところである。
(何も知らなきゃ、亡霊なんて見ねえだろう。あんなのは、出るかもしれねえって不安が見せるんだ。特にコイツは単純だからな――
 凶骨も同じく単純だろう、ということらしい。
 それでもなお文句を垂れる蛇骨を煉骨が適当にあしらっていたそのときだった。
「その者が仕事を手伝ってくれるのかな」
 と、道の方から声を掛けられ、振り向くと果宋が寺からここまで下りてきていた。
「心配になって来てしまった。煉骨、おまえの弟分は美丈夫だな。名は?」
「蛇骨と申しやす」
 蛇骨が一応慇懃に答えると、果宋はにこりと営業スマイルを浮かべて、
「頼りにしている。よろしく頼む」
 と言われて蛇骨も了解はしないが、満更悪い気はしないらしい。果宋が割と整った造作だからかもしれない。
 煉骨が口を挟んだ。
「どうもこいつは文句ばかり言ってやる気がなくて困りますがね。他に一人手伝わせます。そいつが今は姿が見えないもので」
 そんなことを話していたら、また道の方から声がした。
「おーい」
 と呼ばれ、振り返ったらそこにいたのは蛮骨である。
「煉骨に蛇骨じゃねえか。何してんだ、そんなとこで」
 蛮骨は隣に小袖をかずいた遊女を連れていた。そのうえなぜか両腕にそれぞれ幼い子ども二人を抱えている。
 煉骨はその子どもたちを見て、
「器用だな。もう二人も作ったのか」
 と、愚にもつかない冗談を言った。
「俺のガキなわきゃねーだろ。こいつらがうるさくてお楽しみどころじゃねえもんでな」
「それで?」
「こうして外連れ回してんだよ。遊び疲れりゃ寝ちまうだろ」
「なるほど」
 その間に蛮骨の横にいた遊女は果宋の方へ歩み寄り、挨拶などしていた。二人は顔見知りのようだ。
 ふいに蛮骨の右腕の中にいた男の子が暴れて地面に下りたがった。蛮骨が下ろしてやるなり、男の子は果宋に駆け寄っていく。
「父上!」
 嬉しそうに果宋に飛びついた。果宋もいとおしそうに抱き上げてやり、
「おお重くなったな。父も会いたかったぞ」
 と頬擦りをした。
 一番驚いたのは煉骨であった。
「なっ――
 しばらく雷に打たれたような顔をしていた。
 次第に立ち直ってきたらしい。
「か、果宋さま――子持ちだったとは初耳ですが」
「なんだ煉骨、妬いてるのか?」
「違います!! そうではなくて、あなたはいやしくも住持職だというのに――
「そう照れるな。そんなにうらやましがらなくても、おまえにも抱かせてやる。可愛いだろう、俺に似て」
「そういう意味でも妬いてません!」
「俺がどこの誰とも知らぬ女と子を作ったのがそんなに口惜しいのか?」
「どうして俺がそんなことで口惜しがらねばならんのです」
「口惜しくないのか? 俺とおまえの仲なのに」
「誤解を招くような言い方をしないでください!」
 煉骨がはたと気がつくと、そばにいた蛇骨が馬鹿馬鹿しそうな目つきでこちらを見ていた。
「言いたいことがあるならはっきり言え!」
「うわっ、おっかねぇ」
 蛇骨はそそくさと蛮骨のところへ逃げた。
 が、近くには遊女もいるので、顔をそむけて一歩離れる。あからさまなやつである。
 蛮骨が遊女に小声で呼びかけた。
「おい、おみよ」
「なによ」
「あのガキ、本当に坊主の作った子なのか?」
 みよと呼ばれた遊女は苦笑いしている。
「さあねぇ」
「おまえな」
「食っていくためとはいえ、やることやってりゃ女は子どもができるのよ。中には父親がわからない子もいてね。そんな子は、みんな住持様を父上と呼んでるわ」
「へえ」
 蛮骨は自分から聞いておきながら、あまり興味なさそうである。
 果宋の首っ玉にしがみついている男の子が煉骨に怯えている。
「父上、このおじさん怖い」
 さすがの煉骨も「おじさん」には心がえぐられたらしい。無邪気というのも罪である。
「やかましい!」
「煉骨、やめなさい大人気ない」
 果宋はそう言っていさめ、男の子にもそんなことを言ってはいけないと諭した。
「顔は怖いが、これから町の皆のために働いてくれるのだから。ほら、そこのお化粧したお兄さんがえびす様を守ってくれる」
 お化粧したお兄さん、とは蛇骨のことか。
「ほんとう? 兄ちゃん」
 純粋な尊敬の眼差しを向けられて、蛇骨は思わずたじろいだ。
「いや、それは」
「すごいなぁ。がんばって」
 ここで文句を垂れたら、自分が子どもと同レベルかそれ以下だと言っているようなものだ。と思うくらいには蛇骨にも自尊心がある。
「ちっ」
 舌打ちして果宋をにらんだ。向こうは知らん顔して涼しげな笑みを浮かべている。半ばやけになって男の子に返事をしてやった。
「ああくそ、わかったよ。がんばってきてやるから、おまえあと十年経ったらやらせろよな」
「なにを?」
 たぶんまだ知らない方がいいことだ。弟分の相変わらずぶりに蛮骨と煉骨は閉口するしかなかった。


 結局、その夜から蛇骨は凶骨と一緒に鯨の死骸の元で泊り込むことになった。
 夜も更けたころ、小屋の近くをひと回りして帰ってくると、
「おい凶骨」
 と小屋の前で座り込んでいる凶骨に声を掛けた。
「なんだ蛇骨か。鯨の幽霊でも出たかと思ったぜ」
「ばぁーか。出るかよんなもん。だいたい、この俺のどこをどう見たら鯨のお化けに見えんだよ」
 実際にこの辺で亡霊騒ぎがあったとは知らないから、気楽なものである。
「鯨だって化けるときは鯨の形になるとは限らねえだろう」
 と言い返してくる凶骨を無視して蛇骨は小屋の中へ入った。
 巨体の凶骨は入ろうにも入れないから、小屋の外を見張るしかない。蛇骨は死臭からくる吐き気をこらえ、中に誰もいないことを確かめてから凶骨のところへ戻った。
「凶骨、俺は小屋ん中にいるから、おめーは外を見張ってろ。誰か来ても通すなよ」
「朝まで死体のそばにいるつもりかよ」
「まー最初の晩くらいはな」
 はっきり言って賊や不逞の輩やお化けより、蛮骨や煉骨の方がよっぽど怖い。ちょっとは真面目にやっておかないと。
「蛇骨、おめえそのきれーな鼻が曲がっても知らねえぜ。腐った臭いがここまで届いてきやがる」
「一晩いりゃ鼻も慣れるだろ」
「だけどよぉ」
「あーもーしつこいんだよおめえはっ」
 蛇骨は乱暴に凶骨を踏みつけた。といっても、凶骨の大きな膝の先にちょこんと足を乗せたようにしか見えないが。
「凶骨おめえよ、ひょっとして鯨が化けて出るかもしれねえから怖いのか?」
「そうじゃねえが……」
「じゃあなんだ。あ? 怖いから俺に一緒にいてほしいんだろ」
「いや別におれはだな」
「でけえ図体して肝の小さいこと言うんじゃねえよ。おめえの姿見りゃお化けの方が逃げ出すぜ」
 と言い捨てて蛇骨は凶骨の膝から足をどけると、小屋の中に入っていってしまった。後には心なしか心細そうな凶骨一人残された。
 蛇骨は小屋の隅に腰を下ろした。目の前で強烈な臭いを放つ骸はところどころ蛆がわいたり、どろどろに溶けたりしているのだろう。そんなものを好んで見たいとも思わない。灯りは何も点さないことにした。
 背中から蛇骨刀を下ろし、脇の壁に立てかけて置いた。
 じっとしているのも暇なので近くにあったお神酒の瓶子を取り上げ、中身を舐めたりもしてみたが、腐臭で他一切の鼻が利かないのでは美味くもなんともない。
 じっと足を組んで朝を待つしかなかった。
 しかし人間何もせずに座って起きているのもなかなか辛いものである。
 特に、何が起こるかわからない、というよりたぶん何も起きないだろう。起きたとしても大した騒動ではないだろう、という状況では気がゆるんで眠くなる。
 蛇骨は気がついたらうとうと船を漕いでいることがあり、その度に体を動かしたり、手足の位置を変えたりした。
 外の凶骨は、蛇骨の言ったとおり怖がりなのかは知らないがちゃんと起きている。
 目は冴えていた。眠る気にもなれなかったはずだ。が、そんな凶骨も、丑三つ時を回った刻限に一度だけ寝入ってしまったらしい。
 すぐに人の気配を感じてはたと目覚めた。
 目の前に、小屋の中にいたはずの蛇骨が立っている。
「おい凶骨、寝てんじゃねーよ。頼りねえな、ったく」
「おめえこそ今ごろ何してんだ。中にいたはずじゃなかったのか」
「小用だよ」
 と言って小屋へ入っていった。
「あの野郎、いつの間に外に出てったんだ――
 蛇骨がふらふら出歩いたのに凶骨が気づかなかったというのもおかしな話だ。
 小屋の入り口に掛けられた暖簾が捲くられたかすかな音で、中でうつらうつらしていた本物の蛇骨は目を開けた。またうたた寝していたようだ。
 誰か入ってきたのに気づき蛇骨刀を引き寄せる。
「誰だ」
「そう怖い声を出すな。物騒なものはしまっておくれ」
 聞き覚えのある声である。蛇骨は蛇骨刀を離して、ただしすぐ手に取れるようにはしておいた。
 声の主は近づいてきて顔を見せた。
 蒸し暑い夜だというのに黒い法衣を着て大きな袈裟を掛けた果宋堂山が、汗一つかかず微笑している。
「あんた、何しにきた」
「首尾はどうかと思って、様子を見にな」
 果宋は衣の裾をたくし上げ、蛇骨の隣に腰を下ろした。
「こんな真夜中にかい」
「真夜中の方が都合がよかろうよ」
 夜目にもはっきりとわかる意味ありげな目線を蛇骨に向けてくる。
「ふうん――
 蛇骨はしばし考えて、
「あんた煉骨の兄貴にちょっかい出してただろ。てっきり兄貴が好きなのかと思ってたぜ」
「それとこれとは話が別だ」
「へーえ」
 蛇骨はさらにしばらく考え、
――まあ、あんたいい男だからいーけど」
 と言った。
「それはうれしいことを言ってくれる」
「言っとくけど俺とやると痛いぜ? ほんとにいいんだな」
「よいとも」
 果宋はさりげなく身を寄せてきた。衣の下には思いがけず肉の締まった若々しい体が弾んでいる。
(こりゃ案外刻み甲斐のありそうな坊主だな)
 蛇骨は舌なめずりをして有無を言わせず果宋の腹の上に馬乗りになった。
 こうなるともう、ここが死体置き場だということなどどうでもいいらしい。
 果宋の耳たぶを噛みながら袈裟をほどき衣の中へ手を入れる。背中を撫でて骨の形を確かめたり、あるいはあらぬところを触ってみたりしているうちに、左の腰あたりに触れた。
 奇妙な、ぬるっとした感触がした。
 しかも何か肉に突き刺さっている。
 蛇骨が不審に思って掴んでみると、周りの肉が崩れるようにずるりと抜けた。腐臭を放ってとろけた肉をまとわり付かせたそれは、柄の折れたもりのように見えた。
 蛇骨は体を起こして手の中の銛を見つめた。
 果宋は微笑しているばかりで、痛みも何も感じていないようだった。蛇骨の襟首を掴んで引き寄せ、
「どうした」
 と寒気のするような優しい声で呼びかける。今になって思えば、果宋の手も体も、こんな時節には有り得ないほど冷え切っていた。
「もう終わりか? 何をしてもいいんだぞ」
―――
「なにせ俺はこのとおり――もう痛みも何も感じない体なのでな」
 最後の方は声になっていなかった。
 言葉を発しながらも果宋の顔は次第に腐り、とろけていく。まず水を吸った死体のようにふくらみ、やがて頬の肉がごそりともげ、鼻が落ち、眼球がとける。
 顔だけではない、体もだ。あちこちに白い骨が覗いた。残った肉には蛆が湧いて、蛇骨の方にまで這いよってくる。
 そのうちの一匹が手の指に登ってきたときになってやっと、蛇骨は我に返って情けない悲鳴を上げることができたのだった。


「蛇骨。蛇骨、起きろ」
 誰かに肩を揺さぶられている気がして、それを振り払って寝返りを打とうとすると、
「起きろっつってんだよ」
 蛮骨の手っ取り早い鉄拳で起こされた。
「でっ」
 蛇骨はぶたれた頭をさすりながら起き上がった。
 元いた小屋の中だとはわかるが、いつの間にかあたりは明るくなっている。
「あれ?」
「あれ、じゃねえだろうが。見張りが寝ちまったら意味がないだろう」
 煉骨と蛮骨が呆れた顔をしてこちらを見下ろしている。
 開け放たれた入り口からは、凶骨も顔を見せていた。
 蛇骨は狐につままれたような顔をして、
「あの化け物、どこいきやがったんだ」
 と呟いたのを蛮骨が聞きとめた。
「化け物?」
「夕べここで化け物に襲われたんだよ。そうしたら気が遠くなって――そうだ凶骨、おめえなんか見てねえのかよ」
 凶骨は首を横に振っている。何も見ていないし、何の物音も蛇骨の悲鳴すら聞かなかったと言う。
「夢でも見たんだろ」
 と蛮骨ににらまれ、
「まったく、頼りにならねえやつだ」
 と煉骨には白い目で見られ、蛇骨としては立つ瀬がない。
 そのとき、外からくすくす笑う声がした。
「そのへんにしてやりなさい。おおかたその者は鯨の亡霊に捕まったのだろうさ」
 小屋に入ってきたのは、今朝も様子を見に来たらしい果宋堂山だった。
 その姿を見た途端、蛇骨が青ざめるのを通り越して土気色になった。手足をばたつかせて尻を着いたまま器用に後じさる。
「で、でたっ!」
 そして蛮骨の後ろに隠れた。
「そいつ、そいつが化けもんだ。こっちくんなっ」
 これにはさすがの果宋もきょとんとしている。
「そいつが夕べここに来たんだよ!」
「俺は昨晩はずっと寺にいたんだがな」
 果宋は困って、とにかく蛇骨から詳しい話を聞き出した。
「俺がおまえを誘いにきた? 自慢じゃないが俺は操が固いぞ」
 ちらっと煉骨を見て、
「そりゃあ、煉骨がつれなくて寂しい思いはしているが、だからって何でもいいわけじゃない」
「果宋さま、そういう言い方はやめてもらえますか」
 このさい煉骨が鳥肌を立てているのは放っておこう。
「だけど間違いなくあんただったぜ」
 蛇骨は引かない。
「それで最後には腐って虫が湧いて、ちょうどここにある鯨の死体みたいになっちまった」
「ふむ」
 果宋は蝿のたかる鯨の方を一瞥し、それから蛇骨に視線を戻した。
「おまえの前に現れた俺には、何か特徴はなかったか? なんでもいいんだが」
「左腰に銛が刺さってた。それを抜いたら腐り始めたんだよ」
 果宋はおもむろに鯨の死骸へ歩み寄った。
「ちょっと手伝ってくれ」
 と、蛮骨と煉骨に鯨の左の腹を持ち上げさせる。自分は衣の袖を捲くり、蛆虫だらけのその部分に手を突っ込んだ。
―――
 何箇所か探っているうちに、見つけたらしい。
 手を引き抜き、まとわりついている蛆を払い落としてから、掴んでいたものを見せた。
 柄の折れた銛であった。昨夜蛇骨が見たものと全く同じものである。
「どこかの海で羽刺はざしに銛を撃たれたのだろうな」
 果宋はそれを死骸のかたわらに置き、手を合わせた。
「それで命を落としたのかはわからんが、腹にこんなものを入れたままではさぞ苦しかったことだろう」
「銛を抜いてほしくて化けて出てたってか?」
 蛮骨が聞くと、
「さあな。しかし少しは楽になっただろうよ。あとは我われで供養させていただこう」
「だとよ蛇骨。お手柄じゃねえか。おまえのスケベ心のおかげで解決した」
 と言われても、蛇骨は腑に落ちないようである。拗ねた顔をしていた。
 数日後、果宋が先導し町を挙げてえびすの鯨の供養が行われた。
 すでにほとんどが腐り落ちており肉も脂も取れない死骸は浜で焼かれた。また体から出た銛は清められ、祠を造って納められた。
 七人隊の面々は、町の人々から離れたところで灰色の煙が空へ上っていくのを見物した。
 蛇骨がため息をつく。
「どーせなら、えびす様も最後までやらせてくれてから消えてくれりゃよかったのになぁ」
 ちっとも懲りていない。他の六人は聞いて聞かぬふり。閉口しているばかりである。
 それ以来、浜で亡霊を見たと言う人はいなくなった。

(了)