海亀

 む、と湿気た風に乗って青草の匂いがつんと鼻を刺す。盛夏の到来はすぐそこである。
 港に近いこの寺では潮風も交じって法衣はみっしりと重くなる。
 老師は果宋堂山かそうどうざんという三十前の男で、この蒸し暑さだというのに方丈(本堂)の縁側に結跏趺坐けっかふざして庭を眺めている。庭は、寄せては帰る波を模した控えめな枯山水である。
 果宋は強い日差しにじわじわと額に汗している。が、表情は変わらない。微笑しているようにさえ見える。あるいは、日光と暑さに恍惚としているようにも。
 ふと、口を開く。
「そんなに離れたところにいないで、こっちへおいで」
 その語が向かう先に煉骨がいた。こちらは縁側に腰掛けていて、僧体でもない。いつもの小袖と袴である。
「嫌です」
 と、煉骨ははっきり聞こえるように言った。
 果宋は顔色一つ変えない。
「そんなふうにあからさまに嫌がられると嬉しくなってしまう」
(変態かこいつ)
 内心煉骨は思った。いつものことではあるが。
「なぜ嫌がられると嬉しいか聞きたいか」
「いいえ」
「それはだ、拒絶の方が無関心よりはましだからな」
 人の話を聞いてない。果宋は煉骨に向けて話しつつ、同時に煉骨がいないかのように喋っている。
「この点、俺は坊主に向いていない。全てのものとの繋がりを断ち切ることもできず、いつまでも人でいるしかない」
「人でないものになりたいのですか」
「坊主とは、仏様になるために生きている輩だぞ」
「それはまた妙な生き物で。仏になんぞ、いつでもなれるというのに」
「どうやって?」
「死にゃあいい」
 果宋が突然、高らかに笑った。
「あっはっは、違いない。さすが俺のかわゆい男だな。ますますいとおしい」
 煉骨の伸びかけた頭の毛が総立ちになるような科白をさらりと言い、足を崩して立ち上がった。
 叉手しゃしゅをしてから、ゆったりとした動作で煉骨を振り返る。
「おいで。冷たい水菓子でも馳走しよう」
 ついて行ったら手篭めにでもされるんじゃないか。という気がしなくもないが、煉骨はしぶしぶ腰を上げた。
 縁側伝いに裏手に回る途中、果宋は人を呼んで、裏の沢で冷やしておいた瓜を取ってくるように頼んでいたから、どうやら手篭めにされるわけではなさそうだ。
 煉骨と果宋は、日陰の縁側に改めて座った。差し向かいになる。
 やがて、寺の僧たちが瓜を運んできた。
 膳の上に六つに割った瓜が乗っている。よく熟れているようで、甘い匂いが漂ってこんばかりである。煉骨と果宋の前にそれぞれ一つの膳が置かれた。
「さてと、食おうか」
 果宋は坊主にしては行儀悪く腕まくりをし、袖が汚れないようにしてから瓜を一切れ取った。
 煉骨も一つ取り上げてかぶりつく。甘く冷たい汁が口の中に溢れ、咽喉を潤す。
 しばし二人は無言で食った。
 裏山で鳴く蝉の声が幾重にも聞こえてくる。
 あっという間に四切れを平らげた果宋は山に目を向けた。
「今日も暑いな――
「仏様になるために生きている老師さまでも暑いですか」
「あたりまえだ。仏だろうが何だろうが、暑いものは暑い。ただし暑いとは感じんがな」
 この意味がわかるか、と果宋は尋ねた。
 煉骨がひと言ふた言答えると、
「よかろう」
 と、果宋は満足げに頷いた。
「それでこそ俺の――
 また寒気がするようなことを言われる前に、煉骨は口を出した。涼しいのは結構だが、物事には程度というものがある。
「ところで果宋さま、先刻の雲水(禅僧のこと)の中に新顔があったようですが」
「む。うん、ひと月ばかり前に入山した新到が一人いる」
「その割にずい分歳をくっていたような。四十は過ぎているように見えましたよ」
「仏道を志すのによわいなど関係ないわさ」
 果宋は残りの瓜に手をつけた。
 ひと口かじっては、口に残る種をぺっと膳に吐く。
「まあ、そうは言っても、あの者の場合は特別でな」
「何か事情でも」
「海亀を殺したのだ」
「海亀?」
 煉骨は眉をひそめた。
「なぜ海亀を殺しただけで坊主になるんです」
「なぜだと思う? 当ててご覧」
 そんなことを言い出した。
「当てられたら、近ごろこの地で頭角を現してきた商人を紹介してやる。硫黄を扱っている者だ。おまえの役に立つだろう」
「当てたはいいが、その後でまた春を売れなんて言い出すんじゃ――
「そんなことは言わない。信用しなさい」
(信用ができねえから言ってるんじゃねえか)
 とは言っても硫黄は欲しい。海亀を殺した坊主とやらのことを考えてみることにした。


「あの雲水は」
 と、煉骨は少し考えてから尋ねた。
「初めて海亀を殺したんですか」
「そうだ」
 と果宋は答えた。
「どうやって殺したんですか」
「どうやってだと思う」
「首を落としましたか」
「違う」
「腹を裂きましたか」
「違う」
「刃物を使ったんですか」
「使っていない」
「では、道具は使ったのですか」
「使った」
「重いものですか」
「そうだ」
「頭を潰した?」
「当たりだ」
 頷く。
「海亀を一匹だけ殺したんですか」
「一匹だけだ。しかしそれは関係ない」
 果宋は、煉骨の問いに対して「是」「否」「関係ない」しか答えないようだった。煉骨もそれに気づいて付き合っている。
「あの雲水は、この土地の人間ですか」
「違う」
「住処を移してきた者ですか」
「違う」
「各地を転々としてきたんですか」
「うん」
「海亀を殺したのは、この土地でですか」
「そう」
「海亀を殺したのは――偶然ですか」
「いや、偶然じゃない」
「殺す目的があった」
「あった」
「食うためですか」
「まあ、そうだな。目的が何かは関係はないが」
「食ってから、出家したので?」
「いや」
 つまり、食うつもりで頭を潰したが、その前に出家してしまったということだ。
「頭を潰して殺したという行為に原因があると」
「そうだ」
「あの雲水は、今まで他の生き物を殺したことがない」
「そんなことはない」
「海亀を殺すのに苦労しましたか」
「関係ない」
「一人でやりましたか」
「関係ない」
「殺したのは海の中でですか」
「関係ない」
 煉骨は細い目をさらに細め、じっと考え込んだ。
 額に汗の玉がぷつぷつと浮いている。
 暑い。蒸した風が首の周りに絡みつく。
 煉骨は、果宋のように暑さを感じないということはなくて、暑いものは素直に暑いと思った。
「殺した海亀は子どもでしたか」
「関係ない」
 煉骨の口からため息がもれた。
「しかし海亀を殺したことを悔いて頭を丸めたんでしょう?」
「誰もそんなことは言っていない」
 煉骨の目が一回りほど大きくなった。
――そうですか」
「そうだ」
 海亀を殺したこと自体に罪悪感を持って頭を丸めたわけではないのだ。
 煉骨はまた目を細めて考え、
――あの雲水は、日ごろ動物を殺すことには抵抗がないわけですか」
「まともな人間と同じ程度にはな」
「人間はどうです」
「うん?」
「人間を殺したことはあるかと聞いているんです。まともな人間なら、動物は事情によってはやむなしと思えても、殺したのが人間をとなれば嫌がるものですよ。最初は」
―――
 ある、と果宋は答えた。
「人を殺したのは、亀を殺す前ですか」
「そうだ」
「この土地でですか」
「違う」
「もしかすると、亀と同じように頭を潰して殺したのでは」
「そうだ」
 果宋は食べかけの瓜を膳に戻した。


「海亀を殺したことで、人を殺したことを思い出しましたか」
 という煉骨の問いは、かなり核心に近かった。
「そうだな」
 果宋は頷いたものの、
「だが、人殺しと海亀の関わりは何だ」
「海亀がきっかけだと言うのなら、海亀を潰すまでは、人を殺したことに気づいていなかった。まさか自分が人殺しをしたとは思っていなかったのでは」
「ああ」
「海亀を殺したと思っていたんですか」
 果宋の返事を待たずに続ける。
「どういう事情かは知りませんが、人の頭を潰したのを、海亀を殺したと思い込んでいた。そしてこの地に来て、本物の海亀を殺した。人の頭と亀の頭じゃ、手ごたえはまるで違う。それで気づいた――以前のあれは海亀の頭なんぞじゃなかった……と」
 果宋は視線を裏山に移した。
 ゆっくりと口を開く。
「おまえたちと同じように、徒党を組んで各地を巡る小悪党だったそうでな。まあ、悪さをしたり、戦に雇われたり、そんなことをして食っていたらしい。その下っ端だった」
「それで」
「ある海に近いところで合戦があった。小悪党どもは徒歩かちの兵として雇われた。ある晩彼らは海に出て、卵を産みに陸に上がる海亀を取って食おうと思った。不幸なことには新月の真っ暗な晩で、灯りも持たずに皆で出かけたそうだ」
 近くに住む漁師たちは、戦のとばっちりを恐れて夜は外に出なかった。
「ただ、一人年老いた男が出て行ってしまった。呆けが始まっていた老人だそうだ。一人でふらふら辺りを徘徊する癖があったらしい。いろいろ病もして、耳も遠くなった上、咽喉を悪くして声が出せなかった」
 老人は波打ち際で、砂浜にうずくまっていたと言う。
「それを小悪党どもは、ろくに確かめもせず間違えて飛び掛ってしまった。雲水になった男は、皆がだんごになって老人を押さえつけた上から頭を割った。だから彼は気づかなかったが、押さえていた者は気づいたのだろう。ひどく狼狽していたそうだ」
「それでも、そのときは間違いがわからなかったので」
「数人以外にはな。その数名が、慌てて皆に持ち場へ帰れと言った。海亀は俺たちが持って帰る。持ち場を離れたことが大将に知られたら大変だ。そんなことを言われたらしい。で、皆は首をかしげながらも従って帰った」
「が、海亀は持ち帰られなかった」
「その上、翌日は葬式だ。老人が砂浜で頭を割られて殺された。皆、まさかとは思ったそうだ。しかし、誰も恐ろしくて言い出せなかった。海亀と間違えて――などとは。その後は、皆なんとなく散り散りになってしまって、もう誰に確かめることもできなくなった」
「そして本物の海亀を殺して、確信してしまったと」
 それにしても、と、煉骨は顔をしかめて果宋を見た。
「こんな話を軽々しく他言していいんですか」
「すでに皆が知っている話だからな」
「はあ」
「俺が、その男に寺の皆の前で話させたんだ。一人心に秘めていては、かえって危ない。悔いるあまり自害でもしかねん様子でな」
 ならばいっそ、自ら告白させてしまえ。というわけだ。
「誰かに許してもらわねば、いつまでも立ち直れない」
「なるほど」
「時間をかけて寺で人のために働いて、他人からも己自身からも、もう過ぎたことだと許される日が来ればと思ってな。煉骨、おまえは仏になんぞ簡単になれると言ったが、仏にならないために寺に留まるということもあっていいと思わんか」
「はあ」
「なんだ、変な顔をして」
 煉骨は、口の中がむず痒いとでも言いたげに、眉をひそめている。
「果宋さまからそんな坊主のような言葉を聞くとどうも」
「坊主のようなとはなんだ、ような、とは」
 一応ちゃんと坊主なのである。
「商人も今後の仕事も紹介してやりたくなくなりそうだ」
「そういう言葉の方がよっぽどあなたらしいですよ」
「からかっているのかおまえは」
 果宋は機嫌がななめ向きになったようである。
 歯形のついた瓜を再び取り上げ、かぶりついた。
 三口ほどで、皮を残して腹に収めてしまうと、
「ああ、暑い暑い。夏はいやだ」
「暑いですか」
「暑さを感じないなどというのは、人の素直な心に反するわ」
 最初と言っていることが違う。
(いい加減な)
 と煉骨は思ったが、こちらの方が果宋の進む道には近い答えなのだろう。この男も当分仏にはなれそうにない。
「第一、殺しても死にそうにない」
 煉骨の呟きに、果宋は怪訝そうな顔をした。
「なに?」
「商人を紹介してくださる約束、お忘れなく」
 と言って、あとは無言で、ぬるくなり始めた瓜をかじった。

(了)