清秋

 ふみは今年でよわい八つになる。
 母親を早くに失くしたこともあって、その年頃にしては、気丈で心根のしっかりとしたさとい子であった。今は父親と二人、小さな集落で畑仕事に精を出して日々を過ごしている。
 今、時節はちょうど稲刈りがひと段落した頃である。
 今年は米がよく出来た。大雨も日照りもなく、村中で黄金色の稲穂が波打っていて、ふみも幼心に気持ちが弾んだものだ。その刈り入れが終わり、年貢として領主に納める分、自分たちでこれから食っていく分、と分けていっても余りが出るほどであった。
「これなら今年は売るだけの余裕があるな」
 と、ふみの父親は嬉しそうにその余った米を藁に包んで、
「ふみや、もうすぐ寺の門前で市が立つからな、そのときにこの米を売りに行こう。きっときれいな帯や水菓子を売る商人もやって来るから、米を売った銭で、おまえに何か買ってやるからな」
「ほんと? おとう」
「ああ、おまえはおかあの代わりに本当によく仕事を手伝ってくれたんだから」
「嬉しい」
 もうこの晩から、ふみは市の立つ日が楽しみで眠れなくなった。
 そしていよいよその日、ふみは父親に手を引かれて村を出た。細い街道を、父親を急かすようにして小さな足でせっせと歩いた。
 小さな峠を越えたところ辺りから、市の賑わいが耳に届き始めた。
 芸人たちの叩く太鼓の音が聞こえる。
 念仏踊りをする者たちが叩く鐘の音や、その声。
 さらに行けば、商人たちの明朗な口上や、ここぞとばかりに集まってきた立ち君の遊女たちの黄色い声まで聞こえてくる。辻で傀儡くぐつでもやっているのか、人々が手を叩いて笑う様子などが耳に入ってくると、ふみは居ても立ってもいられず、浮き立つ気持ちを抑えることができなかった。
「おふみ、おとうはこの米を九兵衛きゅうべえの親仁どのに預けてくるからな、おまえはここで待っていなさい。他所へ行っちゃ駄目だ。誰かに連れて行かれそうになったら、すぐに大声を上げろよ」
「うん」
 とふみはしっかりと頷いた。米売りの女が道端でむしろに立て膝をして手持ち無沙汰そうにしている奥の、寺の門前のそば、米俵が積んである横に立っている中年男の方へと父親が向かうのを、黙って見送った。
 父親はその中年男――米売りの九兵衛と米の値段の相談を始めて、ふみはそれを見ていても大して面白くもなかったから、すぐに興味は他へと移った。
 何しろ、辺りは市が立って騒ぎ立っているから、平時よりずっと面白い。
 時折二、三人肩を並べて道をやって来る、普段はむっつりとしている寺の坊主たちの表情も何だか今日はうきうきしているようである。
 さらに見回せば、きれいな帯や組み紐を売るたなが見つかった。店と言っても、門前市でのそれであるから、そばの米売りと同様、簡素なものである。莚を敷き、その四隅に柱を立て、屋根を藁でいてある。その下に帯を掛けた竿を並べたり、または組み紐が莚に無造作に山になっていたりする。
 ふみはすぐに駆け寄ってそれらを間近で眺めたいと思ったが、父親に言われたことを思い出して、じっと我慢した。
 この時代は、人さらいも多い。ふみのような幼子をさらって上方の遊女屋に売ってしまう、などということもある。
(おとう、早く)
 と、そわそわしながらふみは待った。
 しかし父親と九兵衛の話は思いの外長引いており、時折笑い声などが交じっているところからすると、世間話にでも花が咲いているのかもしれなかった。
 実際には四半時も経っていなかったが、ふみにとっては、半時とも一時とも思えるほどの時間が流れた。
 そのときであった。
「おい、ガキ」
 とどこからか枯れた男の声がした。
 初め、ふみはそれが自分を呼ぶ声だとは気がつかなかった。
「おい、おいガキ、おまえのことだよ」
 道の向こうの、土器売りの店の陰から手招きされているのにようやく気がついた。
 手招きしているのは、全身を白い装束で覆ったずんぐりとした体型の男で、覆面までしていていかにも怪しい。つる売りか饅頭売り(当時は被差別民であった。白い布で頭を巻き覆面をした)か何かかと思ったが、それにしてはそういった商品を提げているわけでもない。
「ちょっと、こっちへ来い」
 と、覆面の男はふみを呼んだが、
「いや」
 と断固としてふみは応じなかった。
「おとうがここを動いちゃだめって言った」
「ちっ」
 仕方がねえなぁ、と覆面の男はのそのそと道を渡って、自らふみのそばまでやって来た。
 おもむろに懐から銭を五枚取り出して、ふみに差し出す。
「この銭、おめえにやるからよ、その代わりちーと遣いを頼まれてくれや」
―――
 銭をふみに握らせ、さらに懐から固く結んだ手紙らしきものを、差し出した。
「ほんのちょっと向こうに行ったところにある辻に、ボロ布みてえな袈裟掛けた坊主がいる。その坊主にこの手紙を渡してきてくれ。ちゃんと渡せりゃ、その坊さんがまた小遣いくれるぜ」
 ふみは、まだ九兵衛と話し込んでいる父親の方をちらっと振り返った。
 そして、また覆面の男に向き直ると、男の手から手紙をぱっと取って、辻に向かってぱたぱたと駆け出す。
「頼んだぜぇ」
 背から聞こえる男の声に押されるようにして、半町(約五十メートル)ほども行くと、辻に当たった。
 カン、カぁン、と鐘を叩き円を描いて念仏踊りをする一行がおり、見物人も集まっていた。その人通りのやたら多さに、ふみは戸惑いながらもきょろきょろと辺りを見回し、僧形の姿を探した。
 と――
(あの坊様)
 辻に置かれた高さ一尺半(約五十センチ)ばかりの石柱に腰を掛けている、墨染めに身を包んだ男がいる。
 二十歳をいくらか過ぎたほどの若い男で、色が白く、やつれた風の、傘や杖を提げた旅僧らしき風体。さっき覆面の男が言っていたとおり、鼠色のぼろぼろに裂けた袈裟を掛けている。
 ふみが恐る恐る近づいていくと、男はふいに、その細く尖った目の端でぎろりとそちらをにらみつけ、
「何だ」
 と低い声を出した。
「し、白い布で顔を巻いたおじちゃんが」
 と、ふみが震える声でそれだけ言うと、男は、はっとしたように少しだけ表情をゆるめた。
「おまえ、何か預かってきたのか」
――これ」
 ふみは手の中に握り締めていた手紙を、男に渡した。
 男はそれを受け取り、しかしふみがその場をなかなか立ち去ろうとしないので、不思議そうな顔をする。
「どうした」
「おじちゃんは、手紙を届けたら坊様がお小遣いくれるって言ってた」
「何?」
 急に男の顔がしかめられて、声も低くなったので、ふみは恐ろしさに一歩後じさった。しかしそれでも、
「く、くれるって言ったもん」
 と、負けずに言い返す。
「ちっ、霧骨の野郎、余計なことを――
 とか何とか、男はぶつぶつ言いながら、しぶしぶ懐から火打袋ひうちぶくろを取り出し、その中から銅銭を三枚取り出してふみに手渡した。
――さっきのおじちゃんは五枚くれた」
「さっさとね」
 しっしっとふみを追い払ってから、男――煉骨はやれやれとため息をつく。受け取った手紙をほどき、開いて見ると、蚯蚓みみずののたくったような酷いくせ字で紙面中びっしりと用件が書き込まれていた。
(ふうむ)
 やっぱりな、と思う。
(侍なんてのはがめついもんだ。知行地の年貢を横領か、全くいいご身分だぜ)
 面白くなさそうにまたため息をつき、手紙は軽く折り畳んで懐にしまうと、編み笠と杖を手にして立ち上がった。


 ああ、秋が憎い。
 天高い秋晴れが憎い。
―――
 辻の石柱に腰掛けて、ぼんやりと空を見上げている。周りは、市が立っているから平時より騒ぎ立っていて面白いのだが、今はそれを楽しむ体力も惜しい。
(腹減った……)
 と、蛇骨は、もう何度目になるか分からないため息をついた。
 ひもじくて、背の蛇骨刀さえ重たく感じるほどなのである。
 すべては、秋、という季節のせいだった。
 何せ戦の少ない季節なのである。秋と言えば米の取り入れの季節、領民の男たちは戦に駆り出されている暇などない。領主の方だって、農作業をさぼってもらっては年貢が取れずに困る。
 というわけで、戦の少ない季節なのである。すなわち、七人隊の仕事も少ない季節ということで、
(腹、減ったなぁ……)
 彼らは今まさに、飢えているわけであった。
 ここ数日、食うや食わずの日が続き、食えたとしても白湯のような粥がせいぜい。そろそろどこぞの商家にでも泥棒に入ろうかと、いたって悪党らしく思い詰め始めていた頃であった。
 そんな矢先、連日あちこち伝手つてを回って仕事を探していた煉骨が、さる武家から
「手先をやらぬか」
 と持ちかけられた。詳しく話を聞くと、その武家の足軽大将に千石ほどの知行地を治める者があるのだが、どうもその者は千石取りにしてはきな臭いところがある。妙にけちけちとしているくせに、近隣の商人や寺社との関係は深い。
「あの狸男め、よからぬ方法で銭を手に入れているのではないかと、思うてな」
 そこで本当のところを調べてはくれないかと、その武家の目付は言うのであった。
「承って候」
 と、煉骨は飢えてやつれた様子ながら、慇懃いんぎんにそれを引き受け、
「手先を務める間、貴家に養っていただくわけには参りませんか」
 多少ずうずうしくはあれ、なんせ飯が食えないというのは生き死にに関わる問題であったから、そういう風に尋ねてみた。
 すると、目付は渋った。
「困るな。こちらにも外聞というものがある」
(ち)
 心の中では悪態をつきつつも、二度は頼まず煉骨は引き下がって、蛮骨たちの待つねぐらへと、その仕事の話を土産に帰った。しかし持って帰ったはいいものの、このようなこそこそする仕事は頭領の蛮骨の好みではないし、結局煉骨自らが先頭に立って働くことになってしまった。
「まあ、兄貴、気を落とすなよ。俺は手伝うぜ」
 と気前よく言ってくれた霧骨と二人、連日里へ下りては、例の武家の足軽大将周辺を調べて回っているわけである。
 話は辻の蛇骨に戻る。
 それで蛇骨はというと、特に二人を手伝うわけでもなく、手持ち無沙汰と、空腹を紛らわしたいがために毎日そこらをぶらぶらしている。
「動くと余計腹が減る」
 と言って、塒で昼寝ばかりしている蛮骨とは対照的だった。
(襲うならやっぱ、米売りか。酒屋でもいいな、金持ってやがるから)
 などと蛇骨は物騒なことを考えながら、しかしそれを実現するには体力が無かったから、やはりぼんやりと空を仰いでいるばかりである。
 と、そのとき――
「や、これはまた、いずれのご家中からのご牢人であるかな」
 そういう声が、背後から掛かった。
「さぞ高名なお方であるとお見受けしたが――
 というその言葉は、どうやら蛇骨に向けられているものらしい。蛇骨もそれに気がついて、
(ご牢人だぁ?)
 むっつりと、不愉快そうに顔をしかめた。
 顔半分、背を振り返る。
―――
(狸……)
 と、思った。
 狸そっくりな顔つきの恰幅のいい武士がこちらを見てにこにこ笑っていた。ご丁寧に、身につけている肩衣まで茶色くて、どこからどう見ても狸が化けたようにしか見えない。
――おめえさん、阿波の山からでも来なすったのかい」
 思わず聞いてしまってから、蛇骨は自分でも、
(阿呆な)
 と呆れた。
 が、武士は笑って、
「おう、どうしてばれたのじゃ。せっかく人里見たさに、山奥からかような姿に化けてまでやって来たというのに」
「おめえ本当に」
「冗談だ。本気にするな」
 むっ、と蛇骨は面白くなさそうに顔をしかめた。なめていやがるな、と思った。
 武士は、そんな蛇骨の考えていることなどお見通しとでもいうように、
「ばかにしたわけではない。気を悪くなさるな、ご牢人」
 と、穏やかな顔つきになって言った。
「その、ご牢人、てぇのは俺のことかい」
「違うたかな、ご牢人」
「失せろ、狸オヤジめ」
 ぷい、と蛇骨はそっぽを向いた。
「牢人ではないか」
「こんな綺麗ーな顔の侍をよ、どこの武家が放っておくもんか」
 つまり、放っておかれている自分は牢人ではない、という意であろう。
 蛇骨もつい冗談が口をついて出てくるくらいには、この武士の狸顔にいくらか警戒心をゆるめられているらしかった。そういう愛嬌のある顔なのである。
「牢人でなければ、悪人か」
「小悪党よ」
 というのは、蛇骨にしては珍しく、いくらか謙遜の気持ちが含まれているらしい。腹が減っているので気が小さくなっているのかもしれない。
 狸顔の武士は、確かに警戒心を起こさせない愛嬌を持っていると同時に、何を考えているのかよく分からなくもあった。
「小悪党か」
 と頷いて、何やら嬉しそうににやにやしたのも、真意がよく分からない。
「何が可笑しい」
「いや、これはいかい、失礼でござった。わしは大悪党じゃと触れ回る者は掃いて捨てるほどあれ、小悪党じゃとは奥ゆかしいことを言う」
 ようするに蛇骨のことを、面白い男だ、と思ったらしい。
「どうじゃ、小悪党、わしと一緒に来ぬか」
「知らない輩についてっちゃいけねえなんて、三つのガキでも知ってるぜ」
「わしの手先にならぬか」
 と、武士は言い直した。


「手先ぃ?」
 蛇骨は、それはもうあからさまにその整った顔立ちをゆがめて、渋い顔をした。
(この腹が減ってるときに、何でそんなもんをしなくちゃならねんだ)
「嫌か」
「嫌だな」
「なるというなら、寝食はわしが保証してやるぞ」
 と、言われるとしかし少なからず心惹かれてしまう。寝、はともかく、食、である。
 なんせここ何日も、
(飯が食いたい)
 ということが頭から離れない暮らしで、食わせてくれるというのならこの際何をしてもいい、とさえ思うのだ。もし飯を食わせる代わりに掘らせろと言われたら、本気で芯から悩むだろう。それくらい切実な空腹なのである。
 しかし、手先となると――
「お侍」
 と蛇骨は、狸顔の武士を呼んだ。
「使いならしてもいい」
「使い、とは?」
「俺ぁ、縁の深いのは嫌えだ。飯を一杯だけ食わせてくれ。俺はその一杯分の仕事をする」
「面白し」
 武士は、頷いた。
「それでゆこう」
「よろしくお頼申す」
 蛇骨は無愛想に、頭も下げないままであったが一応、そのように口にした。
「小悪党そなた、名は」
「蛇骨」
「おかしな名だ」
 武士はくすりと笑った。
「そちらさんは」
 蛇骨が訊くと、
「淡路の柴右衛門しばえもんじゃ」
 なめくさっている。おおかた本名ではないだろう。
 蛇骨が不審そうに鼻筋をゆがめるので、柴右衛門と名乗った武士はにやりと口の端を吊り上げて笑った。
「そなたは縁が深いのは嫌じゃと言うた。ならばわしもそれでゆく」
 つまり名を明かすつもりはない、という意であろう。
「なるほど」
 蛇骨も頷いた。
 腰を上げた。
 ともかく、お使いであれば蛮骨や煉骨にわざわざ前もって断る手間もあるまいと、柴右衛門の後をぶらぶらついて行く。
 柴右衛門は寺の門前近くまでやって来ると、米を売っている店を探した。
 ほどなくして、米売りの女が立て膝をして手持ち無沙汰そうにしているのを見つけると、
「これ、九兵衛」
 と、その奥の米俵が積んである方に向かって声を掛けた。
「へえい」
 返事があり、米俵の陰から四十前と見られる冴えない中年男が姿を見せた。
 柴右衛門を見、慌ててへこへこと頭を下げる。
「これはこれは、大葉様」
(大葉?)
 どこかで聞いたことのある名前だな、と蛇骨は思った。確か、煉骨の口から聞いたことのあるような――
「どういったご用件で?」
「飯を食わせい」
 と柴右衛門は鷹揚に言った。背に控えている蛇骨を指し、
「この者に粥を一杯食わせてやれ」
 と、言った。
「はあ――
 九兵衛は一瞬不審そうにちらりと蛇骨に視線をくれた。しかし慎み深いたちらしく、すぐに目をそらして、頷く。
かしこまりました」
 すぐに米と小さな鍋が用意され、店の奥に火もおこされた。
 店先で、米売りの女が何ごとかと興味津々な様子でそちらを覗き込んでいる。
 ふとした拍子に蛇骨と目が合って、ぽっと頬元を染めた。蛇骨は眉をひそめ、流し目でそれをにらんだ。
 横で柴右衛門が、にたりと好色げな笑みを口元に浮かべている。
「その目で幾人の女子を殺したのかな」
 揶揄からかわれ、蛇骨はむすっと顔をしかめる。
「あいにくと俺の目は、万に一つ白昼に女の股ぐら覗いたところで、赤い肉の塊にしか見えねえ目なもんで」
「ではこちらの」
 右手を腰か尻の辺りに回して軽く撫ぜて見せる。
(男色か)
 というつもりであろう。
 ふんと蛇骨は鼻を鳴らした。
「抱かれる趣味はねえ」
 一応釘を刺しておかねば、もし万が一柴右衛門がその手の趣味で、あとから迫られたりしたら困る。
 心なしか柴右衛門が、がっかりした風に苦笑したように見えた。
(おい、勘弁してくれ)
 口の中に苦いものが広がるような気がした。


 それから四半刻もすると白い粥が炊き上がった。鍋のふたを取ると、ぷうんと湯気とともに米糠こめぬかの芳香が漂う。
 九兵衛がそれを椀に山とよそってくれて、店の隅に敷いた莚に腰を下ろしていた蛇骨に手渡した。
「あんがとよ」
 蛇骨は懐から朱塗りの箸を取り出し、さっそくそれを口の中に掻き込み始めた。
「存外雅な持ち物だの」
 と柴右衛門が途中何か話し掛けてきたが、答えてやる余裕はない。飯を食うことに必死である。
 もう餓鬼みたいに一心不乱に粥を口に運んでいる。炊きたてだから気をつけなければ火傷の一つもしそうなものだが、お構いなしである。咽喉元を通り過ぎてしまえば熱さも忘れる。
 ひと口ひと口米を飲み込むたびに、胃の腑にほどよい重みが戻ってきて、何だか快感ですらあった。思わず涙ぐみそうになった。あまりの幸福感に、一瞬、こうして飯を食わせてくれた柴右衛門の相手ならしてもいいかと考えそうにまでなった。もっとも、その考えだけでは次第に腹がくちくなっていくに連れて薄らいでいったが。
「美味かったか」
 蛇骨が椀から口を離したのを見計らって、柴右衛門が横から顔を覗き込んできた。
「ああ、うまかった」
 蛇骨は米一粒残さず空っぽにした椀を、九兵衛に返した。
「そろそろ仕事の話を切り出しても、よいか」
「聞くぜ」
 腹がふくれて気が大きくなってきたらしく、鷹揚に頷く。
「その前にそなたに一つ聞きたい」
「なんだい」
「そなた、その」
 と蛇骨の背の蛇骨刀をそっと指差し、
「得物は、どの程度に使う」
「そうさなあ」
 蛇骨はぽりぽりと顎を掻いて、
「あの」
 と、店の前の通りのずっと左向こうに見える野菜売りの店を指差した。その指をすうっと横に滑らせて、右向こうに見える紐屋まで持っていく。
「店からあの店までの商人どもの首を、いっぺんに落とせるくらいかな」
 冗談を言っている風ではない。ごく真面目な調子であった。
 それでも柴右衛門は悪ふざけかと思って、蛇骨の顔を見つめたが、にやりとも笑っていない。本気で言っているらしかった。
―――
 じっと黙り込んでしまった柴右衛門を、蛇骨はちらりと見つめ返した。
(とんでもねえのを捕まえちまったとでも、思っていやがるか)
 ふふん、とやや気分が良くなって頬がゆるんだ。
 しばらくして、やっと柴右衛門は再び口を開いた。半ば呆れたような表情をしていた。
――それだけ腕が立つのなら、出家一人斬るくらいはまさに粥一杯分の働きであろうな」
「出家だあ?」
「まあ、聞け」
 柴右衛門の語るところによると、こういうわけである。
「近ごろ、人相の悪い腐れ坊主が我が屋敷の周りをうろついておるのじゃ」
 もちろん、それだけで斬ってくれと言っているわけではない。
 その坊主は、初めは托鉢に来たのである。それは不思議でも何でもない。僧が托鉢をするのは常のことである。
 僧が托鉢に来たその日は、柴右衛門は留守にしていた。
 しかし柴右衛門の内儀や家人は信心深い人であったから、庭先まで僧を招き入れありがたく説教を聴き、お経も上げてもらった。それが済むと幾ばくかの金子きんすと、干し柿を二つ与えた。
 僧は、その日はそれで去った。
 それから何日かしてまた托鉢にやって来た。この日も柴右衛門は留守にしていた。
 そしてまた何日かしてやって来た。やはり柴右衛門は留守にしていた。
「それでおそらくその日のことだと思うのじゃが」
 その僧が、柴右衛門の内儀とねんごろになってしまったと言うのである。つまり、僧と柴右衛門の妻が、できてしまったというわけだ。
「このことは、わししか知らぬ」
 と言う柴右衛門は、はあーと深いため息をついて、むっつりと眉を寄せて悶々たる顔つきをしている。
「家のもんが気づくだろう」
 と蛇骨が言ったが、首を横に振って、
「わししか知らぬ。わしも内儀の言葉尻からようやっと嗅ぎ取ったほどのことじゃ」
「へぇ」
 けどよ、と、蛇骨はあまりぴんとこない様子でこりこりと顎を掻いている。
「それなら、ご内儀を追い出しゃ済む話じゃねえか」
「それはそうじゃが、そうするにはあまりにも内儀がかわゆい」
「はぁ」
「できれば家人が気づかぬうちに、密かに坊主の方を始末したい」
「それで、俺にその坊主を斬れってかい」
「うむ」
「てめえが自分で斬りゃあいい」
「我が身もかわゆい。後が面倒くさいのは御免こうむる」
(くだらねえなあ)
 と、蛇骨は正直なところ阿呆臭くなったが、まあ、もう飯を食わせてもらってしまったし、致し方ない。
「分かった」
 頷いた。
「やってくれるか」
「やる」
 柴右衛門に流し目をくれて、
「で、その坊主の居所は知れてんのかい」
「うむ」
 柴右衛門はしかと頷いた。
「この門前市に現れたので、わしの供の若党が後をつけている。落ち合う場所と刻限を決めてある。ちょうど時は近かろう。そこへゆこう」


「あの男でござる」
 と、若党が指差す先を見ると、なるほど遠目に見ても旅坊主である。編み笠に杖に手に提げて、衣服は薄汚れている。鼠色の袈裟などぼろぼろに裂けていた。
 しかしそのくせ、色白の頭だけはつるりと剃り上げており、それなりに清潔そうだ。
(妙な坊主だ)
 蛇骨はいくらか首を捻ったが、深くは考えなかった。
「それじゃ、やってくら」
「待て待て」
 柴右衛門が引き止める。
「そなたまさか、こんな人目の多いところでするつもりではあるまいな」
 確かにそう言われてみると、道の両側には店が建ち並んでいるし、人通りも激しい。だからこそこうして蛇骨たちが物陰に隠れることもなく、僧の背中を追っていられるわけである。
「するつもりじゃ、悪いか」
「悪いわ」
 柴右衛門は蛇骨の平然とした顔を見、慌ててさらに強くその肩を引き止める。
「もそっと静かなところでやれい」
「面倒だな」
「面倒でもやれい」
「ちっ」
(袖でも引いてみるか)
 あの坊主にそっちの気があることを祈ろう。
 蛇骨は両腕を袖から抜き、腹の上に乗せるとぶらぶらと僧の後を追い始めた。そしてその後を、柴右衛門と若党がこそこそとついて来る。
 蛇骨は、それと分からない調子で少しずつ歩調を速めながら悠々と歩く。
 柴右衛門と若党は、存外手馴れた風に後をつけてくる。さほどわざとらしさのない尾行である。
 しかし蛇骨と僧の背中との距離が半町ばかりにまで縮まったころであった。
 蛇骨は、はたと気がついて、僧の後姿をまじまじと見つめた。しばらく眺めていた。いや、まさかそんなことはない、ない、と信じたくて、目を見張って僧の背に穴が空くほど見つめた。
(ううっ)
 と、そのうちやっと観念した。足をまた少し速める。
 僧の斜め左後ろまで近づくと、一応、懐から左手を差し出してその墨染めの袖を、くいと引いてみた。
「兄貴」
 そっと呼び掛ける。
 すると僧形の煉骨がびっくりして蛇骨を返り見た。
「じゃ――
 が、すぐに周囲を気にして声をひそめる。
「蛇骨、てめえこんなとこで何してやがる」
「いやあ、話せば長いんだ」
 困ったように形の良い眉を八の字に曲げている。
「兄貴、黙って俺に斬られる気、ねえ?」
「阿呆かてめえは」
 どういうことだ、と尋ねてきた。
 蛇骨は煉骨と並んで歩きながら、柴右衛門のこと、頼まれ仕事のこと、柴右衛門と若党が後をついてきているから逃げられないこと、道々打ち明けた。
 それを聞き終わると、煉骨は、
「阿呆だてめえは」
 と、憤りの含まれた長いため息とともに呟いた。
 途中、煉骨は落とした編み笠を拾う振りをして後ろの柴右衛門と若党を盗み見た。
 柴右衛門の狸顔に視線が吸い寄せられる。
(ほう、誰かと思えばあの狸男じゃねえか……)
 そのうち、二人は賑やかな市を抜け、広い川のそばに出た。
 土手の下でさらさらと流れる水は、案外深く、やや行ったところには橋も架かっている。その向こうは収穫の終わった田畑と小さな集落が見えるばかりである。
 天を見上げると、青い空が遠い。
 土手の縁まで来ると、煉骨は一人でそこを下りて橋の下近くの川べりに立った。
 蛇骨は、土手の上から動かない。
 柴右衛門と若党は、離れたところから二人の様子をうかがっている。
 煉骨が、ついと背の蛇骨を振り向いた。
「何をしてる。こっちへ来い」
―――
「どうした」
――別に、どうもしちゃいねえが」
 蛇骨はおもむろに腹の上の両手を袖に通し、襟元をちょっと直した。
 それから、右手が、
 すっ、
 と肩を越えて背中に曲げられ、背負っていた得物の柄を握り締める。
 煉骨は土手の下で元は細い目を大きく見張った。
 見上げる蛇骨は、切れ長のはっきりした目を細め、何だか眠たそうな顔をしていた。
「何のつもりだ」
「悪く思うなよ」
 土手の下で煉骨がさらに二言三言何か言ったようだったが、蛇骨は感情のこもらない声でそれだけ答えたほどであった。
 ほんの少し、背後離れたところに隠れている柴右衛門と若党の様子を目の端で盗み見る。
(縁の深ぇのはご免だぜ。これっきりだからな)
 右肩に力を込め、蛇骨刀を抜き放った。
 シャッ、
 という小気味いい金属音が秋の冷たい風を裂いて走り抜ける。
 蛇骨の手元から勢いよく伸びる刃が、まっすぐ煉骨に向かって飛びかかった。避けることも叶わず、直後、煉骨の体は派手な水音と水しぶきともに、眼前の川の流れに消えてしまった。
(斬った)
 誰の目にもそう映った。むろん、陰で見ていた柴右衛門と若党の目にも疑いない。
「ふん」
 蛇骨は刃を手元に引き寄せ、小さく息をつくと、蛇骨刀を背の皮袋にさっと収めて何食わぬ顔でその場を後にした。


「兄貴よう」
 蛇骨は、囲炉裏いろりに炭を熾してやりながら、
「ほんとにあの、柴右衛門の内儀の間男やってたのか?」
 と尋ねた。すると、返事の代わりに小さなくしゃみが一つ起こった。是なのか、否なのかしれない返事である。
 煉骨は濡れた法衣と袈裟を脱ぎ、下帯一つの姿になった上に、蛇骨から剥ぎ取った小袖を頭からかぶっている。おかげで蛇骨は薄物一枚しかまとっておらず、手足の肌に粟粒が浮いている。
 蛇骨が寒いと文句を垂れたが、
「こっちは斬られた振りして川にまで飛び込んだんだ」
 と怒られた。
「兄貴が自分でそうするって言ったんじゃねえか。川に行こうって。俺は斬られて見せるからって」
「他に致し方なかったんだっ」
 冷たい川底を泳いで泳いで、このザマである。今は橋向こうの集落の空家で、ようやっと暖を取っているところであった。
「しかしまあ」
 と、煉骨はぐずぐずと鼻をゆるくしながら、
「おかげで俺は死んだことになっただろう。怪我の功名というか、これで間者はやりやすくなったぜ」
「間者? 間男の間違いだろ」
「あの柴右衛門――足軽大将の大葉って男は知行地の年貢を横領してるってんで、目付に疑られていたのよ。なかなか抜け目のねえ男で、俺が周りを嗅ぎ回ってることにも気がついてたらしいな。顔に似合った狸野朗だ」
「へぇ」
 蛇骨はあまり興味なさそうに相槌を打ってから、ひと拍子遅れて、ああ、と声を上げた。
「そうか、どうりで、間男の始末ごときに人雇ってまで殺させようってのは変だと思った。大葉ってぇ、どっかで聞いたことあると思ったら兄貴がこないだ言ってたんだよな。どこぞの武家の手先の仕事、もらってきたってときに。蛮骨の兄貴が煙たがってた話だから忘れてた」
 煉骨は、ちょっと細い鼻先でため息をもらしただけで、もう何も言わない。
 言っても腹が余計に減るだけだということは、昨日今日の付き合いじゃない、分かりきっている。
「じゃ兄貴があの狸侍の屋敷に出入りしてたってのは本当なのかい。托鉢って言って?」
「まあな」
「てえことはよ、銭も食い物も、そりゃあちゃんと施してもらえたんだろーなあ」
 ちらり、と蛇骨は煉骨に流し目をくれた。
 煉骨はそれから逃げるように、反対側に視線を流した。
――ま。蛮骨の兄貴にゃ、ないしょにしとくよ。今ごろ死ぬほど腹が減ってよほど気が立ってるだろうしさ。兄貴だってまだ命は惜しいだろ。俺も惜しい」
 これで、どうやら今日のことは煉骨一人の胸の内にしまわれそうである。
 蛇骨は、囲炉裏のそばで片膝立ててほっと目をつぶった。

(了)