胡蜂

 碁盤は持ち合わせがないので、木の板に墨でマスを書いてその代わりにした。初めは霧骨が教えてやった囲碁遊びだったが、いつの間にか千賀の方が霧骨を負かすことが多くなっていた。
 千賀は年の頃十六、物覚えが早い。
「ねえ霧の字の兄さん、今度はどこで戦をしたの」
 そう言ってよく霧骨から諸国の話を聞きたがった。
「京の都にいたんでしたっけ? 都でも合戦があるの?」
「俺は都まで行っちゃいねえ」
 霧骨は黒の碁石を丸い指の先で摘んで、ぱちりと置いた。最近は霧骨が黒の石を持たされるほど、千賀の方が強くなった。
「都に行ったのは俺の兄貴と仲間が一人ばかりよ」
「なんだ」
 ほっそりとした指先が白の碁石を摘み上げる。
 狭い傀儡宿の一室で、背を丸めている霧骨の、碁盤代わりの板を挟んで向こうに千賀は無造作に横になっている。肩肘をついて顎をささえ、碁石を摘んだもう片手をさっき霧骨が黒石を置いた隣りに伸ばす。
「俺が行ったのは堺までだ。いつだって賑々しいぜ、あすこはよぉ」
「私も堺には行ったことがあるわよ」
 ぱちり、と白石を置く。
「でも京はないの。さぞや美しいところなんでしょうね」
「そうでもねえさぁ。今でこそましになったけどな、昔は酷かったんだ。そこらに飢えた人間が、今にも野垂れ死にそうなのがいっぱいいてよ――
「そう――
「それに京の女は気位が高いしよ。俺ぁ苦手だなあ、あの土地は」
 黒石をぱちりと置く。
「じゃあ都じゃお嫁さんは見つけられないのね」
 苦笑して、白石をぱちりと置いた。
 と、
「む」
 霧骨が唸った。
「いや、待った。待てよそこに置かれちゃ」
「待ったなしですよ」
 千賀がまだ幼さの残る顔でいたずらっぽく笑って、霧骨の顔を覗き込む。
「降参なさる?」
―――
「今日はこのくらいにしましょうよ」
――勝ち逃げはしちゃあいけねえんだぜ」
 口ではそう言いつつ、覆面の下で生温かいため息を吐いて碁石を片付けた。その間に千賀が夜具を伸べてくれた。覆面を外してのそのそとその中に潜り込む。
「何してんだ」
 ふと気がつくと、千賀が自分が手にしてきた荷のそばに屈み込んで何やらごそごそやっている。千賀は霧骨に気取られたことに少し慌てて、
「ううん、何でもないの。霧の字の兄さんの荷物には珍しいものが多いからつい……ね、これは何?」
 掌に納まるほどの大きさの麻布包みを手にとって、霧骨に見せる。やれやれと霧骨は仕方なく臥床から這い出し、千賀のそばににじり寄った。
 千賀の手の上の包みを開いた中には、四寸ほどの長さの針が六本、向きをそろえて並べられている。
「針だわ」
「触るな」
 伸びかけた千賀の手を押さえて、
「刺したら死ぬぜ」
―――
 千賀は息を呑んで、しばらく口を固くつぐんでいたが、やがて掠れた声で恐る恐る尋ねた。
「毒が塗ってあるの?」
「ああ、そうだ」
「刺したら、すぐに死ぬの」
「ああ」
「苦しい?」
「いや」
「毒が強いのね。まるで胡蜂の針みたい――
「そんな生やさしいもんかい」
 でもそりゃあ、と霧骨はちょっと感心したように眉を上げた。
「胡蜂か、呼び名にするにはいいかもなぁ。針に塗って使うから胡蜂か、ああ」
 どうやらそれが気に入ったらしい。
 千賀に針の束をしまわせると、再び寝床の中にのそりと身を差し込んだ。千賀も皿の灯りをふっと吹き消してから、臥床のへりをめくって霧骨の横へ入ってきた。
 共寝をして、空が白み始める頃を待ってから霧骨は服装を整えて寝床を出た。

「ったく景気が悪くてねぇ、困ったもんでさ」
「世間話はいい」
 煉骨ににらまれて、男はふと息をひとつつき、居住まいを正した。
 町からいくらか離れたところにひっそりと建っている古びた庵の濡れ縁に、煉骨とその男は肩を並べて腰を下ろしている。男の方は土足を脱がないまま腰だけ掛けていて、外の日差しが暑いらしく額に汗を浮かべている。顔つきは、煉骨と同じくらいの年頃に見えた。
 男が低い声で口を開いた。
「昨日関所を通ってきたのは十八人。うち男十人、女六人、子どもが二人――大きな荷は通っちゃおりやせん。男のうち一人は坊主、托鉢でしょう。三人は鳴屋の客で、三人が三人とも金の工面の様子でしたよ」
 鳴屋というのはふもとの町で一番の大酒屋であった。この時代の酒屋は高利貸しも兼ねることが多い。
「鳴屋で何かきな臭いことはなかったか」
「ありゃせん」
 お客分、と男は煉骨をそう呼んで、
「鳴屋の親仁といざこざして、身を隠してえ気持ちは分かるがね、そんなのぁいつまでも隠して隠しきれるもんじゃねえよ」
(んなこた、言われなくたって分かってる)
 と、煉骨は思った。
 金のある人間は武装する。鳴屋とて例外でなかった。以前七人隊がこの地を訪れたとき、
「どうだ、うちの用心棒をやらぬか」
 というようなことを言ってきたことがある。無論金次第では引き受けてやってもよかったが、鳴屋が提示してきた報奨額はその大店ぶりにしては少なすぎた。
(なめていやがる)
 と、煉骨は思った。それは蛮骨も同じであったらしい。蛮骨自身は鳴屋からの使者の顔さえ見ず、
「追い返せよ」
 と、言い捨てた。それが鳴屋の主の機嫌を損ねたのであろう。以来七人隊がこの地に足を踏み入れるたびに何かと口うるさくしてくる。
 特に最近七人隊が用心棒として世話してやった某いう酒屋が鳴屋の商売敵だったらしく、先日その仕事を終えた足で七人隊がこの地に踏み入ったと知った鳴屋の主は、ある種の恐怖を覚えたようであった。
 この調子だといつ本当に七人隊が敵に回るか分かったものでない。
 自らの手勢に加えられれば心強いが、手綱を取りきれぬくらいならいっそ先手を打って潰してしまった方がよくはないか――
 しかし、そういう鳴屋のよからぬ考えを七人隊はすぐさま、土地に足を踏み入れて二日目にはもう嗅ぎつけ、塒を町から離れたこの庵に移した。この場所はふもとに近いわりに道が入り組んでおり、隠れ家にするには勝手がよい。実際街の人間がこの辺りに来ることはそうそうなかった。七人隊がそういう風に鳴屋の一歩先をゆく行動が取れたのは、今煉骨の隣りに腰掛けている男の手腕によるところもある。
 今は七人隊に使われているがこの男、元来この土地であちこちからいろいろな話を仕入れてはそれをやくざ連中などに売りつけて金を稼いでいる男だった。普段は小銭ばかりの稼ぎだが、ときどき貴重なねたを拾ってくればどかっと大きな儲けになる。それを楽しみにしている。
「おまえはここに来るまで後をつけられてねえだろうな」
 煉骨が男をにらみつけるようにして言った。
「さてね、たぶん平気でしょう」
「ならいい。続きを話せ」
 はいよ……と男は頷き、額の汗を袖でぬぐって、続けた。
「鳴屋の周りじゃありゃせんがね、殺しがありましたよ。傀儡女が辻でやられちまいましてね」
「女の殺しか――
「ええ」
「どこの女だ」
「松田って屋号の店の女で、名は、さや、だったか」
「さや?」
「ご存知で」
―――
 煉骨は急に立ち上がり、庵の奥に姿を消した。男がその行き先を覗き込んで帰りを待っていると、いくらも経たないうちに戻ってきた。一人ではなく、蛮骨が先に立って一緒に姿を現した。
 若い蛮骨の姿に男は少し眉をひそめて、
「そちらさんは」
「うちの頭領だ」
 煉骨が答えるより早く、蛮骨は縁に立って男を見下ろした。精悍な眉がきっと吊っている。
「さやが殺されたって?」
 はっきりとした口調で男に問うた。
「ええ――
 吊っていた眉が訝しげにひそめられる。
「おい煉骨、町に下りよう。誰か一人二人暇なやつについて来いって言っとけ」
 言うなり蛮骨は縁からぱっと飛び降りて、駆け出した。
 入れ違いに睡骨が外から戻ってきて、無造作な小袖姿で肩に釣竿を乗せ、手には釣った魚を何だか知らない草の茎に通して提げている。煉骨はその魚の数を数え、それから懐から取り出した布袋を男に渡した。
「今日の分だ」
 男は中の銭の枚数を丁寧に数えてから、袋ごと懐に押し込む。
「それからその魚を二匹やる」
「ありがてえ」
「睡骨、おめえか蛇骨か霧骨か、誰か一人でいい。大兄貴が町の松田って遊女屋に向かったからそれについて行け」
 睡骨は帰ってくるなり身支度もしないうちからそんなことを言いつけられて、うまく事情が飲み込めないらしく面倒臭そうに首の後ろをぼりぼりと掻いたりしている。

 結局霧骨が蛮骨の後を追った。
 遊女屋松田の隅の方の部屋に、さやという女の死体は横たえられていた。朝方橋の下で胸を刀でひと突きにされて死んでいるのを見つけられたときにはもう硬く冷たくなっており、それでも無惨な姿を憐れに思った店の者が着物だけは替えてくれたらしい。白い帷子を纏っていた。
「気立てのいい子でしたのにね……」
 店の主の遊女は、泣き腫らした赤い目をまた濡らしながら、か細い声で言った。
「可哀相に……まだ十七ですよ。こんなに若い子を、惨いことをして……」
 骸を見つめているだけで涙がこみ上げてくるのか、主の遊女はそっと顔を背けたが、蛮骨はさやの青い顔から視線を離さずにいた。死臭のする冷たい体の傍に膝を着いて、目鼻立ちのよい顔を右手の甲で撫ぜてやった。
 寂しそうに眼を細くして視線を伏せ、
「悪い運命だったなぁ、おさや――
 それだけぽつりと呟くと、手も合わせず主の遊女に向き直った。
「おかみさん、どうしてさやは外で殺されたりしたんだ。夜に店を抜け出したのか?」
「外にいたってことはそうだったのでしょうよ。あたしも気がつかなかった。あたしがもっとちゃんと……」
「俺ぁおかみさんを責めてるわけじゃねえ」と、忌々しげに蛮骨は顔をゆがめた。
 蛮骨と霧骨は松田を出て、往来を並んで歩きだした。
 蛮骨は何か目に見えないものを射るような目つきで、ずっと向こうを見ている。
「おさやは、この辺じゃ大兄貴の一番気に入ってた女だったよなぁ」
 と、霧骨が声をかけてみてもしばらく返事がなかった。しかし霧骨も、
(蛮骨の兄貴が女ごときに骨抜きにされるようなタマかい)
 と思っている。蛮骨の様子を不審に思いこそすれ、心配することはない。
 蛮骨が、前を向いたまま急に真面目な声を出した。
「さやは店を開けてる間に一人で勝手に外に出たりするような女じゃなかった」
――外に男がいたのかもしれねえぜ」
「いたよ」
「じゃあ」
「いたけど、いくらその男のためだからって、一緒に辛い仕事してる仲間の遊女に黙って出て行っちまうような女じゃなかった」
 ふうん、と、霧骨は頷いた。
「いい女だったんだなぁ」
「いい女だった」
「大兄貴がそこまで言うなら、その女が夜に一人歩きしたってのはよほどのことだったんだろうな」
「そうさ」
 短くそう返事をしたきり、また黙り込む。
「誰が殺したと思ってるんだよ」
 と、霧骨は訊いてみた。
「心当たりがあるんじゃないのかよ、なあ」
―――
「ねえのか?」
――ある」
 と、蛮骨は答えた。ふいに、
「なあ霧骨、おまえの行きつけてる女の店もこの界隈だったっけか」
 尋ねてきた。
「そうだけどよ――
 千賀のことを言っているのだろう。それならば確か同じ所場だから、そう離れてはいないはずだ。千賀が以前、所場代をめぐって悶着した店があるという話を聞かせてくれたことがある。その店が先の辻斜め向こうに見えている。こちらの道は通ったことがないが、近くにあるのは間違いないだろう。
「そうだけどそれがどうしたんだぁ」
「その女のところへ行こう」
 なんでまた、と霧骨は不思議に思った。しかし蛮骨の有無を言わせぬ口調と厳しい表情に、それを口に出すのははばかられた。そこで、代わりに、
「俺ぁこっちの道は通ったことがねえんだ。迷うかもしれねえぜ」
 そういう風に、やんわりと「どうしても行く気か?」という意味合いを込めて言ってみた。
 返事は間髪入れずに返ってきた。
「構わねえ。ただし急げ」
――あいよ」
 こりゃあ逆らわねえ方がよさそうだ。
 しかし急げと言われても、やはり慣れない道では店までたどり着くのに苦労した。何度も袋小路に突き当たったりしながら、なんとかやって来た千賀の店の前はやけにひっそり閑としていて、通りを行く人間も何だか正面を避けて歩いているように見えた。
 不思議に思いながら暖簾をくぐる。
 しん……と、静まっている。
―――
 僅かに人の気配がするが、生気が感じられない。常の様子と違う。いつもはもっと活気があるし、暖簾をくぐればすぐに女主人が声をかけてくれる。今日はそれがない。
 訝しんで、
「おぅい」
 と声をかけたらようやく、奥から人の姿が覗いた。女主人だった。
「あい……」
 土間の上がりたてに膝を着き、霧骨を見て、
「……お千賀でございますかね」
 うな垂れて言った。
「ああ――まあ」
「ぅっ」
 急に、女主人が嗚咽を洩らし、それが呼び水になったように戸の閉めきられた隣室から、
「千賀ちゃぁん……」
 と、若い女の泣き声が地を這って伝わってきた。
「おかみさん」
 霧骨は、胸騒ぎを覚えて眉をひそめる。
「何があった?」
「……こちらへ」
 女主人が立ち上がり、霧骨がそっと背の蛮骨に目配せすると、「行け」とその目が言っていた。女主人について、土間から上がった。隣室に案内された。
 そこに、千賀は白い帷子を着て臥床に横になっていた。隣りで若い遊女が、おいおいと泣き声を上げている。
 女主人が言った。
「どうぞ……お顔を見てやっておくんなませ」
 恐る恐る、霧骨は近づいて、見た。千賀の顔は青白く、もう血が通っていない。紛れもない死人のそれであった。死臭もする。
「な……」
 霧骨は、
「な……ん」
 たちまちからからと乾いてきた咽喉を、唾を飲み下して何とか湿らせ、
「し、死んでんのか」
「あい……夕べ」
「夕べだと」
「あい……」
「どうして死んだ。病でも持ってたのか」
「いえ――それが私たちにも分からないんですのよ。昨日まではぴんぴんしてたんですよ。それが夕べ遅く客を取って、朝部屋に行ってみたらもう……」
 泣き腫らして赤い目を伏せて、
「傷もありません。本当になんで死んじまったのか、分からないんですよ。顔だってこんなに、眠ったまま死んだみたいに苦しそうなとこなんて一つも」
「あっ」
 急に霧骨が声を上げて、千賀の体の横に屈みこんだ。千賀の握り締めたまま硬くなっている右手をこじ開けようとする。
「あれ何を」
 女主人や若い遊女がとめようとしても聞かなかった。固まっている五本の指を無理やり開かせると、そこには鈍く光る銀色の針が一筋握られていた。
―――
 胡蜂。
「針、だわ」
 若い遊女が、嗚咽の交じる声で呟いた。
「どうして、こんなもの」
「おい、おい千賀は、千賀は見つけたときどんな格好で死んでた」
「え――?」
「答えろっ」
「あ」
 あの……、と若い遊女がおずおずと右手を握りこぶしにして胸の上に置き、
「こう――
 店を出た霧骨は、外で待っていた蛮骨をにらみつけんばかりにして、
「大兄貴、分かってたんじゃねえのか!? あの女が生きてねえって」
 蛮骨は答えなかった。
「帰る」
 言うなり、駆け出した。

 伝助が来るのを今や遅しと待っていた蛮骨は、その薄汚れた小袖姿がちらりと目に入るなり、濡れ縁から飛び降りた。
「遅えんだよっ! 何もたもたしてやがった!」
「すんませんすんません」
 ひーひーと息を切らして走ってきた伝助――例の情報屋の男である。伝助は蛮骨の前までやって来て息を整えると、
「いや、あ、当たりでしたよ。お客分の、言う通り」
 額の汗を手で拭い、
「鳴屋が一枚噛んでやがりました。死んだ遊女のさやと、ええと、千賀、そう千賀、その二人のね、最後に会った男がどっちも鳴屋の手下どもで」
 さっきの蛮骨の剣幕に呼び寄せられたか、庵の中から煉骨の他に、睡骨も銀骨も、凶骨も霧骨も蛇骨もぞろぞろと顔を出してきて、肩を並べた。
「千賀の方は客として店に上がったみてえですがね、さやは、外に呼び出されたんですな。何と言って呼び出したかまでぁ分かりやせんが、まよっぽどの用事と言って呼んだんでしょう。そのまんま、さやが店ん戻らず橋の下でお陀仏ってんなら、殺ったのはまあ間違いなく鳴屋の輩ですよ」
―――
 蛮骨は奥歯を噛み締めて唸った。
「ち、千賀の方は分かりやせんが。なんせ得物も何だか……」
「もういい!」
 踵を返し、庵の六人の方を振り返った。
 霧骨と目が合った。
――いい女だったなぁ、おい」
 と、蛮骨が言った。
 言わんとするところは、分かった。
 千賀は俺の毒で死んだのだと、それは昼間店で死体に握られていた針を見て分かっていたことだ。あれは胡蜂だった。間違いなく。千賀はそれを胸に突き立てて、死んだのだ。他の人間にはあれが毒の塗ってあるものだなんて分からない。自分で突いたのだろう。
 苦しみはしなかったはずだ。亡骸にもそんな様子はひとつもなかった。
 きっとこの間会ったとき、あれを胡蜂の針みたいだと言ったときに一本、盗られていたのだ。一番最近に会ったのがその時だから、他に隙はなかった。あのときすでに千賀は、もしかしたらこういうことが起こることを予感していたのかもしれない。
 客だといって現れた鳴屋の手下の目の前で胸を突いたのだろう。そいつらが帰ってしまった後では、自害する理由を思いつかないからそう思うのである。
 蛮骨が言った。
「千賀の方は口を割らされまいとして自決したみてえだけど、さやは何か俺たちのことをよ、喋ったかもしれねえな」
「逃げるのか」
 睡骨が尋ねると、
「ばか言え」
「じゃ」
 と喧嘩ごとの好きな蛇骨が、少し顔色を明るくする。
「仕掛けるのか? なあ兄貴」
「売られた喧嘩ぁ素通りするわけにゃいかねえだろ」
「そーこなくちゃ」
「伝の字」
 と、呼んだのは煉骨であった。
「足りねえ分は後で届けてやる」
 銀を一枚、伝助の手の中に向けて放った。

 翌日、町屋の家で朝寝をしていた伝助は、子分の若者に揺すり起こされて、それなりに日も高くなった頃にやっと目を覚ました。若者はやけに浮き足立った様子で、伝助の手を引いて外に連れ出した。
「何なんだよ俺ぁまだ眠い――
「んなこと言ってる場合じゃないですよ、ほら兄貴、あれ」
 若者の指差す先を見て、にわかに背筋に怖気が立つのを覚えた。
 立ち並ぶ町屋の間から、向こうに見える鳴屋の真上に黒煙が立ち昇っている。
「ひ、火が上がったか」
 すぐに思いついたのは、ここまで火の手が回ってくるかということだった。しかしそれは杞憂であったらしい。
「や、さっきやっと鎮火したところで。大事でしたよ、何せ鳴屋がまるごと焼けちまって、周りの店もいくらか……」
「死人が出たか」
「ええ。みんな死にましたよ。鳴屋の主から下男までみんなねぇ。でもありゃ焼け死んだんじゃない風でしたがね。体に傷のつけられた骸ばっかりで。皆殺しにしてから火を放ったんじゃねえですか」
―――
「ああそうだ」
 それからこれを、と言って若者が懐から取り出した麻布の包みを、伝助が受け取とるとずしりと重かった。
 中を開いて見ると、銀が五枚重ねてあった。重いはずである。
「さっき兄貴あてに預かったからって大家のとっつぁんが……」
 若者がみなまで言わないうちに、伝助は駆け出していた。町を離れ、山に入って入り組んだ獣道を抜け、七人隊が隠れ家にしていた庵までたどり着いた。
 声をかけてみたが返事はない。
 庵の中はきれいに片付けられて掃除がされており、もう人が住んでいる様子はなかった。


 殺された二人の遊女は町の外れの寺院の僧によって懇ろに弔われ、またそこに埋められたということである。
 あるときその僧が、墓地から十六、七歳くらいの少年と白い覆面をした男が連れ立って出てくるのを見たという話があるが、定かなことではない。ただそのとき、千賀の墓の前に供えられていたという白黒の碁石と、墨でマスの書かれている薄汚れた板切れは、未だその寺が大事にしまっていてくれているそうである。

(了)