日照雪

吉蝶きっちょうちゃぁん、お帰りよぅ」
 階下から女の甲高く呼ぶ声がして、
「はあい」
 と吉蝶が返事をしたときにはもう、蛇骨は足半あしなかを脱いだ足を拭いもせずにずかずかと土間先の階段を上っているところであった。
 吉蝶が乱れた衣服の前合わせや髪を整えて、ちょうど居住まいを正したころをまるで見計らっていたように、蛇骨は部屋の戸を引く。
「お帰りなさいませ、旦那様」
 吉蝶がにこやかに頭を下げたが、蛇骨はそちらを振り向きもせず部屋の真ん中まで大股に入り込んで、
「寝る」
 ただそれだけ、不機嫌そうに言った。吉蝶は小さく溜め息をついて、
「冗談ですよ」
 少し呆れた風に呟くと、やれやれと立ち上がる。聞いているのかいないのか、蛇骨はもう腰の帯に手を掛けていて、するするとそれをほどくと吉蝶に向けて放り投げる。吉蝶はそれを宙で受け取り、続いて飛んできた股幅巾ももはばき、袷の小袖も器用に腕に取ると、簡単にたたんで傍に置いた。
「兄さんまったくこの冷えるのに股幅巾だなんて、袴はお嫌い?」
 それから部屋の隅に重ねてある夜具を広げて褥の用意をする。
「はい、ようございますよ」
 薄物一枚になった蛇骨は、うんともすんとも言わぬままにその中に滑り込むと、掛布を肩まで引きかぶって話はそれきりになった。
 吉蝶は、しばし蛇骨の寝姿を見つめて夜具の傍で膝を崩していた。
 しかしそのうち思い立ったように掛布の端をめくって褥の中へと、
 するり、
 と潜り込んだ。
 おもむろに蛇骨の背に体を押しつけ、襟の後ろで生温かい息を吐く。色白くて柔らかい女の両腕が脇腹を回って懐から薄物の中まで差し込まれる。
 その上思いもよらぬ、背から薄物の裾を割ってまで脚の間に入り込んできた細い膝に、蛇骨は、わっと飛び起きて、
「だからっ!!
 きっと吉蝶を見据え、
「だから、夜の相手はいらねーっつってんだろっ! 何度言わせんだ。俺ぁ女なんか抱きたくねえんだよ」
「でも……」
「でもも鴨もねえっ」
「何でもいいったら。でもねぇ、あたしは遊女で、兄さんにお金で買われてる身なんですよ。何もしないんじゃ気が収まらないよ。悪いじゃないの」
「んな律儀な考え捨てちまえ。こっちだって何かして欲しくって買ってやったわけじゃねえや」
「だけど」
「くどい。てめえは黙ってこの部屋でじっとしてりゃいいんだよ。俺の目につくところにありゃ、それでいいんだ」
「じゃあ本当に身の回りのお世話だけでいいんですか」
「飯だけ食わせてもらえりゃ十分だぜ」
 だから、と、鳥肌の立った腕を撫でつけながら、
「俺の布団に入ってくんな」
 大真面目な顔で蛇骨は言う。

 冬の夜というのは全く長いもので、ようやく空が白み始めてきたばかりの刻限では未だ群青色の闇に包まれている境内に先日の大雪で積もった雪が、ぼんやりと青白く光っているほどである。
「それは――では扇なぞ贈って申し訳のないことをしたね」
 春から夏にかけては様々の美しい緑をたたえていた京中の院の中庭も、今は白く覆われている。しかしそれはそれで、紫檀したんで組まれた渡り廊下など日中はよく映えて、美しかった。
「冷えるだろう。お飲み」
 墨染めの僧衣に絡子らくすをかけた僧形の男は、白湯の入った茶碗を煉骨に差し出した。男の言葉には上方の訛りがあった。
「どうも」
ささを買っておけばよかった。どうも、気が利かなくてすまない」
 煉骨は白湯を口の中に流し込んだ。
「あなたは酒は飲まないのでしょう」
「いや飲めぬのさ。私は根っからの下戸でね、三口も飲むと顔が青くなってしまって。私の師匠は相当な酒豪だが――
 言いながら男は何やら灯明皿の油を弄っていたが、やおら煉骨に向き直り、
「それで、首尾はどうだい」
 と、少し眉をひそめて神妙な顔つきになる。皿の小さな灯りに照らされたその顔は、見たところ三十路の手前といった年齢で、いかにも京の都の僧侶らしい、無骨さのない公家顔をしている。
 煉骨は茶碗を膝の先に置き、居住まいを正した。
「相変わらずといったところですな」
「進展なしか」
「なかなか……相手もなまじ底抜けの馬鹿ではありませんからな」
「いっそ底が抜けたほどの阿呆ならやりやすいのだけれどな」
「ええ。それから吉蝶の方には俺の弟分をつけていますが、あちらも特に変わりないようで」
「それはよいことだ」
 男は悲しげに溜め息をついて、
「若い女子おなごをむざむざ殺させてなるものか。私も一度顔を見たが、ほんに可愛らしい遊び女だったよ。しっかり護っておやり」
 と言ったのだが、煉骨はその言葉の裏で、
「女が死ぬような手落ちがあれば、報酬から差っ引くぞ」
 と釘を刺されていることを感じ取って、閉口する。
「あまり訊きたくはないが、よもやおまえの弟分が吉蝶に狼藉を働くということはないだろうな」
「心配には及びませんでしょう。若い男ですが、もっぱらこちらの趣味で」
 煉骨は右手の親指を立てて男に見せた。
「野郎のケツ以外には一切興味のない男です。年頃の女になんぞ見向きもしない」
「それは重畳ちょうじょう。さすがおまえの弟分なだけはある。風変わりで面白そうな男だ」
 男はようやく僅かに頬を緩めた。煉骨が、おや、という顔をする。
円悟えんご様はそちらのご趣味でしたか」
「どこぞの老師殿と一緒にされては困るな」
「……おっしゃいますね」
「私は師匠譲りの女好き、酒は飲めねど女子好みはきっちり受け継いだのさ。女子の体は三十路を迎えようとしている今でも知らぬがな、見ているだけで楽しい。菩薩のような女性を眺めているだけで、まったく心が浮き立つ」
「はあ」
(あんたも相当変わり者だよ)と、煉骨は心の内でこっそり呟いてから、それた話を元へと戻す。
「して、円悟様、両家の言い分の方はどうなっているのですか」
「こちらも特に変わったことはない。長男側の家は知らぬ存ぜぬの一点張り、次男側の方は長男がやったのだと言い張って引かぬ」
「長男がやったのでしょう」
「まあそうだが」
「領主の長男が都で辻斬りをしているとあっては、次男にとっては格好のとまではいかなくても、長男を蹴落として跡目を継ぐ足がかりくらいにはなりましょうて」
――そういうことだろうね」
 その辺り、もう少し詳しく事情を説明するとこうなる。
 昨今、京の都では辻斬りが横行していた。
 狙われるのは男が多かったが、時には女子供まで、夜闇のうちに胴体をばっさりと斬られ、翌朝になると血で真っ赤に染まったまま凍りついた雪の上でむくろが見つかる――そういう具合である。
 辻斬りの得物は同田貫どうたぬき。合戦場で好まれる実用刀で、身幅が広く、厚く、叩き切れる、ぶった切れる、そういう切れ味である。
 そのように物騒な辻斬りであったが、町の男衆の腰は重く、では俺がとっ捕まえてやろうか、という者は現れなかった。何せ命が惜しい。斬られた骸の切り口を見ても、剣の素人の仕業ではなかった。
 そういう状況の中で、新たな骸が出たのが五日ほど前のことである。
 斬られたのは町の悪党連中のうちの一人で、どうやらそこそこ腕っ節も強かったらしい。遺骸には辻斬りと激しく争った痕があった。短刀を握り締めたままこときれていて、刃には血糊がこびりついていた。
――そしてその骸の下からこれが」
 そう言って、副住職の瑞諒ずいりょうが膝の前に差し出したものを見て、円悟はやにわに表情を曇らせ、
「これは……」
 唸るように呟いたきり、後の言葉は継ぐことができなかった。
 それは絹布に包まれた懐刀であった。
 ただの懐刀ではない。
 名のある刀匠が鍛えたらしい見事な造りで、さらに周りを包む絹布には武家の家紋が入れられている。下々の人間が持ち物にできるような品ではない。
――住持じゅうじ様のお察しのとおり、この家紋は、この地の領主様のご嫡男をお産みになった側室の家のものです。側室殿のご実家は都から離れておいでですから、この懐刀はおそらく領主様のお屋敷にいらっしゃるご嫡男の持ち物……」
「では次にこの土地を治める者が領民を斬っているのか」
「まあ、そういうことになりますな」
「諒さん、あんたどうしてこの刀を持っていたんですか」
「住持様がご懇意になさっている室町通りの扇屋の隠居殿が、今朝辻斬りに斬られた骸が見つかるとその場にいらして、出てきたこの刀を一度預かられたそうです。あの扇屋は、辺りでは一番の大店ですし、武家につてのあるお店の隠居殿ですから、周りの者も特に異は唱えなかったそうで。それを先ほど、どうか住持様にと仰って、預けにいらっしゃいました」
「私に?」
 言ってから円悟ははっとしたように、
「お家騒動か――
 苦々しげに顔を歪めた。
「そういうことでございましょうよ。領主様にはご嫡男と年の変わらぬご次男がおありです。しかも長男と同じ側室の出の上、出生の届けが少し早かった遅かったで決まった嫡子ですから、ご次男の方も少なからず野心を抱いておいででしょう。何かにつけて自分が家を継ぐ機会を狙っていらっしゃるはずです。そこに今度の辻斬り――
「次男には長男を糾弾するいわれができるな」
「ええ。それだけで嫡男まで変わってしまうとは思えませんが、その足がかり程度にはなるでしょう。ただし」
 瑞諒は一息置いて、
「長男が辻斬りだという確固たるあかしが欲しいところ。知らぬ存ぜぬが通用せぬような証拠を固めたいということです」
「それで私にその世話をしろというのか」
 円悟は取り上げた懐刀をじっと見つめて、溜め息を洩らした。
「隠居殿は、できれば住持様にご次男の方を跡目に推してもらいたいとお考えなのではないですかな。辻斬りをするような男を領主になぞしたくないと思うのは当然です。私だってそう思います。住持様なら領主家に対して発言力もある。そのためにも証を固める必要があるのです」
 だけど諒さん……と、円悟は言いかけたが、しかし、途中でやめた。
「……いや――そうさな。分かった」
「一肌脱いでいただけますか」
「脱ぎましょう。あい、本当はあんまり分かりたくはないですけどね、分かりましたよ」
 瑞諒が、ほ、と息をついて安堵に頬を緩めようとしたのを、円悟は見据え、
「諒さん、明日のうちにお山にお使いをお願いできますか」
「は、使いですか」
「じきに扇屋さんからご喜捨きしゃがありますからそのつもりで、と伝えてください」
―――
 瑞諒は合点がいった。なるほど扇屋の隠居殿は腐っても大店の元の主、布施を出すから辻斬りのことは円悟に任せると言って後には引くまい。
――承知しました。明日のうちに参ります」
「それから人手が足りませんから、七人隊の者でも呼び寄せましょうか。ちょうど先日堺の辺りから便りがあったから、まだあの辺りをうろちょろしているでしょうよ」
 そういうことになって、煉骨と蛇骨が堺から京へとやってきたのが、三日前のことである。

―――
 蛇骨が眠気にだるい体を引きずるようにして身を起こすと、外は白み始めている刻限で、背で吉蝶が鏡を覗いて髪を梳いているのが見えた。
「今何時だ」
「もうじき明け六つですよ」
 蛇骨を振り向いた吉蝶は口に紅を差し、化粧けわいをしていた。蛇骨が訝しげに眉をしかめる。
「なんで化粧なんか……」
「だって暇なんですもの。他にやることがないんですよ」
「だったら寝てろ」
「いいえ、お世話する殿方より長く寝てるなんて。お着物、今出しますから」
 吉蝶はさっと立ち上がると、部屋の隅に置いた乱れ箱から昨夜蛇骨が脱いだ黒無地の小袖と、帯と、股幅巾を順に取って蛇骨に手渡し、蛇骨の着替えが済むと布団をたたんで床を片付けた。
「兄さん朝餉あさげは……」
「いらねえよ」
――夕べは飯だけは食わせてくれっておっしゃったくせに」
「今朝は出かける」
「どこへいらっしゃるの」
「てめえは知らなくて構わねえ」
 蛇骨の態度にはあくまで愛想がなく、口数も普段七人隊の衆と交わす半分もない。だが吉蝶はそんなことあまり気にしていないのか、櫛で丁寧に髪を梳いている蛇骨を不思議そうに見つめている。
「相変わらずご熱心だこと。兄さんみたいに身なりの手入れがいい男も珍しいですよ。頭はまるで女の髪ね。つやつやして」
「胸の悪くなるようなこと言うんじゃねえ」
――つやつやしてるって?」
「女の髪みたいだってとこだ」
 蛇骨は、ふんと鼻を鳴らし、櫛を置いて、髪を手際よく頭の後ろでまとめると、慎重にかんざしを挿して、いつもの結い髪となった。
「女みたいだって言われて手ぇ放して喜ぶ野郎がいるか」
 先ほどまで吉蝶が姿を写していた鏡を、身を屈めて覗き込み、首筋の後れ毛やかんざしの位置を確かめていたが、ふいに、膝元に貝の紅皿を見つけ、手にとって開いてみた。
「それはあたしの」
 吉蝶が蛇骨の手から紅皿を取り返そうとしても、蛇骨はさっと手元を操ってそれを逃れ、
「借りるぜ」
 言うが早いか右手の薬指に紅を取った。
「いやだ使うの?」
「ふん」
 慣れた手つきで、口を薄く開き上下の唇に紅を乗せていく。口に塗り終わると、指に残った紅を逆の手の甲で少し落とし、薄く色づくほどにしてから両の目元にも塗りつけた。
 吉蝶が、化粧を終えた蛇骨の横顔をしげしげと見つめて、目元をほんのり朱に染めながら笑った。
「何だかあたしなんかよりずっときれいね。口惜しい」
 女みたいだなんて言いませんよ、と言葉を継ぐ。
「まったくなんて美丈夫なのかしら。兄さんみたいな人と道で目が合ったら、その場で腰が砕けっちまいそうよ。ねえ顔を見るくらいならいいでしょう、もそっとこっちを向いてくださいよ」
 そう言っても蛇骨はむすっとしたまま首を動かそうとせず、しかしかといって吉蝶も諦めずもう自ら両手で蛇骨の耳の下辺りを掴んで、
 ぐい、
 と、こちらを向かせてしまった。
「でっ」
 蛇骨は思い切り顔をしかめて、
「あにすんだ馴れ馴れしい!」
「ごめんなさいね。でも怒った顔も素敵だわ」
 笑いながら、吉蝶はそっと手を離す。
「あたしの糞亭主なんかとは大違い。兄さんくらいいー男ならねぇ、女房を借金のかたに傀儡宿くぐつやどに売っちまうような亭主でも、いいのよお前様って笑って許しちまうってもんですけど」
―――
 吉蝶は、年は二十歳。
 京の町でも中の下といったところの遊女屋にある遊女である。
 二日前の夕刻のこと――
「吉蝶って遊女がいるのはここか」
 突然二人の男が訪れて、店の前で客の袖を引いていた年増女にそう尋ねた。一人は僧籍でもなさそうなのに頭を丸めており、もう一人はやたら涼しい目元をしている男で、坊主頭の男の斜め後ろに控えるようにしている。
「吉蝶でございますか? 確かにおりますが、あの……」
「店の主に会いたい」
「はあ」
 男たちは店主の部屋に通され、何やら話し込んでいたが、部屋の外からは何を言っているものやら、知れなかった。
 四半刻ほど経って、
「……吉蝶ちゃん、お客さんよ」
 男二人を連れた店の遊女が、二階の吉蝶の部屋の戸を引いた。中で吉蝶はまだ化粧もせず、着ている物も前をくつろげていたものだから、
「ええもう!? まだ日は落ちてないじゃないの。いやだちょっと待って――
 と、慌てて身づくろいをしようと身を起こしたのだが、それを制するように部屋の戸の隙間から坊主頭の男が顔を覗かせた。
「飾らなくて構わねえよ。遊びに来たわけじゃねえ。その今にも乳が見えちまいそうな着物の前だけ直しな」
――何のご用?」
 と、吉蝶が尋ねたときには、坊主頭の男は吉蝶と向き合って座し、目元の涼しい男は坊主頭の脇であぐらを掻いて無愛想に口をつぐんでいた。
「俺たちは七人隊のもんだ。名は、俺は煉骨」
「七人隊――
「知ってるか」
「名前くらいは……町の男衆から聞いたことがありますけど。随分腕っ節の強い男の人が集まってるって。どこの厄座やくざにも武家にも身を置かないとか何とか」
「まあそんなところだ。今は京の月舟円悟法師の手先をやっている」
「月舟法師さまの」
 それで、その月舟法師さまの手先の七人隊の方が何のご用で……と、吉蝶は少し不安げに顔を曇らせながら再び問うた。
 煉骨は単刀直入に切り出した。
「おまえは辻斬りの顔を見たそうだな」
「え?」
「三日前にやくざ者が辻斬りに斬られたとき、その辻斬りの顔を見たそうだな。本当の話か」
「あの――
「答えろ」
「あの、はい、見たことは見たんです。ええ、見ましたとも」
「どういう風に見た」
「どういう風にって……」
 そうですねぇ、確か――と、吉蝶は記憶をたぐるようにして、形のよい眉をひそめ、目を細めた。
 吉蝶が言うのはこういうことであった。
 三日前の夜も更けたころ、小用のために小さな灯りを持って店を抜け出したところ、どこからか男の罵声が聞こえてきたという。何と言っていたのか詳しくは覚えていないが、かかってきやがれとか、いい度胸だとか、そういうことであったと思うと言う。
 男の集まる色町では喧嘩もさして珍しいものでなかったので、吉蝶も臆せず、むしろ野次馬根性を出してどこでやっているものかと辺りをうろうろとし始めた。店を離れてしばらく行ったところで、また同じ男の罵声が聞こえて、その声はさっきよりも随分近く、この辺りかと思ったその時であった。
――げはぁっ!!
 と、あの罵声と主は同じの、悲鳴の混じった呻き声が――
「それであたしいっぺんに恐くなっちまいましてね、ただの喧嘩じゃないと思って。だからすぐに手元の灯りを吹き消して、建物の陰に身を潜めたんです。そこから町で一番大きな通りを覗いて見たら、向こうの辻で抜き身を持ったお武家様とその足元に倒れてる男衆が……」
「その武家の顔は見なかったのか」
「見ました。でも夜目でしたし、あたしお武家の方のことなんてさっぱり分かりませんからね。お侍様が買ってくださるような高級宿の女じゃあありませんから」
「もう一度その侍の顔を見れば、分かるか」
――はっきり、はい、とは言えませんけど、たぶん」
 でもお兄さん、と、吉蝶は煉骨の顔を見つめ、
「どうしてあたしが辻斬りの顔を見たってご存知でしたの」
「人の噂の何とやらだ。女おまえ辻斬りを見たことを誰かに話しただろう」
「えっ? あ……」
 そういえば店のおかみさんに……と吉蝶が呟くと、煉骨は溜め息をついた。
「背ひれ尾ひれのついた噂が広がってる。田宮の吉蝶は辻斬りの正体を知ってるとか、実はその辻斬りは吉蝶の男で傍にかくまってるとかな」
「いやだそんな、根も葉もない――
「まあ、最後のは極端だが、とにかくそういう状況だ。ひょっとしたら辻斬りの男が噂を耳にしてることも考えられなくねえ」
 さっ、と吉蝶の顔色から血の気が引く。
「分かるか」
「あいあの、つまりあたしその――危ない目に遭いそうになってるってことですね」
(この女、こんな宿の女にしてはそれほど飲み込みも悪くないな)
 と思って煉骨は頷き、
「そういうことだ。話せば長くなるが辻斬りをやっている武家は訳あってそのことを隠そうとしてるんでな、おまえの口を封じようとするかも分からねえよ」
―――
「だがこちらも話すと長ぇが、月舟法師はその辻斬りの武家を問い詰めるために証拠を集めているところだ。だから、おまえの口を封じられちまうといささか具合が悪い」
 そこでな――と、煉骨は続けた。
「これからしばらくおまえの身の回りを見張らせてもらうぜ。嫌とは言わせねえが構わないだろうな」
 そう言って煉骨がじっと吉蝶の両眼を見据えると、吉蝶は何だかむず痒そうに、顔をうつむき加減にしながら頷く。
「あの、はいそれは勿論、あたしだってまだ命が惜しゅうございますから、ありがたいお話ですよ。ただ、しばらくっていうのは、どれくらい――
「さて、はっきりとは分からねえが……いずれはおまえを辻斬りの男に引き合わせて、あい確かにこの男が辻斬りだと証を立ててもらわなくちゃならねえだろうからな、その準備ができるまでだ」
「じゃあそれまでの間、あたしはお客を取れないんでしょうか。それじゃ稼ぎが――
「その心配なら無用だ。身の回りを見張る間、おまえの身は俺たちが買ってやる。普段客を取る代金と同じくらいは払ってやるよ。金の出所はどうせ月舟法師の懐だ、気にするこたぁねえ」
 あの御仁ごじんもそれなりに溜め込んでいるからな、と煉骨はどこか意地の悪い笑みを浮かべた。
「女おまえがごねれば、倍くらいは払ってくれるかもしれねえぜ。どうする」
「えっ。いやだ、そんな、倍もいりゃしませんよ。食べていけるだけもらえれば十分」
「なんだ、欲がないな」
 そう言って苦笑した煉骨の顔が、なんだかさっきより少し和らいだ表情になっているような気がして、脇隣りから蛇骨は、汚いものでも見るように目を細くしてそれをにらんだ。
――なんだったら見張り番役代わってやるぜ、兄貴。俺に代わって四六時中この女と一緒にいてやっちゃどうだい。いかにも兄貴の好っきそうな女だもんな。色が白くて乳がでかくてよ」
 とまあいきなり蛇骨の口からきつい嫌味が飛んだので、聞いていた吉蝶は驚いて目を丸くする。
 煉骨は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「蛇骨、てめえ」
「仕事の最中に女に色目使ったそっちが悪ぃんだよ」
「何の話だ。俺がいつ色目なんか使った」
「好みの女が、欲がなくて気立てがよくて嬉しいんだろ。へらへらしやがって」
 そう言われてやっと煉骨は合点がいって――ということは、つまり実際ほんの少しくらいは、嬉しく思っていたのであろう。
「あんなのが色目のうちに入るかっ」
「感じ方の問題よ。俺にはしっかり鼻の下が伸びてるように見えた。仕事中だぜ、ったくよ。いちゃいちゃしたきゃ仕事の後で、いくらでも好きなだけ飽きるまでやってくんな」
 これだから男ってやつぁ……自分だって男のくせにそんなふうにでも言いたげに、蛇骨はむっと口をつぐんだ。自らのことを棚に上げているのはいつものことだ。
 いつものことだから、煉骨もそれ以上取り合おうとしなかった。これくらいのことは慣れている。
――まあとにかくそういうわけだ。この男がおまえの身辺を見張る」
 と、蛇骨を指差して煉骨は吉蝶に告げた。
「男のケツ以外知らねえ男だから、一つ部屋に寝起きしてもよもや手込めにされるなんてこたぁねえだろうよ」
 蛇骨が、ふん、と鼻を鳴らして、
「頼まれたってしねえよ。兄貴じゃあるまいし」
 とまた嫌味を言ったが煉骨は無視を決め込んだ。ただ小さく溜め息をつく。
「ま、この野郎はろくでもないことばっかり言うとは思うが、仲良くやってくれ」
 無理かな、とは、思ったが口には出さないことにした。


「そうやって、どの男にも別れた亭主よりあんたの方が素敵よって言ってんのか」
 蛇骨が口先を尖らせて、吉蝶をにらむようにして見た。吉蝶はきょんとして、
「あらいやだ、どうして分かったの」
 呆れるほど素直にそう、問い返してくる。
「やっぱりあたしの口説き方って芸がないのかしら。ねえ兄さん」
――知るか」
 あんまり素直に返されては調子が狂うらしく、面白くなさそうに蛇骨は吐き捨て、腰を上げた。
「もうお出かけですか。お帰りはいつ? お食事の用意をしておきましょうか」
―――
 おい女、と、やおら蛇骨は吉蝶を振り返り、見下ろして、
「甲斐甲斐しいのもいい加減にしちゃもらえねえか。俺は食いっぱぐれねえだけで十分だって言ってんだ。俺のこた放っときゃいいんだよ」
「そう言われても、ねえ夕べも言いましたけど、それじゃあたしの気が済まないし……」
 それに、と言葉を継ぐ。
「兄さんの兄分の、ほらあの丸坊主の方、あの方に、仲良くやってくれって言われたでしょう? そりゃあ兄さんは意地の悪いことを言うひとだけど、あたしは今までもっと嫌な男をたくさん見たもの。平気よ」
 吉蝶の言葉の調子は、ただ優しいばかりである。
「兄さんは毎日お仕事でお疲れでしょう。あたしなんかの身を護ってもらって、本当にいくらお礼を言っても言い足りないくらいなの。ですからね、あたしがお世話させてって言ってるんですから、衣食の用事くらい、思うようにあたしを使ってくれればいいんですよ」
 蛇骨の言い方を真似るように言って、にこりとして蛇骨を見上げる。
「それで、兄さんお帰りはいつでしたっけ?」

――そういうことだろうね」
 と、円悟は頷いて、
「やはり辻斬りの証拠は、あの懐刀と女子しかないか……」
 独りごちた。
 煉骨も小さく顎を引き、
「まだ調べてはみますが、おそらく町衆から今以上のことは得られないでしょう。他に辻斬りを見たという者も出てきませんし、このご時世です、ひょっとしたら長男家と繋がっている商人などにはすでに金が渡っているかもしれませんな」
「うむ」
「どうにかしてその辻斬りの侍と吉蝶を引き合わせ――いや吉蝶に顔を見せるだけでもいい。そういう風にお膳立てできませんか」
「口八丁で力を尽くしてはみるが、上手くいくかどうかはまだ何とも言えないな」
 円悟は何か思案するように目を細める。
「なあ煉骨、案外辻斬り自体は、もう止むかもしれんよ」
 そう言って、
「長男家も馬鹿ではないということは、辻斬りなぞすると今度のような騒ぎになることくらい、学んだはずだ。辻斬り自体は止むかもしれないね。すると、無理に長男を辻斬りとして捕まえる必要はないのじゃぁないか」
 深く溜め息をつく。
「残る問題は女子の身の安全だな」
――円悟様の方はそれでよろしいのですか。扇屋のご隠居からお布施をいただいているのでしょう。吉蝶を辻斬りと引き合わせて証を立てて、捕まえた方がよくはありませんか」
「いや、ご隠居の方はようは私が次男家の味方をしてやればそれで済む話だろう。辻斬りが捕まれば何よりだが、隠居殿が期待しているのは領主の跡目に次男の方が選ばれることだ。辻斬りの話は領主の耳にも入っているし、もし嫡男が辻斬りをしているという確固たる証が出なくとも、領主の嫡男に対する心象は少なからず悪くなるであろうよ」
「それだけで跡目が次男に代わる足がかりになりますか」
「さて、それは領主次第だね。あの男が今回のことをいかに感じるかだよ。私は口八丁尽くして進言するだけ。その後領主がどう身を振るかは、私の及ぶところではないし、あの男が自ら心を決めなくてはならないことだ」
 きっぱりと言い切られたその言葉に、煉骨は何だか、聞き覚えのような、頭の隅に引っかかるものを感じ、少し口をつぐんで黙した。そっくり同じ言葉を聞いたわけではないが、似たような意味合いのことを耳にしたことがあるような気がする。
 しばらくして、ああ、と思い当たる。
「そういうところはさすが師を同じくするだけあって、どこぞの老師殿とおっしゃることがよく似ていらっしゃいますね」
 しかしそう言った途端、円悟が煉骨を横目ににらみつけた。
「何か言ったか」
「え?」
 いえ、と慌てて煉骨は首を横に振った。円悟は心底面白くなさそうに、苦々しい表情になる。
「言うておくが、そのどこぞの老師殿は、もとの師がお亡くなりになったから白秋老師に師事したのだぞ。印可を与えられないまま最初の師が他界したからとやってきて、幾年も経たないうちに白秋老師の印可を得て、老師としてもとの寺へと戻っていった。それだけの者を、とても師を同じくしているなどとは思えぬ」
「それで、あの男がお嫌いだと?」
「……いやまあ、そういう、平気で当然のように宗派の型を破るところはなかなか好きになれないということだよ。あの方の為人ひととなり自体をどうのこうの言うわけではなくてね」
 何だか愚痴のようなことをこぼしてしまったな、と、円悟は決まりが悪そうに首筋を撫でた。
「見苦しいところを見せてすまなかったな。話を戻そうか」
 煉骨は、ええ、と頷いて、
「まあ、その、確かに辻斬りが止んだとしても、吉蝶の無事は保証できませんな。長男家としては、やはり事を知っている可能性のある者の口は封じておきたいところでしょうから」
 と、元の話題を再び切り出した。
「そうだな。どうにか今後の身を護ってやる手立てを考えてやらなければ」
「それについては円悟様の領分ということで、よろしいですか」
「うむ。知恵を絞らせてもらうよ。辻斬りを捕まえるか否かについても、まあ状況を見つつ判じるとするさ」
「では俺たちの仕事はその手立てが決まるまで、ということですね」
「そういうことになる。よろしく頼む」
 円悟が言ったその時、ふいに、
 すっ、
 と部屋の戸が開いて、この寺の副住職である瑞諒が廊下に膝を着いた格好で顔を見せた。
「おや諒さん」
「住持様、お客様が見えているのですが、その――
 何やら言いにくそうにしている瑞諒の背から、蛇骨が無遠慮に右腕を懐に突っ込んで立っているまま頭を覗かせる。
「兄貴」
 白い息とともに煉骨を呼んだ蛇骨の、そのやたら涼しい目元を見て、円悟はすぐに気がついたらしく、頬をゆるめた。
「ああ、煉骨の弟分の――ちょうどいいところに来た。外は寒かったろう。こっちへお入り」
「それじゃ失礼して」
 蛇骨は部屋の中に足を踏み入れると、隅の方を通って煉骨の隣りまでやってきて、そこにあぐらを掻いて腰を下ろす。
「諒さん、白湯を一つ持ってきてもらえませんか」
「承知しました」
 と、瑞諒が下がっていくのを見送ってから、円悟は蛇骨に向き直り、笑いかけた。
「なるほどおまえさんくらい男ぶりがよければ、同じ男でもぐらりときてしまうのも分からなくないよ。私は月舟円悟という。以後見知りおいておくれ」
 蛇骨は、
(兄貴が何か余計なことを喋りやがったな)
 とは思ったが、口に出すのはひとまずぐっとこらえて、
「お初にお目にかかりゃす」
 円悟に向けて小さく頭を下げ、目を伏せる。名については煉骨の口から伝えられた。
「これの名は蛇骨と申します。この男が吉蝶の見張り役で」
「ということは若いのに随分腕が立つんだね。頼もしいことだ」
「まあ腕っ節と容貌みめ以外には取り得のない男ですからな」
「それは知らないが、確かに文句の付け所のない美丈夫ではあるよ。口と目元の紅が、また、女物を身に付けても似合ってしまうところが心憎いな」
 そんなことを遣り取りしている間に、先ほどの瑞諒が白湯を手にして再び現れた。部屋に入ってきて、
「どうぞ」
 蛇骨の膝の前に白湯の椀を置くと、それだけで去っていく。蛇骨は冷めないうちに白湯に口をつけた。
 煉骨が今まで円悟と話していたことを、かいつまんで蛇骨にも伝えた。
――じゃあそこの和尚様があの女を助けてやる手立てを考えるまで、俺はあの女についてなきゃならねえんだな」
「そういうことだ。おまえもこの期に女の相手に慣れるつもりで、もうしばらく、少しは仲良くやれ」
―――
 煉骨は円悟に向き直った。
「少しこれと二人で話したいこともありますので、この後どこか部屋を一つお借りできますかな」
「もちろん構わんよ。ついでに朝餉も出そう。そちらの弟分も、この刻限では食事はまだだろう?」
 蛇骨は首を横に振る。
「俺は結構」
「蛇骨おまえらしくもねえ。遠慮してるのか?」
 煉骨が訝しげに眉をひそめて見せると、蛇骨は、ふうと小さな溜め息をつく。
「いんや、そうじゃねえよ」
「じゃあ腹の具合でも悪いか珍しい」
「何だよ珍しいって」
 蛇骨は少し黙り込んでから、ようやく、訳を口にした。
「そんなんじゃなくてよ……」
「そうじゃなくて何だ」
「その、宿に帰ったら、あの女が飯の用意して待ってやがるからよ」
「なにっ?」
 それを聞いて煉骨は、虚を突かれたように元は細い目を大きくする。
「なんだてめえいつの間に吉蝶とそんな仲に。誰もそこまで仲良くやれたぁ――
「仲良くなんてなってねえし、どんな仲にもなってねえよ!」
 一度は声を大きくした蛇骨だったが、すぐに困った風に眉を八の字にして、
「なあ煉骨の兄貴、ああいう女は珍しいぜ」
 四つ時に戻るって言っちまったから、それまでには戻るよ、と同じ顔で続けて言った。

 先の言葉どおり、四つ時に蛇骨は吉蝶の待つ宿に帰ってきた。
「帰ったぜ――
 抑揚のない――ひょっとしたらわざとそうしているのかもしれない、そんな調子で声をかけながら部屋を覗くと、そこにはちゃんと膳の用意がしてある。しかし吉蝶の姿は見当たらなかった。
(あれ?)
 どこ行きやがったあの女、と思ってその場に立ち尽くしていると、
「あら、お帰りなさいませ。ちょうどいい頃にお戻りね」
 背後から吉蝶の声がした。振り返ると小ぶりの鍋を手に抱えてそこで笑っている姿がある。
「さあさ中にお入りになって」
 促されて部屋に入り、膳の前に腰を下ろしてあぐらを掻く。吉蝶が抱えてきた鍋から雑炊を椀に盛って、膳に乗せてくれた。雑炊の他には、里芋の煮付けたものが小さな器で添えられている。
「いつも貧相な食事でごめんなさいね」
 申し訳なさそうに吉蝶が言う。
「本当は白いお米を出して差し上げたいの。でもうちの店は貧しくて……」
――別に。気にしねえよ」
 そう、蛇骨はぽつりと呟くと、雑炊の椀を持ち上げ、箸で中身を口にかき込みながら、ぞぞぞ、とすすり喰った。実際、普段食う飯にはこれよりもっとひどい時も――ほとんど水のような粥ばかりだったりする時も、七人隊の懐具合によってはあり得たので、食いっぱぐれないだけでありがたかった。
 吉蝶は蛇骨が食い始めたのを認めてから、白湯を用意しに一度部屋を出た。
「………」
 蛇骨は、溜め息をついた。
 優しくされると調子が狂う。
 こちらが意地の悪いことを言っているのに、それに腹も立てずに、逆に優しい言葉をかけられたりすると面食らってしまって、調子が狂うのである。
 こちらが優しくしていると優しくし返してくれる人間は、たくさん、いくらでもいるのである。しかし、こちらが優しくしなくても優しく接してくれる人間は少ない。
 だから本当の意味で優しい人間は少ないと、すっかり世の中に擦れた蛇骨はそう思っていて、だから吉蝶を“珍しい女”と思うのである。
 こんな傀儡宿には似合わねー女だな、と、雑炊を噛み締めながら思う。
 案外、別れた亭主の話は本当なのかもしれない。ひょっとしたら子どももいるんじゃないかと思う。
 母親の顔を知らなくて、慈しんでもらった覚えも心の隅にすら残っていない蛇骨でも、幼い時分には、きっと母親ってのは優しくって、いいもんだろうなと考えたことがあった。
 それは昔話だが、今でも、合戦に巻き込まれた領民の、我が子を抱えたまま絶命している女などを見かけると、そういうもんかなと感じることもある。時折のことであって、いつもは死体なんぞ物と一緒だと思っている。
 そんなことをぼんやりと考えているうちに、吉蝶が白湯を手にして戻ってきた。
「おかわりは?」
 と吉蝶が訊くので、蛇骨は黙って空になった椀を差し出した。結局三杯ほど食った。
「湯」
 とさらに椀を差し出すと、吉蝶の手で白湯が注がれる。
「どうぞ」
―――
 優しくされても、だからって俺は、優しくして返してやるようなガラじゃない、と、蛇骨は思った。勿論女相手に恋慕の情が湧くわけもない。女陰そそなんぞただの赤い肉の塊だと思っている男である。
(ああ、ったく調子が出ねぇったらよ――
 吉蝶がつくろい物をしている横で、ぼっけと窓の外に視線を投げている。
 二階の部屋なので、往来を行く人間が少し小さく見える。いい男でも通りかからねえかな、と、せめて普段の調子を取り戻したくてそんなことを考えてみた。往来を行く男たちの姿を順に目で追ってみたが、しかしなかなか、これはという男は見つからない。まあ見つかったところで、あんまりいい男では斬り殺したくなるばかりで、ひとつ仕事にかかりきっている今ではそういう次第になってはいらぬ我慢が増えるだけ。困るのだが。
 今朝初めて会ったあの、月舟法師とやらがさっさと知恵を絞って、こちらの仕事を終わらせてくれれば、心置きなく男も斬れる。
 などと、辻斬りとさして変わらないようなことを考えている。
 ずっと往来を眺めているうちに、
(あれ)
 ふと、気がついたことがあった。往来の隅の方で、何やらこちらの方をちらちらとうかがいながら、うろうろとしている姿がある。見たところでは町の男衆らしき格好なりをしているようだ。が。
―――
 蛇骨が急に身を屈めて体を後に引き、小さな衣擦れの音以外足音さえ耳に聞こえるほどはたてずにスッと窓際の壁に身を寄せたので、吉蝶が針を使う手元から顔を上げ、
「どうなさったの」
 と尋ねると、蛇骨は少し低い声を出した。
「女、おまえもう膝一つ分だけ窓際に寄ってよ、外覗いてみろ。右の下の方に黒っぽい色の小袖の町男がいてこっち見てやがるはずだ。おめえ知ってる顔か」
 別に吉蝶がこの店の二階にいることも、今蛇骨に身の回りを警護されていることも、秘密にしていることでは全然ないし、こそこそ隠れて秘密になんかすればするほど敵の思うつぼというもの、大っぴらに吉蝶の傍について世間の噂になるくらいがちょうどいい……と言ったのは煉骨であるが、そういう事情であるからひょっとしてただの野次馬かもしれない。かもしれないのだが、しかし、蛇骨の悪党としての勘によるとおそらくそうではない。根拠はない。そう思ったからそうなのである。
 おそらくは、あまり好んでお近づきにはなりたくない相手であると思われた。
「こっちを見てるって」
 吉蝶は言われたとおりに膝一つ分、前ににじって、背伸びをしながら窓の外を見下ろす。
「一体どの男のことです。黒い小袖なんて――
 しばらくきょろきょろと辺りを見回してから、
 あ、
 と、口の中で小さな声を上げる。見つけたらしい。
「そういう男がいるだろ」
「あの人――面長でちょっときつい顔つきの」
「年の頃二十五、六ってとこのな」
 と、蛇骨が言うと、吉蝶は頷いた。
「知った顔か」
「……いえ」
 細い声で呟いて、首を横に振った。
「ならいい。野郎に見つからねえうちにそっから離れな」
 蛇骨は自分も元の位置に静かに足を運ぶと、外の景色を眺めるのも止め、ごろりと横になって吉蝶に背を向ける。そのまま、昼寝を始めて日が落ちてくる頃まで目を覚まさなかった。

 その夜、吉蝶は眠りにつけなかった。
 蛇骨の眠っている床の隣りに敷いた布団の中で何度も寝返りを打っていたが、どうにも寝つくことができずに、仕方なく身を起こして櫛を手に取り髪を梳いたりしてみた。
 隣りの蛇骨は、昼間呆れるほど寝こけていたというのにまだ寝足りないのか、規則正しい寝息をたてている。
―――
 眠れない理由は分かっている。
 吉蝶は音をたてないように気をつけながら、膝で窓際ににじり寄った。板の覆いを少し押し上げて、その隙間から外を見下ろしてみた。
(まさかこんな夜中に来るわけない)
 何せもう牛の刻も間近い。客だってこの刻限では外は歩かないし、最近は特に辻斬りが出ていたから男たちは外出を控え気味である。思ったとおり、外には誰もいない。
 はなから期待などしていなかったが、少し周りを見回してみる。深夜であったが、月の光が思いの外明るく、辺り一面に積もった雪がそれを反射して青白く光っており真っ暗闇ではなかった。
 外気は肌が切れそうなほど冷たい。息を吐くたびにそれが白くなって、窓の外へ流れた。
 窓の縁に腕を乗せ、その上に頬を預け物憂い眼差しを外に向けて濡れた溜め息をつく。
 そういう姿の吉蝶は、蛇骨に接しているときとは違う、男女の情を知った女の目をしていて、艶っぽかった。あるいはこれが吉蝶の生身なのかもしれなかった。しかしだからといって優しい女だというのが嘘なわけではない。あれも吉蝶という女なら、今こうして誰かを想っている女も吉蝶ということである。
 ただそれだけのことである。
 しばらく外を眺めていたが、さすがに体が冷えてきて、吉蝶はひとつ身震いをした。
 分かっている。来てくれるわけがなかった。
 落胆を覚えそうになる気持ちを押さえつけるように、そう思い直して、それでも未練を捨てきれず、もう一度ぐるりと周囲を見回す。あと少し、もう少しと、身が冷えて寒いのに、なかなかその場を離れることができないでいる。
「………」
 昼間、嘘をついたことが知れたら蛇骨は怒るだろうなと、思った。
 と――
 ずっと窓際で体を冷やして待ってみた甲斐があったのかもしれない。
「あ」
 吉蝶は、視界の端に黒っぽいものがうごめいたのに気がついて、口の中で小さく声を上げた。すぐさまそちらに目を向ける。しかし黒いものが動いているのは分かるが、二階から見下ろしている上月明かりでは、それが何ものなのかまでは分からない。だが、二本足で歩いているのだからあれは人だ。
(まさか)
 でももしかしたら、という想いが吉蝶を居ても立ってもいられなくさせた。急いで窓の戸を下ろすと、蛇骨を起こさないように忍び足で部屋を抜け、草履ぞうりを引っかけて外へ駆け出した。
 外では、細かな白いものが時折ちらりちらりと空の闇から舞い降りてきている。
(寒い)
 と一瞬身が縮こまったが、構わずさっき黒い影を見た場所を探して辺りをうろうろし始める。灯明の一つも持って出ればよかったと思ったが、もう取りに戻る手間も惜しい。
 店二階にある自室の窓の下までやってくると、吉蝶は、
「おまえさん――
 と、小声で、今までずっと待っていた男を呼んでみた。
 呼んでみてから、ようやくはっとした。
 もしかしたらさっきの影は自分に危害を加えようとしている者だったのではないか――そういう者がいるかもしれないからこそ蛇骨が身辺を見張っているのである。その蛇骨は今、二階の臥床ふしどの中ですっかり眠ってしまっている。
 吉蝶は急に恐くなって、店に戻ろうかという考えが頭をよぎった。しかし、だがもしさっきの影があの人なら――そういう気持ちを捨てきれないのである。
「おまえさん――
 あの人の声で、返事が返ってこないものかと、それだけ、淡い期待を抱いて声を上げた。
「おまえさん……」
 もう、帰ろうかと思った。
――たつ
 吉蝶は驚いて店の方へと向けかけていた足先を、また往来へと戻した。
 竜、というのは、吉蝶の遊女になる前の元の名であった。
「お竜、お竜おまえだろ。おめえ一人なのか」
 どこに隠れているのか、声の主の姿は見えない。
 ただその声は確かに、吉蝶が返事を待ち焦がれていた声そのものだ。
「おまえさん、どこにいるの」
「ここさ」
 吉蝶の立っているところの、十間ばかり先の辻の陰から、男はゆっくりと姿を現した。夜闇に溶けるような憲法黒の小袖に、それよりは少し薄い色の四の袴と脚半を身につけた、面長で目つきのきつい、小悪党といった面の男であった。
「本当におめえ一人なんだな」
「あたし一人よ。七人隊の人は部屋で――
 そこまで言ってから、
「知ってたの」
 と、吉蝶はばつが悪そうに顔を歪める。
「知らねえもんか。街じゃ評判だぜ、田宮の吉蝶と一つ部屋にえらく美形の男が棲んでるって」
 男は吉蝶が一人と知ると、駆け寄ってきてその身を抱きすくめた。
「おまえさん冷たい……いつからここにいたの」
「さあ、九つかそこらからさ。おめえこそすっかり冷えてるじゃねえか」
 そう言って、男は吉蝶を抱く腕により力を込めてやった。
「ねえおまえさん、昼間も来てたでしょう。一体どうしたの。あたしが店に入ってからは数えるほどしか会いに来てくれなかったくせに」
「そりゃおめえ、俺の借金のカタに売られた女房に合わせる面なんてありゃしねえわさ。けどよ、おめえが危ない目に遭いそうになって、それだけじゃねえ、男と一緒に棲んでるなんて聞いちゃ――
「それで来てくれたの。大丈夫ですよ、その人えらく腕っ節の強い人だもの、あたしは危ない目になんか遭やしないよ」
「まさかその男に手込めにされたりは……」
「しませんよそんな」
 吉蝶は慌てて、頬を染めた。
「その、その人は何ていったらいいのかしら、その、男の体しか知らない人だもの――。女を知らなくて、知るつもりもなさそうな人なのよ。あたしになんか見向きもしないよ」
「けどよ、男にゃ違いねえんだろう。おめえ、気をつけてろよ。無理やりどうこうされるなんてことになんじゃねえぞ」
「分かってますよ」
 そうしてしばらく抱き合って物語しているうちに、どちらからともなく気持ちが濡れてきて、どこか屋根の下へと入りたくなってきた。
「まさか店に戻るわけには……」
「そこの角に納屋がある。狭そうだけどよ、仕方がねえ」
 男に手を引かれて、吉蝶はその納屋の中へと脚を踏み入れた。雑多なものがいろいろに積み上げられていて、確かに狭いが、人二人横になれるくらいの隙間はある。十分である。
 さすがに地べたではなんであるので、むしろを一枚敷き、
「竜」
 男は吉蝶をその上に押し倒した。
 男には、吉蝶と一つ部屋で寝起きしている蛇骨への嫉妬でもあったか、吉蝶の体をあしらう手つきはやけに荒っぽくせっかちな風であった。しかし吉蝶には何だかその男の嫉妬心が新鮮で、嬉しくさえ思えた。婚前から、男の女遊びに対して専ら嫉妬するのは吉蝶の方であったからである。
 ひととおり事が済んだ頃には、半刻ほどのときが過ぎている。
 吉蝶は乱れた着物を直しながら、
「おまえさん、大工の仕事は上手くいってるの」
 と、尋ねた。苦笑いして、
「また博奕ばくちに入れ揚げてるんじゃないでしょうね。もうだめよ、借金返せなくなったって、売れる女房もいないでしょ」
―――
 男は、吉蝶と同じように、崩れた衣服を直している。前合わせをきっちりと戻してから、おもむろに懐から白い手拭を一枚取り出した。
―――
 じっと、その手拭を見つめている。
「どうしたのおまえさん」
 吉蝶は不思議そうに男を振り返り、小首を傾げてその顔を覗き込んだ。男の表情は、暗闇なのではっきりとは分からなかったが、何か、思いつめているように見える。
「おまえさん」
「すまねえ竜」
 男は、掠れた声で言った。
「まただわさ」
「え?」
 男は心を決めて、手にしていた手拭を広げて両端をそれぞれの手で握り締めると、吉蝶を振り向いた。
 どんな顔をしているのかは分からない。
 だがそこにははっきりと肌で感じ取れるほどのものがあった。それはひとくちに言うなら、殺気とか――そういうものである。
「おまえさんっ」
 吉蝶は、思わず、体を後に引いた。
「何を――
「お竜、おまえ俺のために死ね」
 言い切った。
「運がなかった――辻斬りの侍の顔なんか見ちまったばっかりにだ。運がなかったんだと思って死ねっ」
「いやっ」
 体を掴まえようとする男の腕から、吉蝶は逃れた。
 しかし狭い納屋の中のことである。逃げ場など、はなからなかった。すぐに腕を鷲掴みにされ、引き寄せられて、首に手拭を引っ掛けられる。
 咽喉元に触れた冷たくざらついた生地の感触に、全身つま先から指の先まで怖気が立つ。
「いやっ。いやあっっ!! おまえさんやめて――
 そう訴えたところで、男の手が止まるはずもなく、にわかに咽喉に手拭がくい込んで、
 うぐ、
 と、吉蝶は声にならない声を上げて、もがき、両手で締め付けられている首を掻きむしった。
「許せよお竜っ」
 男は一度力を緩めたら決心が鈍るとでもいうように、もがき苦しむ吉蝶の姿から顔から目を背けるようにして、ただ両手で手拭の端を強く強く引いた。
 ――そういうところが、この男の悪党になりきれない、せいぜい博奕を打つくらいしかない小悪党たる所以ゆえんなのであろう。悪党として肝心ななところが抜けている。
 突然納屋の外から、その戸に何か叩きつけるような甲高い物音がして、男ははっと顔を上げた。
 がンッッ
 一度では済まず、
 ガンッ、
 ガンッ、がンッッ、
 ガンッッッ、
 何度も何度も叩きつけ、そしてさらに高い音とともに、ついに幅広の鈍く光る刀身が戸板を勢いよく突き破って、納屋の内側にその姿を現したものだから、
「ひっ――
 男は驚いて肝を冷やした。
 手の力が、緩んだ。
 その拍子に吉蝶の体は前に崩れ、まだ意識があったので激しく咳き込んだ。
 中に突き出ている刃が、一旦外から引き抜かれ、姿を消す。そして同時に、
「びびったか馬鹿野郎」
 と、意外なほど冷静な声が、した。
 風穴の空いた戸が荒々しく開かれ、そこに蛇骨が右手に握った蛇骨刀の刃を肩に乗せて、息を白くしながら立っている。戸を叩き破ったのはそれか。
 ずかずかと中に入り込んできて、遠慮のかけらさえ見せずに男の腹を思いっきり蹴飛ばした。それで男が悲痛な呻き声を上げても、表情一つ変えない。それどころか、納屋の荷に埋もれるように倒れた男の頬を、蛇骨刀の腹でぴたぴたと叩いて、
「甲斐性のねえ糞野郎が、店の女に手なんぞ出せると思ってやがんのか。あ? 傀儡女の体はな店の持ち物なんだぜ。田宮の女なら体は田宮のもんだ。どうこうしたきゃ金積んで請け出してからにすんだな」
 そのまま蛇骨刀の腹が男の顔を殴り飛ばす。
 骨と鉄のぶつかる鈍い音が聞こえて、男は横に倒れ込んだが、痛めつけられた代わりに蛇骨刀から自由になることができた。ほうほうの体で納屋から外へ這い出し、ようやく立ち上がってふらつきながら駆け出す。
「あっ」
 吉蝶が、その後を追った。
「待って」
 さっき首を絞められて弱っているせいで足取りはよろついている。蛇骨がさらにその後に続いて――というより蛇骨は男を追うつもりはないらしく、吉蝶の背についていく。
 一つ辻を過ぎ、もう一つ先に辻が見えてきたところで、その陰から急に誰かが飛び出してきた。その人影に、前を行く男はひどく驚き、きびすを返して逃げようとしたが、人影の方が足は速く、追いついて、腰の大刀を抜くと男の背に袈裟懸けに浴びせた。人影は、武士のようであった。
 男は声もなく雪の積もった往来に倒れこんだ。
「おまえさん!」
 吉蝶が慌てて駆け寄ったときには、すでにこときれている。吉蝶は赤く染まった雪の上にへたりと座り込むと、まだ背から生々しく血を流している男の頭を膝に抱えてうなだれた。
 後から歩いて追いついた蛇骨は、
(てめえを殺そうとした男だろうがよ)
 と思って少し呆れた風に、溜め息をつく。
「なあ女、てめえの亭主、金に困ってたんだろ」
―――
「辻斬りの武家に金で買われたってところかよ。ていよくてめえが外に出てきたもんだから、いい機会だと思ったんだろうな」
 吉蝶は、何も答えずただ、小さく肩を揺らしてうつむいている。
「てめえを殺そうとした男のために泣いてやるってか」
「泣いてなんか」
 後の蛇骨を振り向いた拍子にこぼれた涙を、手の甲で拭い、
――雪が目に入っただけですよ」
 そう言ってまた、うつむく。
「起きてたのね、兄さん……」
「俺ゃ昼寝しようがいくらでも寝られるけどな、眠りは浅えんだ。だいたい、女の嘘くらい見抜けねえと思ってか」
 では、昼間の嘘にも元から気がついていたのか。
「ずっとあたしの後をついてきてたんですか。初めから――
 蛇骨は答えず、代わりに、そのとき目の前に舞い落ちてきた小さな雪の粒を手のひらに受けて、
(またでけえ雪が目に入ったもんだな)
 そんなことを考えながら、
「帰るぞ」
 短くそれだけ告げた。
「でもこの人が――
「ばかっ、生きてる人間が先だ」
 いかにもいくつもの戦場を駆け抜けてきた傭兵らしくそう言って、蛇骨はふと吉蝶の足元に目を遣った。裸足である。雪にじかに触れた足の裏が真っ赤になっている。
「女てめえ、履物はどうしたよ」
「え?」
 吉蝶も今やっと気がついたらしい。納屋に忘れてきたのか、男を追っている途中で脱げてしまったのか……
―――
 蛇骨は、しばらく逡巡しているようだったが、やがて、
 ふう、
 と深く息をつくなり、吉蝶に背を向けてしゃがみ込んだ。吉蝶がわけが分からずにきょんとしているのを、肩越しに振り返って言う。
「おぶってやるって言ってんだ」
「でも」
「いいんだよ」
 何が、いいのか。
 吉蝶には分からなかった。分からなかったが、しかしともかく素直に蛇骨の言葉に甘えることにして、その思いの外広い背中に体を預けると、刹那蛇骨の体が強張ったのが分かる。それを取り繕うように、ぼそぼそと蛇骨は何やら呟いている。
「亭主の亡骸も後で始末しねえとなぁ。まさか朝まであのまんまってわけにゃいかねえや」
 吉蝶の両脚を抱えてしっかりと背負うと、何となくぎこちない調子で立ち上がり、店の方へと足を向けた。

「おお寒い」
 雲はなく日が差しているのに、青空から雪が降りてきていて風は冷たい。煉骨の横で蛇骨が身震いしている。
「で、結局あの女はどうなるって?」
「堺の遊女屋に引き取られることになった」
 と、煉骨は答えた。
「結局無理に辻斬りを捕まえなくてもいいってことにするとよ。だから辻斬りとは引き合わせねえ。それで長男の家には、月舟法師からこう言っておく。吉蝶は堺のなにがしいう遊女屋に行くことになったが、このことを知っているのは私と手下数名、その他にはあんたらだけだから、吉蝶の身にもしものことがあれば遠慮なくあんたらを疑うぞ……とまあそんなふうにな。それで長男家も吉蝶にはそう簡単に手出しできないだろう」
「ふうん」
「明日には吉蝶は堺に向けて発つらしいぞ」
 煉骨は隣りを歩く蛇骨を見ずに言った。
「その護衛まではしなくていいってお達しだ。他に頼むとよ。蛇骨、てめえの仕事も終わりだ」
 よかったじゃねえか、と言葉を継ぐ。
「苦手な女から離れられるぜ」
 だがその言葉はどこか蛇骨の様子を伺うようにして、発せられている。
「そーだな。仕事が終わるならめでてーや」
――吉蝶に別れが言いたきゃ、別に顔ぐらい見にいったって構わねえぜ」
「そんなこと言って、兄貴の方が会いたいんだろあの女に。会っていちゃいちゃしてーんだろ」
 蛇骨はからかうように笑う。
「俺は別に会いたかねえや」
「てめえにしちゃ珍しく、仲良くやってたんじゃなかったか」
「仲良くなんか」
 ふん、と蛇骨は鼻を鳴らして、
「一度だってした覚えはねえよ。俺はあの女を“珍しい女”って言っただけだぜ」
―――
「あんな女と一緒になんているとよ、調子が狂うばっかりだ――
 自嘲するように言った蛇骨の声が、何だか空しく雪の舞い散る晴天に溶けていく。
「狂ったのか」
「狂った」
――見てみたかったな、そりゃ」
「あんな格好見せるなんて、ぜってーにごめんだね」
 蛇骨は苦笑したが、あんな格好、というのが何を指しているのかまでは煉骨には知れるはずもない。なあ兄貴、と、煉骨を呼ぶ。
「俺ぁよ」
 どこか遠くを見るように目を細めて、語る。
「普通の男と違ってさぁ、女陰なんかただの赤ぇ肉の塊だと思ってんのよ。野郎とヤルのがたまんねえ体になっちまってるのよ。どっか男としてひずんじまってるのよ。頭ん中だってそうさ。人並みじゃいられねえ。いられねえけど、でもさ、俺はそういう歪んじまって人並みじゃねえ俺が好きで好きでしょうがねえんだ」
「だから何だ」
「だから」
「いっっ!」
 煉骨がいきなりおかしな声を上げて、その場で体を引きつらせる。何かと思えば、蛇骨が、隣りから手を伸ばして煉骨の尻をやたら卑猥な手つきで撫でまわしている。
「てめえ往来で何しやがるっ」
 その手をはね除けて煉骨が声を大きくすると、蛇骨はあっはっはと快活に笑った。
「いい調子だ」
「何がいい調子だ」
「もとが歪んでる俺の調子が狂うとさ、変にまともになっちまうってことよ。でも俺はまともな俺なんかより、まともじゃねえ俺の方がずっと好きさぁ」
 晴れ晴れとした顔でそう言うので、煉骨は呆れた。
「少しまともになったくらいでちょうどいいんじゃねえのか」
「ごめんだね」
 また蛇骨は明朗に声を立てて笑って、煉骨はやはり呆れたけれど、ここ最近では久しぶりにいい顔で笑う蛇骨を見たような気もした。
 晴れた空から降りてくる雪の数は、次第に少なくなってきている。あるいはこれが今の蛇骨の心の内かと、考えて、しかしすぐにばかばかしくなった。

(了)