紫野

 ふと人の気配を感じて、横を見ると、一体いつの間に傍に寄ってきていたのか少年がにやにやと笑いながら、こちらを見ている。
瑞生ずいしょうさま」
 少年は、こちらの名を呼んでさらに擦り寄ってくる。
「またそんなことして」
 意地の悪い顔をして、
般若湯はんにゃとうもほどほどにしないと、和尚さまに叱られるよ」
 と、囁くように言った。
 少年はまだ十三か十四くらいの年頃で、声変わりもしていないし、容姿も一向に男臭くならず色白で、ほっそりとしている。
 着物は女物に近いような薄い色の小袖で、同じ色の括袴くくりばかまにそれらの下には緋の薄物を身につけ、髪型も童形どうぎょうである。すなわち結髪しておらず、肩の下辺りの長さで切り揃えたお河童頭をしている。
「…おまえも飲むか」
 と、瑞生は少年に尋ねた。
 すると少年はにわかに嬉しそうな顔をして、
「少し」
 と言って瑞生の横にあぐらを掻いて座す。
 それを瑞生が、行儀が悪いと言ってたしなめたが、少年は聞く耳を持たないようであった。瑞生が手渡した小さな女向きのさかずきを、受け取るとすぐさま口に運ぶ。
「おいしい」
 そう言って、空になった盃を瑞生に差し出してくる。
紫野しの、おまえな」
 瑞生が呆れたように溜め息をつく。
「おまえ、その歳で酒にとりつかれたかよ」
「瑞生さまには言われたくない」
「なんの、俺の身体の中にはな、赤いものではなくてこれが流れていてな」
 と、瑞生は自分の盃を持ち上げて見せて、
「時々こうして口から足してやらんと、足りなくなるのさ」
 などといい加減なことを言っては、また盃を口に運ぶ。
 そして干した盃にまた般若湯を注ぐついでに、紫野が差し出している盃にも瓶子へいしの先を傾けてやる。
「紫野、おまえこそあんまり飲むと和尚さまにばれて叱られるぞ」
 この瑞生という男は、姿形から僧侶であるらしいとは分かるのだが、どこかそうとは思わせないぶっきらぼうで、無愛想な雰囲気を漂わせている。紫野という少年とは冗談を交わしたりしているようであるが、元来はもっとずっと口数が少ない男なのではないだろうか。
「酒は臭いが残るんだ。口を吸われたりしてみろ、すぐに分かるからな」
「知ってら、それっくらい」
 紫野は瑞生の小言などどこ吹く風、という様子で、ただ美味そうに盃を干している。
 ちびちびと般若湯をすすって動く桜色の唇が、なんだかなまめかしい。
 それを瑞生は横目に盗み見て、
 ずきり
 と、胸がうずくような心持ちがして、表情を曇らせた。
「……」
 少年の、紫野、という名は瑞生が与えたものであった。
 半年前、少年がこの寺にやってきたときのことである。
 今よりももっと細い、骨と皮ばかりの体つきで、空腹におぼつかない足取りをしてようやく寺に辿り着いた少年は、住職から世話を申し付けられた瑞生が器に大盛りにした粥を差し出すとようやく安堵して笑みをこぼした。
「おまえ、名は何と申す」
 と、瑞生が尋ねると、少年はうつむいて、口を閉ざしてしまう。
「どうした」
「…ないんです」
「ないとは、名がないということか。そんなことはあるまい。生まれたばかりの赤子ややじゃあるまいし」
 もう一度瑞生が名を問うと、少年は面白くなさそうに口先を尖らせた。
「この間までは、臥竜がりょうって呼ばれてたけど、もうその名では呼ばれたくないもんですから……」
 浮かぬ口調で呟く。
 それを聞いて瑞生は思わず、
「何ゆえ」
 と問いかけそうになったが、すんでで思いとどまり、
「そうか……」
 ただゆっくりと頷くばかりにした。
 この子にはこの子の事情というものがあろう。それにこの様子では、初めてつらをあわせたばかりの自分に、そう簡単にことをあからさまにしてくれるとも思えない。
 臥竜とは、すなわち大地に横たわり天に昇る日を待つ竜の意である。良い名だが、子供にとっては少し良すぎるのかもしれない。
 粥を食い終わると少年はやおら瑞生に向き直り、かしこまって居住まいを正した。
「どうした」
「あの……」
 少年は、少しためらってから、自分をこの寺に置いてはくれまいかと言った。
「おまえ親はいないのか」
 と瑞生が尋ねると、いないと答える。
「…戦でか」
「さあ、物心ついた頃にはもう……」
 他に身寄りは、と訊いても、いないと答えた。
「庭掃きでも何でもしますから、置いちゃもらえませんか」
「そう言われても、そういうことは拙僧の一存では決められん。和尚さまにお尋ねしてみなくては駄目だ」
 というわけで瑞生が寺の住職のもとへ赴き、ことの是非を問うと、
「親も身寄りもない子なのだろう。放り出すわけにもゆかぬよ」
 との答えが返ってきた。
 さらに、
「名がないというなら、瑞生、おまえが考えておやり」
 とも言われた。
 そこで瑞生は、紫野、という名を考えたのである。
「紫野?」
 少年は、その名を与えられて怪訝な顔をした。
「女の名前みたいだ」
「女の名だ。体の弱そうな子供にはな、女名おんななをつけると丈夫に育つんだ」


「もう少し」
 と言って、また紫野が盃を差し出してきた。
「だめだ」
 瑞生は、ぶっきらぼうにそう言い捨てて、自分の盃にだけ般若湯を注ぎ足す。
「けち」
「ケチで結構」
「ちぇ」
 紫野はつまらなそうに舌を鳴らし、盃を床に置いてその場にごろりと寝転がった。
「行儀が悪いぞ」
 言葉に反していさめる気など全くないようなぼんやりとした口調で、瑞生がそれをたしなめる。
 紫野は瑞生に背を向け、膝を丸めて低い声を吐いた。
「知らない」
「……」
「……」
 ぐっ、
 と咽喉を鳴らして、瑞生が盃の中身を一息に干す。
 空になった盃に、また般若湯を注ぐ。
 干す。
 注ぐ。
 どこを見ているのか分からない眼で、外の景色を眺める。
 と……
 ふいに、紫野の曲がっていた膝が再び伸びて、くるぶしが瑞生の膝の辺りに触れた。
「……」
 瑞生は無言でそれを押しのけ、また、外の景色へと視線を戻す。
 盃を干して、指で唇を拭う。
 紫野が、
「…あんまり飲むと、立たなくなっちまうから」
 ぽつりと、呟いた。
「なに腰が立たんようになったら、いざって帰るさ」
「そんなこと聞いてない」
「……ふん」
「魔羅の話だよ……」
因果骨いんがこつの話かよ」
「そうだよ」
 紫野は少し苛立ち始めているようであった。
「そんなに飲まないでよ」
「……」
 瑞生は少し考えてから、
「好きなものは仕方がないじゃないか」
 と、言った。
 すると紫野がますます面白くなさそうにする。
「瑞生さま、あんたヘンだよ。酒なんかよりずっと気持ちいいってのに」
 そして、耐えかねたように言い捨てた。
「意気地なし」
 ふいに瑞生の手のひらが、先ほど押しのけた紫野のくるぶしを撫ぜた。
「紫野」
 急に淫靡な手つきで肌をまさぐられて、紫野の体がぞくりと震え上がる。
「紫野、そう、意地の悪いことを言うなよ」
「……弱虫」
「なぜ拙僧に」
 と咽喉の奥からしぼり出すようにして瑞生は問うた。
 険しい顔つきで、紫野の脚に置いた手のひらを、くるぶしから膝の方へと袴の裾を割って滑らせていく。
 紫野は情のこもらぬ声でただひと言、
「瑞生さまは優しい」
 それだけを告げて、それからそっと、開いていたまぶたを下ろした。
「和尚さまが知ればきっとお怒りになる……」
 瑞生は口ではそううわ言のように呟きながら、自ら紫野の肌を背から掻き抱き、性急にさぐり尽くそうとする両の手の動きを止めることができずに、呻いた。


 声を洩らさないように、体の下に敷いた瑞生のころもの袖を強く噛み締めながら、紫野はときおり下肢をひくつかせては、熱のこもった息を吐いている。
 肢体を重ねて背中が二つ、身は一つ。
 瑞生はためらうように幾度も体を揺らすのをやめては、溜め息をつく。
 その度に紫野の細腕が瑞生の首根っこを掻き取って、強く抱いた。
 そして何度目かのその時、
「稚児だなどと言ってまだ子どもだのに……」
 と、瑞生は沈んだ声音で、吐くようにして呟いた。
 それを聞きとめた紫野は薄くまぶたを開き、口に咥えていた衣を離した。
「俺は瑞生さまが思ってるほどまともじゃない」
 体の中で蠢くものに紫野がたまらなそうに身をよじる。
「あ…ン」
 衣を口から離してしまったせいで、こらえ切れなかった声が洩れ出す。
「そこ」
 そこがいいのだと紫野が言った。
 そこを責められているうちに達してしまうのだというようなことを言った。
「瑞生さまはやさしい」
 語尾が息の音に消える。
 紫野は、のぼせたような様子で囁いていた。
「世の中には、やさしくない人間の方が多い」
 それからまた切なげに喘ぎ出した紫野の頭を、瑞生は右手を伸ばしてそっと撫ぜてやった。
 するとまた紫野は、独り言のように、
「人は変わっちまう。和尚さまだって……」
 と、消え入りそうな声で呟いた。


 茶屋の二階で真昼間から酒を飲んでいる姿がある。
 無精して薄くカビの生えた柑子のような頭になった若い放下僧と、水干姿の曲舞女まで連れ込んで、蛇骨と霧骨と睡骨は、それぞれに盃やさかななど手にしたりして、あぐらを掻いている。
 特に蛇骨は、放下僧と向き合って、だいぶ飲んでいるらしく目元を赤らめて視線を正面に据わらせている。放下僧も蛇骨もそれぞれ掌中に小さな賽ころを一つずつもてあそんでおり、膝元には濡れた盃が置かれていた。
 脇の曲舞女が、手にしたつづみをぽんと叩き、
「それでは次の一番」
 と、通りのよい声で言った。
 それを聞いて蛇骨と放下僧が賽ころを握った手をおのおの己が背に回したのを見届けてから、曲舞女が、軽快な拍子をつけて鼓を叩きながら、歌い始める。
「ひとつふたつは良いけーれど」
 みっつ三日月禿げがある。
 よっつ横にも禿げがある。
 いつついつかの禿げがある。
 むっつ昔の禿げがある。
「旦那旦那旦那の禿げいくつ」
 と、歌い終えたところで蛇骨と放下僧が背に隠していた賽ころを膝の前に投げる。
 出た目は、蛇骨が五、放下僧が三。
 ぽん、と鼓が打ち鳴らされた。
「旦那の二つ負けでござい」
 と曲舞女が言うが早いか放下僧が瓶子へいしを取り上げて、その中身を蛇骨の持ち上げた盃になみなみと注いだ。
 そして今度は放下僧と曲舞女が揃って、
「それ」
 と、手を打って、
「吐くまで飲め飲め吐くまで飲め飲め吐くまで飲め飲め吐くまで飲め飲め……」
 そのように手拍子をつけて掛け声をかけてくるのを前にしながら、蛇骨は注がれた一杯目を一息に飲み干し、空になった盃をまた放下僧に向けて差し出す。
 するとすぐに二杯目が注がれるので、それも一気に空ける。
 つまり賽ころの目数が大きかった分だけ酒を飲まされているのであろう。
 蛇骨が二杯目も空にしてしまうと、放下僧は掛け声をやめ、しなを作るように蛇骨の左膝を手の指で、とん、と叩き、
「おつよい」
 と、最後に誉めてころす。
 ちなみに蛇骨だから放下僧が相手をしているのであって、普段はこういう役は曲舞女の方がすることになっているのではないか。芸人というのもなかなか楽ではない。
「芸人も楽じゃねえよな……」
 横の方で、霧骨が放下僧を眺めながら妙に感慨深げに呟いている。
「蛇骨が潰れたら、睡骨、おまえ次だかんな」
「俺かあ?」
 睡骨は手の中の盃をちびちびと舐めていて、その隣りの霧骨は酒ではなく、酒肴を白い覆面の下でもごもごと口と箸を動かしては食っているようであった。
「いーじゃねえか、いい女に『お強い』なんつって膝つついてもらえるぜ。たまんねえだろ」
「そりゃあま、たまんねえな。言っとくが女の方が先に潰れたら取って喰っちまうぞ」
「俺にも一人よそから調達してきてくれるんなら好きにしろよ」
 霧骨はまた蛇骨が負けて飲まされている手拍子に合わせて自分も手を叩きながら、覆面から覗く目元をにやつかせた。
「自分で買いにいけよ」
「ああん睡骨の旦那のケチんぼ」
 霧骨もだいぶ酔いが回っているらしい。
「それでは次の一番」
「ちょっと待った」
 曲舞女が歌い出そうとしたのを制して、蛇骨が、
「次から負けた方が一枚ずつ脱……」
 とそこまでしか言っていないのに、横の方から、
「野郎ざっけんなっ」
「何が悲しくてヤローの裸なんか見ながら酒飲まにゃならねえんだ」
 などと霧骨と睡骨の野次が飛んで来たので、蛇骨はつらを膨れさせて、曲舞女はそれを見て笑った。
「では次から負けた方は倍飲むということにいたしましょう」
 ぽん、と鼓を鳴らす。
 と……
 そのときであった。
 蛇骨は、部屋の隅の引き戸を薄く開いたそこに茶屋の女がかしこまっているのを目に留めた。
「もうし……」
 女は中の五人に呼びかけてくる。
「蛇骨さまとはどの御仁でいらっしゃいましょう。お会いになりたいというお客さまが下においででございますが……」
「客?」
 蛇骨が、その整った形の眉を不審そうに歪めて見せると、女は不安げな顔つきになった。
「お帰りになっていただきましょうか」
 蛇骨はかぶりを振る。
「いやいい。出る」
 腰を上げて着衣の裾を直していると、
「助っ人がいるなら呼べよう」
 と、霧骨が半分からかうような調子で、へへへと笑いかけてくる。
「誰がてめーらみたいな酔っ払いの手助けなんぞ」
 ちっ、
 と舌を鳴らして、蛇骨が部屋の外の階段を降りていってしまうと、残された四人はその背姿を追うようにほんのしばらく視線を宙に投げていたが、すぐに霧骨が気がついて睡骨の脇腹を肘でつついた。
「ほれ睡骨、次」
「分かったよ」
 睡骨が盃を置いて、さっきまで蛇骨が座っていたところまでにじってゆき、そこにあぐらを掻き直す。
 芸人たちの方でも、
次郎佐じろうざ、あとは私が」
 曲舞女と放下僧が座る位置を入れ替えて、放下僧の方が鼓を握る。曲舞女は睡骨に向かって丁寧に床に掌を着いてお辞儀をし、先ほど睡骨が霧骨と話していたことを聞いていたのか、
「芸の少ない曲舞女にございますゆえ、扇よりもいっそざるの具合に自信がございます」
 と言って、にこりと笑ってみせる。放下僧も、ははと笑いながら鼓をひとつ、ぽんと打った。
「ご客分、園枝そのえだを酔わせるおつもりでござれば、盃の十杯や二十杯では到底叶いませんぞ。それよりも花を少しはずんでやった方が、舞々女の酒の回りは格段に早くなろうというもの……」


 階段を降りると、店の土間に真っ黒な塊のようなものが見える。
「俺に会いてえってのはてめえか。どこのもんだ」
 蛇骨が、少し離れたところから低い声で問いかけると、黒塊からにゅうと伸びた首がやおら振り向き、蛇骨の姿を認めてから立ち上がる。
 三十路を過ぎたくらいの男であった。
 無精髭は多少生やしているものの剃髪しており、薄汚れた墨染めの衣に袈裟をつけている。男は感慨深げに蛇骨の顔をまじまじと見つめ、
「こんなに早く……や、生きているうちに見つかるとは思わなんだよ。これは御仏のお導きかもしれんなあ」
 と、呟き、
「南無釈迦牟尼仏……」
 合掌してそのように唱えたりまでするので、蛇骨は敵意を持った相手でなかったことに安堵した様子ではあったが、いぶかしむように表情を曇らせる。
「誰あんた」
「…拙僧のことなどもうすっかり忘れたか」
 男は少し悲しそうに目を伏せた。。
「まあそれならそれでいい。昔おまえを逃がしてやった先から行方を辿りながら探してきたんだが、随分遠くまで…東国の方にまで足を延ばしているんだな。悪党じみたことをしているとは聞いたが、どうりですっかり男臭くなって……」
「用があるなら、手短に頼みたいもんだがね」
 蛇骨はあからさまに胡散臭そうにして、右手を懐に突っ込んで腹の辺りを掻いたり、いかにも面倒臭いのが来たと言いたげにしている。
「すまんつい、久方ぶりに顔を見て浮かれてしもうてな」
「…用事は」
「半年前に往生なされた和尚さまの、今際いまわのきわのお言葉を伝えにきたつもりだった」
 しかし、と、男は溜め息をつく。
「その様子では、ありのままに伝えたところでおまえを惑わすばかりであろうからやめておくよ」
「……」
「和尚さまは御年七十一の大往生であったぞ。本当に……あのとき、無理におまえを連れて西方浄土に旅立ってしまわれそうになったその前に、拙僧がおまえを寺から逃がしてしまってしばらくはそれはだいぶ気を落とされていたが、それでも死ぬよりはな……。おまえと心中してしまわれるよりはずっとよかった」
 この頃、僧侶といえども、西方浄土への生まれ変わりを信じて海に身を投げたりするものが少なくはなかったという。
「今際のきわまで、和尚さまはずっとおまえを寵愛していらしたし、まだ子供だったおまえを連れて死のうとしたことを、可哀想な目に遭わせてしまったとしきりに詫びていらした。初めはあんなに慈しんでいたのに、どうして一蓮托生などと望んだのかと嘆いてもいらした」
「……」
「おまえの言ったとおりだ。人は変わる。おまえも変わった」
 少なくとも、拙僧が女名をつけてやった甲斐あってか見目は随分とな……と、男はまた少し寂しそうに呟いて、うつむき、傍らに置いていた笠や荷物を取り上げて身支度を始めた。
 蛇骨が、
「どうしてまた、あんたが俺を探しに」
 と、尋ねると、男は頬をゆるめ、
「拙僧も和尚さまと変わらん。今日まで存分に思い出の中に生きた」
 そのように答えた。
「どういう意味だ」
「会いたかった」
 男は、
「二度と会うまいよ……」
 きびすを返して、店を出ていく。
 後に残された蛇骨は、
「……」
 何か思い出しているのか、それとも思い出せずいたずらに考えをめぐらせているのか、ただ八の字に曲げた眉を眉間に寄せ、あらぬところを見遣りながら、懐の中など掻いているばかりである。

(了)