春疾風

 酒は越後のみ酒で、さかなは山から採ってきたばかりの春の山菜の煮付けである。
 その煮付けを箸でつつきながら、それはそれは嬉しそうな顔をして蛮骨が笑っている。
「ほんっと、さ」
「うん」
 黒田左兵衛くろださへえは、くっと酒をあおりながら話半分に相槌を打って、
「本当に、何だ」
 と蛮骨に聞き返した。
 蛮骨はとても上機嫌な様子で、
「いやほんとにさぁ、女が作った飯はうめえったらねえよなぁ」
「…おまえ、馴れ馴れしいぞ人の嫁に」
「もうさ、普段は男所帯な上に合戦上でも飯作んのは野郎ばっっかだろ? こんな煮付けなんてほんと久々に食った」
「俺だって客をもてなす時ででもなきゃ、こんなもの食わせてもらっとらんぞ」
「でも普段から嫁さんが飯作ってくれるんだろ。殊勝なひとじゃねえか、美佐みささんは」
「うちは貧乏だからな。下男や下女を多く雇えるほどの余裕がないだけだ」
 黒田が溜め息をつく。
「…なあ左兵衛、おまえお侍さんになってもう結構経つくせに、まだ儲からねえのか」
「ああ」
「領地もらってんだろ?」
「多少はな。だがなにぶん、お屋形やかた様もそう余裕があるというわけではないのでなぁ」
「ふうん、そういうもんか」
「そういうもんだ」
「お武家さんてもっと儲かるもんだと思ってたのにな」
「世の中そう甘くはないぞ。おまえも仕官先を探すようなら気をつけろ」
「誰が仕官なんかするかよ。俺たちはもっぱら現金払いだ」
「…現金ってそりゃ、おまえたち仕事を貰うだけで一苦労だろう」
「まあな。頭の固いお武家さまはいくらでもいるぜ」
 蛮骨は杯の中身を口に流し込んで、
「ったく、金で払ってもらってどこが悪いってんだかな……」
 と、何か嫌なことでも思い出しているのか、ぶすっと膨れた面をして見せる。
「……」
 その蛮骨の顔が、何だか妙に年相応で、なんだやっぱりまだこいつも可愛らしいものじゃないか、と黒田は思った。
 そこでせめて何か慰めの言葉でもかけてやろうかと口を開きかけた、その時であった。
 部屋の戸がそっと開いて、そこから年の頃三十ばかりの細身の女が顔を出した。
 女の右目の上の黒い眼帯がぱっと目に入る。
「お魚をお持ちしましたよ」
 女はそう言ってしずしずと中の二人の方へ歩み寄ってくると、床に膝をついて手にしている干し魚の炙りを蛮骨と黒田のそれぞれの前に置き、それから手元にある瓶子へいしを取り上げて、
「どうぞ」
 と、二人に順に酌をするとまた立ち上がって部屋を去ろうとする。
「ああ美佐」
 それを黒田が呼び止めた。
「はい」
 呼び止められて、美佐はもう一度床に膝をつくと、
「何か」
 と、聞き返してくる。
「いや、煉骨はどうしてるんだ。奴も飲まんのは構わんから話にくらい付き合えばいいものを」
「まったくだぜ煉骨の野郎、たまにはうまいもん食わせてもらやいいのによ」
 蛮骨も横で頷いている。
「美佐さん、あいつ今何してんの」
「…副長さんなら、さっき誰ぞと打刀の話に熱くなっていらっしゃいましたよ」
「刀?」
「ええ、腕のいい刀鍛冶を知らないかと言っていらしたようですけど」
「ふうん……」
 蛮骨があまりぴんとこないような相槌を打っているところに微笑みかけつつ、美佐は今度こそ立ち上がって部屋を出て行った。
 黒田が少し呆れたような声で言う。
「火器ばかりかと思えば、鋼にも興味が湧くのかあやつは。まったく勉強熱心だな」
「……なあ、左兵衛よぅ」
「何だ」
「美佐さんてさ」
「うん」
「美佐さんて煉骨好みの女だよなぁ」
 と言って蛮骨があまり上品でない笑みを浮かべたのを見て、
「ちょっと待て蛮骨、お、おおまえ何を言って……」
 黒田がとても分かりやすく動揺して顔を真っ赤にした。
「まさか今俺たちが酒を飲んでいる間にもあの二人が宜しくやってるとでも言いたいんじゃないだろうな」
「誰もそこまだぁ言ってねえって」
 けぇど、と、蛮骨は意地の悪い顔をした。
「美佐さんいい女だし、三歩下がって夫の影を踏まず、って感じだしよ、煉骨の野郎も懸想けそうくらいしてたっておかしくはねえよ」
「まあ、三歩下がって影を踏まないかどうかはともかくな」
「煉骨みたいなのはよー、あれだぜ、普段は大人しそうに見えても一旦たがが外れちまうと押さえが効かなくなるってやつ」
 蛮骨がかかか、と笑い声を立てた。
「今ごろ糞真面目な顔して美佐さん口説いてたりしてなぁ」
「…冗談が過ぎるぞ首領。もう酔いが回ってきたのか」
 と言いつつあからさまにそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた黒田を見て、蛮骨がさらににやにやと笑いながら手の中の杯を干す。
「気にならねえのか?」
 蛮骨が黒田の双眸を覗き込んでくる。
「ならねえんだ」
「……いや、そりゃ、な、ならないわけではないが」
「そうだよな、気になるよな」
 そうこなくっちゃ、と、蛮骨は、悪戯いたずらを思いついた子供のように笑って、
「だったらさ」
 ずい、と黒田の方に向って身を乗り出してくる。


「副長さん、あの二人が一緒に飲まないかとおっしゃっていましたよ。ご一緒されてはいかが」
 という声が背から聞こえたので、さっきまでそぞろ語りをしていた男と別れて一人、ぼんやりと夕焼けを眺めていた煉骨はついと後を振り返った。
「美佐殿」
「お酒が飲めないわけではないのでしょう」
「いいんです、俺は。大兄貴がつぶれたときに連れて帰らなきゃなりませんから」
 なんで俺が、とは自分でも思うものの、である。
「うちに泊まってくださってもよろしくてよ。狭い所ですけれど」
「…美佐殿、あまりそういうことを男におっしゃらない方がよろしいかと存じますが」
「その美佐殿というの、やめていただけないかしら」
「……」
 煉骨は少しの間うつむいて何か考えているようだったが、
「あの……」
 不意に頭を上げて、美佐の方に体ごと向き直り、言った。
「俺のことを副長と呼ぶのをやめていただけるのなら、俺もそう呼ぶのはやめます」
「副長ではご不満でした?」
「逆です。貴女あなたにそんなふうに呼ばれるとどうにも背中がむず痒くて」
「そう。でしたらやめます。だからあなたもやめてくださる? 私も、殿、なんて呼ばれるとどうもむず痒くなりますから」
「分かりました」
 煉骨が頷く。
「それより、美佐さん、俺たちだって一応男なのであんまりその、簡単に家に泊めたりしては黒田殿が気を悪くされますよ」
「でもあなたはお泊りになりたいと思っていらっしゃるのでしょう」
「そんな、それは……」
 煉骨はまた僅かにうつむいた。
「意地の悪いひとですね。お気づきでしたか」
「だって…私だっていつも思っていることですもの。今でこそこんな体になってしまいましたけど、あなたのような人となら一晩でも二晩でも……」
 美佐は、眼帯で隠れていない方の目を少し細めて、うっとりとしたような表情になった。
「旦那様は、こういうことはもう駄目ですから……でもあなたなら」
「黒田殿は、お相手をなさらないんですか」
「あの人はいつも忙しがって、私のことなんか……」
「……」
 煉骨は、意を決したように顔を上げて、真面目な顔つきをすると、
「美佐さん、本当によろしいのですね」
 と、念を押すように問う。
「私は構いませんよ」
 美佐が微笑むと、煉骨は嬉しそうに頬を緩めた。
「では……」
「でもこの近くでは部屋で飲んでいる二人に悟られます。せめて裏の山くらいまでは行きましょう。暗くならないうちに」
 ね、そうしましょう、と、美佐が色気のある笑みを浮かべながら小首を傾げるようにして見せる。


 まず火縄銃の銃身を立て、巣口すぐち(銃口のこと)を天に向ける。
 巣口から火薬を入れ、カルカなるかしの棒で銃底に突き詰める。
 火薬は黒色火薬で、硝石を五、硫黄、木炭各二・五の割合でそれぞれを粉末にして混ぜる。この火薬を、火縄銃に用いる場合特に玉薬たまぐすりという。
 玉薬を突き固めたら、次は巣口から弾丸を入れて底の玉薬としっかりと接するようにカルカで突く。
 弾丸は主に鉛製で、鉄製は珍しい。
 射撃訓練の場合であれば、紙製や味噌を紙に包んで丸めたものなども使用したという。
 弾丸の大きさは直径半寸(約十七ミリ)程度で、球形。
 弾を入れたら銃身を水平に戻し、銃身底の隣にある火皿というものに火薬を少量乗せる。これを口火薬といい、玉薬と同じ黒色火薬だが、玉薬よりももっと細かい粉末のものを用いるとよいとされる。
 火皿には一旦火蓋なる蓋をかぶせておき、次に火のついた火縄を火縄挟みに挟んで固定する。
 引鉄ひきがねを引くことで火皿の上に火縄挟みに挟まれた火縄の先が落ちて口火薬に着火し、その爆発によって隣の銃底の玉薬に火がつき、弾丸が飛び出るとそういう仕組みである。
 火縄を準備したら火蓋を開き、銃を構えて頬だめし、銃身の上部に鋳付けられている筋割すじわりという小さな穴から、巣口の上部に付いている見当みあてなる鉄片を覗き見ながら狙いを真っ直ぐに定める。
「もう少し、脇を締めて」
 美佐の手が、銃を構えた煉骨の背から二の腕を押さえる。
「そう、そのまま」
 言いながら、今度は煉骨の体の正面に回ってきて、筋割を覗く目から肩幅ほどに開いた足の先までを一見する。
「…筋割を覗く時に片目を閉じるのはおやめなさい。片目で見当を合わせるにしても、きちんと両目を開いて」
 煉骨が美佐の言葉に従って、双眸を開きもう一度筋割を覗き直して照準を合わせた。
「いいでしょう」
 放ってよし、と美佐が言い終えたところで煉骨が引鉄を引く。
 ずん
 と重い衝撃が煉骨の身体を駆ける。
 玉薬のはじける音がして、五間(約十メートル)ばかり先でうず高く盛られた土山に据えられていた的の右上隅が、
 ぱぁんッ
 と着弾に乾いた音を立てた。
 弾丸は、訓練用の紙製弾丸であったので、貫通はせずに跳ね返って地面に転がり落ちる。
 美佐がじろりと睨むように煉骨を見る。
「…腕が鈍りましたね」
 煉骨は銃を下ろしてばつが悪そうな顔をした。
「合戦場に出たときに、しくじって死ぬかもしれないのはあなた自身なんですよ」
「……」
「まあ、あなたは火縄銃こればかりを専ら使うというわけではないにしろ……百発百中とはいかなくてもせめてもう少し、的の中心に当てるように心がけなさい」
「はあ」
「それから見当を合わせるときのことですけど、どうしても片目をつぶる癖がつくようでしたら、しゃか何か向こうが透ける布切れを片目の上に巻いて、もう片目で筋割を覗くようになさいな」
「やはり両目を開いていなければ駄目ですか」
「片目では目が疲れますよ。特に片目を閉じるともう片目のひとみがより大きく開きますから、特に明るいところでは疲れやすいし、見当が合わせにくくなります」
「ははあ」
 頷きながら、煉骨はセセリを手に取って火皿の口に詰まった口火薬の残りかすを掻き出している。
「では両目で見当を合わせるのと、片目で合わせるのとどちらが良いとか、悪いとか……」
「そうですね…その辺りは人によって都合も違うとは思いますけど」
「そういうものですか」
「ええ……私のように片目が潰れた者はもう片目でしか合わせられませんけれど。というか、そも片目では的と己の身体との間の長さが正しく測れませんから、実戦はもう……」
「…では、もし右目が無事なら、貴女は今でも女細人しのびとして黒田殿の横に立っていると?」
「そうは申しません。私は旦那様がお仕事でご不在の折に代わって家を守らなくてはならないんですから」
 さ、もう一度撃ってみましょうか、と、美佐が身に付けているくくり袴の裾や、髪を纏め上げて桂包みに包んでいる手拭の結び目などを摘んで直しながら、言って、
「では次もたち放しで」
 煉骨の傍から一歩後ろに下がる。
 立放しというのは、立った姿勢で射撃を行うことを言う。
「あの、美佐さん」
 しかし煉骨は、美佐を追うように一歩前に踏み出してきた。
「何か?」
「その前に、一度貴女が撃つところを拝見させてもらえませんか」
「それは、別に構いませんけれど…でも急がないともう日が落ちそうですよ。私がやるより……」
 確かに、黒田家の裏手の山野は西日が差すから夕方でも暗いということこそないが、それでも、もうお天道様はかなり大きく傾いている。
「いえ、是非」
 だが煉骨はかぶりを振った。
「そこまでおっしゃるなら……ああ、そうだ、では早合はやごうでもよろしいかしら」
「構いません」
 煉骨が頷くと、美佐はおもむろに懐から胴乱どうらんを掴み出した。
 胴乱、というのは方形の小さな鞄のようなもので、蓋を開けると中には二寸(約六センチ)ばかりの長さの細い木の筒が並べられている。
 この木筒が早合で、中には弾丸と玉薬があらかじめ詰めてある。
 美佐は、早合を一つ手にとると、煉骨から受け取った銃を立て、巣口からそれを差し入れる。
 そして軽く銃身を縦に振ると、
 すこん
 と、早合の底が銃底にぶつかる音が聞こえた。
 それ以上早合をカルカで押し込むことはせず、すぐに火皿に口火薬を盛り、火縄を調節する。
 ここまでが、たった十数えるほどの間である。
 速い。
 と、脇で見ている煉骨は舌を巻く。
 まともな人間なら早合でも二十数えるくらいの時間はかかるものだが、さすがにこの女は速い。
 なにせカルカを使わないから速い。
 カルカで押し込まずに撃つには、早合を銃身に落とした時よほど具合よく落とさなければ上手くいかないはずである。
 具合よく落とすには、慣れと勘しかあるまい。
 美佐が、銃を構えて照準を的の中心に合わせ、静かに引鉄を引いた。
 地に沈むような低い衝撃音と玉薬が弾ける音が混じり、火皿の周りにねずみ色の煙が立ち昇る。
 僅かに遅れて、
 ぱんッ
 と、前方で的に着弾した音が聞こえた。
 この乱世に、女だてらにそこまで銃を扱う技量や勘を養うのは、なまなかなことではあるまい。
「…あらいやだ」
 美佐が困ったような声を上げた。
「私も腕がなまったかしら」
 いいえ、と煉骨は首を横に振る。
「見事でしたよ。的の中心からほんの一寸ほどしか外れていませんでした」
「…だから、これが戦場だったらどうするのです」
「えっ?」
「心の臓を狙ったものが一寸も外れては、敵が命を取り留めることだってあるでしょう。甘いですよ」
 そうねえ、と、美佐は難しい顔をする。
「もっと何丁も鉄砲を揃えて、一斉に射撃をするとか、そういうことならまだしも……でもまだ鉄砲は値が張り過ぎて、よほど力のある国主ででもなければそういうことは無理ですね」
「…確かに、今の値で百丁も揃えようと思えばかなりの高額ですからな」
「もし、そういう風に、火縄銃なんか何百丁も揃えて合戦するようになれば…合戦の仕方自体が変わりますよ」
 美佐ははっきりとそう言い切った。
「今以上に消耗戦になって、前線の兵に死人が増えます」
 火皿に溜まった火薬の滓を、ふっと吹いて落とすその表情が厳しい。
「さ、煉骨さん、もう一度」
「はい」
 煉骨は美佐から銃を受け取ると、銃身を立て再び弾込めをした。
 それから持ち上げ頬だめする。
 双眸を開いて両目で筋割を覗き、照準を合わせる。
 肘は開きすぎないように。
「よし」
 という美佐の声を合図に引鉄を引く。
 発砲音が響いて黒煙が火皿から昇る。
 ほんの僅か遅れて着弾音。
「…ああ」
 美佐が少し頬を緩めて笑った。
「今のはなかなか良かったです」
「ありがとうございます」
 軽く礼をして頭を上げれば、美佐の視線が煉骨を真っ直ぐに捉えていた。
「…何か」
「ねえ、煉骨さん」
「はい」
「あなた、そろそろ身を固めるおつもりにはなりませんの?」
「ええっ!?
 煉骨がよほどびっくりたらしく、身を後に引くほどにして驚いた顔をした。
 いきなり何を言われるかと思えば、りにも選ってそういう……
「いきなり何をおっしゃいますか」
「だってあなたももう二十歳と半くらいにはおなりでしょう」
「それは、確かにそうですが俺はまだそういうつもりはありません」
「そう。残念だわ、もしよければ里の若い娘の一人や二人、いくらでも嫁に取っていただければと思ったのだけれど」
 美佐が口に手を当てて、ふふ、と笑う。
「あなたほど熱心で才のある人、諸国行脚させておくには惜しいんですもの」
「せっかくのお言葉ですが、俺は今のところ浪々としているのが自分でも意外なくらい性にあっているので」
「では仕官もなさらないのね」
「……」
「良いお役目を与えてくださるお武家様もいらしてよ」
 と、美佐に言われて煉骨は、少し何か考え出したようであった。
「………」
 視線を落として黙り込んでいる。
 美佐が、そういう様子の煉骨を見てばつが悪そうな顔をした。
「ごめんなさい困らせるつもりじゃなかったのだけど……やっぱり、火薬の話でもしている方が楽しかったかしら」
 煉骨がかぶりを振る。
「そりゃ、まあ火薬の話の方が楽しいですが」
「……」
 そうですよね、と、美佐が頷いた。
「いつだったか正月に黒田殿にお世話になったときも、暇があれば是非貴女とそういったお話をしたかったんですがね」
「ああ、あの時は何かと騒動しましたから」
「ええ」
「私も、今は一線を退きましたけれど、そういう…火縄銃や火薬のお話は今でも楽しくてしょうがないんですよ。でも今の若い人には火器をく扱うような人は少なくて……旦那様も相手をしてくださいませんし」
「俺も似たようなものです」
「そうですか……火縄銃なんて特に、今後は多く取り入れられていく火器でしょうに、なかなかどなたもそういうことを理解してくださらないんですものね」
 溜め息交じりに美佐が笑う。
「美佐さん」
 と、煉骨が美佐を呼んだ。
「本当に今日ご指導頂けて良かった。貴女の早合も見せていただけて」
 屈託なく煉骨は言って、
「そろそろ戻りましょうか」
 黒田殿や大兄貴に変な勘ぐりされても困ります、と、苦笑いをして見せた。
 特に大兄貴は、下世話な話が好きで好きでしょうがねえからな。


 さてそれでは、山を下りて屋敷へ戻ろうかと、そういうことになった。
 もう、あと僅かで日も暮れる。
 今はまだかろうじて西日の中だが、すぐに宵闇に辺りは包まれるであろう。
 ざあっ
 と、一陣の烈風が煉骨と美佐の身体を撫でていく。
 肌寒い。
 もう弥生に入った時季とはいえ、夕方の風は未だ冷たいものを含んでいる。
 不意に、

 かぁ

 と、からすの声が、少し離れたところで湧いた。
 そして羽音が。
 何羽もの烏が、射撃用の的の据えてある土山の向こうでいちどきに飛び立って、赤く焼けた空に黒い塊となる。
 あまり、気味のよい光景ではない。
「……」
 すると帰り支度をしていた美佐が、不意に怪訝そうな顔をした。
「…煉骨さん」
「はい」
 煉骨は烏の飛び立った元を、じっと見つめている。
 美佐が煉骨に尋ねた。
孫子そんしをご存知だったかしら」
「…ええ、一通りは」
 そう、と美佐は頷いてから、
「これを……」
 懐から胴乱を取り出して、煉骨に向かって放り投げる。
「開けて手前半分は鉛球です」
 煉骨は受け取った胴乱から鉛球の早合を一つ取り出すと、胴乱は蓋をして懐に仕舞い、早合は手にしていた火縄銃の巣口に押し込んだ。
 さらにカルカで底まで突き入れ、銃身を水平に戻して口火薬を盛る。
 火蓋を閉めて火縄を調節しておく。
 そうして煉骨が射撃の用意をしている間、美佐は隣で袴の紐に差した短刀をいつでも握れるように腰を沈めて身構えていた。
 煉骨が用意を終えたと知るや、
 たっ
 と女の割に随分と早足に駆け出して、土山へと向かう。
 煉骨もそれに続いたが、銃を抱えている分足が遅くなる。
 美佐の方が先に着いて、土山の端に身を潜めるようにしてその向こう側を伺う。
 ややあってから煉骨もやって来て美佐の横に並んだ。
「…孫子が言うには」
 美佐が低い声で呟いた。
 煉骨がそれを継ぐ。
「鳥が一度に飛び立つような事があれば、伏兵に注意せよと……」
「そう」
 美佐が頷く。
「鳥が飛び立った元には、何か潜んでいるかもしれないということです」
「ええ」
「何かしら……」
 口をつぐむと、辺りは風と、その風に揺れる野の草の音ばかりになる。
 ざわざわ…
 ざわ、ざわ……
 ざわ………
 そればかりである。
 しかしよくよく耳を澄ませてみれば、時折、
 さ
 ざざ
 と、人の草を踏む音がかすかに交じる。
「…向こう側にまだいるみたいだけど」
 美佐が腰刀の柄を握る。
「まさか私たちの様子を伺っていたのかしら」
「……あの正月に攻めて来た輩ですかね」
「有り得ます。覗きなんて、あの腐れ爺の考えそうなことです」
「だとすれば目的は……」
「さあ、偵察のつもりかもしれませんし、もしかしたら宮本円蔵みやもとえんぞう朔太朗さくたろうを狙って里に近づいているのかもしれませんけれど。でもまだあの爺が相手とは限りませんよ。油断なさらず」
 煉骨が頷くと、美佐は腰を落として身構えたまま、土山の向こうへと身を躍らせた。
 すると、いきなり姿を見せた美佐に驚いたか、
 たっ
 と、土山の陰に隠れていた二人の男が美佐と煉骨に背を向けて駆け出した。
 山陰に向かって駆けていくのではっきりとその容姿を捉えることができない。
 逃がすかよ。
 煉骨が美佐の隣で銃を構える。
 火蓋を開き、両目で照準を合わせる。
 敵との距離は十七間(約三十メートル)ばかり。
 身体のどこかに当てて動きを止めればいい。
「……」
 煉骨は、逃げる二人のうち、後を走る小柄な方の男に狙いを定めて引鉄を引こうとした。
 人差し指に、ぐ、と力を込める。
 その時であった。
 隣でその二人をじっと見つめていた美佐が、はっと目を見開いた。
 叫ぶ。
「煉骨さん撃ってはだめ!!
 今更。
 もう遅い。
 引鉄を引く指を止められない。
 だがこの時になってようやく煉骨もはっとした。
 ……あれは。
 今、自分が狙いを定めている小柄な男の背で、何かが揺れたのに気がついたのである。
 黒くて細長いもの。
 引鉄を引けば、ばねによって火縄が口火薬の上に落ちる。
 あれはお下げか。

 ばちんッ

 と火縄挟みが火皿の上に落ちて、
 ずん
 と、弾薬の弾ける衝撃が身体を走った。
 立ち昇る黒煙が、春の烈風に吹かれて掻き乱れる。


 重い銃声がこだまして、煉骨が銃を下ろした時にはもう、前を駆ける二人の男のうち小柄な方の男は、地面に倒れこんでいた。
 煉骨と美佐は顔を見合わせるなり、駆け出す。


「おい首領、大丈夫か!」
 黒田が、背で銃声とともに倒れた蛮骨に駆け寄って抱き起こそうとすると、
「…当たっちゃいねえよ大丈夫だ」
 蛮骨はそれを振り払って身体を起こす。
「あー、びっくりした」
「ばか、驚いたのはこっちだ……」
「それはこっちの科白せりふ!!
 急に怒鳴られて蛮骨と黒田が子供のように首をすくめる。
「何してるんですか二人して!!
 煉骨が火縄銃を抱えて二人の元へ駆け寄ってきて、
「もう少しで弾が当たるところだったんだ……」
 気が抜けたように大きな溜め息をついてその場にしゃがみ込む。
「でも当たらなかったじゃねえか。煉骨、おまえ修行が足りねえんじゃ……」
 蛮骨が笑いながら言いかけると、不意にその眼前に黒い影が立ちはだかる。
 美佐であった。
 美佐は蛮骨に平手打ちを一つ食らわせると、言った。
「わざと外したから当たらなかったんです!!
「……」
「旦那様も、どうしてこんな馬鹿なことを」
「いや、それはその……」
 黒田が言いにくそうにしている横で、蛮骨がぶたれた左頬をさすりながら、
「だって美佐さんと煉骨がこそこそしてるからよ、そんなことされたら気になるじゃねえか」
 と、言った。
「朔太朗に聞いたら、二人して裏山の射撃場に行ったっていうから」
「だからって……」
「男と女がこんな刻限に人目を忍んですることといえば一つしかないと思ってたのになぁ」
 それを聞いて煉骨が赤くなった。
「大兄貴と一緒にしないでくれ!」
「ちぇっ、つまんねえの」
「…つまるとかつまらんとかいう話じゃないでしょうが。死ぬかもしれなかったんだぞ」
「死ななかったからいいんだよ」
 横で、
「よくありません」
 と、言ったのは美佐である。
「仮にも人を束ねる男が二人も揃ってそんな調子では、手下てかにしめしがつきませんよ」
 すまん、と黒田がばつが悪そうに頭を掻いた。
 蛮骨の方は、叱られても黒田ほどはこたえていないらしい。
 おー痛ぇ、と相変わらず頬をさすりながら、
「確かに三歩下がって夫の影を踏まねえようなひとじゃねえや」
 などと呟いて、そして何だか少し残念そうな顔をすると、やれやれと尻の泥をはたいて立ち上がる。
 と、
「っと……」
 よろ
 と蛮骨が足をふらつかせたところを、煉骨が慌てて立ち上がって脇を掴んで支えてやる。
「おい大兄貴」
「ああ、悪ぃ悪ぃ」
「どうかしたのか」
「大丈夫だーって、ちょっと飲み過ぎただけで……」
「……酒か」
 そう言われてみれば……確かにこの男、酒臭いような気がする。
 こんな刻限じかんからどれだけ飲んでやがんだこの野郎。
「いや美佐さんの飯がうまいからさぁ、つい酒に手が伸びるわけよ」
 何が、美佐さんの飯がうまいから、だ、この酔っ払いめ。
 蛮骨が、かかか、と笑い声を立てている横で黒田が何やらしどろもどろと美佐に言い訳をしているのが聞こえる。
 なんであなたがついていながら、だとか、私が信用できないのですか、と美佐が滔々とうとうと文句を垂れているのに対していちいち、
「それは」
 とか
「だから」
 とか、言っては、
「すまんすまん。もうしないから。いや本当に」
 などと美佐に向って手を合わせては拝まんばかりにしている。
「…まあとにかく、お命がご無事で良かった」
 ということを、美佐が安堵の溜め息混じりに言ってようやく小言が止むと、黒田も大きな溜め息をついた。
「今日ばかりは俺たちが悪かったよ。悪かったから、なあそろそろ屋敷に戻らないか……」
 そう言って、半分以上山陰に隠れてしまった赤い太陽に、目を細めて一瞥をくれる。
「…分かりました、旦那様」
 美佐が頷く。
 黒田が先に立って歩きだせば、美佐は当然のようにその斜め後ろに寄り添った。
「ほら大兄貴、俺たちも行きますよ」
「ああ……」
 相変わらず煉骨に脇を抱えられたまま、蛮骨も黒田と美佐の後をついて行く。
「いいよなぁ」
「何がですか」
 蛮骨が煉骨の顔を見て、それから前を行く二人を見て、もう一度煉骨の顔を見て、それからそれはそれは不満気に口を尖らせる。
「…別に」
「何が言いたいんだ」
「なあ煉骨」
 蛮骨は、答える代わりに今度はにやりと口元を歪ませてみせる。
「で、おまえほんとは美佐さんのことどう思ってるわけよ」
「…あのですね」
「ただの師匠せんせいだなんて野暮なこた言いっこなしだぜ」
 言えよ、と蛮骨がまた口を尖らせて煉骨の脇腹をどつかんばかりにつついた。
「痛ぇな……」
 ったく酔っ払いが。
 このまま言わなきゃ、一発ぶん殴るとでも言い出しそうだ。
「分かったよ」
「おう、言え」
「言うさ」
 軽く、煉骨が蛮骨の方に顔を寄せる。
「二度は言わねえよ」
 ざわ
 と草木がざわめいた。
「実は……」
 丁度煉骨が口を開いたそのときであった。

 びゅッ

 と、烈風が一陣。
 なんとも具合よくその風に、煉骨のその後の言葉を掻き消されてしまって、
「……」
 それで蛮骨が、
「…おい煉骨、今のなしだ。風で聞こえなかったじゃねえかよ」
 そんなふうに文句を言ったところで、
「二度は言わねえって言ったぜ」
 煉骨はいつものように連れない様子であって、ただ蛮骨の脇を抱え引きずり、前を歩く二人を追ってゆくばかりなのである。

(了)