山桜

「蛮骨の兄貴に女ができたんだ」
 ぶすっ、とした顔で、蛇骨は言う。
「信じられるかよ、え?」
「俺に言うな」
 睡骨がつまらなそうに返事をした。
「いいじゃねえか、大兄貴もまだ若ぇんだ。女の一人や二人…夫婦になるってわけでもねえだろう」
「でももう二度も逢引しにいってんだぜ」
「んで、今日で三度目ってことか」
「…なんで分かるんだよ」
「大兄貴が嬉々として出掛けていったからな、さっき」
「……」
 ふん、と、蛇骨が鼻を鳴らす。
「騙されてんだよ、兄貴は」
「騙される?」
「相手の女にだよ。ったく、やらせてくれる女にゃ目がねえもんな」
「そりゃ大兄貴らしい……だが大兄貴だって、女に騙されるほど間抜けじゃないだろう」
「知らねぇや。今まで騙そうとした女がいなかっただけじゃねえのか」
 それは一理あるな、と、睡骨は心の中で頷いた。
「しかし案外、本当に恋の季節だってことかもしれねえぞ」
 と、睡骨が言うと、
「てめえの口から恋だなんて言葉が出てくるたぁ思わなかったぜ」
 蛇骨が口元を歪めて、毒づいた。
「あーあ、やだねぇ、春になると子供が作りたくなるってか? それじゃ山の獣と同じじゃねえか」
「辺りがぬくくなると男も女も股がうずくってか」
「…あーあー、やだやだ、春になると普段頭の硬ぇやつほど頭があったかくなって、品のねえこと言い出しやがる」
「どういう意味だ、てめえ」
「そのまんまてめえのことだよ。下品だなぁ、ったく」
「年中品の無い野郎に言われる筋合いはねえ」
「正直なだけだっつーの。俺の口と股はよ」
「てめえの方がよほど下品だ」
 憮然として、睡骨が言う。
 それに答えるように、
「おめえにゃ負けるよ」
 彼方を向いたまま蛇骨が言うと、途端に、
 ひょう、
 と、一陣の風が二人の体の周りをすり抜けていって、蛇骨と睡骨の二人は、宵闇の中で腰掛けている濡れ縁の上で揃って身を震わせる。
「寒っ……」
「冷えるな、今夜は」
「人肌が恋しいよなぁ、ちくしょう」
 という、まんざら冗談でも無さそうな蛇骨の言葉に睡骨は肩をすくめた。
「残念だったな、大兄貴はどこの馬の骨とも知れねえ女と逢引中で」
「ふん、仕方ねえよ、兄貴は兄貴だ」
「そんなこと言ってると取られちまうぞ」
「……」
 どこか意地悪げな顔をした睡骨の横で、蛇骨が、口をつぐんで黙り込む。
 少し口を尖らせて、ふてるような顔をする。
「兄貴は女なんかにゃ惚れねえよ」
 ふう、と息をついた。
「恋なんかしねえさ……」
「一体どっから出てくるんだ、その自信は」
「…これが自信あるように見えるかよ」
「……」
 睡骨が目元と口元を歪めて妙な顔をする。
「おまえ何が言いたいんだ」
「別に。なんも言いたくねえ」
 再び、風が吹いた。
 冷たい風が二人の身体の表面を撫でていくのと同時に、そこに纏わりついてくるものがある。
 蛇骨は口をつぐんだまま、顎を持ち上げて、前方を見上げた。
 二人の腰掛けている濡れ縁が面している中庭には、古い、それほど大きくはない山桜の木が一つ、たっぷりと花をつけて立っている。
 そこから、ほろほろと舞い落ちる桜の花びらが、風に乗って再び宙に舞い上がり、二人の身体の傍まで飛んできては、その身体に纏わりつくのである。
 美しいと思えば、美しい光景である。
 心のあるものなら歌の一つくらいは詠めるような、桜散る情景と、さらさらと己の身を撫ぜるその花びら……。
「あぁ……」
 気だるい声を、蛇骨が上げる。
「やっぱり俺、出掛けてこようかなぁ」
「…どこにだ」
「知らねえ…兄貴がいるところに行ってくる」
「なんだ、やっぱり気になるんじゃねえか」
 さも重たそうに、蛇骨はゆっくりと腰を上げた。
「うん……」
 あまりしっかりとしない足取りで、外に向かう蛇骨の後ろ姿を、怪訝な顔をして睡骨は見つめている。


 蛮骨がその女と出会ったのは、半月ほど前のことである。
「お兄さん……」
 そういう声とともに、くっ、と着物の袖を引かれた。
 辺りは宵の口で、景色は群青色ぐんじょういろに染まっていて、薄暗い。
 だから蛮骨が振り返ってみても、袖を引いた者の顔はよく見えなかった。
 ただその者が女であることだけは分かる。
「どうですか」
 女が、小さく口を動かして言った。
 女は蛮骨の袖を引いた手とは逆の腕の中に、丸めたむしろを抱えている。
 …下っ端の遊女か。
 蛮骨は、黙って女の手を取った。
 そのまま、その手を引いて歩きだすと、引きずられるようにして女はついてくる。
 下っ端の遊女、と蛮骨は言ったが、つまりこの女は夜鷹の類に入る遊女だということである。
 特定の宿でではなく夜道で男の袖を引き、客を取るような遊女を後世では夜鷹という。
「おまえ、名前は」
 蛮骨は、女の方は見ないままで訊ねた。
「…みの」
「おみの、か」
「はい……」
 細い声で、女が返事をする。
 夜鷹がむしろを抱えているのは、野外で客と寝るためだ。
 その客と寝る代金は、決して多くはない。
 女の手を引いて川沿いの道をしばらく行ったところで、その川の上に渡された小さな木橋が見えた。
 その橋の手前まで来ると、蛮骨は女を連れて道沿いの土手下の河原へと下り、橋の影へと潜り込んだのである。
 これが一度目であった。
 そして二度目は五日前、三度目が今である。
 場所は、一度目と同じ橋の下だ。
「こんなに何度も同じ人に買われるのは初めて……」
「おまえが、また逢いたいって言ったんじゃねえか」
「でも……」
「本当に来るとは思わなかったかよ」
 言ってから、蛮骨は腕の中にいる女の口を己のそれで塞ぐ。
「ん……っ」
 と、女が、声にならない声を上げる。
 夜露に濡れないようにと河原の上に敷かれたむしろの上に、蛮骨が脚を前に投げ出すようにして座っていて、その脚を女が膝で跨いで半分中腰のような姿勢で、蛮骨に口を吸われている。
 そういう体勢だから女の着物の裾は大きく割れていて、蛮骨の手が時折そこに差し込まれては腿の内側を撫でたりしていた。
「なあ、おみの」
 みのと、顔をぎりぎりまで近づけたままで蛮骨が言う。
 手がみのの内腿を撫でさする。
「おまえの肌はいいな…特にここは触り心地がたまんねえ」
「そんなこと……」
 言いかけたみのの口を、また蛮骨が塞ぐ。
 今度はゆるく唇を開いて、相手の口の中へ舌先を差し入れる。
 熱っぽく舌を絡みつかせながら、みのの開かれた脚の間をそろそろと撫でている。
「…最初のときだって…握った手が良かったんだ、触った心地が……」
 度々唇を離しながら、蛮骨が言うと、同じようにして、
「そんな…あたしの手なんか……畑仕事で、ん…荒れてるし……」
 と、みのも言い返した。
 言いながら、緩やかに腰が動いている。
 蛮骨の指の先が脚の間の感度の良いところを撫で擦るたびに、みのの体が揺れる。
「働いてる女は嫌いじゃねえ」
 蛮骨は言う。
「こんなふうにさ……」
 言いながら、また女の太腿に触れた。
「日に当たってなくて、生白い白粉おしろい塗り込めたようなのもいいけどよ……硬くて、骨ばっててざらざらに荒れてても、働いてそうなった手は結構好きだぜ」
「……」
「俺は高い遊女も好きだし、どこにでもいるただの女も好きなんだよ」
「…欲張りだね」
「ああ」
 蛮骨のたなごころが内腿に吸い付くように動く。
「……」
「…みの」
 蛮骨が可笑しそうに笑ってみのの顔を覗き込んだ。
「撫でて欲しいところがあるなら言えよ」
 もどかしそうな顔をして、太腿を揺り動かしているみのに向かって言う。
 みのが睨むように蛮骨の顔を見た。
「……」
「言えよ」
 みのが蛮骨の首元に自分の頭を埋めてくる。
「意地の悪い人ねぇ……」
「女に意地悪すんのは男の趣味なんだよ。よく言うだろ、好きなものほど苛めたいって」
「……」
 みのはしばらくの間逡巡した後、蛮骨の耳元に口を寄せて、息の音だけで、
「……さね」
 と、囁いた。
 蛮骨が、太腿から再び湿り気のある陰部へと指を戻す。
 陰核の周りを中指の先がいじくる。
「ぁ…やだ兄さん、もう……」
「分かってるよ」
 中指の先が漸くその真ん中に届いて、くるまれたままを何度か触ってから、
「……っん」
 器用に同じ手の人差し指で中身を剥き出させて、さらにそちらまで指は伸びた。
「…痛いか」
 蛮骨がそう訊けば、
「……少し」
 と、みのが答えたので、蛮骨は一旦手を離してから、もう一度包まれた上から指を滑らせる。
 小刻みに指を動かして、撫で回して弄りながら蛮骨はもう一度、みのの口に己のそれを重ね合わせた。
 口の中で喘がれながら、その喘いでいる口内にはこちらの舌を差し込む。
 中指の脇に親指を添えて、二つの指の腹で陰核を挟んで刺激する。
「んん……」
 みのが蛮骨の唇から逃れるように、小さく顎を仰け反らせた。
「あ、ぁ……」
 蛮骨が脚の間から手を離して、さっとみのの体を自分の下へと組み伏せる。
 慣れた様子で、身体を繋げていった。
 奥の奥まで逸物を押し入れて、それから腰を使い出す。
 溜め息をつくように、
「あぁ……」
 と、みのが声を上げる。
 逸物を舐めるように絡み付いてくる内側の粘質が、蛮骨の腰の辺りを刺すような感覚を寄越してくる。
 あんまり長くもちそうにないな、と蛮骨は思った。
 身体をぐっと前に倒して、みのの首筋辺りに唇と舌を這わせると、みのの方も蛮骨の背に腕を回してくる。
 そのまま腰を揺すりたてる。
 蛮骨の口からも荒い息が漏れていた。
「ん……っ! ……!!
 これでもかというくらいに中を引っ掻き回されて、みのが声にならない声を上げながら蛮骨の背中に爪を立てる。
 足の先から脚の間までが痺れ上がってしまいそうだった。
 男を受け入れてこれほど心地の良いのも久しぶりであった。
 手抜きの無い情事をしてくれているのだと思うと、無意識に脚の間の肉が締まった。
「は……っ」
 蛮骨が息を荒げて、強く腰を打ちつけてきた。
 みのがその蛮骨の半身を抱き締めて、お下げの垂れている肩の辺りに顔を埋める。
 それから十回も動かないうちに、蛮骨は動きを止めた。


「痛っ……!」
 突然みのが上げた声に、蛮骨は荒い息をついたまま顔を持ち上げた。
 すでに絶頂を通り越していたが、まだ緩く腰を使っている。
「おみの?」
 女の内側の過敏なところをゆっくりと擦り上げながら蛮骨は言った。
「痛い…離して」
 みのが顔を歪めながらそう呟いたとき、その右腕ががくがくと痙攣しているのに気がついて、蛮骨は身体の動きを止めてやおら背後を振り返る。
「…どんな男でも」
 そこに立っていた男が、ゆっくりと口を開いた。
「たいてい隙ができるのは、小便の時と、つっ込む時と、あとは、いく時だもんな」
 男が、蛮骨の身体の下にいるみのを睨みつける。
 蛮骨が男の名を呼んだ。
「蛇骨……」
 蛇骨は返事をしなかった。
 その代わりに、蛮骨の背に回されていたはずの、みのの右手首を掴んでいる手にさらに力を込める。
「いっ……」
「こんな細腕で兄貴が殺せると思うなよ」
 震えるみのの右手の中から、からん、と音を立てて小ぶりの懐刀が地面の上に落ちる。
 蛮骨が、静かにみのと身体を離すと、みのの着物の裾を大雑把に直した後で自分の裾を整えた。
 それから、蛇骨に向かって言う。
「離してやれ」
 蛇骨は何も言わず、握っていた手を開いた。
「…おい女、てめえどうして兄貴を狙った」
「……」
 蛇骨を睨み返すみのの頬の上を、つぅっと涙が伝っていく。
「あんたたちだって、うちの人を殺したじゃない!」
「うちの……」
「あたしの夫さ! 戦に駆り出されて、味方だったあんたたちに殺されたんだ」
「……」
 蛇骨は蛮骨の顔を振り返って見た。
 蛮骨が蛇骨の後を引き継ぐようにして言う。
「…この間の戦か」
「そうだよ」
「……」
 蛮骨は、目を閉じて大きく息をついた。
「…そうか、じゃあ俺たちが殺したな」
 蛇骨が何か言いたそうな顔をしていたが、蛮骨は取り合おうとはしなかった。
「さっきの刀は…草の中にでも隠してたのか」
「ああそうだよ……ひと月も待ったのに、こんな……」
 あの初めに袖を引かれたときから、この女はこういうつもりだったのか。
「蛮骨の兄貴」
 蛇骨が蛮骨を呼ぶ。
「殺さねえのかよ」
「俺の命を狙った奴を、ただで死なせるほど俺は親切じゃねえ」
「……」
「女は売れば金になる」
「…外道」
 そう呟いたのは、みのだった。
 すぐに蛇骨が目角を立てる。
「黙ってろ女! だいたいてめえこそ、いくら惚れた男が死んだからってすぐに違う男に身が任せられる、その神経が知れねえぜ」
「っ……」
 みのは、何も言い返さなかった。
 何か言いたそうではあったが、口から出かけた言葉を無理やり飲み込むように俯いて、そのまま声を上げて泣き出した。


 濡れ縁に、蛮骨と蛇骨が並んで腰掛けている。
「…どうして兄貴が悪者にならなきゃなんねえんだ」
 蛇骨が抑揚の無い声で言う。
「あの戦で、味方ごと殺せって言ったのは総大将だったじゃねえか」
「しょうがねえよ」
 蛮骨が、庭の桜をじっと眺めながら言う。
「そういう役回りを押しつけられたんだ。その代わり報酬はたんと貰ったろ。それに、俺たちゃどうせ悪党だ。どう間違ったって善人じゃねえ」
「…ひょっとして、案外人がいいんじゃねえの、兄貴」
「器がでかいって言えよ」
 ぶすっとした顔で、蛮骨が蛇骨の方を振り返った。
「それより、おまえよくあの場所が分かったな」
「…あの橋の下?」
「そう」
「…いや、最初は忘れてたよ。なんせもうひと月も経ってたから。ひと月前に、兄貴があの女の手ぇ引いて…並んで歩いてた俺のことほったらかしてあそこに行ったときは、後から追っかけるのが精一杯で、周りの景色なんて覚えてなかったしさ」
「じゃあどうやって思い出したんだ」
「桜の木」
「桜?」
「ああ」
 頷いて、今度は蛇骨が庭の山桜に視線を向けた。
 つられるように、蛮骨も再び眼を向ける。
「あの橋の横に、まだ細い蕾ばっかりの桜の木があったのを思い出したんだ、この桜見ててよ」
「そういえば、そんなもんもあったか……」
「あったよ。それで、ひと月も経ったらこの桜みたいにたくさん花付けてるだろうって……」
 実際、溢れるほど花が咲き乱れていたのだ。
 その幹の陰に身を潜めて、橋脚の影の中で折り重なっている二人を見つめていた。
 息を荒くして女を抱いている蛮骨の姿も、抱きしめられて身をよじる女の姿も、見たくはなかったけれど眼が離せない。
 泣きそうな顔をして、女は抱かれていた。
 ちっとも嬉しそうでも、楽しそうでもない。
 ただ貪るように蛮骨の腕を求めるように、切なげに抱かれている。
 人肌を求めるような、すがるような声を上げて蛮骨の身体を抱き寄せる。
 やがて蛮骨の背から左胸に突きつけられた懐刀を握る女の手は、震えていて、何度もためらってからようやく、その切っ先が肉の中に埋まろうとしていた。
「…兄貴は、あの女に惚れてなんかないだろ?」
「別に……」
「兄貴は誰にも惚れたりしなくていい、女にも男にも、俺にも……」
「…蛇骨?」
「心配になるんだよ…兄貴は誰と寝ても、手ぇ抜かねえから」
「どういう意味だよ」
「いつか兄貴を持ってっちまう奴がいるんじゃないかって」
 あの女は、蛮骨に慰められていたのだろう。
 惚れた夫を殺した男に寂しさを慰められて、慰められてしまって、慰められるような扱いをされて、抱かれて、どんな思いでついに刀を握り締めたのだろうか。

(了)