昇り竜

「おーあにき……」
 うわ、と、蛮骨が飛び起きた。
 身体の上に掛けていた小袖を腹に抱えて、いくらか後ずさる。
「じゃ、蛇骨か!?
 下着一枚で、裸で夜具の上に横になっていた蛮骨の頭を、嫌な考えがよぎっていく。
「おまえまた夜這い……」
「蛮骨の兄貴」
 蛇骨の顔は、いたって真剣であった。
「浮気するなって言ったじゃねぇか!」
「は?」
「俺が合戦場に行ってる間に、よりにもよって昔の女なんかとヨリ戻すなんて~~っ!!
「はぁ?」
「しら切ろうったってそうはいかねえからな! 睡骨と霧骨が、ありゃ昔の女に違いねぇって言ってたんだから!!
「いや、ちょ、待てって。話が見えねえよ」
「笹のなんとかとかいう女!」
「…ああ、なんだあの女か」
「あの女!? あの女って何だよ!? 兄貴の浮気者~~っ!!
「どうして浮気になるんだよ、別におめえとできてるわけでもねえのに」
 憮然とした態度で、蛮骨は顔を真っ赤にして怒る蛇骨を見遣った。
 目の縁が、真っ赤だ。
 不意に蛮骨の頭の端を掠めていく記憶があった。
「本当に、みよは俺の女なんかじゃ……」
「みよって!?
「笹早の昔の名前だよ」
「なに!? 昔の名前で呼び合うような仲なわけか!?
「いやだからそうじゃなくて……」
 やれやれと、蛮骨は溜め息をついた。
 もう六年も経つのか。

 市は、いつでも活気が溢れている。
 店々は暖簾を上げ、物売りは声高に商品を売り歩いている。
 人々は品物を買い、眺め、ときには商人を冷やかしたりもする。
 そんな中で少女が一人、道端にむしろを敷いて、通りを行く人々に時折声を掛けながら商売をしていた。
 白い物売りの少女のようだ。
 白粉おしろいを筵の上に並べている。
 少女の髪は黒く、少しだけくせがあって、瞳の大きな目が可愛らしい。年のころは十四、五歳くらいに見える。
 そんな少女の可愛らしさあってか、道行く女たちのみならず男までも、少女の売り物を覗き込んでいる。
 声を掛けてきたり、からかってきたりする輩までいる。
 だが少女はそんな輩には見向きもせずに、客と見た相手にのみ愛想を振りまいて器用に商売をしているようだった。
 少女は客の相手も達者で、お世辞も諸所に挟みつつ白粉を売りさばいていく。
 昼を過ぎ、日も一番高くなったような頃、そんな少女の元に旅装束の男が一人ふらりと現れた。
「儲かってるかい、嬢ちゃん」
「ぼちぼち」
「そうかい、まあ頑張んなよ。ところで……」
 言いかけて、男は口をつぐんだ。
「…旅人さん、買わないんなら退いてくれる? お客さんが白粉見れないって」
「ああ、こりゃ、すまねえな」
 男がついと脇に避けると、その後ろに立っていた若い男が、訝しげな顔をしながら踵を返して去っていった。
「なんだ、お客じゃないのか」
 少女がつまらなそうに言った。
 旅装束の男はよいしょと背の荷を背負い直すと、そのまま、その場を去ろうと歩きだした。
 少女は、そんな男の姿をちらりと横目で見遣ってから、
「上々だぜ」
 と、周りに聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
 男は聞こえない振りをして、ただ口元だけでにやりと笑った。

 薄暗い部屋であった。
 その中に先ほどの少女と、旅装束の男がいる。
「あんまりさ、あんた俺に近づくと怪しまれるよ」
 言いながら、少女は着物の帯をほどいた。
 外では日がまだ高かったが、その部屋は陰になって光が入らない。
 少女が言う。
「奴らのねぐらは、やっぱりあの染物屋で間違いないなぁ…やたら滅多らに人が出入りしてるし、尋常じゃないぜ、ありゃ」
「確かに」
 男は答えた。
 古ぼけた煙管を手に、紫煙を吐き出している。
 とさ、と音がして、少女の身体から纏っていた小袖が剥がれ落ちた。
 腰巻一枚のその姿を見て、男が、くく、と笑う。
「目の遣り場に困るぜ、嬢ちゃん」
「何馬鹿なこと言ってやがる。それよりそこにある俺の着物、取ってくれよ」
 言いながらその腰巻も落とす。
 ほらよ、と、男が部屋の隅にあった古ぼけた墨染めの小袖を放り投げる。
「この袴もかい」
「おう」
 小袖を纏いつつ、そう答える姿を見て、男がまた笑い声を立てる。
「何が可笑しいんでえ」
「そうやって黒地の着物でも羽織ってりゃ、ちゃんと男のガキに見えるのに、どうしてそういう可愛い柄もんの小袖なんか羽織ると、女童に見えちまうのかと思ってなあ」
「言ってろ、馬鹿」
 少女…いや、少年は、悪態をつきつつも着る物をすべて身に付けると、静かにその場に腰を下ろした。
「ああ言ってやるさ。たった十一のその小せえ身体一つでここに乗り込んできて、雇えというから雇ってみりゃ、これがなかなか使えるじゃねえか。声変わりもままならねぇ、まだまだ女童にしか見えねえようなその面で」
「ありがとうよ。褒めてくれてんだろ?」
「褒めてるさ。十一で、てめえみてえにしっかり働ける奴は珍しい。喧嘩も並みの野郎より強ぇとなりゃ、いい拾いもんだぜ」
「飯のためなら、これぐらいなんでもねぇよ。ついでに、小せえだのガキだのいうのやめてくれるか。俺は人並みより小さくもねぇし、十一ならガキでもねえ」
「近頃の十一なんてまだまだガキだ。俺が若ぇ頃は、もうちっとしっかりしてたもんなのによ」
「あんたが年取ったってことじゃねえの」
「…まあ、てめえほど口は立たなかったがな」
 男が、ふう、と紫煙を吐き出す。
「明日もあの染物屋を見張れ」
「あいよ」
「そういやおまえ、聞いたことあるか」
「何を?」
「あの染物屋に、腕の立つ女がいたらしいぞ」
「女……」
「今はもういないらしいがな。惜しいことをしたさ、昇り竜の二つ名を取るくらい勇み肌で、いい女だったらしいんだ。一度お目にかかりたかった」
「…そう」
「おまえ、そろそろ女を知ってもいい年頃じゃねえか」
「……」
「早くはねぇ。いつ死ぬか分からねぇ俺たちだ、堅気から見りゃ早くても、構やしねえ」
 また、男が紫煙を吐いた。
「なんなら俺がいい女見繕って……」
 言いかけた男の言葉を遮って、少年は無理やり話題を変えるように言った。
「あの染物屋の奴ら、出入りの準備してやがる。落ちつかねえんだ、一日中。たぶん後二、三日もすれば本格的に仕掛けてくるぜ」
「…いや、まだだろう。奴らまだこっちの動きには……」
「気づいてる」
「…てめえに何が分かる」
 男の声が少し低くなったように、少年には思えた。
「ガキのくせに」
「ガキでも、もう何年と…物心ついたときからこんな世界にいりゃ、嫌でも分かるようになるぜ。それに」
「それに、何だ」
「俺の勘は当たるよ。根拠はねえけど」
「ガキの言うことに、いちいちはいそうですかと頷いてて頭が務まるか」
「務まらねえわけ?」
「務まらねえな」
「そうかい」
 少し残念そうに、少年は呟いた。
 そしておもむろに立ち上がると、黙って男の元を去ろうとする。
まさ坊」
 男が呼んだが答えなかった。
(結局俺はガキ扱いかよ)
 心の中で、男をののしる。
 それに言っとくが、俺の名前は政坊なんかじゃねえ。てめえがそう呼んでるだけだろ。
 俺に名前なんかねぇんだから。

 今の呼び名は、政、といった。
 歳は十一で、見た目はともかくれっきとした男である。
 子供扱いされるのが、何より嫌いだ。
 自分より仕事のできない大人もたくさんいるというのに、歳が幼いというだけで子供扱いされる。
 気に入らないことこの上ない。
「くそっ」
 長い髪を、後ろで一つの三つ編みに編み下ろしながら、少年が悪態をつく。
 いつもこうだ、折角俺が教えてやってるのに。
 子供だというだけで意見を聞き入れない。
 どうなっても知らねえぞ、ったく。
 と、その時……
「おーい、政」
 背後から自分を呼ぶ声がして、政はそちらを振り返った。
 仲間の一人だった。
 答えようとして、ふと、政は自分の身体の異変に気がついた。
 咽喉のあたりが、なんだか妙にいがらっぽい。
 おかしいな、と首を傾げつつも、声を出した。
「…なんだよ」
「お、政。相変わらず可愛い声…してねぇじゃねえか。どうしたんだよ声枯らして。風邪か?」
「知らねえ」
 政が、そう言って咽喉を押さえる。
 おかしいな。
 風邪なんか、引いているはずもないのに。
「まあいいや、それよりおまえ、今夜暇か?」
「そりゃ、まあ。なんだよ、何かあんの?」
「ふっふっふ」
 仲間の男が頬を緩めて笑い出す。
「何、早く言えよ、気色悪い」
「気色悪いとはなんだ。や、今夜な、女買いにいくんだよ。おめえも来ねぇ?」
「女ぁ?」
「そう、女だよ、女。絹屋に行くんだ。あそこは可愛くて若いのが揃ってるだろ」
 にやにやと、男が笑う。
「来るよな?」
 ふう、と、政が溜め息をついた。
「別に、俺女になんか興味ねえ…って、おいこら!!
 見れば、男はもうにやにやと笑った顔を作ったまま、元の方向へ駆け出しているではないか。
「じゃあ今夜、日が沈んだらお頭の荒れ屋敷の前でな。あー、愛しのお加乃ちゃん、待っててくれよ~~」
「……」
 そんな場合じゃねえだろが。
 政は、呆れてまた溜め息をついた。
 本当に、どうなっても知らねえからな。
 咽喉に手を当てる。
 それにしても、こっちもどうかしちまったのか。

 そして、げんなりとした表情で、政はいる。
 絹屋の広い座敷で、数人の男たちと遊女が酒を飲み、戯れる中に政は混じっている。
 だが、その表情たるや。
 とても女と遊んでいるとは思えないような表情であった。
「あらぁ、坊…兄さんどうしはったん、浮かない顔して」
「本当、折角美人に囲まれてるっていうのにさぁ」
 二人の遊女が、目ざとくそれを見つけて擦り寄ってきた。
 昼間売り物にしていて、嗅ぎ慣れているはずの白粉の臭いが鼻についてたまらない。
「別に」
「別にってことあるかいな」
 一人の遊女がしなだれかかってくる。
「女買いに来たんですやろ? そないな顔されたらこっちがたまりまへん」
 もう一人の遊女が、ずるい、と抗議の声を上げる。
「別に俺は……」
 言いかけたが、途中で、しなだれかかってきている方の遊女に指で唇を塞がれ、止められる。
「何野暮なこと言うてますのん」
「……」
「兄さん見たとこ相当若いし…ひょっとして筆おろしもまだですやろ」
「だったら、何だよ」
「だったら、うちが今夜敵娼あいかたになって……」
 と、そこにもう一人の遊女が割って入ってくる。
「もう、あんた何さっきから兄さん独り占めしてるのよ。ずるいじゃない」
「何言うてんの、年増は引っ込んどき」
「まだ十九よ。あんただってもう十八じゃないの」
「やかましなぁ、女は一つ年取っただけで変わるもんやの。なぁ兄さん、今夜はうちと……」
「いや、俺は……」
「ずるいってば。兄さん今夜はあたしにしといて」
「だから俺は……」
「うちやし」
「あたしよ」
「……」
 ついに、政は閉口する。
 ぶち切れるぞ、こんにゃろ。
 だから女は嫌なんだ。
 だがしかし、その時天の助けとでもいおうか、
「なんだなんだ、今夜はやけに政がもてるじゃねえか」
 酒に酔った仲間が割り込んできた。
 そして、片方の遊女を軽々と抱え上げる。
「きゃあ、兄貴はん困ります」
「いいじゃねえか、俺じゃ不満か」
「そういうわけや、ありまへんけどぉ」
 その遊女も、まんざらでもなさそうに語尾を延ばして甘えるような口調を作った。
 もう一人の遊女の方も、また別の男に腰を抱きかかえられて、抱き寄せられる。
「お加乃ちゃんも」
 昼間の仲間の男だった。
「折角会いに来たのに、それはねえだろう」
「ま、やだ兄さん、そんなにあたしのこと……」
「そりゃもう昼間っから勃っちまうくらい恋い慕ってるんだぜ? お加乃ちゃん」
「やだぁ」
 女が笑えば、男も笑う。
 馬鹿らしい、と、政は思った。
 女がなんぼのもんだってんだよ。
 そんなことより敵襲のことでも考えろ。
 ぶす、と、政が不機嫌そうにする。
 しかし、今度はだれも声を掛けては来なかった。
 皆、それぞれのことで忙しいようだ。
 ちょうどいいや。
 政は黙って立ち上がると、静かに障子を開けて、談笑の場を後にした。

 外は風が冷たくて、気持ちがいい。
 白粉のしつっこい臭いもしない。
 政は、大きく息を吸い込んだ。
「あーあ」
 女なんか。
 ……そりゃ、まあ。
 女を抱くなとは言わないけど。
 自分ではまだよく分からないが、男なんだから仕方ないもんなんだろう、とは思う。
 でも、だ。
(それで死ぬことになっちゃ、元も子もねえよな……)
 仕掛けてくるのが明日か明後日か分からないような敵がいるというのに。
 女と遊んでる場合かよ。
 くそっ。
 政は、心の中で悪態をついた。
 今日で何度目が知れない。
 ああ、早く。
(早く大人になりたい……)
 誰にも頼らずに、一人で生きたい。
 まあ、邪魔にならないなら仲間がいてもいいけど。
 誰にも、余計なことはされたくない。
 政は、これもまた本日何度目か知れない溜め息をついた。
「…はぁ」
 でも、自分の身体は確かにまだ子供だった。
 背丈も大人に足りなければ、声も高いままだし、腕と脚の力は自慢できても、経験不足はそれでもいなめない時がある。
 それから、女を抱きたい気持ちというのが、実際よく分からなかった。
 男たちを見ると、どうしてそこまで、と思ってしまう。
 こういうのは、いっぺん寝てみないと、分からないもんなんだろうか。
 女を知ると、何か変わるんだろうか。
「…どうだろう」
 例えば、さっきの遊女と寝たらどうだ? 何か変わるか?
 ……。
 …あんな女と一晩一緒にいたところで、自分が変わるとは、やはり、思えない。
 じゃあ、女なんて知らなくてもいいじゃねえか。
 別に、このままずっと知らなくたって構わないんじゃないだろうか。
 そんなふうに、政が考えを巡らせかけた時だった。
 声が聞こえた。
「むぅ……」
 呻き声のようだった。
 政は顔を上げた。
「誰かいるのか?」
「…いる」
 妙な返事する奴だな、と、政は首を傾げる。
「誰だよ」
「私」
「……」
「ちょっと来て、誰でもいいから」
 心なしか、その声には力が無いような気もする。
「早く」
 急かされた。
 仕方なく、政は声のする方向へと向かって行く。
 そして部屋の角を曲がったところで、声の主を見つけた。
「ありがとう、来てくれて」
 女だ。
 藍色の小袖を着た女が、柱の影にうずくまっている。
「何、してるんだ?」
 だが女は政の問い掛けには答えず、こう続けた。
「わざわざ来てくれたところ申し訳なんだけど、誰か人を呼んできてくれない」
「どうかしたのかよ」
 見ると、女は右腕を左腕で押さえている。
「腕?」
「違う、肩」
「肩?」
「外れたの……」
「外れた?」
「動かないの。それに痛くて…お願い、誰か呼んできて」
 確かに、女の右肩の辺りの形が変わっていた。
「呼ぶより、連れてった方が早そうだなぁ」
「え? 何?」
「ちょっとじっとしてろよな」
 そう言うと、政は女に近寄り、その身体の下にそっと両腕を差し入れた。
「きゃっ」
 そして軽々と女の身体を持ち上げる。
「痛いか?」
「へ、平気…ありがと」
「何、このくらい」
 政は女に向かって小さく笑って見せた。

「さっきはごめんなさい、お手数かけて」
 藍の小袖の女が申し訳なさそうに微笑んだ。
 小さな板敷きの一室である。
 政が女を店の者のところへと連れて行くと、ここに通された。
 そしてすぐに医者らしき男、というか老人が現れて、無茶にも思えたが女の肩を無理やりはめたのだった。
「大丈夫なのか、肩」
「平気、いつものことだから。すぐ外れるの」
「ふぅん」
「それよりあなた、お客さん? 随分若いみたいだけど」
「へ、ああ、まあ一応……」
「そうなの…すみません本当に、運んでまで頂いて」
「いや、別に構わねえし。わざわざ丁寧に喋らなくてもいいしな」
「あら、そう?」
 女がにこりと笑んだ。
 十人が見れば十人が可愛いと思うような笑顔である。
 政でさえも、可愛いな、と思った。
 こくり、と咽喉を鳴らして、政は女を…いや、よく見るとそれほど歳もとっていない、少女を見つめた。
「なあ、あんた、歳いくつ?」
「いやね、いきなり歳なんか聞くの?」
「じゃあ名前は」
「みよ。歳は十七」
「十七…」
 さっきの遊女達と大して変わらない。
 女達は一つ違えば随分違うと言うが、政に言わせれば一つ違っても二つ違っても同じだった。
「あなたは?」
 みよが尋ねてくる。
「俺は…政」
「いくつ?」
「…十一」
「へえ十一。若いんだね」
「……」
 ぶす、とした顔で、政はみよの方を睨んだ。
「…馬鹿にしたんじゃないのよ」
「そうかい」
「私を運んでまでくれたひとを、馬鹿になんてしないよ」
 みよは、小首を傾げるようにして柔らかく微笑んだ。
 政は、思わずその顔から目をそらしていた。
 何だか妙に、そういう顔で見られるのは、恥ずかしい。
「他のお客なんてとんでもないの。私が動けないのをいいことに、無理やり犯されそうになったこともあるんだからさ」
「…でも」
 だが、言いかけて政はやめた。
 抱かれるのがてめえの仕事だろ…とは、さすがに言いづらい。
「確かに客と寝るのが私らの仕事だけどね、でもやっぱり無理やりなんて嫌よ」
「ふぅん」
 …見透かされたかな。
「ともかく兄さん、本当にどうもありがとう。部屋には戻らなくてもいいの? 敵娼さんが待ってるんじゃ……」
「別に」
「別に?」
「俺は女買いにきたわけじゃねえし」
「へぇ……」
 じゃあ何しに? という顔を、みよはする。
 女にしては切れ長い目が、政を見つめている。
 目の縁がほんのりと朱く色づいている。
「俺は…別に、女なんか興味ねぇから」
「じゃあ何に興味があるの?」
「なんで聞くんだよ、そんなこと」
「別に」
 鈴を転がすような声で、みよが言う。
 政は、ふう、と大きく息をついた。
「血かな」
「血?」
「いや、というより喧嘩か」
「喧嘩……」
「悪いかよ」
 ぶすっ、とした顔で政が言うと、急に、みよが顔を伏せた。
 くすくすくす、
 と、笑い出す。
「何が可笑しいんだよ」
「…同じことを言うんだもの」
「同じ?」
「私と」
「おまえと?」
「そう」
 みよが顔を上げた。
 笑っている。
 そのくせ、寂しそうだった。
「ねえ、兄さん」
「何だよ」
「女には興味がないと言ったね」
「言ったよ。だから何だ」
「女の子は、可愛いよ。でもね兄さんが、可愛いと思わなくちゃどうしようもないのよね」
 政はどきりとした。
「惚れなくたっていいじゃない。そうじゃなくたって可愛い子はたくさんいるし。そういう子探しに、男は女を買うんじゃないの?」
「そう…なのかな」
「だから女の方だって、自分を可愛く見せようと化粧したりするのよ」
「おまえは?」
「え?」
「あ、いや、おまえは、化粧とかあんまりしてないみたいだから」
「…ああ、そうなのよ。だから私よく言われるの。もっと男に媚びた方がいいんじゃないのって」
「ふぅん」
 政は、次の言葉を躊躇っていた。
 みよがそれに気がついて、促した。
「何?」
 それでも、政は躊躇っていた。
 そして散々逡巡した後、ぽつりと言った。
「おまえ、可愛いよ」
 みよは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔になると、
「ありがとう……」
 消え入りそうな声で、言った。
 政の目を、じっと見つめた。
「お客さん」
「…何だよ」
「抱いてくださる?」
 えっ、と思わず声を上げて、政はみよの目を見つめ返した。
「驚くことないじゃない。私、遊女だもの」
「いや、でも」
「怖いの?」
「そんなわけ…っ!」
「だったら、兄さん…兄さんの好きなようにしていいから」
「……」
 …俺は、正直そんなつもりは無かった。
 でも、膝で寄ってきてその細い身体を俺に預けた女の身体を、どうしてか離す気にもなれない。

 とりあえず、というように二人は唇を重ねた。
 政にはなにぶん女と接吻するなど初めてのことで勝手はよく分からなかったが、それでもそっと唇に吸い付くように口付けると腕の中でみよは小さく震えた。
「上手いのね」
 からかうようにみよが言う。
「そうか?」
「うん…」
 今度はみよの方から口付けてくる。
 触れると、ゆるく開いた口から舌先が覗いて政の中へと差し込まれる。
 くすぐったい、と政は反射的に思った。
 それでも入り込んできた舌に己のそれを絡めてやると、みよの両の腕がしっかりと政の首に巻きついて、さらに深く濡れた舌が絡まった。
 気持ちいい。
 温かくて、女の身体は柔らかくて心地が良かった。
 腰から下あたり、きん、と通り抜けるような感覚が走る。
「…身体はしっかり大人なんだ」
 唇を離してみよが笑った。
「最近の子は早いね。声も変わりかけてるし、すぐ大人になるもんなんだ」
「声?」
「枯れてるでしょ、兄さんの声。すぐに低い男の声になるよ」
「そう、なのか……」
「知らなかった?」
「うん……」
 二人はまた唇を重ねた。
 舌を絡めては離し、絡めてはさらに深く絡みつく。
 ときには甘く舌を噛まれる。
 互いの体温を感じながら、濡れた熱に身をゆだねる。
 政の首に絡まったみよの腕に力が込められ、みよが後ろに倒れ込むと同時に政は前に引き倒された。
「止めとくなら今のうちだよ」
 みよが政の目の中を覗き込む。
 政もじっと覗き返す。
「勝手は分からねえけどそれでいいなら」
「…構わないわよ」
 また口付ける。
 何度も顔の角度を変えて、深く浅く口付ける。
 ゆっくりと、少女の身体からすべてを奪いつくすように。
 それは直に身体を愛撫されなくても少女の身体が熱を帯びてくるほど、熱くて甘い。
 政が顔を離すと、みよの目の周りが朱に染まっているのが分かった。
 可愛い。
 みよはじっと政の瞳を見つめたままで、というよりそこから目が離せないようにしている。
「どうしたんだよ」
 みよが呟くように言う。
「こんなふうに口付けられるとなんだか恥ずかしいよ……」
「そりゃ悪いな、俺はこういうこと慣れてねえし」
 みよは耳まで朱に染めている。
「へ?」
 急に、下の少女が身体の位置を入れ替え自分の上に乗りかかってきて、政は驚いて声を上げた。
 ちろちろとみよの舌先が政の耳をくすぐる。
「っ……」
 ぞくりと背中を駆け抜け、下のほうでとどまる何かがある。
 少女の唇が首筋を、喉を、肩を這っては吸い付き、舌先でくすぐられ、鈍い刺激が肌を走る。
 政もみよの着物の懐から手を差し入れ、柔らかな肌や肉付きを確かめるようにそろそろと撫でた。
 自分の身体とは違うふくらみや細みに触れてみたかった。
 そしてみよがそれを拒むはずもなく、政の手が肌の弱い箇所に触れるたびにその口から漏れる吐息は、少年には少し悩ましすぎるようにも思えた。
 女の息遣いがこんなに自分を妙な気にさせるとは思わなかった。
 二人はまた唇を重ねた。
 政が、みよの唇を自分のそれで柔らかく愛撫している。
 同時に少女の小袖の中で、手は柔らかで温かな肌を今度はしっかりと確かめるように撫ぜ、掴み指先でくすぐっていく。
 政の手が触れるたびにみよの吐息が荒くなった。
 そしてその手が、政の上に彼の身体を跨ぐようにして膝を立て、被さっているみよの脚の間へと差し込まれると、
「あ……」
 みよが初めて声を上げた。
 細い声だった。
 しかし、すぐにみよは身体の緊張を解くように息を整える。
 少女のそこは、政が思っていたほど濡れてはいなかった。
「まだ無理よ」
「何が」
「入らない」
「…分かってるよ」
 指先で探った。
 次第に、知識の中だけにあった女性にょしょうの身体が現実に知れていく。
 いくら政が女性に興味が無かったとはいえ、ある程度の知識くらいは仲間方から得ていた。
 だが、それは所詮耳からの知識である。
「あ、兄さん、痛い……」
「えっ、あ、悪い」
 反射的に謝っていた。
「そういうとこはもっと優しく触るもんよ……」
「はあ……」
「手先が不器用じゃ遊女にも好かれないわよ?」
 からかうように、みよが言う。
「うるせぇやい」
 指を動かす。
「ぁっ、や……」
「これでいいんだろ?」
「ん……」
 みよが政の胸に顔を押しつけるようにして身体を預けてきた。
「兄さん器用ね……」
「そりゃどうも」
 言いつつさらに、指でみよの身体を愛撫していく。
 次第に勝手も知れてきたか、政が余裕げな笑みまで見せ始めると、みよがそんな政の表情を見上げ、小さく睨むように、
「随分余裕そう」
 と、文句を言うように口を尖らせた。
 それに対して政は笑いながら応える。
「余裕だし。おまえも気持ちいいだろ? 濡れてきてる」
「ずっとそんなふうに触られて濡れない女がいるもんですか」
 …ぁん、とみよが鈴が転がるような声でさらに鳴く。
「今の良かったのか?」
 にやにやと政が笑っている。
 それから、ぷい、と顔を背けるようにみよがそっぽを向いた
「だから当たり前、なんですこれで」
 もう、とみよが目の下を赤らめながら息をつく。
 そしておもむろに政の愛撫から身体を引いて逃れると、彼の袴の紐に手を掛けて解き始めた。
 政はそうしているみよの姿を眺めながら、ふと自分の身体が、みよと触れ合ったことでまるで人肌ほどの温かさの飴の中に全身浸かっているように、ぬくぬくと温まっているのを感じ、頬を緩めた。
 悪くない。むしろ……
「気持ちいい……」
 そう呟いたとき、みよが、何? と顔を上げた。
 なんでもない、と、政は首を横に振った。

 それでも、思っていたより幾分淡々と、緩やかに事は済んだ。
 何一つ変わったこともなく、初めて少年は異性を抱いた。

 二人は、部屋の中に流れ込んでくる冷たい外気で火照った肌を冷やしている。
 みよが崩れた着物を直している間に、政はすっかり袴まで身につけて、みよの方を振り返った。
 ぎょっ、とした。
 政は一瞬言葉を失ったが、なんとか、咽喉の奥から声を絞り出した。
「おみよ、おまえ……」
 政に向けて背を向けたみよの姿を、その背中を、じっと政は見つめている。
 直しかけた着物から、背の上半分ほどが覗いている。
「初めてにしちゃ上出来なんじゃないの、兄さん」
 みよの声は、妙に明るかった。
「存外器用だし、将来どんな遊び人になるか楽しみだよ」
「はぐらかすなよ」
「……」
「みよ、何なんだそれ」
 政はみよの肩を掴み、強引にこちらを向かせた。
 はっとした。
「泣いてたのか」
 みよの頬の上を、一筋、二筋と、ぽろぽろと涙が伝わっていく。
 政は、掴んでいたみよの肩を放した。
「…兄さんに見てほしかったの」
 みよは直しかけていた着物の両肩へ手を差し入れた。
 ずるっ、
 と、藍色の小袖が背をすべり、落ちる。
 真っ青な竜の彫り物が、みよの背を昇るような恰好で、そこに巣食っていた。
「兄さんみたいな男に会うたびに、女に生まれて良かったなぁって思うの」
「俺…みたいな?」
 見事な昇竜の彫り物に、政の目は釘付けになる。
「兄さんいい男だから……いい男に出会って、肌を合わせたりして、たまには惚れもして…幸せだと思うのよ、女で」
「うん」
「でも、そのせいで」
 政はみよの背中から目をそらした。
「うん」
「私はもう、元の場所へは帰れない……」
 みよが、消え入りそうな声で、呻くように言った。
「女で良かったと思うたびに虚しいわよ。背中が…重いのよ」
 政は、もう一度みよに視線を向けた。
「…その肩のせい、なんだな」
 そう、と、みよが頷いた。
「こうなる前は、ちゃんとこの手で得物が握れたの。男相手にだって喧嘩ができたのに、こんな肩になったおかげで私はもう使い物にならないわ」
「だからって……」
「もし私が男だったら」
 みよが、吐き捨てるように言った。
「こんな肩でもお頭も見捨てなかったでしょうね…実際そういう人結構いたもの」
「女だから、か……」
「まったくどうして、女が偉くなっちゃいけないんだろうね…こんなに腕も磨いて、女も命も投げ出す覚悟だってあったのに、どうして見向きもしてくれないの……」
 …って、ずっと思ってたの、と、みよが細い声で言った。
 政はまた目をそらした。
 みよも、目を伏せる。
「おまえ…案外俺たちと近いところにいた女だったんだ」
 政が、ぽつりと言った。
「綺麗だよ、その背中」
「……」
「やっぱりさ、力があるのに上に上がれねぇのは、道理じゃねえよな」
「…兄さん?」
「そういう奴を、使わねえ頭どもはどうせ長くないんじゃねぇかな。自分で自分の首絞めてるようなもんだろ、あるのに使わねぇんだから」
「そうね……」
「それどころか、そういう奴はそんな頭分に頼らなくても十分強ぇんだから、じきに離れてくんじゃないか、その頭分のところから」
 …そうさ。
「今の俺たちの力を認めてくれる奴だっているはずだよ」
「…いなかったら?」
 政は、半ば自分に言い聞かせるようにして、答えた。
「自分がなればいいだろ」
 そうだよ。
 俺が、そうなればいいじゃないか。
「そう…かもしれないね」
 みよが小さく笑みを漏らしながら、首だけで政の方を振り返る。
「政さん」
「何だよ」
「…頑張ってね…いろいろ大変だとは思うけどさ」
 政は、一瞬返答に惑った。
「私は、やっぱりもう戻れないけどね……」
 政が軽く頬を赤らめ、頭を掻いた。
 この女には、つくづく心の中を見透かされているらしい。
「俺ってすぐに顔に出る?」
「たまにね」
 はあ、と、政が溜め息をついた。
「精進しねえとなぁ」
「そうかもね」
 くすくすと、みよは笑っている。
 政が、不意にみよの背中へと身を寄せてくる。
「政さん?」
「おまえも……」
「えっ?」
「おまえだって…得物が握れねぇのは辛いだろうけど、まだ戻れないって決まったわけじゃねえんだろ」
 ちゅ、と、政がみよの唇の横に口を付ける。
「そうやって背ぇ丸めてたんじゃ、泣くぜ、背中の竜が」
「……」
「それにしても、今日はやけに女に縁がある日だなぁ」
 政が、みよの肩の上に頭を乗せたままで言う。
「頭の親仁も、女がどうとか言ってたし」
「…お頭さんが?」
「そう、あの親仁が…今ちょうど、俺たちシマのことでごたごたしててさ、その相手んとこに強くて、しかもいい女がいたとかで、会いたかったって」
「へぇ」
 みよが苦笑した。
「嬉しいよ、そんなふうに言ってもらえるなんて」
 その言葉の意味を、政は理解するまでにしばらく時間がかかった。
「…おまえ」
「でも私のことはそんなふうにいってくれるくせに、あの人、まだ余裕ぶってるのね。元は仲間だった連中もこの店に来るけど…私を馬鹿にしに来る奴も、心配してくれる奴もいるけどさ、そいつらから聞いたの」
「何を」
「明日の宵の口から、本腰入れてそっちに仕掛けるんだってさ」
「おまえ、まさか俺のこと知ってて……」
「あなたのことは、ここに来るそっちのお仲間から聞いてたから。この前、その仲間さんの一人に頼んでおいたの、今日政さんを連れてきてくれるように」
「…全部おまえの手回しだったわけかよ、俺がここに来たのも、おまえに会ったのも」
「ついでに言うと、政さんが大部屋で遊女二人に絡まれたのも。本当はあの子たちが政さんを連れてきてくれるはずで、私の肩が外れたのも、それにあなたが気がついてくれたのも、そういうのは偶然だけど」
「……」
「…そんな顔しないで」
 政の目つきは、すっかり少女を疑るような、探るようなそれに変わっていた。
「私は隠し事はしたけど、一度も嘘はついてない」
「それで?」
 みよの言葉に間髪入れようとせず、憮然とした態度で政は聞き返す。
 自然と二人の身体が離れる。
「私も、あの染物屋にいたの」
「だから何なんだよ」
「この肩のおかげで、お頭に捨てられたんだよ。本当なら私があの野郎の首を切って落としてやりたいところさ。でも、だからって今の私じゃ敵わないだろうから……」
「…俺にやらせようってのか」
「今、奴ら明日の襲撃に備えてごたごたしてるところだろうから」
「俺一人に、やらせてくるわけかい」
「一人じゃできない?」
「できる」
「だったら…礼金だって用意してるから……」
「だったら何でただ俺を呼びつけてそう言わなかったんだよ!!
 みよは、答えなかった。
「偶然で会ったにしたって、すぐに言えばよかったんだ」
「……」
「なんで俺と寝たりしたんだよ。あんな話までして泣いた真似までして。俺を馬鹿にしてんのか。一度寝てやれば俺が素直に仕事引き受けるとでも思ったのかよ!」
「思ってないよ」
 みよが寂しそうな顔をして、下を向いた。
「政さんが、あんなに私の話を真面目に聞いてくれるなんて思わなかったの」
「今更そんな……」
「だって!!
 突然、みよが咽喉の奥から絞り出すような声で叫んだ。
「仲間の人の話と違うじゃない。だってもっと…ただ腕が立つだけの人だと思ってたのに、なのにどうして……!」
 睨むように政を見つめたその目が、まだ涙で濡れている。
「たった十一で親分にも一目置かれるようなガキなんて、情も何も持っちゃいないんだろうと思ってた…もっと、大人びてて……」
「……」
「大人の男みたいに、つまらないことばっかり言うんだろうと思ってたよ」
「…結局、俺がガキだって言いたいのか」
「そうだよ。でも今まで会った中で一番恰好いい」
 ぼろっ、と、みよの両目からまた大粒の涙がこぼれ落ちた。
 目の周りが、真っ赤だ。
 政は、小さくうつむいて、みよの顔から視線をそらした。
「ばか」
 わぁ、と、声を上げて泣き出したみよの肩に触れて、聞こえるか聞こえないかの声で政は呟いた。
「ほっといてよ馬鹿」
「そんなに泣くなよ」
 みよは政の着物を掴むと、肩口の辺りに顔を押しつけて、声を押し殺しもせずに泣いた。
「もういいよ。黙って仕事引き受けてやる」
 政が天を仰いで、言った。

十一

「おまえの顔見にきただけだよ」
 俺は言った。
「は?」
 思い切り間抜けな顔をして、私は思わず聞き返していた。
 いきなりやって来たと思ったら、何を言い出すのだろうこのひとは。
「そのお連れさんは?」
「俺の弟分。蛇骨ってんだ」
「へぇ…どうもお初にお目にかかります、笹早と申します」
 みよが頭を下げると、俺の後ろで蛇骨がそっぽを向いた。
 失礼な、と思ったけれど、恰好も恰好だし、もしやそっちの趣味の人なのかと、私は思い直す。
 兄さんの弟分の人は、どうもどこかしら変わっているらしい。
 でも兄さん自身変わっているのだから、それでちょうどいいのかもしれない。
「兄貴」
 蛇骨が、俺の袖を引っ張る。
「顔見たんだからもういいじゃねぇか。帰ろうぜ」
「嫌ならついてくるなって言っただろ」
「だってよ……」
 蛇骨がみよの方を睨む。
 睨まれた。
 この人、ひょっとして兄さんに気でもあんのかしら。
「上がっていく?」
 とりあえず、私は兄さんに尋ねてみた。
「ここで水の一杯でも貰えるか」
「いいよ。お酒が良かったら出すけど?」
「いいよ。おまえんとこの酒、高いし」
「珍しいね、たからないんだ」
 失礼なことを言いやがる。
 店の下女か何からしい女が奥の方から出てくると、みよと二言三言ほど言葉を交わして、また元来た方へと戻っていく。
 私は兄さんの方を向き直った。
「で、何しに来たの」
 どうせ、私の顔を見に来たとか言って、何か腹に抱えてるに決まってる。
「だから、顔見に来ただけだよ」
「本当に?」
「おまえの顔が見たくなったから、来たんだよ」
「嘘でしょう」
「嘘じゃない」
 俺が言うと、みよの目の周りがほんのり色づいたのが分かる。
 私は不覚にも、やんわりと頬が熱くなるのを感じた。
 俺は、妙な気分だ。
「…この間思い出した昔話もしようかと思ってたけど、やっぱやめとく」
「昔話?」
 聞き返してきたのは蛇骨だった。
「何、それ」
「なんでもねぇ」
「なんだよ、俺が聞いちゃまずいのかよ」
「昔の話をしたら……」
 兄さんが、私の方を見た。
 あまり、その顔に表情は無かった。
「昔の話なんかしたら、買わずには済まねぇだろうから」
 蛇骨という兄さんの弟分の人が、首を傾げている。
「何を?」
「…兄さん、悪いけどね、私この間の捕り物以来もうお客取ってないの」
「……」
「買えないならいい、って言うんでしょう?」
「遊女を、買わずに抱く覚悟がないだけさ」
 俺はみよから視線をそらした。
「昔とは違うんだよ」
 …俺には、女の温もりより大事なものができてしまった。
 そんなこと私だって分かってるんだ。
 私には、男の胸にすがるより他にやることがたくさんある。
 守らなくてはならない人も、物も、場所も、たくさんある。
 …こんなこと、聞きたくなかった。
「…一生、その覚悟しないつもりなの?」
「しない」
 俺は言い切った。
 言い切らないわけにはいかない。
「そう……」
 分かってるんだ。
 兄さんなら、そう答えると思ってた。
 私は、心のどこかでこの答えを期待していたのかもしれない。
 哀しいのと同時に、ひどく安心した。
「それなら、それでもいいよ」
 みよが、寂しそうに微笑みかけてくる。
「ねえ、また来たときは、せめて買ってね。今は、その弟さんが怖いから止めた方が良さそうだしさ」
 俺は、蛇骨が怖い顔をして俺の後ろに経ってることくらい、往々承知している。
「ツケにしてくれよな。返すあてもねえけど」
 俺は言った。
 兄さんが真面目な顔をして言うから、私は、呆れた。
「そこまでいうなら、さっさと覚悟しちゃえばいいのに」
「ばか」
 俺はみよから視線をそらす。
「それとこれとは……」
「…それとこれとは、全体違うとは思うけどさ」
 溜め息混じりに頷いてから、私は、これは、冗談のつもりで、
「私も、一度くらい兄さんみたいな人から慕われてみたいもんだけどね、まったく」
 と、言ったら、
「…一時いっとき
 兄さんが真面目な声で答えたものだから、私は驚いた。
「えっ?」
「六年前、本当に、本当にほんの一時だけだったけどな」
 俺は次の言葉を躊躇った。
 私は次の言葉を待ちきれずに、促す。
「何?」
 みよにそう聞かれても、俺は躊躇っていた。
 そうやって兄さんは散々逡巡したあと、ぽつりと言った。
「…やっぱやめるわ。帰る」
「は?」
「蛇骨、帰るぞ」
「えっ、ああ…うん」
 蛇骨が、不意に俺の顔を覗き込んできた。
「……」
 兄さんの弟分の人が、怖い顔をして私を見た。
「何よ」
「覚えてやがれ、この女!」
 何を覚えていろというのか、聞き返す暇もなく、その人は怖い顔のまま店の戸をくぐって外に出て行ってしまう。
「また来るから」
 俺は、六年前にほんの一時だけ想った女の方は振り向かないまま、ひらひらと手を振ってやった。
 振り向けば、きっと俺の目の下が朱く染まっているのがばれてしまうだろうから。

(了)