鬼やらい

「春が来る」
 と、唐突に、
「煉骨、正月まであといくつ寝ればいい?」
 蛮骨が言った。
「はぁ?」
 横で、手の中の小さな歯車を金やすりで削りながら、煉骨は聞き返す。
「何です、また唐突に」
「だって嬉しいじゃねえか。春が来るんだぜ」
 大きな切れ長の目をぱちぱちとまばたかせながら、蛮骨は煉骨の方を向き直った。
「冬は寒くって嫌だからよ」
 言いながら、手を火鉢の上にかざしている。
「正月が来たってしばらくは寒いですよ」
「すぐにぬくくならぁな」
「あ……」
 煉骨は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
 あんたの頭があったかくなって困る、と言いかけて後が怖くなったらしい。
 こほん、と咳払いを一つして、
「確かあと五日で立春だったはずだ。月もだいぶん細くなっているでしょう」
 と、改めて当たり障りの無いことを言った。
「そういや、そうだったかな」
 ところで、この頃使われていたこよみは、現代のそれとは異なっている。
 この当時の暦は月の満ち欠けを基準とした太陽太陰暦であり、新月を一日、満月を十五日としてひと月を定めていた。
 さらにこの暦には太陽の一年の動きを基準にした二十四節気が組み込まれており、これによって今が何の季節のいつ頃なのかを知ることができた。
 この太陽太陰暦によると、立春、つまり正月の節句である一月一日は現代の暦ではだいたい二月四日ごろとなる。
 現代でも立春を過ぎると暦の上ではもう春、と言うが、戦国時代の春は本当にこの正月の節句の日から始まったのである。
 現代でも正月に、新春、迎春などというのはこの名残なのであろう。
 だから、蛮骨は、
「早くあったかくなんねぇかなあ」
 と、言っているのである。
「春が来ると戦が減りますよ」
 煉骨が言う。
「田植えの準備も種まきの準備も始まるでしょうからね」
「でもまぁ、春になると戦は減るけど、悪党どものいさかいは増えるぜ。頭があったかくなりやがるから。白い飯はしばらく食えねぇけど、金には困らねぇよ」
 蛮骨が笑いながら言った。
「それもそうですがね」
 煉骨も頷く。
「それじゃ、まあ屠蘇とその準備くらい、しておくか」
「酒、あんのか?」
「酒は最後ですよ。買い置いておくと、あんたと蛇骨が全部飲んじまうから」
「ちぇっ」
 蛮骨は笑いながらも、残念そうに呟く。
「なあ、屠蘇に入れるさ、薬草あるだろ。あれ霧骨にだけは用意させるなよ。今年の正月にえらい目にあったんだし」
「……」
 と、煉骨も、そのえらい目﹅﹅﹅﹅を思い出したらしかった。
 苦虫を噛み潰したような顔をして頷いた。
「…そうだな。それは睡骨にでも頼むか」
 煉骨は、手に持っていた小さな歯車と金やすりを手元に置いて立ち上がると、
「じゃあとりあえず睡骨に言って……」
 言いながら、近くの障子戸に手を掛け、
「屠蘇の準備を……」
 そっと静かにそれを開いて、
 ぎょっ、
 とした。
 目の前に予期せぬものがあった。
 人が一人、障子を開けた煉骨の目の前に立っている。
 開けるまで、中にいた蛮骨と煉骨の二人に気配一つ感じさせなかった人影であった。
 七人隊の衆ではない。
 煉骨は、思わず一歩後ずさっていた。
 ごくり、と息を呑んでいた。
「…黒田殿」
 煉骨は、その人影の名を呼んだ。
「…正月の節句の祝いをぶち壊してすまないのだが」
 人影は、静かな、地を這うような低い声で言った。
追難ついなを頼みたい。前金は持ってきた」
 小さな皮の袋を、煉骨の手の中に向かって放り投げた。

 追難とは、ようするに節分の豆まきのことである。
 現代の暦で二月三日に行う豆まきは、当時の暦でいえば一月一日の正月の前日、つまり大晦日に行う行事だった。
 新年を迎える前に悪鬼や穢れを払おう、というわけである。
 豆まきに使う大豆は五行説でいうところの『金』の気を持つもので、鬼がこの気を嫌うため、大豆をまいて悪鬼払いをしたのである。
 この行事のことを追難、または鬼やらいなどと呼んだ。
「ったく何が追難だよ。まるで戦じゃねぇか」
 じろり、と蛮骨が男の顔を睨みながら言った。
「追難さ」
 男が、地を這うような低い声で言う。
「あ奴らを払ってしまわんと正月が迎えられんからなぁ」
「そういう問題じゃねぇ」
 けっ、と蛮骨がそっぽを向く。
 今日は、すでに大晦日であった。
 日もとっぷりと暮れて、辺りは闇に黒く染まっていた。
「高くつくぜ、影阿弥かげあみ、この仕事はよ」
「…黒田なり、左兵衛さへえなりと呼んでくれればいいものを、首領はやけに俺の昔の名前に拘るな」
「話そらすんじゃねえよ。がっぽり稼がせてもらうからな、覚悟しとけよ」
「…そうしよう」
 黒田左兵衛は苦笑した。
 この男、数日前にいきなり蛮骨と煉骨の前に姿を現した男と同一の人物である。
「…俺ぁよ」
 蛮骨が呟いた。
「やっぱり、お侍さんとは馬が合わねぇからよ……」
「……俺が、侍か」
「立派な名前貰った武将さんじゃねぇか、黒田左兵衛さんよ」
「はは」
 黒田が笑う。
「だから首領は、俺の侍の名前は呼びたくないか」
「まぁな、そんなところだよ」
「立派なのは名前だけだ。中身は昔と変わらん悪党だぞ」
「それは知ってるさ。それに、美佐みささんだってたまにてめえのこと影阿弥って呼んでるじゃねえか。だから別にいいだろ」
「…美佐と一緒にされては困るがな。だいたい、あれも人前では呼ばんぞ、俺の昔の名前は」
「じゃあ俺も人前で呼ばなかったらいいのか」
「そういう問題ではない」
「じゃあどういう問題なんだよ」
「どういう問題だとかそういう話ではない」
「じゃあどういう話なんだ」
「どういう話だとか……いや、やめようきりがない」
「そうか?」
「もうよいわ、好きに呼べ」
「なんだよ、最初っからそう言えばいいのに」
「…おまえと話しているとどうも話が分かりにくくなる」
 黒田が、溜め息をついた。
「どういう意味だよ」
 むすっ、とした顔で蛮骨が黒田の方を睨んでいる。
 その時……じゃり、じゃりり、と、人の足が地面を踏む音が聞こえた。
「賑やかねぇ」
 女の声がした。
「美佐」
 すぐに、黒田がその声のした方向を振り返る。
「昔話にでも華が咲いていらっしゃるのですか」
 美佐と呼ばれた女は、にこやかに笑いながら二人に近づいてきた。
 その後ろから、煉骨と銀骨がついてくるのが見える。
「煉骨、銀骨、終わったのか」
 蛮骨が声を掛けた。
「ああ」
 煉骨は頷く。
「美佐殿に多少手を貸していただいた。ここまで派手に銀に手を入れるのも久しぶりだったんでな」
「どれ」
 蛮骨が腰を上げた。
「お、すごいな、銀骨、上に乗れるじゃねぇか」
 さながら、銀骨の身体は戦車のようであった。
 腰から下の半身が大きな箱形のものに繋がっており、その中ではキャタピラのようなものが動いているらしい。
 がたがたと音を立てている。
「ぎししっ」
 すごいと褒められて、銀骨は素直に嬉しそうな声を上げた。
 その上半身も、普段の姿よりもいっそう物々しく、なにやらいろいろな機械が取り付けられているようである。
「なぁおい煉骨、この銀骨の腰から下さ、ひょっとして切って落としたんじゃねぇよな」
「そこまではしねぇさ。ちゃんとくっ付いたままですよ」
「へぇ、そうなのか。おまえ相変わらず器用だなぁ」
 煉骨に向かって感心した声を上げながら、蛮骨は銀骨の頭をぽんぽんと撫でてやった。
「すげぇよ銀骨、これなら俺たち皆…ああいや凶骨は無理かもしんねぇけど、皆乗っても大丈夫だろ」
「ぎしっ」
 やはり、素直に嬉しそうに、銀骨は声を上げた。
 蛮骨もにこにこと笑いながら、弟分の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「美佐、おまえもあれを手伝ったのか?」
 黒田が不思議そうな顔をして、傍らに腰を下ろしていた美佐に尋ねる。
 美佐は、小袖に袴という男のような格好で、歳の頃は三十路を少し越したくらいか。
 どうしてか、右目を眼帯で隠している。
 少々異装をしている女である。
「ええ、旦那様」
 黒田のことを、旦那様、と呼んだ。
「石火矢の辺りを少しばかり。さすがは煉骨さんで、よい石火矢を使ってらして……」
 と、言いながら微笑を向けてくる美佐と視線がかち合って、しかし煉骨はすぐに顔をそらしてしまう。
「ほほぉ……」
 言いながら、黒田の目がじっ、と銀骨を見つめている。
「よい出来なのか、あれは」
「わたくしが保証いたしましょう」
「よし」
 黒田が、立ち上がった。
「首領、夜襲をかけよう」
「なに?」
 まだ銀骨の上にいた蛮骨が、訝しげな顔をする。
「こっちからか」
「そうだ。夜襲といっても、奴らを少し脅かして追い払えればいい。追難だしな」
「だがそれじゃぁ……」
「その先はおまえたちの心配することではないさ」
 黒田の顔に笑みが浮かんだ。
「それに、仕事はそれくらいにしておいた方が、そちらに払う金も値切れるしな」
「なっ…てめえっ!」
「はっはっは、まあよいではないか」
 そして急にドスの利いた声で、
初音はつね! わたる! いないのか!!
 と、黒田は部下の者を呼び寄せ始めた。
 煉骨が、銀骨に身体半分寄りかかりながら、
「夜襲か……」
 ぽつりと、呟く。
「…なあ煉骨」
「何です、大兄貴」
「おまえ、美佐さんに気があるんだろ」
「……はっ!? なんっ、そんな…!!
「八つも年上の人妻に横恋慕してもいいことなんかひとっつもねぇぜ」
 ちぇっ、と、蛮骨はつまらなそうに舌を打った。

「見ろよ睡骨、あの女、前に兄貴が雇ってやがった女じゃねぇか、あの女忍者の……」
「…あの、大兄貴が合戦場から連れて帰ってきた女か」
「そ。あとあの亘とか呼ばれてる坊主頭も、俺知ってるぜ」
「てめぇ坊主に知り合いでもいたのか、蛇骨」
 大して興も沸かないような声で、睡骨が呟く。
 睡骨と蛇骨は、蛮骨や黒田達とは少し離れた場所で、二人何をするでもなく所在無さそうにしていた。
 黒田の屋敷の、山裾に程近い裏庭である。
 蛮骨や黒田達が話している声が聞こえる。ただしはっきりとは聞き取れない。
 黒田が呼び寄せた彼の部下達を見ながら、蛇骨がぼそぼそと喋っている。
「ケツのよく締まる野郎だったなぁ。まさかこんなとこで会うことになるとは思わなかったけどよ」
「…惚気のろけなら聞かねぇぞ」
阿片あへんの扱いに詳しいのをここの細人頭しのびがしらに買われて、引き取られたんだと。名前も、恒純こうじゅんて名前を亘って変えたんだとさ。しぶといもんだよなぁ、坊主から、こっち側に一歩足踏み入れちまってよ……」
「てめえが、寝た男殺さねぇなんて珍しいじゃねえか」
「まあ……まだ摘むには早ぇ花、って感じ」
「けっ」
 睡骨が吐き捨てる。
「どこで教わるんだ、そんな変な言い回し。しかしなるほどまぁ、あれだな、その恒純だか亘だかいうやつ、てめえと寝るくらいなら男喰いなんだろうが、そっちの方でも買われたんじゃねぇか、頭に。わざわざ仕込まなくても男が喰えるってんなら使いもんになりそうだ」
 この男、ときどき蛇骨相手となると意外なほどよく喋ることがある。
「細人には男色も女色もいける口な連中がいるとは聞いたことがあるが、女どももそうなのかどうか。もしそうなら、あの初音っていう女や、美佐っていう年増も女を落とすすべを知ってやがるのか……」
「聞きたくもねぇ、そんな話」
「嫌がらせだ」
「八つ当たりだろ」
「半分はな」
「まあ確かにな、八つ当たりもしたくなるぜ」
 睡骨は、庭に無造作に転がされた丸太の上に腰を下ろしている。
 蛇骨は、その横で立って、両のすねを擦り合わせている。
「寒ぃ……」
 息の音だけで呟いてから、そして今度は声を出して、
「細人頭の…黒田、だったっけか。あの女忍者のときと同じでよ、また黒田の敵なんだろ、この里の端に陣張ってやがんのは」
 と、蛇骨は言った。
「らしいな」
「よっぽど恨まれてんだなぁ、細人頭さんは。正月になっても、こんな篭城みてぇに自分の里に篭って敵と戦だろ。しかも戦い方がまた面白くねぇ」
「そうか」
「忍者って奴はどうも虫が好かねぇよ。奴ら頭ばっかり良くってよ、こっちが斬り込んでもすぐかわして逃げやがるし…嘘もつくし、戦うにしても逃げるにしてもこっちの虚ばっかり突いてきやがる……」
「…暖簾のれんを押してるようなもんだ。手ごたえがあるようで、無い。戦ってる気がしねぇな」
「それに、そのくせ、逃げても完全には退かねぇ。ずっと陣は張ったまんまだ」
 くそ、と、蛇骨が口の中で吐き捨てた。
 脛を擦り合わせるのを止めて、腰を下ろしている睡骨の体の横へと歩み寄る。
 そこに腰を下ろす。
 ぴったりと、睡骨と腿と腿が合わさるほど近くに腰を下ろした。
「なんだよ、蛇骨、俺で暖でも取る気か」
 蛇骨が、睡骨の胸の辺りに己の身体を投げ出してくる。
「…俺をからかってやがるのか」
「黙って聞け」
 睡骨の首元辺りに額を押しつけながら、蛇骨が声をひそめて言う。
「てめえの体の右側の、向こうにある影んとこに何かいやがる」
「…何だと」
「黙って俺を抱け」
「……妙な言い方するな」
 と、言いつつも、睡骨は蛇骨の背に腕を回した。
 ぐ、と前に体重をかけて蛇骨の身体を丸太の上に押し倒した。
 そして、わざと声をいつもの調子に戻して、
「蛇骨……」
 と、睡骨が蛇骨の名前を呼ぶ。
「ああ、いいぜ睡骨」
 蛇骨も、それに合わせて声を大きくする。
 睡骨の腰辺りに左腕を沿わせる。
 再び声をひそめた。
「三つ数えて、地面に伏せろ」
「…てめえ、おいしいところ独り占めか」
「三つ数えた後首が無くなっててもいいなら伏せなくてもいいぜ」
「くそっ」
 蛇骨が、膝を立てて太腿を睡骨の腿辺りに摺り寄せる。
 着物の裾がずり落ちて、蛇骨の生白い腿が半分ほど露わになる。
 睡骨の手がそこに触れる。
「敵がこういう趣味なら油断するかもしれねぇな」
「…触り方が案外やらしいなぁ、このむっつり助平」
「何だと、てめ…」
「いいからさっさと数えろよ」
「ちっ。…一つ」
 蛇骨が息を吸い、小さく吐いてそれを整えた。
「二つ」
 蛇骨刀の柄を握り締めた。
「三つ」
 腹筋に思い切り力を込めて、起き上がった。
 合わせて睡骨が半身を起こしながら地面に向かって身体を傾ける。
 睡骨の身体が地面に落ちるのと、蛇骨が蛇骨刀を振りぬくのと、同時であった。
 どさ。
 じゃっ。
「この野郎っ!!
 刀を振るった勢いで蛇骨は立ち上がった。
 腰で踏ん張った。
 闇の中に切先が飛ぶ。
 蛇骨の瞳の瞳孔が、まるで猫の目のように目に見えて大きく開く。
 闇の中で動いた影を見逃さなかった。
 僅かに手首を返して刀の軌道を変えると、
「そこだ!!
 ついに刃先がその影を捕らえた。
 くぐもった悲鳴が上がる。
 うぐ、という男の声である。
 じゃじゃじゃじゃじゃっ、
 という音とともに刀が一つの塊に戻ると、ぼとり、と、蛇骨の手の中に落ちてきたものがあった。
 人の手だ。
 と、蛇骨は思った。
 人間の右手の手首から先が、落ちてきた。
「やるよ睡骨」
 蛇骨がそれを睡骨に向かって放り投げる。
「いらねぇよ、そんなもん」
 そう言いつつも、睡骨はそれを受け取って己の目を疑った。
「これは……」
 切られた筈の手首から、血が流れていないのである。
「どういうことだ」
「ふざけてやがる」
 蛇骨が歯噛みをした。
「血が出ねぇ人間なんているかっつーの」
「…どっちにしてもまだ生きてるな」
 手早く鉤爪を両手にはめると、睡骨が地を蹴った。
「てめえが一撃で仕留められなかったんなら、次は俺の番だ。邪魔するんじゃねぇぞ!」
「ちっ」
 闇の中でうごめく影に睡骨が肉迫した。
「野郎っ!」
 爪を、相手の喉元を狙って突き出す。
 しかし空を切った。
 睡骨の判断は早かった。
 腕を突き出して前に屈みかけた体勢を、腹筋と背筋で一気に引き戻した。
 今まで睡骨の顔があったところに、闇の中から刃が突き出される。
 ほんの一呼吸の差であった。
「畜生!」
 もう一撃、睡骨は打ち出そうとした。
 しかし今度は、爪ごとはじき返される。
 一瞬睡骨がよろけたところを、さらに刀の先が突いてきた。
 その切先を、
 きしゃんっ、
 と、音を立てて、睡骨の背後から飛んできた蛇骨刀の刃先が弾いた。
「蛇骨! 邪魔するんじゃねぇ!!
「邪魔はしてねぇ。助けてやったんだ、ありがたく思えよ」
 と、蛇骨が言った途端であった。
「蛇骨か、いい名だな」
 今まで睡骨と対峙していたはずの黒い影が、蛇骨の懐の中に入り込む。
「なんっ…!」
「貰った」
 影が、笑ったように見えた。
 影が右手に握って返した大刀の柄の先が、蛇骨の鳩尾みぞおちに深く食い込む。
 蛇骨の腹の筋肉では防ぎきれないほどの力であった。
 声にならない低い呻き声を、蛇骨は上げた。
「じゃこ…」
「蛇骨!!
 驚いて睡骨は振り返った。
「大兄貴!」
 蛮骨だけではない。煉骨も、黒田も、美佐もいる。
 影は、ぐったりと力を失った蛇骨の身体を肩の上に抱えると、
「頂いていくぞ」
 手に握っていた大刀を腰の鞘に納め、そしてその鞘ごと手の中に握り直す。
 数歩退すさると、鞘に納まった刀を屋敷の塀壁に立て掛け、そのつばに足を掛ける。
「てめえ!!
 蛮骨が蛮竜の刃を叩きつける寸前で、影は刀を足場に塀を乗り越えていた。
 蛮竜が、影と刀を結び付けていた下げ緒だけを引きちぎって空を切る。
「くそっ!」
「……」
 黒田が、足下から何かを拾い上げた。
 人の手ほどの大きさの、三つ又の木の枝である。
「…空蝉うつせみ
 そう、呟いた黒田の手の中を睡骨が覗き込んだ。
「それは……」
「そなた、先程これを人の手とでも見たのではないのか」
「…あの手、なのか。だが確かにあれは人間の……」
「そう見えた、だけなんだよ」
 蛮骨が黒田の方を見た。
「首領、困ったことになったな。あれが敵の者なら、おそらく夜討ちのことも知れてしまっている」
「ああ」
「今連れ去られていった青年のことも気がかりだ」
「…蛇骨をどうする気なのかな」
「分からん。だがすぐに殺しはしまい」
 蛮骨はしばらくの間逡巡していた。
「…影阿弥」
「何だ」
「敵陣の正面に陣を張れよ」
 そう言って、蛮骨は蛮竜を肩の上に抱え直した。

秀守ひでもり、ですねぇ」
「珍しい銘だな。本物なのか」
「ええ、お頭」
 亘は、小さく肯いた。
 布に包んだ抜き身を手中に抱えている。
「確かに珍しいものではあります。この波紋の入り方も、よく見かけるようでありながら微細な特徴を持っていて……」
薀蓄うんちくはまあいい」
「はい、まぁ……珍しい刀ではありますが、実用刀としては、他の銘のものより薄身で、切れ味はまずまずですが扱いの難しい刀です。これを細人刀として愛用している者はそう多くはありません」
「名は知れているのか」
「…あの」
 言いながら、亘が闇の向こうへと視線を投げる。
 敵軍の張った陣の中で、篝火かがりびの赤い炎をがちろちろと燃えているのが見える。
 そう遠くはない。
 味方の陣の内では、急の陣張りで皆が忙しなく動き回っている。
「あちらにもこの使い手がいます。名は…確か宮本円蔵みやもとえんぞうとか」

 蛇骨が叫んでいる。
「ちくしょう放せーーーっ!!!」
 暴れている。
「見かけによらず凶暴な男よ」
 宮本円蔵は思わず溜め息をついた。
 両腕を縛り上げられながらなおも両脚を武器に暴れまわる蛇骨を眺めながら、端正な作りの顔を歪めている。
 若い男である。
 まだ、二十歳は過ぎていまい。
「くそっ」
 苦虫を噛み潰したような顔をして、舌を打った。
「こんな暴れ猫を連れ帰っちまった上に、俺の刀も失くしちまった」
「ごちゃごちゃ何言ってやがるこのガキ! この縄ほどかねぇとぶっ殺すぞ!!
「るっせぇんだよこのカマ。殺されんのはてめえだ」
 円蔵は蛇骨の前髪を掴んで、己の方を向かせると、
「それが嫌なら知ってることちょっとくらい喋りやがれ」
 と、落ち着いた声で言う。
 大きな切れ長の瞳が蛇骨の目をまっすぐに見つめた。
 蛇骨が唇を噛んだ。
「…ガキ、てめえ、俺の好みだよ」
「何だと?」
「だから殺されんのはてめえの方だ。さんざ掘った後で皮一枚ずつ削いで切り刻んでやらぁ!」
「は、なんだあんたそういう趣味かよ。見た目じゃ分からねぇもんだな」
「うるせぇよ! 俺がどんな格好してようが俺の勝手だ」
「傍から分かりやすい格好するのが親切ってもんだぜ」
「てめえに親切にしてやる義理なんかねえ」
「だがあんた、いくらなんでもその格好で黒田の手下だとは言わねぇよなあ」
「……」
「兄分はあの蛮骨っていうガキだっていうのは知ってる。あのガキは何者だ? 一体黒田の何なんだ」
「……」
「…だんまり決め込むつもりかい」
「……」
「面白い男だなぁ」
 円蔵が、にんまりと笑う。
「凶暴なくせに喋っちゃまずいことは心得てるつもりか。拷問に耐える修練も積んでるのか?」
「……」
 急に、円蔵が背を仰け反らせて笑い出した。
「ははは…」
「…何が可笑しい」
「いい手を思いついた」
 そう言うと、円蔵は蛇骨の前髪から手を離す。
 つと蛇骨から離れると、斜め後ろの篝火の下に腰を下ろしていた仲間へと歩み寄る。
 その仲間の男が、近づいてきた円蔵を見上げて言う。
「責めるのか?」
ほだす」
「…物好きめ」
「見てるか」
「御免だね」
 男が立ち上がる。
「皆にそれとなく伝えておく、しばらくここに近づかんように」
「ありがたいな。ついでに用事を頼まれてくれ」
「言ってみろ」
「なに、物取ってきてほしいだけだけどな。俺の薬箱と、あの男の得物」
「…悪趣味め」
「何とでも言うがいいさ」
「それより、黒田の陣が落ち着きよったぞ。おまえが、奴さんは夜襲を企んでると気付いたから向こうもどんな手で来るのかと思っていたが、まさか正面きって布陣してくるとはなぁ。何を考えておるのやら」
「案外敵もただのうつけか?」
「油断はできんよ。あまり長く対陣する気もないだろうしよ」
「それはそうだ」
「まあ、おまえも絆すはいいが気は抜くな。持ってくるものは薬箱と奴の得物だけでいいんだな」
「あ、そうだそれと俺に刀一本」
「…愛しの秀守はどうした」
「生き別れたよ」
 円蔵は不機嫌そうに眉をひそめる。

「こういうことは時間をかけちゃならねえ」
「そうか」
 溜め息交じりに、黒田が呟いた。
 その黒田の顔を、蛮骨がぎろりと睨む。
「おいてめぇ、やる気あるんだろうな」
「あるに決まっておろうが。それにしても胃が痛いというんだよ」
「正月になれば休めるさ。あと半日もかかりゃしねぇ。美佐さんと雛始めでも子作りでも励みゃいいじゃねえか」
「おのれ他人事ひとごとだと思いよって」
「悪いが、そうに違いねぇからな」
「…おまえがそう言うなら、俺もおまえのことは他人事だぞ。いいか首領、あくまでおまえの仕事は俺が頼んだ仕事だ」
「分かってる。蛇骨を捜すのは二の次だ」
「俺も、俺の女の世話は俺でやるさ」
「面白いひとじゃねぇか、美佐さんは」
「戦に出たがる女の何がおもしろい」
「出たがっても出られねぇのが常だぜ。そういう意味じゃ、この戦も面白くなりそうだ」
 蛮骨が口の端を持ち上げて笑うと、そんな蛮骨の顔を、黒田が哀しげな瞳で見つめた。
「…おまえも、正月くらい休め」
 静かに言った。
「疲れただろう、この数日戦い詰めで、今日は弟分まで攫われた」
「……勘違いしてもらっちゃ困る」
「……」
「俺とおまえは所詮赤の他人で、おまえは俺の事そんなふうに思う必要無いよ。それに蛇骨が攫われた事だって、あいつはそんな簡単に殺されちまうような男じゃねぇし、心配はしてない……」
「だからおまえは馬鹿だというんだ」
「…なんだと、てめえっ!」
「あの青年を攫ったのは宮本円蔵という男だ」
「宮本…?」
「若い男だが、剣の腕は立つし空蝉の名手でな、やりづらい相手よ。その上、この男は阿片や麻を使っては人を幻惑する。俺が先だっておまえから亘を引き取ったのも、この男のためさ。俺の手の内にもそういった薬に詳しい者が欲しかったからな」
「…何が、言いたいんだよ」
「あの青年も無事では済まないかもしれん」
「……」
「覚悟はしておいた方がいいぞ。…さてと、行こうじゃないか。こういうことには時間をかけてはならんのだろ?」

「あんた、あのとき俺が放り投げた枝を俺の手だと思っただろう」
 灯火の上に、小さな、三脚のような物を被せる。
 さらにその上に、湯飲みくらいの大きさの器に入った褐色の粉を乗せる。
 しばらくすると、その粉から薄い紫色をした煙が昇り始めた。
 軽くそれを吸い込んで、円蔵がくつくつと笑う。
「さすがの俺も直に吸うとくらくらするぜ」
「…どうして、枝が手に化けるんだよ」
「化けてなんかいない。おまえの頭が枝を手だと思っただけだ」
 円蔵が、紫煙の立ち昇るその粉と灯火を、地面の上に寝転がされている蛇骨の頭もとへと運ぶ。
「そんな馬鹿な話が……」
「あるのさ」
 言いながら、円蔵は片腕で蛇骨の胴回りを抱える。
 蛇骨の下半身を持ち上げるようにして、四つん這いのような格好になるように膝を付かせた。
 ただし蛇骨は両手を後ろ手に縛られているので、額は地面に付いたままである。
「てめ、何しやがる!」
「そう暴れるなよ」
 円蔵の膝が蛇骨の脹脛ふくらはぎの上に乗りかかって、押さえつけている。
 円蔵は蛇骨の帯に手を掛けた。
「離せよ! くそっ……」
 口を出す以外手も脚も出せない蛇骨の帯を、するするとほどく。
 はらと開いた着物の前から、円蔵が蛇骨の身体を撫でてきた。
「なあ」
 下帯の上から逸物を撫で上げた。
「あの枝がどうして人の手に見えたか教えたら、おまえ黒田や蛮骨のこと喋るか」
「そんなん、喋らねぇに決まってるだろうが!」
「そうかい。まあ俺もこういうのは嫌いじゃねぇから、いいけどよ」
 薄く笑いながら、円蔵が蛇骨の背の上にのしかかってくる。
「やめ……!」
 言いかけた蛇骨の喉の中に、頭もとの粉から昇っている煙が入り込んできた。
 甘ったるいような、鼻を刺すような刺激臭に、
「ぅ……」
 思わず蛇骨が怯むと、すかさず円蔵が解いた帯で蛇骨の両目を覆った。
「あっ」
 蛇骨は抵抗できない。
 ぐるぐると二重三重に帯を巻きつけられ目を覆われて、完全に視界が無くなった。
「何を……!」
「一つくらい感覚を閉じた方がよく効く」
 円蔵の指が再び蛇骨の逸物を撫で上げた。
「もっとも、俺が調薬したこいつは、ただでさえよく効くんだけどな。始めは少々息苦しくなるがすぐによくなる。そうしたら腰が抜けて、ここが」
 指が、亀頭を握る。
「たまらなくなるんだ」
「……はっ」
 蛇骨は、口の端を曲げて歯をむき出しにして笑い声を立てた。
「俺はてめえみてぇな野郎に犯られんのは趣味じゃねぇんだよ。よがれって言われても、土下座されたってよがれねぇっつーの」
 …しかし唇の端が震えている。
「俺が犯るとは言ってねえよ」
 円蔵が蛇骨の耳元に口を寄せてくる。
「洗いざらい喋ったら、俺に突っ込んでもいいぜ」
「…な」
「言ったろ? 俺もこういうのは嫌いじゃねぇんだ」
 円蔵の手が下帯の上から何度も逸物を擦る。
 笑い声を立てる。
「ナニに正直な男も嫌いじゃねぇよ。がちがちになってんぞ、もう」
「う、うるせ……っ」
 とはいえ実際正直なところ、たまらなかった。
 怖ろしく繊細な動きで、逸物を触られ、握られているのである。
 そして正直に言えば、突っ込んでもいい、という円蔵の言葉は蛇骨にとって少なからず魅力的であった。
 円蔵は蛇骨の身体を横に倒し、背中からその身体を抱きしめる。
 下帯の中にまで、手が伸びる。
 弄る。
「あっ、く…」
 蛇骨が息を詰まらせるたび、喉を通って肺の中に紫色の煙が入り込んでくる。
 煙は立ち上っているが、その内の何割かは間違いなく蛇骨の呼吸に含まれてゆく。
「たくさん吸いな。吸いすぎると死ぬけどな」
 蛇骨の耳元で円蔵が囁く。
 不思議な声音であった。
 そんなふうに吸えと言われたら、素直に従ってしまいそうだ。
「…枝が、人の手に見えるのはどうしてか教えてやろうか」
 思わず首を縦に振っていた。
「答えは簡単だ。あんたが、俺の手を落としたと思った﹅﹅﹅から、俺の手に見えたんだよ」
「……」
「もう一人、あんたと一緒にいたごつい野郎も、あんたが俺の手を切り落としたと思ったからあの枝が手に見えた。見えたと言っても、見間違いとかいうわけじゃない。本当に手に見えるし、触れば肌の感触だってする。あんたの頭が手だと本気で思えば、ただの枝も人の手に変じる」
「…っ、そんなことが」
「これを空蝉の術という。勿論誰にでもできるわざじゃあない」
「……」
「俺はこれが得意でな…人を騙くらかすのが得意だとも言えるがよ」
 くつくつと、円蔵が笑う。
「この煙も…阿片も麻も、人を騙すにゃもってこいの薬になるんだぜ」
「……」
「そろそろ、腰が抜けてこっちがたまんなくなってきたんじゃねえかい。先走ってたらたら流してやがるが」
 円蔵の手が、射精を誘うような動きをし始めた。
「…っう」
「…敵陣の中で自分を攫った男にこんなに簡単にイかされて、あんたも可哀想な男だな」
 蛇骨が声を荒げる。
「っ、るせぇっ!! てめえなんかにされて誰がいくかっ!!
「我慢は身体に毒だぞ」
 扱かれる。
「いけよ」
 とどめのように、動かされた。
「……っぁ!!
 本当に簡単に、達してしまった。
 また甘ったるい煙をたくさん吸い込んで、頭がくらくらした。
「…気持ちよかっただろう」
 円蔵が、にんまりと笑んだ。
「っ、くそっ!! ちくしょうてめえ、っ殺してやる……!」
 笑いを含んだ円蔵の声が、蛇骨にとって強烈な侮辱であった。
 放った快感を圧倒するくらい激しい殺意が沸き上がってくる。
 再び暴れ始めた蛇骨をいとも簡単に押さえつけて、円蔵は蛇骨の耳元に口を寄せる。
「…いいか蛇骨、今度黒田左兵衛か蛮骨に会ったら、宮本円蔵…俺だと思えよ」
!?
 …何故か、蛇骨の頭の中をひしめいている殺意の中で、その言葉だけが不思議と鮮明に、反芻されていく。
「さて、俺のお喋りは終わりだ。今度はあんたに喋ってもらわねぇとな」
 その言葉の意味を考える暇も無く、蛇骨の身体が仰向けに転がされる。
 下帯を緩めて、まだ半分立ち上がったままのそこを、再び掴まれた。
「言いなよ。言えばもう一回抜いてやるから」
「誰が、言うかっ!」
「言えば掘らせてやるよ」
 また、怖ろしく繊細な指の動きが蛇骨を弄う。
「ひぁっ!! ぐ…」
 初めて蛇骨がひっくり返ったような声を上げた。
 最悪だ。
 目の前にいるはずの男を殺したい殺したいと思いながら、同時に自分の身体を恨む。
 強く歯を喰いしばる。
「黒田の手の内は、あんた、本当に知らねぇのか」
 半ばやけくそ気味に蛇骨は叫ぶ。
「ああ! くそっ、知らねえよ!! 俺はそこまで関わってねぇんだ!」
「じゃあ黒田と蛮骨の関わりも…」
「知るかってんだよ!!
「分かった、訊く事を変える。蛮骨以下、雇われ者らしいあんたらの素性は」
「……」
「それは喋っちゃまずいことか?」
 円蔵が蛇骨を弄う手を止めて、口元をそこに近づけてくる。
「言うと何か困るのか」
 息が吹きかかる。
 呼吸に混じって体の中に入ってくる煙で頭がぐらぐらする。
 腰が立たない。
「派手な連中だ、あんたが黙っててもどうせすぐに調べられるぜ」
「…てめえら、ほんとに俺達のこと知らねえのかよ」
 先を咥えられた。
「ぃぅ…!」
 すぐに離される。
「知ってれば聞かない」
「俺達はてめえらみたいな細人同士の厄介事に巻き込まれるのは御免なんだよ!」
「……」
「てめえらなんかに目ぇつけられるようになっちゃたまらねえ」
「…兄貴分に迷惑がかかるから、ってか?」
 ぺろり、とまた舌が這う。
 蛇骨が、よがり声とも呻き声ともつかない声を上げる。
 この男叩っ切ってやる、と心の内に叫び声を上げながら、再び強く歯を喰いしばる。
「存外まともな関係なんだなぁ、あんたたち」
「ま……」
「やくざにしちゃ上出来だ。だがそうなると尚更、聞きてえな」
「調べりゃすぐに分かるんだろうが!!
「無茶言うなよ、うちだって総出で……」
 と、円蔵が、言いかけたときであった。

 ごうぉぉん。
 どうぉん。
 という地響きのような音とともに、地面が激しく揺れた。
 円蔵がはっとして体を起こし、着物の前合せを整える。
「何事だ」
 傍らに備えられた大刀に手を掛ける。
「……凶骨、銀骨」
 蛇骨が、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「何だって?」
「円蔵!!
「…どうしたんだ」
 円蔵が振り返った先に、先程の仲間の男が立っている。
「うっ。円蔵てめえ、やっぱり阿片焚きやがったな。しかもなんだその男の格好は、変態め」
「そんなことはどうでもいい! どうしたんだ」
「ああ、そうだ、敵が正面切って力押しできやがった。うちの陣を押しつぶすような勢いだ、まるで」
「つぶす?」
 円蔵が聞き返したとき、再び、轟音と合わせて地が震えた。
「…なるほど、あれか」
 見上げた先、陣幕の上から頭一つ分突き出して、陣内を進む巨大な影がある。
 さらにその後に続いて、がたがたという音とともに、全身が鋼で覆われた鉄の塊とも人間ともつかぬ形のものが姿を現した。

「火を放て!!
 馬上から、黒田が声を張り上げる。
「里の一部が焼け落ちても構うな! あの者たちに続け!!
 言いながら、すでに敵陣の内に踏み込んでいる凶骨と銀骨を指す。

「…乱暴な手だな」
 煉骨が呟く。
「何を今更」
 厳しい口調で、蛮骨はそれを切り捨てた。
 目の前を突き進んでいく凶骨を見ながら、揺れる銀骨の体につかまっている。
「一番手っ取り早い手じゃねえか。不意打ちにも成功したみてえだしよ」
「全く、あんたらしい手だよ」
 二人に加えて、睡骨と霧骨も銀骨の体の上に乗っていた。
 蛮骨がその二人を振り返る。
「蛇骨の死体を捜せ」
 強い口調で、蛮骨が言った。
「見つからねえ限り、あいつは生きてると思え」
 蛮骨は銀骨の体から敵陣内に飛び降りた。
「睡骨、霧骨」
「…何だい、煉骨の兄貴」
「思いっきり暴れろ」
 言いながら、煉骨は肩の上の鉛球がこめられた砲筒を担ぎ直す。
 蛮骨に続くようにして、三人も銀骨の上から飛び降りた。
 煉骨が銀骨に向かって叫ぶ。
「銀! 好きにやれ!」
 五人は敵陣の中方々に散った。
 蛮骨は、ひたすら、陣中に足を踏み入れたときから鼻をついていた甘ったるい香りを辿っていった。
 向かってくる敵を蹴散らしながら、立ち昇る紫煙を見つけるまでにそう時間はかからなかった。
 この香りの中に阿片のそれが含まれているのだと、別に前もって知っていたわけではない。

十一

 円蔵は、手早く緩んでいた蛇骨の下帯を締め直してやった。
 大刀を腰に差す。
「あんた、結構吸い込んだだろ?」
 紫煙を上げる器の下で燃える灯火を吹き消した。
 続けて蛇骨の耳元で、
「蛇骨、次に黒田左兵衛か蛮骨に会ったら、宮本円蔵と見ろ。いいな、あんたを辱めた俺だ」
 と、先刻言った科白せりふを、ほとんどそっくりそのまま繰り返す。
「必ずだぞ」
 さらに念を押すように言って、円蔵は蛇骨から離れ、足を速めて仲間の元へ向かおうとした。
 丁度そのときであった。
「!」
 すぐ、円蔵は腰の刀に手をかけた。
「てめえ、円蔵か」
 突然前方から現れた男が、荒々しい言葉遣いで問うてきた。
 長いお下げの髪と、その腕に抱えた大鉾ですぐにその男の正体は知れる。
 …蛮骨ではないか。
「…いかにもそうだが……貴様、何者だ」
「七人隊首領、蛮骨。てめえだな、蛇骨を攫った野郎は」
「七人隊? そうか、貴様七人隊の……」
「何ごちゃごちゃ言ってやがる!!
 蛮骨が一気に間合いを詰めてきた。
 速い!
 円蔵が抜いた。
 風を切って襲い掛かってきた蛮竜を、足をさばいてかわしつつ蛮骨の首元を狙って袈裟懸けに打ち下ろす。
 空を切った蛮竜は地面に叩きつけられてめり込み、斬撃を、身体だけ僅かにひねって蛮骨は避けて、そのとき浮いた前髪の先だけが少しばかり切り落とされた。
 二人が再び対峙する。
 円蔵が呆れた声を上げた。
「なんっつー怪力かよ、このガキゃ」
 刀を正眼に構えつつ、背の上を冷たいものが這い落ちていくのを感じた。
 …首領というだけあって強い。
 このばかでかい得物で、この体捌きかよ。
 万が一とは思ったが、あの蛇骨って男に施して﹅﹅﹅おいて正解だったかな……
「ャっ!!
 円蔵が踏み込んで蛮骨の小手を狙った。
 俺が倒れてもあの男なら……
 切先が身体に触れる寸前で蛮骨は半身を引いて蛮竜を振りかぶる。
 がら空きになった円蔵の右袈裟に、蛮竜を叩き付けた。
 仕留めた!
 確かな手ごたえと出血があったように思えた。
 円蔵の胴体と肩が血飛沫を上げて別れたように、見えた。
「まだだっ!!
「なんっ!?
 紙一重で蛮骨の方が速い。
 がつんっ、
 と、鈍い音を立てて円蔵の切先が蛮竜の握り手に突き当たった。
「…これが空蝉か」
 蛮骨が奥歯を噛み締める。
 咄嗟に蛮竜を立ててその握り手で、蛮骨は円蔵の突きをしのいだのである。
 円蔵は五体満足で刀を握っている。
 確かに斬った感触はあったはずなのに。
「ちっ」
 速やかな動きで円蔵は身を引いた。
 組み合えば不利だ。
 三度、二人が間合いを取って睨み合った。
「御免」
 という静かな声とともに現れた第三の気配に、しかし円蔵は身をこわばらせた。
 しまった、背中を取られた…
「っ……!」
 円蔵の背後から現れた手が何やら濡れた手拭のようなものを円蔵の鼻と口の上に押し当てる。
 その手拭のような布切れには、睡眠薬か何かが染み込ませてあるようであった。
「蛮骨殿、邪魔をして申し訳ありませんがご勘弁を。生け捕れとの命ですから」
「…亘か」
 三つも数えないうちに体の力を失った円蔵を抱えて、亘が言う。
「お気をつけください。阿片に似た匂いがします。幻惑などされませんように」
 以前僧侶であったとき七人隊に殺されかけたというのに、親切な男である。
 蛮骨は息を整え、踵を返した。

十二

 頭が、くらくらして敵わない。
 両手を縛っている縄も、両目を覆っている布も、邪魔で邪魔でたまらない。
 帯を解かれた裸のような格好で、体の自由を奪われて冷たい土の上に転がっされて。
 宮本円蔵。
 あのくそ生意気な俺好みの顔したガキ。
 ぶっ殺してやる。
 はっきり言って、突っ込ませてくれるっていうのはとんでもなく魅惑的な話だったが、それ以前に俺は腹を立てているのである。
 馬鹿にしやがって!
 くそ、くそっ、くそっ!
 蛇骨はせめても腕の縄がどうにからならないかと、がむしゃらに腕を引っぱり動かそうとしたが、実際には手首から先が僅かに動いただけであった。
 吸い込んだ阿片のせいで、身体がだるくて上手く動かないのである。
 いっそ宮本円蔵を殺るときにでもならないと、気力ででも身体を動かせそうにない。
 …そうだ、宮本円蔵。
 あの言葉の意味は、何なんだ。
「蛇骨、次に黒田左兵衛か蛮骨に会ったら、宮本円蔵と見ろ」
 何か隠された意味のある言葉とは思えない。
 というか、隠されていてもそこまで頭が回る自信が無い。
 なんだかやけに耳に残る言葉であった。
 頭がくらくらする。
 兄貴に会ったらあのガキだと思え、だと?
 莫迦ばかな。
 しかし、莫迦な莫迦なと思いつつ、実はさっきからずっとその言葉に拘ってしまっているのである。
 息が苦しい。
 くらくらする。
 さっきのでかい音は凶骨と銀骨の音に間違いない。
 あの円蔵と、その仲間らしい男の話していたことからして、兄貴達がこっちの陣に突っ込んできたんだろう。
 兄貴達らしいといえば、兄貴達らしい攻め方だが……
 あぁ、くらくらして、目が回りそうだ。
 さっきから近くで誰か人間二人が立ち会っているような気配がする。
 がつんっ、という何か分からないが、硬いものがぶつかり合う鈍い音も聞こえた。
 兄貴に会ったら、円蔵……か。
 目が回る。
 拘って考えれば考えるほど、分からなくなる気がする。
 立ち会っていたはずの二人のうちの一人が、こっちに向かってきているようだ。
 兄貴に会ったら……
「蛇骨!!
 名を呼ばれた蛇骨は、視界は塞がれているものの、思わず顔をその声の聞こえた方向へと向けていた。
「おまえ、何て格好だよこれ……」
「…えっ?」
「待てよ、今、縄切ってやるから」
 言いながら、蛮骨は懐をまさぐって取り出した懐刀を、蛇骨の両腕を縛り付けている髪縄に突き立てた。
 じょ、という音を立てて縄が両断される。
 両手を自由にされて、何故か蛇骨は訝しげな声を上げた。
「え?」
 自由になった両手をついて、上半身を起こす。
 懐刀を納め、蛮骨が蛇骨の視界を覆っている帯に手を掛ける。
 後頭部に手を回す。
 手早く結び目を解く。
 すると、漸く頭を締めつけていた布が剥がれ落ちて、蛇骨の真っ黒だった視界がついに開けた。
「蛇骨、一体何があったんだよ」
 蛮骨が、蛇骨の瞳の中を覗き込んだ。
「……何が、だって?」
「ん?」
 多少よろけながら、蛇骨はそれでも身軽に後方に飛び退すさった。
「蛇骨?」
「ふざけてんのか、てめえ!!
 手を伸ばした先に、刀の柄があった。
 蛇骨刀の柄。どうして、捕らわれていた場所と同じ場所に自分の得物が置かれているのかというところまでは頭が回らない。
「円蔵!!
 叫びながら蛇骨が得物を抜いた。
 金属音。
「何!?
 驚いてしまった分蛮骨は出遅れた。
「ぐ…っ!」
 襲い掛かってくる湾曲刃を避けきれず、蛮竜で受け止める。
「蛇骨!!
「気安く俺の名を呼ぶんじゃねえよ!!
 蛇骨が手首を返す。
 蛮竜で跳ね返った蛇骨刀の刃が、じゃらりという音を引いてうねり返る。
「ガキが!!
 そのまま一旦腕を引きながら、再び右肩すべてを入れ直して刀の刃を蛮骨向かって叩きつけた。
!!
 それを蛮骨が蛮竜で力任せに薙ぎ払う。
「くそっ!!
 一旦刀を引いた蛇骨に対して蛮骨は一呼吸の間も取らなかった。
 再び刀を振りかぶって丸空きになった蛇骨の懐に、一気に踏み込む。
 蛇骨が振り下ろしかけた刀を、
 がンッ。
 と鋭い音を立てて、立てた蛮竜の柄で受け止める。
「この…っ」
 刀の柄を両手で握って、蛇骨が蛮竜を押し返してくる。
「おい蛇骨っ、おめえ、円蔵に何かされたのかっ!?
「何をわけの分かんねぇこと言いやがる! 円蔵はてめえだろうが!!
「何っ!?
 しかし力勝負ならば、利は圧倒的に蛮骨にあった。
「わけの分かんねえこと言ってんのはおめえの方だ、蛇骨!!
 一瞬である。
 蛮骨が蛮竜から右手を離した。
 その手で蛇骨の左手首を掴む。
「俺は円蔵じゃねえ!!
「!」
 蛇骨の腕の力が刹那緩んだ。
「あっ!」
 蛮骨は左手も蛮竜から離して蛇骨刀の柄を引っ掴んで、蛇骨の手からそれを引き剥がす。
「俺は蛮骨だ!!
 蛮骨の両手が蛇骨の両腕をそれぞれ掴んだと思うと、そうやって蛇骨が逃げられないようにしてから、蛮骨は軽く半身を後ろに引いた。
 ごッっ。
 実にくぐもって鈍い、骨同士のぶつかり合う音がした。
 蛮骨は、力いっぱいに己の額を蛇骨の額にぶち当てた。
「いっ…!!
 脳味噌を直に殴り飛ばされたような衝撃であった。
 ただでさえ阿片で頭がくらくらしていたところに強烈な頭突きをかまされて、蛇骨がよろける。
 蛮骨が手を離すと、二、三歩後ろにふらついて蛇骨は地面にぺたりと尻餅をついた。
「……」
「目ぇ覚ませよ、蛇骨」
 ……円蔵の声じゃない。
 そうだよ、これは……
「……蛮骨の、兄貴…?」
 蛇骨が恐る恐る顔を上げると、そこには確かに、仁王立ちになって自分を見つめている蛮骨の姿がある。
「ちくしょうっ!!
 吐き出すように言ったきり、蛇骨はうな垂れてしばらく頭を上げなかった。

十三

「……影阿弥」
「その名で俺を呼ぶな、賊め」
「青二才が、ようもわしの手下どもを痛めつけてくれたな……」
「おかげで里の林が一つ焼け落ちた」
「この策を講じたのは、影阿弥、貴様ではあるまい」
「……」
「根の暗い貴様にしては明朗すぎる」
 ははははは、と、男はしゃがれた声で笑った。
 黒田が腰を沈めた。
「最後はおのれだ」
 刀の柄を握る。
 男の笑い声が止んだ。
「退くさ」
 しわがれた声で、男が言った。
「美佐は息災か」
「おのれが知る必要は無い」
「あれはいい女になったな。十日にいっぺんくらいは貴様も宜しくやっとるか」
「何が言いたい!」
「なに、跡目を楽しみにしておるのよ」
 そう言ってまた、男がしゃがれた声で笑った。

十四

 人気ひとけの無くなった陣内は、ひっそり閑として、静かであった。
 じゃく、じゃく、
 と、二人分の足音だけが響く。
 足下に転がる死体を避けながら、蛮骨に抱えられるようにして蛇骨は歩いていた。
「円蔵は…俺の頭がそう﹅﹅だと思えばそう﹅﹅見えるんだと、言ってたよ」
「まあ、だからこそおまえを辱めるような真似をしたんだろうなぁ」
「うん……」
「おまえに俺や影阿弥を殺らせるために、か」
「でも、なんであの野郎に言われただけで、兄貴の顔や声が分からなくなっちまうのかな」
「さぁなあ。ま、薬嗅がされてたせいもあるんだろうけど」
 ひんやりとした風が吹いている。
 今は、何刻だろうか。
 空が薄く白んできたような気がする。
 蛇骨がかすれた声で言う。
「…兄貴」
「何だ?」
「その…刀、向けちまったこと……」
「いいさ」
 蛮骨は、肩をすくめた。
「ただし、二度同じ手を食ったら許さねぇ」
「…分かってる」
 蛇骨が苦笑する。
「もし許してもらえても…俺は自分で自分を許さねえよ」
 人の気配が、した。
 顔を上げた先に……
「朝帰りたぁ、いいご身分だな」
「…煉骨」
 煉骨が、腕組みをして立っている。
 その横に、霧骨と睡骨と凶骨と銀骨がいる。
「大変だったんだぜぇ、蛮骨の大兄貴と、蛇骨がいねぇから」
 霧骨が言った。
「毒筒が、すっからかんになっちまったよ」
 言って、笑った。
「俺の爪もすっかり刃こぼれした」
 睡骨も苦笑しながら言った。
「よくぅ~、帰ってきたなぁ」
 凶骨の声が辺りに響く。
「ぎし。おかえり」
 という銀骨の声に応えるように、蛮骨が、
「ただいま」
 と、短く、しかし優しい声で言った。
「蛇骨、心配したんだぞ、いきなり連れ去られちまってよぉ」
「間抜けが」
「いや、とか言いつつ睡骨もなぁ、おまえがいなくて妙に苛々してなぁ……」
 してねぇよ、と霧骨に言い返しつつ、睡骨は少々気恥ずかしそうに視線を横にそらす。
「……」
 きょとん、と蛇骨が二人を見つめる。
 煉骨が静かに言う。
「おまえがいないと、静かでいいがそれも過ぎると退屈だからな」
「…ありがとう」
 蛇骨は照れくさそうに、顔を伏せた。
 そして、
「でも妙に皆優しくて気持ち悪ぃや。俺まだ薬で幻覚でも見てるんじゃねえかなあ」
 と、苦笑ながら呟いた。
 それを聞いて、横で蛮骨が声を立てて笑う。
「だったら不思議だ。俺にも同じ幻覚が見える」
「……」
「いいじゃねぇか正月だ。甘えとけ」
「首領」
 黒田の声が聞こえる。
「苦労をかけた」
「その分は稼いだよ」
 蛮骨が見遣ると、黒田だけではなく、美佐も、亘も、他の細人たちも、その他の者達も、皆集まっていた。
 白んだ空が、明るくなってきた。
「あぁ、元旦だ」
 誰かが、嬉しそうに言った。
「皆今年もよろしく頼むぞ」
 黒田が言うと、蛮骨も七人隊の面々に向かって、
「おめえらもな」
 と、頬を緩める。
「おい影阿弥、頭領の貫禄見せてやれよ」
「そうだな」
「いいのか?」
「いいだろう。皆、よく働いた」
「そうこなくっちゃ」
 蛮骨は嬉しそうに破顔した。
「よっしゃ、正月一日無礼講だ!」
 晴れやかに高らかに蛮骨が言うと、それに応えるように皆がわっと沸き立った。
 昇る初日が辺りを暖かく包み込んでいく。

(了)