山寺にて

 辺りはすでに宵闇に包まれている。
 その闇の中に溶けるように、霧のような雨粒が静かに宙を舞っていた。
「確かに、もう辺りは闇の中、その上雨も降り始めておりますからね」
「ええ」
 年若い僧の姿をした男は小さく肯くと、
「お泊めいただけるでしょうか」
 と、静かに言った。
「お泊めするのは構わぬのですが……」
 男の差し向かいに座っている老僧が口を濁す。
「何かご都合の悪いことでも」
「…いえなに、こんな小さな山寺でございますからね。大したおもてなしもできませぬが、それでも宜しければ……」
「拙僧どものことならばお気遣いは無用でございます。雨風を一晩しのげれば、それで結構ですので」
「それから、もう一つ」
「何でしょう」
「実は貴僧らがここにお越しになる前に、商人の方が一人同じように宿を乞われております。この寺にはお客人をお泊めするような部屋は一つしかありません。相部屋になりますが宜しいですか」
 そう言うと、老僧はちらりと男の背の向こうに視線を走らせた。
「……」
 男は、少しばかり黙り込んで見せる。
 男の背側には、若者が一人控えていた。
 年の頃は二十歳ばかりか、男とも女ともつかないような中性的な容貌をしている。
 男の連れであるらしい。
 荷を膝の上に抱え俯いてじっと動かない。
「…構いません」
 老僧は、おそらくその若者は男にとってただの連れではないと思ったのであろう。
「そうですか」
 肯くと、
「それならばお部屋の方にご案内いたしましょう」
 立ち上がり、障子の戸を開く。
 冷たい夜気と細かな雨粒が頬を撫でる。
 老僧の背後で、男と若者が立ち上がる気配がした。
 途端、
 ぞくり、
 と、老僧の背を冷たいものが駆け上がっていく。
 背の二人を振り返った。
「どうなされました」
 男が静かに尋ねる。
「いや……」
 老僧は語尾を濁しながら、思い出したように言った。
「貴僧、お名前は何と申される」
「ああ、まだ申し上げておりませんでしたな」
 男は口の端に僅かな笑みを浮かべた。
「拙僧は如雪にょせつ、連れの者は祐彦すけひこと申します」
 男の声を聞きながら、老僧はまた、身震いをした。
「如雪殿か……」
 雨が肌寒いせいかも知れぬと、思った。


 案内された部屋で男と若者の二人は荷を解き、やっと肩の力が抜けたとでもいうように、脚を伸ばした。
 その様子をじっと黙って見詰めていたもう一人の男が、漸く口を開いた。
 老僧が商人と言っていた男である。
「遅かったじゃねえか」
 僧形の男が商人姿の男の方を向き直る。
「すまねぇ、途中関所で少しばかり足止めを食らった」
 若者も、二人の近くへと膝でにじり寄って来た。
「兄貴の足が速すぎるんだよ」
「馬鹿言え。旅の足は早ぇに越したことねえよ」
「俺達は別に旅してるわけじゃねえだろ」
「そりゃ、そうだけどな……」
 そんな若者と商人姿の男の会話に耳を傾けつつ、僧形の男はふうと息をついた。
「そんなことより大兄貴、疑われることは無かったでしょうね」
「ああ、平気だろうよ」
「名前はどうしました?」
竜之介たつのすけ
「…蛮竜の竜か」
「おう。煉骨、蛇骨、おまえらはどうしたんだ?」
「俺は如雪、蛇骨は祐彦と名乗っておきましたよ。今度から名を呼ぶときはそれで」
「分かった」
 商人姿の男……蛮骨が肯く。
 いつもはお下げにして背に長く垂らしている髪を、今日は頭の上に結い上げて、服装も商人らしく普段とは違えている。
 これで烏帽子をかぶって店番でもしていれば、その店はご婦人方には大層人気が出ることだろう。
「面倒臭えよなぁ」
 蛇骨が溜め息混じりに呟く。
「なんでわざわざ名前まで変えて、こんな田舎の山寺に来なくちゃなんねぇんだよ」
「仕事だ。諦めろよ」
 しれっと言った蛮骨を、蛇骨が恨めしげに睨む。
「なんだよ、兄貴だって普段はこんな面倒臭え仕事請けねえのに。どういう風の吹き回しだい」
「今度の仕事はな、探し物」
「…ぁ?」
「でも俺は探し物は嫌ぇだ。面倒臭えし。それで探さなくても済むように、こんな格好してこの寺に来たわけよ」
「どういう意味だよ、それ」
「だからつまり、俺達の探し物はこの寺の中にあって、ここの坊主が隠してるんだよ。それを、騙くらかして奴さんに自分から持ち出すように仕向けてな、ぶん取ってやろうってわけ」
「……へぇ」
「納得したか?」
「なんとなく納得したような、しねぇような……」
 と、難しい顔をして蛇骨が首を捻った。
 するとその隣で煉骨が呆れたように言う。
「馬鹿だな蛇骨、簡単に話はぐらかされちまって」
「え?」
「おめえは、なんで、この仕事を請けたのか聞いたんだろ。大兄貴はその理由は一言も答えてねえぜ」
「……」
 蛇骨が一瞬思い切り眉をしかめた。
「そうだっけ?」
「そうだ」
「煉骨、余計なこと言うなよ」
 蛮骨が苦い顔をすると、煉骨が半目で蛮骨を睨んだ。
「あんたが受け取った前金使い切っちまったから、こんな仕事請けなきゃならなくなったんでしょうが」
「そうなの?」
 蛇骨も蛮骨に視線を向けた。
「…実は蛮竜を磨ぎに出したらな、意外と金がかかって……」
「嘘だぞ蛇骨、半分は女に使ったはずだ」
 蛮骨が誤魔化そうとしても、すぐさま煉骨が真相を暴露してくれる。
「…ふーん」
 蛇骨と煉骨が同じように向けてくる視線に、一瞬、蛮骨は怯んだ。
 だがすぐに持ち直し、そしてあっさりと開き直る。
「ああそうだ。悪いか」
「いいと思ってんですか」
 と今度は苦悩するような表情になって蛮骨は煉骨を見る。
 まったく、見ていて飽きることのない百面相である。
「なあ煉骨、おまえさ、俺に何か恨みでもあんのか?」
「恨みが有ろうと無かろうと、本当のことでしょう。だいたい、」
 煉骨は続ける。
「あんたに金を持たせるとろくなことが無い。これが後金も貰った後ならまだしも、前金だけ使い果たしちまって返す当てもねえのにこうなったら仕事請ける他には……」
「あ、どっかの豪商でも襲って金奪って、返しゃ良かったな前金。その方がずっと楽だ」
「……」
 煉骨の話などすっかり無視して、あまりにも気楽な声で蛮骨は呟いた。
 相手の神経を逆撫でるには十分すぎる。
「人の話聞いてるのか、あんた……」
 しかし、ついに怒鳴り声を上げそうになった煉骨の口を横から蛇骨が押さえた。
「んっ!」
「煉骨の兄貴、ま、落ち着けよ。大声出すと坊主どもに聞こえるぜ」
 冷静な声で蛇骨は告げる。
 すると煉骨もすぐに落ち着きを取り戻したらしい。
 蛇骨の手を引き剥がし、静かに言った。
「……すまん」
「蛮骨の兄貴もさ、あんま煉骨の兄貴苛めんなよ」
「別に俺はそんなつもりは…」
「だって」
 蛇骨は、大げさに溜め息をついて見せた。
 それはもう芝居がかって見えるほど、大げさであった。
「妬けるじゃねえか。見せつけられてるみたいで」
「……」
「……」
 蛮骨と煉骨があからさまに呆れた顔をしたのが分かる。
 一瞬、二人は互いに視線を交わした。
 どちらともなく肯き合う。
「…さて大兄貴、明日に備えて休むとしましょうか」
「…そうだなそうしよう」
 そしてどちらからともなく、寝床の用意を始めたのであった。


(ひでぇよなぁ兄貴たちは。ちょっとふざけてみただけだってのに、さも馬鹿は放っとこうとでも言いたげな……)
 草木も眠る丑三つ時である。
 皆寝静まってしまったのだろう、人気の感じられない寺の中で、蛇骨は一人夜気に当たっていた。
 外ではやはり霧雨が降り続いており、少々肌寒く感じられる。
 しかし、それ以上に、
「それにしても、すげぇなこの山寺……」
 そう呟きながら蛇骨が視線を向けた先にある、大きな滝から生じる冷気が冷やっこい。
 滝側にせり出した寺の縁側は水を被って濡れており、足下にはその水で滑らないようにと簀子すのこまで敷いてある。
 さらに滝と縁側の間には、人が落ちないようにと簡単な柵も取り付けられている。
 蛇骨がその柵に寄って手を伸ばせば、滝の水流に手が触れられそうなほど近い。
(下手したら落ちるな)
 至極現実的なことを、蛇骨は考えた。
(この高さじゃ、落ちたら無事じゃ済むめぇ)
 と、滝壺を覗き込んで、さすがに身震いする。
 確かに、滝の剛流に気を取られて万が一柵の向こうに身を投げ出してしまったら、命の保障は無いだろう。
 そう思うと、今まで綺麗だと思っていた水の流れも、心地良いような気がした水音も、ただの急な水流と轟音に変わってしまうような気がする。
(現金なもんだぜ)
 自嘲するように、蛇骨は小さく笑った。
 ほどかれて肩まで下りている髪が風に揺れる。
 額に掛かる前髪を無造作に掻き揚げた。
 静かに、背後を振り返る。
「誰かいるな」
 抑揚の無い声で、蛇骨が呟いた。
「出てこいよ」
 返答は無い。
「出てこねえつもりか」
 それならば自ら赴いてやろうかと、蛇骨が一歩踏み出そうとする。
 するとその途端、
「……そういうわけではありません」
 向こうの柱の陰から、男が一人、姿を現した。
「鋭いお人だ。武芸か何かやっておられるのか」
 若い僧であった。
「あんたは……」
「この寺の僧侶で恒純こうじゅんと申す。祐彦殿、ですね。このような夜更けに何をしておいでです」
「…少々夜気にあたりに」
「そうでしたか…」
 恒純は安堵したようにほっと息をついた。
 真夜中に出歩いている人影を不審に思っていたのだろう。
 小さく蛇骨に向けて微笑んで見せていたが、その笑顔には精悍さが強く現れている。
 彫りの深い目鼻立ちに、切れ長の瞳に、僧侶よりも武士や博徒の姿の方が似合いそうな青年である。
 蛇骨は、ごく、と口の中の唾液を飲み込んだ。
「滝の傍は寒うございましょう、お風邪などひかれぬよう。それから、足下にはくれぐれもお気をつけなさいませ」
 恒純は、低く、芯の通った声でそれだけ蛇骨に告げると、静かに礼をしてまた柱の陰へと姿を消してしまった。
「……」
 蛇骨はその後姿を目で追った。
 身体が熱い。
 心の臓が送り出す血液が指の先の血管にまでくまなく行き渡り、煮えたぎっているように熱い。
 恒純はゆっくりとした足取りでその場を離れようとしていた。
(…まあ世の中には見目のいい男がいるものよ)
 そんなことを考えている。
 珍しいものを見た、という心持ちなのであろう。
 まさか、背後に忍び寄っていた黒い影に気づくはずもなかった。
「!」
 いきなり背後から肩を掴まれ、恒純は驚きそちらを振り返ろうとした。
 しかしそんな暇もなく、そのまま強く引っぱられて恒純の身体は近くにあった小さな部屋の中へと引き込まれる。
 書庫だ、と恒純が思ったと同時に、身体が仰向けに床の上に押しつけられた。
 急いで身を起こそうとしたが、腹の上に乗りかかってくる重みがそれを許さなかった。
「何の真似だ、祐彦殿!」
「……」
 恒純の腹の上に馬乗りになって、蛇骨がにんまりと笑っている。
「…いいねぇその顔」
「何を…っ!」
 蛇骨の手が恒純の懐を割り開いた。
 僧侶というわりに肉付きの良い肩や胸が露わになった。
「刀持ってきてねぇのが残念だぜ。斬り心地の良さそうな身体なのに」
 言いながら蛇骨が身を折り、恒純の鎖骨辺りに口を付ける。
 赤く長い舌が肌の上を這い回ると、恒純は身を振るわせた。
 全身総毛立つような感覚が身体の芯を通り抜けていく。
 怖気とも快感ともつかない感覚であった。
 蛇骨は再び半身を起こすと、おもむろに両肩から着物を引き摺り下ろし、諸肌脱ぎになった。
 そして言葉を失ったままの恒純の顔を見下ろし、言った。
「滝で寒けっちまったんだ。あっためてくれよ」


 今にも首を掴んできそうな蛮骨の手から間一髪逃れて尻餅をついたまま、蛇骨がおたおたと床の上を後ずさった。
「あ、兄貴に冗談でも首なんか絞められたら死んじまうよ」
「自業自得だ! 何考えてんだてめえは」
「いい男といいことしたい」
 蛮骨が蛇骨の懐を引っ掴んだ。
 刹那、言葉では表現しがたいが、辺りによく響く音が聞こえた。
「……っ痛」
 すぐに蛇骨の左頬が赤く腫れ上がる。
 蛮骨の強烈な平手打ちがそこへまともに入っていた。
 蛮骨は蛇骨の懐から手を離した。
「今度そういうふざけた返事しやがったら、利き腕使いもんにならなくなると思っときな」
「ごめ…そういうつもりじゃ……」
「もういい、今日はこれぐらいで勘弁してやるよ。おい煉骨、それでこの先の段取りはどうする」
 蛮骨が振り返った先で、煉骨は難しい顔をして黙り込んでいた。
「……とりあえず、蛇骨とその恒純とかいう坊主がそういう仲になっちまった以上、予定通りというわけにはいかないな」
「ああ。まぁ、なんとか都合をつけてもうちょっとこの寺に長居させてもらって、策を練り直すか」
「そうだな…明日の朝になっても俺たちが戻らなければ霧骨が使いに来る手はずになっている。どうしようもなくなったら、凶骨や銀骨を呼んで寺ごと隠滅しましょう。依頼方には文句を言われるだろうが、致し方ない」
「よし決まり。それでいこう」
 あっさりとうなずき、蛮骨がぽんと膝を打つ。
「んで策はどうする……」
 と言いかけて、蛮骨はふと蛇骨の方を見た。
 そして先程の己の暴挙を、ほんの少し反省した。
 蛇骨の左頬が真っ赤に腫れている。
 ちょっとやそっとの殴り方ではこうは腫れまい、という腫れ方をしている。
「…ちょっと力込めすぎたかな」
「なに、大事無いでしょう」
 しかし隣の煉骨は、蛇骨への同情の念は少しも湧かないらしい。
「坊主どもには俺が殴ったことにしておけばいい。あの老僧、俺と蛇骨ができてると勘違いしてるようだったからな」
「なるほど、浮気がばれて、ってか」
「そういうことです」
「しっかし、それにしても……坊主頭なんかのどこがいいんだかなぁ」
 言いながら、蛮骨がじっと煉骨の頭を見つめた。
「だって髪生えてねえんだぜ? 相手の髪振り乱して乱れる様が見れるわけでもなし、寄り添って撫でることもできねえのに……」
「言いたいことは分かりましたから、俺の頭を見ねえでくださいよ」
「…なあ、俺は一度は聞いとこうと思ってたんだけどよ、なんでおまえずっと頭丸めてんの。俺と組んだときから一度も黒い髪拝ませねえけど」
「それは、こういう仕事のときに都合がいいでしょう」
「ああ、なるほ…」
「へー、もう生えてこねぇんじゃなかったんだ」
「……」
 蛮骨の声ではない。
「蛇骨」
「別にさ、坊主頭だからいいってわけじゃねぇのよ。坊主ならいいけど」
「どう違う」
「聖人面してる野郎を犯すのはおもしれぇからさ」
「……」
「でもまあ、あの恒純て奴はいい男だからなぁ。たまには斬らずに苛め鳴かすのも燃えるよなぁ」
 ほう、と蛇骨は溜め息をついた。
「あの苦しそうに息を荒げて悶える顔がまた可愛いんだ……」
 殴られて腫れた痕だけではない、その上からさらに頬を赤く染めて蛇骨は呟く。
 一瞬黙り込んでいた蛮骨と煉骨も、その顔を見るや揃って肩を落とした。
 煉骨が何か言いたげな顔をしていた。
 しかし、途中で何かに気がついたように表情を険しくする。
 小声で蛇骨に告げた。
「蛇骨、その緩んだ顔をなんとかしろ」
 言い終わった直後であった。
 部屋の襖が鈍い音を立てて開いた。
朝餉あさげの支度が整っております」
 顔を出したのはあの老僧である。
「これは…お気遣いありがとうございます」
 煉骨が静かに微笑んで、礼を述べる。
 その後ろで蛇骨が小さく頭を下げ、蛮骨は二人から少し離れたところで無愛想な風を装っている。
 蛇骨が下げた頭を持ち上げたとき、ふと、老僧と目が合った。
 にまり、と、笑みを向けられたような気がした。
「冷めぬうちにお召し上がりください」
 そう言うと、老僧は部屋の中の三人に向けてにこりと笑顔を作り、礼をする。
 そして襖を静かに閉め、僅かな足音とともに去っていった。
 蛇骨はまるでその見えない老僧の姿を追うように、瞳だけを動かしている。
 そうしながら、誰にともなく、ぽつりと呟いた。
「ああいうじじいはたいてい助平だ」
 煉骨は何も答えなかった。
 しかし、
「なるほど?」
 蛮骨は蛇骨の方を振り返った。
「蛇骨、おめえ何を知ってる」
 ふふ、と蛇骨が可笑しそうに声を漏らした。


「お止めください」
 恒純は掴まれかけた腕を振り払った。
 あの滝に程近い一室である。
「このような……!」
 必死の形相で恒純は相手の手から逃げようとしたが、狭い部屋の中、すぐに隅へと追い詰められる。
 右腕を掴まれた。
御仏みほとけの御前で…」
「何が仏だ」
 暗闇の中、恒純の眼前で吐き捨てるように呟かれた。
「何ということを…」
 恒純があらがおうとすれば、すぐに仕置きのように首筋に噛み付かれた。
「う……」
 鋭い痛みが広がっていく。
 その怯んだ一瞬に、恒純の身体が裏返される。
 部屋の柱に胸を強く押しつけられ、息が詰まる。
 墨染めの裾から手を差し入れられたのが分かった。
 下帯を外そうとしているのだと分かると、さすがに、
「止めてください!」
 恒純はその手を掴み、抵抗した。
 恒純の力は決して弱くはない。
 下帯を外そうとしている手も、一度は動きを止めた。
 しかし、
「っ…ぐぅっ……!」
 と急に恒純の息が詰まり、苦しさに、一瞬恒純の腕の力が抜ける。
 着物の中にいる手とは逆の手が、恒純の喉笛のどぶえの辺りを思いがけない強さで締め付けていた。
 下帯を外される。
 そして、首を絞められ、立ったまま、後ろから恒純は犯された。
 異常な光景である。
 年若い僧侶が、今にも死んでしまいそうなほど苦しげに喘ぎながら立位で犯されている。
 もっとも、滝の轟音で声も衣擦れの音も掻き消されてしまっていたのではあるが。
 それだけに、余計に異常に見えた。
 だが、しかし無音の情事は長くは続くことはなかった。
 数えるほどの時間で、終わってしまったようであった。
 相手の身体の力が抜け、恒純の身体からも力が抜ける。
 息が自由になる。
 肩で息をしながら、恒純は床の上に膝をつく。
 切れ切れの声で、吐き出すように言った。
「どうして、何故、こんな……」
「…おまえが!」
 恒純の背から、枯れた怒声が投げつけられた。
「あんな青二才と情を交えたりなどするから…わしが十と二年も、ずっと可愛がってやっていたのに! ずっと!!
 あの、老僧の声であった。
「さ、昨夜のことなら、私は抗ったのに向こうが無理に……」
「聞く耳持たぬわ! この淫売が!!
 僧侶とは思えない、言いようであった。
「……」
 恒純は、不意に咽喉の奥からこみ上げてくるものを感じた。
 何故ここまで自分が責められなければならないのか、そう思うと涙腺が緩み、涙が頬を伝う。
「……死のう」
 部屋の中に、枯れた声が響く。
 恒純は、ゆっくりと老僧の方へ顔を向けた。
華雲かうん様、何を…」
 恒純が言い終える前に、華雲の手が彼の腕を掴んでいた。
「ともに死ぬのだよ。転生などできなくとも良い。永遠とわに二人彷徨い続けるのだ」
「なっ……」
 恒純は驚いた。
 驚いて、涙も止まってしまった。
 華雲の腕の力の思わぬ強さに、抗うまもなくずるずると引きずられ、部屋の障子戸をくぐる。
 そこに、あの滝がある。
「死ぬのは簡単だ、この滝の中に身を投げるだけでいい。生きるのはずっと難しいではないか」
「そんな、私は死にとうありません!」
 恒純の身体に冷たいものが触れた。
 水に濡れた簀子の上に引きずり出されていた。
 目の前には柵が、その向こうには轟々と音を立てて水を飲み込んでいる滝壺が、ある。
 華雲の手が柵に掛けられる。
「さあ」
 華雲が恒純を振り返った。
 笑っている。
 それを見るなり、恒純は背を走り抜けるような悪寒を覚えた。
 体中から脂汗が噴き出しそうだった。
「死にとうありません……」
 震えるような、聞こえるか聞こえないかの声で、恒純はそれだけやっと呟いた。
 それが聞こえたのか、華雲の表情に少しばかり怒りが含まれたように見える。
「死ぬのだ」
 有無を言わさぬ声でそう言って、華雲は柵の方へ身体の重心を移した。
 柵を乗り越えようとしたのだろう、恒純の腕を引き寄せるために勢いをつけようと、華雲が一瞬手の力を抜いた。
 その時である。
「嫌だ!」
 恒純は力を込めて、華雲の腕を振り解いた。
 その反動で、
「恒純……」
 柵の方へとさらに寄りかかった華雲の身体が、
「華雲様!?」
 恒純にはふわりと宙を舞ったように見えた。
 そして滝壺の中へと、
「華雲様!!
 落ちた。
 折れた柵ごと、華雲の身体は音も立てずに落ちていった。
 恒純は、呆けたようにそれまで華雲が立っていた場所を見つめた。
「……」
 その横で、その恒純の顔を見つめている姿があった。
「…坊主同士がやってんのも、見てっと興奮するな。勃っちまいそうだぜ」
 ぼそりと蛇骨が呟くと、恒純は初めてその姿に気がついたらしい、ゆっくりと蛇骨の方を振り返った。
「見て、いたのですか……」
「ああ、見たとも。坊主がただの人に返るところをな」
 蛇骨は縁側の柱に寄りかかったまま、一部始終を見ていたらしい、そんなことを言った。
「……」
「今も昔も、坊主ってのは変わらねえなぁ。馬鹿で弱くてやたらと死にたがってよ」
「…あなたは、一体何者です」
「この寺に隠してあるものを探してる」
「……そうですか」
 恒純は、静かに顔を伏せた。
「あなた方がお泊りになっていた床板の下にありますよ」
 やはり静かに、恒純は呟いた。


「気づかなかったな、こんなところにあったとは」
 煉骨が半分は感心、半分は呆れたように言った。
「そうだな」
 蛮骨もそれに肯いている。
「大胆なこった。客室に阿片あへんたぁな」
「ああ」
 今度は煉骨が肯いた。
「これだけの量、売れば相当の金になる」
「まぁ、坊主が聞いて呆れるってもんだぜ」
「ああ」
 煉骨は、目の前の麻薬が詰まった麻袋を見ながら、抑揚の無い声で呟いた。
「生き残った坊主はどうします」
「俺は坊主にゃ興味ねぇや」
「俺もです」
「蛇骨に任せりゃいいだろ。あいつの男だ」
 煉骨は肯いた。
 それから何やらしばらく逡巡した後、ぽつりと言った。
「…奴は、昔は寺にいたと聞いたことがありますよ」
「俺も聞いた。直接にじゃねえけど」
「そうですか」
「おめえも寺にいたよな」
「ああ」
「まあおめえと蛇骨とじゃ、やってたことは大違いだろうけどよ」
「でしょうね」
「殺すかな、蛇骨はあの坊主を」
「さあ、どうだか」
「殺せねえようでも困るけどよ」
 ひたひたという足音が聞こえてくる。
 するとややあってから、静かに部屋の障子が開けられた。
「すげぇな、そんなに隠してやがったんだ、あの坊主ら」
 蛇骨が半分は感心、半分は呆れたように呟いた。
「どこ行ってたんだ」
 という煉骨の問いには答えず、蛇骨はゆっくりと二人の傍までやってくると、そこに腰を下ろす。
「あの坊主殺してきた」
「そうか」
 煉骨が肯いた。
「三回ほど」
「……三回?」
 蛮骨が呆れた顔をして言った。
「坊主と致してきた、って言い直したらどうだよ、外道」
「兄貴に外道なんて言われたくねえなぁ」
 煉骨もそれで意味を察したらしく、蛮骨と同じような顔をして蛇骨を見る。
「まだやり足りなかったのか、てめえは。獣じゃあるめえし」
「あの坊主、ケツが痛ぇってひぃひぃ言いやがってよ、可愛かったなぁ」
「誰がそんなことを聞いて…」
「痛ぇって言えるうちは、生きる気が残ってやがんだよなぁ」
 呆けたように、蛇骨は宙を見つめていた。
「だから殺さなかったのか?」
 蛮骨が問う。
「ううん」
 蛇骨は首を横に振った。
 そしておもむろに、蛮骨の首へと腕を回し、寄りかかった。
「蛇骨?」
「あの爺がほざいてた言葉が俺には懐かしいよ」
「どういう意味だ」
「誰かに死ぬほど惚れられたことが、俺にもあったなぁ、って」
 蛮骨の首筋に額を押し当てて、蛇骨は息を吐いた。
「俺は丈夫おとなになっちまったよ」
「……餓鬼のままが良かったのか?」
「そういうわけじゃねえけど、ただ懐かしいだけだよ。あんまりいいことなんて無かったし、聖人面した坊主なんて大して好きでもねえけどよ」
 蛮骨はその言葉に答えなかった。
 しかしその代わりに、まるで子供をあやすときのように、ぽんぽんと蛇骨の背を叩いてやる。
 煉骨が呆れた顔をしている、とは思ったが、まあいいか、と思う。
「で、蛇骨、なんであの坊主を殺さなかった」
「そりゃぁ…」
 顔を上げて、蛇骨は小さく笑った。
「もっといい男になって帰ってきてもらうためにさ」

(了)