天狗の椀

 目の前の忍び装束の腕をねじり上げてその覆面を取り去ると、蛇骨は、なんだ女か、と吐き捨てるように呟いた。
「兄貴、こいつ殺していい?」
「待ちな」
 今にも背中の刀を抜こうとしている蛇骨の腕を軽く手で押さえながら蛮骨がその忍び装束の女の前に立った。
 そして女の頭の先から足の先までじろじろと視線を這わすと、片手でその女の顎を掴んで自分の方を向かせた。
「よく見りゃいい女じゃねぇか」
 それに、と蛮骨が続ける。
「俺たちを見ても怯みもしねぇ。自分の置かれた立場を冷静に把握してる目だ」
 だいぶ場慣れしてるみてえだし…細人しのびの道は長え方だろうな…さらに蛮骨は続ける。
 まあそれなら…
「腕も悪くねぇ。仕込めば戦力になりそうだ」
「あぁ? 何言ってんの兄貴」
 にやっ、と蛮骨が笑った。
「連れて帰る」
「…もう一回」
「連れて帰る」
「はぁーーーーっ!?
「やかましい」
「…ごめん」
 蛮骨が、ふう、と息をついた。
「蛇骨、そういうわけだ煉骨に言伝ことづて頼む」
「なあ、ほんとに連れて帰んの。本気?」
「本気」
「蛮骨の兄貴の浮気者…」
「馬鹿、俺が心寄せてるのはこの世でたった一人よ」
「え? 誰だよ、ひょっとして俺?」
「馬鹿」
 さっさと行け、と蛮骨が手で追い払うような仕草をすると、さすがの蛇骨も不満げに頬を膨らませながら蛮骨の元を離れていった。
 それを見送ってから、蛮骨は忍び装束の女の方を振り返る。
「さてと」
「……」
「おまえ、名前は」
 女が、きっ、と蛮骨を睨む。
 だが、蛮骨はそれを見てふん、と鼻で笑った。
「そんなに恐い顔すんなよ。別に取って食おうってわけじゃねえんだ」
「細人がそう易々と名を名乗れるか」
「こっちは名乗ってもらわなくちゃ困るんでね。嫌な思いしたくなかったらさっさと言っちまいな」
 女が歯噛みをする音が聞こえた。
「…初音」
「初音、だな」
「そうよ」
「なら初音、おまえにゃしばらく俺の下で働いてもらうぜ。殺されねえだけましだと思えよ」
「…殺された方が、よっぽどましだ」
 ふん、とまた蛮骨が鼻で笑う。
「そんなに殺されたけりゃ、しっかり働いた後で殺してやるよ」
「……」
「立て」
 蛮骨が初音の肩を掴んだ。
 初音も、あらがうことなく立ち上がって、それに引かれていった。
 その時不意に、この蛮骨という少年の背を見ると、白い着物の上に小さな赤い染みがあるのが見えた。


「お腹出して寝てると風邪引くわよ」
「…初音か」
 縁側で寝転がり、日光に当たってうとうととしていた蛮骨は、ちら、と屋根の方を見上げた。
「いつまでんなとこにいる気だよ。さっさと降りて来い」
「分かってる」
 いい終わらないうちに、初音の姿が蛮骨の目の前に現れた。
 音も立てずに目の前に降り立った姿に一瞥をくれて、起き上がりもせずに蛮骨が言う。
「収穫は」
「特に無いよ」
「そうか…まだ、動かねえか」
「動かないね。ねえ、動かないはいいけどさ、なんであの店を見張らなきゃならないのよ。そりゃ確かにあの店は、紐屋にしちゃ多すぎるぐらい儲かってるみたいだし、裏で何かやってるのかもしれないけど…」
「おまえは黙って仕事しときゃいいんだよ」
「…まあ、それもそうだけど」
 初音が、身軽な動作で蛮骨の隣に腰を下ろす。
「おい、あんま近くに座ってっと尻触るぞ」
「言ってから触る奴がどこにいるのよ。近くに来られたくなかったらそう言えば」
「…寄るな」
「はいはい、雇い主さま」
 初音は、蛮骨の身体から二尺ほど離れた所に腰を掛け直すと、両手を後ろに回して結っていた髪を解いた。
 しなやかな黒髪が肩を流れた。
 それにしても、と蛮骨が口を開く。
「おまえがこんなに真面目に働くとは思わなかったぜ」
「そりゃ私だってただならこんなに働かないわよ。ちゃんと雇ってくれるんだったら、働くよ」
「まあ、それもそうか」
「今みたいに破格の報酬もらってちゃ、働かないわけにいかないでしょ」
「大事に使えよ。俺達の血と汗の結晶から、多すぎるほど払ってやってるんだからよ」
「どうせ人殺して儲けたお金でしょうが」
「こっちだって身体張って命賭けてんだぜ。自分の命はかりにかけてまで金稼いで、あー、俺年取って合戦に出られなくなったらどうやって食ってくんだろ…」
「そんなの、死ぬまで傭兵やってるんじゃないの。死ぬ気なんかこれっぽっちもないくせに、よく言うわ。私の方がよほど命を秤にかけてるわよ」
「そうか?」
「私あんたほど強くないもの」
「そりゃそうだ」
 あっさり肯定して、蛮骨はごろんと寝返りを打った。
 そして傍らにあった黒い椀と酒瓶を取り上げ、酒瓶から椀の中に透明な液体をどくどくと注ぐ。
「昼間っから酒呑んでごろ寝とは、いいご身分だこと」
 初音が分かりやすい嫌味を言ったが、蛮骨は気にする様子もなく、椀の中の液体を飲み干した。
 手の甲で口元を拭い、椀をまた身体の横に置く。
「…ねぇ、その黒塗りの椀、随分使い込んでるのね」
「あ? ああ…まあな」
「大事なの?」
「別に。決まった家がねえからな、椀と箸は持ち歩いてんだよ」
「それにしても随分長いこと使ってるんでしょ。もうところどころ塗りが剥げてるじゃない」
「まぁ、言われてみりゃそうだな。けどまだまだ使えるぜ。中身がこぼれなきゃいいんだよ」
「ふぅん」
 と、初音が頷いたその時、建物の奥のほうからのそりのそりという足音が聞こえて、ややあってから、柱の陰から顔を出した影があった。
「大兄貴、どうでぇ調子はよ」
 霧骨だった。
 のそりのそりと霧骨は蛮骨の傍まで寄ってくると、しゃがみ込んで手元にあった酒瓶に手を伸ばした。
 それを持ち上げて小さく振る。
「大兄貴、飲みすぎは身体に毒だぜぇ」
「うるせぇ」
「まあ、切れてくると辛いのは分かるけどよ」
 言いつつ、霧骨は己の懐に手を突っ込んで何やらごそごそと中を探り始める。
 霧骨の着物の腹の辺りだけが妙に膨らんでいる。
 霧骨が懐から手を引き抜いたとき、ちょうどその部分から大きな酒瓶が一つ、取り出された。
「悪いな」
 蛮骨がそれを受け取る。
「本当のところよ、飲みすぎると身体に悪いぜ。それから、煉骨の兄貴が…」
 言いかけて、霧骨は不意に、蛮骨の耳元に口を寄せた。
「あんまりそこの細人女と仲良くすんなってよ。蛇骨が拗ねてうるさくて敵わねえからって」
「そりゃ俺の勝手だって言っとけ」
 ところで…と蛮骨も、声を潜める。
「煉骨や蛇骨にばらしちゃいねえだろうな」
「ばらしゃしねえよ。特に蛇骨なんかに言ったら、なんで今まで黙ってたんだ、ってこっちが酷い目に遭っちまう」
「そりゃ、そうだな」
 蛮骨が苦笑した。
 じゃあ、と言って霧骨が去っていくのを見送りながら、初音がぼそりと言った。
「あんた、天狗みたいよ」
「…何だって?」
「天狗は、ずっと同じ茶碗でご飯食べるんだってさ」
「……」
 蛮骨は、特に何も答えはしなかった。
 ただ目線だけを初音の方に向けた。
 そして心の中で、ぼそりと呟く。
 いっそ、天狗なら…良かったんだけどな。


 むかつく! むかつく!! むかつくっ!!
「あー、もう腹が立つったりゃありゃしねえ! なんなんだよあの女朝から晩まで大兄貴にべったりしやがって!」
 なあ銀骨、と、蛇骨が勢いよく傍らの銀骨の方を振り向く。
「ぎ……」
「大兄貴もあんな女のどこがいいんだよ~っ!!
 会話というよりほとんど大きな独り言のように喋り続けながら、蛇骨が己の頭を掻き乱している。
「ぎ…じゃ、蛇骨、落ち着…」
「これが落ち着いていられるかっ!」
 乱れた髪を振り乱して怒る蛇骨の、得も言われぬ迫力に銀骨は思わず一歩後ずさった。
 しかし、そんな蛇骨を一喝する声が、ちょうど蛇骨の背後から聞こえた。
「おい蛇骨! 銀の油のノリが悪くなるだろうが、八つ当たりするな」
「煉骨の兄貴…なんだよ、どうせ兄貴は銀骨がいりゃいーんだろ。そうなんだろ」
「てめえはまた何寝ぼけたこと言ってやがる。餓鬼じゃあるめえし、一々でけえ声出して騒ぐんじゃねえよ」
「騒ぎてぇから騒ぐんだよ、文句あっか」
「大有りだ馬鹿野郎」
 む、と蛇骨がふくれっつらをしているのを見て、煉骨が大きく溜め息をついた。
「俺達だって別に好きであの女を連れ帰ったわけじゃねえんだ。それは分かってるだろう」
「…そりゃ、分かってるけどさ」
 ちぇ、と蛇骨が舌を打つ。
「分かってるなら静かにしてろ。なに、あと三日もすりゃカタはつく」
「あと三日も、あの女がいるってことじゃねえか。胸糞悪い」
「いい機会じゃねえか。てめえもちっとは女に慣れろ」
「御免だね。俺は生まれてこのかた男以外に興味ねえのよ」
 さも忌々しげに、蛇骨が言葉を吐く。
「女が同じ家ん中にいると思うだけで血の気が引くぜ」
「その割にゃ、やってることは血気盛んじゃねえか」
 そんな蛇骨の毒気もあっさりと皮肉で切り返し、煉骨はさらに続ける。
「ともかくだ、てめえは少し静かにしてろ。銀骨に八つ当たりするな」
 畜生、と小さい声で蛇骨が吐き捨てた。
「分かったよ」
「ならもう行け」
「兄貴は?」
「俺は少し銀骨の調子を見る」
「あっそ」
 特に興味が無い、というように蛇骨は部屋の外へと歩きだしたが、部屋から縁側に一歩出た所で、
「あーあ、毎晩毎晩煉骨の兄貴も銀骨も二人して仲良くしちまってよ。やーらしーんだー」
 と、向こう三軒両隣に聞こえてしまいそうなほど大きな声で言い放ち、それから去った。
 歩きながら、後ろから煉骨の怒鳴る声が聞こえても、蛇骨は我関せずと歩を進める。
 縁側に面した小さな庭には、夏も近づき青い雑草が茂っている。
 空には三日月。
 生温かい空気が肌に絡みつくよう。
 胸糞悪い、と蛇骨は心の内に毒づいた。
 濃紺の空を見上げる。
 じっ、と、蛇骨が鋭利な刃物のごとくしろかねに光る月を眺めていると、不意に、視界の端を黒い塊が掠めた。
 女…。
 蛇骨は視界に捉えたその黒い影を目で追っていく。
 すると、その内に影はすぐ近くの屋根の上までやってきて、音も立てずに身軽な動作でその真下にある縁側の板の上に降り立った。
(また胸糞悪いもんが来ちまった)
 黒い影は覆面をしていた。
 それを顎の下まで引き下ろし、影が、ちょうど正面にあった部屋の中に向かって呼びかける。
「ちょっと、起きてるんでしょ。帰ったよ」
 初音の声だ。
 返答の無い部屋の障子戸を、初音は開けようと手を伸ばす。
 その時蛇骨の心の中に、酷く加虐的な悪戯心が芽生えた。
「おい、女」
「…あんた」
「蛇骨だ、蛮骨の大兄貴の弟分の」
 にぃ、と蛇骨が口の端を持ち上げると、初音は訝しげにそれを見ながら、一歩、後ずさった。
 警戒してやがる、か。
 蛇骨は妖しげな笑みを携えたまま、一歩、前に踏み出す。
「そんなに恐がんなよ」
 ふっ、と初音が笑う。
「警戒もしちゃいけないっての? あんた私がここで働き出してから一度も私に声なんか掛けてこなかったのに、今夜は一体どういう了見よ」
「別にそんなに身構えなくても、夜伽なんか頼みゃしねえぜ。俺ぁ女には興味ねえからよ。ただちょっと…」
「何さ」
「いーこと教えてやろうと思って」
 にこり、と蛇骨が笑んだ。
「いいこと?」
「そ、いーこと」
「何よ」
「誰もな、てめえの腕なんか信用しちゃいねえんだよ。知ってたか?」
 邪な笑みを、蛇骨は口の端に浮かべた。
「てめえは捨て駒がせいぜいなんだぜ、女」
「…何の話なのさ」
 初音がぎゅ、と拳を握り締めた。
「蛮骨の大兄貴はてめえを使えそうだ﹅﹅﹅﹅﹅とは言ったけどな、あんなのは大嘘よ。俺も最初は知らなかったけど、てめえは最初っから捨て札になるために連れて帰られたんだぜ」
「……」
「てめえを捨てて、俺達が戦って金を貰う、と…もっと言えばな、てめえは敵への撒き餌まきえなんだよ」
「……」
「てめえにつられて敵が尻尾出してくれりゃ、もう用無しさ」
「…敵、だって?」
「てめえが探ってる紐屋をねぐらにしてる連中だよ」
 初音は強く唇を噛んだ。
「……」
 蛇骨が妖しく笑う。
 初音の反応が徐々に蛇骨の加虐心を満たしていく。
 それは男を嬲る高揚感とは違ったけれど、それでも蛇骨がそれなりに満足できるだけの愉悦感は持っていた。
「…なんで、そんなこと私に」
 初音が搾り出したような、掠れた声で、言った。
「嫌いだから」
 ぎり、と初音が歯噛みをする音が聞こえた。
「敵の餌のくせに蛮骨の兄貴とべったりしやがってよ。ああ、ひょっとしててめえ兄貴に身体でも売ったか? 兄貴はやらせてくれる女が好きだもんなぁ」
「な…っ!」
「真面目に仕事してるように見えて実は好き者ですってか? なあ、どうなんだよ。兄貴に何度鳴かされた? その軟らけぇだけの生っ白ぇ体まさぐられて大兄貴に何っべんも鳴かされてたんだろ? ああ?」
「こ…」
 初音の顔は真っ赤だった。
「この野郎っ!」
 初音が蛇骨に掴みかかろうとした。
「上等じゃねえか!」
 蛇骨も、身構えた、その時。
 がらりと、すぐ横の障子戸が開いた。
「蛇骨、いい加減にしろよ」
 その中から、蛮骨が、冷たい視線を蛇骨に向けていた。
 蛇骨が目を見開いて、そちらを向いた。
「ば…蛮骨の、兄貴…」
「ったくてめえは相変わらず馬鹿だなぁ。初音と一緒に俺まであざけってるって、気づいてねえのか」
 蛮骨が、はあ、と溜め息をつく。
「行けよ」
「ご、ごめ…」
「行けよ!」
 蛇骨は静かに後ろを振り返った。
 そして、ゆっくりと、次第に足を速めてその場を離れていく。
「初音、俺んとこのもんが、悪かったな」
「ねえ、本当なの? さっきの話」
「さっきの話の、どの辺が?」
「私が、捨て駒だって…」
「……」
 蛮骨が、初音を見た。
「半分本当で半分嘘だ。蛇骨の話はな」
「どういうことなの」
「…詳しく聞きたかったら、明日の朝もう一度来い」
 初音が、蛮骨を見た。
「どうして!? 今教えてよ!」
「駄目だ」
 言うなり、ぴしゃりと蛮骨は障子を閉めてしまった。
「……」
 閉められた戸を開けることは簡単だ。
 しかし、蛮骨の声にはそれを許さないものがあった。
 初音は黙って踵を返した。
 しかしその直後に。
 どん、と、蛮骨の部屋から何かが落ちるような音が聞こえて、初音は驚いてそちらを振り返った。


「首領?」
 初音が蛮骨の部屋の障子戸を細く開いた。
「開けるな!」
「もう、開けちゃったわよ」
「…っ、入れ」
 搾り出すような声で、蛮骨が言った。
 蛮骨は部屋の入り口に程近い所でうずくまっていた。
「今の音は…」
 初音が静かに障子戸を閉める。
「何でもねえよ」
「何でもないって音じゃなかったけど」
 言って、初音は蛮骨を見た。
 ぎょっ、とした。
 蛮骨の、着物の背中に、
「ちょっ、何、これ」
 五寸ほどの大きさの、濡れた染みができている。
 初音ははっとした。
 すぐに、蛮骨の額に手を当てた。
「酷い熱じゃないの…」
「他の奴らには黙っとけよ」
「でも」
「いいから。こんなときに頭が倒れるわけにゃいかねえよ」
「その背中、見せて」
「もういいだろ、俺に構うな」
「見せて!」
 半ば、無理やりのように、初音が蛮骨の着物を引き摺り下ろす。
 初音は、小さく唸った。
「馬鹿」
「……」
「こんな大きい傷、どうして放っといたの…膿んで、熱も持ってるわよ」
「んなこと、分かってるよ」
「今まで平気そうにしてたのが、不思議なくらいだよ」
「痛みさえなけりゃぁ…」
 そう言いかけて、蛮骨がふっ、と笑った。
「痛みさえ抑えてりゃ、それなりには動けるさ」
「…まさか、あんたが飲んでたあの…」
「そう、あの酒瓶にゃ酒なんか入っちゃいねえよ。中身は霧骨が調合した痛み止めだ」
「どうりで、飲んでばっかいると思った」
 はあ、と、初音が溜め息をつく。
「おめえの言うとおり、俺も天狗だったらな、こんな傷ぐらいで困ることもねえだろうに」
「どうせなら化膿止めでも飲みなさいよ」
「そういう便利な薬が作れるほど、時間がねえ」
「……」
 蛮骨が、ゆっくりと、肩越しに初音を見た。
「見なかったことにしろ」
「…分かった」
 初音が肯く。
「ただし、その傷に薬塗ってさらしの一枚も巻いてからね」
「な…おい、てめえどこ行…」
「細人の膏薬こうやくはよく効くわよ。取ってくるから」
 言いざまに姿を消した初音を、蛮骨は小さく息をつきながら見送っていた。


「きつい?」
「いや」
 小袖に着替えてたすき掛けをした姿で、初音が、蛮骨の肩口から背にかけてをさらしで巻いて、ぎゅっ、とそれを引っぱった。
「さっきあげた熱冷ましは?」
「飲んだぜ」
「なら、あと四半刻もすれば効いてくるよ」
「なあ、初音」
「何?」
 蛮骨が肩越しに初音に視線を向ける。
 真剣な顔を、蛮骨はしていた。
「今夜の収穫は?」
「え、ああ、あの紐屋は…やっぱり、動いてはなかったけど」
「なかったけど?」
「静か過ぎる感じだったよ、普段に比べて」
 初音が、もう一度さらしをぎゅっと引っぱった。
「嵐の前のなんとやらか…」
 蛮骨が呟く傍ら、初音は巻いたさらしの端を結び、綺麗に整えた。
「ねえ、もう教えてくれてもいいんじゃない?」
「おめえは確かに敵の餌だよ」
「……」
 初音が目を伏せる。
「けど、別にそのためにおめえを連れてきたわけじゃねえ」
「…どういう、ことなの」
「あの紐屋に潜んでる連中はおめえを狙ってる」
 蛮骨がゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「だから俺達は、おめえを囮にして奴らをおびき出そうとしてんのさ。おめえが俺のとこで働いてるって知れりゃ、奴らここを討ってくるはずだ。でも、捨て駒じゃねえよ。殺させやしねえ」
「つまり、私が向こうを探りに行ってることに、気づかれてること前提なわけか」
 初音が、苦笑う。
「本当に私の腕は信用されてなかったのね」
「そういうわけでもねえ。別におめえが探りに行ってるってことは、奴ら気づいちゃいねえだろうさ。おめえのことはわざと奴らに教えてやったんだからな」
「どうやって?」
「人の噂はすぐ広がるってことよ」
 蛮骨がにやりと笑んだ。
「…ねえ、どうして私が狙われなくちゃならないの」
「そりゃまあ…奴らと、おめえんとこのお頭と仲が悪いからよ」
「それって…」
 初音の表情が険しいものに変わる。
「なに、奴ら風魔忍者くずれの小悪党だ。恐がるほどのもんじゃねえよ」
「べ、別に恐がってるわけじゃないけど…ちょっと、こっち向いて。前が崩れてる」
「向くけど、変な気起こすなよ」
「変…ってそれはこっちの科白よ」
「馬鹿やろ、俺は、自慢じゃねえが仕事相手の女にゃ手は出したことねえぞ」
「…本当に?」
「…多分」
 何よそれ、と苦笑しながら初音が蛮骨の胸の辺りのさらしを直している。
「俺の考えてるとこじゃ、あと二、三日は奴ら動かねえと思ってる」
「そうかしら。私が見てる分だと…」
「ああ、きな臭くなってきた」
 と、蛮骨の視線がすぐ近くにあった初音の瞳を捉えた。
 笑うでも、険しいでもなく、至極静かな顔をして、ただ、じぃっと蛮骨が初音を見つめる。
「な、何?」
 その視線に耐え切れず初音が問うと、蛮骨は表情を変えないまま、言った。
「いや、この借りはどう返してやろうかと思ってな」
「へっ、あ、借りって手当てしたこと? 別にそんな私は…」
「だって借りっぱなしじゃ気持ち悪いだろ」
 言うなり、蛮骨の手が初音の着物の裾に伸びた。
 中に差し込まれた蛮骨の手を見て初音が小さく悲鳴を上げる。
「やだっ、ちょっ…!」
 仕事相手の女には手え出さないんじゃなかったの!?
 ところが、すぐに蛮骨は初音の着物の中から手を引き抜いた。
「あっ、私の…」
 その手の中に、小振りのクナイが一本握られていた。
「来やがったな!」
 蛮骨がそのクナイを外に向かって投げつけると、ぎゃっ、という呻き声とともに、どん、と何かが崩れ落ちた音が聞こえた。
 その音を聞くか聞かないかの内に、蛮骨は傍らにあった蛮竜を掴み上げて床を蹴った。
「馬鹿! あんたまだ熱がっ!」
 その声は、蛮骨には届かない。
 障子戸を開け放って、蛮骨が叫んだ。
「野郎共!! 敵襲だ!」


 そのとき、どぉん、という音とともに強い火薬の臭いが流れてきた。
「何!?
 蛮骨の後ろで初音が驚いて声を上げた。
「銀骨の火薬の臭いだ。あっち側にも出たらしいな」
 と、
「蛮骨の大兄貴! 伏せろ!」
 誰かがそう叫ぶ声が聞こえたかと思うと、蛮骨は初音の腕を引っ掴み、自分も一緒に蛮竜の影に身を屈めた。
 途端。
 ちゅんっ、と音を立てて、鉛の玉が蛮竜の上を跳ねた。
「やなもん持ってやがる」
 蛮骨が忌々しげに呟く。
 初音も緊張した様子で口を開いた。
「今のは…まさか、種子島?」
「だろうよ。落ちぶれ忍者が贅沢なこった」
 おい、と蛮骨が初音の方を振り向く。
「自分の身は自分で守れよ」
 言うなり蛮骨は飛び出した。
 目の前に現れた黒い影を蛮竜で薙ぎ払い、血飛沫を飛び散らせながら、蛮骨は姿を消す。
 それを見て、一瞬唖然とした顔をした初音であったが、すぐに平静を取り戻し、
「言われなくたってそうするわよ」
 言いながら懐から縄標じょうひょうを一本取り出し、その縄を左手に一回巻きつけた。
 縄標とは、棒手裏剣状のものに縄をつけた武器である。
 ひゅっ、と縄を振って勢いをつけると、近くの垣根目掛けて、初音が縄の先を投げた。
「っあっ…」
 男の呻き声をその耳で確かめて、縄を引きざまその先を掴み、体の横に投げつける。
 また、男の呻き声が上がった。
 さらに縄を引き、血まみれの縄の先を握り、初音が倒れた男の後ろに立っていた人影を睨みつけた。
「やるな、女」
 人影が笑う。
「あんたは…確か、睡骨とかいったっけ?」
「そうだ。蛮骨の大兄貴はどこに行った」
「一人で敵追っかけて行ったよ」
「そうか。この辺りにはもう生きた敵はねえ。俺達もそこへ」
「そうね」
 足音も立てず、初音は駆け出した。
 睡骨もその後に続く。
 濡れ縁の、角を曲がった所で二人は足を止めた。
 初音が息を呑んだ。
「何これ…」
 初音が驚くのも無理は無い。
 庭の土が黒と赤で埋められていた。
 黒は、黒装束の細人たちの体であり、そして赤は、その体から流れ出した、血だ。
「大兄貴がやったんだろう。相変わらず、さすがだな。全部綺麗に喉を掻っ切られてやがる。あの馬鹿でけえエモノで、器用なもんだぜ」
 睡骨は落ち着いた声で、そう語る。
 あの体で、ここまで戦えるなんて…。
 初音はごくりと口の中に溜まっていた唾を飲み込んで、再び駆け出した。
 そしてもう一度濡れ縁の角を曲がり、足を止めた。
「大兄貴!」
 初音の背後で睡骨が叫ぶ。
 前方で、黒い人影に鉄砲を向けられている蛮骨の姿が、二人の目に入った。
「睡骨か!」
 蛮骨が、振り返りはせずに、叫び返す。
 叫ぶなり、蛮骨の体が宙に舞い上がった。
 ふわり、と投げ上げられた鞠玉のような身軽さで蛮骨は飛び上がると、
「んぐぁっ…!」
 右のくるぶしを、見事に人影の首の付け根へと叩き込んだ。
 それを唖然として見つめる、初音と睡骨の後ろで、
「…やっぱ、兄貴怒ってんのかなぁ」
 と物憂い声を上げたのは蛇骨だ。
 睡骨の影に隠れるようにして蛮骨の方を見ていた。
「ところであのさらし、何だよ?」
 片手に血まみれの蛇骨刀を携えたまま、蛇骨が呟く。
 前方の蛮骨が三人の方を振り返った。
「おいてめえら! 何そんなとこでかたまって…」
 言いかけた、蛮骨の表情が固まった。
「初音!」
 叫ぶ前に、蛮骨は地を蹴っていた。
「えっ?」
 初音は訳が分からず立ち尽くしている。
 もう一度蛮骨が叫んだ。
「下だ!」
 下…?
 初音は、身を引きながら足下に視線を遣った。
「……」
 床下から、黒装束に身を包んだ男が、吹き矢で初音を狙っていた。
 男が筒に息を吹き込もうと、小さく息を吸う。
 …逃げられない!
 しかし、息を吸おうとしたそのままの顔で、男は動かなかった。
「……」
 初音には、それがいつ目の前に現れたのか分からなかった。
 速ぇ…と、蛇骨が嘆声を上げる。
 蛮竜が、縁側の床板を突き破っていた
「…首領」
「自分の身は、自分で守れって、言っただろ」
「……」
「まだまだ、甘えな」
 蛮骨の全体重をかけられて、初音の目の前の床板を突き破った蛮竜は、確実に、敵の体をも貫いていた。
 蛮骨の額を、汗が一筋流れ落ちる。
 ほんの少しばかり、苦しそうに蛮骨が顔を歪めた。
 あのまま、この背を放っていたら…こんな芸当は無理だった…。
 そして目の前の三人に、特に初音に、気づかれないように、くく、と自嘲気味に肩を揺らした。
 まだまだ甘えのは、俺も同じか。


「首領殿」
 と、呼ぶ声に蛮骨は後を振り返る。
 その場にいた七人隊の面々、すでに蛮骨と合流していた煉骨や銀骨も、ちらりとその声の先を見た。
「ご苦労でしたな」
 声とともに、垣根の影から現れた人物を見て、蛮骨が小さく眉を動かした。
 そして、傍らに立っている初音の方を振り向いて、
「初音、迎えが来たみたいだぜ」
 と、伝えた。
「迎え?」
「よく見てみろよ」
 そう、蛮骨が指差すその人物を見つめて、初音が驚いたような声を上げた。
「お、お頭…」
「初音、おまえもご苦労だった」
「な、何故、ここに」
「おまえには知らせず、悪かったな。俺がこの七人隊首領殿におまえを任せたのだよ」
影阿弥かげあみ、おしゃべりは後にしろよ」
 蛮骨が文句を言うように言うと、影阿弥と呼ばれたその人物は、小さく笑って懐から皮袋を取り出すと蛮骨に向かって投げつけた。
「後金だ」
「確かに、間違いねえな」
「さすがは七人隊首領殿、敵は壊滅させ、この初音の身も傷一つつけずに返してくださった。申し分の無い仕事だ…背にそんな怪我を負っていたとは、到底思えぬよ」
「けっ、おだてても何も出ねえぞ」
 傍らで、訳が分からない、という顔をしている初音に、蛮骨は言った。
「おまえを狙ってくる奴らを倒すのも、おまえをあの合戦場から連れて帰るのも、どっちもおまえのお頭に頼まれた仕事だったのさ」
「俺の大事な部下をそう易々と失くすわけにはいかないからな」
 影阿弥が苦笑しながら言う。
「はあ…」
 初音は、それでも今ひとつ事情が飲み込めぬようであったが、
「初音、里に戻るぞ」
 と、影阿弥に呼ばれて頬を緩める。
「…はい」
 影阿弥の方へと、初音は歩を進めようとした。
 そのとき。
 初音の手の先に、蛮骨のそれが触れた。
「初音」
 驚いて、初音が振り返る。
「何よ」
 にや、と蛮骨が笑った。
「俺の背の傷が無かったら…」
「無かったら?」
「無かったら、やっぱ一回くらいは俺のもんにしたかったけどな。おまえいい女だし」
 ぐっ、と、蛮骨が初音の腕を掴んで、自分の方へ引き寄せる。
 そのまま片手を初音の頭の後ろへ回した。
 そして。
「……」
 一瞬触れ合ったとか、そんな軽いものではない。
 たっぷり十は数えられ程。
 それを見て、影阿弥は眉をぴくりと動かし、七人隊の残り面々の、ひとりは大声を上げて驚き、残りの半分はあんぐりと口を開け、半分は視線をそらした。
 初音の頭の後ろへ回した手で、逃げられないように支えながら、蛮骨は己の口で初音のそれを塞いでいる。
 ゆっくりと唇を離して、蛮骨は言った。
「これで借りは返したってことにしとけよ」
「か、借りって、そ…それ、普通、さ、そういうのは私がしてもらって嬉しいことで返すもんじゃないの」
「嬉しくなかったか?」
「別にっ」
 くるりと、初音は蛮骨に背を向けた。
「お頭、帰りましょう」
「…ああ、そうだな」
 影阿弥が初音の顔を見て、小さく、可笑しそうに笑った。
「首領殿、世話になった。俺達は里に戻るとするよ」
「ああ」
「それでは…」
 そう、言い終える間もなく影阿弥の姿は消えた。
 初音もその後を追おうと、一歩、前へ踏み出す。
 しかし一瞬躊躇って、体半分だけ蛮骨の方を振り返った。
 小さく手を振ってみせる。
 蛮骨も、笑いながらひらひらと片手を振り返していた。

(了)