四時の森

 その場所は人里にあっていまだ手付かずの森の中。一見うっそうとして昼間ですら薄暗く、大人でも一人歩きは怖い。子供が遊び半分で近づこうものなら、
「森に住む魔女に捕まって、大釜で煮て食べられてしまうよ」
 と叱られるような、そんなところである。
 実際のところは魔女なんてもの住んでいるはずもないし、別段危険な場所でもなかった。それを知っているのは、今のところ二人だけである。
「ねえジョシュア、どう? 大丈夫そう?」
「大丈夫だよ。大した傷じゃない。きっと猟師の仕掛けたわなから逃げてきたんだ。そのとき少し羽根が抜けたんだね」
 ジョシュアはそう言って、手の中でうずくまっている若い黒ツグミの傷口へ治療薬を少し塗ってやった。それから、早く治るようおまじないにツグミの羽の付け根へ祝福のキスを与えた。
 ティティスはその横顔をまぶしそうに眺めている。
 ジョシュアの淡い栗色の髪が日差しを浴びて金色に輝いている。森がうっそうとして見えるのは外からだけで、ひとたび中へ足を踏み入れると、案外樹木はまばらで明るい。
 日の光をたっぷり浴びてさまざまな草花が茂り絨毯じゅうたんのように地面を覆いつくしている。程近いところに小さな泉があり、その周りはみずみずしいシダやコケでみっしりと深緑に染まっている。
 あちこちで鳥がいい声でさえずり、小動物の行き来する気配を感じる。しかし人の姿は、ジョシュアとティティスの他には全くなかった。
 美しい自然の残る場所だ。傭兵団の他の仲間にも教えたらきっと喜ぶだろう。が、二人ともまだ誰にもここのことを話してはいない。できることなら他の誰にも打ち明けたくない。
 二人だけの秘密の場所にしようとひと言誘ってしまえばいい。でも、お互い素直に向き合ってそんなことを口にするのはひどく恥ずかしくて、できなかった。胸の奥がくすぐったい。どういうわけか淫靡いんびな感じさえする。
 ある日ティティスが傭兵団を抜け出してこの場所へ来ると、ジョシュアも一足先に仕事をさぼって木陰で昼寝をしていた。
「ジョシュアったら、いないと思ったらここにいたんだ」
 起こしてやろうかと思ってそばへ寄り添った。ジョシュアは木の幹へ背中を預け、うつむいてすやすや寝息を立てている。寝顔があんまり気持ちよさそうなので、
(やっぱり寝かせといてあげようかな)
 とティティスは思い直した。
 近くの茂みにフォーオクロックの花が咲いている。その名の通り午後四時頃になると咲き始める花で、オシロイバナの別名もある。
 ティティスはにわかにいたずら心が湧いてきた。
 フォーオクロックの薄紅色の花を一つ摘み取り、ジョシュアの耳の後ろの巻き毛へ挿しておいた。
 日暮れ時になってジョシュアが目覚めたとき、すでにティティスの姿はなかった。ジョシュアはティティスが来ていたことなど露知らず、暗くなり始めている空を見て慌てて飛び起きた。
「しまった、寝過ごした!」
 傭兵団へ駆け戻り、団長の元へ急ぐ。途中他の傭兵と次々すれ違った。皆ジョシュアの顔を見て、不思議そうに首をかしげたり、思わず笑い出したりしている。
 そしてジョシュアが団長の部屋へたどり着くと、団長まで眉をひそめ、
「どうしたジョシュア、おしゃれして」
「は?」
 団長はとんとんと自分の右耳の上を指差している。ジョシュアも同じように自分の頭へ手をやった。耳の後ろに小さなフォーオクロックの花が挿してある。
―――
 ジョシュアはすれ違った皆が変な顔をしていた理由にようやく気付き赤くなった。
「まあそれはそれとしてだ、ジョシュア、約束の時間に二時間も遅れた弁解を聞かせてもらおうか?」
 しかしながら直後その団長の言葉で一転青くなったわけだが。
 ジョシュアがげっそりして団長の部屋を出たところを、ティティスが待ち構えており、
「ジョシュア、災難だったわね」
 口では慰めつつ、その実笑いをみ殺しているティティスをジョシュアはにらんだ。
「ティティス、君だろう? あんなイタズラしたのは」
「あらどうしてわかるの? 証拠でもある?」
「証拠も何も、あの場所は――
 今はまだ僕たち二人だけしか知らない場所じゃないか。単にそうはっきり言えばよかったはずだ。
 なのに、心の奥にふいに顔をのぞかせた蛇が誘惑した。口に知恵の実をくわえて。
(そんな言い方、ちょっとずるいんじゃないか?)
 と理性がとがめるのも聞かず、心のイヴはやすやすと誘惑を受け入れてしまったらしい。それでも緊張で口の中が渇く。震えそうな声を抑えて言った。
「だってあの場所は――僕たち二人だけの秘密の場所なんだから」
「え?」
 ティティスは大きな瞳をいっぱいに見開き驚いた。ほんの一瞬のことで、すぐはにかんで笑う。
「うん――うん、ジョシュア、そうね」
「だから、ティティス以外に考えられないんだよ、犯人は」
「うん。ごめんね」
 ティティスがそばへまとわりついてきたので、ジョシュアはぷいと顔をそらした。
「そんなに怒らないでよ」
(怒ってるわけじゃないよ)
 とジョシュアは胸の内で返事をした。
 ティティスがいたずらに手折ったフォーオクロックの花弁よりもきっとよほど赤くなっているだろうこの顔色を、見られたくないだけなのだ。

(了)