野営地の一日 (1)

 遺跡探索から野営地へ帰還したアイギールが傭兵団長の元へ報告に向かう途中、き火のそばでジュランが猫の爪を切ってやっていた。
 ハヅキもそれを手伝っていて、
「よしよし、いい子にしてなきゃダメだぞー」
 と黒猫を抱えて気を引いている間に、ジュランがその後ろ足の爪の先を小さな裁縫用のはさみでちょんちょんちょんと切っていく。
 にゃぁ――
 と黒猫は不満げに足を引っ込めようとするのだが、ハヅキが、
「こらこら。おまえの爪でみんなが怪我けがしたり、それがんだりしたら困るだろ? 野営地で薬も限られてるんだからさ。大事なことなんだよ?」
 と言い聞かせてやると、黒猫はまるでその言葉が通じているように、仕方ないな――と、大人しくなる。
「そうですよ、大事なことです。すぐ済みますからね」
 ジュランは後ろ足の爪を切り終えると、今度は前足に取り掛かった。
「ハヅキの言うことはわりあいちゃんと聞いてくれて助かります」
 飼い主兼使い魔の主も苦労が多いらしい。
「私は今日一日はそっぽを向かれますね。後でバターをあげて機嫌を取ります」
「だってさ。よかったね、おまえ」
 にゃん――
 黒猫はハヅキに顔をでてもらって、心地よさそうにグルルルと喉を鳴らしていた。


「いや、だからな、私は爪を切るはさみはどこにあるかと尋ねただけで、きょうの手を煩わせて爪を切ってほしいと言ったわけじゃないんだ」
「ではジョシュアかリビウスにお言いつけなさいませ」
「私の扈従こしょうでもないのにそんな雑事を頼むわけにはいかん。野営地ここでは人手が足りないのだから、爪くらいは自分で切らせてくれ」
「慣れないはさみなどお使いになって、お怪我けがでもなさっては一大事。それこそ限られた人手や医薬品を無駄遣いすることになりますぞ」
 とマールハルトは頑として譲らず、結局、傭兵団長の方が観念して手を差し出すことになったのだった。
 マールハルトはしわの寄った手に傭兵団長の指の先を乗せて、小さなはさみでパチリパチリと爪の形を切り整えていく。老いても手元は確かなもので、手慣れていた。
「あなた様のお父君の身の回りのお世話をさせていただいていた頃を思い出します。もうずいぶん昔の話ですが――」
「―――」
 傭兵団長は何とも言わなかった。
「爪を切るのもひげをあたるのも慣れておりますゆえ、まあお任せくだされ。ムカシトッタキネヅカというものですな」
「なんだねそれは」
「東方の慣用句でございます。ハヅキにお尋ねなさいませ」
 マールハルトは左手の親指の爪を切り終えると、そのまま右手の親指へと移った。
「――先代の王の扈従こしょうの中でも、いまだエステロミアに仕えてくれているのはきょうくらいのものだろう」
 ふと、傭兵団長が言った。
扈従こしょうたちの競争はさぞ苛烈だっただろうと思うが、きょうが一番寵愛されていたと聞くよ」
「わたくしは宮廷に上がったのが遅く歳が近うございましたゆえ、お父君におかれましても恐れ多くもお心安くお思いくださったものかと」
「あんな王でも友と呼べる相手が欲しかったのかもな」
「わたくしの身には余る話でございますよ」
「――そんなことはないはずだが、マールハルトきょう
「―――」
 爪を切り終えると、傭兵団長は小指に指輪をはめた左手を顔の前にかざして指先をつくづく眺め、
「上手いものだ。私が自分でやっていたらずいぶん不格好になっていたことだろうな」
 とマールハルトの仕事ぶりを褒めた。
 マールハルトははさみを片付けながら、ほっほ、と年寄りらしく笑い、
「そのようにお褒めくださるお言葉のお言い様一つ取っても、あなた様はまことお父君によう似ておられます」
 と言う。
「似てるか。似ていたところで嬉しくはないが」
「似ておられます――わたくしには懐かしいですな」
「じきに爪は伸びるだろうから、また頼むかもしれん」
「お任せを」
 傭兵団長はその後なぜか気後れしたような顔になっていたが、あるときボソリと言った。
「まあ、そのときには先王の話でも聞かせてくれ。私はいまだに、あの父がどういう人間だったのかよくわからんのだ。よくわからんヤツに似ていると言われても困る――」


 大の男が子猫のように大人しく手を差し出して爪を切ってもらっているのだから、アイギールは天幕の入口の陰から盗み見ていて内心可笑おかしかった。
 傭兵団長はアイギールの気配には全く気がついていないようだった。マールハルトが席を外して傭兵団長一人になったのを見計らい、アイギールは天幕の中へ入った。
「帰還したわよ、子猫ちゃん」
「子猫が? なんだって?」
「だってあなた、まるでジュランの猫みたいに大人しく爪を切られてるんだもの」
「いつからそこにいたんだ」
 傭兵団長はひどく赤面狼狽ろうばいした。
 アイギールにとってそれは意外な反応だった。なにやら、意図せず悪事を働いてしまったような気分である。
「からかって悪かったわよ。でも別に恥ずかしがるようなことじゃないでしょ? 王の異母弟おとうとのあなたが人に爪を切ってもらったからって」
「見られてもいい相手と悪い相手があるということだよ。君はよくない――」
「まるで裸でも見られたようだこと」
 と、アイギールはちょっと肩をそびやかして見せた。
「そんなところかもな」
 と傭兵団長はあいまいにうなずいた。

(了)