ビーストの瞳(リメイク版)

1

 ジョシュアは赤い瞳﹅﹅﹅を三日月のように細めて、寝床の中からティティスの顔を見上げ、珍奇なものでも見るようにしげしげと見つめていた。
 昨晩獣人との戦闘で負わされた怪我けがは重く、まだ安静が必要だった。今日の夕方になって包帯が取れたばかりの頭の傷は、シャロットの神聖魔法で塞がってはいたが、額まではみ出して生々しい肉色をしている。
 肩の方の傷は今も膏薬こうやくを塗って布を巻かれたままで、傷口からは血がにじむ。横になっていても極力動かさないようにと、シャロットから言いつけられていた。
 どちらの傷も相当な苦痛があっておかしくない。それにも関わらずジョシュアは今までうめき声一つ上げないでいるのだった。
「そんなに心配することはないよ。見た目ほどひどくはないんだ」
 瞳とは違って変わらぬ優しげな声で言う。
「そ、そうなの? 本当に?」
 ティティスは寝台のそばに膝を着いて、横たわっているジョシュアの顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「またいつもみたいに無理してるんじゃない? ねえジョシュア、つらいときは我慢しなくてもいいんだからね?」
「君って優しいんだね」
「何言ってるのよ、当たり前のことじゃない」
「そうかな。僕に向かってそんなふうに言ってくれる人は、今まで誰もいなかったはずだけど。それにエルフっていうのは冷徹な種族だって聞いたことがあるよ」
 ジョシュアは、
「君、ええと――ティティス﹅﹅﹅﹅﹅、とかいったっけ」
 と、あたかも知り合って間もない間柄だというように、ぎこちなくその名前を呼んだ。
「ねえ君は、もしかして僕の恋人だったりするのかな?」
 きょとんとしたティティスの顔。その首の付け根からとがった耳の先まで、途端に熱い血が駆け上る。
 真っ赤になりながら、ティティスは飛び上がって一歩後ずさりした。
「い、いいいきなり何を言うのよ!?」
「違うのかい? だって君のそのすごくわかりやすい態度――てっきり、君は記憶を失う前の僕﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のことを好きだったに違いないと思った。エルフの恋人か。いったい僕ってどういうヤツなんだ?」
「――!」
 ジョシュアは、ははと声を立てて笑った。
 それは無味に乾いた笑いだった。本当の彼の笑顔ではなくて、作り物の笑顔を貼り付けているだけ。赤い双眸そうぼうの奥底には、ティティスの知るジョシュアが決して持ち得ないような、くらい光がひそんでいた。
「やめてよ。あたしのことからかってるの? ――昨日までのジョシュアなら、絶対そんなことしなかったのに!」
 ジョシュアは冷めた笑みを浮かべるのを止めて真顔に戻った。
「からかってるなんて、そんなつもりはないよ。ただ変なだなと思ってるだけ」
 軽んじられたのだ、と思い、ティティスはさっきとは別の感情で頬を赤らめ、ジョシュアの質問にはそうだとも違うとも答えずに、そっぽを向いて部屋を出た。
 出てすぐのところに、不安げな面もちのシャロットがいた。
「ティティスさん」
「シャロット! いつからここにいたの? 冷え切ってしまうわよ」
 今夜は冷たい雨が降りしきり、肌寒かった。シャロットは肩掛けを胸の前できつく合わせて、自分で自分の体を抱きながら立っていた。
「――部屋の中へ入ってくればよかったのに」
「いえ――騒がしくしてはジョシュアさんが不愉快に感じるかもしれないと思って――見知らぬ私たち﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅に囲まれていては、落ち着かないでしょうから」
「―――」
「ティティスさん」
 とシャロットは小首をかしげ、うつむいているティティスに尋ねた。
「ジョシュアさんの怪我けがのお加減はいかがでした?」
「少なくとも、自分では大丈夫だって言ってたわ。でも、相変わらず、私たちのことや、自分がエステロミア傭兵団の傭兵だってことは思い出せないみたい――」
 そうですか、とシャロットは引き取って、しばし口をつぐんだ。
「――あの、目のことは?」
「わからない。ジョシュアは何も言ってなかったけど、ずっと赤い目のまま。こんなことって今までなかったのに」
「私が聖教国で治療や手当について学んでいた頃にも、怪我けがや病で人の目の色が変わってしまって元に戻らないなんて、聞いたことがありません」
「そうよね、やっぱり」
「ジョシュアさんに何が起きているんでしょうか」
「――わかんない」
 としか、ティティスにも答えようがない。ティティスだって誰かに尋ねてわかるのならそうしたかった。
「ねえシャロット、ジョシュア、なんだか人まで変わっちゃったみたいだと思わない? それも怪我けがのせい――なのかしら」
「そうでしたでしょうか?」
 気がつきませんでした――とシャロットが言うので、ティティスは自分の方が変になったのかと思い押し黙ってしまった。
「う、ううん。やっぱり気のせいじゃないわ。様子がおかしいわよ、ジョシュアったら」
「そうですか――」
 シャロットは不思議そうに小首をかしげた。彼女に対しては、ジョシュアはさっきのような意地の悪い揶揄やゆなどしていないらしい。

2

 王国の中央、王都から少し外れたところに位置するイスカバーナ村から、
「村の周囲で魔人と思しき咆哮ほうこうが聞こえる。日夜その声が止まず村の者は夜も恐ろしくて眠れない。助けに来てほしい」
 とエステロミア傭兵団へ依頼があり、傭兵団長は部隊を編成してイスカバーナへ送り出した。
 部隊が初めて半獣半人の魔族と交戦したのは昨晩のことである。ジョシュアが頭部と左半身へ大怪我けがを負ったのは、近隣の住民を安全な場所へ逃がそうとしていたときのことだった。
「ジョシュアさんが助けたお子さんとそのお母様の話によると、獣人から二人をかばって、頭を殴りつけられたとのことでした――命に別状がなかったのが不思議なくらいですわ」
 とシャロットがか細い声で言った。神聖魔法でジョシュアの傷を癒すために昨晩から相当な気力を使っており、彼女も心身ともに疲弊しているに違いなかった。
「その上、あんな重傷を負いながらジョシュアさん一人で獣人を追い払っていらっしゃるんですもの。とても信じられません」
「――。――ねえシャロット、ジョシュアが突然今までのことを思い出せなくなったのは、やっぱりそのときに何か、何かはわからないけど、あったのかしら」
「頭部に強い衝撃を受けたのが原因かもしれませんわ」
「そんなことってあるの?」
「同じようにして記憶喪失になった方の話は聞いたことがあります。ただ、こればかりは神聖魔法ではどうすることも――一刻も早く回復するよう主に祈るしかありません」
「そうなのね――」
「できるだけ以前通りに接して差し上げましょう。その方が思い出すことも多いかもしれませんし」
 ふと階下から足音が聞こえ、階段を上ってこちらに近づいてきた。足音は一つではなく、二人分のそれが重なっている。
 階段を上りきってアルシルが姿を現し、その後にこの家の主である未亡人の女性が続いた。
「ジョシュアの様子は?」
 とアルシルに尋ねられ、ティティスはシャロットに話したのと同じことを手短に伝えた。
「焦らずやるしかないようね」
 アルシルの返事は、簡潔にそれだけである。未亡人を振り返り、
「ご面倒をおかけして申し訳ありません」
 とびた。
「いいえ、必要なだけいらして構いませんのよ」
 未亡人は三人の傭兵へ上品に微笑みかけた。
「エステロミア傭兵団には、以前私もお世話になりましたから」
「そうでしたかしら」
「夫の形見の宝石箱を開けていただいたのです。そんなつまらないことでお呼び立てして、今では恥ずかしくさえ思いますわ。でもそのときは本当に親身になって助けてくださって、他に頼りもない身ではどんなにか嬉しかったことか」
 アルシルはジョシュアの容態を見るために客間へ入った。
「ジョシュア、気分はどう?」
 ジョシュアは寝台の上に起き上がっていたが、アルシルの姿に気がつくとバツが悪そうな顔をした。
「いいよ」
「そう。でも、まだ横になってた方がいいわよ」
「君はアルシル――だよね。僕たちのリーダー」
「今はね」
「リーダーの指示には従うよ」
 ジョシュアは存外素直に寝床の中へ戻った。
 アルシルとの間にそれ以上の会話はなかった。ジョシュアは頭を窓のある方へ傾けて、ときおり遠くから獣人のかすかなうなり声が聞こえてくると、そのたびに赤い瞳に憎悪の火を揺らめかせるのだった。
 翌朝になり、日の出とともにジョシュアは目覚めた。頭と左半身の傷を触ってみると、ずいぶんよくなっている。昨晩はまだ血がにじんでいた箇所も、もうちゃんと塞がっていた。
「―――」
 己の体の驚異的な回復力にジョシュアはかえって暗澹あんたんたる思いがしながら、寝床を出て朝日が差し込む窓の鎧戸を開けた。窓辺でしばし耳を澄ましてみたが、獣人の声は聞こえなかった。
「きゃっジョシュア! 起き上がって大丈夫なの!?」
 その代わり、ティティスが仰天している声が聞こえた。
 ジョシュアが振り返ってみると、部屋の入り口のところにティティスがいて、食事を運んできてくれたらしく麦粥の皿や水差しの載ったトレーを両手で持っている。
「――ティティスか」
(夕べは真っ赤になって怒って出ていったのに)
 この珍しいエルフの娘が今朝にはけろりとしていて、嫌味の一つも言わずなにくれとなく身の回りの世話を焼いてくれるのをジョシュアはむずがゆく思った。
「えーっほんとにもう傷が塞がったの? シャロットの神聖魔法のおかげかなぁ」
 ジョシュアが寝台の上で食事を取っているかたわら、ティティスは怪我けがの具合をためつすがめつして目を丸くしていた。
「傷口が開きそうなところはないみたい――でも念のため回復しておいてあげる。あたしの治療リゲインじゃあんまり効かないとは思うけど。後でシャロットによく診てもらってよね?」
 と言って傷口にそっと手を当てる。
 ティティスの手のひらから、だか、森の精の力だか、よくわからないものが流れ込んでくるのをジョシュアは感じた。それ自体別に不快な感覚ではなかったが、しばらくするとなぜだか無性に胸の奥がざわついて、たまらずティティスの手を振り払ってしまった。
「あっ、い、痛かった? ごめんね――」
 ジョシュアはなんだかティティスに見られるのさえ落ち着かない気がして、枕元に掛けてあった鎧下よろいしたの上着を取り怪我けがの上から羽織った。

3

「夕べの質問の答えをまだ聞いてないよ」
 ジョシュアは朝食のトレーをティティスへ返しながら言った。
 ティティスはそれに答えるのは後回しにして、すっかり空になった食器を受け取り、
「もういいの? おかわりは?」
 と尋ねた。
「十分だよ。ゆうに二人前はあった」
「だってお腹が空くでしょう? 神聖魔法で治療してもらった後って」
「神聖魔法は傷を癒すけど、本来時間をかけて治るものを無理やりくっつけたりふさいだりするから、体には負担をかけることになる。だろう?」
「ジョシュア、記憶が戻ったの!?」
「そういうことは元から覚えてるよ。剣と盾での戦い方だって忘れてない。子供の頃のこともいくらか思い出せる――だけど途中から頭の中にもやがかかったようになって、近頃の僕の身の回りのことは全然だめだ」
「なんだ――」
「それで、質問の答えは?」
 聞かなくてもわかるけどね――とジョシュアはつい意地の悪い言い方をしてしまった。ティティスが顔に血を上らせているのを見て、また胸がざわめき出したからである。
「ち、ちち違うわよ! あたしたちは、その、恋人同士とかじゃありませんでした!」
「でも君は、実際のところ僕が好きなんだろう。僕の方は――思い出せないけど、君みたいに可愛いに好意を持たれてたなら満更でもなかったかもしれないよ」
「ちょっと、やめて! またあたしのことからかって、ジョシュアはそんなこと言わなかったわよ」
「僕は君をからかおうと思ってるわけじゃないよ」
「思ってるでしょ!」
 不敵な輝きを帯びた赤い瞳に見つめられていると、ティティスはどうもそんなふうに受け取ってしまうらしかった。
「まいったな」
「こっちのセリフよ。ジョシュアっていつも優しくて、紳士で、人がよくって」
「君の王子様だった?」
「あたしにだけじゃないわよ。みんなに優しかったのよ」
 あの澄んだ深い空色の双眸そうぼうが恋しい。
「記憶をくしただけじゃなくてまるで別人になったみたい」
 ふぅん、とジョシュアは不興そうな相槌あいづちを打って寄越した。
「別人みたいだなんて君は言うけど、どうして今の僕が元々の僕じゃないと思うんだい? 僕が本当で、以前の僕は、君たちの前で優しい人間のフリをしてただけだとは思わないのかい?」
 ティティスは、
 ガン!
 と頭をトロールにでも殴りつけられたような思いがした。そんなことは、考えてみたこともない――
「―――」
 しょんぼりと肩を落としてしまったティティスを見て、ジョシュアはわざと聞こえるようにため息をついた。
「ティティス、君、怒ってる方がいいよ。そうやってうつむいてるよりはさ」
「なによ、誰のせいで!」
「そんなふうに真に受けて気に病まないでくれよ。僕だって、自分でもたぶんそこまで器用なタイプじゃなかっただろうと思うから――」
 ジョシュアは深い意味はなかったのだと弁解したいのかもしれないが、ティティスからすれば気休めを言われたようにしか思えなかった。
 沈んだ気持ちのまま、ティティスは部屋を出ていこうとした。
 ジョシュアがおもむろに寝台を出てその後を追う。トレーで両手で塞がっているティティスのためにドアを開け、押さえておいた。
「あ、ありがと」
優しくて紳士﹅﹅﹅﹅﹅﹅の以前の僕なら、きっとこうしたんだろう? ――まあ、それに、エルフのマナーではどうか知らないけど、人間の血が流れてる者としては足でドアを開けるのはお行儀が悪いと思うな。入ってきたときに君がやったみたいに」
 またしても赤くなって出ていったティティスの姿がすっかり見えなくなるまで、ジョシュアは突っ立ったままで見送った。ティティスは早足で階段を下りると、階下に消えていった。
 ジョシュアが寝台の上に戻ったところで、ドアをたたく音がした。
「――どうぞ」
 ティティスが戻ってきたのを期待したが、彼女にしては落ち着いた所作だという気もする。
「ジョシュア」
 と、細く開けたドアの隙間から顔をのぞかせたのはアルシルだった。
 アルシルは部屋の中までは入ってこず、その場で用件を済ませた。
「あなたにお客さん」
「え?」
「あなたが獣人から助けてあげた母子おやこのお母さんよ。あなたにお礼が言いたいって――会ってみる?」
「―――」
「―――」
 ジョシュアが押し黙っている間、アルシルも口をつぐんで待っていてくれた。かなり長い沈黙の後、
「会ったところで、どうせ何も覚えてないよ」
 とジョシュアがようやく答えると、何も問わずに承知してくれた。
「私が代わりに断っておくわ――」
 アルシルは応接間に待たせている客人の元へ向かった。
「お待たせして申し訳ありません」
「あ――」
 と、長椅子から腰を浮かせた婦人が、ジョシュアが助けた母子の母親だった。若くして寡婦になり、村外れの木こり小屋で我が子と二人きりで暮らしていたと言う。獣人に襲われてからは家に戻らず村長宅に身を寄せており、まだそのときの恐怖が去らないのかやつれた様子だった。
「あの――私と息子を助けてくださった方は――」
「重傷なのでまだ安静にさせています。面会も今は難しいかと。お許しください――」
「そ、そうですか。お怪我けがの具合は、その、ええ、大丈夫、でしょうか」
「命に別状はありません――ただ強い衝撃を受けたせいで、そのときの記憶がいささかあいまいになっているようですが」
 とアルシルが言うと、寡婦の表情になぜか安堵あんどの色が浮かんだ。
「あ、そ、そう――覚えていらっしゃらない――」
 寡婦は結局それだけで帰った。帰り際に、この家の主の未亡人が玄関先まで見送り、
「困ったことがあったら頼ってくださいな。夫に先立たれた者同士、助け合いましょう」
 と優しい言葉をかけていた。

4

 シャロットがジョシュアの左肩に巻かれた包帯をほどくと、塞がった傷口の部分は真新しい肉色の皮膚で覆われており、恐ろしい獣人の爪痕がくっきりと浮かんでいる。
 シャロットは頭部の傷と併せて丁寧に診察をし、
「本当に素晴らしい回復力ですわ。熱も持っていませんし、もう心配いらないと思います」
 と見立てた。
「――三日も経たずに治って熱も出ずに済むなんて、ちょっと自分でも信じられないよ」
 と、ジョシュアが言う。瞳の色は相変わらずだが、物腰は元に戻ったように穏やかだった。
「主のご加護があったのですわ」
「神様が加護を授けてくれるような心当たりはないけど――」
「ふふ。ジョシュアさんの謙虚な気持ちが主の御目に止まるんです、きっと。他の誰もがよそ見をしていたとしても、父なる御方はどんなときでも天から見守っていてくださいます」
 シャロットの言葉は優しいばかりでなく、聞く者の心に父なる神への思慕を呼び覚ますような不思議な力がある。
 そのことをジョシュアが言ってみると、シャロットははにかんで笑った。
「それは、主に仕える者の務めですから」
「偉いなぁ」
「私はまだまだ見習いで未熟者です。お師匠様に比べたら――」
 ジョシュアはシャロットの「お師匠様」が誰かも思い出せなかった。
「もう何回か神聖魔法を施せば傷跡もきれいに治ります」
 とシャロットは請け合い、うつむいて両手を額の前で組み合わせ、神へ祈りの言葉を捧げ始めた。
 それに耳を傾けながらジョシュアは、ふと視線を感じた。
 寝台の足元の隅にアルシルが腰掛けていて、こちらを向いている。双眸そうぼうは固く閉ざしたまま決して開かれないのに、そのまぶたの奥からはハッとするほど強い視線が放たれる。
「――まだ少しドキッとするよ。君に見られてると――見えてるんだよね?」
「見えてるわよ」
 アルシルは言葉少なにうなずいた。
 室内にいるのはジョシュアとシャロット、アルシルだけ。ティティスは今朝方またジョシュアと小さなケンカをして、席を外している。ジョシュアが今のようになってしまってから言い争いが日課のようになっているらしい。
 シャロットは今や祈りの忘我の心地にあって、ジョシュアとアルシルの話すことは耳に入っていない様子だった。
「無理して以前のように振る舞うことはないわよ、ジョシュア」
「――もしかして、ティティスから何か聞いた?」
「ティティスは、あなたのことでずいぶんショックを受けてるみたい」
「そうらしいよ」
 ジョシュアは少し言いよどんでから、
「君にも、僕は以前と違うように見える?」
 と尋ねてみた。
「私の目に映るあなたは変わらない」
「その閉じた目に、僕はいったいどんなふうに映ってるんだい?」
「あなたはあなた」
 ジョシュアは肩をすくめたくなったが、治療してくれているシャロットの集中を乱さないために我慢した。
 シャロットの祈りが済み、ジョシュアは上衣を着て治療のお礼を言った。包帯や塗り薬はもう必要ないだろう。
 三人は――主にはジョシュアとシャロットの二人で、アルシルはほとんど黙っていたが――しばらくたわいのない話をした。エステロミア傭兵団のこと。地下遺跡に閉じ込められていた間の思い出話。シャロットの「お師匠様」のこと――話を聞いてみても、ジョシュアは結局何も思い出せなかったが、シャロットは不満めいたことは何一つ漏らさないでいてくれた。
 あるとき、どこかから獣人の咆哮ほうこうが聞こえた。
「あ、また始まりましたね――」
 シャロットが窓の外を見やる。ジョシュアも同じ方を見ていたし、アルシルも肩越しにそちらを振り返った。
 獣人の声は村の外の山野から聞こえるようであった。さほど近い場所とは思われない。しかし地鳴りのようにゴロゴロと村まで響いてくるその声は不気味で、村人たちが恐怖するのは無理もなかった。
 農夫や露天の商人は今日の仕事をしまいにして家に帰るだろう。外で遊んでいる子供たちも家の中に入るようにと、母親が大声で呼んでいる声があちこちでしていた。
「昼も夜ものべつにこれじゃ、村の人たちが参ってしまうのもわかるわ」
 とアルシルが言う。
「あれを討伐するまでは帰還できない。ジョシュアには不便をかけるけれど」
 先晩の交戦時には五体の獣人と戦い、うち二体を倒し、三体は取り逃がした。生き残りたちは一旦は村から離れたようだが、またいつ戻ってきてもおかしくない。
「僕が仕留めきれなかったアイツも、あの声の中に交じってる」
 ジョシュアが低い声になってつぶやいた。赤い瞳にくらい炎が宿り、奥深くでめろめろと燃えている。
 三体の獣人たちは代わる代わる咆哮ほうこうを上げ合っているらしかった。都度少しずつ声の調子が異なっていたが、どれも決まって長く尾を引いてから中空に消え入る。気味が悪くはあるものの、どことなく物寂しい感じもした。
 シャロットが、
「獣人たちは、なぜあんなふうにえるんでしょう」
 と何気なく口にした疑問に、ジョシュアが答えた。
「あいつらはこの村にいるはずの仲間を探しているんだよ――」
 シャロットは思いがけない返答を寄越したジョシュアの顔を見つめた。ジョシュア自身、無意識に口をついて出たそれに驚いていた。自分はなぜこんなことを言ったんだ? と――
「どうしたのジョシュア――あなたにはわかるの? 何か思い出せそう?」
 アルシルが慎重に問いかける。
 ジョシュアは「わからない」と厳しい顔つきでかぶりを振った。アルシルは、寡黙な彼女にしては熱心に励ましてくれたが、結局この日はあまり進展がなかった。
「いいのよ、ジョシュア。ゆっくりでいいわ」

5

 翌日になった。
 階下から、ティティスが昼食を持って階段を上がってきた。
「ジョシュア、お昼」
 と客間のドアの前に立って声をかけたが、返事がない。
「ジョシュア?」
 お行儀が悪いのは承知で靴の爪先でドアを押し開けてみると、寝台の上にも、室内の他のどこにもジョシュアの姿はなく、もぬけの空だった。
 ティティスが驚いて声を上げようとした寸前に、
「こっちだよ、ティティス」
 と、廊下の方から呼ぶ声がする。ジョシュアは窓のそばにいて、その縁に寄りかかって外の風に当たっていた。
 ティティスはほっと胸をで下ろした。食事を部屋の中に置くと、ジョシュアの近くまで歩み寄った。
「歩き回っても大丈夫なの」
「もう怪我けがはほとんど治ってるよ。シャロットもそう言ってた。できるだけ体を動かした方がいいと思う」
「そうなの? えーと、無理はしないでほしいけど――」
 ティティスはジョシュアから一歩距離を取った場所で立ち止まった。ここ数日は、ずっとこんな調子だった。
「―――」
「な、なによ?」
 ジョシュアは物言いたげな目つきでこちらを見ていた。
「あっわかった、またドアを足で開けたって言いたいんでしょ。だって、しょうがないじゃない、あたしは両手が塞がってたんだし、ジョシュアだってすぐに声をかけてくれればよかったのに――」
 ジョシュアは黙って窓から身を乗り出すと、くせの付いた栗色の髪の毛を風になびかせた。空高く照らす陽光を浴び、毛先の方は黄金の輝きを帯びてさえ見える。
 風に乗ってかすかに届く咆哮ほうこうに耳を傾ける。
「ねえ、あれって獣人の声。今日も村の周りに来てるの?」
 ティティスも気がついたらしい。
「まるで、森で獣がはぐれた仲間を探してる声みたいよね」
 ジョシュアが急に赤い目を見張ってこちらをにらんだので、ティティスは思わず、びくっと体をこわばらせた。
「――僕が戦ったアイツもそうだったんだ」
 と、ジョシュアは記憶の糸をたぐりながら言った。
「あれは、そうなんだ﹅﹅﹅﹅﹅、この村へ来て、仲間を探してた﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。少しずつだけど思い出してきた」
「えっ、ほんとに?」
「全部じゃない、あの晩のことだけ――そこだけ頭の中のもやが引き始めたみたいに」
 一瞬喜びに輝きかけたティティスの表情が再びかげる。
「そっか、全部じゃないんだ」
 ジョシュアはティティスの顔から目をそむけ、また元のように外の景色を見つめた。窓下を見下ろすと、家の主の未亡人が玄関先へ出て、物乞いらしきやせ細った少年に食事を分け与えていた。
「僕は、君やアルシルやシャロットと別れて、一人で村外れの木こり小屋へ向かってた。村の人を安全な場所へ避難させなきゃならなかったのに、その辺りの住人だけ逃げ遅れていたから」
「うん」
「僕は戦士の鎧を着けて、剣と盾を持ってた――まだ自分がエステロミア傭兵団の一員だっていう実感はないけどね。それで――村外れまで急いで来て、木こり小屋の子供と母親が取り残されてるのを見つけた。すぐ近くまで獣人が迫って来てるのがわかった。そいつがちょうどあんなふうに――」
 風の音に寂しげな咆哮ほうこうが交じる。
「仲間を探すようにしていた」
「だけど、ジョシュア、あなたが戦った獣人は一体だけだったわよ。周りに仲間らしき気配はなかったし、他の獣人たちはあたしやアルシルが相手になってやってたんだから」
「うん、一体だけだったんだ」
「?」
 ティティスはジョシュアの言わんとするところが飲み込めず、不可思議そうに小首をかしげている。
「ティティス、僕が助けた母子おやこは、その獣人のこと何か言ってた?」
「何も――言ってなかったと思う。あの晩は、子供はおびえきってずっと泣いてたし、お母さんはその子をなだめてるばかりだったわ。そのあとお母さんだけここへお見舞いに来てくれたけど、アルシルが応対して――ジョシュアにお礼を言っておいてほしいって、それだけ」
「ならいいんだ」
 ジョシュアは、安堵あんどとも苦悩とも取れるような深いめ息をつき、うなだれた。
 ティティスは、その様子をジョシュアが思うように記憶が戻らず思い悩んでいるように見て取ったのかもしれない。おずおずと隣まで近づいて、肩を並べた。
「元気出してよ。だんだん思い出せてるんだもの。記憶が全部戻るのだって、きっとそう先のことじゃないわよ」
「もし僕が、このまま以前の記憶を取り戻せないで生きていくことになったら君はどうする?」
 と、ふいにジョシュアがそんなことを言い、ティティスを唖然あぜんとさせた。
「や、やだ、何言ってるの」
「僕の目の色だって――青かったはずなのに。周りのみんな﹅﹅﹅﹅﹅﹅と変わらなかったのに、なのにそれが――はは、この目も、君の好きだった色には一生戻らないかもしれないね」
「ジョシュア、やめて!」
「君だけなんだよ」
 とジョシュアは言う。

6

「アルシルは今の僕も以前の僕も変わらないって言う。シャロットは以前と同じように接してくれようとしてる。彼女たちは僕がこのままでも受け入れてくれるかもしれない。でも君だけが、僕が以前と違うからって必死で元に戻そうとする。今の僕なんて君にとっては存在しないも同じさ」
 ティティスは、
(どうして――)
 としおれてうつむいた。
(どうしてこうなっちゃうんだろう)
 ジョシュアにつらく当たられたからではない。
 それは、ジョシュアに意地の悪いことを言われて傷つかなかったといえば嘘になるけれど――でもそれ以上に、自分の心の奥の方にいつの間にかあったできものを、ジョシュアの言葉でえぐり出され目の前に突きつけられる方がずっとショックだった。
「――ごめんなさい」
 と謝ることしか、そのときはできなかった。謝ったのにかえって自己嫌悪が募った。
 ジョシュアが苛立いらだたしげに顔をゆがめた。ティティスは、その矛先はてっきり自分なのだと勘違いして余計にしゅんとした。
「違う――ティティス、そうじゃないんだ。君を責めたいわけじゃない。僕は――」
 僕は――とジョシュアはためらって、しかしその後に何も続けることができなかった。
「――その――君が元の僕に戻ってほしいと思うのは当然だろう。わかってるんだそれは。君が僕を見つめる目を見て、僕を呼ぶ声を聞けばわかる。何度もそう言ってるじゃないか。わかるよ――」
「―――」
「君はいつも僕の方を見ながら僕じゃない誰かを見てる。僕じゃない誰かに笑いかけようとする。君が『ジョシュア』って呼ぶやつなんて僕は知らない。そいつが僕のことだっていうなら、僕は性質たちの悪い悪人だったに違いないよ。普通の人間﹅﹅﹅﹅﹅のふりをして君を騙して」
 と、そこまで一気に吐き出したかと思えば、急に黙り込んでしまう。
「――おかしなことを言ってるよね、僕は」
 ティティスは、ジョシュアが今のジョシュア﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅になってから二人の間に起こったことを一つ一つ思い出すことができた。(あたし、怒ってばっかりだった)と思う。
「うん――そうかも。ジョシュアあなた、言ってたじゃない、そんなに器用な人間じゃないって」
「もし僕が悪人なんだとしたら、君のために精一杯の嘘をついてたのかもしれないよ――」
「そんなことって」
「だっても同じ気持ちだから。君がそんなふうに泣きそうになってる顔を見ないで済むなら、僕はどんな嘘だってつける気がする」
 長い間、二人とも言葉が出てこなかった。
 窓下で家の主の未亡人が物乞いの少年を見送る声が聞こえた。少年はお礼も何も言わずに黙って立ち去ったらしかった。
 沈黙を、ジョシュアのか細い声がそっと破った。
「今までごめん、君を傷つけるようなことばかり言って。元の僕に戻れるように、できるだけ努力するよ」
 ティティスはそれをどう受け止めたらいいのかわからなかった。
「――嘘をついて生きていくの? これからずっと?」
「―――」
 その日の日暮れ近くになって、アルシルが部屋で休んでいるジョシュアを訪ねた。
「あなたも気づいてると思うけど」
 と前置きして切り出す。
「獣人たちの咆哮ほうこうが村へ近づいてきているの」
「そうらしいね」
 二人が話す間にも、外から地響きのようなうなり声が幾度となく割り込んでくる。これまでの数日間とは様子が違う。魔物が村へ迫ってきているのは明らかだった。
「今夜辺り、決着がつくんじゃないかしら――」
「村の人たちは?」
「今回は早いうちから教会へ避難するように伝えてあるわ」
「安心したよ」
 アルシルは一呼吸置いてから、
「あなたが取り逃がした獣人のことだけど」
 と言った。
「うん」
「私たちに任せてくれる?」
「それはできない――」
「なぜ?」
「アイツを絶対にあの母子おやこへ近づかせてはだめなんだ。獣人ビーストは執着心が強いから、必ずまた同じ場所に現れる。そこで仕留める。あの母子おやこを守るにはそうするしかないんだ」
 ジョシュアがいくらか記憶を取り戻したらしいことは、アルシルの耳にも入っている。しかしそれについて何を考えているのかは、乏しい表情と口数からは読み取れない。
「―――」
 例の獣人のことを話すとき、ジョシュアの赤い瞳に憎悪火が宿るのも、アルシルは閉ざした双眸そうぼうの奥から見抜いているようだった。といって、それについて取り立てて何を言うわけでもない。
「ジョシュア、ティティスを悲しませるようなことだけはしないでちょうだい」
 と、釘だけは刺した。

7

 ティティスが血相変えて応接間に飛び込んできて、
「ジョシュアがいないの! 姿が見えないのよ! 家中どこにも!」
 と、ひどく狼狽ろうばいした様子を見せても、アルシルは椅子から腰を上げず、眉一つ動かさないままでいる。すでに騎士鎧を全身に着込んでいる彼女は、なるべく体力を消耗しないようにじっと出撃のタイミングを待っていた。
 ティティスは、アルシルがうんともすんとも言わないので、じれったくなって詰め寄った。
「アルシル、何か知ってるの!?」
 アルシルはそれも黙殺した。
 ティティスにしてみれば、ジョシュアが急にいなくなったのは、
(もしかして昼間のことが原因で)
 と思うのだ。が、そこまではアルシルもあずかり知らない。
 家の玄関先に人の気配が起こり、出迎えた主の未亡人に伴われてシャロットが戻ってきた。肩掛けに首まで埋もれたシャロットの面持ちに、いつものような温和な表情はない。
「アルシルさん、そろそろ――」
「森の中での戦いはこちらに分が悪いわよ」
「獣人の声は村の間近まで来ていますわ」
「声は何体聞こえた?」
「教会から聞こえたのは二体です。もう一体生きているはずですけれど、こちらへは来ていないようです」
「いいわ。行きましょうか」
 アルシルがすらりと立ち上がる。有無を言わさぬ視線をティティスへ向けた。
「私たちは私たちのすべきことをするのよ、ティティス」
「――わかってるけど、でも」
でも﹅﹅はなし。すべきことをした後は好きにして」
 ――。
 治ったと思っていたが、やはり怪我けがのせいか左肩へ掛けた騎士盾が重かった。
 それなのに、不思議と疲れてはいない。体が疲労することを忘れてしまったように。
 ジョシュアは未亡人の家から村外れまでやって来て、息は多少上がっていたが苦しさは感じなかった。それどころか、魔物との戦闘に身を投じる瞬間が近づけば近づくほど、自制が利かなくなってしまいそうなくらい気力が全身にみなぎった。
 酒を造るための林檎りんご畑を過ぎた。牧草地も過ぎた。そして、家族が食べていくだけの小さな畑があるばかりのうらぶれた農耕地へ差し掛かった。
 みすぼらしい畑の合間にぽつりぽつりと農家が点在する。どれも小戸で、数少ない住人は避難しており人の息遣いは感じられない。家畜小屋に置いていかれた獣や家禽たちが不安げに狭い屋内を歩き回っていた。
 ジョシュアは己の五感も鋭く研ぎ澄まされているのを感じた。遠くからでもあらゆることが手に取るようにわかった――
 木こり小屋は、その辺りの集落でも一軒ずっと離れて、人里と森の境のようなところにあった。
 オオ――
 と仲間を呼び立てるような狂おしい獣人の咆哮ほうこうが、森の方から聞こえる。
 樹木の陰に、自分と同じような赤い二つの目玉が夜の闇にも爛々らんらんと輝いていた。ジョシュアはそちらへ近づいていきながら肩の盾を下ろした。
 木こり小屋には若い寡婦と八つばかりになるその息子が住んでいた。あの晩――ジョシュアがここへ駆けつけたとき、母親は戸口でぐずる息子に手を焼いていた。
 すぐそこまで咆哮ほうこうが迫っているのに、子供は獣人から逃げるのは嫌だと駄々をこねていた。
「だって悪い魔物じゃないんだよ!!」
 と言って聞かない。
「だって、だって、いっしょに遊んだことだって何度もあるもん! くまさんは森でみんななかよくすんでて、ぼくも大きくなったら仲間に入れてくれるって言った! 顔はこわかったけど、やさしかったんだよ」
 母親はジョシュアの顔色をうかがって、ばつが悪そうに弁解した。
「もうずっと前の話なんです。今のような魔王に脅かされる世の中になる前の」
「おかあさんだってときどき森に行ってた。くまさんに会いに――」
「―――」
 母親が手を振りかざして子供の頬をぶった。子供は大声を上げて泣き出した。
「そ、そのときは――まさか彼らが村を襲うだなんて思わなくて――」
 黒王の影響を受ける前は、獣人たちは温和な魔物だったのだと言う。
「あの、このことはどうか村の人には秘密に。皆に知られたら私たち母子おやこはどんな仕打ちを受けるか」
 ジョシュアは、そのとき自分はぼんやりとうなずいただけで、口に出しては何も答えられなかったのだと記憶している。
 母親は無理やりにでも子供を家から引きずり出して連れて行こうとした。
 子供は嫌がって暴れるので手間取った。ジョシュアは彼らの後へ護衛として張り付きながら、背後に獣人の気配がひしひしと近づいてくるのを感じていた。

8

 獣人がひときわすごみのある雄叫びを上げた。
 その苦しげな声を聞いて、ジョシュアは相手もあの晩の戦闘で怪我けがを負っていることに気がついた。血の臭いが漂い、今の咆哮ほうこうで傷口が開いて出血したらしいことも。
 ジョシュアは左手に無造作に盾を提げ、獣人の方へずんずん近づいていく。恐怖心などとっくに麻痺まひしてしまっている。今自分を支配しているのは破壊と闘争への衝動だけだった。
 オオ――
 と、獣人はもう一度咆哮ほうこうした。ジョシュアに対しておびえているのかもしれなかった。おびえながらも、小さな仲間を奪っていったこの不気味な人間に立ち向かい牙をく気概はあるらしかった。
 飛びかかってきた獣人の爪の一撃をジョシュアは盾でいなして、その勢いに全体重を乗せて返し強烈なシールドバッシュを食らわせた。
 獣人の顎の骨が砕ける音がした。
 獣人がそのまま後ろへ倒れ込むと、ジョシュアは盾でその巨体を抑え込み、剣を抜き放って切っ先を毛むくじゃらの喉元へ向けた。皮の柔らかいそこを貫けば終わるはずだった。
 だが、切っ先は宙でぴたりと止まってしまった。
 もう一突きで決着がつくのに、それができない――
「何をためらうんだ――」
 と、低く声に出した。まるで自分の中に、獣人を殺すことを躊躇ちゅうちょするもう一人の自分がいて、それを説き伏せんとしているようだった。
「こいつは魔物だ。獰猛どうもうで、もう話なんか通じない。人を襲う。僕に記憶をくすほどの怪我けがを負わせた!」
 剣を握る手にぎりぎりと力がこもる。指が手のひらの肉を突き破りそうなほど握りしめても、それを振り下ろすことができなかった。
「守るんじゃないのか!? あの子を――」
 不完全な記憶がよみがえる。
 母子おやこを庇ってジョシュアは背中から獣人に殴りつけられた。血まみれの光景をまのあたりにして恐怖に見開かれたあの子供の目を忘れはしない。
(あの子はあんなにおびえていたじゃないか。あの子は)
 そのとき、心のどこかで誰かが、記憶に欠けていた最後の断片をそっと差し出してきた。
(あの子は、僕を見てた。凶暴な衝動に抗えずに獣人にむごい傷を負わせた僕が怖かったんだ。だって僕こそ魔物みたいじゃないか)
「―――」
 ジョシュアの全身から力が、ふ、と抜けてしまったようだった。
 盾の下でもがきあえいでいた獣人が最後の力を振り絞り、ジョシュアは払い落とされて体の均衡を失った。
 地面へたたきつけられた。頭部と首はどうにか守ったが、それでもかなりの衝撃で視界が白くなった。
「うぐ――!」
 もやが引くように次第にはっきりしてくる視界の中で、獣人は赤い獣の瞳に憎悪の炎を燃やしてこちらを見下ろしていた。
 黒々とした獣毛が夜風になびく。嵐の前のように風が強い。さっきまでこんなふうに巻き上げるような風は吹いていなかった。
 虚空を裂くほどに風がうなる。
 獣人のえる声さえき消し、空中に鋭い旋風が次々生じた。
 旋風は降り注いで獣人の毛皮を縦横に切り裂いた。獣人は痛ましいあえぎ声を上げながら、こちらへぐらりとよろめく。
 ジョシュアは右手に剣を握り直した。
 獣人の無防備にさらけ出された喉元へ剣身を深く突き上げる。剣を離して、倒れ込んでくる巨体の下敷きになるのはどうにか逃れた。
 地に伏した獣人が間違いなく死体になっていることを確かめ、
「ふー――」
 とため息をもらす。ぐったりと地面へ体を預けた。
 農耕地の方から、亜麻色の長い髪をなびかせて駆け寄って来るティティスの姿が見えた。風の魔法の名残をまとわりつかせているティティスは、ジョシュアが倒れているのを見つけると、泣き出しそうな顔で飛びついてきた。
「ばか!! どうして心配かけるようなことするのよ!?」
「――君にこんなところ、見られたくなかった」
「何言ってるの、もう――もう」
 ティティスはジョシュアの体に目立った怪我けががないのを確かめると、手を取って、そこからあの森の精気のような不思議な温かい力を送り込んだ。
「すぐアルシルとシャロットも来てくれるからね。シャロットにちゃんと手当してもらって――」
「ティティス」
 とジョシュアが遮った。
 名前を呼んだだけでその先はふっつりと途切れてしまい、ティティスは心配になってジョシュアの顔をのぞき込んだ。
「ジョシュア――?」
 ジョシュアは、怪訝けげんそうに眉をひそめ、
「どうして君がここにいるんだっけ。僕はみんなの了解を得て、逃げ遅れた人を助けに来たんじゃなかった? それで確か、ええと、獣人に後ろから殴られたはずだけど、傷がもうふさがってる。でも体中が痛い――あの母子おやこは――」
 戸惑いと苦痛の入り交じったうめき声を上げる。
 ティティスは、はっとして、ジョシュアの顔を押さえつけんばかりにしてまじまじと見た。
 懐かしい人のよさそうな顔つきがそこにあった。何が起こったのかと目を白黒させている。夜目にもわかる、瞳の色は青い。
「ジョシュア、元に戻ってる!」
「へ?」
「覚えてないの?」
「何のことだい?」
 おそらく記憶を失ったときと同じように、体を強く打った衝撃のせいでしょう、と後で追いついてきたシャロットが言っていた。
 ジョシュアはまさか自分が記憶喪失になっていたとは考えもしないらしい。さっぱり事情が飲み込めず情けないくらいにうろたえていたが、ティティスは、
(本当に元のジョシュアが帰ってきたんだ)
 と思った。あのくらい炎を瞳に宿したジョシュアはどこかへ消えてしまった。
「仲直りできなかったわ」
「えっ、誰と――?」
 ティティスは無性に悲しくなってきて、ジョシュアの手を握る手にぎゅっと力を込めた。ジョシュアが驚いて声を裏返らせても離さなかった。

9

 ゆるやかな丘陵に遠くまで広がる麦畑の間を縫って蛇行する道を、二台の荷車が前後になってのんびりと進んでいく。
 先を行く方は漆黒の馬が引き、後の方は葦毛あしげであった。
 それぞれの馬の口を取っている農夫たちは、時々天候や路面の具合の話をする以外は無口であった。
 荷車に飼い葉を山と積み、その脇へ旅人の一人二人、あるいは荷物くらいなら小遣い稼ぎに乗せて行くこともある。彼らはイスカバーナから帰還する傭兵たちに頼まれて、物珍しそうに武具を荷車へ積み込んだ。
 出発する直前に、アルシルは、
「帰る前に、あの母子おやこに会う気はある?」
 とジョシュアに尋ねてみたが、ジョシュアは「いや――」とかぶりを振った。
「会ってみたところで、僕は覚えてないことの方が多いしね」
「同じことを言うのね、やっぱり」
「同じって――? まあ、それに、僕のせいで怖い思いをしたのを思い出させても悪いと思うから」
 黒馬の荷車の隙間へシャロットを乗せてもらい、葦毛あしげの方へはティティスが収まった。体力のあるジョシュアとアルシルは荷車に並んで歩いた。
「正直なところまだ信じられないよ。僕が何日も記憶を失ってたなんて」
 ジョシュアは、横の荷台で膝を抱えて小さく座っているティティスの方を見た。
「しかも君は、まるで僕の人が変わったみたいだったって言うし」
「アルシルやシャロットはあんまり気にしてなかったみたいだけど、少なくともあたしには全然性格違って見えたわよ」
「――それに目の色も?」
 ジョシュアはそのことを知ったとき、自分が皆に何かひどいことをしたのではないかとしきりに心配していた。
「そうなったのも、きっと理由があったのよ」
「どうだろう――」
「そんなに心配しなくても、別にひどいことなんてされなかったわ。確かに、記憶をくしてた間のジョシュアは意地悪なところもあったけど」
「それで君を傷つけたんじゃないのかい?」
 多少図星を指されて、ティティスは決まりが悪そうにもじもじしていたが、
「ちょっとだけ。でもあたしも、自分じゃ気がつかないうちにジョシュアを傷つけてたんだからおあいこ」
 と、申し訳なさそうに目を伏せた。
「君がそんなことするとは思えないけど」
「あたしジョシュアに早く記憶を取り戻してほしかったし、記憶が戻って本当によかったと思うわ。だけど、あのジョシュア﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅とももっといろんなことを話してみればよかった。あたしって、アルシルみたいに鋭く察してあげることも、シャロットみたいに落ち着いて待ってることもできないんだもの」
「――君がそばにいてくれただけで十分だったんじゃないかな」
 とジョシュアは言う。言ってから、
「ああ、いや」
 と照れてまごついた。いつまでもまごまごしているものだから、ついにはティティスにせっつかれた。
「はっきり言ってよ。あたしがいると、なに?」
「その――君がいてくれて、そのときの僕もずいぶん救われたんじゃないかって。ええと、だって僕も同じ気持ちだからね。君といる間は、僕一人でいるときよりい人間でいられる気がするから」
 ティティスは、あのジョシュア﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅からも同じような言葉を投げかけられたのを思い出した。もっとも、言い方はずいぶん違ったけれど。
「ねえそれって、あたしの前では嘘をついてるってことなの?」
「え?」
 ティティスの問いの思わぬ鋭敏さに、ジョシュアはドキリとしたようだった。青い目元が揺らいで照れくさそうなはにかみが消え、かすかにかげを帯びる。
「嘘、か――そう言われてみれば、そうなのかもしれないけど」
「―――」
「でもその嘘が、今は嘘でも、いつか本当になったらいいと思ってるんだ――」
「そっか。じゃあそれまであたしも一緒にいるから、助けが必要なら言ってよね。一人で急にいなくなったりするのはダメ! ――変なこと聞いてごめんね」
 荷車の車輪がふと小石を跳ねて、その拍子にがたんと大きく荷台を揺らした。
「きゃっ! っと、と、と!!」
 ティティスが飛び上がらんばかりに驚き、荷車からずり落ちそうになって荷物にしがみつく。その慌てぶりがおかしくて、ジョシュアはつい吹き出してしまった。
「も、もう、笑ってないで助けて!」
 ジョシュアは急いで手を貸した。
 荷台から落ちそうになったとき目が倍くらい大きくなっていたとか、変な格好だったとか、他愛もないことで笑い合う。
「記憶がない間のジョシュアだったらもっと笑ってたわよ、きっと! 意地悪なんだもの!」
 と、ティティスは本当にそうされたようにふくれ面になった。
「僕は手を貸して助けてもあげなかったかな?」
「意地悪を言いながら助けてくれたと思うわ」
 ティティスは、きっぱりと断言する。それから、ジョシュアの顔を見上げ、空と同じ色の瞳の奥に眠る炎を見だした。
「だって、ジョシュアはやっぱりジョシュアだもの」

(了)