ビーストの瞳
1
ジョシュアが
夕方に包帯が取れたばかりの頭の傷は、シャロットの神聖魔法でふさがってはいたが、額まではみ出した傷口はまだ生々しいピンク色をしている。
肩の傷は未だ包帯を巻かれたままで、安静のため極力寝床の中でも動かさないようにと言いつけられていた。
「ティティス」
と、ジョシュアが笑いながら、付き添いのため枕元の椅子に座っているティティスへ呼び掛けた。
あたかも知り合って間もない知人の名を呼ぶような、どことなく口の動きがぎこちない感じがした。
「君はもしかして僕のことが好きなのかな?」
きょとんとしていたティティスの顔へ、首の付け根から耳の端まで、にわかに血が上る。椅子を蹴らんばかりに勢いよく立ち上がった。
「い、いいいきなり何を言うのよ!!」
「違うのかい? てっきり僕は、君が
「!」
そのときティティスは、ジョシュアの赤い目が本当は笑っていないことに気が付いた。
笑っているのは口元だけだ。こちらを見上げた双眸は高慢そうな光を帯びている。
軽んじられた、と悟り、ティティスは質問にはイエスともノートも答えずそっぽを向いて部屋を出た。
「ティティスさん」
出てすぐのところに、シャロットが不安げな面もちで立っていた。
「シャロット! ずっとこんなところにいたの? 冷え切ってしまうわよ、中へ入ってくればよかったのに」
「いえ、あまり大人数でない方がジョシュアさんも嬉しいのでは思って――“見知らぬ私たち”に囲まれては落ち着かないでしょうから」
ところで、と語を継ぎ、
「お加減はどうでした?」
「ケガの方は大丈夫そう。でも、相変わらず、私たちのことや、自分が傭兵団の傭兵だってことは思い出せないみたい――」
そうですか、とシャロットは引き取って、しばし口をつぐんだ。
「――あの、目のことは」
「わからない。ずっと赤いままだわ。こんなこと今までなかったのに」
先日、王国中心部に位置するイスカバーナから、
「村の周囲で魔人と思しき咆哮が聞こえる。日夜止まず村の者は夜も恐ろしくて眠れない。助けに来てほしい」
とエステロミア傭兵団へ依頼があり、傭兵団長は部隊を編成してイスカバーナへ送り出した。そこまではよかった。
昨晩、村の外れで部隊は初めて半獣半人の魔族と交戦した。
ジョシュアが頭と左半身へ大ケガを負ったのは、近隣の住民を逃がそうとしていたときのことだったとの話である。
「ジョシュアさんが助けた母子の話によると、獣人から二人をかばって、一撃をまともに頭から肩にかけて受けたのだとのことでしたね――命に別状がなかったのが不思議なくらいですわ」
とシャロットがか細い声で言った。神聖魔法でジョシュアの傷を癒すために昨晩から相当な気力を使っているはずで、疲れているに違いない。
「私が治療を施していると、ジョシュアさんがうわ言のように『痛い。どうしてこんなに体が痛いんだ』とか『君は誰』とずっとつぶやいていらしたから驚きました」
「突然今までのことを思い出せなくなるなんて、そんなことあるのかしら」
「頭部に衝撃を受けたせいなのかもしれません。聖教国で学んでいた頃に、そのようにして記憶を失った方の話は聞いたことがありますわ。ただ、こればかりは神聖魔法では――一刻も早く治るよう主に祈るしかありません」
「ええ――」
「できるだけ以前通りに接して差し上げましょう。その方が思い出すことも多いかもしれません」
階下から足音が聞こえ、やがて階段の方へ向かってくる。一人ではなく、二人分の足音が重なっていた。
階段を上りきって先にアルシルが姿を現し、その後にこの家の主である未亡人が続いた。
「ジョシュアの様子はどう?」
とアルシルに尋ねられ、ティティスはシャロットに話したのと同じことを手短に伝えた。
「あせらずやるしかないようね」
アルシルの返事は、簡潔にそれだけである。未亡人を振り返り、
「ご面倒をおかけして申し訳ありません」
「いいえ、必要なだけいらして構いませんのよ」
未亡人は上品に三人へ微笑みかけた。
「エステロミア傭兵団には以前私もお世話になりましたから」
「そうでしたかしら」
「夫の形見の宝石箱を開けていただいたのです。そんなつまらないことでお呼び立てして、今では恥ずかしくさえ思いますわ。でもそのときは本当に親身になって助けてくださって、他に頼りもない身ではどんなにか嬉しかったことか」
2
「夕べの質問にまだ答えてもらってない」
ジョシュアは朝食のトレーをティティスへ返しながら、彼女の大粒の碧眼をのぞき込んだ。
ティティスはそれには答えず、
「もういいの?」
と、トレーの上できれいに空になった食器を見つめた。
ジョシュアがちょっと笑って、
「ゆうに二人前はあったよ」
「だってお腹が空くでしょう? シャロットの神聖魔法は」
「神聖魔法は傷を癒すけど、本来時間をかけて治るものを無理やりくっつけたりふさいだりするから体に負担がかかる。だろう?」
「ジョシュア思い出したの!?」
「そういうことはちゃんと覚えてる。剣や盾の使い方とかね。ただ僕自身のことだとか、身の回りのことは全然だめだ」
「そうなんだ」
ティティスはがっかりとため息をもらして、トレーをテーブルへ置き、ジョシュアの枕元へ椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「で」
にやにや笑いながらジョシュアが尋ねる。
「で、夕べの質問の答えは? まあ聞かなくてもわかる気はするけどね。僕が記憶を失う前のことを話す君の顔といったら。今時少女向けの読物のヒロインでももう少し取り繕うだろうってくらい」
「っ! ジョ、ジョシュアはそんな意地悪な目であたしを見たりしなかったわよ!」
まるで別人みたい! と顔をそむける。
「君は僕の何を知ってるっていうのさ」
「何をって――」
「僕だって別に君をからかおうと思ってるわけじゃないよ」
「思ってるでしょ!」
不敵な輝きを帯びた赤い瞳を見ていると、どうもそうとしか見えない。
「僕にとっても君が特別な相手だったなら、ちゃんと話してくれた方が思い出せることもあると思うけどね」
「と、特別な相手」
「わからないかな。案外ネンネだな」
またジョシュアが口元だけで笑った。
ティティスは侮辱されていると感じたし、この表情は好きになれないとも思った。
「つまり――僕と同じ寝床で寝た?」
ガタン! とティティスの座っていた椅子が倒れる音が派手に響いた。階下まで聞こえたかもしれない。
「座りなよ」
ティティスが出て行こうとするのを制して、ジョシュアに手を取られ引き止められた。
「単に事実を確認しただけだよ。そんな調子ならきっと違うんだろう」
「本当にあなた、ジョシュアじゃないみたい!」
ティティスはしぶしぶ椅子を起こして座り直すと、
「ジョシュアは絶対にそんなこと言わなかったわ! いつも優しくて、紳士で、人がよくて」
「君の王子様だった?」
「あたしにだけじゃないわよ。みんなに優しかった!」
あの深い空色の双眸が恋しい。
「記憶を失っただけじゃなくてまるで人が変わったわ」
ふーん、とジョシュアはなんとなく上の空のようなあいまいな相槌を打ってよこした。
「人が変わったなんて君は言うけど、どうして今の僕が本当の僕じゃないと思うんだい? 以前の僕は君たちの前で優しい人間を演じてただけだとは思わないのか?」
ティティスは、
ガン!
と頭をトロールにでも殴りつけられたような気持ちになった。
そんなことは考えてみたこともない。
「だって、ジョシュアがそんな――」
「―――」
すっかりしょんぼりと肩を落としてしまったティティスを見て、ジョシュアがわざと聞こえるようにため息をつく。面白くなさそうであった。
「君は怒った顔の方が可愛いね。そうやってうつむいてるよりはさ」
「なによ、誰のせいで!」
「そんなに気に病まないでくれよ。僕も本気で言ったわけじゃないし、たぶん自分でもそんなに器用な人間じゃなかっただろうと思うから」
ティティスには気休めを言われたようにしか思えない。
ふいに、ジョシュアが右手をうごめかし、自身の左腕をつかんだ。
「つ――」
髪と同じ栗色の眉をひそめ、眉間にしわを刻む。食いしばった歯の隙間からこぼれるような息を吐く。
はっ、とティティスは顔を上げた。
「ジョシュア、痛いの? 傷口が開いて」
と身を乗り出したときだった。
つい今まで痛がっている風だったジョシュアの左腕が急に伸びてきた。ティティスの背中へ回ってくる。力を込められると、ティティスは崩れるようにベッドへ膝を着いた。
「きゃ!」
倒れ込みそうになったところをジョシュアに抱き止められた。
「どうもぴんとこないな」
とジョシュアは独りごちている。
「記憶を失う前の僕は、本当にこんなことはしなかったのかな。いい人だったから?」
「あ、あなたケガが痛むんじゃ」
言いかけて気がつく。
「嘘だったのね! もう、離して」
「優しくて紳士だった僕はこんなことしてくれなかったんじゃないのかい? “僕”なら甘えさせてあげてもいいよティティス」
ティティスは、返答の代わりに力いっぱいジョシュアを押し返した。
「痛っ! 本当に傷口が開いたらどうするんだ」
「知らない!」
今度は引き止める間もなく、ティティスは廊下へ逃げて行ってしまった。
一人残されたジョシュアは、肩の傷をさすりながらティティスとのやりとりを思い返し、
(心が痛んでる)
と他人事のように感じていた。
(そんなに彼女を傷つけたくないのかい、僕)
3
シャロットがジョシュアの左肩の包帯をほどくと、傷口はふさがっているものの、真新しい肉色の肌が露わになったままである。
引きつれているその部分をためつすがめつし、
「あと三、四回も神聖魔法を施せばきれいになります。頭の傷の方も」
「まだ結構かかりそうなんだね」
「あせってはいけませんわ」
「うん。ありがとう」
シャロットの唱える祈りの言葉に耳を傾けながら、ジョシュアは視線を感じて、そちらへ目を向けた。
ベッドの足元の方へ置いた椅子にアルシルが姿勢よく座っている。
常の通り両目は閉じたままだが、不思議と強い視線をジョシュアへ放っていた。
「まだ少しどきっとするよ。君に見られてると――見えてるんだよね?」
「ちゃんと見えてるわよ」
アルシルは言葉少なにうなずいた。
部屋にいるのはシャロットとアルシルだけで、ティティスは席を外している。
「やっぱり目の色が違うせいか、雰囲気も違って見えるわ」
とアルシルがつぶやき、シャロットが横目にちらりと一瞥をくれた。神聖魔法を唱える祈りは途切れない。アルシルの声はそれに埋もれることなく、はっきりジョシュアへ届いた。
「無理して以前のように振る舞うことはないわよ、ジョシュア」
「――もしかしてティティスから何か聞いた?」
「あなたのことで随分ショックを受けてるみたいね」
「そうらしいよ」
少し言いよどんでから、
「君にも、僕は以前と違うように見えるのかな?」
「私の目に映るあなたは変わらない」
「閉じた目に、どんなふうに映ってるんだい?」
「ご想像にお任せするわ」
ジョシュアは肩をすくめたくなったが、治療してくれているシャロットのために我慢した。
シャロットの祈りが済み、ジョシュアは衣服を直してお礼を言った。包帯はもう必要ないだろう。
ふと、鎧戸を閉めた窓の方を見た。
アルシルとシャロットの視線もそちらに向いた。
遠くで獣人のうなる声が地響きのように伝わって聞こえてくる。
「あれを討伐するまでは帰還できないわ。ジョシュアには不便をかけるけれど」
とアルシルが言う。
先晩の交戦時には五体の獣人と戦い、うち二体を倒し、三体は取り逃がした。生き残りたちは一旦は村から離れたようだが、まだこうして咆哮が届く。
「僕にケガを負わせた獣人も、あの声に交じってるのか――」
「そのはずね」
「―――」
ジョシュアの表情がこわばり、頭痛でもこらえているように頭を垂れて両手で額を押さえた。
「ジョシュアさん? ケガが痛みますか?」
脇から顔色をのぞき込んでくるシャロットへ、ジョシュアはかぶりを振った。
アルシルが後を引き取った。
「では何か思い出せそう?」
「何か心に引っかかることがあるって程度だよ――」
「ゆっくりでいいわ」
とアルシルは励ましてくれたが、結局その日はそれ以上の進展はなかった。
4
翌日になった。正午頃のことである。
階下から、ティティスが昼食を乗せたトレーを持って階段を上がってきた。
まっすぐにジョシュアの部屋へ向かう。
「ジョシュア、お昼」
とドアをノックしたが返事がない。
「ジョシュア?」
トレーをお行儀悪く片腕で支えてドアを開けてみると、ベッドにジョシュアの姿はなく、もぬけの空である。
ティティスが驚いて声を上げようとした寸前、
「こっちだよティティス」
と、廊下の方から呼ぶ声がした。
ジョシュアは廊下の窓を開け、その前に立って外の風を浴びていた。
食事を部屋へ残して、ティティスはジョシュアのそばへ歩いていった。
「寝てなくて大丈夫なの」
「もう随分よくなってるよ。シャロットもそう言ってた。できるだけ体を動かした方がいいと思う」
「そう――無理はしないでね」
ティティスはジョシュアから少し距離を取った場所で立ち止まった。今朝からずっとこんな調子だ。
「面白くない――」
ジョシュアは聞こえるか聞こえないかほどのささやきをもらした。
窓から身を乗り出すようにして、くせの付いた栗色の髪の毛を風になびかせる。高くから照らす日の光に濡れそぼり、毛先の方は黄金色を帯びて見える。
その風に乗って届く獣の声にジョシュアは耳を傾けた。
「獣人の声。こんな昼間でも」
ティティスも気がついたらしい。
耳を澄ます。恐ろしい獣人の咆哮は遠く、もの悲しげにすら感じられる。
「まるで獣がはぐれた仲間を探してるみたいだわ」
「!」
「なに? どうかした?」
ジョシュアが急に赤い目を見張ってこちらをにらんだので、ティティスは思わず、びくっと体をこわばらせた。
「――僕の戦った獣人もそうだった」
と、ジョシュアは記憶の糸をたぐり、遠くを眺めるように目を細めて言った。
「僕にケガを負わせた獣人も、きっとあれは仲間を探してた」
「思い出したの!? ジョシュア」
「全部じゃない、あの晩のことだけ――」
一瞬喜びに輝きかけたティティスの表情が再びかげる。
「そっか、全部じゃないんだ」
ジョシュアはティティスの顔から目をそむけ、元のように外の景色を見つめた。
「僕は、君やアルシルやシャロットと別れて、一人で村外れへ向かっていた。村の人はみんな村長のところへ避難していたけど、その辺りの住人だけ逃げ遅れていたから」
「うん」
「僕は戦士の鎧を着て、剣と盾を持って急いだ。使い慣れた物ばかりだったと思う。まだ自分がエステロミア傭兵団の一員だって実感はないけどね。それで、村外れまで来て、小さな農家の子供と母親が取り残されてるのを見つけた。すぐ近くまで獣人が来てるのがわかった。そいつがちょうどあんなふうに――」
風の音に寂しげな咆哮が交じる。
「仲間を探すようにしていた」
「だけど、ジョシュア、あなたが戦った獣人は一体だけだったわよ。周りに仲間らしき気配はなかったし、他の獣人たちはあたしやアルシルが相手してやってたんだから」
「そうだ、一体だけだったんだ」
「?」
ティティスはジョシュアの言わんとするところが飲み込めず、不可思議そうに小首をかしげている。
「ティティス、僕が助けた親子はその獣人のこと何か言ってた?」
「いいえ特には何も。子供は怯えきってずっと泣いてたし、母親はその子をなだめてるばかりだったわよ」
「ならいいんだ」
ジョシュアもそれ以上自分から話して聞かせるつもりはないらしい。喋り疲れたとでも言いたげに、おもむろに窓枠へ寄りかかった。
ティティスは、それを記憶が戻らず思い悩んでいるように取ったのかもしれない。慰めるように肩を並べた。
「元気出してよ。少しずつ思い出せてるんだもの。記憶が全部戻るのだって、そう先のことじゃないわよ」
「面白くない」
と、ジョシュアは今度ははっきりと声に出して言った。
「な、なにが?」
「もし、僕がこのまま以前の記憶を取り戻せないで生きていくことになったら君はどうするんだ?」
「やだ、何言ってるの」
「僕の目は元々青かったんだってね。どういうわけでこんな人間離れした色になったか知らないけど、この目も、もうずっと君の愛した色には戻らないかもしれないね」
「ジョシュア」
「君だけなんだよ」
窓下を見下ろすと、家の主の未亡人が戸口へ出て、物乞いらしきやせ細った姿の少年に食事を分け与えていた。
「アルシルは今の僕も以前の僕も変わらないって言う。シャロットは以前と変わらず接してくれようとしてる。君だけが、僕が以前と違うからって必死に元に戻そうとする」
(どうして)
ティティスは心が深く沈んだ。
(どうしてこんなに落ち込むことばかりあるのかしら)
ジョシュアに意地悪をされたり、きつく当たられて嫌な気持ちがしないと言ったら嘘になる。
でもそんなものは最たる理由ではなく、ジョシュアの言葉に抉り出される自分の内面と向き合うのがつらかった。
「――ごめんなさい」
と謝ることしか、そのときはできなかった。
自分の正直な気持ちを素直に言い表せない未成熟さが嫌になる。
ジョシュアがこちらを振り向いた。
「違う」
と苛立たしげにかぶりを振る。ティティスは、その矛先はてっきり自分なのだと勘違いして余計にしゅんとした。
「違うそうじゃないんだ。僕は君の気持ちを抉るようなことを言って責めたり傷つけたりしたいわけじゃない!」
次の言葉がなかなか出てこない。
「その、好きな人に夢を見たり期待をするのは当然だろう。多かれ少なかれ誰だってそうだよ。誰も石を投げられるもんか。ただ」
「ただ?」
「君が、以前の僕には向けてたはずの笑顔や優しい言葉を、どうして僕は与えてもらえないんだろう」
ティティスは身構える暇もなく、背中を壁に押しつけられた。
見上げると視界いっぱいに迫ったジョシュアの姿がある。体の正面は陰になっていたが、赤い瞳だけは燃えていた。
「君が以前の僕は優しかったとか、優れた戦士だったとか、話すとき、どんな顔をしてるか知ってる?」
ジョシュアは、ティティスのまぶたにかかっている前髪を指先で払った。
「君の目に映ってるのは僕であって“僕”じゃないと思うと面白くない。いらいらする。記憶なんて戻らなければいいんだ。いい気味だ」
そんなふうに考えるのだと言う。
「“僕”を見てよ」
「―――」
「ティティス」
元のジョシュアに戻ったのではないかと思うような、優しい息遣いで名前を呼ばれた。
こめかみにジョシュアの頬が擦り寄せられ、背中へ回ってきた腕に強く抱かれた。
ティティスは声も出せなかった。体中が緊張でこわばり、そのくせ血が駆け巡って全身が脈打つような気さえする。顔へも例外でなく血が上って、口は横一文字に固く結ばれ、ジョシュアの肌が触れているところが熱かった。
抱擁に応える勇気はついに湧いてこなかった。
ジョシュアは顔を上げると、寂しげにティティスから体を離し、
「ごめんよ」
とぽつりと言って、一人で部屋へ引き取った。
5
アルシルが部屋で休んでいるジョシュアを訪ねたのは、その日の日暮れ頃のことだった。
「あなたも気づいていると思うけど」
と前置きして切り出す。
「村周辺の獣人の咆哮が近くなってきているの」
「そうらしいね」
二人のやりとりの間にも、窓から時折地響きのようなうなり声が入り込んでくる。昨晩よりもかなりはっきりと聞き取れる。
「今夜辺り決着がつくと思ってるわ」
「村の人たちは?」
「今回は早いうちから村長宅の辺りに集まるよう伝えてあるから平気よ」
「安心したよ」
アルシルは一呼吸置いてから言った。
「あなたが取り逃がした獣人のことだけど」
「うん」
「私たちに任せてもらうわよ」
「それは必ずしも約束しかねるな」
「なぜ?」
「あいつをあの親子へ近づかせてからじゃ遅い」
アルシルにも、ジョシュアが獣人と戦った記憶を取り戻したことは耳に入っている。しかしそれについて何を考えているのかは、彼女の乏しい表情からは読み取れない。
「皆を悲しませるようなことはしないで頂戴」
と釘を刺したのは、アルシルにすれば精一杯の譲歩だったのかもしれない。
6
ティティスが血相変えて飛び込んできて、
「ジョシュアの姿がないのよ! 家中どこにも!」
と、うろたえた様子を見せても、アルシルは暖炉の前に置いた椅子から腰を上げず、眉一つ動かさないままでいる。
ティティスは、アルシルがうんともすんとも言わないので、じれったくなって詰め寄った。
「アルシル、何か知ってるの!?」
アルシルはそれも黙殺した。
ティティスにしてみれば、ジョシュアが急にいなくなったのは、
(もしかして昼間のことが原因で――)
と思うのだ。が、それはアルシルには預かり知らぬところである。
(あたしは、ジョシュアにどう応えてあげればよかったのかしら)
にわかに家の戸口が騒がしくなり、出迎えた主の未亡人に伴われてシャロットが戻ってきた。
ショールに首まで埋もれたシャロットの面持ちにいつものような温和な表情はない。
「アルシルさん、そろそろです。獣人の声が村の間近まで迫ってきました」
「声は何体?」
「村長さんのお宅の付近で聞こえるのは二体です。もう一体生きているはずですけれど、こちらへは来ていないようです」
「いいわ。支度しましょう」
アルシルがすらりと立ち上がる。
有無を言わさぬ視線をティティスへ向けた。
「私たちは私たちのすべきことをするのよ、ティティス」
「――わかってる」
「それが済んだ後なら好きになさい」
7
ケガのせいか左肩へ掛けた騎士盾が重い。
その割に不思議と疲れはなかった。未亡人の家から村外れまでやって来て、多少息は上がっているが気力はみなぎっている。
ちょうど、先晩ジョシュアが獣人と戦った辺りへ差しかかった。
酒を造るための林檎畑。家畜を放す牧草地。そして家族が食べていくだけの小さな畑があるばかりの寂れた農耕地である。
その耕された平野にぽつりぽつりと農家が点在する。どれも小戸で、数少ない住人たちも今は避難していて、ひっそりともしないほどに人気がない。
厩に取り残された家畜たちの息遣いばかりが聞こえる。
そしてそれに交じって、
オオ――
と狂おしげに仲間を呼び立てるような獣人の咆哮が、やや間を空けながら繰り返されていた。
牧草地の木の陰に、自分と同じような赤い二つの目玉が夜の闇にも爛々と輝いているのを認めてジョシュアは足を止めた。
「諦めろ!」
と声を張り上げる。
「
この辺りの土地の主は若い寡婦と八つばかりになるその息子であった。先晩、逃げ遅れてジョシュアが助けに向かった母子だった。
ジョシュアが駆けつけたとき、母親は玄関先でぐずる息子に手を焼いていた。
すぐそこまで咆哮が迫っているのに、息子は獣人から逃げるのは嫌だと駄々をこねる。
「あれは悪い獣人じゃないよ!!」
と言って聞かない。
「だって一緒に遊んだことだって何度もあるもん! くまさんは近くの森にみんなと仲良くすんでて、ぼくも大きくなったら仲間に入れてくれるって言った! 顔はこわかったけど、やさしかったんだよ」
母親はジョシュアの顔色をうかがって、ばつが悪そうに弁解していた。
「もうずっと前の話なんです。今のような魔王に脅かされる世の中になる前の――そのときは、まさか彼らが村を襲うだなんて思わなくて――」
黒王の影響を受ける前は温和な魔物だったのだと言う。
「あ、あの、このことはどうか村の人には秘密に。皆に知られたら私たち親子はどんな仕打ちを受けるか」
ジョシュアは、そのとき自分はぼんやりとうなずいただけで、口に出しては何も答えられなかったのだと記憶している。
母親は半ば無理やり子供を引きずり出して連れて行こうとした。
子供は暴れるので手間取った。ジョシュアは彼らの後へ護衛として張り付きながら、背に獣人の気配がひしひしと近づいてくるのを感じていた。
それが先晩についての記憶であった。
ジョシュアは赤い目元を歪め、情けを振り捨てるように剣を抜いた。
剣の切っ先を払った。
盾を肩から外したのとほぼ同時に獣人が一際大きな雄叫びを上げた。
ジョシュアの身ごなしを見た人がいれば、きっと、一瞬彼の方こそ獣かと見間違ったに違いない。こちらへ向かってくる獣人の懐へ、およそ人間離れした体のバネで飛び込みざま、左手の盾が獣人の顎を全体重乗せて殴りつけた。骨が砕ける鈍い音がした。
一撃で獣人が倒れ込んだ次の瞬間には、ジョシュアは盾でその巨体を抑え込み、右手を深く引いて剣先を獣人の喉へ向けている。
だが、そこで止まってしまった。一突きで決着が着くのにそうできないでいる。
「まだためらうのか」
と、低く声に出した。まるで自分の中に、獣人を殺すことを躊躇するもう一人の自分がいて、それを説き伏せんとしているようであった。
「こいつは魔物だ。凶暴で、もう話なんか通じない。人を襲う。僕に記憶を失うほどのケガを負わせた!」
振り上げている右腕が小刻みに震える。
「あの子は泣き叫んでいた!! 僕はどちらを守るんだ!?」
母子を庇って背中から獣人に殴りつけられたジョシュアを目の当たりにして恐怖に見開かれた子供の目。ぎょろりとうごめいた瞳が止めどない涙に濡れるまでに時間はかからなかった。
ジョシュアの右腕を引き止める力がふっと弱まった。
しかし、絶えず盾の下でもがきあえいでいた獣人も力を振り絞り、ジョシュアは払い落とされて体の均衡を失った。
地面へ叩きつけられた。
頭部と首を守るのが精一杯だった。それでも土は硬い。かなりの衝撃で目の前が白くなった。
「うぐ――!」
失神してしまわなかったのが奇跡である。
もやが引くように次第にはっきりしていく視界の中で、獣人が赤い獣の目を燃やし、こちらを見下ろしている。
黒々とした獣毛が風になびく。風が強い。さっきまでこんな巻き上げるような風は吹いていなかった。
宙を裂くほどに風がうなる。獣人のとどろくような声さえかき消し、空中に鋭い旋風が生じた。
降り注いだ旋風は獣人の毛皮を縦横に切り裂き、獣人は牙をむき出しにしてあえぎながらよろめいた。
ジョシュアの右手にしっかりと剣が握り直された。
獣人の無防備にさらけ出された喉へ剣身が深く突き上げられる。
剣を離して、ジョシュアは倒れ込む獣人の巨体から逃れた。そしてそれが死体であることを確かめてから、ようやく、
「ふー――」
と安堵のため息をもらす。全身から緊張が解けてぐったりと地面へ沈み、重みを増す。
村の中心部へ続く道の方を、亜麻色の長い髪を揺らして駆け寄って来る見慣れた姿があった。
(ティティスだ。助けてくれたのか)
体を起こすと、後方にアルシルとシャロットの影も見えた気がする。みんな自分の持ち場はどうしたのだろう、と脱力した頭で思った。
風の魔法の名残をまとわりつかせているティティスが、ほとんど泣き出しそうな顔で飛びついてきた。
「ばか!! どうしてこんな心配かけるようなことするのよ!?」
「? どういうことだかわからないことばっかりだ」
と、ジョシュアは怪訝そうに首をひねっている。
「僕はみんなの了解を得て、ここへ逃げ遅れた人を助けに来たんじゃなかった? それで、確か、ええと、獣人に後ろから殴られてケガをした気がするのに、その傷がもうふさがってる。あの親子は? どうして僕は獣人に地面へ叩きつけられたんだっけ――」
ティティスは、はっとして、ジョシュアの顔を押さえつけんばかりにしてのぞき込んだ。
懐かしい人のよさそうな顔つきがそこにあった。戸惑って目を白黒させている。夜目にもわかる。瞳の色は青い。
「ジョシュア、元に戻ってる!」
「へ?」
「覚えてないの?」
「何のことだい?」
おそらく地面で体を打った衝撃のせいだろう、と後でシャロットが言っていた。
ジョシュアはまさか自分が記憶喪失になっていたとは考えもしないらしい。さっぱり事情が飲み込めない。ちょっと情けないくらいにうろたえていたが、ティティスには本当に元のジョシュアが帰ってきたのだと思えて嬉しかった。
でもその代償に、記憶をなくしていた間のもう一人のジョシュアはどこかへ消えてしまった。
「仲直りできなかったわ」
「えっ、誰と?」
ティティスは無性に悲しくなってきて、ジョシュアの肩にしがみついた。ジョシュアが慌てて声を裏返らせても構わなかった。
そうしているうちに、赤い瞳のジョシュアにもこうしてあげればよかったのだと、やっと気がついた。
8
ゆるやかな丘陵に遠くまで広がる麦畑の間を縫うように蛇行する細道を、二台の荷車が前後になってのんびりと進んでいく。
先を行く方は漆黒の馬が引き、後の方は葦毛であった。
それぞれの馬の轡を取っている農夫たちは、時々天候や路面の具合の話をする以外は黙っていた。
荷車に飼い葉を山と積み、その脇へ小遣い稼ぎに旅人の一人二人、あるいは荷物くらいなら乗せて行くこともある。イスカバーナから帰還する傭兵たちに雇われた彼らは、物珍しそうに武具を積み込み出発した。
黒馬の方の荷車の隙間へシャロットを乗せてもらい、葦毛の方へはティティスが収まった。体力のあるジョシュアとアルシルは荷車に並んで歩いた。
「まだ信じられないよ。僕が何日も記憶を失ってたなんて」
ジョシュアは、横の荷車で膝を抱えて小さく座っているティティスを見た。
「しかも君はまるで僕の人が変わったみたいだったって言うし」
「アルシルやシャロットはあんまり気にしてなかったみたいだけど、少なくともあたしには全然性格違って見えたわよ」
「――それに目の色も?」
ジョシュアはそのことを知ったとき、しきりと自分が皆に何かひどいことをしたのではないかと心配していた。
「きっと理由があったのよ」
「どうだろう――」
「そんなに心配しなくても、別にひどいことなんてされなかったわ。ただ、記憶をなくしたジョシュアはすっごく意地悪で、皮肉っぽくて、強引だったけど」
「それで君を傷つけたんじゃないのか?」
多少図星を指されて、ティティスは決まり悪そうにもじもじしていたが、
「そうね。でも、少なくとも、あたしは嫌だとは思わなかった」
と、なんとなく恥ずかしそうに言った。
(同じ一人の“僕”の話をしてるはずなのに)
ティティスはなぜか自分の知らない表情で話す。
面白くないな、とジョシュアは思った。けれども随分身勝手なことのようで口には出せず、黙っていた。
荷車の車輪がふいに小石を引っかけて、大きくがたんと台を揺らした。
「きゃっ! っととと!!」
ティティスが跳ね上がらんばかりに驚き、その拍子に荷車からずり落ちそうになって台へしがみつく。その慌てぶりがおかしくて、ジョシュアはつい吹き出してしまった。
「も、もう、笑ってないで助けて!」
ジョシュアは急いで手を貸してやった。
驚いたとき目が倍くらい大きくなっていたとか、変な格好だったとか、他愛もないことで笑い合う。
「記憶がない間のジョシュアだったらもっと笑ってたわよ、きっと! 意地悪なんだもの!」
と、ティティスは本当にそうされたようにふくれ面になった。
「僕は手を貸して助けてもあげなかったかもしれない?」
「ううん、そんなことはないと思う」
はっきりとかぶりを振って言った。
「だって、どんなジョシュアでもやっぱりジョシュアに違いないんだから」
(了)