魔犬の黒き牙

1

「今までよく、先行部隊の君たちだけで耐えてきたものだ」
 とリビウスが、至極真面目に、感心した様子で言ったのは、彼の率いる後続部隊が遺跡に到着したその日の晩のことだった。
 先ごろクォドラン帝国との戦争は終戦したものの、いまだ治世は定まらぬ。そんな中、百年ぶりに魔物が出現したという噂の真偽を確かめるため、辺境の地下遺跡探索を命じられたのが国王直属の精鋭部隊――エステロミア傭兵団である。
 先行して遺跡の調査を始めていたジョシュア以下七名の部隊に、リビウス以下七名が合流した形になった。野営地では久しぶりに皆がそろって夕食の卓を囲んだ。
 リビウスが冒頭のような話を始めたのは、その食事が済んだ後のことである。
 き火の番をしていた。ジョシュアとアルシルも一緒だった。
「はは――
 とジョシュアは苦笑いしていて、アルシルはずっと黙ったままでいる。リビウス一人がさっきからしゃべっていて、
「まったく、あんな食事ばかりでよく誰も体を壊さなかったな。君たちの胃袋の頑丈なことだ」
 などと言う。
「特にティティスの料理はひどいぞ。一体どうやったらあんな味付けになるんだ! ――まあ、エルフの彼女が我々に合わせて火を使った調理をしてくれているわけだからな、その苦労は理解も感謝もするが――それにしても味はひどい」
――その点については、あなたがシャロットやジュランを連れて来てくれて感謝してるわよ」
 と、アルシルがようやく口を開き、そこへすかさずジョシュアが言い添える。
「もちろん、戦力が増えたってことでも助かったよ。ありがとう、リビウス。ずいぶん急いで来てくれて」
「当然のことだ。礼には及ばない」
「でも途中で帝国軍の残党にも襲われたっていうし、大変だったんだろう? 今夜の夜番くらい、誰かに代わってもらえばよかったのに」
「たった七人で野営地を守り探索隊まで出していた君たちだって、同じように疲れているだろう」
 とリビウスは譲らない。き木を一つ取って火にくべた。
 三人が火にあたっている周りには天幕がいくつも張られている。地面に大きく口を開けている地下遺跡の入り口に近い方から、傭兵たちの居住用、奥の方が今回の遺跡探索任務のために国王の命によって派遣されてきた傭兵団長の執務室、それに寝室、彼の補佐役であるマールハルトのための部屋、そして客室であった。
 傭兵たちは明日に備えて早いうちから休む者が大半らしく、彼らの寝起きする天幕は静かだった。
 傭兵団長やマールハルトの天幕は、まだ中から光が漏れ出しているのが見て取れる。
「遅くまで二人で何か話し合っているのかな」
 とジョシュアが言い、
「ふむ」
 とリビウスが相槌あいづちを寄越す。何気ないようだったが、その声色から彼の微妙な感情を読み取ったのがアルシルで、
――新しい傭兵団長にはあまりいい印象を持たなかったみたいね」
 と、リビウスの内心を見透かしたように言う。
――アルシル、相変わらず君には何もかもが見えているらしいな。どうやって見ているんだ? いつも両目をつぶっているのに」
―――
「そこまで言われるのは心外だが、殿下――いや団長殿か――今日初めてお会いしたが、兄君である国王陛下とはずいぶん為人ひととなりの違う方のようだと思っただけだ」
「それは確かにそうかもね」
 とジョシュア。
「でも悪い人ではないと思うな」
「ふむ。まあ、なかなか度量の広い方ではあるらしいが。エルフの客人や猫人族ケットシーの盗賊が野営地この中を自由に歩き回っているのには驚いたぞ」
「おかげでにぎやかになったよ」
 いつもなら、この後にアルシルの、
「うるさいくらいにね――
 という毒の一つも挟まれそうなものだが、今夜の彼女は平時以上に口数が少なかった。ジョシュアが気づいて、アルシルの顔をのぞき込んだ。
「アルシル――どうかした?」
「? 腹でも痛いのか? 夕飯はまずかったが火は通っていたぞ」
 とリビウスも尋ねる。
 そうじゃない――とアルシルはかぶりを振って見せた。
「今夜は、遺跡の方が騒がしいわ――
「騒がしい?」
 リビウスとジョシュアは耳を澄ませてみたが、彼らには、夜の野外に満ちているかすかなざわめきの他には何も捉えることができない。
「いやな気配ね。私にも、なんとなくいつもと違うようだとしかわからないけど、用心するに越したことはないと思うわ」
 アルシルは腰に提げたレイピアをいつでも抜けるように、その細い体に絶えず緊張の糸を張り巡らしているらしかった。
「君がそう言うのなら、きっとそうなんだろうね」
 とジョシュアもにわかに表情を引き締めた。リビウスも、脇に置いていた剣帯を取って腰に帯びた。

2

 あるとき、つと、ジョシュアが剣の柄に手をかけて立ち上がった。その顔つきは険しく、いつもは穏やかな青い双眸そうぼうに今はき火の炎が映り込んで妖しく揺らめいている。
「ジョシュア――
 リビウスも腰を上げて、ジョシュアの肩を押さえた。
――大丈夫だよ」
 と答えたジョシュアの声ははっきりしており、リビウスは安堵あんどの息をついて手を離した。
 アルシルが最後に立ち上がって音もなくレイピアを抜き、
「現れたようね」
 と言ったそのとき、野営地を囲む暗い木立が突然破れて、そこから全身傷だらけの男が転がり出てきた。男は文字どおり地をいつくばって、茂みの向こうの闇から人の住む明かりの見える方へ逃れようとしていた。
「た、助け、たす、助けてくれ――!!
 男は、よく見れば、この辺りにときどき盗掘に現れる盗賊に似た格好なりをしていた。
「なんだ、野盗か」
 とリビウスは肩透かしを食ったように言いながらも地面にうずくまっている盗賊の方へ駆け寄り、ジョシュアとアルシルは彼らを守るために剣を構えて野の闇の奥と対峙たいじする。
 暗闇の中からは獣の息遣いが聞こえた。それは初めかすかに、次第にはっきりとしてきた。こちらへ忍び寄ってきている。
「まだ何かがこっちへ来るみたい――ジョシュア、何だかわかる?」
「さあ、僕にもそこまでは」
「私たちに友好的じゃないのは間違いなさそうだけど」
――! アルシル!!
 突如ジョシュアの全身に雷撃のような殺気が走り、それと同時に横っ飛びに跳ねて体当たりでアルシルを突き飛ばす。
 刹那、闇の中から一息に飛びかかってきた魔獣が鋭い牙をいた。さっきまでアルシルの首があった場所にそれを突き立てようとしたが、代わりにジョシュアが自分の左腕を犠牲にしてそれを受けた。
 魔獣が姿をさらした好機を逃すべくもない。すぐさま体勢を立て直したアルシルの剣が魔獣の喉を貫く。二度目の刺突で魔獣は力を失ってジョシュアの腕から落ち、そのまま地面に縫い付けられた。
 アルシルは魔物が絶命したことを確かめてから、ジョシュアの方を振り返った。
「ジョシュア、無茶しないで。大丈夫?」
「たいしたことないよ――
 とジョシュアは答えたが、穴の空いた左腕からは少なからぬ量の血が流れ出していた。アルシルがその傷の具合を見ようとそばに寄ると、しかしジョシュアはうつむき加減になって顔をそらしてしまう。
「僕は大丈夫――
「でも――
 アルシルはジョシュアが目元を隠そうとするのを見て、事情を察した。それ以上言うのはめた。剣帯を外し、それでジョシュアの傷ついた腕をきつく縛って止血をした。
 盗賊の方の傷を診ていたリビウスがジョシュアたちを心配して、険しい声を上げた。
怪我けがをしたのか?」
「心配いらないわよ」
 とアルシルが答える。
「でもシャロットかバルドウィンに治療してもらう必要があると思うわ――
「そういうのは心配いらないとは言わないんだ」
「私はジョシュアについて行くから、あとのことはあなたに任せてもいい?」
「ああ、引き受けよう」
 リビウスは盗賊の男の傷を神聖魔法で治療してやりながら、一体何があって魔獣に追われる羽目になったのかと尋ねた。
「わからない――遺跡のすぐそばを通りかかった﹅﹅﹅﹅﹅﹅ときに急に襲われたんだ。あの魔物は二本足で立ってたが、頭は犬だった――
「ふん、どうせ盗掘に入るつもりだったんだろう。頭が犬の魔物というと――コボルドか? しかしコボルドなら普通はもっと知能が高いはずだ。それに群れを作って行動する習性があると聞いている。――昼間のガーゴイルの件といい、何が起ころうとしてるんだ?」
―――
「それにしても運のいいやつだ。傷のほとんどは軽くて済んだらしいな」
 リビウスの見たところ、コボルドにやられたという盗賊の傷は足のものが最も深く、大きな魔犬の上顎に生えた二本の牙の痕が痛々しかった。完治までには何度か治療を繰り返す必要がありそうだったが、けんはやられていない。じきに元のように歩けるようになるだろうと思われた。
「足をまれて、よくここまで逃げてこられたな」
「ああ――もう、だめかと思った――
「コボルドの牙に毒はないはずだが、傷口が熱を持つかもしれん。念のため数日は安静にして様子を見た方がいいだろう」
「どうせ俺は官兵に引き渡されるんだろう」
「当たり前だ。だが死なずに済んで幸運だった。生きていれば正しい道に戻るチャンスは必ず訪れる」
 とリビウスは聖職者らしくお説教じみたことを言ったが、盗賊の男は別にそれに感心したそぶりも見せなかった。

3

「今度は勝手に遺跡を掘り返そうとしていた盗人ぬすっとか。客が多いな、傭兵団というものは」
 いっそ宿屋でも始めるか、と新米の傭兵団長は皮肉屋らしい口調で冗談を言ったが、その場にいるマールハルトもリビウスもくすりとさえ笑わなかった。それどころか、
「陛下の許可なくそんなことは――
 と、リビウスには真面目な顔でいさめられまでした。傭兵団長は、どうも調子が出ないと言いたげな顔をしていた。
「ま――盗賊くずれでもなんでもいい。怪我けが人なら客室に寝かせておいてやれ」
「あまり感心いたしませんな」
 とマールハルトが言う。
「才能ある者を見出そう、負傷した者を助けようという志はご立派ですが、あなた様のお立場も多少は考えていただかねば」
お立場﹅﹅﹅ときたか」
「あなた様は国王陛下の――
「そうだな、仮に私が帝国軍の送り込んでくる刺客に殺されたとして、それで? きょうらに何の不都合がある? 傭兵団長わたしの代わりなぞいくらでもいる。陛下は私をここに派遣したのと同じように、また新たな傭兵団長を見繕って任命するのだろうよ」
「なんということを、殿下――!」
 ――いや、傭兵団長殿――とマールハルトは言い直し、気を落ち着けるために一度深いため息をついた。
「国王陛下は、あなた様の指揮こそがこの傭兵団に必要だとお考えなのです」
「さあ、どうだか――口さがない周りの者たちが何と言っているか、陛下もご存知ないわけではあるまい」
「そのような言葉に耳をお貸しなさいますな」
「事実は噂よりもなおひどいこともある。この辺境の地で補給は貧弱。何度も言っているが急いで備蓄を少なくとも今の倍にはすべきだ。この野営地が孤立したらひと月ともたない。それに伝説の“魔を狩る者”の末裔まつえいだと――歴史ある王直属の部隊といえば聞こえはいいが」
 と、傭兵団長はそこで一度言葉を切った。
「蓋を開けてみれば、今となっては経験の浅い若者と、年の寄った者と、他国者ばかりだ――王侯貴族と呼ばれるやつらには、彼らのような者に功績を立てさせるなんて考えもよらないことだろうな」
「お言葉ですが団長殿」
 とリビウスが、毅然きぜんとした口調で遮った。
「確かに、私もいまだ経験浅く未熟でしかも他国から身を寄せている者ですが、エステロミア王国のために身を尽くして戦おうという想いが仲間たちと比べて劣っているとは思いません」
―――
 傭兵団長は、リビウスのにこりともしない顔をしばし見つめ、
「君は聖教国出身だったな、リビウス」
 と言う。リビウスはうなずいた。
「それに相違ありません」
「君のように若く本来なら騎士団で手塩にかけて教育されるべき騎士が、どういうわけかかの誉れ高き聖騎士団を離れてしかもこんな辺鄙へんぴなところに追いやられている――別に君の身の上話なぞ聞きたくない。この国を動かしている連中にとって余所よそ者の君はその程度の価値の者でしかないわけだ」
「国王陛下が我々にこの地での遺跡調査を命じられたのは、王国内の主な兵力はいまだ混迷の続く旧帝国領内にあり容易に身動きならないことが最たる理由と聞き及んでおります。また真実百年ぶりに魔物が現れたのです。“魔を狩る者”の後継であるという我々がその厄災に対処するのは当然のことです。それが国王陛下のご期待なさるところであれば、全力をもって応えるまで!」
――なるほど、陛下は﹅﹅﹅そうおっしゃるであろうよ。――陛下に限っては本当に心からそう思っておいでなのだ。あの方は、昔からそうだ」
 傭兵団長は、自分をここに遣わしたエステロミア国王――腹違いの兄王の話になると、なんだか途端に歯切れが悪くなるのであった。
―――
 しばし押し黙ったのち、
「リビウス。君の心映えの清々すがすがしいことはよくわかった。久しくお顔を拝していない陛下の声を聞いたような思いだ」
 しかしな――と傭兵団長は皮肉屋の顔を崩さない。
「しかし、国というものは、陛下お一人で動かしておられるものでもない。むしろ陛下であられてさえ何一つ思うがままにできないようなことばかりだ。それは君も知っておくべきだ」
 リビウスが執務室を辞して天幕の外へ出ると、すぐ目の前に、アルシルが明かりも持たずに立っていて驚かされた。
「わっ! アルシル、驚かせるな」
「ジョシュアの方は、シャロットに見せたわよ」
 とアルシルは別に悪びれもせず、話が早い。
「とりあえず神聖魔法で傷は塞いでくれたけど、しばらくは熱を持ちそうだし、完治させるにはもう何度か治療する必要があるみたい」
「ということは、あの足を噛まれていた盗賊も同じような見立てになるだろうな」
 リビウスとアルシルは並んで歩きだした。
 ――アルシルが、
「初日から派手にえかかったのね――
 と言う。天幕の外からリビウスと傭兵団長の応酬を聞いていたらしい。
「立ち聞きとは。騎士道の教えにはないはずだぞ」
「夜中だっていうのにあなたが大声を出すから、聞こうと思ってなくても聞こえるのよ」
――こらえたつもりだったがな」
「まあ、あなたにしてはね」
「君に“猛犬のテリア”だと言われた頃よりは、いくらかましになったと思っている」
「あら根に持ってたの――
「ふん」
「確かにもう“小型犬テリア”ではないわね」
 とアルシルはつぶやきながら、片手で自分の頭の天辺てっぺんを指し、それから今度はその手でリビウスの頭を指した。そんな仕草も、今では彼の顔を見上げなければできなくなってしまった。
 二人はき火の前まで来るとそこで別れた。リビウスは律儀に今夜の夜番を最後まで務めるのだと言う。
野営地ここへ着くまでは聖典を読む日課もままならなかったからな。火の番をしながらならちょうどいい」
 アルシルはリビウスの相変わらずの生真面目ぶりに、黙ってちょっと肩をそびやかしてから自分の寝床がある天幕へ帰った。

4

 翌朝、リビウスは一時課は寝過ごしたものの、三時課までには起きていて、バルドウィンとシャロットとともに野営地の片隅にしつらえられた仮ごしらえの聖堂で礼拝に加わった。
 礼拝から帰る道すがら、ハヅキとティティスが二人連れで歩いているのと行き違った。二人は野の花を摘んで来たのだと言い、それぞれに白い小さな花を付けたのや黄色いのを手にしていた。
「夕べ魔犬が出て殺したんだろ? 野ざらしにされてるの見たよ。人を襲ったとはいえさ、なんだかあわれだから埋めて供養してやろうと思って」
 とハヅキが言う。ティティスも、
「勝手に野山を開いて野営地を建ててるのはこっちだもの。森から来た者は森の土へ返してやりたいわ」
 と、エルフなりの感じ方があるらしかった。
「ジョシュアには反対されなかったわよ」
 リビウスは彼女たちに同行することにした。
 昨夜のうちに野営地の外れへ運んでおいたコボルドの死骸は、夜目には巨体のような気がしていたが、陽光の下ではずいぶん小さく普通の犬と変わらぬほどの大きさに見えた。
 アルシルの剣が喉を貫いた傷は黒く変色した血で固まっていた。開いたままの顎には黒ずんだ牙が生えている。四肢もこわ張って伸びたまま曲がらなくなっていた。
「リビウス、ついて来たなら手伝ってよ。ティティスにやってもらうより早いよ」
 リビウスはハヅキからすきを渡され、二人がかりで穴を掘った。十分に広く掘り終えると、その中へ死骸を収めて土をかぶせた。ティティスが野花を供えた。
 ハヅキが土で汚れた両手の手のひらを合わせ、
「南無――
 と――その後はリビウスにはむにゃむにゃとしか聞き取れなかったが、東国の鎮魂歌らしきものをつぶやいている。
「それは君の神の言葉か?」
 とリビウスは、合掌をといたハヅキに尋ねた。ハヅキは、きょとん、と思いもよらぬことを聞かれたという顔をしていた。
「えっ、どうだろ――そんな大袈裟おおげさなもんじゃないと思うけど。仏さんには手を合わせてお経の一つも上げてやるもんだって、子供の頃からそう教えられてきただけだよ」
「ふうん――すきをこっちに渡せ。私が持って帰ろう」
「気を遣ってくれなくていいのに」
「私は君たちの武士道のことは知らないが、我々の騎士道には婦人に荷物を持たせる教えはないんだ」
「リビウスがああ言ってるんだからいいじゃない、甘えちゃいなさいよ」
 とティティスにも言われて、「じゃあ」とハヅキは手にしていたすきをリビウスに預けた。
婦人﹅﹅だなんて言われると照れるよ、オレ」
「それは君の精神的鍛錬が足りない。そのうち慣れるさ――
 三人はたわいないおしゃべりをしながら彼らの天幕へ帰った。彼らは気がつかなかったが――客室の天幕の一つが開いていて、その外に立ってこちらを見ている人の姿があった。昨晩魔犬の命と引き換えに助けられた盗賊の男である。
「足の怪我けがはもういいのかしら?」
 と、突然背後から声をかけられ、盗賊の男は驚いて、振り返ろうとした拍子に怪我けがをしている足に無理な力がかかったらしい。
「いっ――! 痛て――
――怪我けがの方は本当のようね」
 天幕の柱の陰で男の様子をうかがっていたアイギールは姿を現すと、彼のそばまで近寄って怪我けがの具合を見てやった。
「神聖魔法で塞いだ傷からまた出血してる。――あなた、ただの遺跡の盗掘に来た野盗じゃないわね。薬の売人は傷の治りが遅いと聞くわ」
―――
「まさかこんなところに怪しげな薬を売りにきたとも思えないけど」
――あんたのような盗賊まで王国傭兵団の一員とはな。どうせ俺と同じ穴のムジナだってのに。どうかしてるぜ、あんたも、あんたを雇ってるこの国のお偉いさんも」
 けっ、と盗賊の男は悪態をついて、アイギールの言葉には取り合おうとしなかった。
「最後の『どうかしてる』っていうのは否定しないわ。まあ私の方は――借りができたのよ」
「ああそうかい」
「僧侶を呼んでくるから寝てなさい。――リビウスを呼ぶ方がいいかしら」
「あの金髪で若造の騎士のことか」
「さっき彼を目で追ってたわね。次の輸送隊が来る日には、あなた官兵に引き渡されるわよ。その前に今までの行いを悔いて彼に懺悔ざんげでも聞いてもらうつもりならいい心がけだけど」
「ばかばかしい」
 盗賊の男は、足を引きずりながら天幕の中へ戻っていった。
(少なくとも帝国の手の者ではないわね)
 アイギールは内心独りごちた。と同時にいくらか安堵あんどしたのも事実だった。
 盗賊の男の治療のためにバルドウィンを呼んでやろうと、天幕を離れながら、
(借りを返さないうちにあの人に死なれるのも寝覚めが悪いわ)
 と思い浮かんでいるのは、それとは関係のない人物のことばかりである。傭兵団長の皮肉屋らしい表情が脳裏をよぎって、苦々しい顔になった。

5

「感心いたしませんな」
 と、野営地ここへ来てからもう何度目になるかわからないマールハルトの小言が始まった。執務用の卓に着いていた傭兵団長は、さすがにうんざりだ、という様子で、
きょうにそう感心しない感心しないと言われると私だって身にこたえる」
 と言うが、その話しぶりだけ聞けば面の皮には別段傷も付いていないようである。
「今度は何に感心できないと言うんだ」
いろいろと﹅﹅﹅﹅﹅でございます」
 とマールハルトの方も、この傭兵団長がやって来て以来何かにつけ気苦労が絶えないでいるらしい。
「はぁ。そうか、私も感心されない心当たりはいくつもあるが――ここは一つずつ順に検討していこうじゃないか。まず一つ目は何だね、マールハルトきょう」   
――では、申し上げましょう」
 と、マールハルトは答えながら、傭兵団長の本当の心の内を見極めんとするようにまっすぐ鋭い視線を寄越してくる。
「まず一つには――アイギールのことでございます」
「彼女が何か? これまでのところ特に問題も起こさず真面目にやってくれているようだが」
「よく働いてくれていることはわたくしも存じております。このたびの任務においても遺跡探索にその腕を振るって見せるでしょう。しかし、いまだ素性が知れておらぬのも事実でございますぞ。――あなた様こそは、あの者にその仮面を取れとお命じになるものと思っておりました」
「彼女から挨拶を受けたときにも言ったが、仮面を取れない理由なぞ、おおかたがありふれた肌の病か大きな傷痕だろう? そんな御面相をわざわざ見せてもらうこともない。仮面越しにもさぞや見目麗しかろうとわかるような婦人のきずを、無理やり暴くことが騎士道の教えかね」
「なぜそこまであの者をおかばいになるのです」
かばっているように聞こえるか」
「あなた様が本心をおっしゃっていないことは、わたくしにもわかります。まあ、年の功というものですな――
 そうか――と、傭兵団長は小さくため息をつきながら、小指に四本角の竜の印章をはめている左手を額に押し当てた。
きょうが何を心配しているのかはわかっている。彼女はさる御方﹅﹅﹅﹅の紹介で傭兵団ここへ来たそうだな」
―――
「私が彼女をかばっているのだとしても、それは誓ってそのこととは関係ない。私は誰にもおもねりはしないし、そもそんなことをする必要もない。私はな。今までの傭兵団長がどうだったかは知らん」
――あなた様がそういったご気性であるがゆえに、国王陛下もあなた様ならばと考え抜かれた末に新たな傭兵団長としてご任命になったものと存じまする。わたくしに心配事があるとすれば、ただ陛下におかれては日々少しでもお心安らかにお過ごしいただきたいと、そのことばかりでございます」
「奇遇だな――私もだ。――
「左様でございますれば、この件についてはわたくしから申し上げることはもうございません」
「どうにか一つ片付いたか」
 次は何だ、と傭兵団長が尋ねると、マールハルトはふと優しい目つきになった。
「そうですな――もう一つだけ申し上げさせていただきましょう」
「何だね」
「わたくしは陛下にお仕えしていると同時にあなた様の補佐役。あなた様にも日々無事にお過ごしいただけるよう気を配るのが、わたくしの務めと心得ておりまする。――あまりご無理をなさいませんよう。慣れない場所で慣れない者たちに囲まれてお焦りになるのはわかりますが」
きょうが私の心配までしてくれるのは嬉しい。だが別に、焦ってなどはないさ」
 ただ――と、傭兵団長もマールハルトの態度に呼応するように柔らかな物腰になっていた。
「ただ、なんというか、働いている方が気が紛れる。陛下が本当は何をお思いになって私をここへ遣わしたのか――というようならちが明かないことを考えなくて済む」
「殿下」
 マールハルトの口をついて出たその呼び名を、傭兵団長はとがめもしなかったが、といって返事をするでもない。
「ま、私もきょうに気をもませるのは本意じゃない。今日はこれくらいで切り上げるか。そろそろ夕食の時間だろうしな」
 傭兵団長は王の印璽いんじを鍵付きの物入れにしまうと、席を立って厚い上着を羽織った。食事は傭兵たちと同じ食卓を囲むことにしている。
きょうも一緒に行こう」
「は。今夜の食事当番は確かティティスでしたかな――
 とマールハルトの顔が曇ったので、傭兵団長はくくと笑い、
「皆そういう顔をするが、私は彼女の作る食事を結構気に入っているぞ。実に素朴でいい。それにエバンアタウ大陸中探しても、エルフの手料理が食せる場所なぞ他にないだろうしな」
 と言って、マールハルトが支度をするのを待ち、同行して天幕を出た。

6

 夕食は山鳩ヤマバトを骨や内臓ごと煮込んで香草で香りをつけたスープと、それに保存の利く硬いパンで、一見したところそう悪いものでもなさそうだったが、スープには全く塩気がなかった。
 傭兵団長、マールハルト、傭兵たちはもちろん、客人たちにも同じ食事が振る舞われる。
 客用天幕に寝かされている盗賊の男の分は、身の回りの世話や足の怪我けがの具合を診るのも兼ねてバルドウィンとリビウスが交代で運んでやっていた。シャロットは、神の妻たる尼僧に万一のことがあってはというので当番から外されている。
 リビウスがトレーに食器を載せて運ぶ支度をしていたとき、
「盗賊風情に手厚いことね、傭兵団ここは」
 と、どこからか声がした。リビウスは周囲を見回し、天幕の陰などものぞき込むようにしてみたが誰もいない。
「その声、アイギールか? どこにいるんだ」
「あなたの後ろ」
 急に声が間近に迫り、リビウスはぎょっと背後を振り返った。リビウスのすぐ真後ろに、アイギールがにこりともせずに立っていた。
「驚かせるな!」
「別にそういうつもりじゃなかったけど――ちょっとあなたと話したいことがあって」
「私と?」
 珍しいな、とリビウスは首をひねった。
「何の話だ?」
「あなたが今から行こうとしてる先のことよ。あいつ、ただの遺跡荒らしじゃないわ。おそらくは――薬の売人。薬といっても、あなたが知っているような善良なものじゃないわよ」
「なぜそんなことがわかる?」
「あいつの足の怪我けが、治りが遅いでしょう。薬物を扱っていると、少しずつ体がそれに侵されていくわけ。甘い香り付けのためのある種の樹皮は、常用すると血が止まりにくくなるわ」
「ふむ――確かに、あの男の足の傷はなかなか治らないな。妙だなとは思っていたが」
「あなた、あの男が怪我けがを負ったときの様子を見たのだったかしら?」
「ああ――コボルドにまれた傷だった」
 とリビウスは答えた。
 しかしアイギールは、その答えに満足せず、
まれたところを見たの?」
 と、さらに踏み込んでくる。
 そう言われて、リビウスはよくよく思い出してみようとした。きりっとっている眉の間が狭まり、そこにうっすらとしわが寄った。
「いや――
 盗賊の男はすでに足を怪我けがした状態で野営地に転がり込んできたのであり、コボルドに襲われているその光景を目の当たりにしたわけではなかった。
「だが、あの男は襲われたと言っていた。君はそれを信じていないのか?」
「盗賊の言うことなんて信用するもんじゃないわよ」
「君だって盗賊じゃないか。私は君のことは仲間として信頼しているが」
―――
 アイギールの顔が曇る。「気を悪くするようなことを言ったか?」とリビウスは聞いた。
「そうじゃなくて」
 アイギールは、彼女にしては珍しくまごついていたが、結局その続きを言うのはやめてしまって、その代わりに、
「あの男は私を警戒していて尻尾をつかまれまいとしてるけど、あなたにならいくらか心を開くかもしれないわね」
 と言った。
「正直、あいつは怪しいと思ってるわ。怪我をしてるのは本当だけど、それは野営地ここへ潜り込むための口実じゃないかしら」
「君はそう考えているのか」
「証拠はないけれど――
「ふむ」
 リビウスは食事の支度ができると、
「君が忠告してくれたことに感謝する」
 と律儀にアイギールへお礼を言った。
「私も少しあの盗賊の男と話をしてみようと思う」
「頼んだわ。懺悔ざんげでも聴いてやってちょうだい」
 リビウスがほんの少し目を離していた間に、アイギールは音もなくどこかへ姿を消してしまっていた。
「夕食だぞ」
 と、リビウスが食事のトレーを持って天幕へ入ると、盗賊の男は寝台に寝転がっていて、別段反抗もせずしおらしい様子だった。
―――
 男は起き上がって、足の怪我けがかばいながら寝床の上に座った。トレーを受け取り、黙って食べ始めた。食前のお祈りも、いただきますとも言わない。ただ、スープを一口食べて、
――不味い」
 と文句だけは言った。
「ときどきやたらと不味い物が出る。王の傭兵団じゃないのかここは――
贅沢ぜいたくを言うな。その日の糧が得られるだけで幸いなのだ。聖典にも神の与えた食物に飽食した民が罰を受けた話があるぞ。知らないのか」
 リビウスは男の洗濯物を預かったり、新しいリネンを出しておいたり、身の回りの世話をしてやりながらお説教をした。
 男は「けっ」とそっぽを向いている。
「ここの傭兵団長とやらだってどうせ貴族で舌が肥えてんだろうに、こんな味ってもんのしねえ飯でよく我慢できるな」
「私は団長殿とはいつも食卓をともにしているが、不満を言われたことなど一度もない。今夜もかえって喜んで召し上がっておられたくらいだ」
――へぇ。そうかい」
 用心深いってわけだ――と男は憂鬱そうな顔になって言うのだった。

7

「どういう意味だ、用心深いとは」
 とリビウスが聞きとがめたが、男は答えず、かき込むようにして食事を済ませてしまうと、また元のように横になった。
 リビウスは食器を片付け、今度は温かい湯の入った水差しと清潔なリネンを支度した。それで体を拭くように男へ言った。
「面倒だ」
 男は無精ぶしょうな返答を寄越す。リビウスはそれを許さず、
「毎日体を拭かせて肌着も替えるように団長殿から言いつけられている。お前が自分でやらないなら私がやるぞ」
 と脅かしたので、男はしぶしぶ再び起き上がった。肌着シュミーズを脱いで、湯で絞ったリネンで泥やちりの付いた手足、胸、顔をこすった。
「傷の悪化や疫病を防ぐのに効能があるそうだ。団長殿は先の帝国との戦争では戦地におられたようだから、おそらくそれで苦労なさって、経験から学ばれたことなのだろう」
「そのご立派な大将殿が、今じゃこんなへんぴなところでガキと年寄りの面倒を見ながら遺跡を掘り返してんだな」
――足の傷を見せてもらうぞ」
 と言い、リビウスは男の足に巻かれている布をほどき、コボルドにまれたという傷の具合を丁寧に診た。
 リビウスやバルドウィンによる連日の治療のおかげで、魔犬の大きな上顎に生えた牙で穿うがたれた穴もようよう塞がり、その部分には新しい赤い肉が盛り上がって周囲が引きれたようになっている。――ふと、リビウスはその傷痕に違和感を覚えた。
(? なんだ――何か)
 変だな――という気がしたのである。しかし何が変なのか、その違和感は正体がつかめない。
「血やうみは出ていない――傷が元で病にかかることもなかったのは幸いだった。とりあえずは心配ないだろう」
 とリビウスは、内心首をかしげつつも、ともかく見立てを述べた。
「明後日、次の輸送隊が来る。それについて行って町へ戻ったら、素直にこれまでの罪を償って、そしてこれからは人のために働くがいい」
―――
「痛みはあるだろうが、もう歩けるようになっているはずだ。そういえば手足が汚れていたな。今日は少しは天幕の外へ出たのか?」
「あの女盗賊が四六時中周りをうろうろしてて、とても悪さをする気にゃなれないから安心しろよ」
 女盗賊というのはアイギールのことらしい、とリビウスは理解した。
「アイギールのやつ――しかし四六時中とはいっても、彼女だって衣食の用を足すのは必要だし、休息だって取るだろう。片時たりとも目を離さないわけじゃない」
「いちいちうるせえな。この通り何もっちゃいねえだろ」
 と、男は下穿き一枚になっている自分の姿を指して言う。
「私はそんな心配はしていない。彼女が、お前はただの物りではなくて、きっと怪しげな薬売りに違いないと言っていた。――本当なのか?」
 とリビウスは尋ねていた。はらの内を探ったり探られたりするのは得意ではないし、潔しともしないところである。たとえ相手が何人なにびとであれ、正直に腹を割って話し合う方がいい。
 男は、案外、さほど動揺したような様子も見せなかった。
「そうだったら、なんだ」
「認めるんだな?」
 男は口をつぐんで、はっきりと肯定はしない。リビウスは構わず続けた。
野営地ここへは何か目的があって来たのか」
「は! そんなこと、聞かれて馬鹿正直に答えるやつがいたら顔を見てみてえよ」
「私は、お前があの晩コボルドに追われていたのは本当だったと思っている。あの日は、私の仲間たちもガーゴイルに襲われたし、遺跡の様子がおかしいようだと感じている仲間もいた」
 リビウスはそこまで言って、一度言葉を切り、
「ただ、お前の足の傷をよくよく見ると何か違和感を覚えるのも確かだ。あの晩、お前の身には何が起こったんだ?」
 と継いだ。
 男はずいぶん長い間黙っていた。リビウスは、詰問したい気持ちをこらえて、辛抱強く返答を待った。
猛犬﹅﹅だのテリア﹅﹅﹅だの言とわれるのは、もうごめんだからな)
――聞かされた話では」
 と、男がぽつりと言った。
「この辺りに最近魔物が出るって噂が立ってるんだと。傭兵団あんたらはそれを調べてるんだってな。俺は、そんな噂は大袈裟おおげさでせいぜいゴブリンくらいしかいねえんだって聞かされて来たが――大嘘もいいところだった。こんな人の住むところの近くで――初めはここで犬が飼われてるんだろうと思った」
「やはりコボルドに遭遇したんだな。場所がこの近くだったのは運がよかった」
「運がいいだの幸いだのって、あんたが言うセリフじゃねえだろ」
「なぜだ。すぐにここに逃げ込めたから、その程度の怪我けがで済んだんだぞ。お前は幸運だった」
「あんた俺を尋問してるんじゃねえのか」
「尋問――――をしているつもりはない。私はただ」
 もしお前に何か話したいことがあるなら、聞いてやりたいと思っただけだとリビウスは言った。
「つまり懺悔ざんげをしろってことか」
「それは、お前が望むなら聴くが、こちらから強制はしない。神が懺悔ざんげを無理強いなさらぬのと同じことだ」
 ここまでくると男はなんだか未知の生き物にでも出会ったように、奇妙そうに眉をひそめてリビウスの顔を見つめていた。

8

「足の傷は」
 と、リビウスは期待を込めて男に問いかけた。
「そのコボルドに出くわしたときにやられたのか?」
 男は、また長い時間黙り込んでいたが、やがて口を開き、
――尋問でも懺悔ざんげをしろってことでもねえんなら、ただの世間話ってわけだ。じゃあ、俺が言いたくないことは言わなくてもいいはずだ」
 と期待外れな返答を寄越した。そして手早く清潔な衣服に着替えると、むこうを向いて寝転がってしまった。
 リビウスは肩透かしを食らって不愉快な気分だった。
 とはいえ――強く出たところでこの男が態度を翻すとも思えない。それ以外の手段、たとえばミロードのような巧みな話術というようなものも持ち合わせていないし、あっさりと万策尽きてしまった己が不甲斐ふがいないばかりであった。
 リビウスが男の使った湯やリネンの片付けをしていると、ふいに、
「あんた家族は」
 と聞かれた。リビウスは男の方を見た。男は相変わらずむこうを向いていた。
「世間話だよ――一緒に暮らしてるのか」
「私は聖教国出身だ。今はエステロミア傭兵団に身を寄せているがな。家族というなら、今はここの皆が家族のようなものだ」
「所帯は」
「神に仕える身だ」
「お堅いことで――好きな女の一人もいないのかよ」
「特別な相手はいない――
 と答えつつもリビウスは、言葉尻がすぼんであいまいになり、彼らしくもなく口ごもっていた。
「なんだ、人に言えねえのかよ。仲間の嫁さんにでも惚れてんのか?」
不埒ふらちなことを言うな! 彼女は人の妻ではないが――神の妻だ」
 男は初めてちらとこちらに視線を寄越した。大真面目にそんなことを言うリビウスが、いったいどんな顔をしているのか見てみたくなったのかもしれなかった。
「そういうお前は、家族はいるのか」
 とリビウスは話の矛先を突き返した。
「そりゃ俺だって別に木の股から生まれたわけじゃねえ」
「お前の体たらくに父母はさぞ嘆いていることだろう」
 とまたもお説教じみたことを言われたが、男は別に気を悪くしたようでもなかった。
「お袋はよその男と逃げて親父も気がついたらいなくなってた。一緒に暮らしてた女がいたが――痩せてひ弱な女で、俺の子供もこんなに」
 と、両手で何か抱えるような格好をして見せる。
――小さく生まれてすぐ死んだ」
―――
「あの女も、たぶんもう死んだだろうな」
 男は、話し疲れたと言い、足元のリネンの掛布を鼻先まで引き上げて、その後はリビウスが何を尋ねても答えなかった。
 リビウスは男の世話と診察を終えて、自分の寝起きする天幕へ戻った。
 その道の途中、ふと気がつくと、隣をアイギールがこちらに歩調を合わせて歩いていた。
「本当にいずこからともなく現れるな、アイギール、君は」
「また驚かせたかしら」
「少し」
 リビウスがなんとなく浮かぬ様子なのを、アイギールはひと目見て察し、
「その様子じゃ、不首尾だったようね」
 と言った。
「すまない。多少世間話をした程度だ――
「世間話ねぇ――それでも、あの男に何か話す気にさせただけたいしたものだと思うけど」
「そんなことはない。あの男にもあの男なりの生の苦しみがあるようだ。私はそれをほんのわずか垣間かいま見ただけで、何をしてやれるわけでもない」
――リビウス、あなたのような騎士が盗賊風情にそんなに肩入れするもんじゃないわよ」
 と、アイギールは思いの外優しい声で言った。
「ともかくあいつの尻尾はつかめなかったのね」
「すまない」
「いいのよ。証拠はないけど、このことはとりあえずあのひとに報告しましょう」
「あのひと?」
「団長のこと」
「妙な呼び方をするな、君も」
地下遺跡こんなところなんて穴倉も同じなのに不用心極まりないのよ、団長殿﹅﹅﹅は。国王の威光の届かない穴の中なのよ。何が起こってもおかしくないっていうのに」
「アイギール、君は――あの男が団長の命を狙いに来た刺各だと言いたいのか?」
「それ以外に何だと言うの」
 リビウスは、む――と返答に詰まった。
「わからない――私はそういう、謀ったり謀られたりというようなことを考えるのは得意じゃない」
「あなたらしいわよ」
「団長の立場というのは、そんなに難しいものなのか?」
 とリビウスは、野営地ここへ着いた日の夜に傭兵団長といさかいになったことを思い出しながら言った。
「愉快じゃない立場だとは思うわ。こんな辺境の土地で私たちのような傭兵の指揮を執るなんて、まともな貴族や騎士ならやりたがらないわよ。そのくせ、あのひとが傭兵団長を引き受けたら、それも気に入らない都合が悪いってワケね――そんなふうに考える人間もいるだろうって話よ」
「なるほどな」
 リビウスは、そのように説明されてみれば、傭兵団長が皮肉の一つも漏らしたくなる気持ちも多少はわかるような気がした。
「しかしそれでも、我々の指揮官たる団長殿が、たとえ自分が殺されても代わりはいくらでもいるなどと軽率におっしゃるのはやはり感心できないが」
「大きな口をたたくわねぇ――あのひと、そんなことを言ってる余裕があるのかしら」
―――
 突然、リビウスは大きく目を見張って、
「それだ!」
 と叫んだ。
 驚いて足を止めたアイギールにつかみかからんばかりの形相で、リビウスは、
大きな口﹅﹅﹅﹅大きな口﹅﹅﹅﹅だ。あの男の傷痕を見て違和感を感じたのはそれだ。それだったんだ」
 と言い、仮面の奥で目を白黒させているアイギールをその場に残してきびすを返す。
「ちょっと、どうしたの?」
「コボルドの死骸を野営地の外れに埋めたんだ! ハヅキが、憐れだからと言って――!」
「何の話なのいったい――
 と首をひねりながら、アイギールもリビウスの後を追って駆け出した。

9

 ハヅキが作ったコボルドの墓まで来ると、リビウスは息が詰まったような顔をして、その前に膝を着いて座り込んだ。手燭てしょくをかざし、墓土の様子を端から端まで照らして見た。
――最近掘り返されたように見える」
 と、リビウスは後から来たアイギールに向かって言った。
 アイギールも墓のそばに片膝を着き、
「あまり深くは埋めなかったのね」
 と、不快な臭気と、墓の周りにさまざまなむしが湧いているのに気がついて言った。地中の死骸も相当に腐敗が進んでいると思われた。
 リビウスが持ってきたすきで慎重に土を避けていくと、じきにその腐った死骸が見えてきた。
 顔をそむけたくなるようなその様子と腐敗臭に、リビウスはたじろいだが、アイギールは構わず手を伸ばした。うじにまみれている魔犬の死骸の鼻先をつかむと、反対の手で手燭てしょくを持ち、口の中をのぞき込む。
――牙がない」
 とアイギールは言った。
「腐って抜けたのか――それともえぐり取られた﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のかはわからないわ。少なくとも顎の周囲には見当たらないわね」
「確かに牙が生えていたはずだ。黒っぽい色の――
 盗賊の男の足の傷は、その牙によって傷つけられたもののはずだった。
「と言われても、肝心のその牙がなくなってるんじゃ、歯型と傷跡を照らし合わせてみることもできないわね」
 アイギールは死骸の頭を元の位置に戻してやり、指に付いたうじ虫を振り落とした。
「もっと早くあの男のことを団長に報告して、ちゃんと見張りを付けさせるべきだったわ」
―――
「あなたがハヅキやティティスと一緒にコボルドを埋めたこと、あの男は勘づいてたわよ。歩けるようになったから、都合の悪い証拠は隠滅したんでしょう。自分の足の傷とコボルドの死骸の歯型が合わないことを知ってたから」
――しかしそれも確たる証拠はない話だ」
「そういうことね」
 アイギールは苛立いらだたしげな溜め息を漏らした。
 リビウスは死骸へ元のように土をかけながら、終始無言だった。
―――
 証拠はないが、やはりあの男を問い詰めてみるべきだろうか――? とそんな考えが頭をよぎったが、すぐにそれを打ち消すようにアルシルの顔が思い浮かんで、
「猛犬」
 と、その寡黙な口から手厳しい言葉がこぼれるのだった。
 そう、思えば――初めに気がついたのは彼女だったのだ。あの晩、自分たち後続隊がこの野営地へ到着した晩、コボルドが現れたとき、いち早く異常を感知したのはアルシルだった。
 閉ざした瞳は見えないものまで見通すのか、彼女の予感はよく当たる。じきに――足を怪我けがしたあの男が野営地へ飛び込んできて、それを追ってコボルドが現れた。リビウスは男の方へ駆け寄り、アルシルとジョシュアが二人がかりでコボルドを退治した――
 ――
――アイギール」
 と、リビウスは急に強い口調になって呼んだ。
「天幕に戻ろう。歯型なら別の場所に残っているかもしれない」
「なんですって? どこに?」
「ジョシュアの腕にだ!」
 ジョシュアがアルシルをかばってコボルドにまれたのだ――と、リビウスは急ぐ道々アイギールに説明した。
 ジョシュアの腕の治療はシャロット一人に任せきりになっていた。リビウスとバルドウィンは、なかなかよくならないあの男の足の傷にかかりきりだったから。
 この日ジョシュアは夜番で、き火を守っていた。
 右手で火に新しいまきをくべながら、左の腕は袖を肘の上までまくってある。隣りに腰を下ろしているシャロットが腕の傷を診ている。
「一時は熱が出て心配しましたけど、大事に至らなくてよかったですね」
「ほんと。ジョシュアって頑丈よね」
 ティティスもいる。ジョシュアの背中に立って、肩越しにシャロットの診察の様子を見下ろしていた。
 ジョシュアは困ったような顔で笑った。
頑丈﹅﹅かなぁ――
「体が丈夫﹅﹅なのはなによりのことですよ」
 とシャロットがさりげなく言い直してくれた。ティティスは小首をかしげ、
頑丈﹅﹅じゃおかしいの?」
 と聞いた。ジョシュアがそれに答えた。
「間違ってはないと思うけど――今の僕たちは、人の体を指してはあまり使わないかな」
「ふーん、そうなんだ。――やっぱり森に引きこもってちゃダメね。言葉まで古臭くなっちゃう」
「ゼ、ゼフィールのいる天幕まで聞こえるよ、ティティス」
「聞こえるように言ってるの」
 と威勢がいいが、何かの拍子にき火から火の粉が弾けたりすると、ティティスは飛び上がってジョシュアの背に隠れるのであった。
 シャロットは、ジョシュアの腕の上にそのほっそりした右手をかざし、あと一度神聖魔法を施せば傷痕もきれいに消えて完治するだろうと言った。
「ありがとうシャロット。君の治療のおかげだよ」
「あら、私ばかりではありませんわ。ジョシュアさんが熱を出して寝込んでいる間、付きっきりで看病したのは――
 とシャロットが言いかけると、ティティスが急に慌てて、
「シャロット! それは内緒にしてって言ったじゃない!」
 と、自ら内緒を暴露し、「あっ」とさらに慌てて赤面している。
「ふふ――
 とシャロットは笑いながら、目を閉じ、その表情もじきに消えた。少しうつむいて、両手を額の前で固く組み、神へ祈りの言葉を捧げ始めた。

10

――ト、シャロット。シャロット!」
 祈りの忘我の心地にあったシャロットを思いがけず現実に引き戻したのは、リビウスが間近で名前を呼ぶ声と、前で組んでいた両手の上に彼が置いた大きな手のひらの火照るような熱と、その二つだった。
―――
 シャロットが我に返ると、すぐ目と鼻の先のところにリビウスの顔があった。
「えっ、きゃ! リ、リビウス様――
「驚かせてすまないシャロット。君の神聖な祈りを邪魔したことも――しかし事態は一刻を争ったものだから」
 リビウスは、シャロットの両手の指が固く組み合ったままになっているのをそっとほどいてやり、
「すまない」
 ともう一度、気恥ずかしそうに謝った。
「ちょ、ちょっとー、なんなの? どうしたの? リビウス、それにアイギールまで、いきなり現れたと思ったら」
 と、ティティスがその場を代表するように、駆け込んできた二人に尋ねた。
 アイギールはそれに答えるのは後回しにして、
「で――どうなの?」
 とリビウスの方をうかがう。リビウスはジョシュアの腕を取り、それに顔を近づけてにらみつけるように傷痕を見た。ジョシュアはきょとんとしてされるがままになっていた。
「ええと――僕が魔物にまれた傷? が、どうかしたのかい?」
「君もまだ怪我けがが完治していないのだから、夜番は誰かに代わってもらえばいいものを。真面目なやつだな」
「いや、まあ、もう熱は下がったし、たいした傷じゃないから」
 真面目のお手本のようなリビウスに「真面目なやつ」と言われると、なんともいえずむずがゆい気分になるらしく、ジョシュアは苦笑いしながら首の後ろの巻き毛を手でくしゃくしゃにしている。
「たいした――いや止めよう、別に君にお説教しに来たわけじゃない」
 とリビウスは顔を上げて言い、アイギールへ視線を返した。
 アイギールは話を聞く前に了解して、風のように駆け出した。ティティスが「待ってよ」と呼び止めようとしたが、それより速くアイギールの姿は夜闇に消えてしまった。
「ねえ、だからなんなのよ? ねえってばー」
「私が説明する」
 とリビウスが言った。
「だから少し落ち着いて、こっちへ来て座るといい」
「リビウス、き火の近くはティティスには――
 とジョシュアがかばったので、リビウスも気がついて「そうだったな」と改めた。
「ではどこにいてもいいが、とにかく落ち着いて聞いてくれ――
 ――
 翌日は、バルドウィンが盗賊の男の身の回りの世話をした。
「お前さんも、明日の朝には輸送隊と一緒に町へ戻れるのう。幸い――足の方も大事はなかったのだから、まっとうな暮らしをやり直すこともできよう。神に感謝するがいいぞ」
 バルドウィンは男の夕食の面倒を見てやりながら、老司祭らしい穏やかな口調で説いて聞かせた。
 男は、相変わらずお説教には関心がないようだったが、
「別に神様になんか恩はない――ただ、あんたとあの若い騎士には世話になった」
 と初めて感謝の言葉らしきものを口にした。
「うむ――リビウスにも伝えておいてやろう。喜ぶじゃろうからの」
「そうしてくれ」
「他に何か話しておきたいことはないか?」
 とバルドウィンは期待を込めて男に問いかけたが、男は何も話そうとしなかった。
――お前さんが思っているより、人生というやつは長いぞ。案外の」
 バルドウィンはそんなことをつぶやきながら、男が最後の食事を済ませた食器を片付け、天幕から出て行った。
 男は一人になると、さっき食事中にくすねて服の下に隠しておいた肉刺し用のフォークを取り出した。
―――
 二股に分かれているそのとがった先端を見つめながら、男はどうにも沈んだ気分だった。あの老司祭が――年が寄っているとはいえ、まだずいぶん達者そうな老人が、食器の数も数えずに引き下がったのは妙だった。
(わざと見逃したのか)
 という気がする。なにか自分が手ひどい裏切りを働いたようで嫌な気持ちだった。
 暗い気分は連鎖するようで、男はふと故郷に置いてきた女のことを思い出した。一緒に暮らして死産の子ももうけたが、妻ではない女だった。
「わたしの病気なんか治らなくてもいい。お金もいらない。今のままでいい。置いて行かないで――
 と、痩せ細った黄色い顔を涙でらしながら見送られたことを思い出した。
 男は、おもむろに手を口の中に入れて、奥歯に結わえ付けてあった糸を外に引き出した。
 糸の先は喉を通って胃のの中まで続いている。それを手繰っていくと、途中に卵の形の小さな容れ物がぶら下がっている。
 卵型の容器はうずらの卵の殻に布を貼り、上からある種の樹液を何重にも塗り重ね、さらに防水用の油を塗って乾かしたものである。それをまず口から吐き出した。
 糸はまだ口の奥に垂れ下がっていて、残りを引き出すと、小指の先ほどの大きさの黒っぽい獣の牙が四つ数珠つなぎになって出てきた。
 男の手付きは手慣れていた。故郷でも役人の目から“商品”を隠すために、こういうことはいくらでもやった。
―――
 男はまた置いてきた女のことを思って暗い気持ちになりながら、卵型の容れ物を手に取った。中央に細工が施してあり、前後にひねると二つに割れて開いた。
 中には、いくつかの毒物が、それぞれ少量ずつ――人一人死ぬには十分な量が――油紙に包んで入れてあった。
(まったく、何一つ上手くいかなかった)
 と、男は毒の包みを慎重に取り出しながら思った。
 仕事柄、薬物の扱いに慣れているのを見込まれたのだ。
 エステロミア傭兵団は先発隊と後発隊に分かれていて、当面は少人数で遺跡の探索に手一杯、野営地ここの守りは手薄だろうと。機を見て忍び込んで、食事に毒を混ぜれば済む仕事だと聞かされて来たが――実際には常に野営を守る傭兵が残されていて忍び込むのも容易でなければ、毒を盛る隙もなかった。
(薬に詳しいったって、好きな女の病気一つ治してやれなかったのによ)
 取り出した包みをそっと広げる。その中に一粒だけ入っていた何かの種子を、フォークの先で潰しておいてから、そこに唾を混ぜてしっかりとフォーク全体に塗りつけた。

11

 男は、コボルドの四つの黒い牙を寝台の上の目立つところへ置いて外に出た。別にその辺りに捨てたって構わなかったはずだが、なんとなくそうした方がいい気がしたのだった。
 怪我けがが塞がったばかりの足は、まだいささか動きがぎこちなかった。
 ときどき足を止めながら、一歩一歩天幕の陰の暗がりを伝って行くと、やがてき火の明かりが見えてくる。昼夜絶やされないその火の周りには今夜も傭兵たちがたむろしているようで、彼らは火にあたって無聊ぶりょうを慰めているらしい。
 男はしばし聞き耳を立ててみたが、傭兵たちはたわいのない口を利き合っているばかりだった。
 いくつかの天幕の陰を縫い、ようやく目的の天幕の入り口近くまで来た。
 エステロミア傭兵団長が寝起きしているはずのその天幕には、しかし見張りの傭兵の一人も付いていなかった。単に用心を怠っているのか、それとも何かの策略なのか――男にはもはやどうでもいいことで、無造作に入り口をくぐって中に入った。
 男は天幕の内部を見回してみた。明かりはないが、だいたいの様子はわかる。寝台、書き物をするらしい小さな机、身の回りの物をしまう家具がいくつか。仮住まいとはいえ、一国王の弟が暮らすにはずいぶん質素だと思う。
 寝台の上には、リネンにくるまって横たわっているこんもりした人影があった。
―――
「別にあんたに恨みはないが、人に頼まれて殺しに来た」
 と、男は力なく言い、腰の後ろに差しておいた毒を塗ったフォークを右手で握った。
 男がそれを自分の喉に突き立てようとしたわずか数瞬の動作のうちに、さまざまなことが起こった。
 突然男の背後の暗闇から人の気配が飛び出してきて肉迫し、毒のフォークを持った手をつかんでそのままみ合いになった。
「こいつは団長を殺しに来たんじゃないわ! 自分が死ぬつもりなのよ!」
 と鋭く叫んだその声は女の声だった。
 寝台の上に寝ていた人影が跳ね起きた。と同時に――天幕の入り口が外から細く開かれ、その隙間から差し込まれた手燭てしょくの明かりが内部を照らした。
――どういうことだ? アイギール? いるのか」
 と、手燭てしょくを手に中をのぞき込んだのはエステロミア傭兵団長であった。彼を警護するジョシュアとアルシルが急いで先に立ち入り口をくぐった。
「団長、僕たちが先に入りますから。あの、下がって」
「危のうございますぞ! 彼らにお任せくだされ」
 と後方でマールハルトの声もした。他の傭兵たちも騒ぎを聞きつけたらしく、一人二人とこちらへ集まり出したようだった。
 天幕の中へ入ると、盗賊の男の腕をねじり上げて捕らえているアイギールの姿が視界に飛び込んできた。
 次に寝台の上に起き上がって険しく青ざめた顔をしているリビウスの姿を認めた。アイギールは寝台にいたのが傭兵団長でなくリビウスだったことに気づくと、「あなただったの――」とつぶやいた。
 傭兵団長は後ろをついて来て離れようとしないマールハルトに手燭てしょくを持たせ、
「聞きたいことはいろいろあるが――
 と、ひとまずは、捕らえられてうなだれている盗賊の男の方へ歩み寄った。
「なんて迷惑なやつだ。死にたいのならよそでやってくれ。自分の寝室を汚される私の身にもなれ」
―――
「こんなつまらん男が刺客だとはな――
 傭兵団長は苦虫をみ潰したような顔をした。マールハルトが、ちらとアイギールの方をにらんでから、
「帝国軍の残党の仕業ですかな」
 と言うと、傭兵団長は、
「素人を間者に仕立てて大事を委ねるようなずさんなやり方はの国らしくないな」
 と答えた。
「まあ敵はいくらでもいる。今ここで憶測の議論をしてもどうにもならん」
「この男はどう処分するつもり?」
 とアイギールが、低い声で尋ねた。
「どうと言われても」
 傭兵団長は肩をすくめ、
「迷惑者には違いないが、人の部屋で自害してはいけないという法も我が国にはない。バルドウィンが運んだ食事から食器を一つくすねたそうだな? であれば、それ相応の罰を与えるまでだが」
 と言う。すると、力を失ってうなだれていた盗賊の男が身じろぎして、急に抵抗するようなそぶりを見せた。
「俺はあんたをりに来たんだ。生かしておいたら何度でも戻ってきてやる。殺せよ――殺してくれよ――
 と、最後には懇願さえするように訴えたが、傭兵団長がそれに眉一つ動かさないでいるのを見ると、今度は寝台の方にいるリビウスへすがるような目を向けた。
 リビウスは寝台の縁に座り込んで、今にも泣き出すかと思うような面持ちで押し黙っていた。
 ふ――め息をもらしたのは傭兵団長で、
「彼から」
 とリビウスを指して言う。
「報告を受けたが、故郷に家族がいるそうだな。お前が仕事を放棄﹅﹅したとなれば命が危ないが、失敗﹅﹅なら望みがあると思ったか。馬鹿なことを。お前がいなくなって誰が残された家族を守るんだ」
―――
 ――どうせもう生きちゃいない。と、盗賊の男は再びぐったりとくずおれた。
「死んだという知らせが連絡役からあったのか?」
――――いや。そんなもんは来てない――
「ふむ。それなら、まあ、物事をそう早合点して決めてかからんでもよろしい――マールハルトきょう!」
 と振り返る。
「明日の輸送隊が到着したら荷は全てその場で開封して、隊員も全員身元を検めるように。他に野営地ここへ出入りする者がない以上、輸送隊の中にこの男と連絡を取るための間者がいるのは間違いないと見る。こちらの内情を探る者は絶対に必要だ」
「は――この男はいかがいたしましょう」
「バルドウィンのところに連れて行って懺悔ざんげでもさせてやれ。それで少しは落ち着くだろう――

12

 ジョシュアとアルシルが盗賊の男を連れて天幕から出ていった。
「君たちもご苦労だったな」
 と傭兵団長が残った者をねぎらったが、リビウスはそれにも顔色を曇らせたままだった。やっと寝台から腰を上げ、鞘から抜かぬまま手に提げていた剣を腰に帯びた。
「いいえ――私は何もできませんでした」
「何を申す。密かに団長の身代わりを務める危険な役目をそなたは進んで引き受けてくれたのではないか」
 とマールハルトもリビウスを慰めた。「それに引き換え――」と一変、厳しい目つきになってアイギールの方を見る。
 アイギールは泰然とその視線を受けた。
「アイギール、そなたは何ゆえここにいた?」
―――
「与えられた持ち場はここではなかったはず。勝手な行動は許されぬぞ」
 口調も詰問するものに変わる。
「命令に背くとはどういう了見か。それに、そなたは初めからあの盗賊の男を疑って身辺を探っておったようだが、なぜすぐに報告しなかったのか」
「できることなら私があの男を始末したかったからよ」
 と、アイギールは言う。
「団長に個人的な借りを作ったままにしたくなかっただけ。それ以上は話したくないわ――
――二人ともそう怖い顔をするな。マールハルトきょう、確かに彼女は私の寝室に忍び込んだかもしれんが、そのことがかえってあの男の命を助けたわけだ。ならば処罰も軽く済ませるのが妥当であろうよ」
「またそのようにおかばいになるのですか」
 傭兵団長がくちばしを挟み、マールハルトに叱られたが、こちらも負けじと言い返す。
「ああかばう。私は傭兵たちの指揮官だ。むろん彼らが規律を守らねば相応の処罰はする。しかし私が彼らを信じないで、どうして傭兵団長と呼ばれることができる。なあ、マールハルト――
「あなた様という方は」
 とマールハルトが言いかけたところへ、リビウスが声を上げた。
「マールハルトきょう。私からもお願いします。どうか寛大なご判断を。彼女が――たとえ規律違反だったとしても――いてくれなければ、私一人ではあの男が自害しようとするのを止められませんでした。私では間に合わなかった」
――リビウスもああ言っている。あの生真面目な彼がだぞ」
 加勢を得た傭兵団長は、それでもまだ物言いたげにしているマールハルトをなだめ、そしてアイギールには三日間の謹慎を言いつけた。
「ではもう夜も更けた。マールハルトきょうもアイギールも戻って休みたまえ。――リビウス、君はここにしばらく残ってくれ。最後に君と話したいことがある」
 マールハルトとアイギールは天幕を去った。傭兵団長とリビウスの二人だけが残った。
 傭兵団長は、話がある、と言っておきながらすぐにはそれを切り出さなかった。初めにしたことは、品がないほどに大仰なめ息をつくことである。
「ああ――ああ、今夜は疲れたな。――まったく」
 部屋の隅の方へ行き、リビウスが怪訝けげんそうに見ている前で衣装入れの一つを開けると、その奥から酒が入っていると思しき瓶と小さな杯を二つ取り出した。
「他の皆には内緒にしておけよ。特にマールハルトには」
 と言い、杯を書き物机に置いて、瓶の蓋を開け、透き通った液体を二つの杯になみなみそそいだ。
「一つはリビウス、君の分だ。飲みたまえ。こっちに来て」
 と、傭兵団長は言いながらもう自分の杯を取って口を付けている。
「団長殿――いえ、ご厚意だけで結構です。私は神に仕える身で」
「堅いことを言うな。神の血でない酒を飲んでも立派な司祭はいる。心当たりがあるぞ」
「それは私もわかりますが、しかし」
「君はあの盗賊の男が自害しようとしたのを目の当たりにして、尋常の様子ではなかったな。今もなおそれが気にかかっているように見える。彼とは、この数日の間にそんなに親しくなったのか?」
―――
 リビウスは、
「いえ――
 と、言いよどんでいる。傭兵団長は酒杯を傾けながら、後に続く言葉を待った。
――いえ。団長殿、私の思い上がりでした。私はあの男といくらか話をして、たかだかその心の一端を垣間かいま見ただけだったのに、私なら彼と話して凶行を止めてやれるかもしれないと思ってしまった」
 長い沈黙ののちに、リビウスは、やがて懺悔ざんげのような言葉で語りだした。
「マールハルトきょうが、今夜は誰か団長殿の身代わりを立てて寝所を守らせるべきだと提案したとき、私ならばと思いました――あの男がもしやって来たとしても、私が説得すれば思いとどまるかもしれないと」
「実際あの男は来たが、君の考えるような目的ではなかったと」
――もしかすると、私が関わりを持とうとしたことが、かえってあの男を追い詰めたのでは」
「考えすぎだ」
 と、傭兵団長はすぐさまきっぱりと言い放った。
「考えすぎだが――どうにもやり切れない思いだろう。私は司祭ではないから、君の懺悔ざんげゆるしを与える権利がない。だから、つまりだな――
 と、改めてリビウスに酒杯を勧める。
 リビウスも、ようやく彼の指揮官の言うところを理解した。
 とはいえ、やはり多少の後ろめたさはある。おずおずと傭兵団長と肩を並べ、慣れない手付きで杯を口に運んだ。一息に飲み干そうとしたが、途端に舌が焼けるような味がして、すぐにむせてしまった。
 傭兵団長が、ははと笑った。
「最初からそんな飲み方は無茶だ。神の血よりもずっと強い。少しずつむようにして飲むんだ」
 リビウスは言われたとおりにやってみて、今度はむせずに済んだ。二、三口もそうやって飲むと、たちまち頬に赤みが差してくる。
「団長殿はこういうものに慣れていらっしゃる。つらいお役目を果たしてこられたのですね」
大袈裟おおげさな。陛下が行けと仰せになるところへ行くまでのことだ。傭兵団の団長をやれと言われればやる。辞めろと言われれば辞めるさ」
「それは困ります。我々の指揮官はあなたでなければ」
――――そうか」
 二人とも照れてもいないのに顔ばかり赤くしているのが可笑おかしかった。
 リビウスは慣れないきつい酒など飲んだせいか、その晩は泥のように眠った。
 翌朝は早く起き、仮ごしらえの聖堂で誰よりも先に神へ祈りを捧げた。一時課の頃になるとシャロットも聖堂へ来て、リビウスが祈っている姿を見つけ、彼の邪魔をしないように自分もそばへうずくまって朝のお祈りをした。

(了)