忘れられた神
霊宮の魔女によって操られている死霊たちは極めつきに凶暴であった。おまけに、倒しても倒しても際限なく
「ジュランさん! 危ない――!」
悲鳴混じりの声はシャロットのものであっただろうか。
魔術師たちの張っていた魔法結界を突き破って一体のゴーストがジュランの背後に迫った。
「! っ――!」
ジュランはとっさに魔法杖へ魔力を込め、練り上げようとしたが、一呼吸ばかり間に合わなかった。
そのとき、いつでも彼のそばを離れない黒猫が、
シャッ――
とにわかに鋭く鳴いて、その小さな化身に秘している神格を発した。我が身を守るためか、それとも主を
が――人に忘れられた精霊の力は強大にして
死霊たちに飲まれる寸でのところで、脇からミロードの手が伸びて黒猫をつかみ上げる。
ミロードは片手に黒猫を抱き逆の手には炎の宝珠を掲げて大急ぎで結界の呪文を唱えた。その息が白くなる。同時に氷の呪文を唱えているジュランの発する霊力が一帯を氷室のようにしていた。
次の瞬間、視界一面が目もくらむほどの細氷に覆われた。
あらゆる物を氷漬けにする極低温の冷気は、生ける
四方も天地も氷の世界と化し、いまだちらちらと細氷の舞う中、無事で済んでいるのは魔法杖を下ろしてほーっと息をついているジュランと、ミロードの結界に守られた彼の仲間たちばかりである。
「やりすぎよ。こっちも危なかったわよ」
とミロードが文句を言って寄越す。これだからあなたに魔法を使わせるのはイヤなのよ、とかなんとか。
ジュランは指先でちょっと眼鏡を直し、呼吸を整えて、大呪文でいささか消耗した精神をしゃんとさせた。
「まあ――あなたがそうして結界を作ってくれたわけですから」
「まったく、信頼していただいて光栄だこと。迷宮ごと凍ってしまったんじゃなくて、この分じゃ」
「どうでしょうね」
「もう。まあいいわ、今のうちに奥を目指しましょう」
「ええ、早く済ませて帰りましょう。――この子のことが心配です」
と、ジュランはミロードの手からぐったりしている黒猫を受け取りながら言う。
「皆さんを守ろうとしてくれたんですね。あなたは本当に優しい子です」
と黒猫の頭や喉元を
黒猫は金の瞳を薄く開き、主の言葉に何事か答えるように、か細い鳴き声を漏らすのだった。
思いの外、黒猫の衰弱は
「神聖魔法が使えればいいのですけど――」
シャロットが膝の上で丸くなっている黒い毛玉をそっと
「父なる神の威光を解しない者には、おそらく効き目がないと思います」
「なるほどねぇ」
とうなずいたのは様子を見に来たミロードである。その隣にはティティスもいる。
「応援に来たわよシャロット。次はあたしが代わるわ。シャロットも疲れてるみたいだし」
「そういうあなたも無理しちゃだめよティティス。この子、小さくてもかなりの魔力を吸い取られるわ」
シャロットからティティスの腕の中に黒猫が移されたとき、部屋のドアを押し開けてジュランが姿を見せた。右手に小さな鍋を持っており、皆のいる長椅子のそばまで来て床に膝を着くと、その鍋の中身を
鍋の中は冷ましたパン粥で、どうやらそれに薬草を煎じて乾燥させた粉薬などを混ぜてあるらしい。黒猫は差し出された
「――これもだめですか」
とジュランの口から大きなため息が漏れる。
「薬を飲まないのよ」
困りきった顔をしているジュランの代わりにミロードが言った。
「体の方もずいぶん弱ってるはずだから、飲んでくれなきゃ困るのだけど。――あなたの話をしてるのよ?」
と、ミロードは、ティティスの膝に抱えられている黒猫の鼻の小脇をちょんとつついた。黒猫はぷすんと鼻を鳴らして知らん顔をしている。
黒猫は、この場では新参者のティティスが一番自分を甘やかしてくれそうだとちゃんとわかっているらしく、そちらに向かって甘えた鳴き声を上げる。ティティスは請われるままに黒猫の頭を
「よしよし――ねえ、何か好きな食べ物と一緒にあげたらどうかしら?」
と言う。
それはもういろいろ試しましたよ、とジュランが情けない声を上げる。
「
ジュランはのろのろと立ち上がると部屋を出ていった。そしてしばらく経って、また戻ってきた。
手に今度は小さな器を持って、その中身はといえば練って柔らかくしたバターであった。むろん、薬を一緒に練り込んである。
ジュランがそれを指先に取って黒猫の鼻先に差し出すと、黒猫はこれを待っていたのだと言わんばかりに、あっという間に舐め取って満足そうに「にゃーん」と鳴く。ジュランはやれやれと肩を落として、仕方なしに残りのバターも指でぬぐって黒猫に与えた。
それを見てティティスが笑い、
「しょうがないわよねー、だってバターって美味しいんだもん。人間の一番の発明よ」
と黒猫の気持ちを代弁したら、
「肥えますよ」
と、ジュランにぴしゃりと言われてしまったが。
手厚い看護のかいあってか黒猫は二、三日もすると力を取り戻したようで、元のように自分の足でジュランの後をついて回るようになった。
そしてときおり彼が調理場に立つと、その足元で何やらしきりにねだるように甘えかかり、主の忍耐力を試すのであった。
(了)