甘露な毒

「ダーツ投げでキャスと勝負するにゃん? きっと後悔するにゃーん」
 と、猫人族ケットシーの可愛らしい顔に似合わず不敵なことを言うキャスに、エステロミア傭兵団長はその言葉どおり散々に打ち負かされ、おまけに後で自分の小遣いからなんやかんやと買ってやる約束などもしてしまったのであった。
 傭兵団長の執務室の壁に紙を貼って手作りしたダーツ盤には赤と黒の羽根のダーツが針山のごとく刺さっており、赤の羽根の方はすべて百点の小さな丸をしかも小指の先ほどのずれもなく射抜いている。一方黒のダーツはてんで狙いが定まっていない。むろん赤のダーツがキャスの投げたもので、黒の方を投げたのが傭兵団長である。
「にゃにゃーん」
 とキャスが鼻歌交じりにひょいとダーツを投げると、それが命中した先は今度はダーツ盤ではなく、さっき傭兵団長が見当外れなところへ投げて壁に突き刺さっていたダーツの羽根の後端であった。
 傭兵団長はもうなにやら悔しいよりは愉快な気分になってきて、キャスの猫っ毛の頭をわしゃわしゃとでながらおおいに笑った。
 と――
「入るわよ」
 不意に声がして、ドアが開いた。
「やあ君か」
 傭兵団長はキャスの頭をでるのをめてそちらを見た。入ってきたのはアイギールであった。
「交代の時間よ」
 とアイギールはキャスを呼んで言う。
 傭兵団長はこれ見よがしに肩をすくめて見せ、
「キャスの代わりに今度は君が私の監視役か」
 と皮肉っぽい口調で言った。アイギールはくすりともしなかった。
「護衛と言ってほしいわね」
「そうにゃん! 護衛にゃん! 団長の代わりにキャスたちが悪者と戦うんだにゃん」
 アイギールとキャスは二、三の連絡事項を交わし、そしてキャスは執務室を出ていって、入れ替わりにアイギールが傭兵団長のそばにはべった。
 傭兵団長は、
「ま、なんにせよ君と二人きりの時間を過ごせるというのは嬉しい」
 とにやついていて緊張感がないが、アイギールは冷たい表情を崩さない。
――あなた、盗賊ギルドが」
「盗賊ギルドが、お得意様である我々にご親切にも教えてくれた。またぞろ、私の命を狙おうとする輩がいるらしい。しかしあまり頭の回るやつではなさそうだ。我々が懇意にしていると知らずに、ギルドを通して毒薬を買ったというんだから」
「それがわかっているのなら、大人しく見張られておくことね」
 さらに盗賊ギルドからの情報では、敵は複数人で徒党を組んでいるらしいことも伝えられている。
「案外――すでに手引き役が傭兵団の中にもぐり込んでいるのかも。あなただって小間使いや出入りの商人の顔まで一人一人全部覚えているわけじゃないでしょう」
「さすがに、君はそういったことにも詳しいな」
 その傭兵団長の言葉に別段他意はなかったが、アイギールはかすかに気色ばんだようである。
「おっと――気を悪くしたなら謝る」
 と傭兵団長は察した。
―――
―――
 しばしの沈黙があり、
――あーところでなんというか、暇だな」
 と、傭兵団長の方から鷹揚おうような調子でそれを破った。今日は珍しく市井からの傭兵団への依頼もないらしい。
「それでキャスがダーツ投げ遊びなんかしてあなたのお守り﹅﹅﹅をしていたわけね」
  というアイギールの皮肉にも傭兵団長はこたえた様子がない。
「君もしてくれるかね? お守りを」
――ま、少しくらいなら付き合ってもいいわよ」
「そうこなくては」
 傭兵団長は小さく手をたたいて喜ぶと、執務机の上に残っていたダーツの束をつかみ上げ、赤い羽根の付いている方をアイギールへ差し出した。
「キャスに散々に負けたのに、懲りてないようね」
「私だって負けっぱなしでは面白くないからなぁ」
「私になら勝てると言いたいの?」
「勝算は――いささかながらあるな」
 と傭兵団長はなにやら含みを持たせている。
「後悔するわよ」
 とアイギールはキャスと同じセリフを言いながらダーツを受け取った。それを手中でためつすがめつして、怪しげな細工などがされていないことを確かめる。
「君は用心深いことだ。べつに矢には何の仕掛けもない」
「じゃあずいぶんと私を見くびっているらしいわね」
「そんなつもりはないんだが」
「あなたは何を賭けるの」
「何でも君の望むものを。私が破産するような宝石でもアクセサリーでも、短剣の名品でも、なんなら私の命でも――
――私は何を賭けたらいいのかしら?」
「キスがいいな」
 と、傭兵団長は明快に答えた。
 アイギールはなんともいえぬ顔つきで、
「賭けるものの釣り合いが取れないようだけど」
 と言った。傭兵団長は苦笑している。
「そんなことはない――本当に」
―――
「一投に二人の命運を委ねようじゃないか」
 傭兵団長は、ダーツは一本きりで勝負を決めようと言う。アイギールは怪訝けげんそうな顔になっていた。
「あなたが不利になるばかりだと思うわよ」
「まあ案外、そうとも限らないものさ。私が先に投げても構わないだろうな?」
 ええ――とアイギールはうなずきながら、傭兵団長の一挙手一投足を注意深く観察している。だがやはりイカサマの類いは見つからなかった。
 傭兵団長はアイギールに見つめられるのがくすぐったいような様子で、黒い羽根のダーツを無造作に一本選ぶと、ダーツ盤の前に立った。
 狙いを定めるようなそぶりは見せたが、あまり上手くもない手つきで投擲とうてきされたダーツは、的を外れこそしなかったものの平凡な得点のマスを射るにとどまった。
(馬鹿にしてるのかしら)
 交代して今度はアイギールが臨む。これでは自分が勝つに決まっているではないかと――喜んでもいいはずだが、なんとなく気が進まなかった。
 すらりとした人差し指と中指の間に赤い羽根のダーツを挟み、しばしそれをもてあそんでいた。
「私の命でも――
 などと軽々しく口にするこの男の考えが読めない。たとえ負けてもそこまでのものは要求されないと考えているのか、それとも、私が遠慮して勝ちを譲るとでも思っているのかしら、と――
―――
――参ったわね。目の前の勝利をみすみす逃すつもりはないのよ)
 傭兵団長の視線を感じる。横顔を射るほど見つめられていることには気づいていたが、まだ振り返ることはしなかった。
(「後悔するわよ」と言ったけれど――私の方が後悔するハメになるとはね!)
 アイギールは一瞬の動きでダーツを構えると、振り向きざまに鋭く放った。ダーツの羽根が音を立てて空を裂いた。
 鋭利な矢の先は傭兵団長のこめかみをかすめ、彼の背後に細く開いていた窓の隙間をすり抜け、
「ギャッ!!
 という刺客の断末魔とともに落下していった。
 傭兵団長がそちらを振り返って見たときには、窓の外にはもう人影はなく、昼下がりの穏やかな空を見上げるばかりである。
「窓の鍵を外した覚えはないんだがなぁ」
 と首をひねっている傭兵団長をアイギールはにらみつけ、
「わかってたの?」
 と、苦々しげに問い詰めた。傭兵団長はかぶりを振って見せる。
「いや? が、しかしルールはルールだ。一投きりの勝負だからな」
「気がついていたから、自分が負けるはずがないと思っていたわけね」
「いやいや、本当に刺客が迫っているなんて知らなかったんだ。君でさえあの瞬間まで気づかなかったものを、私にわかるものか。――ただ、まあ? もしかしたら案外こんな運命のいたずらが起こるかもしれないなとは思っていた。私は日頃の行いがいいから」
 などといけしゃあしゃあとのたまうものだから、アイギールは苦虫をみ潰したような顔をするしかなかった。
「君が賭けた分の精算をしてもらえるかね?」
 と傭兵団長はささやくような声になって言った。
「もちろんツケはなしだ。今ここで、現物での支払いに限る」
「まったく――
「そう怖い顔をするな。こんな茶番にでもしなければ――君にキスの一つもねだれない憐れな男を可愛いと思ってくれないか」
 傭兵団長は、恐る恐るという風にアイギールの頬へ手を伸ばした。彼女が逃げようとしないのを確かめてから、そこへそっと手のひらを押し当てる。
 鼻先と鼻先とを寄せ合うと、アイギールの吐息からはひどく甘い香りがした。唇に薄く差した口紅の匂いだろうか。
「奥歯に毒薬を仕込んであるわ。決まった方法でそれをむと毒が回るのよ。自決﹅﹅のためのものだけど――あなた一人道連れにするくらいは簡単だわ」
――睦言むつごとにしてはぞっとしないな」
 と、さらに口元を近づけようとしたとき――
 にわかにドアが外から慌ただしくたたかれ、こちらがいいとも言う前に飛び込んできた人があった。マールハルトであった。
 傭兵団長は身を引いてアイギールから離れたが、マールハルトがとがめるような目になったところを見ると、何をしようとしていたかはしっかり見られていたらしい。
「騒々しいじゃないか――日頃騎士道を重んじるきょうらしくもない」
「のんきなことをおっしゃいますな! ――ご無事でなにより」
 空から降ってきた刺客のおかげで階下は大騒ぎになっているとマールハルトが教えてくれた。
「地面で強く体を打っておりましたが、まだ息があるようでしてな。バルドウィンとシャロットが二人がかりで治療を施してやっているところです」
「尋問できるようになるまではだいぶかかりそうだな。手厚く看護してやることだ。間違っても自決﹅﹅なぞされないようにな」
「は」


「これは投擲とうてき用のナイフね。盗賊がよく使うものよ。敵の目につかないように刃を鈍らせてあるわね」
 と、アイギールが、刺客から奪った武器の一つを手に取って見せ、傭兵団長とマールハルトに教えている。
 傭兵団長の執務机には他にも飛び出し式の短剣やら、目潰しを紙で包んだ玉やら、さまざまな隠し武器が並べられている。それらをアイギールとキャスの二人が一つ一つ検分しているところだった。
 机の端にしがみついているキャスが、
「投げナイフは服の上からは深く刺さらないにゃん。顔を狙うにゃん」
 と、さきほどのアイギールの説明に付け加えた。
 アイギールはナイフを隅々まで慎重に確かめてから言った。
「一度で敵の目を射抜いて脳髄まで達するか、頭の骨を砕けないような下手なやつほど毒を塗って使うものだけど――団長を狙った輩は違ったようね」
「私一人殺すのに手を抜かないでくれて光栄なことだな」
 と傭兵団長は皮肉っぽく肩をすくめて見せる。
 机上に並べられた他の暗器についても、キャスが小さな猫の鼻でふんふんとにおいを嗅いだりしていたが、毒の使われた物は見つからなかった。
 アイギールとキャスが退室すると、傭兵団長は執務机に着き、側近くまでマールハルトを呼び寄せて意見を求めた。
「感心いたしませんな――
 と多くの進言のうちの一つとしてマールハルトが言ったのは、傭兵団長がアイギールを相手に不埒ふらちな行為に及ぼうとしていた件についてらしい。
 傭兵団長は苦笑いしてごまかしている。マールハルトに対してはさすがに強く物を言えないのであった。
「まあ今はいいじゃないか、その話は――
 と、言いかけたそのとき、ドアが開いて小間使いの娘が薬草酒を運んで来た。傭兵団長はマールハルトの小言から逃げるのにちょうどいい口実ができたと、喜んで迎え入れた。
 傭兵団長は薬草酒の注がれた小さなカップを鼻先まで持っていって、しかしその香りをひと嗅ぎすると、口をつけることはせずに杯を置いてしまった。
 小間使いは傭兵団長が好物の酒を飲もうとしないので、不思議そうに小首をかしげている。
 傭兵団長が、
――おかしいと思ってたんだ。盗賊ギルドの話では私の命を狙う輩どもは毒を買い求めたと言っていたのに、捕らえた刺客はそれらしい物を持っていなかった。それに私が開けた覚えのない窓の鍵のこともある」
 と、つぶやくと、小間使いの娘は突然こちらへ飛びかかってきた。スカートの下から片足を突き出し、その靴の先に仕込まれていた短剣がギラリときらめく。
 が、その刃は傭兵団長を肌をかすめることさえなく、咄嗟とっさに間へ入ったマールハルトが娘を取り押さえた。
「気をつけろマールハルト、靴の仕込み刃にも毒が塗られているかもしれん」
「まったく、一瞬たりとも油断がなりませんな――よくお気づきになられました」
 とマールハルトに言われて、傭兵団長は、
「いやなに、酒から昇ってきた匂いがな」
 アイギールにキスしようとしたときに嗅いだそれと同じだったのだ。と、あとは胸の内で続けて、そして、今更のようにいささか背筋が寒くなった。

(了)