キメラの啼く夜

1

「そういえば君、名前は?」
「人に名前を問うときは、自分が先に名乗るものじゃない?」
 と、すました顔で返された。
「あ、う――これは失礼を。エステロミア傭兵団のジョシュアと申します」
 ジョシュアは胸に手を当てて愚直なほど恭しく一礼した。それを見てエルフの娘は大きな目を満足そうに細め、
「あたしはティティスっていうのよ」
「いい名前だね」
「お世辞ならいらないわよ」
 言いながら、ジョシュアの開けてくれたドアをくぐって室内へ足を踏み入れた。
 小ぢんまりとした部屋の中には、ベッドと鎧櫃よろいびつと小さなトルソーと、他にはこまごました物をしまうための戸棚が付いた机と椅子があるばかりで殺風景なものである。それでもティティスは物珍しそうに目を見張っていた。
「ちょっと待ってて、台所に火が残っていないか見てくるから」
 ジョシュアが廊下へ出ようとすると、残されそうになったティティスは慌てて引き止めた。
「火? 火なんて持ってきて何しようっていうのよ!?
「何って明かりがいるだろう?」
 今は夜だ。明かりがなければ暗くてしようがない。
「月が明るいじゃない」
 ティティスは東側の窓へ駆け寄った。きっちりと閉まっている鎧戸に戸惑いながらも、掛け金を外して大きく開け放った。
 青白い光が室内に満ちる。
 窓際で月光を浴びた白いエルフの肌や金糸のような長い髪はちょっと幻想的で、人ならざる気配を感じさせた。
(僕はもしかして大変なものを拾ってきたんじゃないかな?)
 とジョシュアは今さら思った。ぼんやりティティスに見とれていると、
「ほら、こんなに明るいのよ? 火の明かりなんていらないわ」
 当人が急にこちらを振り返ったので、慌てて目をそらした。
「そ、そうだね――ごめん、エルフは火が怖いんだっけ」
「怖いわけじゃないわ! 苦手なだけ!」
「う、うん」
「ところで、人間」
「人間って、僕はジョシュアだって名乗ったじゃないか。というか君の方から名乗らせておいて」
「そんなことより何か食べさせてくれるんじゃなかったの?」
 ティティスは不満げに口をとがらせた。顔色に空腹がありありと表れている。
「そうだったね」
 ため息交じりにジョシュアはうなずいた。今度こそティティスを部屋に残して台所へ向かう。
「ティティス、絶対にここから出歩かないでくれよ? 他のみんなに見つかったら面倒だから」
 一応それだけ念を押してから出ていった。
 ジョシュアは厨房ちゅうぼうで適当な食料と飲み物を見繕って戻った。ティティスは言いつけを守って室内で大人しくしていてくれた。窓から身を乗り出し、外の景色に目を輝かせている。
「危ないよ。落ちたら大ケガする」
「人間の世界は広いわね」
「エステロミアは小さな国だけどね。周りにはたくさんの国があって、海の向こうにも。僕の仲間にはずっと東の国から来た子もいるよ」
「海ってなに?」
「え? あ、ええと、見渡す限り水があって、湖よりもっと大きくて、その」
「まあいいわ今度見にいってみるから。これから時間はたっぷりあるんだもの。堅っ苦しいエルフの森と違って、こんなに広い世界ならなんだってできるわ」
 まるで子供か恐れを知らない愚者である。でもジョシュアはそんなティティスの無垢むくな心をうらやましく思った。
「それはそれとして、とりあえず腹ごしらえしたらどうだい?」
 ティティスを机のそばへ呼び寄せて、持ってきたパンやチーズやぶどう酒、果物などを勧めた。ティティスは森にはなかった食べ物を見つけるたびにジョシュアを質問攻めにして困らせた。
 ティティスがカップにそそいだぶどう酒をちびちび飲んでいるところを、ジョシュアは横目でこっそり観察した。
 きれいな肌や髪は前述の通り。葉の飾りを付けたティアラで長い髪を後ろにまとめて、着ているのも動きやすそうな細身仕立ての上衣と長靴下。おまけにブーツは夜目にもわかるほど履き古している。
(よほどのおてんばなのかな)
 とジョシュアは察した。エルフというのは思慮深く冷徹な性格の種族だと聞いていたが、例外もあるらしい。
「なによ」
 視線に気付いたティティスがにらんできた。
「いや、足りなかったらもう少し何か取ってこようかと思って」
「ううん、もうお腹いっぱい」
 こうして見ると自分たちと何も変わらない。人間と同じようにお腹をすかせて、食べて飲んで、空腹が満たされるとくつろいで眠そうだ。
「ティティス」
「なに?」
「これからどうしようとか、考えてるのかい?」
「明日考えるわ」
 事もなげにそう言う。ジョシュアはあきれるよりもいっそ笑ってしまった。
「そうだね、それがいいよ」
 ジョシュアは、ともかく今夜のところはティティスを自分の部屋に泊めてあげることにして、一つしかないベッドはティティスに貸すつもりだった。
「ちょっと人間、あなたはどこで寝るわけ?」
 ティティスは小首をかしげて尋ねた。
「だから僕にはジョシュアっていう名前が――僕は適当に毛布にくるまって寝るよ」
「いいの?」
「いいよ」
 ティティスはしばし黙り込み、
――もしかしてあたしがエルフだから遠慮してるの?」
「君が女の子だからだよ」
 ジョシュアはベッドに掛けたシーツを引っ張って平らにならした。
「はいどうぞ」
「うん」
 ティティスはなにやら物問いたげにジョシュアの顔を見た。しかし結局何も言わずに寝床へ入った。
 ジョシュアは椅子の上で毛布にくるまった。
 こちらに背を向けているティティスの様子を、ちらり、とうかがう。慣れない寝床で寝付けないのでは、と思ったがティティスはじきに寝息を立て始めたようだ。
(たくましいな)
 感心しつつ、自分も目を閉じた。椅子の角に体のあちこちが当たって毛布越しでも少々痛い。
(どうしてこんなことになったのやら)
 数時間前、傭兵団への帰り道で家出エルフのティティスを見つけて拾ってきたことを思い出すと、我ながらお人しだなぁと半ばあきれてしまう。

2

「すっかり遅くなっちゃったな」
 ジョシュアはわざと声に出しながら傭兵団への帰路を一人で歩いていた。
 とっくに日が落ちて、晴れた夜空に楕円だえんの月が掛かっている。月光が明るく、足元がはっきりしていることは幸いだった。
 夕方サンドストームの市街を出たときはもっと早く帰営できるつもりだったのだが。見積もりが甘かったようだ。
「帰ったらガレスに怒られそうだ」
 ガレスのことだから、
「おまえ一人ならいい。夜道で何かあってもおまえ一人危険に遭えば済むことだ。だがな、これからは部隊のリーダーを務めて他の傭兵を牽引けんいんしていかなくちゃならねえことだってあるだろう。おまえが全員の命を預かるんだと思え!」
 とかなんとか、こってり絞られそうな予感がする。
 やがて農耕地に囲まれた街道から森の脇を抜ける小道へ入った。
 森の奥の方は真っ暗で何も見えない。ジョシュアはいくらか緊張した面持ちで、周囲の音に耳をそばだてながら歩いた。
 サンドストームで聞いた話では、この辺りまで来れば安全なはずだが――
 ザッ、
 とふいに行く手で茂みが揺れ、黒々した影が路上へ飛び出してきた。一瞬身構えたが、よく見ればただの小柄なオオカミである。群れている様子もない。
「なんだ」
 ほっとため息をつく。とはいえ、オオカミも家畜や人を襲う害獣だ。低いうなりを上げてこちらを警戒しているようでもあった。
 ジョシュアはベルトにった剣のつかへ手を掛けた。
 そのときである。
「殺すの? 何の危害を加えられたわけでもないのに」
 と、声がして、同じ茂みから姿を現したのがティティスだった。
 ジョシュアは夜の森からひょっこり女の子が現れたという思わぬ事態に言葉をのんだ。剣をつかんだ手は離していない。
 ティティスは、
「ほら、群れに帰りなさい。おびえなくてもいいのよ。あんたを追っかけてきてたやつはもう近くにはいないから」
 とオオカミに語りかけて逃がしてやってから、ジョシュアに向き直った。
 ジョシュアは剣から手を離した。
「こんな時間に女の子が一人歩きなんて危ないよ」
「森に危険なことなんて何もないわ。さっきのオオカミだって、よそで危ない目に遭って逃げてきたのがたまたまあなたの目の前に飛び出してしまっただけのことよ」
 泰然とした態度はとても普通の人間の娘とは思えない。ジョシュアは目を凝らして、ようやく気が付いた。
――エルフ? 君エルフなのかい?」
―――
「どうしてこんなところに。だってエルフの森は今ではもう人里の近くには」
「エルフが」
 ティティスは亜人特有の長くとがった耳をいらいらとひくつかせて言った。
「エルフの森の外にいちゃいけない?」
「いけないってことはないけど」
 人間の生活圏をエルフがふらふらほっつき歩いてるなんて聞いたことがない。
「もしかして道にでも迷ったのかい? それなら広い街道まで案内を――
「迷子なんかじゃないわよ!」
 と大きな声を上げた拍子に、ティティスのお腹で情けない音が聞こえた。
 暗がりだったからジョシュアには悟られなかったようだが、ティティスは顔を真っ赤にしてうつむいた。そしてかなり長い間もごもごと口ごもってからついに顔を上げ、
「ね、ねえ人間、あの、何か食料持ってない?」
「は?」
 ジョシュアは荷物やポケットの中身を思い浮かべた。
「い、いや、あいにく食べる物は何も」
「そ、そう」
 ティティスは心底残念そうにため息をもらした。
「ええと――お腹が空いてるのかな?」
 とジョシュアが尋ねてもティティスの返事はなかった。だがそれは肯定と取ってもいいだろう。
「君、その、やっぱり早くエルフの森に帰った方がいいんじゃないのかい? 仲間のエルフもきっと心配してるだろうし。それとも帰れない理由でも」
「大きなお世話よ、ほっといて!」
 またティティスのお腹が、きゅうと鳴った。
 ジョシュアはどうしたものかと首をひねり、とりあえず優しく問いかけてみた。
「いつから食べてないんだい」
――昨日の夜からずっと」
「そっか。それじゃ随分つらかっただろうね。そっちに行ってもいいかな、僕の帰る先はそっちの方向なんだ」
 二人は初めて間近でお互いの顔を見た。
「あなたこそ早く帰らないと心配する家族とか人間の仲間とかいるんじゃないの」
「うん、急いで帰らなくちゃならないんだ」
「そう」
「君も一緒に来ない――?」
 ティティスは大きな目をまん丸くして驚いた。
「えっ!?
「もちろん嫌なら無理にとは言わないけど、エルフの森に帰れなくて他に行くあてもないのなら。せめて食事くらいは用意してあげられると思うよ」
「で、でもあたし」
「あ、いや、僕は別にそれで何か要求しようとか考えてるわけじゃないんだ」
「でも」
「ただ君がすごく困ってるようだから。少しでも助けになれればと思って」
 ティティスにとっては魅力的この上ない申し出だった。目の輝きはすぐにでも「うん」と答えたそうだが、それでも警戒心はそうそうゆるまない。
 散々迷った挙句に、
「どうせ森の外に知り合いなんていないし、何一つわからないんだもの。どこに行ったって同じよね」
 と自分に言い聞かせるようにつぶやき、心の折り合いもついたのだろう。ジョシュアの親切に甘えた。
 ティティスはジョシュアと肩を並べて歩きながら言った。
「だけどあたしエルフの森に帰れないわけじゃないんだから。帰れないんじゃなくて、帰らないのよ。あんな堅苦しいところになんか」
「それって、もしかして家出してきたの?」
「そうとも言うわね」
(そうとしか言わないよ)
 森を飛び出してきたエルフを連れて帰ったなんて、マールハルトや他のみんなが知ったらどう言うだろう。やっぱり、すぐに森に送り返すべきだ、と怒られるだろうか。
 ジョシュアが内心案じていることも知らず、ティティスは無邪気に尋ねた。
「ねえ人間、あなたの家って遠いの?」
「遠くはないよ。もう四半時も歩けば着く。それから、家ではないかな」
「じゃあどこへ帰るのよ」
「エステロミア傭兵団へ」

3

 いつの間にかジョシュアはうとうとし始めて、椅子に深くもたれかかって眠りこんだ。
 夜が更け、東の空が白み始めて朝日が昇る。
「う――
 窓から差し込む日の光のまぶしさに目がくらんで寝覚めた。いつもは鎧戸よろいどが閉めてあるはずなのに、
(夕べ閉め忘れてたっけ?)
 などと寝ぼけながら重いまぶたを持ち上げる。と、
「うわっ!?
 鼻の先にティティスの顔があって、じっとこちらを見つめていたからびっくりして椅子からずり落ちそうになった。
「ティ、ティティス起きてたんだ」
「そんなに驚かなくたっていいじゃない」
 どうやらジョシュアは寝顔を観察されていたらしい。どうしてそんなことをするのかわからないが、おそらくジョシュアがティティスの容貌や耳の形を珍しがったのと同じ理由だろう。
 おかげでというか、ジョシュアもティティスの顔をしっかり目に焼き付けた。
「こうして明るいところで見ると、君の目の色――きれいだね。森に住んでると目もそんなにきれいな緑色になるのかな」
「知らないわよそんなこと」
 口調はツンとしているくせに、ティティスは満更でもなさそうに頬をゆるめた。
「あなたの目もきれいね。夕べはわからなかったけど。あたしが森ならあなたは空か深い水の色ね」
――ありがとう」
 ジョシュアは毛布を畳み、ベッドのシーツに寄ったしわを整えた。
「ティティス、夕べはよく眠れた?」
「ええ」
「ならよかった。これからどうするんだい」
「そうね、とりあえず天気もいいし」
 ティティスは窓から外の澄んだ空気を気持ちよさそうに吸い込んだ。
「水浴びでもしたい気分」
「えっ、水浴び?」
「森を出てから歩きっぱなしで汚れちゃったし」
「ああ――それならお風呂に入りなよ」
「お風呂?」
 本当に人間の生活については一切知らないらしい。純真というかまるで野生児である、この家出エルフは。
「お風呂っていうのは――いや、実際に見た方が早いか」
 ジョシュアはティティスを連れて廊下へ出た。
 ジョシュアがやたらきょろきょろと周囲をうかがっているのを見て、ティティスは首をかしげ、
「ねえそういえば、ここはエステロミア傭兵団、だったっけ? の拠点なんでしょ。あなたの仲間はいないの?」
「いるよ。そろそろみんな起き出してくる頃じゃないかな」
「紹介してよ」
 とねだられて、ジョシュアはためらいがちに答えた。
「みんなは君をエルフの森に送り返そうとするんじゃないかな。エルフの家出なんて聞いたことがないよ。でも君は森には帰りたくないんだろう?」
「う、それは」
「特にマールハルトにばれたら何て言われるか」
「マールハルトっていうのが傭兵団の偉い人間?」
「偉いというか、国王陛下と僕たちの取り次ぎ役だね。僕たち傭兵団はエステロミア国王陛下直属の部隊なんだよ」
「へえ。エルフの森にも、傭兵じゃないけどエルフの戦士がいるわよ。エルブンナイツっていうの。あたしの知り合いがそのリーダーでね、魔法でいかずちを操ることにかけて右に出る者はないんだから――
 そんなことを話している間に浴室へ着いた。
 ドアを開けて中に入ると、木製の浴槽がしつらえてある。
「ここに水やお湯をためて体を洗うんだよ」
 とジョシュアは説明した。
 二人は浴室横の勝手口から一旦外へ出て、一緒に井戸で水をくみ、浴槽へ半分ほど張った。
「お湯はここじゃ沸かせないから、ちょっと待ってて、沸かしてきてあげる」
「誰か来たらどうすればいいのよ」
「ああ」
 ジョシュアはしばし考え込み、
「ノックもせずに入ってくる人はたぶんいないと思うから、外からドアをノックされたらこっちからも黙ってノックだけ返しておきなよ」
「そんなので大丈夫なの?」
「僕の仲間にアルシルって無口な女性がいて、彼女がいつもそうしてる」
「ふうん。わかった」
 ジョシュアはティティスを置いて一人で台所へ向かった。
 誰もいないだろうと思って厨房の戸を開けたところ、思いがけず古いかまどやストーブで火が赤々と燃えている。髪の長い女性が食事の支度をしていた。
「ミ、ミロード、早いね」
 とジョシュア声を掛けると、
「あらジョシュア、おはよう。朝食まではまだしばらくかかるわよ」
 ミロードはジョシュアが腹をすかせて来たのだと思ったらしい。
「どうしてミロードが食事の用意をしてるんだい? 家政婦さんは?」
「昨日急に暇をもらって実家に帰っちゃったのよ。あの人、サンドストームに実家があるんですって。今ちょっとごたごたしてるでしょう。それで、家族が心配だからって」
「ああ、そうなんだ」
 ジョシュアは厨房へ足を踏み入れた。
 鍋からは湯気とハーブの香りが立ち上っている。ミロードは板に付いた手つきでナイフを持ち、鍋へカブをそぎながら加えた。
 ミロードは今でこそ傭兵団唯一の魔術師だが、もともとは貴族の出身なのだと聞いている。貴族の令嬢が退屈な生活を捨てて自由で刺激的な傭兵稼業を選んだというわけだ。魔法の腕は貴族の慰み事かと思いきやとんでもない。相当なものである。
 ジョシュアは竈に掛けられた大鍋の方をのぞいた。こちらはただの湯が沸いているばかりだ。
「ミロード、このお湯もらってもいいかな?」
 と断ってから、手桶ておけに湯を移した。
「あ、それから、朝食を少し多めに作ってもらえると嬉しいんだけど」
「どうして?」
「どうしてって、それはその」
 ティティスに分けてあげようと考えたからだが、そうとは話せない。
 ジョシュアがまごついていると、
「まあ、あなたもまだまだ食べ盛りよねぇ」
 とだけミロードは言って、それ以上追求しないでくれたからほっとした。

4

 浴槽へ湯を足し、湯加減を見る。
「あったかい」
 とティティスは湯船に指を浸し嬉しそうに目を細めた。
「そう、よかった。じゃあこれはれた体を拭くのに使ってね」
 ジョシュアは用意しておいた亜麻布をティティスへ渡し、それから浴室内に備え付けてある棚を探った。共同生活を営む傭兵たち各々の持ち物らしい使いかけの石鹸せっけんや香水瓶などがごちゃごちゃと並べられた中から真新しい石鹸をどうにか見つけ出した。
「これは体を洗うのに使う物だよ」
 と、一々ティティスに丁寧に説明し、
「それじゃ僕は外で待ってるから、済んだら教えてくれるかい」
 自分は廊下へ出ようとした、ところでふと足を止め、いたって真面目な顔で念を押した。
「あの、服は脱いで入るんだよ?」
「それくらいわかるわよ! さすがに!」
 ジョシュアは背に黄色い声を浴びながらそそくさと出ていった。
(やれやれ)
 幸い廊下に人気はない。ジョシュアは浴室のドアに背中で寄りかかり、ふーと肩で息をついた。
 静かなものだ。傭兵団の建物の中はまだしんと静まり返っている。いつも通りの朝である。
 目を閉じて冷たい空気を深く吸い込んだ。
 と、ドアの向こうでティティスがご機嫌そうに鼻歌なんて歌い出したものだからぎょっとして、
「ティ、ティティスできるだけ静かに」
「あ、ごめんね」
(やれやれ)
 ジョシュアは再びため息をついた。
 いつも通りの朝どころか、今までこんなに女の子一人に振り回されたことがあったものか。
 僕もつくづくお人好しだなぁ。と思う。どうして夕べ見ず知らずのティティスを傭兵団に連れてこようなんて考えてしまったのだろう。「君も一緒に来ない?」なんて口をついて出てしまったのだろう。
 いくら彼女が困っていたからといって。他の方法だってあったはずだ。
 悩んでみたところで何も思いつかなかった。自分のことなのにわからないのはもどかしい。
 黙り込んでいると、ドア越しにティティスが体を洗っている水音が聞こえる。
―――
 ジョシュアは気恥ずかしくなってきてドアから離れた。
「おいジョシュア」
 と、出し抜けに背後から声を掛けられ、思わず肩がびくりと震えた。
 廊下を伝って近寄ってきたのはガレスだった。今しがた起き出してきたところらしい。大あくびをしている。
「ガレスか――おはよう」
「おう」
 ガレスは寝起きのせいかいつにも増していかめしい顔つきで、眉間にしわをいくつも寄せている。ぴょんと跳ねた白い口ひげの端をおっくうそうになで、
「よく眠れたか」
 と低い声で言った。
「う、うん」
 ジョシュアはティティスに気付かれたらどうしようと、内心うろたえつつうなずいた。それをガレスは取り違えたようである。
「なんだ、夕べ俺が叱り付けたのをまだ気にしてやがるのか」
「え? あ、いや、その」
「俺だって別におまえが憎くて怒鳴るわけじゃねえんだ。まあそう落ち込むな」
 ジョシュアは昨日サンドストームから帰営するのが(ティティスを拾ったせいもあって余計に)遅くなって、案の定傭兵団で待ちかねていたガレスにたっぷりどやし付けられたのであった。
「それよりなジョシュア」
 ガレスはにわかに威儀を繕った。
「ついさっきマールハルトから聞かされたところなんだが、今朝方出たようだぜ、ヤツが。サンドストームから急ぎで使者が来たそうだ」
「ヤツって、それは」
「魔獣だ」
 ジョシュアの顔色がさっと変わった。
「やっぱりサンドストームに?」
「おう。町のもんも姿を見かけただけでケガ人は出なかったみてえだが」
「それならよかった」
「話を聞いたところじゃ町外れの森に逃げ込んだそうだ。いつまた町の近くに出てくるとも限らねえ。そのときこそは俺たちにお呼びが掛かるだろうぜ。覚悟しとくんだな」
「うん、わかってるよ」
 ジョシュアはいく分青ざめて目を伏せ、
「ねえガレス、どうして、急に魔獣なんかが人里近くに姿を現したのかな。だってこの国にはそんなものいなかったはずじゃないか」
「いなかったわけじゃねえ。百年前に黒王オドモックが蘇ったときも同時に国中で魔獣や魔物が暴れたって話だ」
「じゃあ」
「まあそうくな。今度は高々一頭二頭の話だ。今のところな」
「それだけで済めばいいけど」
 ガレスはジョシュアの表情をうかがうようにちらりと見やった。
「おまえ魔物が怖いのか」
「怖いわけじゃ――ただ、僕は魔物と戦った経験がないから」
「自分にうそをつくんじゃねえよ」
 とガレスは一喝した。
「怖いものは怖いでいいんだ。ただし戦うことを恐れるな」
―――
「まだ少しは時間があるだろう。心の準備をしておけ」
 ぽんとジョシュアの肩をたたき、ガレスは歩きだした。そしてそのまま浴室のドアへ手を掛けようとしたので、
「あああガレス! ちょっと待って!」
 と、ジョシュアは素っ頓狂な声を上げて慌てて引き止めた。
「なんだよ」
「いや! ええと! ぼ、僕もさっきお風呂場に入ろうとしたんだけど、使用中だったんだ。きっとアルシル辺りが」
「アルシルなら二階にいたぞ」
「えっ、じゃ、じゃあハヅキかな――と、とにかく誰か使ってるみたいだから!」
 ガレスがドアに耳を近づけてみると確かに水音が聞こえる。
「そうみてえだな。しょうがねえ、後にするか」
 ぼやきながらガレスは食堂の方へ姿を消した。
 ジョシュアは、ほっと胸をなで下ろした。その息が落ち着く間もなく、
「ねえ、今誰か他の人間がいた?」
 浴室からティティスがドア越しに尋ねてきて、ジョシュアは目をむいて周囲を見回した。
「ティティス! 静かにしてって言ったろ?」
「だーって」
 ティティスは口をとがらせ鼻先近くまで湯船につかった。
 そのとき、ふと視界の端を黒い小さな影が素早く走り抜けた。
「何?」
 つられて目で追いかけた先には、親指ほどの大きさの黒光りする羽虫がいて、壁に沿ってサササと気色悪くうごめいている。
 ティティスは浴槽から裸身を乗り出してそれを見つめた。森の中にはあまたの昆虫がんでいたがこんなのいただろうか?
 じっと観察されているのに虫の方も気付いたか、
 ササササ――
 と例の気持ち悪い動きでティティスの方へ近づいてきた。ティティスも驚いて、
「やだっ! 来ないでよ!」
 悲鳴を上げたと同時にドアが勢いよく開いた。
「ティティス!? 何かあっ――
 たのか、と最後までジョシュアが言い終えることはなかった。
 ティティスがとっさにつかんで投げた手桶が見事にジョシュアの顔面ど真ん中へ命中し、調子の外れた音を立てた。

5

「だから僕はその、君に何かあったんじゃないかと思って心配になっただけで、決して君の入浴姿をのぞこうとしたとかそういうことじゃなくてね、だってまさか油虫に驚いただけだなんて思わないだろう?」
「わかったから、もういいわよ。そんなに怒ってないし」
 ティティスは、さっきからもはや誰に対してかわからない言い訳を繰り返しているジョシュアにいささかあきれつつ言った。
「こっちこそ悪かったわよ、痛かったでしょ、顔」
「僕は平気だよ」
 それでも額や鼻筋は赤くれているが。
 二人はジョシュアの部屋に戻り、ティティスはジョシュアが台所から運んでくれた朝食を取っている。ジョシュアは先に食堂で仲間と一緒に済ませていた。
 ティティスは見知らぬ料理にも怖じず、えんどう豆とカブの煮込みをせっせとスプーンですくっては口に運び、むしゃむしゃと美味しそうに食べている。しかし、肉のパテはあまり進まないようであった。
 ジョシュアがそのことを問うと、
「人間は牛や羊を飼ってから食べるんでしょ? おじいちゃんにそう聞いたわ。それってひどいと思わない?」
「そ、そうかな。でも家畜は神様が人間のために創ったもので」
「あたしたちエルフはそうやって獣に差を付けたりしないわ」
「じゃあ聞くけど、君が今食べてる豆や野菜だって人の手で育てた物なのに、それを食べるのはひどくないのかい?」
 と言い返したらティティスは口をつぐんでしまった。可愛いものである。
「もちろんエルフの考え方が間違ってるとは思わないし、無理にとは言わないけど、人間の世間で暮らすつもりなら僕たちの考え方にも慣れていかなきゃね」
 ティティスは幼い子供のようにすねた顔をしていたが、結局はパテも残さず全部食べた。
 その間にあれこれとりとめのない話も交わした。
「このエステロミア王国はエバンアタウ大陸のちょうど真ん中辺りにある小さな国なんだ。北のクォドラン帝国とは長い間戦争を繰り返してる」
 ジョシュアはそんなことも話した。
「特に百年前の帝国の侵攻は苛烈だったそうだよ。おまけに、そのとき同時に黒王オドモックが蘇ったから本当にひどい時代だったって」
「その話はあたしも知ってるわ。黒王を封印した『魔を狩る者たち』の中にはエルフもいたのよ」
「え? そうなんだ。昔も君みたいなエルフがいたんだね」
「それどういう意味?」
「いやまあ――『魔を狩る者たち』は当時スティメンズ国王が招集した傭兵集団だったんだ。国王の采配は見事なもので、軍の兵力で帝国の侵攻を防ぎ、魔物との戦いに優れた傭兵たちの力で黒王を封印してしまった。今でも賢王と呼ばれる所以ゆえんだね」
「ねえここの、エステロミア傭兵団って、もしかして『魔を狩る者たち』と何か関係があるの? あなたたちも王様の傭兵なんでしょ」
「エステロミア傭兵団は『魔を狩る者たち』の後継として設立されたんだ」
 とジョシュアは簡潔に答えた。
「と言っても今は魔物のほとんどいない時代だから、そうそう魔物退治なんかなくて国境警備辺りが主な任務だけどね」
「なんだ、案外退屈そうね」
 ティティスは少しがっかりしたようである。
「退屈ってことはないよ。クォドラン帝国との緊張は今も高まって来てるんだ。もしものことがあったときは僕たちが国王陛下の手足となって働かなくちゃならない」
「ふーん――
 今一つぴんとこない、といった様子であった。
「あなたはその崇高な忠義心から傭兵団に志願したってわけ?」
―――
 ジョシュアは、かなり微妙な返事をした。
「そういうことにしておいてくれていいよ」
「?」
「それよりティティス、これからどうするんだい?」
 と、ジョシュアは昨晩から三度目になる問いをティティスへ投げかけた。
「うーん、せっかくだから傭兵団がどういうところか見て回ったりもしたいんだけど」
「そ、それはだめだって。みんなに見つかったら」
「いいじゃない見つかったって。他の人間とも話してみたいわ」
「だけど」
「そりゃあたしを森に帰そうとする人間もいるかもしれないけど、それって別にあなたが心配することじゃないでしょ」
 ティティスがあっけらかんと言うと、ジョシュアは寂しげな顔をした。まるで自分だけの宝物を取り上げられた少年のよう――というほどジョシュアはもう子供ではないだろうが。
 そんな顔をされてもティティスも困ってしまう。
「ま、まああたしだって帰りたいわけじゃないけど。あなたの方こそ、これから何か予定あるの?」
「今日は訓練があるよ」
「面白そう。ついていっていい?」
「だから」
「ちゃんと見つからないようにするわよ」
「でも君は女の子だし、訓練とはいえ危険なこともあるから」
「傭兵団には女性もいるんじゃなかった?」
「いるけど、彼女たちはなんて言うか、その、男とか女とかいう以前に仲間なんだよ」
 なんだかんだでジョシュアはティティスを連れていくつもりはないらしい。
「ちぇーっ」
 ティティスはつまらなそうに不満を垂れている。
「せっかく人間の世界に来たのに、あれもだめ、これもだめなんじゃ何のためにエルフの森から出てきたんだかわかんないわよ」
 とにかく外に行きたいと言い張って聞かない。ジョシュアもそれを止める権利も何もあるわけでなし、あまり気は進まないが、ティティスを連れてそっと宿舎を抜け出した。
「じゃあね」
 とティティスは身軽に飛び出し、両脇を林に囲まれた道へ消えていった。
 ジョシュアは、それから一日なんとなくぼんやりしていて、傭兵団の仲間たちとの訓練中もどこか上の空であった。
「うわっ!」
 アルシルの突き込んできたレイピアの剣身がジョシュアの首の脇をかすめた。
 アルシルは驚いたらしく、さっと剣を引いた。
――あなたらしくもないわね」
「ご、ごめん」
「別に私に謝ることはないわよ」
 無表情に言いながらレイピアの切っ先を上げ、ジョシュアの喉笛へ突きつける。
「ア、アルシル」
「あなたの不注意で痛い目を見るのはあなた自身だわ」
「わかってるよ」
 アルシルは黙って剣を構え直した。彼女の正確無比な剣技は傭兵団でも並ぶ者がない。ジョシュアも気を引き締め直して剣と盾を構えた。
 訓練を終え帰営する頃には日が落ちている。
 皆で夕食を済ませ、それぞれの部屋へ引き揚げる中、ジョシュアもくたくたで自室へ向かい階段を上った。
 部屋のカギを開けて中へ入ると真っ暗である。持ってきた手燭てしょくの火をランプに移そうとして、手を止めた。思い直して窓へ歩み寄り、鎧戸を開けた。
 外は晴れている。青白い月の光が室内を照らした。
(ティティス今頃どうしてるかな)
 思えばティティスは傭兵団へ帰ってくるとは言わなかった。よそへ行ってしまったのかもしれないし、故郷の森が恋しくなることも考えられる。二度と会うこともないかもしれない。
(今朝、もっとちゃんと別れを言えばよかった)
 胸の中に満たされない隙間ができたような気分だった。そんな隙間は昨日まではなかったはずなのに。
 でも、時が経てば忘れるだろう。
 ジョシュアは鎧戸を閉めようとした。と――
 ヒュロロロ――
 聞き慣れない鳥の声を耳にした。
(こんな夜中に?)
 いぶかって窓から身を乗り出す。
 ヒュロロ、ともう一度聞こえ、声のした方をジョシュアが見ると、窓下の生垣の陰に気配を感じた。鳥ではない。気配の主は鳥の鳴きまねをしてこちらの注意を引いたらしい。
「あっ、気付いた? こっちよ、こっち!」
「ティティス!?
 生垣から手を振っているのは、見間違いじゃない、ティティスだ。
 ジョシュアはティティスが何か言う前に部屋を抜け出して階段を駆け下り外へ飛び出していた。
「どうして戻ってきたんだい」
「あれ、夜には帰るって言わなかった?」
 ティティスは服に付いた木の葉を払いながら言った。
「僕は聞いてないよ」
「そうだった? ごめんね。もうしばらく泊めてよ。他に人間の知り合いなんていないし」
 ティティスはジョシュアが面食らうくらいあっさりしている。
「あ、これおみやげ」
 と、上着の胸ポケットから小さな果実を取り出してジョシュアに渡した。
「訓練だったんでしょ? 傷にも疲れにも効くわよ。それより、ねえ、あたし今日いろんなものを見たんだけど――
 一日歩き回って疲れた様子もなく、目を輝かせてジョシュアに話したいことや聞きたいことが山盛りといった顔色である。
「その前にともかく、中へ入ろうよ」
 とジョシュアが促さなかったらその場でしゃべり始めて止まらなかっただろう。
 二人は歩調を合わせて歩きだした。ジョシュアはさっきと打って変わって胸の内が熱い血で隙間なく満たされているのを感じた。

6

「ここ数日やけに機嫌がいいようじゃの」
 と、ふいに老僧のバルドウィンに言われてジョシュアは、ぎくりとした。
「え? いや、そんなことは」
「そう言われてみればジョシュア、訓練でも調子よさそうだよね」
 長椅子に腰掛けたバルドウィンの後ろで肩をたたいてやっているハヅキもうなずいている。ジョシュアは彼らの隣に座っていた。
「おおハヅキ、そこじゃその辺り」
 バルドウィンは聖教者のくせに極楽とでも言い出しそうな頬のゆるめようである。しかし言うことはなかなか鋭い。
「ジョシュア、この間サンドストームへお使いに行った頃から浮かれた様子じゃが、町で可愛い娘でも見初めてきたか?」
「なになにジョシュア、好きな子ができたの?」
 ハヅキも興味津々そうに乗っかってきた。見かけやなりは少年のようでもやはり年頃の娘である。
 ジョシュアは二人の言葉尻にかぶせんばかりにしてかぶりを振った。
「そんなのじゃないよ」
「照れんでもいいぞ」
「照れてない」
「おぬしものう、騎士道とは死ぬものと見つけねばならんわけでなし、若いのだからもちっと柔らかくならねばの」
「そんなに硬いかな? 僕」
「まあ、聖教国のわしの知り合いにもおぬしと同じくらいの年頃の騎士がおるが、その硬さよりは随分ましじゃよ。あれももっと柔らかくなければ聖騎士団ではやっていけぬと思うのじゃが――いざとなればエステロミアに呼んでやるべきか」
 後の方は独り言のようであった。バルドウィンは、
「ふうむ」
 と思案げなため息をついた。
「この傭兵団も今の人数では国王陛下の精鋭部隊にしても寂しいものがあるわい」
「そういうもんかな?」
 ハヅキがバルドウィンの首を肘でぐりぐり押しながら言った。
「い、いたた、ハヅキお手柔らかに頼むぞ」
 ジョシュアは、ふと思いついたように口を挟んだ。
「ねえバルドウィン、百年前黒王を封印した『魔を狩る者たち』にはエルフもいたって本当かい?」
「うん? どうだったか――各地から集まった傭兵集団だったそうじゃから、いてもおかしくはないと思うが。エルフは一族の永い血脈に独特の戦い方を受け継いでおる上、魔術にけるからの」
「エルフって森から出てこなくて人間には干渉しないんじゃなかった?」
 ハヅキが首をかしげた。
「エルフにも変わり者くらいおるわな。それに何も初めから人間との交流を断っていたわけではない。太古の奇跡の戦いでは人間とエルフは共闘して魔族を打ち破ったこともあったのじゃよ。それこそエルフの戦士でも傭兵団に手を貸してくれればありがたいものじゃが」
 バルドウィンは、十分に肩の凝りがほぐれるとハヅキにお礼を言った。
「ううん、どういたしまして! お年寄りは大事にしないと」
「そう年寄り扱いするでない」
 バルドウィンの苦笑いを聞きながらハヅキは自分も椅子を引き寄せて座ろうとした。
「あれ?」
 と何かに気が付いたように声を上げ、中腰のまま壁際をにらんだ。
「ハヅキ? どうかしたかい?」
「いやさ、あそこの棚の上に人形があるだろ?」
 ハヅキの指差す先をジョシュアとバルドウィンも見た。娯楽用の小説やボードゲームが並べられた棚の上に、陶器製の貴婦人の人形が置いてある。
 ハヅキは人形に歩み寄って、その額に掛かっていた小さな花冠を手に取った。
「誰がこんな物乗せたんだろう。昨日までは何もなかった気がするけど」
「アルシルやミロード――がそんな娘らしいまねをするとも思えんが」
 バルドウィンはいささかデリカシーのない発言をした。
「のうジョシュア」
 と振り返ると、ジョシュアは、またぎくりとしたように身を硬くした。
「えっ? そ、そうかな」
「そういやさ」
 ハヅキが言った。
「最近この建物の中、なんか変な感じがするんだよね。こんなふうに知らない物が置いてあったり、物が動いてたり。それに夜廊下を歩いてると、どうも誰かオレたち以外の気配を感じる気がする」
「き、気のせいじゃないか?」
 とジョシュアは笑ってごまかしつつ、ハヅキの勘のえ具合には舌を巻いた。
 これ以上話しているとぼろが出かねない。と参っていたところへ、都合よくガレスがやってきてドアから顔をのぞかせた。
「おいジョシュア、ちょっと来い」
 ガレスに連れていかれた先はマールハルトの書斎であった。マールハルトは安楽椅子に身を沈め、白い顎ひげをなでながら本を読んでいる。
 部屋の中央に置かれた机の前へジョシュアは立たされた。天板の上には大きな地図が一枚広げられている。サンドストームの市街を詳しく描いたものらしい。
「いいか、最初だけ俺が教えてやる。あとは現場で覚えろ。たぁ言っても、俺も魔物なんぞと戦った経験はほとんどねえがな。とりあえずは人間相手のやり方でいくしかねえ」
 ガレスはそのように前置きしてから、地図を指差した。
 住宅地を避けて戦闘を行うための誘導路、敵を分断できる地形、ただしこちらは極力兵を散開しないようにすること。魔術師は敵より高所に配置する。他、戦闘指揮に必要な知識を一つ一つガレスはジョシュアに教え込んだ。
 ふいにマールハルトが椅子から体を起こして近寄ってきた。
 手にしていた本を開いたまま地図の上に置く。しわだらけの指の先には恐ろしげな魔物の絵が記されている。
 種族名はグリフォンと書いてあった。
「サンドストームの使者によると、町に現れたのはこの魔物らしい。半身がわし、もう半身は獅子ししのキメラだ」
 本は百年前の黒王との戦いの時代に書かれたものらしい。魔物の解剖学的所見まで細かに述べられている。
 ガレスが、ふんと鼻を鳴らした。
「本読んで戦えりゃ苦労はねえぜ」
「事前に知識を得ておくのは損にはなるまい。そなたがジョシュアに教えようとしているのと同じだ」
「ちっ」
「グリフォンは群れを作る性質がある。気をつけよ。もっとも今回騒ぎになっているのは自然発生のグリフォンではないようだが。サンドストームの魔術師がキメラの実験と称して作り出したものが逃げたらしい」
「はた迷惑なやつもいたもんだ」
「その魔術師もどうにかしてもらえないかと頼まれたが、いくら迷惑とはいえ陛下の許可なく民を捕らえるわけにはいかぬ」
「お役所仕事だな」
「まあ研究熱心な魔術師ではあるらしいのでな。よき成果も多いようだ。魔法アカデミーからも一目置かれているらしい。ただ魔術師の方はアカデミーには興味を持っておらぬ様子とか」
「最後のところだけ評価してやる」
 本と地図を真剣に眺めていたジョシュアが二人を呼んだ。
「ねえ、グリフォンが現れたのは町外れだったよね? だったらこの広場まで追い込めれば有利に戦えそうだと思うんだけど、どうかな?」
「そこはそなたたちの退路も断たれる。いくら有利な地点とはいえ逃げ道を失ってはいかん」
 マールハルトも老いたとはいえ元は騎士の出身である。的確に答えた。
 ガレスは、二人のやり取りを――特にジョシュアの方を見ていて、感慨深そうに目を細めた。
(俺の息子も生きていれば)
 今頃こうして戦い方を教えてともに戦うこともあっただろうか。
 しんみりするようながらではない。ガレスはそんな思いを胸から締め出すと、二人の議論に加わった。ジョシュアには一層厳しく教えたが、その表情には親しみがこもっていた。
 そんなことがあり、ジョシュアが書斎から退室して廊下を歩いていると、
「ねえあの部屋で何してたの?」
 ひょいと、階段の陰から急にティティスが頭を出した。
「ティ――!」
 ジョシュアは出しかけた声を引っ込め、周囲を見回して、ティティスを元の陰に押し戻し自分も隠れた。
「君また傭兵団の中をうろうろしてたの」
「さっきあなたが出てきた部屋はまだ入ったことないんだけど、何があるの?」
 これである。ジョシュアの「他の人に見つかったらどうするんだい」という忠告はとっくに効果を失って、ティティスはここのところ興味の赴くままに建物の中を探検している。
「あそこはマールハルトの書斎だよ。勝手に入らないようにね」
「なんだ」
「それより、僕の仲間も君の気配に気付いてるようだから――人形に花を乗せたりしたのも君だろ?」
「あの部屋は面白かったわ。見たことない本や物がたくさん置いてあって」
「まったく」
 ジョシュアは口では困ったようなことを言いつつ、顔はそうでもない。もはや諦めている、というのもあるかもしれない。それに、楽しそうにしているティティスを見るのはなんだか嬉しかった。

7

 傭兵団に来て一週間ほど経ったが、ティティスは相変わらずジョシュアと一緒に寝起きしている。人間の娘なら多少なりとも羞恥心を覚えそうなものだ。しかし彼女はそういう様子を見せたことはない。
 ティティスがそんな調子なので、ジョシュアも自分ばかり意識するのは変かと思って、できるだけ平然としているように努めた。
 ティティスは昼の内は傭兵団の中をうろついたり、外へ出て近隣の農村へ出かけたりしているようである。
 帰りが遅くなると、ジョシュアの部屋の窓の下から、ヒュロロと鳥の声で合図する。それを聞いたジョシュアが窓を開け、そこから縄梯子なわばしごを下ろしてティティスを部屋の中へ引き上げる。
「ねえ、外の世界ってもっと人間がいっぱいいるんだと思ってたけど、案外少ないのね」
 帰ってきたティティスはいつも話したいことや聞きたいことが山盛りである。
「この辺りには小さな村しかないからね。町へ行けばもっとたくさん人がいる」
「へえ」
「たとえばサンドストームなんかはエステロミア王国でも一、二を争うほど大きな町で、にぎやかなところだよ」
「そこ遠いの?」
「遠くはないけど、普通に歩いて三、四時間はかかるかな」
「そっかぁ――
「今度案内してあげようか。休みの日にでも」
 とジョシュアが言うと、
「ほんとに?」
 ティティスは、ぱっと瞳を輝かせた。ジョシュアは胸がくすぐったくなる。決して悪い気持ちではない。
「約束よ。楽しみ!」
「うん」
 ジョシュアははしゃいでいるティティスの顔をまじまじ眺めた。
「なによ?」
「いや、君が森から家出してきた理由、今までちゃんと聞かなかったけどわかる気がして。君にとっては森の中だけじゃいかにも狭そうだもの」
「そうね。エルフって排他的だし。頭が固いし。あんなところつまんない。なんにもいいところないわよ。外の世界の方がずっと自由で楽しいわ」
「家出はいいけど、自分の故郷のことをそんなふうに言うものじゃないよ」
 とジョシュアはいさめた。
「君を育ててくれた森じゃないか」
――わかったようなこと言わないで」
 ティティスはやや機嫌を斜め向きにしたようだった。が、自分でも言いすぎたと思ったらしい。以後森のことは口に出さなかった。
 夜眠るときは、片方はベッドで、もう片方は部屋にこっそりわら束を持ち込んで作った急ごしらえの寝床で、晩ごとにそれらを交代して使った。ジョシュアはティティスにベッドを譲りたかったが、ティティスも妙なところで律儀に遠慮したのでそういうことになった。
 ジョシュアがベッドへ横になり、毛布にくるまると、
「おやすみ」
 と下からティティスが無邪気に言う。
「うん、おやすみ」
 ジョシュアも返事をして目をつぶった。枕に突っ伏して深く息を吸う。暗闇の中取るに足らない考えや他愛のない夢想が思い浮かんでは消えていく。
(こんな日をいつまで続けられるんだろう)
 そんな不安も浮かんではじきに輪郭がぼやけて脳裏に溶ける。
 翌朝、先に目覚めたのはジョシュアの方だった。
 眠気を振り払うように起き上がり、ベッドの縁へ腰掛けて首や肩の筋肉をほぐした。乱れた髪をいい加減にかき上げたとき視界の端にティティスの寝姿が映った。
 うらやましいくらい安らかに眠っている。
(起きたらまた朝から元気いっぱいなんだろうなぁ)
 不安とか心配とかいうものとは無縁そうな笑顔で。
(もし僕が傭兵団へ連れてこなかったら、ティティスはどうしてたかな)
 という考えにジョシュアは我知らず自尊心をくすぐられた。ティティスが今こうして平穏に暮らしていられるのは自分のおかげなのだと、いくらかうぬぼれたことも思った。
「僕がそばにいてあげるよ――
 ティティスには聞かれていないと思ったから、細い声に出してつぶやいてみる。照れくさくなって最後の方はほとんど音になっていなかったが。
 窓の鎧戸を開け、ティティスを起こした。
 ジョシュアの予想どおり起き抜けからティティスは元気で、今日は何をしようとか何が食べたいとか絶えず朗らかにしゃべっていた。
 ティティスが部屋のドアを開けて廊下へ出ようとしたとき、
「あっ」
 と開きかけたドアを急いで閉めた。どうやら廊下の向こうから他の傭兵が歩いてくるのが見えたらしい。
 それはいいが、すぐ後ろからジョシュアも一緒に外へ出ようとしていた。ティティスの思わぬ動きにジョシュアは一瞬応じるのが遅れ、足元がぐらついた。
「うわっ」
 体を支えるためにドアの横へ手を着く。
 ドアと体の間にティティスを閉じ込めるような格好になった。
「あ――
 下手をしたら相手の呼吸がまざまざ聞こえるほど距離が近い。
 ティティスが平手の一つでも食らわせてくれればまだ気が楽だったかもしれない。が、嫌がりもせずきょとんとしていたから、ジョシュアはかえって逃げる潮を失った。
「ごめんね、外に人間がいたから」
 とティティスは言った。それをきっかけにようやくジョシュアは体を離した。
「ご、ごめん、僕の方こそ」
「どうしてあなたが謝るわけ?」
「いやそれは、その、失礼なことをして」
「ふうん?」
 いまいちぴんとこないという風に小首をかしげる。
「あたしは気にしてないけど。だってあなた人間じゃない」
 ジョシュアはティティスの言葉の意味をくみかねて眉根を寄せた。ティティスはさらに言った。
「あたしはエルフであなたは人間でしょ」
「それが――?」
「だから、変な気持ちになるわけでもないでしょ? あたしとあなたは別物なんだから。人間だって他の生き物に親切にしたり仲良くはするだろうけど、でも相手が同じものとは思わないでしょ? やっぱり違うものは違うじゃない? そういうことよ」
 言いながら、ジョシュアの顔がみるみる悲しそうに沈んでいくのに気付いて、
「え? どうかした?」
「別に」
 と、ジョシュアはふいと目をそらした。ティティスを追い越し廊下に出ると、先に立って階段へ向かう。
 ティティスも後から続いたが、一度もこちらを振り返られることも声を掛けられることもなかった。
 いつもは広いジョシュアの背中がどこか少し小さく見えるような気がした。

8

 ジョシュアが鋭く振るった剣身がアルシルのレイピアをはじき飛ばした。
「!」
 アルシルはその拍子に手首を傷めたらしい。表情の起伏に乏しい顔がわずかに曇った。ジョシュアも気付いてそばに寄った。
「ごめん、大丈夫かい」
「大したことはないわ」
「見せて」
「平気よ」
 ジョシュアは広場の木陰で休んでいたバルドウィンを呼んで、アルシルのケガの治療を頼んだ。
「今日は随分剣が鋭いのね」
 とアルシルは言った。バルドウィンが唱える神聖魔法の祈りの言葉が絶えず流れている。その中でも彼女の声はよく通った。
「そうかな」
 ジョシュアはあいまいに答えた。
 アルシルは、わかりにくいが、悔しがっているのかもしれない。
「力ではかなわないわ」
 そんなことをぼやいていると、脇からハヅキが駆け寄ってきて首を突っ込んだ。
「アルシル大丈夫?」
「ええ。でも少し休むわ」
「じゃあジョシュア、次はオレとやろうよ」
 ジョシュアを広場の真ん中へ引っ張り出し、得意のナギナタを低く構えて向き合う。ジョシュアも左手の盾で剣筋を覆いながら体勢を整えた。
 ハヅキが一息に踏み込んで斬り上げて来たのを盾と剣の棒鍔ぼうつばを使ってしっかりと押し返す。その一挙手一投足が怖いくらい荒々しい。アルシルの言う通り今日のジョシュアの身のこなしは機敏でどこか常人離れした様さえあった。
 ジョシュアは内心気持ちが訓練どころではないくらい千々に乱れていて、それを自覚してもいた。
 なのに、理性が揺らいで情緒不安定になればなるほど戦闘能力だけは研ぎ澄まされていくのが不思議だった。
 訓練から帰って、宿舎の浴室で手足を洗っていたとき、壁に掛けられた鏡をふとのぞいた。
 左右反転した世界は薄暗い。そこに沈み切った面持ちの青年が立ち尽くしている。ジョシュア自身に間違いないのだが、どうも自分自身の姿でないような気味悪さを覚え、自分で自分の頬をなでた。当然鏡の中でも同じことが起きた。
(何やってるんだろう僕は)
 と馬鹿な考えを振り払おうとしても脳にこびりついて離れない。
(何者なんだろう僕は――
 それ以上考えてはいけないと、意識の奥から警笛が聞こえる。
 子供の頃は周囲からよくいじめられた。いじめられたと言ってもいろいろだろうが、それが単なる意地悪をされたとか巻き毛をからわれたとか、そんな世間によくある思い出ならどんなによかっただろう。
 ふいに鏡の中の自分の目が怪しく光ったように見えた。
!?
 錯覚だったに違いない。身を乗り出してよく確かめてみれば、常と変わらぬ青い瞳である。
―――
 ジョシュアは突然目の前に鮮明なフラッシュバックを見た。その中で、まだ少年だった己の瞳は澄んだ空のような青色から一転おぞましい艶と輝きを放ち、こちらを遠巻きに見つめている人々の嫌悪の表情はやがてすべて冷えきった無関心に変わった。
「う――
 ジョシュアは苦しげに体を折り曲げて、ふらつく足で勝手口から外へ出た。
 急いだ先は建物の裏で、人目に付かない陰へ入るなり激しく嘔吐おうとした。
「げっ、げほっ! げほっ!」
 き込みながら半ば放心状態と化している。体が自然と心を守ろうとしているように、自我意識が希薄になり先ほどのフラッシュバックの記憶もぼやける。
 よろよろと井戸へ向かった。
 くみ上げた冷たい水で顔を洗うとようよう気分が落ち着いてきた。
 日暮れが近い時刻で、井戸の上にも濃い影がしまを作っている。
 ジョシュアはティティスのことを考えた。帰ってくるにはまだ早いだろう。帰ってきたところで――上手く接する自信はない。
 今朝ティティスの言葉に傷付いた理由に思いをせ、自分の身勝手さを恥じた。
(ティティスに出会ったあのとき、あの子を助けてあげようと思ったのは)
 きっとティティスに自分と似たものを感じたからではないだろうか。エルフの森を飛び出して人間世界に一人ぼっち。そんなティティスとなら友だちになれそうだと。
 それどころか彼女を庇護ひごしているつもりでいい気になっていた。
(全部僕の独りよがりだ)
 ティティスにとってジョシュアは所詮他種族の人間の一人にすぎず、特別な存在でもなんでもなかったのだ。それが当然だろうに、ティティスの口から直接言われると裏切られたように感じた。そんなふうに感じる自分が嫌だった。
 こちらの期待の方がよほど手前勝手でずうずうしいのに。
(だけど、もう一度ちゃんと話して――ちゃんとお互いを知れたら)
 いいと思う。自分と同じだから、じゃなく自分とは違うティティスと友だちになりたい。
 ティティスに会いたくてたまらなかった。顔を合わせても上手く話せないかもしれないけれど、それでも会いたい。今夜もここに帰ってきてくれるといい。彼女と出会ったばかりの頃よりも強くそう祈った。
 ジョシュアは自室へ戻った。
 吐いたせいか胃の辺りが不快だったのでしばらく横になって休んでいた。
 と――
 ドンドンドン、
 とノックがあった。ドアを開けるとガレスが立っている。いかめしい面をこの上なく険しくして言った。
「出撃の準備をしろ」
「え?」
「サンドストームから急ぎの使者が来た。グリフォンが出やがったのさ。今度こそ仕留める。これから出るぞ」
 ジョシュアはさっと顔つきを引き締めた。
「わかった」
 とうなずきかけたがティティスのことが頭をよぎる。今ちょうど日暮れだ。ティティスが帰るまでに任務を終えられるとは思えない。
 だがガレスの怒鳴り声がジョシュアを現実に引き戻した。
「なにをぼんやりしてやがる! 急いで支度しろ」

9

 ぴょん、
 とティティスは太い木の枝へ降り立つと、少し休もうと幹を背にして座り込んだ。
 見上げるとこずえの隙間に透かして薄い紫色に染まった夕空が見える。そろそろ帰らなくては、傭兵団の宿舎に着く頃には日が暮れる。
 そうは思うが腰が重い。
 上着の胸元に入れた木の実を取り出してもてあそびながらため息をついた。滋養があり疲れや傷に効く珍しい果物で、それをジョシュアのためにと思ってたくさん取ってきたのだが、どう言って渡したらいいかわからない。
――はあ」
 今朝の出来事を思い出してまたため息が出た。
「やっぱりあたしがひどいこと言っちゃったのよね」
 あたしとあなたは違う、と言ったときジョシュアがあんなに悲しそうな顔をするなんて思わなかった。
「怒ってるのかな――
 ティティスはなんだか心細くて、膝を抱え込んで身を縮めた。
 もしジョシュアが許してくれなかったらどうしよう。と、エルフの森を飛び出して以来初めて不安と孤独に押しつぶされそうになった。
 初めて見たときは見渡す限り期待と希望にあふれていた広い人間世界も、今日は未知の敵の跋扈ばっこする未開の地のように思える。今までそんなふうに思わなかったのは――ジョシュアがいてくれたから、なのだろう。
 初めて会ったときからずっと親切にしてくれていたのに。それが特別なことだなんて今朝の今朝までわからなかったんだから、自分がいやになる。
(馬鹿よね、ほんと。ほんとに)
 エルフの森にいた頃、
「人間などというものは弱く愚かな生き物なのだ」
 と言ってはばからないエルフは少なくなかった。ティティスはそう言う輩こそ愚か者だと思っていた。
「人間とエルフが相容れるなど、太古の昔ならいざしらず今となっては不可能だ」
 ティティスは、自分は彼らとは違う自信があった。自分は人間世界でだってやっていけるはずだと。
 でもジョシュアの傷付いて寂しそうな面差しを思い出すと、そんな自信はしぼんで心のどこにも見つけられないほどになる。
(あたしも森のエルフと何も違わない)
 自覚はなくても、心のどこかで人間を見下しているのだろうか? あんなに閉鎖的だ排他的だと嫌がっていたのに、自分もそこで生まれ育ったエルフなのだと思い知らされた。しかもそれは一生変えられないことである。
 涙が出てきた。
 膝を抱えて顔をうずめ、一人ぼっちで静かに泣いた。
 どれくらいそうしていたものやら。
 梢で鳥の羽音が聞こえた。一羽のツグミが飛んできて、じっと動かないままでいたティティスの肩で羽を休めている。ティティスがそっと顔を上げても、恐れもせず小首をかしげるようにしている。
―――
 ティティスは涙のあとを上着の袖で拭った。
 もうすっかり辺りが暗くなっている。
(帰らなきゃ)
 と自分に言い聞かせはするが、ぐずぐずと立ち上がれないままでいる。
(ジョシュアもう訓練から帰ってきてるのかしら――
 あ、と思った。
(そういえば、あたし今までジョシュアの名前も呼んであげたこともなかったかもしれない)
 いつも「人間」とか「あなた」なんて呼んで済ませて。ジョシュアは優しくヴィオロンを鳴らすような声で、
「ティティス」
 といつだって呼んでくれていたのに。
 またも自己嫌悪に沈みそうになる気持ちを、ティティスは懸命に奮い立たせようとした。
「謝らなきゃ」
 でもなんて言って。
 それに謝ってもジョシュアは許してくれないかもしれない。
 次々去来するそんな不安を振り切ってティティスは地面へ飛び降りた。
(ちゃんと謝って――今度はお互いエルフだとか人間だとかそんなこと抜きにして、ちゃんと)
 友だちになりたい。
 ジョシュアに早く会いたくて、森の中を吹き抜ける風のように走り出した。
 ところが、傭兵団へ帰り着いたティティスは昨日までとは様子の違うことに気が付いた。玄関の前で足を止めて建物を見上げる。日が暮れたというのに明かりのもれる部屋は一つもなかった。
 いぶかりながら、建物に沿って宿舎の方まで見に行ってみたが、やはり人の気配が感じられない。ひっそりしている。
「こんな遅くまで訓練してるのかしら?」
 せっかくジョシュアに謝る決意をして勇んで帰ってきたのに、出鼻をくじかれてしまった。
「だけど朝は何も言ってなかったわよね」
 とはいえ気まずくてあまり話すこともできなかったから、聞きそびれたのかもしれない。
 困った。
 ティティスが考えあぐねてうろうろと歩き回っていると、建物の裏に面した一階の端のところに一つだけ明かりの見える部屋があった。鎧戸よろいどは閉じられているが、その隙間から細くランプの温かい光がもれ出している。
 ティティスは思わずそちらへ引き寄せられた。
(この部屋って確か――
「あそこはマールハルトの書斎だよ。勝手に入らないようにね」
 と、ジョシュアに教えられた部屋ではなかっただろうか。頭の中に建物の地図を思い描いてみた。
(やっぱりそうよ)
 鎧戸の隙間から中をのぞこうと顔を寄せても、ぼんやりと明るいだけで何もはっきりとは見えない。
 ティティスはちょっと考えてから、細い指の先で鎧戸をたたいてみた。

10

 コツコツコツ、
 と外から鎧戸を叩かれる音に気付いたマールハルトは、書棚の本を探る手を止めて音のした方を振り返った。
 初めは気のせいかと思ったが、耳をすませているとまた、
 コツコツ、
 と聞こえる。不審がりながら窓際へ行き鎧戸を開けた。
「きゃっ、あ、あの」
 窓枠に張り付くようにしていたティティスは急にマールハルトが現れたのでびっくりして陰に身を縮めるようにした。それでも物じはせずマールハルトをじっと見上げている。
 マールハルトの方も、見知らぬ娘の姿に驚いたようだった。白い口ひげがぴくりと動いた。
(これは――エルフの娘ではないか? どうしてこんなところに)
 と気が付き、驚きが増したが表情には出さなかった。一つせき払いしてから、極めて紳士的にティティスへ声を掛けた。
「何かご用ですかな?」
「あの、ええと、今日は傭兵団のにんげ――じゃなくて、皆さんはまだ帰ってこないんですか?」
「傭兵たちは任務で出払っておりますのでな。今夜は派遣先で宿泊することになりそうですが、彼らの内にお友だちでも?」
「ええ、まあ、その」
 ティティスは言葉を濁して答えた。ジョシュアの名前を出したら、後でジョシュアが怒られるようなことになるのではないかと思った。
「ところでその任務ってどんな?」
「近頃世間を騒がせているサンドストームの魔獣のことはご存知ですかな? 彼らはその討伐の任を果たしに向かっておるのです」
 と教えられ、ティティスは思い当たることがあった。エルフの森を飛び出してこの地方まで来た日、ジョシュアと出会った晩に群れからはぐれたオオカミを見つけた。オオカミは何かに追われたようでおびえきっていた。その魔獣ではないか? 森の頂点に立つ獣があれほど恐れていたのは。
「大丈夫なの? 任務って危険なことは――
「もちろんあるでしょうな。しかし我々にできることは彼らを信じて待つことですぞ」
 などとマールハルトが言うので、ティティスはかえって心配になってしまった。
(もしジョシュアに何かあったら謝ることもできないじゃない)
 そわそわ落ち着かず、マールハルトの目にもティティスが居ても立ってもいられない様子なのがわかった。
「お嬢さん――
 とマールハルトが声を掛けようとしたのとほぼ同時だった。
 くるっ、とティティスは勢いよくきびすを返して走り出した。長い金色の髪がひるがえるのをマールハルトはあっけに取られて眺めていた。
(一体なんだったのだ、あの娘は)
 キツネにでもつままれたような気分である。
 首をひねりながら鎧戸を閉めようとしたそのとき、どこかへ去ってしまったと思ったティティスが駆け戻ってきて、
「ねえ! サンドストームにはどう行ったらいいの!?
 とマールハルトに有無を言わせぬ血相で詰め寄った。
 一方――
 サンドストームへ到着した傭兵たちは依頼主の町長と面会し、作戦や負傷者の手当てに必要な拠点を町の広場に用意してもらった。
「それで今グリフォンはどこにいるんだ?」
 ガレスが町長から事情を聞いたところによると、
「町外れの森に隠れておるようです」
「おいそれじゃぁ」
「いえ、今度こそ逃がすまいと魔術師が森の入り口近くに結界を張りました。グリフォンはそこから出られぬはずです。町の衛兵が結界の周囲を見張っておるところです」
「なるほど、となるとグリフォンが現れるのを待つしかないか」
 ふん、とガレスはうなずいた。それからふと思いつき、
「その魔術師とやらは腕が立つのか?」
「ええ腕のいい魔術師ではあるのですが――その、このたびの騒動の原因になったのもその男でして」
「実験だかで魔物を作ったやつか。とんでもねえ野郎だな」
「はい全く。ですがその男なりに責任を感じたようでしてな」
「今どうしてる?」
「結界を張った際にグリフォンに襲われてケガを。教会で牧師の手当てを受けております」
「報いは受けたか」
 ガレスはその魔術師の様子を見に行ってみることにした。同じ魔術師ということで興味を持ったか、ミロードも同行した。
「魔術でキメラを作り出すなんてなまなかな技量じゃできないことよ。倫理的なことはともかくとして」
「頭のネジが飛んでるんじゃねえのかそいつは」
「優秀な魔術師ほど変わり者が多いとは思うけれどね」
「おまえもな」
「言ってくれること」
 教会へ着き、用件を伝えると司祭館へ案内された。
 魔術師の男は客間のベッドで休んでいるとのことである。ガレスとミロードは部屋へ入って男の様子をうかがった。案外まだ若い青年だった。
 魔術師の方も起き上がりこちらを一瞥いちべつした。金髪の前髪の隙間で顔をしかめるように目を細めてから、ベッドサイドに置いてあった眼鏡を取り、それを掛け改めてガレスたちを見た。
「あなた方は?」
「エステロミア傭兵団の者だ」
「傭兵団?」
 ガレスは自分たちの身分を説明し、グリフォンを討伐するために来たことも述べた。
「そういうことでしたか。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
 と魔術師はすまなそうに言った。
(思ったよりまともだな)
 ガレスは内心感心した。町ぐるみの騒ぎを起こすような男にしては驚くほど普通だ。
 ミロードが横から口を出した。
「ところであなたの張った結界というのはどういった類のものかしら? よければこちらで始末させてもらいたいのだけど」
「あなたはご同業ですか。私の結界はタリエシン等式から導かれる変換を基礎に――
 門外漢のガレスにはさっぱりわからない話がしばし続いた。ミロードはさすがに理解したようで、
「了解よ。あとはわたしたちに任せてちょうだい」
「よろしくお願いします」
 それだけでガレスとミロードは魔術師と別れ、仲間の元へ戻った。
 ガレスは鎧下に着替え戦支度を整えると、先に支度を終えて拠点で待機していたジョシュア、アルシル、ハヅキの三人を呼んだ。
「いずれは若いおまえたちが先頭に立たなくちゃならん。しっかり学べ」
 と厳しく言いつけてから、わずかに表情を和らげる。
「リラックスしていけ。ただし油断はするな」
 三人は力強くうなずいた。

11

 ジョシュアの手元が不穏な風を感じたようにぴくりと動き、右手を剣の柄へ伸ばしかけて止まった。
 アルシルがそれに気付いた。
「魔物が来たの?」
「わからない」
「あなたの勘は信用してるわ。こと戦闘に関してはときどき人間離れしているように感じるくらい」
―――
 そのときだった。
 町外れの方から、高らかな喇叭らっぱの音が暗い夜空へ向かって鳴り響いた。あらかじめ取り決めてあった合図であった。衛兵が魔物を見つけたに違いない。
「行くぞ」
 とガレスが床几しょうぎから鷹揚おうように腰を上げた。ナギナタを担いだハヅキが真っ先に飛び出していった。その後をジョシュアとアルシルも追った。
 ガレスはミロードとバルドウィンを振り返り、
「ミロード、バルドウィンを頼むぞ」
「任せてちょうだい」
「ほっほ、そう年寄り扱いするな」
「おまえたちは高台で俺が指示するまで待て」
 ガレスが駆けつけると、ジョシュアたち三人は森に程近い広場に集まっていた。
 ジョシュアが皆より一拍早く剣を振りかぶって構えた。
「来るぞ!」
 叫んだのと同時に空を黒い影が走る。
 影は広場を横切るほどの力がなく、半ば墜落するように戦士たちから少し離れた場所へ着地した。それでもその衝撃で皆が足をふらつかせそうになるほどの巨体だった。
 半身はわし。背に翼、らんらんと光る両目、鋭くとがったくちばしと爪は獲物の肉をやすやすと引き裂くだろうと思われた。そしてもう半身はたくましい獅子ししの姿をしている。まごうことなき立派なグリフォンである。
 グリフォンは戦士たちを威嚇するように獅子の後ろ足で立ち上がり、翼を大きく広げた。
「うわでっか――
 立った大きさは人間の身の丈をゆうに超え、腹回りも大人二、三人でようやく抱えられるほどもある。ハヅキが思わず気おされて声を上げると、
「それだけ的が大きいわ」
 とアルシルが冷静に答えた。が、声色にやはり緊張が感じられる。
「手負いのようね?」
 と言った通り、グリフォンは羽の付け根の辺りに傷を受けているようだった。
 ガレスが皆をいさめた。
「油断するんじゃねえ。追い詰められた獣は凶暴だ」
 突然グリフォンは大きな顎を開き喉の奥から耳を裂くような甲高い鳴き声を上げた。
「うわっ!! なんだよくそっ!」
 一番近くにいたハヅキがまず耳を押さえ、他の者もたまらずそれに倣った。
 グリフォンの鳴く声に上空から低い羽音が重なる。見上げると新たなグリフォンが羽をひらめかせ黒い影を作って雲間を横切った。
「ちっ、もう一頭来やがった」
 ガレスが忌々しげにうなり、
「バラバラになるんじゃねえぞ! 一頭ずつ片付けるんだ」
 と皆を集める。ジョシュアが駆け寄りながら叫んだ。
「ガレス、ミロードに援護を頼もう。二頭を一度には相手にできない!」
 角笛の音が天を伝わって後方に控えていたミロードたちの耳へ届いた。ミロードはすぐさま光り輝く宝玉をかざす。
 つむがれる呪文によって練り上げられた魔法の力は、二頭のグリフォンたちのすぐそばで赤々と燃え上がる炎に代わり、彼らを分断した。
 比較的小さい方のグリフォンが炎にひるみ後退しようとしたところへジョシュアとハヅキが飛び込んできた。
 ハヅキがナギナタを使って押さえ込もうとしたが、
「っ!!
 グリフォンの巨体に振り払われると小柄な体では踏ん張りが利かない。たやすく地面へ転げてしまう。
「ハヅキ!」
 ジョシュアが代わりにグリフォンの羽の付け根へ盾を叩き付けて乗りかかった。
 ハヅキも転んでもただでは起きない。体をうんと沈めたままナギナタを振るい、グリフォンの後足を狙った。
 二人がかりで押さえ込んだところへガレスとアルシルがとどめを刺すはずであった。しかしグリフォンの肉は思いのほか硬い。
「だめよ! 剣が通らないわ!」
 アルシルがたまらず声を上げた。
 そのときである。二頭のグリフォンを分かっていた炎の壁が不穏に揺らめく。間髪入れずもう一頭のグリフォンが炎をくぐり突進してきた。
「くそっ、一旦散れ!」
 ガレスが腹の底から怒鳴った。
「苦戦しておるようじゃな」
 と後方でバルドウィンが難しい顔をしている。
 ミロードは掲げた宝玉へ魔力を込めた。
「まずいわね」
 グリフォンに破られた炎を補おうと呪文を口にしかけたが、
 ヒョオッ、
 とそれを遮ってどこからか強い風が吹き込んでくる。普通の風ではない。
「これは」
 ミロードにはそれが魔術によって起こされたものだとわかった。
 風は戦士たちの戦う場まで一息に駆け抜けていくと、弱った炎をあおり元のように強く燃え上がらせる。それを見届けてからミロードは後を振り返った。
 ミロードとバルドウィンが待機している高台は小高い丘ほどのもので、街の広場と周りの住宅街の一部を見下ろすことができる。ここまで登ってくる細い坂道がある。登り切ったところに、ティティスが街の衛兵に連れられて立っている。だがミロードはまだ面識がない。
「今の魔術はあなたが?」
「ええ」
 とティティスは堂々と答えた。
「助けてもらったのはお礼を言うけれど、ここは危険よ。部外者は離れていてちょうだい」
「あの、それがですね」
 衛兵が口を挟んだ。
「この方はエステロミア傭兵団から来たとおっしゃるものですから。あなたがたにお会いしたいと」
 どうやらひょっこり現れたティティスにさんざんせがまれて、仕方なく連れてきたらしい。困りきった顔をしている。
「傭兵団から? そんなはずは――ちょっとあなた!」
 ミロードが止めるのも聞かず、ティティスはこちらへやって来て、グリフォンと戦う戦士たちの姿を見下ろした。
「よかった! 無事だったのねジョシュア」
 ティティスはここまでよほど急いできたのだろう。ブーツを泥だらけにして、どこをどう通ってきたのか体中に木の葉のくずをまとわせている。
「あなたジョシュアの知り合い?」
 と聞かれ、ティティスはミロードの顔を見上げた。何か答えようとしたが、ためらいが何も言わないままに口をつぐませた。「友だちよ」とは今はまだ答えられない気がした。
 ミロードは根気よく尋ねてきた。
「本当に傭兵団から来たの? あなた一人で?」
―――
 ティティスが答えあぐねていると、
「うわぁっ!! またかよ!?
 ハヅキの悲鳴と同時にグリフォンの耳をつんざく鳴き声が響き渡った。ティティスははじかれたように視線を戻した。
「いけない」
 グリフォンと戦士たちを取り囲む炎に一瞬ひるんだ。
 しかし、きゅっ、と口元を硬く結ぶと、ティティスは思い切りよくジョシュアたちの元へと斜面を駆け下りて行った。

12

 天を吹きくっていた風がティティスを中心に集まって渦巻く球になり放たれる。
 ものすごい風圧が、ジョシュアへ襲い掛かろうとしていたグリフォンを押し返した。ジョシュアが驚いて風の出所を確かめようとしたとき、
「ジョシュア!!
 と、この場で聞こえるはずのない声が聞こえたからもっと驚いた。
「わっ!!
 突然脇から飛びつかれて慌ててそちらを見るとティティスである。ジョシュアは戦闘の最中だということも忘れてあっけに取られてしまった。
「ジョシュア大丈夫? ケガしてない?」
「ぼ、僕は大丈夫だけど、君――
「ほんとに? よかった!」
 ティティスが力いっぱいしがみついてくる。それを引きはがすこともできず、ジョシュアは取り乱した。顔が赤くなっているように見えた。周りの炎のせいだけではないだろう。
「ティティス、君、どうしてここに!?
「だって、マールハルトが心配にさせるようなこと言うんだもの!」
「マールハルトがって――
 聞きたいことは山ほどあるが、グリフォンはこちらの都合に構ってはくれない。魔法を振り払って向かってきた。
「くっ!」
 ジョシュアはティティスを抱えるようにして逃れた。ティティスを炎からかばい、ようようガレスのそばまで来た。
「おいジョシュア! なんだその娘は。どこから紛れ込んできた」
「それは僕もわからないんだけど、か、彼女はその」
「なんだ知り合いか?」
「僕の友だち――
 と答えると、ティティスが腕をぎゅっとつかんでくる。
 ガレスは怪訝けげんそうに顔をしかめた。
「友だちだぁ? 一体どこの娘だ。お嬢さんよ、ジョシュアを心配してくれるのはありがてえが、ここは女子供の来るところじゃねえんだ」
 あんまり頭ごなしに言われるのでティティスもむっとして、
「なによ! 負けそうだったから助けにきてあげたのに!」
「遊びじゃねえんだぞ! 足手まといは」
 ガレスが言い終える前にティティスは風の呪文を唱え始め、空を切って現れたかまいたちがアルシルとハヅキを狙おうとしていたグリフォンを牽制けんせいした。
「足手まといになんかならないわ! 大丈夫だった? あなたたち」
「あ、ありがとう」
 助けられた礼を言ったアルシルとハヅキだったが、彼女たちもやはり驚きいぶかっている様子だった。ティティスは畳み掛けるように新たな呪文を唱えた。
「グリフォンは群れを作って行動する魔物よ。遠くからでも仲間を呼ぶわ!」
 さっきより一回り大きなかまいたちが、鳴き声を上げようとしていたグリフォンの喉を切り裂く。それでも死にきれずもがいていたが、アルシルが傷口に剣を向けてとどめを刺した。
 後方のミロードとバルドウィンもそれを見ていた。
「やりおるのう、あの娘。魔物との戦い方を心得ておるようじゃ」
 とバルドウィンが言った。
「こっちも負けてられないわね」
 ミロードが宝玉に魔力を注いで魔法の炎を繰り出そうとすると、しかしバルドウィンはそれを押しとどめ、
「まあ待て。あの娘の姿はエルフではないか? それならわしら人間の知らぬ戦い方を身に付けておるのも納得がいく。だとすればエルフに炎は禁物じゃよ」
「エルフですって? だけどこんな人里に現れるはずは」
「さて。そこまではな。ジョシュアに事情を聞かねばならんじゃろう。どうやらジョシュアだけはあの娘の正体を知っておるようじゃからの」
「そのようだけど」
「さあ、それではわしらもそろそろ皆の元へゆこうか。残ったグリフォンもじきにカタが付くに違いあるまい」
 残された一頭のグリフォンはハヅキのナギナタに動きを封じられ、ティティスの短剣に後足を縫われている。
 さらにジョシュアが盾で羽を押さえて剣を軟らかい首の後ろへ突き立てた。それが胸まで貫いてグリフォンは動かなくなった。
 皆は死骸から離れ、辺りの様子を慎重にうかがった。そしてこれ以上魔物が現れる気配がないと確信を得ると、
「はあぁー、やっと終わった!」
 とまずハヅキがナギナタを杖にしてへたり込んだ。が、
「おいこらハヅキ! だらしのねえ!」
 とガレスに怒鳴られ慌てて腰を上げた。話題をそらすようにティティスの方へ向き直った。
「と、ところで君すごかったね。魔法だけじゃなくて剣も使えるなんて。あ、オレはハヅキ。よろしく」
 ハヅキの差し出した手をティティスは取り、
「あたしはティティスよ。あなたも強いのね。さすが男の子――
「ティティス、ハヅキは女の子だよ」
 とジョシュアが横から耳打ちした。
「えっ、そうなの? ごめんね」
「いや、いいんだ慣れてるから――
 そう言いつつもちょっとため息が出たハヅキだった。
 やがてミロードとバルドウィンが合流した。
「済んだようじゃな。皆ケガはないか?」
「かすり傷よ。おかげさまでね」
 アルシルが剣を拭って収めながら答え、ちらりとティティスを一瞥いちべつする。
「ほっほ、それは何より。それでは傷を癒してむくろを片付けた後でゆっくり事情を聞かせてもらおうかの。のうジョシュア」
「うっ」
 皆の視線が一斉にジョシュアとティティスの二人へ集まる。
 ティティスはいたずらがばれた子供のようにジョシュアの背へ隠れた。
「ちょっ、ティティスまで僕に弁解を押しつける気かい?」
「だって」
「だってじゃない」
 と一旦は言ったジョシュアだったが、ふいに愛おしげなまなざしでティティスを見つめて言い直した。
「今度だけだからね」
「え? いいの? ほんとに?」
「本当に今度だけだよ」
 なんだか不安になってジョシュアは念を押した。
「はっはっは、これはじっくり話を聞く必要がありそうじゃな」
 バルドウィンが快活に人の良さそうな笑い声を上げると、その場の空気も自然と和んだ。

13

 数日が過ぎた。
 魔物騒動の治まったサンドストームの街は活気にあふれ、広場にまで行商人の露店が出たり大道芸人が客を集めたりしている。商魂たくましい者は退治されたグリフォンの羽(本物かどうかは疑わしい)を魔除けと称して売っていた。
 ティティスはジョシュアに連れられてそれらをひと通り冷やかして回ると、石造りの水辺に並んで腰を下ろして一休みした。
「ありがとうジョシュア、せっかく休みの日だったのに付き合ってくれて」
「約束してただろう? 今度案内するって。この間はグリフォン退治で全然それどころじゃなかったから」
「うん」
「あのときはまさか君が駆けつけて来るなんて思わなくて、まだ何の予定も考えてなかったしね。それにしてもマールハルトの書いた地図は街道を通るように印が付けてあったのに、あのときの君はあんなに泥だらけになって一体どこを通って来たのかと――
「もうジョシュア、その話はやめて!」
 ジョシュアはティティスに「人間」でも「あなた」でもなく名前で呼ばれると、なんとなくくすぐったそうだった。
「それで、どうだい? 街に来てみた感想は?」
 ティティスは興奮気味に顔を紅潮させて答えた。
「やっぱり人間の世界はすごいわ」
「そう?」
「そうよ! エルフの森にはないものばっかり! お店も大道芸も! こんなににぎやかなところ初めて見たわ」
「少しは森が恋しくならない?」
「ちっとも!」
 ジョシュアはしばし次の言葉を選んだ。いろいろ迷ったようだが、結局素直に尋ねた。
「ティティス、君本当にこのまま傭兵団に残るつもりかい?」
「ジョシュアまでそんなこと言うの」
 とティティスは口をとがらせた。
「マールハルトや他のみんなにも散々森に帰った方がいいって言われたけど、なんと言われたってあたしは帰りませんからね!」
 ジョシュアとティティスからこれまでの事情一切の申開きを聞いた傭兵たちやマールハルトはだいぶ驚いたようである。ティティスが森を飛び出して来たというので、送り返した方がいいと思う者も少なくなかった。
 ところが馬耳東風、ティティスはそんな小言は聞いて聞かぬふりで傭兵団に居着いてしまうつもりらしい。
「でも」
「なによ? あたしじゃ傭兵は務まらないとでも言いたいの?」
「いや、そんなことはないけれど。君の実力はこの間よくわかったしさ」
 ジョシュアはそれ以上言うのはやめておいた。ただ一言だけ、
「だけどティティス、つらいこともきっとあるよ」
 とつぶやいた。
「そうね」
 ティティスは真面目な顔になったが、ぱっと笑顔に戻り、
「でも傭兵団にいれば一人じゃないもの。ジョシュアと一緒ならむしろ楽しみだわ」
「ティティス――
 ジョシュアは次に継ぐ言葉に詰まった。伝えたいことはいくつもある。それを言葉にするのは難しい。
 悩んだ末、
「君は――すごいよ。とても。僕とは全然違う」
 と言った。
「ええ? 何も違わないわよ。そりゃ、あたしはエルフであなたは人間だけど、同じように生きてこうして意思の疎通もできるわけだし」
 二人は顔を見合わせた。
 先に口を開いたのはティティスの方だった。
「あ――ねえジョシュア、そういえばあたしこの前からあなたに謝らなきゃと思ってたことがあるのよ。なかなかタイミングが合わなくて言えなかったんだけど」
「僕に?」
「あたしあなたにひどいこと言っちゃった」
「? なんのことだい?」
 ジョシュアは首をかしげ、
「僕の方こそ君に申し訳ない気持ちだよ」
「どうして?」
――僕が初めて会った君を助けたのは、僕の独りよがりで君には余計なお節介だと思われてたんじゃないかって」
「そんなわけないじゃない! なんでそんなふうに思うのよ」
 二人は再びまじまじと顔を合わせ、困った。
「ご、ごめん、それこそ僕の独り合点だったのかな」
「あたしの方こそ」
 謝れば謝るほどどうにも居心地が悪くなっていくばかりだ。
「ジョシュア、謝り合うのはやめましょ。あたしはジョシュアが気にしてるようなこと気にしてないから、その、あたしのことも許してくれる?」
「もちろん。というか僕は謝られる心当たりがないよ」
 お互い許し合う証に握手して、この話はもうこれきり。ということにした。
 ティティスはジョシュアの右手を強く握り締め、
「それじゃ、改めてこれからもよろしくね」
「これからは傭兵団の仲間としても、ね」
 ジョシュアは優しく握り返した。グリフォンと戦ったあの夜のように愛おしそうなまなざしでティティスを見つめた。
 手を離したとき、ちょうど向こうから焼き菓子の入ったカゴを抱えた商人が高らかに売り声を上げてやって来た。ティティスは目ざとくそれを見つけて飛び跳ねんばかりである。
「ねえねえジョシュア、あれは? なに?」
「君も傭兵団の一員ならもう少し落ち着いてくれないと」
 とジョシュアがからかうと、
「いいじゃない、今日はお休みよ」
 ティティスはぴょんと立ち上がった。ジョシュアも腰を上げた。おおかた菓子を買わされるのだろう。
 菓子売りの振る客寄せのベルが、
 コロロン、
 と愛らしい音を立てている。ジョシュアとティティスが菓子を買うと、商人は祝福だと言って二人のためにもう一度ベルを鳴らしてくれた。

(了)