チョコレートのカップ

「やあ、今日の夜番は君だったかアイギール。寒い中ご苦労なことだ。どうだね温かい飲み物でも」
 アイギールが振り返って見ると、寝衣に上着を羽織っただけの姿の傭兵団長が、いやににこにこ笑いながら暗い廊下の真ん中に突っ立っていた。両手に、それぞれソーサーに乗せた小さなカップを二つ持っている。立ち上る白い湯気が夜目にもぼんやり見える。
 アイギールは黙って体の向きを直し歩いて行こうとした。
 傭兵団長の「なぜだ」とか「無視はないだろう」とか、慌てた声が背中に聞こえた。
―――
 アイギールはため息とともに踵を返して傭兵団長へ歩み寄り、右手からソーサーごとカップを受け取った。
「あなたに勝手に出歩かれちゃ夜番の意味もあったものじゃないわ」
 と、受け取りながらぴしゃりと言う。
「これを飲んだら眠る」
 傭兵団長はアイギールと肩を並べるように同じ窓の端へ寄りかかった。
 鎧戸は閉め切ってあって、月の明かりさえ入らない。
 小さなカップの中は、夜闇ではよくは見えないが、それだけに湯気とともに上ってくる甘い芳香が際立つ。
「チョコレートだわ。贅沢品ね」
「嫌いか?」
「いえ――好物よ」
 アイギールはカップの縁へ唇を押しつけた。チョコレートに混じったブランデーの香りを嗅ぎ、深く吸い込むとそれだけで体が温まるような気がする。
「チョコレートの見返りにと言ってはなんだが」
 傭兵団長が出し抜けに言った。
「せっかく二人きりで邪魔の入らない状況でもあるし、君を口説いても?」
「馬鹿馬鹿しい」
「何が馬鹿馬鹿しい。私とて生身の男、ときにはそういう気分にもなるさ」
「玄人の女性に頼みなさい」
「私が素性のわからない女に会うことなんて絶対にできないと知っていて言うんだから意地の悪い」
―――
「暇つぶしだと思って付き合っておくれ」
――好きになさい」
 アイギールの声はいかにもしぶしぶといった体であったが、それでも傭兵団長は嬉しそうにはにかんだ。
「何から始めようか」
 と、独りごち、
「そうだな、やはり、君は綺麗だ、といった辺りからかな?」
「月並みとわざわざ言うのも面倒になるくらい月並みね」
「仮面の下で輝く瞳が美しい」
「そう」
「その仮面を外した素顔が見たい」
 傭兵団長が目元へ伸ばしてきた手を、アイギールは片手で振り払った。
 別段気を悪くした様子もなく傭兵団長は続けた。
「強くてしなやかだ。君に刺し殺される男は誉れだと思わなければ」
「私のことばかりだわ」
「口説いてるんだから当然だと思うが?」
「自分のことは話さないの」
「とは?」
「普通、自分のどこを相手に買ってほしいのか、多少なりとも話すものだと思うけど」
「私には何もないぞ」
 傭兵団長は明快に言った。
 それからチョコレートを一口飲んで、ほ、と息を付く。
「何も、ということもないでしょう。あなたには地位も名誉もあるわ」
「それらは私の生まれに与えられたもので、私が自身の力で勝ち得たものじゃない」
―――
「何もない」
 と繰り返した。
「ただ、まあ」
 と、肩の力を抜き、
「それでも、私は私の主人であろうとはしているよ。私の人生を決めるのは、生まれでも、民の声でも、陛下ですら――ない。私の主は私の心以外にありえない。だから私は私の心が動くときを待つし、見逃さないように目を光らせている」
 傭兵団長がアイギールの方を振り向くと、彼女もこちらを見上げていた。が、目が合うとさっと顔をそらされてしまった。
 ただ、
「悪くないわね」
 と言ってくれた。
「本当に? 少しはぐらっときたか?」
「チョコレートの話よ」
 肩をすくめながら、傭兵団長はソーサーを持っていない方の手を窓枠に置き体重をかけて体を傾けた。
 アイギールは肩先に傭兵団長の体温を感じたが、特に逃げるような素振りは見せなかった。やがて頬に前髪の先がかかるほどにも近づいた。
 互いの息と息が触れる距離だった。
「奥歯に毒を仕込んであるわ。噛み潰せばほぼ即死よ」
 アイギールの赤い唇から滑り出た低い声が、傭兵団長のそれ以上の動きを押しとどめた。
 傭兵団長はしばらくその場でぐずぐずしていた。何か言いたそうに薄く口を開いたり、閉じたりしていた。が、やがて諦めたらしい。
「まだそのときではないようだ」
 アイギールから離れ、元のように体を起こす。
「毒の話が嘘だったとしてもな」
「賢明だわ、エステロミア傭兵団長」
 アイギールは飲み干したチョコレートのカップをソーサーに乗せ、傭兵団長へ返した。
「ごちそうさま」
「どういたしまして――
 受け取り際、ふいにアイギールが手元へ屈みこんできたと思ったら、半分ほど中身の残っていた傭兵団長のカップの飲み口へ軽く唇を押しつけた。
 驚いている傭兵団長に背を向け、
「それじゃ、あなたも飲み終わったら大人しくしてて頂戴」
 平時と変わらぬ颯爽とした後ろ姿で去っていく。
 背で傭兵団長のため息を聞いた。ため息ではあるが、不快ではない。
「ずるいなぁ。私にはあれだけクサい科白を吐かせておいて、君はたった一つの仕草で私の心を動かしてしまう」
 アイギールはじきに廊下の奥の闇に消えて見えなくなった。
 傭兵団長はチョコレートの残っているカップを持ち上げた。
 いささか冷めてしまっているようだ。それをそっと口へ運び、少しためらうようにしてから、一息に喉へ流し込んだ。

(了)