海賊たちの都

1

 右手に白のナイト。
 左手にはチェス盤上から黒のクイーンの駒を取った。今までクイーンがいたところへ右手のナイトを置く。
 ナイトのたてがみを指先でなでながらエステロミア傭兵団長は顔を上げた。本と書類と怪しげなアイテムの積み上げられた机の正面にジョシュアが立っている。ジョシュアの表情は困惑しきっていた。
「聞こえなかったか? ジョシュア」
「いえそういうわけでは」
「なら返事くらいしたらどうだ。引き受けてくれるんだろうな?」
「その、しかしですね」
「そんなに嫌か? たかが見合いじゃないか」
 見合い﹅﹅﹅の三文字にジョシュアはますます困ったように眉尻を下げた。
「あ、あの!」
「先方のお嬢さんにご挨拶して、観劇でも音楽でもエスコートして差し上げればよろしい。しかも費用は一切傭兵団持ちだ。タダでできるデートみたいなものじゃないか」
「いえあの、僕にはまだそういったことは早いと思うのですが! ――見合いとか、結婚とか」
「何を言ってるんだ」
 今度は団長の方が眉根を寄せた。
「誰がおまえの見合いだと言った。見合いの話が来たのは私にだ、私」
「え?」
「だが私も結婚なんかする気はない。といって話を突き返せる相手でもなくてな。形だけでも会ってやらねばならんのだ。そこでジョシュア、おまえ代理で行ってきてくれ」
 ジョシュアはようやくに落ちたらしい。
「そういうことでしたか」
 だとしてもよくよく考えてみればやっぱり変な話である。
――どうして僕が代理で行かなければならないんです? 団長が直接お会いになればよろしいのでは」
「まあ聞け」
 団長が語ったところによると、次のような事情であった。
 そもそもこの見合い話は、昨日、エステロミアのさる貴族からマールハルトを通じて団長の元へ届けられたものだった。
「見合いぃ? 断ってくれ」
 と団長は話を聞くそぶりさえない。机に覆いかぶさるようにして、傭兵たちに与える来週の任務を書面に記す手を止めずに言った。
「結婚なんて不自由なもの、私はする気はないぞ。首くくって死ぬのと変わらんじゃないか。どうせ墓場に行き着くんだからな」
「あなた様のご主義はともかく、そう簡単に突き返せる話ではございませんぞ」
 マールハルトは手紙を団長へ差し出した。封蝋ふうろうに押された紋章を見て団長の顔が曇る。
「ご覧のとおり、侯爵家よりの申し入れにございます」
「侯爵だろうが何だろうが、私に縁組を強制する権利などあるものか。だいたいどうしてこんなにいきなり。何か裏があるんじゃないのか」
「無論。先方も無邪気に縁談を勧めてきたわけではございますまい。おそらくは国王直属の傭兵団長であり、また王族の血を受け継ぐあなた様との縁組により、王家へ取り入る足掛かりとするためでしょう」
「は! 狙いは王家の血筋か! あさましい」
「仰せのとおりあさましきことでございますな。しかし侯爵家から公に申し入れられた以上、すげなく断るわけにもいきますまい」
 このあたりは微妙な問題である。下手な扱いをして相手方からにらまれては具合が悪い。といって言いなりになるわけにもいかぬ。
 傭兵団は過去にも貴族の紹介で――と言えば聞こえはいいが、一方的な口利きを通されアイギールを傭兵として受け入れた過去がある。
 マールハルトがひげの下で口を薄く開いた。
「アイギールは傭兵としてよく働いてくれておりますれば、こちらにも利がなかったわけではございませんでしたが」
「毎度毎度貴族の言うことを聞いてやるわけにもいかんだろう。なめられては可笑おかしくもない。ま――見合いというのなら、会うだけは会ってやって、その後適当に理由を付けて断ろう」
「それが良策にございましょう」
「ではそういうことで」
「今一つ」
「なんだ、まだ何かあるのか」
「あなた様をお一人で行かせるわけには参りませぬ。いつどこで刺客が現れるかわかりませぬぞ。決してお一人になられませぬよう」
 団長はあきれてかたわらに控えているマールハルトを見上げた。
「おい、まさか見合いの席にまで護衛を付けて行けと言うんじゃないだろうな?」
「いっそ、傭兵の中から選んであなた様の代理として行かせてはいかがでございます」
 とマールハルトは進言した。それなら危険はあるまい。
「侯爵閣下もエステロミア傭兵団長のお顔まではご存知ないはず」
「傭兵団に引きこもっているからな、私は」
 以上、団長がジョシュアへ語った事情の全容である。
「そういうわけだ、ジョシュア」
「はあ」
「ちなみにこれが見合い相手の身上書だ」
 ジョシュアは二、三枚の書類を押しつけられた。似姿などはなく文字ばかりだから、見たところでぴんとくるものではない。
「侯爵家のお血筋の方なんですか?」
「一応な。遠縁らしいが。おそらくは先方も必死で食らい付いてくるだろう。なんといっても王家の血と交わるチャンスだ。会って即既成事実を迫られるくらいは覚悟しておけよ」
「きっ、既成事実ですか?」
 ジョシュアは思わず身上書を取り落としそうになった。
「貴族なんて乱れたもんさ」
 と団長は冷めた口調で言った。
「まあ見合いの場でのことに私は関与するつもりはない。ジョシュア、おまえの判断で動くように」
「それは、あの」
「やりたかったらやっても構わんということだ。皆まで言わせるな。――ティティスが怖いなら別だが」
「どうしてそこでティティスが出てくるんです」
「どうしてって、おまえたちまだ一戦交えてないのか。仲がいいから私はてっきり」
「そんなことしていませんよ! 恋人同士でもないのに!」
 ジョシュアにしては珍しく大きな声を出した。頬から耳の端まで真っ赤になっている。団長の想像以上に初心うぶな反応だったから、半ば心配になって、
「ジョシュアおまえ、やり方はちゃんと知ってるよな?」
「団長!」
 こんなやりとりをいつまでも続けたところでらちが明かない。そもそも人の代理で見合いをするなんて馬鹿馬鹿しい話ではないか。
(断ろう!)
 とジョシュアが意思を固めたそのときであった。団長はすっと真面目な目つきになり、
「冗談はこのくらいにしようじゃないか。いいかジョシュア、今回のことは友人としての頼み事じゃない。傭兵としての任務だ。おまえにこの任を果たす能力があると思うから命令している。任務遂行のために最善を尽くせ」
 そんなふうに言われると、固めたばかりのジョシュアの意思はやすやすと揺らいだ。任務﹅﹅の二文字には弱い。そうでなくたってお人しである。
 しばらく視線を泳がせてためらっていたが、結局、
「お任せください」
 と引き受けるより他なかった。

2

「その話なら私にもありましたよ。団長のお見合いに代理で出席しろというんでしょう。私は断りましたけどね」
 とジュランはあっさりと言って、テーブルでうつむいているジョシュアへ歩み寄った。両手に温めたぶどう酒の入ったカップを持っている。片方をジョシュアへ差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
 受け取ったカップからシナモンの甘い香りがふわふわ立ち上っている。ジョシュアはひと口飲んでカップを置き、またうつむいてしまった。
 ジュランはジョシュアの正面の席へ座った。ぶどう酒が熱いのかカップの赤黒い水面を吹いて冷ましながらちびちびなめている。
「やっぱりジョシュアにお鉢が回りましたか。他に適任がいませんからね。ガレスやバルドウィンでは国王の弟君というには年を取りすぎていますし、キャスに任せるわけにもいかないでしょう」
「気が重いよ――魔獣討伐や盗賊退治の方がよっぽど気が楽だ」
「そんなに嫌ですか? 貴族のきれいなお嬢さんと一日デートして、費用は全額傭兵団持ち、しかも給料まで出るんですよ。いいことづくめじゃないですか」
「そう思うなら君が行けばいいのに」
「私は嫌です」
 ジュランはきっぱりと拒否した。
「女性のご機嫌なんてうかがえませんよ。彼女たちの言動にはそれを表す方程式とか法則性というものがありませんから」
 キィ――
 と食堂のドアが小さくきしむ音がした。
 見ると、細く開いたドアの隙間から黒猫が一匹室内へ滑り込んできた。まっすぐにジュランの足元へ近寄ってくる。
 ジュランは黒猫を膝の上へ抱き上げた。艶やかな漆黒の毛並みをなでてやると、黒猫は気持ちよさそうに甘えかかる。ジュランの手つきが一層優しくなった。
 人が変わったようとはこのことだろうか。眼鏡の奥で黒猫を見つめるまなざしはいとおしげに細められ、まるでしまりがない。が、愛情に満ちている。
(女性にもそういう風に接してあげればいいと思うんだけどな)
 とジョシュアは思ってそのことを口に出した。
「そういう風ってどういう風です?」
 ジュランは首をひねっている。自覚はないらしい。
 席を立ち、厨房ちゅうぼうからバターをひとかけら持ち出して黒猫へ与えた。黒猫はそれを悠々となめ、やがて満足するとジュランの膝を飛び降りた。
「実験室へ行っていらっしゃい。私もじきにもどりますから」
 という言葉が通じたのか、黒猫は、
 にゃあん、
 とひと鳴きしてドアから出て行った。
 ジョシュアがジュランへ尋ねた。
「これから実験かい?」
「ええ、ブランウェンの理論から導かれる魔術空間の実験的証明を思いついたので」
「よくわからないけど大変そうだね」
「ジョシュアの方は本日の予定は?」
「街の仕立屋へ行ってくるよ」
 見合いの服装を整えに行くらしい。仮初めにもエステロミア傭兵団長の代理というか影武者として出席するわけだから、それらしい格好をつくろわなければなるまい。
「わざわざ出向かなくても、仕立屋の方から来てもらったらいいじゃありませんか」
「今度の任務のことみんなには秘密にしたいんだ。見合いだなんて知られたら何を言われるか」
「ティティスにも?」
「ティティスはなおさら」
「ははあ」
 ジュランは何やら一人合点してうなずき、続けた次のセリフがジョシュアのそれと重なった。
「ティティスが知ったら面白がってずい分からかわれるに決まってる」
「浮気は気がとがめますものねえ」
「は?」
 ジョシュアはきょとんと目を丸くしている。
「違うんですか?」
「ち――違うも違わないも! どうしてみんなそう僕たちのことを勘違いしてるんだい?」
「だって二人とも仲がいいじゃないですか」
「それは友だちとしてだよ」
「まあジョシュアがそう言うならそれでいいですが。だけどなんと言うのでしょうね、ティティスにとってやっぱりジョシュアは特別なんじゃありませんか。エルフの森を飛び出して初めて知り合った人間なわけでしょう。それだけジョシュアになついているとでも言うべきか」
「かえったばかりの鳥のひなじゃあるまいし」
 雛鳥よろしく初めに出会ったジョシュアを追いかけ回している――それはそれで可愛いらしいような気がしなくもないが、
「なついてるなんて、そんなことを言ったらティティスはきっと怒るよ。自分は人のことをからかうくせに、自分がからかわれるとすぐ怒るんだ。たとえば僕がからかったりするとね」
「それは怒ってるんじゃなくて――いやまあ、私だって面と向かっては言いませんよ」
 ジョシュアは冷たくなったぶどう酒を飲み干し、腰を上げた。
「それじゃ」
 カップを厨房ちゅうぼうへ片付けて先に出て行った。
 ジュランもそろそろ実験室へ戻ろうかと考えていると、
 キィ――
 と入り口のドアがきしんだ。また黒猫がやって来たのかと思い、諭すように言った。
「先に実験室へ行っておいでと言ったじゃありませんか。鍵は開いていますよ」
 しかし予想に反して何も室内へ入ってくる気配はない。
 その代わり、ドアの隙間から長くしなやかな金色の髪とそれを束ねる赤いリボンがちらりとのぞいた。
 それに亜人種族特有の長くとがった耳の先も。
「あっ」
 と、ジュランが気付いたときには、ティティスがドアから顔を半分だけ出してこちらをにらんでいる。
「ティティス、いつからそこにいたんです。ジョシュアに会いましたか?」
「あたしには気付かずにどっか行っちゃったわよ。それより」
 ティティスはにこりと笑った――ように見えるが、その実目元が全くこれっぽっちも笑っていない。
「ジョシュアの今度の任務についてなんだかすごーく面白そうな話をしてたように聞こえたんだけど、あたしの気のせい?」
「うっ! 聞いてたんですか!?
 あっ、とジュランは慌てて口を押さえたがもう遅い。
 傭兵団の一室で団長が書類を書いていたところ、ふいにドアをせわしなくノックされ、
「どうぞ――
 答え終わりもしないうちにドアは開け放たれティティスが飛び込んできた。
「失礼しますっ! 団長!」
「な、何用だ、ティティス」
 ただならぬ剣幕に思わずびびっている団長の眼前へ、ティティスはつかつかと歩み寄り、
「話があるんですけど!」
 と気の弱い魔物ならそれだけで尻尾を巻いて逃げ出すような世にも怖い顔で迫った。団長に首を縦に振る以外の選択肢などあろうはずもない。

3

 見合いの日取りと場所が決まった。
 その日まであまり時間がなかったので、ジョシュアは街の仕立屋に頼んで大急ぎで礼服を仕立ててもらった。
 侯爵から指定された場所は、ブルーレイクにある侯爵家別邸である。
 エステロミア王国南部に位置する都市ブルーレイクは、サンドストーム、ノースハイムに次ぐ国内第三の規模を誇り、その名の示す通りの水上都市。市街の半分以上の面積を水路に覆われた美しい景色が自慢である。
 侯爵家別邸は街の西端に建ち並ぶ高級邸宅のうちの一つだった。屋敷の裏に庭の代わりに湖が広がっており、サロンからせり出したバルコニーに立つと、日の光にきらめく水面を遠くまで一望できた。
(ティティスが見たら喜びそうだ、きれいだって)
 とジョシュアは湖のまぶしさに目を細めながら思った。そのとき、
「お待たせを」
 通りのよい声がして、ジョシュアが振り返ると、侯爵がそばに白い上衣の貴婦人を連れて立っている。
 ジョシュアは二人へ丁寧に挨拶した。もちろん名乗るのは傭兵団長の名前と身分である。
――現在は若輩者ながらエステロミア傭兵団の団長を務めております。以後お見知りおきを」
 中年の侯爵は人好きのする笑顔でそれに答えた。
「まだ年若い方だとは聞いていましたが、まさかここまでとは思いませんでした。そのお年で国家の要職に就き重責を果たしていらっしゃるとは大したものです」
「恐れ入ります」
「いやしかし、こうなると二人の年のつり合いも取れて、なかなか似合いではないかね」
 侯爵は隣の貴婦人へ笑いかけた。貴婦人は控えめにほほえんだ。あまり多弁な性格ではないらしい。
 形式的な挨拶が済み、ジョシュアと二人きりになっても貴婦人は自分からは話し掛けようとしなかった。仕方ないのでジョシュアが先に口を開き、ひと通りの世辞を述べ、
「お会いできて光栄です」
 と言うと、貴婦人はようやく相好を崩した。
「わたしも。どうかそんなに堅苦しくなさらず、名前で呼んでくださいませんか。人には湖の婦人と呼ばれることが多いのですけれど」
「湖の」
「わたしここに暮らしておりますの」
 湖の婦人はバルコニーの手すりへつかまろうとした。ジョシュアはそれに気付いて右手を差し出し、
「どうぞお手を。石の手すりは冷たいでしょうから」
「ありがとう」
 湖の婦人はおずおずとジョシュアの手に手を置いた。その細い指先が小刻みに震えているのがジョシュアへ伝わった。
「いかがなさいました?」
「ご、ごめんなさい」
 と、そっと顔をそむけてしまう。
 湖の婦人は、見たところジョシュアと同じくらいの年頃である。貴族としては少々き遅れた感があるかもしれない。とはいえ決して不美人ではないし、天に恵まれた豊かな亜麻色の髪などは若い男の心をくすぐるだろう。密かなロマンスの一つくらいは経験していそうなものだ。
 湖の婦人は逃れるように手を離し、
「その、少し――気分が優れなくて」
「それはいけません」
 横になってお休みになっては――と促しかけて、はたと思い当たった。
(あ、そういうことか)
 親切心でとこを勧めて、それがもし既成事実を迫られるような事態に化けでもしてはたまったものじゃない。
 ジョシュアはどうにかおもてに笑顔を貼り付けて言った。
「外へ出てみませんか? 市街へ出て観劇でもいかがでしょうか。きっと気晴らしになりますよ」
「観劇なら侯爵閣下お抱えの劇団がありますから、ここへ呼んではいかが?」
「えっ。いえ、それは」
 参ってしまう。この屋敷に残るのはいろんな意味で危険そうだ。
 やむを得まい。
 ジョシュアは声をひそめ、ささやくようにして精一杯甘い声を作った。
「ここでは人目が――
――意外と強引なんですね」
「僕がお気に召さなければいつでも振ってくださって結構ですよ」
 というのは正直なところ本心からの言葉だったのだが、
「意地悪な方。会ったその日にそんなことをしたと知られたらよほど笑い者にされます。支度して参りますから、お待ちになって」
 湖の婦人がサロンを辞したのを見送ってから、ジョシュアは手で顔を覆ってうつむいた。今日一日こんなことを続けていたら顔面と声帯が筋肉痛になりそうだ。
 屋敷へ小船を呼んで、二人はブルーレイク市街地へ向かった。水路の多いこの都市では馬車よりも水上交通の方がよほど速い。
 市街は大変なにぎわいだった。特に劇場のある広場は大勢の人が盛んに出入りしている。観劇の客らしい紳士淑女から、それにすがっている物乞いまで、人の頭で先が見えないほどの盛況ぶりである。
「足元に気を付けて」
 ジョシュアは湖の婦人に腕を貸しながら、ふと誰かにこちらを見られているような視線を感じた。
 足を止めてこうべを巡らす。周りの人々はジョシュアたちには何の興味も示さずひっきりなしに行き来している。その濁流の中に、ぽつりと一つ赤い点があった。
 赤い点、と見えたのは真紅の上衣をまとった女性の姿だった。同じ色の髪飾りから垂れたベールで顔はわからない。彼女は劇場の入り口にそびえる高い柱の脇に立っており、ジョシュアに気付かれたと悟るや、さっときびすを返して劇場へ入った。
 ただその足取りがどこかおぼつかないというか、かかとの高い靴に手間取っている風で、何もないところでけつまずきそうにさえなっている。
(あっ、危ない――
 とジョシュアは不用意にも声を上げるところであった。が、湖の婦人に呼ばれて我に返った。
「どうかなさいました?」
――すみません、知り合いの顔を見つけたもので」
「ご挨拶なさらないの?」
「やめておきましょう。僕の身の丈に合わない女性と一緒だとからかわれるに決まっていますから」
 ジョシュアはもう一度ちらりと柱の方を見たが、もう真紅の婦人はどこにもいない。
(どうして僕たちを見てたのかな)
 マールハルトは見合いの席にまで傭兵団長の命を狙う刺客が現れるのでは、と心配していた。だからこそジョシュアが団長の代役を命じられたわけである。
(注意しておいた方がよさそうだ)

4

 劇場のホールはさほど広いものではないが、中央にせり出した舞台は金銀の象嵌ぞうがんで華美に飾られている。俳優たちもそれぞれに派手な衣装を着け、楽団の演奏に合わせて舞台上をところ狭しと動き回る。
 ジョシュアと湖の婦人は三階のバルコニー席から彼らを見下ろしていた。マールハルトが事前に良席を手配しておいてくれたので助かる。
 客席は満員であった。上流階級の人間が多いようだ。舞台の左右を三階まで囲むバルコニー席(桟敷席)はもちろん、舞台正面のグランド席(立ち見席)までも身なりのよい男女の姿ばかりだ。そんな様子を見渡して、ジョシュアはちょっと気がふさいだ。
「浮かないお顔」
 と隣に座っている湖の婦人がこちらの顔を見つめてくる。
「お芝居、退屈でいらっしゃる?」
「これは失礼を。そうではありません。ただ、客席を眺めていると、我々エステロミア傭兵団はまだまだ力が足りないのだと感じてしまうんです」
「なぜです? 傭兵団の武勇のおうわさは聞き及んでいますのに」
 ジョシュアは客層について感じたことを話した。
「そうですね、貴族や資産家の方が多いように見受けます。でもそれが?」
「それだけ庶民の生活には余裕がないということです」
―――
「戦争に踏みにじられ、昨今魔物や盗賊に脅かされている生活は決して楽ではないのです。我々はこうして娯楽に触れることもできますが、この国には今日の食事にも困る人々の方が遥かに多い。傭兵団に課せられた使命はいまだ達せられていません」
「使命」
「この劇場にさまざまな身分の人々が集まって一緒に観劇を楽しめるような平和を取り戻すことです」
「でも平和になったらあなたのお仕事はなくなってしまいます」
「それでいいんです」
 とジョシュアはきっぱりと答えた。
「いつかその日を迎えられることを祈って僕は戦っているのですから」
「あなたの奥様になる女性は苦労するでしょうね」
「そうかもしれません」
「正直者でいらっしゃること」
 湖の婦人は好もしそうに口元をほころばせた。ジョシュアはそれを見抜くほどロマンスにさかしくないらしい。穏やかにほほえみ返しただけだった。
――少し目を離した間にお芝居が進んでいますね」
 湖の婦人は身を乗り出して舞台を見下ろした。
 場面は外国の城で王子が王位継承問題のため命を狙われる幕である。黒い衣装の暗殺者が懐に鋭い小剣を忍ばせて王子の背後へ忍び寄る。
 だが実は王子の衣装を着ているのは彼の忠実な従者。従者は王子の身代わりに刺殺されてしまう。本物さながらの血糊ちのりが俳優の衣装を赤く濡らしていく。
「怖い」
 と湖の婦人は柳眉をひそめ、さりげなく右手をジョシュアの膝へ置いた。さすがにこれはジョシュアにも意味がわかる。
(うっ!)
 慌てて膝にある湖の婦人の手を取り、とにかく体から遠ざけた。婦人は笑い、
「強引に連れ出した割には紳士ですね。――もっと早くに出会えていればよかったのに」
 そう言ってふいに席を立つ。
「どちらへ?」
「なんだか外の風に当たりたくなりました」
「でしたら僕も」
「照れ隠しくらいさせてくださらない? 一人になりたいの。じき戻ります」
 湖の婦人はホールを出て、建物の中庭に沿った回廊を歩きだした。最奥まで進み楽屋口近くまで来たとき、
「遅かったじゃないか。従者が刺される場面になったら抜け出してくる約束だっただろう」
 と、柱の陰から声を掛けられた。湖の婦人は立ち止まり、辺りに人気のないことを確かめた。
「仕方ないじゃありませんか。席を立つ理由が見つからなくて」
「そんなこと言って、あの優男の傭兵団長と乳繰り合ってたんじゃねえのか。お盛んなことで」
「品のないことを言わないで!」
「あいにく、生まれてこの方ヒンなんてものは馬の声くらいしか知らねえよ」
 柱の陰から小柄な黒髪の男が姿を現した。俳優のような小洒落こじゃれたなりに変装しているが、目付きから口の利き方まで粗暴な雰囲気が漂っている。おおかたシーフ崩れの悪党だろう。
「まあ俺は頼まれた仕事をするだけだがな。ったく、傭兵団長の野郎があんたを観劇なんぞに誘ったから計画が変わった。屋敷で殺せりゃ楽だったのによ。新しい決行場所は――
 シーフが告げたのは市街の中でもずい分いかがわしい場所だったから、湖の婦人は顔をしかめた。
「その場所へ、あの方をお連れすればいいのですか」
「連れ込み宿の多い通りだ。うまく傭兵団長を誘い出してくれ。計画が失敗すりゃあんたも困るんだろう。あんたの親父さん、侯爵閣下からの資金援助がなけりゃ明日にでも身の破滅だ。できた娘のあんたは閣下の言いなりになるより他ねえと、憐れだねぇ」
「わたしのことには口を出さないで!」
 シーフは肩をすくめ、それから思い出したように言った。
「そうだ、念のため聞いとくが、あの優男が傭兵団長本人で間違いねえんだろうな」
「どういう意味です」
「あいつは影武者じゃねえのかって話」
「侯爵閣下はご自分の申し入れを傭兵団長が拒むはずはないと」
「どうも閣下は傭兵団をなめてかかってるが、やつらなかなか抜け目がねえのさ。俺たちの仲間もずい分苦しめられてる。あの優男、うわさに聞く傭兵団長にしては若すぎるようにも思える」
「そう言われても、わたしにはわかりかねます。ただ、あの方はお若くてもしっかりした紳士です。重責を果たすに足る方だとは思いますけど」
「あんたなぁ、情に流されねえようにした方がいいぜ。なんにせよ今夜にはあいつは死体になるんだ」
 コトリ――
 とかすかな物音がにわかに耳先を掠めた。シーフはほとんど反射的に懐のナイフを抜いて音のした方へ放っていた。
 投射された小さなナイフは細く開いた楽屋口のドアへ突き刺さり、蝶番ちょうつがいをきしませている。
「人の気配がしたように思ったんだが」
 念のためドアの外まで確かめた。裏通りにぽつりぽつり通行人があるが、怪しい人物は見当たらない。うつむいて歩く紳士、真紅の上衣とベールをまとった婦人、荷車を引く商人、そんなところだ。
 ドアを閉めた。
 それを見届けてから、真紅の衣の婦人はやにわにスカートの裾を抱え、かかとの高い靴を脱いで反対側の手に持つと、地面を蹴って走り出した。紳士と商人が仰天しているが構っていられない。
(今の話、ジョシュアに教えてあげなきゃ)
 風のように駆けて劇場へ戻る道を急いだ。

5

 ジョシュアが気配を感じて振り返ると、そこに立っていたのは外から帰ってきた湖の婦人ではなく、真紅の婦人であった。劇場の入り口で視線を交わしたあの女性だ。
 ジョシュアの青い瞳がわずかに陰る。
「そんな目で見ないで。隣座っていい?」
 と、真紅の婦人は鈴を振るような通った声で尋ねてきた。聞き覚えのある、というか耳に染みるほど聞き慣れた声だったが、それが目の前の婦人の姿と一致せず、ジョシュアは一瞬混乱して返事が出てこなかった。
「座るわよ」
 真紅の婦人は勝手に椅子を引いて座った。ちらっと後ろをうかがい、
「ジョシュアのお見合い相手、まだ帰ってこないとは思うけど。話し込んでるみたいだったから」
「君、誰?」
 とジョシュアは間の抜けた質問をして真紅の婦人をあきれさせた。
「何言ってるのよ、ジョシュア。あたしよ、あたし」
 言いながら、結い上げた髪のこめかみに留めてあった髪飾りを外してベールを脱いだ。輝く金糸のような髪が長い形の耳に掛かって揺れている。
 ジョシュアは、薄々勘付いてはいたものの、改めて顔を見るとやっぱり驚いて、
「ティ――!」
「しっ! 大声出さないで」
「んっ!」
 口元をふさいでいる細い手を引きはがし、声をひそめて言い直した。
「ティティス、どうしてここに!?
「だって」
 ティティスは物言いたげに口をとがらせた。手の中で赤い髪飾りをしきりともてあそんでいる。
「団長はここにいることを知ってるのかい?」
「もちろんよ。この服だって団長が用意してくれたもの。劇場に入れるようにマールハルトが手配もしてくれたんだからね」
「本当に?」
「本当」
「だったらなおさら、何しに来たんだい?」
「そ、それは、だって」
 ティティスは途端に歯切れが悪くなる。こう面と向かって聞かれて、まさか、
「任務でとはいえ! ジョシュアがお見合いなんかするって聞いていてもたってもいられなくて、団長やマールハルトにわがままを言って来たの!」
 そんなことを正直に話すわけにもいかない。まごまごしていると、
「もしかしてティティスも任務?」
 とジョシュアが素朴に首をかしげたので、そういうことにしておいた。
「そ、そう! 任務なのよ」
「どんな?」
「えっ、ええと」
「まあそれは無理には聞かないけどね。機密が漏れると困る。でも任務中にこんなところで油を売ってていいのかい」
「ジョシュアだってお芝居見て遊んでるようなもんじゃない」
「僕は見合い相手が帰ってくるのを待ってるんだよ」
――お見合い、楽しい?」
「へ?」
 ジョシュアは困った。そんなことを聞かれても。
「楽しいかって、楽しいも楽しくないも、任務なんだから」
 ティティスはその返答がなんとなくカンに障って、自分の気持ちを持て余した。
(どうして「任務だから」なんてごまかすような言い方するのよ)
「つまらない」と答えてくれたら嬉しかったのかもしれない。そうでなくたって、楽しいなら楽しいと素直に言えばいいではないか。
「相手の女の人、美人よね」
「そういえば見られてたんだっけ。うん、きれいな人だとは思うけど」
 それ以上の感情はない。という意味を含ませたつもりだった。
(僕の方からわざわざ恋愛感情の話をするのも変じゃないか。ティティスとはただの友だち同士なのに)
 ところがティティスはますます不機嫌そうに顔色を曇らせる。
「けど?」
「え?」
 ティティスはジョシュアをにらみ、
「きれいな人だから何? 好みのタイプ?」
「それは」
「あの人」
 ジョシュアの命を狙ってるのよ! 表は美人でも裏ではひどいんだから!
 と言いかけて思い直した。
 そういう言い方は、まるで子供が学校の先生に嫌いな子の告げ口でもするみたいじゃないか。格好の悪い。ティティスが自尊心と戦ってぐずぐずしているのを見て、ジョシュアは不可思議そうにしている。
「どうかした?」
「なによ! 元はといえばジョシュアがはっきりしないから――!!
「ちょっ、ティティス、声が大きい」
 ジョシュアはティティスの口元を押さえた。さっきとは反対である。
 隣のバルコニー席に座っている貴族らしき身なりの男女がこちらを白い目で見ている。痴話ゲンカだとでも思われているのだろう。
 ジョシュアは彼らに愛想笑いを返して、しばし迷ったのち、
(仕方ないな)
 思い切ってティティスの背中を抱き寄せた。
「きゃっ! ジョシュア?」
「任務中だよ。悪目立ちすると困るだろう? この方が目立たないよ」
 なるほど劇場内の薄暗さをいいことに客席で身を寄せ合っている男女は多い。隣の貴族たちだってぴったりくっついて座っていて、迷惑そうにしていたのは騒がれると恋のささやきが愛人に届かないからに違いない。
「これなら大声出さなくても聞こえるしね。で、ティティス、僕がなんだって?」
 とジョシュアはささやいた。耳に息がかかるほど二人の距離が近い。
 ティティスは咄嗟とっさに答えられず、思わずそむけた顔に血を上らせた。
「ティティス?」
 間近で名前を呼ばれるだけで胸が痛いほど高鳴った。
「あ、あの、ジョシュアのお見合いの相手、そろそろ帰ってくるかも――
「こんなところ見られたら振られるだろうね」
「いいの?」
「いいよ、僕は」
 ティティスが腕の中で身じろぎした。ジョシュアは柔らかい感触に戸惑って、ティティスの背中に置いていた手を少し浮かせた。
「まあ、でも、団長の評判に傷を付けちゃまずいかな」
「そうね」
「それより、ティティス、怒ってたんじゃないの?」
「うん――でも、もういいの」
 ティティスはきものが落ちたようにあどけない表情でジョシュアを見上げた。すると今度はジョシュアの方が照れて目をそらした。

6

「ジョシュア、あなた命を狙われてるわよ」
 とティティスが告げると、ジョシュアはいぶかしげに問い掛けてきた。
「なんだって? どういうことだい」
「正確に言うと、あなたを団長だと思い込んで殺そうとしてるやつらがいるの。今日のお見合いがそもそも団長を暗殺するために計画されたってわけ」
「詳しく教えて」
 ジョシュアは声を一段低くした。こうなると身を寄せ合っているのは密談に都合がいい。
 ティティスは楽屋口で見聞きしたことを余すところなく伝えた。
「マールハルトが観劇に来るように勧めてくれたことにお礼言った方がいいわよ。もし侯爵家の別邸に残ってたら、今頃どうなってたことか」
「計画の首謀者が侯爵自身だっていうのは確かなことなんだろうね?」
「残念ながら証拠はないわ」
 と冷静に答えた。
「あたしはあの二人が話してるのを聞いただけ。証拠にはならないと思う。あの二人を捕まえたとしても、侯爵は二人をトカゲの尻尾みたいに切り捨てておしまいじゃないかしら」
「それでも、できる限り敵を捕らえて傭兵団へ報告しよう。そこから侯爵までたどり着けるかは、団長やマールハルトの手腕に任せるしかない」
「ええ」
 ティティスは言葉を選ぶように、小さな口元を薄く開いては閉じた。
「何?」
「ジョシュア、やっぱりショックかなーと思って。お見合い相手が暗殺計画に加担してたなんて。彼女にもいろいろ事情はあるみたいだけど」
「悪いけど僕はそこまでお人しじゃないよ。自分を殺そうとしてる相手に情けはかけられない」
「あたしだってそうだけど――ちょっとかわいそうだとは思うわ。彼女、お父さんがお金に困ってるみたい。そこに侯爵がつけ込んだのね。彼女の他にも同じように侯爵につらい目に遭わされてる人がいるかもしれない。腹の立つ話よね」
「それにしても、なんだってまた楽屋口になんか隠れて彼女たちの話を盗み聞きしてたんだい?」
「えっ、あのっそれは」
 ジョシュアの見合い相手がどんな女性か知りたくてつけ回していた、などとは口が裂けても言えない。
「じ、実はそれが任務だったの」
 と苦しまぎれに言った。
「暗殺計画の情報の一端を傭兵団は事前につかんでたのよ。でも敵を油断させるために、ジョシュアにはそのことは知らされてなかったわけ。敵をあざむくには味方からってね。その代わりあたしが護衛と調査のために派遣されたの」
「やれやれ、僕はほとんどおとりも同然だったってわけだ」
 ジョシュアはさほど気を悪くした風ではなく、
「だけどそういうことなら、任務にやりがいはできたね」
「あたしも助けに行くし、危なくなったら守ってあげるから」
「頼りにしてる」
 とはいえ、ジョシュアの方も何の装備もしないのでは心もとない。
「丸腰じゃさすがにね」
「じゃあ、あたしの貸してあげる」
 ティティスは事もなげに言ったが、見たところどこにも武器は持っていない。
「隠してあるのよ、ここに」
 と太ももの脇をぽんぽんとたたく。どうやらティティスが扱いにける小剣をペチコートの下にひそませているらしい。
「二つ持ってるから、一つジョシュア持ってて」
 ティティスがスカートをまくり上げようとしたとき、ふと横から視線を感じた。振り向くと、先ほど白い目でにらんできた隣のバルコニーの貴族たちがまたこちらを見ている。彼らの目つきは下世話ににやついていた。絶対何か勘違いしている。
「やだっ!」
 慌ててスカートを下ろした。
「隣の人がこっち見てる。ジョシュア、見えないようにそっちの裾から手を入れて取ってくれない?」
「はぁ!?
 ジョシュアはあからさまにうろたえてしまった。
「ちょっとジョシュア、変なこと考えてるでしょ!? 剣を取るだけだからね!」
「いや考えてない! 考えてないけど」
「だったら早くして! 時間がないわ」
 ジョシュアは観念した。
「こんなこと――いくら必要に迫られてとはいえ、他の男には軽々しくさせないで」
 それってどういう意味、と尋ねる前に、ティティスはスカートの裾から冷たい風が忍び込むのを感じた。
 ジョシュアの右手がペチコートの中をせり上がってくる。肌には一切触れずに太ももに隠した小剣にたどり着いた。
「これだね」
「うん。留め金を外せばさやごと取れるから」
 太ももへベルトで固定した鞘の脇に掛け金が付いているのだと言う。
 ジョシュアの手がそれを探った。全く他のところへ触らないわけにもいかず、ときおり指先が滑らかな肌をかすめる。
 ぴく、とティティスがかすかに震えた。ジョシュアはティティスの顔を見た。その表情を見つめているうちに胸の奥で暴れ出しそうになった不埒ふらちな獣を黙殺した。
――ここ?」
 ジョシュアはようやく掛け金を探り当てた。パチンと高い音がした。小剣の一つが鞘ぐるみ手の中へ収まる。
 ジョシュアがそれをトラウザーズの背へ隠している間に、ティティスはスカートとペチコートの裾を直した。
「ねえ、ジョシュア、さっきのどういう意味? 他の男の人にこんなことさせないでって」
「それは、つまり信頼してる男性以外にこんな行為を許しちゃよくないってこと。僕も含めてね」
「ジョシュアのことは信頼してるわ」
「僕みたいな友だちじゃなくて、ティティスが本当に愛してる男性にだけさせてあげなよ、という意味で言ったんだ」
「ふうん。心配いらないわよ。今までだって誰にもさせたことないし、これからもさせないから」
 ジョシュアはいくらかためらいながら、なぜか弁解するように言った。
「僕も初めてだった、女性のペチコートに手を入れたなんて」
「じゃあジョシュアもこれからは本当に好きな人にだけしてあげてよね」
「うん」
 ティティスが顔を寄せてきた。
「ジョシュア、お芝居が終わったらあなた別の場所へ誘い出されるわ。そこで暗殺計画が実行されるの。気を付けてね。信じてるから」

7

 湖の婦人が帰ってきたとき、ジョシュアは一人でぼんやりと舞台を眺めていた。湖の婦人の姿すらすぐには視界に入らなかったほどである。
「これは、失礼を」
 ジョシュアは急いで立ち上がり、彼女のために椅子を引いた。
「ありがとうございます」
 湖の婦人はジョシュアの顔色をちらと盗み見た。やはり自分が席を外す前に比べてよそよそしいように思える。根拠はない、ただの勘だが。
(様子がおかしい。まさか計画のことを悟られたんじゃ)
 楽屋口で誰かに見られたような気がしたのは、ジョシュア自身ということはないだろうとしても、傭兵団の手の者だったのでは? と湖の婦人はうがった。一つカマを掛けてみようと考えた。
「あの」
「なんでしょう?」
「わたしが外へ出ている間に、こちらへ誰かいらっしゃいましたか?」
「え? いいえ」
「でも椅子に髪の毛が」
 と、白い指先に髪をつまんだ振りをする。実際には何も落ちてはいない。
「わたしの髪とは色が違うようですけれど」
「きっと僕たちの前の客が落としたものでしょう」
 ジョシュアは極めて自然に答えた。
(嘘ではなさそうに思える。わたしの思い過ごしだったのならいいけど)
 くすくすと忍び笑いが聞こえて顔を上げると、隣のバルコニー席の男女がこちらを見てひそひそささやき合っている。湖の婦人には理由がわからなかったが、ジョシュアには想像がついた。
(僕はあの人たちに相当誤解されてるんだろうな)
 夕刻近くなった頃、舞台の最終幕がようよう下りた。
「出ましょうか」
 とジョシュアが促す。それを待っていたように、湖の婦人はうつむき、精一杯色っぽい声色を作った。
「こんなことを言うとみだらな女だと思われるかもしれませんけれど、わたしなんだか帰りたくないんです」
「帰るんです、湖のそばのあなたの家へ。それがあなたのためですよ」
「お願い――
 湖の婦人はジョシュアの胸へ身を投げ出してきた。ジョシュアは避けこそしなかったものの、抱く気はないらしい。冷めた声で、
――わかりました」
 とうなずき、二人は劇場を後にした。
 来たときと同じように水路を走る小船を頼み、行き先は湖の婦人が告げた。
 ジョシュアは終始黙り込んでいた。
 やがて目的地へ着き、二人は船を下りた。ジョシュアが先に下り、湖の婦人へ手を貸した。
 猥雑わいざつな歓楽街の裏通りである。統一性のない造りの宿が建ち並んでいる。それなりに上品なものもあるが、大半は古び薄汚れた二階建ての建物だった。表通りで娼婦しょうふが客を呼ぶ甲高い声がする。
 細い水路に面した裏通りには人気がない。ように見えるが、ジョシュアはとっくに見抜いていた。
「出てきなよ。隠れてるのはわかってる」
――おいおい、殺されに来たってのか?」
 夕日によって濃い影の落ちている路地から黒髪のシーフが鷹揚おうように歩み出てきた。湖の婦人を一瞥いちべつし、
「あんた、いったいこの優男に何て言って連れてきたんだ」
 湖の婦人は困惑げに目を伏せた。
「まあいい。ここまで連れてきてくれたんだ。口実はなんだって」
 シーフは腰から短剣を抜いて右手に構えた。
 同時に路地から仲間と思しき盗賊たちが五、六人ばかり静かに姿を現して、ジョシュアを取り囲んだ。

8

「一人を大勢で囲むなんて卑怯ひきょうだと思わないのかい?」
 とジョシュアは落ち着き払って言った。
「戦術と言えよ。敵を囲い込むのは基本中の基本だ」
 シーフも余裕たっぷりに答えた。
 突然、ジョシュアの背後を狙っていた盗賊の一人が一気に距離を詰めて短剣を突き込んでくる。
 刃と刃のぶつかり合う金属音が響く。
 ジョシュアはトラウザーズの背に隠していた小剣を抜いて一撃をはじき返していた。そのまま小剣のポメルで相手のみぞおちを殴打する。
「かはっ!」
 盗賊がうめいて前のめりに昏倒こんとうしたのが合図になった。
 四方から一斉に盗賊たちが踊りかかってくる。
 先頭の者から順にジョシュアに身をかわされ、利き腕を取られ、武器をたたき落された。
 シャッ!
 と空を切って投射された短剣がジョシュアを狙った。
 ジョシュアは正確無比な身ごなしと足さばきでそれをかわした。路面を蹴り再び踏みしめた靴底が、カツンと小気味のよい音を立てた。
 短剣を投げたのは頭目のシーフであった。外したと悟るや間髪入れず次の短剣を抜いて切りかかってくる。
 ジョシュアが小剣で受け止めると、シーフは後ろへ飛びのき、追撃を仲間へ任せて素早く呪文を唱え始めた。
 ざ――
 と風がざわめく。
「うっ!?
 次第に強く吹き付けてジョシュアや盗賊たちの視界と自由を奪った。水路の水面を波立たせ、川下からやって来る小船の舳先へさきは狂ったように暴れる。
「もらった!!
 シーフが喜悦に顔をゆがませながら叫んだ。
 上空から降り注ぐ乱気流がジョシュアを細切れに切り刻んで終わる。はずであった。
 突如気流はコントロールを失って霧散した。
 そして次の瞬間に再び集まり鋭いかまいたちへ形を変える。
「な――!?
 かまいたちは目にも止まらぬ速さでシーフへ襲い掛かり、両脚のけんを切断した。
 シーフが路面へ倒れ込む直前、目に映る景色へ真紅のスカートが踊った。水路を上ってきた小船からティティスが身軽に通りへと飛び移った。
「おまたせ」
 といたずらっぽく笑ってジョシュアの背へ背を預ける。
「ティティス、助かった」
「お礼は後でね。さて、あとは三下ばっかりってとこかしら」
 こんなことってあるだろうか。
 呆然ぼうぜんと立ち尽くしてその光景を見ているしかなかったのは、湖の婦人である。
 ぐいっ、
 と足首をつかまれて我に返った。ギクリと身を硬くする。足元を見ると、脚をやられたシーフが地をいつくばってここまで来て、血走ったまなざしでこちらを見上げている。気迫と切願のこもった視線に湖の婦人は我知らずのまれた。
 ほどなく全てが片付いた。
 無事で立っているのはジョシュアとティティス、それに湖の婦人だけ。盗賊一味は一人残らず土をめている。皆息はあるようだが、ひどい有様である。
 ジョシュアは湖の婦人へ近づいた。
 湖の婦人はおびえたように後へ一歩下がった。
「許して――
「あなたに危害を加えるつもりはありません。ただ僕たちと一緒に来て、事情を知る限り話してもらいます」
「仕方がなかったんです。こうしなければわたしの家族は」
「本当にそうでしたか」
 とジョシュアはいささか冷たい言い方をした。
「本当に侯爵の言いなりになって人の命を奪おうとする他に道はなかったのですか。なぜ戦おうとしなかったんです」
――誰もがあなたのように勇敢に戦って生きているわけではありません」
 湖の婦人は寂しげに言った。
 覚悟を決めたのか、ゆっくりジョシュアへ歩み寄ってくる。
 背に隠し持っていた短剣をいきなりジョシュアの喉元目掛けて突き込んだ。その短剣はシーフが用いていたのと同じ物に相違なかった。
 ジョシュアは不意を突かれた。
 一陣の赤い疾風が吹く。
 湖の婦人の短剣がジョシュアに届くことも、二度とそれが振るわれることもなかった。ジョシュアとの間に風のように飛び込んできて立ちはだかったティティスが湖の婦人の首に小剣を突きつけ、冷徹なエルフの瞳で見つめている。
「あなただって闘志は十分じゃないの。ただし相手が悪かったわね」

9

 街の衛兵所から応援が呼ばれ、湖の婦人と倒れている盗賊たちは残らず捕らえられた。ケガをしている者は手当てもしてやらねばならない。大事な証人だ。
 その上で使者を立て、エステロミア傭兵団へ急ぎ事態を報告してくれるよう頼んだ。
「やれやれ、大変な見合いになったよ」
 とジョシュアはぼやいた。
「ティティスがいてくれて本当に助かった」
 隣でティティスがはにかんで笑い、
「ジョシュアなら大丈夫だって信じてるから、あたしもちゃんと助けてあげられるのよ」
「ありがとう」
「お互い様じゃない」
 照れ隠しなのだろう。ティティスは、ぽんとジョシュアの肩をたたいた。
 ジョシュアは顔を赤らめて、
「ティティス」
 とその手を離させた。というのも、二人がいるのはまだ歓楽街の近くで、その手の宿屋がこうこうと明かりをともしているのだ。別に下心があるわけじゃなくても気恥ずかしい。
 ジョシュアはティティスを劇場で抱き寄せたことやペチコートの下へ手を入れたことを思い出して、渇きを覚えそうになる心を理性で押し殺した。
(そういうのじゃないんだ、僕たちは)
「ティティス、こんな場所では周りにどんな勘違いをされるかわからないよ」
「こんな場所って?」
 ティティスはきょとんと首をかしげている。
「宿屋がいっぱいあるのはわかるけど――普通と違うところなの?」
 冗談でもなんでもなくここがどんな街か知らないらしい。
 ああ、とジョシュアは思い当たった。
(そうかエルフの世界にはこういうところはないのか)
 エルフの森に歓楽街なんて聞いたことがない。閉鎖的なエルフ社会を飛び出して人間の世界になじみ始めたばかりのティティスが知らないのも道理である。
 思い当たって、同時に可笑おかしくなってしまった。どぎまぎしていたのは僕の方だけか、と自分の道化ぶりが滑稽だった。
「ジョシュア、なに笑ってるのよ。あたし変なこと言った?」
「違うんだ。変なのは僕の方。というか、あの、一応教えておいた方がいいと思うんだけど、この街は――
 ジョシュアは小声でここがどういう場所か教えた。遠回しな言い方だったが、ティティスは正しく理解したらしい。急にうろたえて、
「あっ、そうなの」
「うん――だからもう行こうか」
「えっ! ど、どこへ?」
「どこへって衛兵所へだよ」
 ティティスは何を期待していたのか知らないが、
「そ、そうよね。衛兵所――
 と心なし残念そうにうなずいている。
「これからもう一仕事しなくちゃならないよ。傭兵団から指令があるか、それとも団長が直接指示を出しに来るかわからないけど、捕まえたやつらをそのままにしておくわけにはいかないからね」
「わかってるわ」
「じゃあ行こう」
 ジョシュアはティティスへ右手を差し出した。
 ティティスがその意味をくみかねてまごついていると、
「慣れない靴で歩きにくいんじゃないかと思ってさ。劇場の入り口でも転びそうになってただろう?」
「いやだ見てたの?」
「危ない、って声を上げるところだったよ」
「カッコ悪いとこ見られちゃった」
 ジョシュアはにこりと笑った。細まった目元が優しい。
「どうぞお手を」
 ティティスは少し恥ずかしそうにジョシュアの手を取った。
 路面に伸びる二つの影が一つになった。二人が歩きだすとその影も揺れ動きながら後を追って行き、いつしか見えなくなった。

(了)