駆け引き
「独り寝が寂しけりゃいつでも訪ねて来てくれていいんだぜ?」
と耳元でやたらと色っぽい声を作っているリオンをミロードがひとにらみすると、それだけで火の粉が宙を走った。比喩ではなく現実にである。
「だあち! あっち!」
リオンは慌てて前髪の先に点いた火を払った。髪の焦げる臭いが鼻につく。
「おいミロード、今日は虫の居所が悪いな? 月のものでも来そうなのか?」
「ママと一緒じゃなきゃ眠れないぼーやと一緒にしないでちょうだい。さっさとベッドに入って寝るのよ、ぼく」
ミロードは振り向きもせずさっさと階段を上って行ってしまった。本当に今夜は機嫌が斜め向きらしい。
後からアイギールがやって来て通りすぎようとしたので、リオンは同じような軽口をたたいたが、
「――リオンはヒ素とトリカブトどっちが好きかしら?」
とか怖いことを言われたので、さすがのリオンも黙ってしまった。
ちぇ、とため息をついて階段を上った先にハヅキがいた。手すりに腕を乗せ、その上に顔を置いて半目でリオンをにらみ下ろしている。
「最低」
とまでは言われなかったが、そうとでも言いたげに見える。
「なんだよ、子供はもう寝る時間だぜ」
「リオンってさぁ、ミロードやアイギールのことが好きなの?」
「何言ってんだ?」
リオンは階段を上りきるとハヅキの横に立って見下ろした。ハヅキの威勢が少し弱くなった。下を向いたまま言う。
「だって、たまにさっきみたいに口説いてるじゃん」
「ああいうのは大人の駆け引きって言うんだよ」
「リオン一方的に振られてたじゃないか」
「るせーな! おまえにゃまだわかんねー話なんだよ」
「わ、わかんなくて悪いかよ!」
と正直に白状した。
「オレあんなこと言われたりしたことなんて一度もないしさ!」
「――なんだおまえ、うらやましいのか?」
ははん、とリオンは意地悪な笑みを浮かべてハヅキの顔をのぞき込んだ。
「男に口説かれてみたくてしょうがないんだろ、色気づきやがって」
「べ、別にしょうがないってほどじゃ。リオンのスケベと一緒にしないでくれよ! た、ただそういうこと言われたらどんな気持ちがするのかなって――」
「どんな気持ちってそりゃおまえ、相手によるだろうよ。
「そりゃそうだろうけど」
ハヅキは珍しく気弱な調子だった。
「オレなんかが誰か好きになってもさ、相手はオレのこと女だと思ってくれないかもしれないじゃん」
「好きな男がいるのか?」
「そ、そこまで言ってないよ」
いささかおおげさにかぶりを振る。
ふーん、とリオンは思案げに低い声でうなった。
「女だと思わないもなにも、脱がせりゃ付いてないんだから女にしか思えねえだろ」
なんというかもっと他に言いようはないのか。
「も、もう! リオンに相談したオレが馬鹿だった!」
「それにおまえも近頃女らしくしようって努力してるじゃねえか。そーいうのがわからねえ男ならそもそも惚れる価値がねえんだよ」
まあ努力の割りにいまだに一人称オレも直ってねえがな! とは言わないでおいてやることにする。
ハヅキは照れたらしく赤くなっている。こういうことにはほんっとーにノーガードだよなぁ、とリオンは悩ましく思った。
「まあなんだ、おまえもあと十年もすれば」
「まだ十年も待たなくちゃならないんだ?」
「男の方を十年待たせるんだよ」
「そんなに待ってくれる人いないよ」
「いるさ」
「リオンは、もし、好きな女の人が十年待ってって言ったら待てるの?」
「――俺は待てねえな」
たぶん。と付け加える。
ハヅキがあからさまにため息をついた。
「もういいよ、おやすみ」
と行ってしまおうとするのをリオンは引き止め、
「まあ待てよ。俺でよければ試しに口説いてみてやってもいいぞ。十年待てないんだろ。どんな気持ちがするのか確かめてみたらどうだ?」
ハヅキは、
「えっ」
と驚いた声を上げ、その自分の声の大きさにも重ねて驚いて手のひらで口を押さえた。
リオンはせっかちに手を伸ばしてきた。手の甲で頬を軽くなでられて、ひんやりした感触に悲鳴が出そうになる。リオンの手が冷たいのか自分の頬が熱いのかわからない。考える余裕もない。
ごく短く切っている髪のこめかみからむき出しの
「なあハヅキ」
「な、なんだよ! 口説いてくれるんじゃなかったの!?」
「いい女になりてえなら、誰にでもこんなことさせないようにガードもちゃんとできるようにならねえとなぁ」
「誰にでもなんてさせてないよ! 今だって」
リオンは喉に溜まった唾を飲んで、わざとのんびり言った。
「俺はしてもいいのか」
「―――」
返答はない。
「ハヅキおまえ、今夜――」
そこまではすんなり出てきた。が、後が続かなかった。
で結局、
「やっぱりやめた。アホくせえ。おまえももう寝ろ」
と照れ隠しにハヅキの頬をつねって体を離した。
「いって! って、な、なんだよそれ! リオン!!」
不機嫌な文句を背中に投げつけられながらリオンは自分の部屋へ戻った。
ドアを閉め、明かりも点けずベッドへ大の字になる。しばし真っ暗な天井を眺め、
(やっぱり最後まで言えばよかった)
と夢想した。別に言ったからって、なにも本当にハヅキが今隣で寝てることになるわけじゃあるまい。ハヅキが答えなかったあの問いへの返事は、どうせ土壇場で「ダメ」になるに決まってる。冗談で済んだはずだ。
脳裏に浮かぶ光景はそんな理性による想像とは正反対であったが。
「十七、八のガキじゃあるまいし」
寝返りを打って無理やり目をつぶる。朝が随分遠く感じられた。
(了)