湖上
「みて、あんな所に猫がいるわ」
とティティスの指差した先、朽ちかけた神殿の柱が大きく傾いて湖へ半分沈んでおり、もう半分が水面から突き出ているその上に小さな黒猫がじっとたたずんでいる。まるで様子をうかがうようにこちらを見ていた。
黒猫の首のところに赤いものがちらついているのにジョシュアが気付き、
「あの猫、ひょっとしてハヅキのリボンをつけていないか?」
と言った。
周りを水に囲まれたこの神殿で、水を嫌う猫が岸から泳いできたとも思えず、となるとあの黒猫は神殿の中から出てきたのに違いない。ジョシュアとティティスが来る前にも仲間の傭兵がこの神殿の近くでハヅキのお守りを拾っている。
「まさか、あの中にハヅキがいるのかしら」
ティティスが不安げに眉をひそめた。黒猫はそうだとでも答えるように、
にゃぁん、
とひと鳴きした。
「ねえジョシュア、もう少し神殿の入り口に近づけない?」
「やってみるよ」
ジョシュアが
黒猫はいつの間にか姿を消してしまっていた。神殿の中へ入ったのだろうか。
その黒猫がたたずんでいた柱が、ちょうど神殿の入り口を塞ぐように倒れている。その上入り口は半分水没している。大人が通るには狭すぎる。無理をして通れば柱が崩れて生き埋めになるかもしれない。
ティティスがもどかしそうに叫んだ。
「この奥にハヅキがいるのよ!」
「どうしても、ここからは入れそうにないな」
ジョシュアは諦めきれない様子のティティスへ諭すように言った。
「ハヅキの居場所がわかっただけでもよしとしよう。僕たちは砦へ帰ってこのことをみんなに伝えないと」
「うん――」
うなずいたものの、ティティスの表情は浮かない。国境警備へ向かう途中不意にハヅキの行方がわからなくなってからというもの、ハヅキと特に親しいティティスやセイニーは心配しきりである。
ジョシュアはいつになく元気のないティティスを見るに忍びなかった。といって気の利いた慰めの言葉も思いつかない。
「大丈夫だよ。ハヅキならきっと――」
決まりきっているにもほどがある言葉しか出てこない自分が情けない。
棹を押して舟は神殿から離れた。
湖の中ほどから眺めた神殿は今にも崩れ落ちそうではあるが、白く輝く柱や壁面は古い時代の神々しさを失ってはいない。大いなる魂を抱く地にふさわしいように思えた。
それを映した純白の水面の穏やかな揺れ、湖の向こうに見えるさざめく常緑の森、さらにその奥には険しくも荘厳な山脈が連なる。空は高く青い。柔らかい風に乗って小鳥の心地よいさえずりが聞こえてくる。
ジョシュアはふいに
「ここはあの神殿に守られている場所なんだろうね。こんなに美しくて――おそらくずっと、長い間」
「?」
ティティスがいぶかしげな顔でジョシュアを見上げた。ジョシュアはさっきよりもいくらか自信のこもった声で続けた。
「あの中にハヅキがいるなら無事なんだと思う。きっとハヅキを守ってくれてる」
「ジョシュア?」
ティティスに呼ばれて、ジョシュアは、はっと我に返った。
「あ、いや、その――あの神殿を眺めてるとなんだか不思議な気持ちになって。あの中には何かとても、強い力があるようなそんな気がするんだ」
「そう、ね。あたしもそう思うわ」
ティティスはしばし神殿を見つめていたが、
「ジョシュアの言うとおりよ。ハヅキなら大丈夫よ。大丈夫」
と自分に言い聞かせるようにつぶやき、それで少し元気を取り戻したらしい。表情に笑顔が戻ったのでジョシュアもほっとした。
二人は舟で神殿の周りをぐるりと回ってみたが、目新しい探索の成果はなかった。
砦で見つけた料理番の日誌にあったように、湖は豊かで沈んだ柱の陰を隠れ家にしているらしい小魚が群れをなしている。それを狙って水鳥が集まり、さらにその鳥たちを狙う獣も湖の周囲には多いことだろう。
ぴしゃ、と魚の跳ねる音に二人は振り向いた。
「わ、あそこに魚がいるよ」
「本当だ、何の魚かな?」
ティティスは指先を冷たい湖水に浸しながら魚の影を目で追った。
「こんなに綺麗で気持ちのいい場所があったなんて」
「いつもならまっすぐ国境へ向かって素通りするところだからね」
「うん。天気もいいし、水遊びでもしたい気分」
と言ったが、ジョシュアの返事はなく黙ったままでいるので、ティティスは急いで付け足した。
「あ、もちろんハヅキを探すのが先だってわかってるわよ。ハヅキが戻ってきたら一緒に――でもすぐに警備に出発しなくちゃならないかしらね」
いかにも残念そうなので、ジョシュアは苦笑いして、
「ぬれると風邪を引くかもしれないよ」
「もう、子供扱いするようなこと言わないで!」
「うわっ!」
ティティスにぽんと肩を押された拍子に、狭い小舟の上のことだから、ジョシュアはぐらついて危うく水へ落ちそうになった。
「きゃっ! ジョシュア!!」
どうにかこうにかティティスが抱きとめて危機を脱したものの、安心したら今度はしっかり抱き合っていたのが恥ずかしくて慌てて離れた。
「帰ろうか、そろそろ」
照れ隠しにそっぽを向き、ジョシュアは棹を握り水底を突いた。
そのとき神殿の入り口で息をひそめていた気配にジョシュアもティティスも気付くことはなかった。それは幼い子供みたいな透明な目で、しかし臆病そうに
(了)