恋する夢魔

 開ききった花のような甘いにおいが鼻腔をつく。
―――
 ジョシュアの振り返った先、古い木の陰から大きな黒々したコウモリの羽が先端をのぞかせていた。
 ジョシュアはおもむろに腰の剣のつかへ手を掛けた。
「あら騎士様ったら、無防備な女にも斬りかかるつもり?」
 とコウモリの羽の持ち主の蠱惑的こわくてきなささやき声がする。
「僕の知る無防備な女性は魔物の力で男を骨抜きにしたりしないものだ!」
「今日はだめ。この間あなたに剣で突かれたときに魔力をだいぶ失ってまだ元に戻らないの」
 サキュバスがそっと木陰を抜け出してジョシュアへ近づいてくる。
 ジョシュアは剣から手を離さないままで構えている。怖い顔でサキュバスを牽制けんせいした。
 サキュバスは少し離れたところで立ち止まった。肌も露わなコスチュームの大きく開いた胸元の真ん中、まだ完全にふさがっていない生々しい傷跡が縦に走っている。
「去れ」
 とジョシュアは冷たく言った。
「優しいお顔の割りにこわいのね。そんなに魔族が嫌いかしら」
 サキュバスはじろじろとジョシュアの面立ちを眺め回した。
「わたしだって生きるためにやっていることよ」
「どういう理由であれ人間を襲う化け物を許してはおけない!」
「ねえ、騎士様あなた素敵ね」
 とふいに甘ったるい声を上げた。ジョシュアが不審そうに顔をしかめると、サキュバスは媚びたそぶりで一歩近づいて、全身ほとんどむき出しの青白い肌を見せつけるように身を乗り出してくる。
「心配しなくてもいいわよ。魔力で魅了しようなんて思ってないもの」
「何が目的だ」
「別に何も――強いて言うならもう一度あなたに会いたかったからかしら? あなたのような人初めてよ」
 それは本心からの言葉に違いなかった。思い通りにならずしかも自分に傷まで負わせた男なんて。容赦なく胸に突き立てられた剣の痛みを思い出して身震いする。
(いえ、所詮かよわい人間の男よ)
 わたしの虜にならないはずがない。たとえ魔力を使わなくたって。とサキュバスはいくらか意地になっていた。ジョシュアによって失わされかけた自信を取り戻すためにも必要なことだった。
 事実ジョシュアはじっとこちらを見つめていた。胸元の傷跡に視線を向けられているような気もする。サキュバスはとびきり淫蕩いんとうな笑みを浮かべた。
「ねえ騎士様、わたしあなたのこと忘れようと思っても忘れられなかったわ。この胸の傷を見るたびに――いいえ、いつだって、頭のどこかであなたのこと考えてたの――
「やれやれ」
 しかしジョシュアは冷めたため息をつき、
「人を襲う気がないなら今日のところは見逃してやってもいい。魔物は魔物の縄張りで生きることだね」
 ぷいと何の未練もなくサキュバスから顔をそむけた。ただそのとき、装備用のマントを肩から外してサキュバスへ投げてよこした。
「あと君も一応女性なら、目立つ傷は隠して歩いた方がいいんだろうね」
 言い捨て、ジョシュアは唖然あぜんと立ちつくしているサキュバスを置いて歩きだした。はぐれた部隊の仲間を探すため森の開けた場所を目指した。
「なによ――なんなのよ。わたしなんか眼中にないってわけ。そのくせどうして優しくするようなこと」
 サキュバスはジョシュアに渡されたマントを握り締め、小さな赤い唇を噛んだ。今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。


 それからしばらくしてサキュバスに再会するまで、ジョシュアは彼女のことも渡したマントのことも思い出さなかった。
 だからある日ふいにサキュバスが傭兵団の近くに現れて、
「これ返すわ」
 とジョシュアのマントを畳んで差し出してきたとき心底驚いた。魔物がそんな律儀なことをするのかという驚きもある。
 サキュバスは黒っぽいケープを身にまとっていた。大きな羽は畳んでいるのかその下へ収まり、胸の傷もすっかり隠れている。
 ジョシュアが物問いたげな目を向けて突っ立っていると、サキュバスはすねた顔でにらんできた。
「あなたが言ったのよ! 傷は隠した方がいいだろうって」
「いや僕は」
――こういう方が好みなの?」
「え?」
 なんでもない! とサキュバスは急に言葉を濁し、
「帰るわ! だからこれ、早く受け取ってくれない?」
 マントを突き出すものの、ジョシュアは戸惑っているばかりである。
「別に返してもらう必要はない」
 と答えたらサキュバスは一瞬嬉しげに青白い頬を紅潮させた。が、すぐに思い直したらしい。
「わたしは返したいのよ! ほら!」
「なぜ」
「フェアじゃないから!」
「フェア?」
 サキュバスは返事もせずにケープの下から羽を出して羽ばたき上った。
 ジョシュアの目の前でサキュバスはまるで熱にでも浮かされたようにふらふら宙を蛇行しながらどこかへ行ってしまった。

(了)