北の果ての翼竜

1

「サリーライド村長から村を襲う竜の退治を頼まれました」
 と、エステロミア傭兵団団長補佐マールハルト卿がいつものように報告した依頼の一つにそれはあった。
 エステロミア傭兵団長は常のとおり傭兵団本営の自室で、古びた机に着席してマールハルトの報告を聞いていた。
 机の上には本だか書類だか、怪しげなアイテムの類いだかが山のように積まれている。傭兵団長の姿はその向こうに隠れてよく見えない。声だけが聞こえる。
「竜退治だって? 今はダルクウィッシュの魔獣討伐とブルーレイクを襲撃した海賊の相手で手一杯だ。来週ではだめか?」
「サリーライドはすでに何度も襲われているそうです。手遅れになる前に竜を退治するか――最低でも一時的に追い払わねばなりますまい。民の不満をいくらかでも拭い、国政を滞りなく行えるようにするのも我々の使命にございましょう。黒王の復活、帝国軍残党の脅威、憂慮すべきことの絶えぬ時勢だからこそ――
「ああわかったわかった! 小言は結構」
 団長は本の山の上でひらひら手を振って、長くなりそうだったマールハルトの言葉を遮り、
「しかしそうは言ってもな、傭兵たちの訓練も進めねばならんし(近頃依頼が絶えなくて訓練予定が遅れてるんだよなぁ)土地の探索にも出さねばならん。だいたい、遺跡の探索なんてのは国が専門の探索隊の一つも編成するものじゃないのか? どうして傭兵団から派遣しなくちゃならん」
「魔物に襲われる危険が大いにある昨今のこと、専門の探索隊ができたところで、護衛のために傭兵たちがかり出されるのは必定にございます。何度か発掘隊などからも護衛の依頼がございましたでしょう」
「だったら平和になれば傭兵団にこんな仕事は来ないんだろうな? 国王陛下によくよく申し上げておいてくれ。傭兵は便利屋とは違う」
「ご自分で申し上げあそばしてはいかがです。あなた様は陛下に謁見を許されたご身分なのですから」
―――
 団長はむっつり黙り込んでいたが、やがて、
「ううむ」
 とうなった。
「魔獣の討伐にはどうしても四人必要だ。海賊にしても女首領の力はあなどりがたいものがある。油断はできんな。あとは細かい獣退治だの宝石の鑑定だの鍵を開けろだの(本当に傭兵団が対応する必要があるのか?)、この上竜退治と言われても、せいぜい一人か二人しか派遣できんぞ」
「精鋭を選んで派遣なさいませ」
 とでもマールハルトは助言するしかない。傭兵団の人手不足はいつものことだ。
 団長はその後もしばらくうんうんうなっていたが、あるときふと声を上げた。
「そうだ、そういえばこの間面白い剣を手に入れたんだ」
「と仰いますと」
「なんでも、古代から幾人もの騎士の手を渡り、数え切れぬ竜の首を落としその血を吸ってきたという――まあどこまで本当かわからんが、そういういわく付きの蛮剣だ」
 と言う団長の声はどこか楽しそうである。蒐集癖しゅうしゅうへきがあるのだ。できることなら国中の武器、鎧、珍しい宝飾品、何でも集めてみたいと思っている。この団長はそういう団長である。
 他人から贈られた物、傭兵たちが探索先で手に入れてきた物。買い求めるにしても、まっとうな商人からはもちろん、裏の世界を牛耳る盗賊ギルドを通じて怪しげな闇商人と犯罪スレスレの取引をすることもいとわないという執着ぶり。おかげで傭兵団営舎の倉庫はいつも満杯だった。
 その中の一品が先述の蛮剣であるらしい。
「名付けるなら『ドラゴンスレイヤー』といったところかな? ちょうどいい機会だ。その名に恥じぬ切れ味かどうか試し切りしてみたい」
「ならばジョシュア、あるいはガレスに持たせてみてはいかがです」
「ガレスはダメだ。海賊との戦いには彼の熟練した力量と経験が不可欠。となるとジョシュアだな。ふっふっふ、帰ってきてから感想を聞くのが今から楽しみだ」
 部下に剣の切れ味だの肉を両断する感触だのを根掘り葉掘り聞きたがるというのも嫌な上司である。
 マールハルトはこっそりため息をもらした。
「ではサリーライドへはジョシュアを」
「遠地の任務だ。一人では寂しかろう。そうだな――ティティス辺りでもくっつけておけ」
「ティティスでは巨大な竜相手にはいささか非力と存じまするぞ」
「構わんさ。どうせジョシュアのお目付け役だ」
――御意」
 マールハルトは言葉の意味を察したようであった。
「“お目付け役”とあれば、ティティスは確かに適任でございましょう」
「そうだろう?」
「少なくとも年寄りの小言なぞよりは、よほどジョシュアには効く薬であろうと存じますれば」
「おまえも案外話がわかるじゃないか。若い時分には騎士として相当の活躍をしたと聞いているが、そちらの方もずい分と浮名をお流しになったものかな」
「お戯れを仰いますな」
 マールハルトが低い声で笑う。それだけでその手の艶っぽい話は切り上げられた。
「さてジョシュアはそれでいい。しかし他の部隊編成はどうすりゃいいんだ? 前に出られる人間が一人減ったじゃないか。くそっ、戦士をあと五人ほど雇わせろ! リビウスとバンとゼフィールを呼び戻せ! リオンは――うんまあ」
 と、悩める傭兵団長は再び机にかじりついて傭兵たちの部隊編成にうんうん歯ぎしりしてうなり始めたのであった。

2

 初めに気付いたのは、傭兵団長からの指令文書を開封したアルシルであった。
 王家の紋章が押された封蝋ふうろうを外し、丸められていた指令書の束を広げると、
(忙しくなりそうね)
 と見なくてもその厚みでわかる。
(任務は引き続きダルクウィッシュの魔獣退治――ブルーレイクの警護――それに竜の討伐まで。骨が折れるわ。しかもサリーライドとは遠いわね)
 が、団長の指定した編成に気付いて、あら、と思い、
「サリーライドへはジョシュアとティティスだけ?」
 寡黙なアルシルには珍しく、つい口をついて出ていた。
 アルシルがいたのは傭兵団営舎の広間で、周りに他の傭兵たちが数名待機していた。
 円卓でミロードとジュランが頭をつき合わせ、古い魔術書の解釈をああだこうだ言い合っている。
 部屋の隅の方ではガレスが鎧のほころびをつくろっている。グリーブから垂れたひもにキャスが必死になってじゃれついていた。
 その向こうの窓際では僧侶師弟が仲良く日向ぼっこ中。シャロットに肩をたたいてもらっているバルドウィンが気持ちよさそうに目を細めている。
 その他の者は席を外していた。広間にいる全員にアルシルの独り言は届いたらしい。
「そんな命令が出ているんですか」
 と、初めにジュランが尋ねてきて、アルシルが振り返ると、皆が興味ありげにこちらを見ている。
 アルシルはうなずくより先に、指令書をジュランたちのいる円卓へ広げた。
 ジュランとミロードが同時にそれをのぞき込み、
「あーらほんと。思い切った指定ねぇ」
「サリーライドとなると泊りがけじゃありませんか。行くだけで駅馬車を使っても一昼夜はかかりますよ」
 サリーライドはエステロミア王国北端に位置する小さな村である。国境に近く、旧時代の砦に隣接している。村のさらに北は山々の頂が連なる険しい山脈がそびえている。
「ノースハイムまでは街道があるけど、そこから先は駅がないからもう少し時間がかかるわねぇ」
 ミロードが細かいことに口を出したので、ジュランはむっとしたらしい。
「私は別に時間のことを言ったんじゃありませんよ」
「じゃ他に何か問題ある? 任務のために泊まり込むのは珍しいことじゃないわよ。今まで何度もあったじゃない」
「それはそうですが――
「にゃん」
 と、キャスがひもの先をもてあそびながら上ずった声を上げた。
「ティティスたちはお泊りにゃん? うらやましいにゃん。キャスも行きたいにゃん。近ごろ誰かのいびきがうるさくてキャスの部屋じゃ夜眠れないにゃ」
 猫人族は人間に比べて聴覚が鋭いのかもしれない。意外と繊細なことを言う。
「お師匠様のいびきではありませんか?」
「団長かマールハルトではないかの」
 からかうように笑ったシャロットとバルドウィンの声が重なった。
「しかし実際のところ、若い男と娘が二人でというのは――よいのじゃろうか」
「いやですわお師匠様、ジョシュアさんは正しい騎士道を守る紳士ですもの」
「そうは言うが」
「そうだぜ」
 とガレスが口を挟んだ。つくろい終えた鎧を手の中でためつすがめつし、
「騎士だろうが紳士だろうが、男は男だ。大事なモンは付いてんだぜ」
 などと品のないことを言ったから、シャロットは「まあ」と顔を赤くしてしまった。
 ミロードが口元に妖艶な笑みを浮かべ、
「じーさんたちは頭が古いんだから」
「おいミロード」
 さすがにガレスが顔を上げてにらんだ。ジュランも援護した。
「ミロード、失礼ですよ。それに、ジョシュアたちに万一何か起きてからでは遅いというのは間違った話ではないはずです」
「あんたも硬いわねぇ。別にあの二人なら万一のことが起きたって誰も非難しないわよ。今はゼフィールもいないんだから」
「そういう意味ではなくて」
 ジュランまでいささか顔を赤らめてしまった。
「私たちがいないところで、本当の意味でジョシュアに万一のこと﹅﹅﹅﹅﹅が起きたらどうするのかということです」
「本当に万一のこと﹅﹅﹅﹅﹅が起きたら、私たちがいたところで無駄だと思わない?」
「それは」
 そのとき、それまで沈黙を守っていたアルシルがふいに口を開いた。
「ジョシュアなら平気よ」
「アルシルまで」
「私たちはみんな彼を信じてるわ。そうでしょう?」
「もちろん信じていますよ。でも――時計の砂がいつ落ちきってしまうかは我々にはわかりません。それが今度の任務の間でないとは限らないでしょう」
「それも考慮した上での采配ではないの?」
「つまりティティスならもしものことがあっても大丈夫だろうと?」
「あんたも大概鈍いわねぇ。魔術書にばっかりかじりついてないで恋愛小説の一つも読みなさいよ」
 ミロードが大げさに肩をすくめて見せた。
「好きな男ならどんな姿になっても絶対に見捨てないし、助けられるものなら死力を尽くすわ。そういうことでしょ? アルシル」
―――
「だけどアルシルがそんなこと言うなんて。あなたにも身に覚えがあることなのかしら?」
「わ、私は」
 ミロードはわざとらしく周りを見回した。
「あら? クロウはどこにいるの? ああ、今は団長の部屋で協議中だったわねぇ」
 アルシルはうつむいて、ぷいとそっぽを向いてしまった。
(ちょっと意地悪がすぎたかしら)
 ミロードは内心苦笑いしている。
 ガレスが言った。
「女心ってやつはわからんでもないが、ロマンスとやらが全てを救うなんて話には賛成しかねる。おとぎ話じゃあるまいしな。ジュランだってジュランなりにジョシュアの身を案じてるんだろう」
「キャスもジョシュアが好きだにゃ。心配だにゃん」
 その場の全員を代表するようにバルドウィンの言葉が響いた。
「皆キャスと同じ気持ちじゃよ」
 そんなふうにうわさの的になっていたせいか、ちょうど営舎の廊下をハヅキと一緒に歩いていたジョシュアは、
「くしゅっ!」
 と大きなくしゃみをしたところだった。
「ジョシュア大丈夫? 大事な任務の前に風邪なんか引かないでよ?」
「うん。ありがとう」
 二人は模擬訓練から帰ってきたところらしい。それぞれ訓練着に簡易な防具を着けている。ジョシュアの腰には大振りの剣が吊るしてあった。これが例のドラゴンスレイヤーだろう。
 二人は皆のいる広間へ向かった。
「ただいまー」
 と、声を掛けながらハヅキが先にドアを開けた。
「おかえり」
「おかえりなさい」
「おかえりだにゃん」
「お、帰ってきたな」
 ガレスが腰を上げた。ジョシュアとハヅキへ歩み寄って、防具を外すのを手伝ってやっている。
「うわさをすれば何とやらだ。ちょうどおまえのことを話してたんだ」
「あはは、きっとそれでさっきジョシュアくしゃみしてたんだ」
 ハヅキが屈託なく笑った。一方ジョシュアは苦笑している。
「いやだなぁ、何の話だい?」
「なに、おまえの今度の任務は大変だなと話してたのさ」
「ああ――任務のことは僕とティティスも団長から口頭で聞いたよ。城の周囲での魔獣や海賊への対応はおろそかにできないから、多少戦力不足になってもサリーライドへは少人数で向かうしかない。村の人に申し訳なくは思うけれどね」
「いや、まあ、それはそうだな。――ところでその剣の使い勝手はどうだ? 大昔から何頭も竜を倒してきた剣、だったか。伝説どおり竜の首でも落とせそうか」
 ガレスはさりげなく話の矛先を変えた。
「僕には少し重いかな。特にガードがやや重く作ってあるみたいだから」
「ふむ、手元に重心が近いか。片手持ちには都合がいいんじゃねえか? 腕に負担はかかるが」
「そうだね。手首を痛めないように気を付けないと」
「重心が切っ先に近い方が負担が大きいんじゃないの?」
 とハヅキも首を突っ込んできた。ガレスやジョシュアの経験と知識から学ぼうと真剣そのものである。
「むろん負担がないとは言わねえ。だが先が重ければその分腹で支えることになるからな」
「とはいえ手元重心の方が片手で振りやすいのは確かで、一長一短があるよ」
 ガレスは、いたって真面目にハヅキへ教えているジョシュアの顔をちらりと見た。
(この調子なら、過ぎた心配になりそうだが)
 少し安堵あんどして、つと思いついたことをつぶやいた。
「そういやティティスはどこに行ったんだ?」
「セイニーやアイギールと一緒に街へ買い出しに行ってる。遠出の任務だといろいろ物入りなんだってさ」
 ジョシュアはいつもと何も変わらない穏やかな口調でそう答えた。

3

 傭兵団長から下された命令によって、翌日にはジョシュアたちの出発の手はずが整っていた。
 早朝、というか真夜中のうちからジョシュアとティティスは起き出して身支度を整えた。まだ他の傭兵は早番の者すら起きていないはずだ。
 と思ったのだが、ジョシュアとティティスがあくびをもらしながら宿舎の階段を下りて食堂へ行ってみると、ドアの下から明かりがこぼれている。
 厨房をのぞくとシャロットがストーブの前に立っていた。
「あらジョシュアさん、ティティスさん、おはようございます」
 それにアイギールが小さな椅子に腰掛けて、一人でミューズリーを食べていた。ミューズリーは麦やナッツ、ドライフルーツにミルクなどをかけて食べる軽食である。
「おはよう、シャロット。それにアイギールもこんな時間に」
「私は今帰ってきたところよ」
 アイギールは、不思議そうな顔をしていたジョシュアとティティスに説明した。
「夜の間に急な任務があったのよ。団長も人遣いが荒いわ」
「ジョシュアさんとティティスさんは朝食ですわね」
 シャロットが手際よく二人分のミューズリーを用意してくれた。それから小ぶりなバスケットを二人へ差し出し、
「よかったらこれ、持っていってください。サリーライドはずい分遠いですから」
「わ、お弁当だ」
 ティティスがバスケットの中をのぞいてはしゃいだ声を上げた。
「ありがとう、シャロット」
「ありがとう。こんな朝早くに」
 ティティスとジョシュアはそれぞれお礼を言った。
 厨房で食事を取って、そのままシャロットとアイギールに見送られて出掛けることになった。
 四人は宿舎の裏口から外へ出た。ようよう東の空が青みがかってきたかどうかというところ。東の果ての山脈すらもまだ闇に覆われて見えない。
 うまやから連れてきた馬の背に鎧などのかさばる荷物をくくりつけ、ジョシュアがくつわを取った。
 日が昇るまでは肌寒い季節だ。ジョシュアはウールのマントを、ティティスはケープを羽織って冷たい風を防いでいる。
「お気をつけて。ご武運を祈りますわ。神のご加護がありますように」
 とシャロットが祈ってくれた。
 ティティスが胸を張って、
「任せといてよ。竜の一頭や二頭あっという間に退治して帰ってくるから」
「朝っぱらから元気のいいことだな」
 と、宿舎の階上の方から声がする。見上げると、ガレスが部屋の窓を開け、ランプをつけてこちらを見下ろしている。起床したばかりらしく寝間着姿で無愛想な顔つきだった。寝癖の付いた白髪交じりの頭をかきながら、ジョシュアとティティスを送り出してくれた。
「気を付けて行ってこい」
「うん。みんなにも任務頑張ってって伝えといてね」
 ガレスは返事の代わりに気だるげに右手を振った。
「ティティス、行くよ」
 ジョシュアが先に立って歩きだす。
「あっ、待ってよ」
 ティティスは軽い足取りでそれを追いかけた。
 まずサンドストームの外れにある駅家へ行かねばならない。そこから街道を走る馬車が出ている。六時には発車する予定だと聞いているから、のんびりしている暇はない。
 エステロミア王国を縦断する街道を走る駅馬車は七頭仕立てで足が速いのが自慢だった。南の水上都市ブルーレイクから北のノースハイムまで三日かからず走破する。
 サンドストームの駅家には二人の他にも馬車を待つ客が詰め掛けていた。それを目にしたティティスは、うんざりしたように顔をしかめ、
「やだー、この分じゃ満員じゃない」
「仕方ないよ、この時勢だから。みんなやむにやまれぬ事情があるんだ」
 とジョシュアに言われて、観察してみれば、乗客たちに顔色の明るい者は一人もいない。他の土地へ転居するらしい親子、一人きりの老人、喪服姿の未亡人、誰もが意気消沈した様子だった。
 中には、周囲の客たちに馬車の切符を譲ってくれないかと頼み込んで回っている者もいた。だが誰もそんな余裕はないらしく、切符は手に入りそうもなかった。もちろんジョシュアたちも、気の毒だとは思うが譲るわけにはいかない。
 連れてきた馬から荷物を下ろし、馬は駅家の厩へ預けた。荷物は馬車のインペリアル(屋根の部分)へ積む。
 馬車には一度に十人から十二人ばかりの乗客が乗ることができる。内部に六人、インペリアルに五、六人といったところである。ジョシュアとティティスは幸い中の切符を持っていた。
 馬車は定刻どおり六時にサンドストームを出発した。
 内部は三人掛けの座席が二列。前の方の窓際にジョシュア、隣にティティス、その隣に黒い喪服の未亡人が座った。
 ティティスは窓から景色を眺めていたが、そのうちに退屈になって、
「ねー、ジョシュア」
 と話し掛けたのに返事はない。ジョシュアは脱いだマントを鼻先までかぶって早々に寝入っていた。
―――
 そりゃ、ティティスだって物わかりが悪いわけではない。自分たちは遊びに行くわけではなく、傭兵として任務を遂行しに行くのだ。道中魔物や盗賊に襲われる事故がないとも限らない。休めるときに体を休めておくのは理にかなっている。
(だけどさー、もうちょっとなんとかならない?)
 せっかく傭兵団の喧騒を離れて二人きりだというのに。
(あーあ、つまんないの)
 ティティスも座席にもたれかかり、目をつぶった。
 昨日、セイニーやアイギールと一緒に街の商店へ買い出しに出掛けたとき、二人と話したことを思い出した。
「ティティスー、今度の竜退治の任務、ジョシュアと二人で嬉しいんでしょー?」
 とセイニーには満面の笑みでからかわれてしまった。いや、からかわれたというほどには意地悪な口調ではなかったが。ミロードなんかと違って。
「傭兵団にいるとなかなか二人っきりになんてなれないもんねー」
「べ、別に嬉しいとか二人きりになりたいとかそんなこと――
「団長も意外とあじな指令出してくれるよね。――あ、おじさん、ついでにこっちの秘薬もちょうだい」
 セイニーは代金の勘定に追われている店主にもう一つ注文を増やした。
「あっ、でも高いなー。他の店の方が安かったような気がする」
「本当は一つ4000Gだが、3500Gにまけよう。お得意様じゃからな」
「もう一声!」
「はは、お嬢さんにはかなわん――3000Gでどうじゃ」
「百個まとめて買うから200000G!」
 さすがにそれは、と店主の顔が青くなった。
 脇でカギや安価な短剣を物色していたアイギールが口を出してきた。
「セイニー、そんなに買ってどうするの。持ち帰れないし、予算オーバーよ」
「すぐ必要な分以外は傭兵団に届けてもらって、そのときまとめて請求してもらえばいーじゃない。どうせお金は団長の懐から出るんだしさ」
「それならあたしもこれとこれほしいなー」
 と、ティティスまで高価な解毒薬をいくつか取って勘定に加えた。
 店を出るとき、セイニーは両手に商品が詰め込まれた革袋を持っていた。かなりの重量だろうに、軽々と先頭を歩いていく。
「えーっと、あとは? アイギールは鍛冶屋にいくんだっけ?」
「研ぎに出したコダチとハヅキのナギナタを受け取るだけだから、最後でいいわよ」
「じゃあティティスは明日からの任務に何か必要?」
「んー、薬はさっき買ったし、他には――
「あー、さっきのたっかい解毒薬、明日持ってくんだ」
「あたしは魔法で難しい治療はできないもん。竜って毒の息吐いたりするやつもいるんでしょ? 騎士物語で読んだことあるけど」
「小説ほど大げさな竜はいないわ」
 アイギールが言った。
「竜なんて大きなトカゲと同じよ。それより、睡眠薬でも持っていった方がいいんじゃない?」
「どうして?」
「街道の駅家やサリーライドは田舎だからロクな宿がないわよ。あなたジョシュアと一晩一緒に過ごすことになったらちゃんと眠れる? いえそれともジョシュアが変な気起こさないように薬の一つも盛っておくべきかしら」
「ちょっとー! ジョシュアは変な気なんて起こさないわよ」
 と口では反論したものの、
「だよねー。リオンとかならともかく、ジョシュアは自分からティティスに何かしたりしないと思う」
 セイニーにそうずばっと言われてしまうと複雑な気持ちだったし、今も隣でさっさと寝てしまったジョシュアをいくらか恨めしく思った。
 しかしティティスも目を閉じてそんなことを考えているうちに、うとうと寝入ってしまった。朝が早かったせいだろう。
 その間に馬車は街道を駆け抜け、いくつかの駅家を過ぎた。途中降りる乗客もあったし、新たな客が乗り込んでくることもあった。
 ティティスは、はたと目を覚ました。なんだか肩の辺りが重い。誰かに横から寄りかかられているような感じだ。
(もしかして)
 一瞬期待したが、若干寝ぼけていたのだろう。ジョシュアが座っているのはティティスの右隣である。重いのは左の肩だった。
 ティティスが、そっと隣を見ると、見知らぬ中年の紳士がこちらに寄りかかってうたた寝していたから仰天して、
「きゃっ!」
 と思わず悲鳴を上げた。すると紳士も目を覚まし、
――こ、これは失礼」
 慌てて居住まいを正した。馬車に乗り込んだとき、ティティスの隣は喪服の未亡人が座っていたはずだ。彼女は途中で降りてしまったらしい。
 ティティスの悲鳴でもジョシュアは起きなかったようで、相変わらずじっと身動きしないままでいる。
(もーっ、頼りにならないわね!)
 ティティスが内心ジョシュアの腕でもつねって起こしてやろうかと思ったのも無理はない。
 やれやれとため息をつく。すっかり眠気が飛んでしまった。窓の外を眺めていると、隣の紳士はまた寝息を立て始めた。
(げっ、やな予感――
 悪い予感は往々にして当たる。紳士はどうしてもこちらへ倒れてきてしまうらしく、ティティスが押し返す度に目を開けるのだが、しばらくすると懲りずにもたれかかってくる。
 相手に悪気はなさそうだから強く文句も言いにくい。ティティスが辟易へきえきしていると、急に、
 ぐっ、
 と右隣﹅﹅から肩に手を回されて抱き寄せられた。
 そのせいで紳士は支えを失って、がくりとつんのめった。おかげで今度こそはっきり目がさえたらしい。
「度々申し訳ない」
 面目なさそうに謝ってから、そわそわとポケットから小さな冊子を取り出し読み始めた。
 ティティスは、きょとんとジョシュアの方を振り返った。ジョシュアは一体いつ起きたのか、なんとなく戸惑ったようにティティスを見ていて、
「ごめん、困ってたみたいだから」
 そう言いながらティティスの肩を抱いていた手をさりげなく離した。
「なんなら席を換わろうか」
「う、ううん、平気――ありがと」
 ティティスは次の言葉を待ったが、ジョシュアは、ほっとしたように微笑しただけでそれ以上何も言わなかった。

4

 サリーライドへは、街道の途中ノースハイムの駅家で馬車を降りて、旧第三砦へ続く山道へ入らねばならない。村は砦を越えた先である。
 サンドストームからノースハイムまでは一泊を挟み、丸一日かけて駅馬車を乗り継ぐ。ノースハイムに着いた頃にはすでにぐったりである。長時間馬車に揺られて体の節々が痛くなっている。
「んーっ!」
 と、馬車を降りたティティスは大きく手足を伸ばした。
 ジョシュアが馬車のインペリアルに積んであった荷物を下ろしてからティティスを呼んだ。
「ティティス」
「なーに?」
「このままサリーライドへ向かうつもりだけど、構わないかい?」
「あたしは大丈夫」
「じゃあ急ごう」
 なんとか今日の日暮れまでには村へ着けるだろうか。
 駅家で身分証代わりに王家の紋章と傭兵団長のサインが入った指令文書を見せて荷馬を借りた。傭兵団を出発したときと同じようにジョシュアが馬を引いて、細い山道を進んでいく。足元は大小さまざまな岩ででこぼこしており、道の両側は急な斜面の谷になっていた。
 ティティスは先ほどからきょろきょろと周囲の森林を見回している。
「静かなところね。なんかやな感じ」
「嫌な感じって?」
「鳥や獣の気配がしないの」
「僕たちが歩いてるからじゃないか?」
「人を警戒してるくらいじゃこんなに静かにはならないわ」
 ティティスは森の民エルフである。今では傭兵団の一員として人間の暮らしになじんでいるとはいえ、やはり自然の異変には敏感なのだろう。
「魔物が増えたせいかもしれないね。森の生き物もむ場所を追われてるのよ」
「うん」
「きっと黒王との決戦の間に森の調和も崩れてしまうわね」
 不安そうに鮮やかなグリーンの目元を曇らせている。
「ティティスはやっぱり森が好きなんだね」
「そりゃ、だって生まれ育った場所だもの。守りたいと思うに決まってるじゃない」
「帰りたくはならないかい?」
「か、帰ってほしいの? ジョシュア、あたしに、その、エルフの森に」
 ティティスは目を丸くしてジョシュアの顔を見た。
「そうは言わないけど、ティティスが望むなら止められないとは思う」
「絶対に帰らないわよ! あんな堅っ苦しいところ! ――懐かしくないって言ったらうそだけど。でも! あたしはジョシュアや傭兵団のみんなと一緒に黒王と戦うって決めてるんだから。それが森やエルフの民のためにもなるはずだし」
 ジョシュアの青い目をのぞき込むようにして、もう一度念を押した。
「だから何と言われたって帰らないからね!」
「よかった」
 とジョシュアはつぶやいた。
――ほんとに?」
「もちろん。聞いたのは僕だけど、もしティティスが帰りたいって答えたらどうしようかと思ったよ」
「え、えーと、それってどういう」
 意味、とティティスが尋ねようとしたときだった。
「あ――
 行く手の茂みに獣の気配を感じた。カサカサと足音が聞こえたので、ジョシュアも気付いたらしい。
「なんだろう」
 だが二人がその茂みに差し掛かる頃には、獣は逃げてしまったようだった。
 その代わり、道から林へ数メートルほど入ったところにキツネの死骸を見つけた。しかも二匹だ。一匹は子ギツネなのか一回り小さい。
 二匹とも致命傷らしき深い爪痕が背から腹にかけて走っていた。直視したいものではないが、はらわたを引きずり出されて食いちぎられた様子もある。
「親子かな。あの爪痕は魔物のもののように思えるけど」
「そうね」
 ティティスは痛ましげに死骸から目をそらした。
「こんなところまで魔物がやって来てるのよ」
「かわいそうに」
「大地に返るのを待つしかないわ」
 二人は夕暮れ時、日が山腹に掛かる頃になってどうにかサリーライドへたどり着いた。山あいの何もない小さな村である。集落と呼んだ方がいいくらいだ。
 土地のほとんどは農耕地で、春まきの小麦が波打つ畑が広がる中に、ささやかに野菜を育てている畑もぽつぽつ点在する。ただ、ところどころ作物が食い荒らされ、土が掘り返されているのが見て取れた。
「なーんか、陰気よね」
 とティティスが感想を述べた。
「田舎だからってわけじゃないと思うんだけど」
「人の姿が見えないからじゃないかな」
「そうかも」
 ジョシュアの言ったとおり、村には人影がない。まだ日が落ちきってはいない時刻だ。畑に誰一人出ていないのは妙である。
「ねえジョシュア、あれって教会でしょ?」
 ティティスが村の東端の辺りを指差した。麦畑の中に、鐘をつるした鋭角な三角形の屋根が頭一つ飛び出している。
「行ってみない? きっと牧師さんくらいいると思うわよ」
 二人は教会目指して歩きだした。
 教会へ着いたときには日はもはや完全に沈み、夜の闇と虫の鳴く声ばかりが村中を満たしている。
「どちらさまじゃな。村の方ではないようだが」
 教会裏手の司祭館から出てきた年老いた牧師は、ジョシュアとティティスを不審そうにじろじろ眺め回した。
 ジョシュアは王家の紋章と傭兵団長のサインを見せ、
「エステロミア傭兵団の者です」
 と名乗った。
「こちらの村を襲う竜討伐の任務を受けて来ました。サリーライド村長のお宅はどちらですか?」
「おお、これはこれは――
 牧師は打って変わって慇懃いんぎんに二人を村長宅へ案内してくれた。
 村長は実直そうな腰の低い人物であった。
「今日の昼間、傭兵団長殿から書面が届いたばかりでした。こんなに早く来ていただけるとは、ありがたいことです」
 二人を自宅へ招き入れ、椅子を勧めた。自らも向かいの椅子に腰を下ろして深く息をつく。
「手紙でもお知らせしましたが、村へ竜が現れてほとほと困っております。まだ村人に被害は出ていませんが、家畜が何頭か――村の者は畑仕事にも出られない始末です」
「詳しい状況を教えていただけますか?」
「はい」
 村長が語ったところによると、
「実は村が竜に襲われるのは二度目なのです。一度目は村人だけで追い払うことができました。というのも、竜というにはやや小型だったもので、村の猟師や若い者が集まってなんとか――ですがそれから三、四日して、今度は大型の竜が現れました。村の者の手には負えません」
「竜は今も村の近くに?」
 というジョシュアの質問には、村長はかぶりを振り、
「わかりません。ただ、やって来るときは北の山脈の方から飛んできて、村の上空を飛び回ります」
「北の方から」
「人から聞いた話ですが、我々の村以外にも国境付近で竜が目撃されることが多いようです。北の山脈に住処すみかがあるのかもしれませんな」
 ところで、と村長はいく分不安げにジョシュアとティティスの顔を交互に見た。
「本当にあなた方お二人で竜と戦うのですか」
「大丈夫よ。安心して」
 ティティスが答え、ジョシュアがそれを補った。
「彼女は魔法に堪能です。特に空から襲ってくる魔物との戦いには慣れていますから、ご安心ください」
 そのとき玄関のドアをせわしなくたたく音が聞こえた。外には村の若者が険しい形相で立っている。
「村外れを見張ってる猟師のオヤジが山の方から咆哮ほうこうを聞いた。今夜辺りまた竜が村へ来るかもしれない」
 そのような内容のことを伝えて、若者は早足に去った。他の家々にも同じ事を警告して回るのだろう。
 さっそく竜とご対面となりそうだ。ジョシュアとティティスは前もって装備を整えておくことにした。村長宅の二階に借りた部屋が本営代わりである。
「何もなければないでそれに越したことないしね」
 ティティスはジョシュアの背中に回ってブレストプレートの留め具をはめてやった。その間にジョシュアは首を守るゴルゲットを当て、肩の金具でブレストプレートへ固定した。
「来るなら来るで、今夜中に片付けたいところだな。逃がすと厄介だ」

5

「ほら、あそこ!」
 ティティスが夜空を指差した。月が高く昇って晴れた天を黒い影が横切り、低い雲の陰に消えた。
「本当だ」
 ジョシュアはうなずいて、
「村の上を飛んでいる――
 と、腰の剣に一旦手を掛けたが、思い直して離した。
「民家の近くでは戦えない。どこか広いところへおびき寄せよう」
 宵のうちに村長から地図を借りて確かめておいたところでは、村の北東には開けた野原がある。そこを交戦地点に定めるしかないだろう。
「まだかなり高いところを飛んでるみたいだけど、村の方に向かってくるのを見ると背筋が寒くなるわね」
 ティティスはしばし思案した。
「あたしが魔法で追い込むわ」
「大丈夫かい?」
「任せて」
 と請け合ったのでジョシュアはこの場をティティスに託し、先に広場へ急ぐことにした。
「信じてる。頼んだよ」
 残ったティティスは一つ深呼吸し、
「それじゃいくわよ」
 同時に今まで静まり返っていた付近一帯の草木がざわざわと騒ぎ始める。まるで呼び起こされたようにどこからともなく吹いてきた風がティティスの豊かな髪を巻き上げた。
 自由気ままに空を駆け巡ろうとする風をティティスの魔法が捕まえる。
 むろん目には見えないことだが、たちまち風は若きエルフの娘に恭順の意を示した。飼いならされたたかのように大人しい。つかの間元のように大地は静まった。
 再び風がざわめき始めれば、その風はティティスの意のままである。縦横無尽に吹き荒れることもできるだろうし、よく訓練された鷹と同じように獲物目掛けて襲い掛かることもできるだろう。
 が、ティティスは風をゆるやかに吹かせたままその場を離れた。
 上空の竜はときおり羽ばたきながら気流に乗っているようであった。
(そうそう、そっちへ飛んでいってよね)
 竜は北東へ尖端せんたんを向けて空を切っていく。ティティスは必要以上に刺激しないよう慎重に気流を操って竜を導いた。
 北東の広場へ到着したジョシュアは腰の剣を抜き、息を整えた。
 冷たい風が吹き付けてくる。
 ジョシュアのゆるく巻いた髪がかき乱れる。足元の雑草が揺れ、波紋のように広場中へ広がっていく。
 天で月光の影になっていた黒雲が流れて、生じた切れ目に竜の姿がのぞいた。
 竜は地上のジョシュア目掛け滑空した。月明かりに照らされた巨体には一対の翼、長い首と先が二股に分かれた尾を備えている。
「やはりワイバーンだ」
 ジョシュアは剣を肩の上へ振りかぶり上段に構えた。左手の盾は十分に引き付けておく。
(来たぞ!)
 ワイバーンはほとんど体当たりに近い格好で着地した。
 いくらなんでもそれを食らったらひとたまりもない。ジョシュアは足腰でのバネで後方へ跳びすさった。
 すかさず盾を突き出し、それを追って剣を振るう。だが一撃目はワイバーンの翼に阻まれ、左脇からの刺突へ移行した。
 ワイバーンの硬いうろこをものともせず切っ先が翼を傷つけた。
 さらにブレードを切り返して羽の付け根を狙う。鋭くたたき込めば刃が鱗ごと肉にめり込む確かな手ごたえがある。形状の工夫か材質の工夫か、つまびらかにはわからないものの竜の鱗を断つことに特化したブレードであった。
(なるほど『ドラゴンスレイヤー』というわけか)
 とジョシュアは頭の片隅で思った。団長の語ったいわくはあまりあてにしていなかったが、当たっていることもたまにはあるらしい。
 羽を傷つけられたワイバーンは暴れ、甲高い鳴き声を上げた。地の震えるような咆哮はジョシュアたちの帰りを待つ村人をさぞ不安がらせたに違いない。
 ワイバーンの尾がムチのようにジョシュアの足元をすくった。
「うわっ!!
 急に突風が巻き起こり、乱気流となってジョシュアの周囲に壁を作った。
 ワイバーンは追撃をあきらめたらしい。様子をうかがうように身を沈め低いうなり声を上げている。
「ちょっとジョシュア! 生きてる!? 大丈夫!?
 村の方からティティスが血相変えて駆け寄ってきた。彼女がとっさに助けてくれたのだろう。
――大丈夫、生きてる」
「よかった! ケガは?」
「大したことないよ」
 ジョシュアが起き上がった矢先に、ワイバーンの羽音が四方の山腹へ反響した。
「あっ、逃げるわ!」
 ティティスが一も二もなく飛び出す。ジョシュアも走り出したが、身軽さではティティスの方が上手うわてだ。
 ワイバーンは北の山脈へ向かって高度を上げていく。
 ティティスはぴったりとその影に張り付いて走った。走りながら風を呼んだ。
 風はティティスに命じられるままに形を変え、かまいたちとなってワイバーンの翼を切り裂いた。されどそれでもワイバーンを墜落まで追い詰めることはできない。バランスを崩しながらも山陰へ姿を消してしまった。
 後から来たジョシュアも困った顔で、
「まずいな。僕たち二人じゃ山の中までは――
「待って、何? このにおい」
「におい?」
 ジョシュアにはわからない。
「何か――腐ったようなにおいがするわ」
 ティティスは嗅ぎ取ったかすかな臭気をたどって野を進み出した。ジョシュアが、行く手の地面にまだ新しい足跡が残っているのを見つけた。それも大人数に踏み荒らされたようだ。
「村長が言っていた一度目の竜退治の跡かな。みんなで追い落としたそうだから」
 いくらも歩かないうちに二人は崖に行き当たった。
 ティティスは駆け出して崖の縁に立った。
「危ないよ」
 とジョシュアが止めたが効き目はないようだ。
 崖に立つと、目の前には月光を浴びた峰々が遠くまで連なっている。崖下は深い。細い谷になっており、そこに一頭のワイバーンの死体が横たわっているのが夜目にぼんやりと見える。
(まさかさっきの。いえ、そんなはずは)
 突如崖下から羽音と耳を裂くような咆哮がとどろいた。
 傷ついたワイバーンが死に物狂いで羽ばたいてこちらへ上昇してくる。ティティスに襲い掛かろうとしているのは明らかだった。
 崖にひそんでいたのだろうか。もしかすると、谷で死んでいるワイバーンと親子かつがいだったのかも――そんなことを考えたのは後になってからのことで、そのときは何も考える暇などなかった。
 事態に気が付いたジョシュアが、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「ティティス!! 逃げるんだ!!
 そして、守らねば――戦わねば、という想いが閃光のように体中を駆け抜けた瞬間、衝動は理性の腕から逃れた。
 つり合いの取れなくなった天秤てんびんは今にも壊れてしまいそうなほど激しく傾く。
 ティティスの眼前に迫ったワイバーンが黒々と口を開けていた。唾液滴る二本の毒牙だけがあやしく光る。それを叩き砕いてジョシュアの剣がワイバーンの喉奥深くまで突き込まれた。
 本当に刹那の一撃であった。
 ジョシュアがどこをどう通ったのか、ティティスにはわからなかったし、見えていたとしてもおよそ人間とは思えない動きだっただろう。
 ワイバーンは喉を剣で貫かれた姿のまま、狂ったようにもんどりうって崖下へ落ちていった。
 ジョシュアは立ち尽くして荒い呼吸を繰り返しているばかりである。二つの瞳がいつもの穏やかな海のように澄んだ青色を失っているのは確かめるまでもないことだった。
―――
 ふいに苦しげにうめいたかと思うと、下を向き手で顔を覆う。
「ジョシュア」
 ティティスが心配そうに寄り添ったが、ジョシュアはそれを振り払った。
「大丈夫。頼むから、しばらく、一人にしてくれないかい」
――ごめんなさい」
 その言葉は自分のミスで危険を招いてしまった負い目からきたのか、それとも何もできない自分の無力感からきたのか、彼女らしくもなく沈みきっていた。
 ティティスはとぼとぼと村へ戻る帰路へ着いた。

6

 村長宅へ帰ってきたジョシュアは、少なくとも外観ではすでに平静を回復しているように見えた。瞳の色も青い。
 出迎えてくれた村長にワイバーンの件を報告した。
「とどめを刺した手ごたえはありました。ただ崖下へ落ちていったので、明日の朝一番に生死を確かめなければ。もし仕留め損なったのであれば傭兵団から応援を呼びます」
「わかりました。とにかく村の上を飛んでいた竜は追い払っていただけたのですな」
「とりあえず今夜のところは安全と言ってもいいと思います」
「それを聞いて安心しました。いえ、先ほど帰っていらした娘さんの方からも同じように聞いたのですが、ずい分元気のない様子だったので、不安が拭えずにいたのです」
「ティティスがですか?」
「ええ、今は二階にいらっしゃるはずですが、よもやおケガでもなさったのかと思いましてな。もしそうなら遠慮なく仰ってください。この村の牧師も簡単な神聖魔法程度は心得ておりますので」
「ありがとうございます。ティティスにも伝えておきます」
 ジョシュアはお礼を言って二階へ上がった。
 部屋へ入ると、ティティスは長椅子にちょこんと腰掛けて、膝の上に頬杖ほおづえを突き、ぼんやりうつむいていた。
「ティティス?」
「あ――おかえり」
 ティティスはようやく顔を上げ、
「落ち着いた?」
「もう平気だ。ごめん、心配掛けて」
 ジョシュアが歩み寄ってきて、鎧も外さず隣に座った。ティティスはスペースを空けるために長椅子の左端へ移動した。
「ティティスこそ、村長さんが心配してたよ」
「えっ?」
「元気がないみたいだからって。どこかケガでもしたなら教会で治療してくれるそうだけど」
「別にケガなんてしてないわ。ジョシュアは? 大丈夫?」
「僕は軽い打ち身程度だよ。それくらいはいつものことだし――さっき、そのああなった﹅﹅﹅﹅﹅だろう? おかげで、とは言いたくないけれど、痛みは忘れた」
「そう」
 ティティスは相変わらず口数が少ない。
 ジョシュアは、ゆっくりと言葉を選んでから言った。
「ごめん、僕が何か気に障ることをしたなら――
「そうじゃなくて!」
 とにわかに声を荒げた。
「ジョシュアに怒ってるとかそういうことじゃないの! ちょっと、いろいろ思うことがあっただけよ」
 言いながら声はまたしぼんでいった。
「あの崖下で死んでたワイバーンのこととか、あたしが油断しなかったら危険にも遭わなかったのにとか、それにジョシュアが」
「僕が?」
「ジョシュアが苦しいときにあたし何もしてあげられない」
 ジョシュアは驚いたのか黙り込んでしまった。ティティスも、はたと沈黙に気付き、
「だって、つらそうにしてるの見たら助けてあげたいと思うのが当然でしょ!?
 と、何やら弁解するような口調で言い添えた。
 ジョシュアは、嬉しいような困ったような、あるいは申し訳なさそうな、なんとも言えない顔色を浮かべた。思い当たることがあったらしい。
――ごめん。さっき、僕があんなふうになっていたとき心配してくれたのに振り払ってしまって」
「謝らないでよ。というか謝るようなことじゃないわよ」
「ごめん」
「ほらまた!」
 ジョシュアは、今度は眉を八の字にして苦笑いした。
「謝らないで! あたしが邪魔だったならそれで」
「それは違う」
 ティティスが言い切る前にはっきりと否定した。
「そんなふうに思ったことは一度もないよ。僕はただ、僕のことで誰かの気を煩わせたり、巻き込んだりしたくないんだ」
「水くさいじゃない、そんなの」
 ティティスの想いは明快である。
「つらいときはつらいって言えばいいのよ。一人で我慢せずに。抱え込んでると体に悪いわよ」
「だけど」
「だけどじゃない! あたし――や傭兵団のみんなが、ジョシュアのこと受け止められないほど頼りなく見える?」
 ジョシュアは静かにかぶりを振った。
「少しずつでいいの。ジョシュアに頼ってもらえるようになりたいわ、あたし――も傭兵団のみんなも」
 ちら、とジョシュアを横目に見遣ると、平穏な微笑の中でどこかくすぐったそうにしている。
「でも、ジョシュアのそういうしっかりしてるところは見習わなくちゃ」
「しっかりしてる? 僕が?」
「そうよ。あれからそんなに経ってないのに、もうすっかり落ち着いてるじゃない」
「そう見えるだけだよ」
 ジョシュアはわずかにためらったが、意を決したように、おもむろに左手の皮手袋を外した。その手でティティスの右手を取った。
 ティティスの驚いた顔が、すぐ後にはジョシュアを慰めるような優しいまなざしに変わった。
 ジョシュアの手は絶えず小刻みに震えている。ティティスが、ぎゅっと握り返すとやっと震えは押さえ込まれた。
「ティティス」
「な、なに?」
「昼間話したこと、覚えてるかい?」
「えっ?」
「ティティスはエルフの森に帰るつもりはないのかい、って話」
「絶対帰らない! って言ったじゃない、それなら」
「うん。僕もそれを聞いて安心したんだったよね」
「それがどうしたの?」
「気が変わったよ」
「え、ええっ!?
 ティティスが面食らって身を乗り出してくる。
「それどういう意味よ!? あたし帰らないわよ? 帰らないからね!?
「帰さない」
 聞き間違いではないのかと思った。
 ティティスは目をいっぱいに見開いた。色白な首や耳の方までいっぺんに赤みが差した。テーブルに置かれたランタンの明かりでは、それはジョシュアに悟られなかったかもしれないけれど。
「ゼフィールには悪いと思うけどね」
 ともジョシュアは言った。ティティスはますますうろたえてしまう。
「そ、そ、それって」
「ティティスが帰りたいって言っても、僕は帰したくないってことだよ」
――なんで?」
「なんで、って、大切なひとにそばにいてほしくないなんてことがあるかい?」
 ジョシュアはティティスの細い手を包むように握った。指先と指先とが絡む。どちらが熱いとも冷たいともわからない。お互いの熱はとっくに交じり合っている。
 時刻はもうじき日付が替わろうというところ。雲が消え晴れ渡った空高く楕円だえんの月が昇り詰めていた。きっとエステロミアの果てから果てどの地でも同じように美しい夜空が見えるに違いない。
「今頃ティティスたちどうしてるかなぁ」
 と、エステロミア傭兵団宿舎の窓から月を眺めていたハヅキがつぶやいた。
 傭兵団宿舎の娯楽室と休憩室を兼ねた部屋には、ハヅキとミロード、それにセイニーの姿がある。遅番で夜の魔物討伐の任務を終えた三人であった。他の傭兵たち、とりわけ明日早番の者は早々に自室で休んでいるのだろう。
 三人は遅い夕食を済ませてくつろいでいるところであった。セイニーは長椅子に寝そべってうたた寝している。ミロードは隣の椅子に深くもたれ、小さなヤスリで手の爪の形を整えていた。
 ハヅキは窓際を離れ、ミロードの横に椅子を引き寄せた。
「ねえミロード、ティティスたちどうしてると思う?」
「心配いらないでしょ。ジョシュアがついに正気を失って暴走してれば、傭兵団にも知らせが来るはずよ」
「あ、いや、そのことじゃなくて、その」
 照れくさそうにもじもじしているのを見て、ミロードは察しよく、
「ははーん、あの二人がちょっとは進展したかどうか気になるってわけね」
「いや、オレはその」
「ま、気になるわよねぇ、ティティス一人抜け駆けしたんじゃないかって」
 すると、寝ているとばかり思っていたセイニーがふと目を開けた。
「だいじょーぶだってハヅキ、あたしも色っぽい話なーんにもないもん。仲間仲間」
「というか今のところティティスとアルシルくらいじゃないかしら、傭兵団の中でそういう話がはっきりしてるのって。まあ他に出会いもないものねぇ。でも職場恋愛は苦労するわよ」
「えーアルシルも好きな人いるの?」
 とセイニーが聞いたが、ミロードはそれをさらりとかわし、
「ティティスたちが進展してるかどうかはジョシュア次第じゃない? ティティスの方から言い出す度胸あると思う?」
「ないと思う!」
 ハヅキとセイニーが息をぴったりそろえて答えた。
「だから、何かあるとすればジョシュアの理性がぷっつんしちゃったときよ。男はおおかみなのよ。あなたたちも気を付けなさい」
「や、やっぱりそうなの? ジョシュアみたいに真面目そうな男の人でも?」
 ハヅキは興味津々そうにミロードの顔をのぞき込んでくる。
「そっりゃそうよ。とはいえ、そうね、ジョシュアは騎士道を守ってるし、無理強いしたりはしないでしょ」
「うん。じゃあやっぱりティティスとは何も」
「甘いわねー、逆よ、逆。そういう男こそ危ないのよ。無理強いしてくる男はぶっ飛ばしても正当防衛。でも紳士的な男はそうはいかないでしょうが。だから、うかうかしてると逃げられなくなるのよ」
 ミロードの言葉は妙に真に迫っている。
「いい? あの手の男の手管はたとえばね――
 と語り出した話は、どうも長くなりそうな予感がした。

7

 外では夜が明けたようであった。
 駒鳥こまどりひたきの声が聞こえる。朝の冷たい空気が室内まで忍び込んできて肌をなでていく。ティティスはベッドの中で朝の気配を感じながらまどろんでいた。
 あとひと眠り、というには心がざわついている。目を開けると、部屋はまだ暗い。
 耳元で規則正しい寝息が聞こえる。どうやら同じベッドの中にいるもう一人は思いっきり寝入っているようだ。
 と思ったのでティティスは毛布の下でやおら寝返りを打った。
 目の前、息がかかるほど間近にジョシュアの寝顔がある。
――ほんとに寝ちゃってるし」
 と、ティティスは少々がっかりしたようにぼやいた。
 誓って言うが、夜の間、何かロマンチックなことや、二人だけの秘密にしなくてはならないようなことがあったわけでもない。平たく言えば何もなかった。
 無邪気な子供のように、もしくは凍えた人々が本能でそうするように、身を寄せ合って眠っただけである。
 ティティスは、そっとジョシュアの体へ手を伸ばしてみた。
 ジョシュアはトラウマに震えてもいなければ、底のない自己嫌悪にこわばってもいない。眠りは安らかで、呼吸の度に一定間隔で胸元が上下している。
「ふう」
 ティティスはため息をもらし、もう一度寝返りを打った。
ゼフィールに怒られそうなこと﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅にならなかったのはよかったのかもしれないけど)
 ジョシュアにとってあたしの存在って一体何!? とわめきたくもたくなってしまう。
(魅力が感じられないってことかなぁ)
 一人で思い悩んでは、毛布にもぐってみたり枕へ突っ伏してみたり、じたばたしていたところ、
 くすくす、
 と笑う声が聞こえたような気がした。
 ティティスは飛び跳ねるようにジョシュアの方へ向き直った。ついでに心臓も飛び跳ねている。
「ジョ、ジョシュア起きてたの!?
「おはよう」
 ジョシュアは心憎いくらい紳士的に言った。
「お、おはよ――
「よく眠れたかい?」
―――
(眠れたわけないでしょ!!
 と、よほど言い返してやりたかったが、声になっていない。
 ジョシュアは何を考えているのやら、ティティスの髪へ手を伸ばした。日頃着けているティアラを外して寝床へ広がった髪は柔らかく絹糸のようにしなやかである。ティティスの肩の辺りに絡まっていたのをジョシュアはかき上げてやった。
 それ以上の動きはない。
「あのー、ジョシュア」
 もしかして寝ぼけてるんじゃないか。とティティスが声を掛けようとしたら、肩に置かれていた指先が首筋の方へ滑り下りてきた。
「きゃっ!」
 ティティスが悲鳴を上げたので、その手は一旦離れ、
「嫌だった?」
「え、あ、い、嫌――っていうわけじゃないけど、あの」
 ジョシュアはティティスの返事を待たずに首筋を優しくなで始めた。手のひらがひんやりと冷たく感じられるのは、ティティスの方が血が上って熱っぽくなっているからだろうか。
 胸も耳で聞き取れるんじゃないかというほど高鳴っていた。まさか本当に聞こえたりはしないだろうが、首を触っているジョシュアには気付かれたかもしれない。
 気付いたなら気付いたで何か言ってくれればいいものを、ジョシュアは黙りこくっている。
 とうとうティティスの方がしびれを切らして、
「何か言ってよ」
「うん」
「うん、じゃなくて!」
 ジョシュアは困ったように笑った。
「こんなときに何て言ったらいいのかわからないんだ」
「あたしだってわかんないわよ」
 二、三、言葉を交わしたと思ったら途切れてしまう。といって、何も話さないでいるのは恥ずかしい。期待とおびえの入り混じった自分の気持ちを持て余しそうでもあった。
 結局、とりとめのないことをささやいた。
「ジョシュアの手、冷たいね」
「ティティスの方が熱いんだよ」
「そ、そう? ジョシュアだって」
「僕だって?」
 ティティスは、半ば震えかけている両手を勇気を振り絞って伸ばした。任務で敵地に飛び込むときだってこんなに胸が裂けそうなほど緊張したことはなかったと思う。
 ジョシュアの背中へ手が触れた。
「ほら、ジョシュアだって」
―――
 さっきまでの穏やかさがうそのように、ジョシュアがティティスを抱き締めた。
「きゃ――!」
「ごめん」
 とジョシュアは上ずった声を上げた。
「ジョ、ジョシュア」
「ごめん――
 と繰り返して、きつくティティスを抱いたままでいる。一体どれくらいの間そうしていたものやら。
 いつの間にか窓の鎧戸の隙間から朝日が差し込んで、部屋の中にいくつも光のしまを作っている。
 やがて落ち着きを取り戻したようにジョシュアは腕の力をゆるめたが、胸に抱かれているティティスには体を通して聞こえていた。ジョシュアの鼓動の音は一層速くなっている。
 ジョシュアはわずかに体を起こした。
 ティティスをベッドへ押しつけるようにして組み敷く。
「あ――
 ティティスは喉元に熱く柔らかいものが触れたのを感じた。肌に透ける繊細な静脈を唇がなぞった。耳先をジョシュアの前髪がかすめてくすぐったい。
「ティティス」
 切なげに名前を呼ばれ、
「エルフのおきてを破ることになるのかな」
「し、知らない、そんなの」
 そんな掟がそもそもあるのかわからない、が、
「ゼフィールは、絶対、怒ると思うけど」
――そうだね」
 ジョシュアは顔を上げて、面相をほころばせた。
「そのときは僕も一緒に叱られるよ」

8

「とまあそこまできてキスの一つもってところかしらね。ジョシュアみたいな男はそういうパターンよ。自分からはガツガツいかないの。その代わりもってまわってまわりくどい手順を踏んだ挙句、結局やることはやるのよ」
「はあ」
 ハヅキは赤くなった顔の隅を指でかきながら、あいまいにうなずいた。
「そ、そういうもんかなぁ――ねえシャロット」
 ハヅキの隣に座っているシャロットも、ミロードのやたら臨場感あふれる物語を延々聞かされて頬を赤らめている。
「さ、さあわたしに聞かれても。でもミロードさんすごいですね。まるで見てきたようなお話しぶりでしたわ」
「小説にでもしたら売れそうだよねー」
 と窓辺に寝転がっていたセイニーが笑った。
「主人公がジョシュアとティティスじゃまずいだろうけどさー。団長――は面白がるかもしれないけど、マールハルトなんて絶対許してくれなさそうだもん」
「そうですね、少女小説や騎士物語になりそうですわ。特に最後の二人で朝を迎える場面なんて、わたしも胸がときめいてしまいました」
 ようするに、だ。
 さっきのジョシュアとティティスのはなはだしく甘ったるいベッドシーンはミロードの口からでまかせ、迷惑千万ウソ八百であって、事実には一分ほども基づいていないばかりかジョシュアとティティス当人たちに知られたら肖像権の侵害だと訴えられても文句の言えないシロモノだったというわけである。
「あらシャロット、しゅに仕える乙女がそんなこと言ってもいいのかしら?」
 ミロードがからかうとシャロットは真っ赤になってしまった。
「そ、そうですわね、わたしとしたことが」
 ちなみに彼女たちのいる場所は傭兵団営舎の広間で、昼の任務を終えた傭兵たちがぞくぞくと帰ってきているところである。
「ただいま」
 と声を掛けて入ってきたのはアルシルとアイギールで、
――ミロードの話はもう最終幕が済んだのかしら」
「アルシル、あなたも物好きね。あれ最後まで聞きたかったの」
 この二人も例にもれず聴衆の一部だったようである。アイギールに問われてアルシルは急いでかぶりを振った。
「私は別にっ」
 ところで言わずもがな男性陣も同じ部屋にいるのだが、人数が少ないせいか隅の方に追いやられている。
 ジュランはガレスとチェス盤を挟んでいた。
「ようやく終わりましたか、ミロードの空想劇。それにしてもものすごい話をしてましたね」
「女ってやつもな、こんな生活してるといろいろとたまってくるのさ。街に出て、同じくらいの年頃の娘が着飾って若い男と仲良く歩いているのなんか見りゃ複雑な気持ちにもなるだろう」
 ガレスは黒のナイトを取って右斜め前へ進めた。
「皆さんそれを承知の上でここにいるんだと思ってましたが?」
「そりゃそうだが、人情ってもんはあるだろ。あんなおしゃべりで気晴らしになるんなら他愛のないことだ」
「それはまあ――あ、チェックです」
 ジュランは白のビショップを動かして王手とした。「なにぃ!?」と盤面にかじりついたガレスの後ろの席でバルドウィンがキャスと遊んでやっている。手に持った棒の先に毛の房が付いており、小動物のように動くそれにキャスが夢中で飛び付いている。
 バルドウィンはジュランたちの会話を聞いていたらしい。
「ジュラン、おぬしも我慢は体に毒じゃぞ」
「にゃん! 毒だにゃん! ジュランもやるにゃん? すっきりするにゃん」
「私はそれをやってもすっきりはしないと思いますが――
「はっはっは、健康な男じゃからな! それにしてもティティスたちは早く帰ってこんかのう。これが案外腰にくるんじゃが」
 察するに普段はティティスがキャスの遊び相手になっているのだろう。
 ジュランが部屋の入り口のドアを、ちょいちょいと指差した。
「ご安心を。腰痛も今日限りになりそうです」
 女性陣はなんかもう盛り上がって、ミロード提供ロマンス長編のハイライトなど語り出しているところであった。
 そこへ、
 つんつん、
 と後ろからミロードの背中をつつく影があり、
「ねえ、みんなで何話してるの?」
「あら今いいところなのよ。ティティスがジョシュアに渡したアミュレットが愛の力でジョシュアを守るっていう――
 ミロードは、よくもまあそう息をするように大ボラを吹けるものだと感心したくなるほど朗々としゃべり出そうとした。しかれども、考えてみれば傭兵団のメンバーは皆眼前にいたはずであり、ミロードの話を知らないのは当のジョシュアとティティスくらいのものだ。
「ちょっとー!! ひとがいない間になに変な作り話してるのよ!?
 ティティスのはつらつとした声が広間中を響き渡った。ついでジョシュアの苦笑いが交じった声もした。
「みんなただいま」
 ミロードはにっこりと後を振り返った。毛筋ほどの狼狽もなければ、全くこたえた様子もない。さすがというか何と言おうか、鉄壁の面の皮である。
「おかえりなさい。二人とも早かったじゃないの」
「早かったじゃないの、じゃないわよ! ミロード! あたしたちがいないからって勝手に」
「あなたたちが留守だったからってわけじゃないの。見損なわないでほしいわね。私の口はそんなにお行儀よくはなくてよ。当人の前だろうがなんだろうが、聞きたいなら耳元でも枕元ででもたっぷりねっとり話してあげて構わないけど?」
「聞きたくなんてないですっ! どうせまたからかわれるんだから」
 よくわかっているらしい。
 旅装をといているジョシュアとティティスのところへみんな集まってきて、口々に迎えたりねぎらったりしている。
 セイニーが黒い瞳をめいっぱい輝かせて尋ねた。
「ねえねえ、竜ってどんなヤツだった? 強かった? 火吹いたりした?」
「普通のワイバーンよ。若いオスだったみたいで、体格はちょっと小さめだったかしら。あたしの魔法とジョシュアの剣が見事村を守ったわ!」
 とティティスが、えへんと胸を張っている横で、ガレスがジョシュアを呼び、
「そういえば剣はどうした? 荷物に見当たらないようだが」
「ああ、実はワイバーンにとどめを刺したとき、ついやりすぎて二度と使い物にならなくなったから」
「おい、やりすぎたって――大丈夫だったのか?」
「大丈夫じゃなかったらこうして帰ってこれていないと思うよ」
 ジョシュアの口調は自然でどこにも無理がない。ガレスは内心目を見張る思いがした。けれど口には出さないでおいた。
「だから平気だって言ったでしょ?」
 アルシルが言い、
「それで?」
 と、女性陣の視線が一斉にジョシュアとティティスの二人へ集中する。
「そ、それでって、それで竜退治は終わったよ」
「わかった、ジョシュアには聞かないわ」
 そういうわけで女性総員ティティスを取り囲んで尋問、もといひそひそ話を始めた。
「で? 実際どうなの」
「何か素敵な事件はありましたか?」
 みんながものすごく期待した気色で詰め寄ってくる。ティティスは必死に押し返すしかなかった。
「ないわよ! 何も! ないない!」
「せめて手くらい握らなかったの?」
 とミロードが問うと、ティティスの顔へにわかに血が上ったから、みんなだいたい納得した。代表してミロードがさらに切り込んだ。
「で? ジョシュアは何て言ってくれたわけ? おねーさんに教えてごらんなさいな」
「あ、あたしのこと、大切なひとだって」
 おお、と周囲がどよめく。
「いやーこれ今夜はお赤飯炊かなくちゃね」
 なんて自分のことのように嬉しそうに言ったのはハヅキだろうか。
 ところが、である。
 よく見るとどこか様子が変だ。ティティスの顔色は赤いには赤いのだが、なんだか眉間にぴくぴく力がこもっていたりして、これは照れたり恥ずかしがったりしているというよりは――
「あ、あれ? ティ、ティティス、もしかして何か怒ってる?」
 その訳を知るためには、時をいくばくかさかのぼる必要がある。
 サリーライドでワイバーンを討伐した夜のことだった。
「大切なひとにそばにいてほしくないなんてことがあるかい?」
 そう言ってジョシュアはティティスの細い手を包むように握っていた。
 ティティスは足がふわふわ浮いて地に着かないような気持ちだった。安寧と調和とを守るエルフの森にいた頃はこんなみずみずしくて、それでいて焼け付くような感情を覚えたことはなかった。
 とにかく何か答えなくてはと思い、
「あたしで、いいの? ほんとに?」
「ティティスでなくちゃだめなんだ。今までだってわかってたつもりだったけれど、改めて心の底からそう思ったよ。ゼフィールやエルフの長老が何と言おうとも傭兵団にいてほしい。大切な傭兵団の仲間を絶対に失いたくない」
――た、大切な」
「だから大切な仲間﹅﹅﹅﹅﹅
 そのときのティティスの心情についてはお察しいただきたい。
 加えてティティスは帰りの馬車に防寒用のケープを忘れてきてしまったそうで、余計に機嫌がうるわしくないらしい。
 事情を知った女性傭兵の皆さんは完全にティティスの味方であった。
「あの、根性なしが」
 アイギールがジョシュアの背中をにらんでぼやいていたとかなんとか。
 一方男性陣は男性陣で、ジョシュアをつっついている。
「一皮むけたような顔して帰ってきやがって」
「まさか本気でティティスに手出したんじゃないですよね?」
 ガレスとジュランが代わる代わる聞いたところ、ジョシュアはとんでもないと首を振った。
「そんな騎士道に反するようなことできないよ。だいいち」
 と声をひそめ、
「僕たちワイバーンと戦ったんだよ? そんなこと﹅﹅﹅﹅﹅する元気残ってないよ。任務が済んだら朝一で馬車に乗って帰ってきたからくたくたで。どれほど宿舎のベッドが恋しかったか」
「ジョシュア、若さがないのう、おぬし」
「バルドウィンおじいちゃんに言われちゃおしまいだと思うにゃん」
 なにはともあれ、今夜は数日ぶりに傭兵たちが全員そろったにぎやかな夜になりそうである。

9

 ジョシュアとティティスが帰営したのと同じ頃のことである。
「失礼、エステロミア傭兵団というのはこちらでしょうか」
 と営舎を訪ねてきた紳士がいた。
 マールハルトが応対したものの、紳士はイスカバーナの商人だと名乗っただけで、傭兵団と面識のある人物でもなければ依頼人でもなかった。
「いかなる御用で当傭兵団へ?」
「いえ用というほど大したことでは。実は私サンドストームまでこちらの傭兵の方と同じ馬車に乗っていたのですが、降車の際に忘れ物をなさっていましたので」
 紳士は折り畳んだ婦人用のケープをマールハルトへ渡した。
「若い青年とエルフ――なのですかね、可愛らしい娘さんでした。私は隣の席だったのです。彼らの降りた後の席にこれが。馭者ぎょしゃが気の利く女性で、乗客が国王陛下直属の傭兵だと覚えていましてな。私もこちらへ来るついでがありましたので」
「それはそれは。ご足労かたじけなく存じます」
「それにしても彼らが本当にエステロミア傭兵団の傭兵だとは。ここへ来るまで半信半疑だったのですが」
「と仰いますと?」
「いえなに、馬車の中での雰囲気ではとてもそう見えなかったのです。ここだけの話ですよ、娘さんが居眠りしながら私のこの辺りに」
 ぽん、と右の肩をたたき、
「寄りかかっていらして」
「それは大変失礼を」
「いや、私も満更悪い気はしなかったので黙っておりました。が、娘さんを挟んで向こう側に座っていた青年がじきに彼女を抱き寄せたので、一時の果報でしたな。ははは。娘さんはずっと眠っておりましたがね、その後青年も肩を抱いたまま寝入ったようで、若い婚約者同士とでも言われれば納得するところですが、傭兵だとは」
 気のいい紳士は言いたいことだけ言うと、
「それでは私はこれで」
 と帽子をかぶり直して去っていった。
 ケープはのちほどティティスに渡しておけばよかろう。
 来客のせいで少々遅くなったが、マールハルトはエステロミア傭兵団長の居室へドアをノックして入った。
 団長はいつもと同様机にへばり付いている。応接用の椅子に腰掛けたクロウが黒王封印について何か意見を述べているようだ。しかし団長はちゃんと聞いているのかいないのか、頭の中は次の部隊編成のことでいっぱいに違いない。
 マールハルトが一歩進み出た。任務成功の報告を切り出す言葉は決まっている。
「ジョシュア・ティティス第三部隊が村を襲う竜の退治に成功したようですぞ」

(了)