小さな奇跡

 止められない――
 だって二人の間を隔てるものは今はもう何もない。それでも、
「止められなかったらごめん」
 と口に出してしまうところがジョシュアのジョシュアたる由縁なのかもしれなかった。
「誰も止めやしないわよ」
 笑いながら頬をなでられた。その華奢きゃしゃな手のひらへジョシュアはキスして、指と指とを絡めた。
 二つの心臓の音が重なり合う。
 性別が、姿形が、生まれて育った場所が、お互いの体を流れる血さえ違っても、君は僕のただ一つの半身なのだということをごく簡単な言葉で伝えた。何度も。
「愛してる」
 血が交じる。
 混血の先に生まれてくる新しい生命はどんな姿をしているだろう。と、うっすらとした不安が脳裏をかすめた。
(僕は――
 この世界を分かつ門のこちら側の存在でもあちら側の存在でもないらしい。
「ジョシュア?」
 まるでジョシュアの心細さが伝わったように、懸命に腕を伸ばして抱き寄せようとする。
「大丈夫」
 とジョシュアは落ち着いた声で言った。
「僕はちゃんとここにいる」
 抱き締め返せば互いの熱でちっぽけな不安なんてすぐ押し流された。
――ねえジョシュア、さっきどうかしたの?」
 後でもう一度蒸し返されたときも、大丈夫だよ、と答えることができた。
「ただ、ね、僕たちは新しい命を残すことができるのかなと思って」
「気が早いわよ」
 照れくさそうに枕の端へうずめられている顔へジョシュアは手を伸ばし、頬から首筋へと優しくなでた。
「もし、さ」
「もし?」
「もし僕たちが残す命が、たとえこの世界を滅ぼす引鉄ひきがねだったとしても、僕は命を懸けて守るよ」
「あたしだって」
 ジョシュアは穏やかな海原の色をした目を細め、笑った。
「だけどきっと奇跡は起こると思う」
「ほんとに?」
「奇跡は信じなくちゃ起こらないんだ」
 だから一緒に信じてくれる? とささやいたジョシュアの瞳には燃えるような輝きがあった。狂気ではない。自信に満ちた光だ。
 うん、とうなずこうとしたとき、ジョシュアがふと窓辺へ目をやって、
「あ、降り出したみたいだ、雪」
「ほんと? 聖誕祭の夜に降るなんてロマンチックね。ちょっと寒いけど」
「だったらこっちにおいでよ」
 という誘惑は断るにはあまりにも魅力的だ。
 身を寄せるとジョシュアの腕に絡め取られるように抱かれた。強い力が嬉しい。そしてジョシュアにとっては抱いたら折れそうなその体ごと愛おしかった。


「ジョシュア――なんだ寝てるの」
 部屋に入ってきたティティスは、長椅子に伸びて昼寝をしているジョシュアを見つけてため息をついた。
「もー、みんな聖誕祭の準備で忙しいのに」
 窓の外では雪が降っていたが、室内は暖炉で炎が赤々燃えて暖かかった。ジョシュアは火に当たっているうちにうとうと寝入ってしまったのだろう。静かに寝息を立てていて、起こすのもなんだかかわいそうではある。
 ティティスはゆっくりドアを閉め、足音を忍ばせてジョシュアに近づいた。
 手にヤドリギと赤いリボンで作った飾りを持っている。シャロットが昨日からせっせと支度していて、傭兵団の建物も例外でなく聖誕祭の飾り付けがされていた。
 ティティスはシャロットに頼まれてヤドリギを部屋へ飾りに来たわけである。
 長椅子の背越しにジョシュアの寝顔をのぞき込み、
 ぎょっ、
 とした。
 ジョシュアの閉じた目の縁に細く涙のあとがあった。ティティスの見ている目の前でさえ、その上を伝って一筋涙がこぼれた。
「ちょっと、ジョシュア!」
 思わず揺り起こすと、ジョシュアは、はたと目を開け、眼前にティティスの顔があるのに気付いて、
「うわっ!」
 とバランスを崩して椅子から落ちそうになっている。
「なによ! 人の顔見てそんなに驚くことないでしょ!」
「ティ、ティティス、いつからそこにいたんだい」
「今さっき。それよりジョシュア悪い夢でも見た?」
「へ?」
「寝ながら泣いてたから」
 ジョシュアは慌てて目の端をぬぐった。顔が真っ赤だ。
「別に恥ずかしがらなくてもいいじゃない。嫌な夢見て泣いちゃうことくらい誰にでもあるでしょ?」
「ち、違うんだ。その、全然悪い夢だったわけじゃ」
 ジョシュアはしきりにティティスから顔をそむけるようにしながら言った。
「むしろ――僕にはもったいないような夢」
「もったいない?」
 ティティスは首をかしげている。ジョシュアはあまりそのことは話したくないらしく、視線を巡らせて窓際に目を止めた。
「あ、降り出したんだね、雪。夢の中でも降ってた」
(ジョシュア、変なの)
 ティティスは長椅子を離れ、ヤドリギを飾る場所を探し始めた。
 暖炉の上辺りがちょうどよさそうだ。が、火が苦手なティティスは暖炉から距離を取ったところをうろうろしているばかりである。
 ジョシュアは立ち上がって、
「それを飾ればいいの?」
 とヤドリギを預かり、目当ての場所へピンを刺して留めてやった。
「ありがと」
「どういたしまして――
 ティティスの笑顔を見るのが切なかった。
 今夜は聖誕祭だ。
 夢に見たほどの奇跡はまだ到底信じられなくても、ほんの小さな奇跡くらいは信じてみてもいいかもしれない。勇気を持ってそれをつかみ取るための一歩を踏み出してみても。
「ティティス、聖誕祭のヤドリギの話は知ってる?」
「知らない。エルフの世界に聖教のお祭りはなかったし」
 ジョシュアが一歩進み出てティティスを見下ろした。ティティスの視界にジョシュアの肩と胸元が広がる。見上げると、ジョシュアは至極真面目な面持ちでこちらの頬をなで、
「知っておいた方がいいよ。聖誕祭にヤドリギの下にいる女性には男の方からキスしてもいいんだ」
「えっ?」
 ジョシュアがそっとかがみ込んでくる。
「え、え? ジョ、ジョシュア」
(キスされる)
 と思って、ティティスは反射的に目を閉じた。でもいつまで待ってもそれらしい感触はない。恐る恐るまぶたを上げると、ジョシュアは困ったように笑っていた。
「だからティティス、気をつけないとね」
 そのとき暖炉でパチンと火の粉がはじけた音がして、ティティスは思わずジョシュアの肩へすがりついた。
「きゃっ!」
――小さな奇跡が起きた」
 ジョシュアはぽつりとつぶやき、ティティスに不思議そうな顔をされると、何でもないよと優しくささやいた。

(了)