人魚姫

 エステロミア傭兵団、旧帝国領内の地下遺跡へ遠征中の出来事である。
「ゼフィール、暇にゃん?」
 小さなき火の番をしていたゼフィールのところへ、キャスが古びた本片手にとてとてとやって来た。
 ゼフィールはキャスを一瞥いちべつし、
「暇ではないが、用があるなら聞いてやらぬでもない」
「この本を読んでほしいのにゃん」
――おまえは見た目は子供のようだと思っていたが、中身までそうなのか」
「失礼なこと言わないでほしいにゃん!」
 キャスは、むっと顔をしかめながらもゼフィールの隣に腰を下ろした。
「字が読めないのか?」
「読めるにゃん! でも難しいのは苦手だにゃ」
 キャスが差し出してきたのはえらく古い童話集であった。
「シャロットに借りたのにゃん。ええと、昨日はここまで読んだにゃん」
「どれ」
 ゼフィールはキャスの指差す先をのぞき込み、さっと目を走らせて、
「私はその話は嫌いだ」
 と言い捨てた。
「にゃん? 嫌いにゃん? じゃ、じゃあその次のお話からでもいいにゃん」
 それならばとゼフィールは物語を朗々と読み上げ始めた。
「『今となっては昔のことだが奇跡の戦いにより世界が二つに分かたれたのち――』」
 小一時間ほどが過ぎ、木の枝をめろめろとなめるほどになった焚き火の元へティティスがやって来た。
「ゼフィール――なんだ、キャスもここにいたの」
「探していたのか」
 キャスはいつの間にかゼフィールに頭を預けて寝入ってしまっている。
「ええ、まあその、ちょっと姿が見えなかったから」
「よければ連れて行ってくれないか。このままでは私は身動きが取れない」
 ティティスはキャスを抱き起こそうとして、その手元にある童話集に気付いた。
「ゼフィールが読んであげたの?」
「せがまれたのでな」
「へーえ、優しいじゃない。今日は何を読んだの? 確か昨日は白鳥の王子の話まで読んだから、続きは人魚姫から?」
「それは飛ばした」
「どうして?」
「嫌いだからだ」
 ゼフィールは細い枝を折って焚き火へ投げ込んだ。ぱちんと炎のはじける音にティティスが身を震わせる。その肩へゼフィールの手が回され、なだめるようにぽんとたたいた。
「人魚姫はロマンチックなお話じゃない」
 とティティスが言う。
「人魚のお姫様が人間の王子様に恋をするのよ。そのために声を失ってまで」
「結末が気に入らない」
「人魚姫が結局王子様とは結ばれずに死んでしまうから?」
「そうだ」
 ゼフィールは至極真面目な顔つきでうなずき、
「なぜ死なねばならん。王子を刺し殺して海へ帰ればいいことだ」
「それじゃ童話にならないわよ。それに! 自分の命と引き換えにでも王子様を幸せにしようっていうところが素敵なんじゃない」
「ふん」
 ゼフィールは黙して焚き火を見つめた。瞳にしばし炎の影が揺らめいていた。
 やがて口を開き、
「ティティス」
 と少し低い声でささやくように言った。
「ティティス、おまえは人魚姫のようにはなってくれるな」
「え? なに?」
「いや、いい。気にするな」
「なによ、変なの」
 口をとがらせてゼフィールの横顔をにらむ。
「それよりティティス、この野生を忘れた猫を連れて行ってくれ。腹を出して寝てだらしのない」
 気のせいかもしれないが、そんなことをぼやくゼフィールの表情は、ティティスがエルフの森にいた頃に見ていたそれよりもいくらか柔らかくなったように思えた。

(了)