『犬の嫁入り』後日談

「いてて――
 まだ顎の下がときどき痛むらしく、スマッシュは顔をしかめている。
 許嫁騒動から一夜明けて、そろそろ山間の犬の民の里でも日が昇ってきた頃である。スマッシュは長老の休んでいる床の枕元にあぐらをかいて座っている。長老は別段ケガがあったわけではないが、妖術にかけられてだいぶ体力を消耗していた。
「ファーリン殿とユリワカマル殿はどうしたのじゃ?」
「オレんちで寝てるはずだぜ」
 たぶん弟分に面倒を見させているのだろう。
「どうせならピチピチの若い娘に介抱してもらいたかったのう」
「なーに言ってんだこのスケベジジイ」
「お前にだけは言われたくないわい。いっそ若い嫁でももらって楽しい老後を送りたいものじゃ」
 そういえばこの長老は昨晩うわ言でもそんなことを言っていた。
「ファーリン殿はキツネの民のおさじゃから無理だとしても――ユリワカマル殿なんかどうかの」
「じーさん、寝言は寝て言えって」
「案外年上が好みかもしれんぞ」
「年上どころの話じゃねーだろ。だいたい、アイツは自分より強い男とじゃなきゃケッコンしないって言ってたぜ」
「ほう、それはそれは」
 ユリワカマルの居合は達人級で、かなう男などそうそういまい。
「ま、オレほどじゃねーけどユリワカマルのヤツは剣は相当できるし、あの調子じゃ一生ヨメのもらい手がねーな。アイツより強いのなんて、今のところオレと、アイツの兄貴くらいのもんだぜ」
――スマッシュよ、お前ユリワカマル殿を嫁にもらいたいのか?」
「なっ! なんでそーなるんだよ!? 違ーう!!
 スマッシュは慌ててかぶりを振った。
「じゃとて、自分で言ったではないか、ユリワカマル殿より強いのは自分かユリワカマル殿の兄くらいなのじゃろうが。兄弟は別とすれば、お前の言い分では結婚できるのはお前しかおらんぞ」
「そ、それは――オレは別にそういう意味で言ったんじゃねーって」
「ちなみに、ユリワカマル殿的にはどうなんじゃ?」
「どうって」
「お前の方が強いと思ってくれておるのかという話じゃよ」
「あの可愛くねーやつが、そんなこと言うわけねーじゃん」
「ようするにお前の片思いなんじゃな」
「だからちっがーうっ!! 変な言い方すんな!」
 スマッシュはおもむろに腰を上げた。このじーさんと話していると揚げ足を取るようなことばかり言われそうだ。そもそも長老は寝ている必要もなさそうなほど元気だから、ほっといても別に構うまい。
 縁側へ出たところ台所の方で人の気配がした。行ってみると、スマッシュの弟分とユリワカマルが二人でごそごそ何かやっている。
「おう、何やってるんだ? 二人して」
「あっ、兄貴おはようございます。いやうちの味噌と醤油が切れたんで、分けてもらいに来たんですよ」
 ユリワカマルはその手伝いらしい。
 スマッシュも二人にくっついて家に帰ることにした。
(じーさんよりはファーリンちゃんと話してる方が断然楽しいしなっ)
 後ろを歩くユリワカマルと弟分はなにやら二人で談笑している。いつの間にか仲良くなったらしい。それはいいことだと思うのだが、
「いや、それにしてもお前さんは強いな。おれなんか全然かなわなかった」
 などとユリワカマルが言い出したので、スマッシュは目をむいて二人の方を振り返った。
「なんだよ? スマッシュ」
――ユリワカマルお前、負けたのか?」
「ん? ああ、お前の弟分にな。随分負けたよ」
 はっはっは。などとユリワカマルは快活に笑っているが、それは大変なことではないのか。
「いっ、いいのか!? そんなぺーぺーの下っ端に!!
「は? いいのかって――別にいいんじゃないか? ダメなのか?」
「ダ、ダメだろ!」
「なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ」
「オレ以外のヤツにそんなにあっさり負けるなよ!!
 大声で言い放ってから、スマッシュは、はたと気付いて一人で慌てている。
 スマッシュと、スマッシュの弟分がほとんど同時に言った。
「いやっ、これは違、違わねーけど、でも違う! 決してだな、お前と結婚できるのはオレだけだとか言ってるわけじゃなくて」
「へええ兄貴にとってユリワカマルさんはライバルなんですね。強敵と書いて友と読むやつっすね!」
 しーん、となぜか静まり返ってしまったその場の空気に「あ、あれ?」と弟分が首をひねっていると、
「そ、そう、そうなんだよ! ライバルってヤツ!」
 と、急にスマッシュに肩をつかんで揺さぶられたので、弟分はいささか困惑げであった。
「ライバルだから簡単に負けられちゃ困るんだよ、いいな? ――で、お前ほんとーに勝ったのか? 何かの間違いじゃなくて?」
 その様子を眺めていたユリワカマルがわざとらしいため息をもらした。先に立って歩きだす。じゃれ合っているオス犬二匹の脇をすり抜ける際、スマッシュの方を振り向いた。
「バカだな、なにうろたえてるんだスマッシュ」
「にゃにおう! だってお前」
「家に帰れば事情もわかるさ」


 三人がスマッシュの家に着くと、朝っぱらから戸口前に近所の子供たちが集まって喧嘩けんかゴマで遊んでいた。
「あっ、おかえり! 侍のねーちゃんさっきの続き! 今度はおれが相手だよ!」
「わかったわかった、これを置いてからな」
 ユリワカマルは醤油の樽を抱えて家の中に入っていった。
 後から来たスマッシュは、苦笑いしている弟分をにらんで、
「おい、まさかお前が勝ったのって」
「や、やだなー、俺が剣でかなうわけないじゃないですか」
 家の中では、ファーリンがせっせと朝ご飯の支度をしている。
「おかえりなさい、ユリワカマルさん」
「ああ、ただいま」
 ファーリンはユリワカマルの顔色にすぐ気付いて首をかしげた。
「あら、なんだかやけに嬉しそうですね。何かいいことでもあったんですか?」
 ユリワカマルは、ごまかすように、ごほんとせき払いを一つし、
「い、いやー、まあちょっとな」
 とだけ答えて深くは語らなかった。

(了)